この世に家がある限り

30年に渡って家を買う、借りる、貸す、建てるなど幅広く不動産情報に関わってきたひろぽんこと中川寛子が住まい、街や地盤、暮らしのあれこれについて語ります。

●緊急で地盤セミナーを開催します。11月25日(水曜日)19時~21時。場所は新宿駅西口新宿住友ビル内朝日カルチャーセンターです。ネットからの問い合わせ、申し込みもできます。http://www.shinchosha.co.jp/blog/chair/class/1510029.html
●11月5日に新著が出ます。「解決!空き家問題」(ちくま新書)。アマゾンで予約受付中です。
●別冊スパ!667号で山手線新駅の効果について語っています。
●日経BPが行っている住育エンタメ「すまいダービー」神無月杯に街選びのポイントを出題しています。
●プレジデント9月29日発売号で高齢になると危ない家の条件について語っています。
●9月17日に「ど素人が始める不動産投資の本 第2版」(翔泳社刊)が出ました。
●8月7日に新著「不動産投資成功しました!」(翔泳社刊)が出ました。
●3月5日14時半から神田で「地質情報の見方」セミナーを開きました。
●2月24日発売の東洋経済3月1日表示号で「男が暮らしやすい町」というタイトルで原稿を書いています。
●1月29日(水曜日)、10時半から12時によみうりカルチャースクール青山教室で地盤解説セミナーを行いました。
●週刊女性1月28日表示号で空家問題についてコメントしています。
●独立行政法人産業技術総合研究所地質調査総合センターのシンポジウムで「地質情報を住まい選びに生かす」と題して講演をしました。
●サンデー毎日9月22日表示号で「年金をあてにしない!」と題した連載第一回目住宅編にコメントを寄せています。
●9月4日(水)に名古屋の吹上ホールで行われる賃貸住宅フェアで「災害に負けない投資を実現 素人でもできる危険な地盤解読法 東海編」を行いました。
●8月27日(火)に新宿で「明日の仕事に役立つ知識を学ぶ 不動産営業の学校 第2回 シングルのお客様編」を開催しました。
●8月15日「マットグロッソ」の東京スリバチ学会の連載に「幽霊はスリバチに出る」を寄稿しました。

田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」

IMG_1292

知り合いが何人か、この店を訪れている。
気になっていたものの、積んだままになっていた1冊をようやく読んだ。
田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」(渡邉格著、講談社)である。
腐る経済という言葉を読みながら、ちょっと違う妄想をした。
腐ることが自然の摂理であるとすると、腐らないお金はそれに反した存在ではあるが、
人間はお金にたどり着くまで、ずっと腐らない、死なない存在を作りたい、なりたいと思い続けてきたのだなと。
錬金術や聖水、不老長寿思想など洋の東西を問わず、世界中にはいくつもそうした試行錯誤があったが、
どんなに実験を繰り返し、思考しても、生身の人間はどうしても腐ってしまう。
だから、仕方ない、生身以外で腐らないものを作ろうとして生まれて来たのがお金であり、
資本主義なのではないかと。
きっかけはけっこう単純な、自分たちの生を良くするためのものだったのかもしれないが、
そうやって生まれたものに生身が振り回される今。
当初は良いものを作ろうと思っただけなのに、自分の力を越えるものを作ってしまい、右往左往。
お金の限らず、原子力なども含めて考えると、人間は賢いのか、馬鹿なのか。

さて、この本の中で印象に残った部分をいくつか。

 自然界のあらゆるものは、時間とともに姿を変え、いずれは土に還る。それが「腐る」ということだ。その変化の仕方には、大きくふたつある。「発酵」と「腐敗」ー。それを引き起こすのが「菌」の働きだ。
 本来、天然の「菌」は、リトマス試験紙のように「腐敗」させるか、「発酵」させるか。素材の良し悪しを見分ける役割を果たしている。
 素材が人間の生命力を育む力を備えている場合、「菌」は素材を、人間を喜ばせるパンやワインやビールのような食べものへ変える。食べ物をより美味しくしたり、栄養価や保存性を高めたりする。お酒のように楽しく酔わせてくれたりもする。これを「発酵」と言う。
 一方で、声明を育む力をもたない食材は、食べないほうがいいよと人間に知らせるために、無残な姿へと変える。人間が食べると害になる。これを「腐敗」という。

この違いが如実に表れたのが有機栽培と自然栽培、2種類のお米で酒種を作るくだりだ。
膨らむ、膨らまない、発酵の過程で悪臭を放つ、芳香を放つ。
食べものの生まれる過程はこんなに神秘的なのかとわくわくしながら読んだ。
一方で、そこまでこだわって食べていないなあと自分の生活を顧みた。
どうしたら良いんだろうとも。

渡邉さんの少年時代についての一文にもはっとさせられた。
 
 高度経済成長期の日本の首都・東京の貪欲な求人需要に引き寄せられてサラリーマンとなった人々が、多摩など東京郊外にささやかな過程を築いて、そこそこの幸せをつかんでいた。でも、僕たち子どもから見るとみんなどこかウダツの上がらない毎日を送っているように見えた。まわりにカッコいい大人はひとりもいなかった。僕もこのままここで大人になって、パッとしない人生を送りやがて老いて死んでゆく、と思うと気がふさばるばかりだが、かといって、たまに遊びに行く「都心」は眩しくて、自分が将来そこで華々しく活躍できる場所とはとうてい思えない。

カッコいい大人はひとりもいなかった。
これです、これ。
社会を面白くするためには大人はカッコよくなくてはいけない。
スタイルとか、顔かたちとかではなく、生き方でカッコよくなくてはいけない。
でも、高度経済成長期、それからバブル期にたいていの大人はカッコ悪くなってしまった。
目の前にひらひら踊っている札束の美味しい匂いに尻尾を振ってしまったからだ。
そして自分たちだけが美味しい思いをして、その幻想を今も抱き、後始末を下の世代に押し付ける。
そんな大人をカッコよく思えるわけはない。
でも、少しずつ、変わっていると思うし、変わらなくてはいけないとも思う。

 田舎暮らしって、あくせく働く必要もなくて、ユルくてお気楽でよさそう。
 田舎暮らしに憧れる人も、田舎暮らしを毛嫌いする人も、そう思っている人が多いのではないかと思う。田舎で働き、暮らすひとりとして、都会派の人にそう思われているのを感じる。
 でも、これは大きな誤解だ。完全に間違っている。「田舎」はユルい場所でもなければ、のんびり暮らすための場所でもない。もちろん都会から逃げ込むための場所でもない。「田舎」には「都会」の理不尽さはないけれど、その分、便利さもない。生活を成り立たせるための条件は、「都会」より厳しい。おカネ任せ、他人任せでは暮らしていけないのだ。
 
この勘違いはあちこちで見聞きする。分かりやすいのは地域おこし協力隊だ。
非常に優秀な、どこででも素晴らしい仕事できるだろうと思うような人がいる一方で、
箸にも棒にもな、逃げて来たんだろうみたいは人も少なからず。
都会がダメだったんで、田舎に来てみました程度で成果が出るわけはない。
だが、そういう人でも良しとしてしまうのはどこに責任があるのやら。税金の無駄遣いだよねと思う。

「個性」というのは、つくろうとしてつくれるものではない。つくり手が本物を追求する過程で、もともとの人間性の違いが、技術や感性の違い、発想力の違いになってあらわれて、他とどうしようもなく違う部分が滲み出て、その必然の結果として生み出されてくるものだ。
  中略
 でも、人との「違い」を見せつけるためにやってきたことは、結局何ひとつ自分の身にならなかった。今なら、その理由がよく分かる。「人と違うことをしよう」という発想は、「人と違うものがない」ことを自覚していることの裏返しでしかないのだ。

これはホント、その通りで、もし、その人に個性があるなら、それは殺しても、殺しても
その下から這い出てくるものであり、自分で作ろうと思って生まれるものではない。
無理して作らなくても、それがあるものなら、いつかは花開く。
ついでに言えば、なければなくたって生きて行くには別に困りはしない。
なのにねえ、みんな、個性っていうよね。ある種、妄想じゃないかと思うんだが。

最後に自分の関心に近いところの一文。

 パンと建築は似ている。とくに象徴的なのは、パンも建築も、科学技術や効率性の名の下に、先人たちが歴史のなかで築きあげてきた技術が顧みられなくなっていることだ。「利潤」第一の「腐らない」経済のなかで、人間の技が軽視されているのだ。

パンと建築には似ているところもあるが、違うところもあり、
それは建築が取り込まれやすいというところじゃないかと思う。
パンは不特定多数の人が買う。
しかし、建築はある一人あるいは一社のクライアント、
お施主様というとんでもなく敬称つけまくりの方が全権を支配する。
その違いがどういう違いかを考えるのも楽しいかなあと思いながら、長くなったのでここで。
面白い本でした。
















街の重み、この10年

10年前に"我が街名物"持ち寄りホームパーティーを!という記事を書いた。
自分の街を知るために名物を探してみるとその街が分かるよ、みたいな内容で、
オールアバウトのガイド仲間の集まりをネタにした。
よく覚えているのは、この時の1回だけ、担当プロデューサーに怒られたというか、文句を言われたことである。
街の記事としてこれはどうか、と。
担当者を責めたいのではない。
当時、不動産という文脈の中で街を考えるとしたら、それは都心から何分とか、スーパー何軒とか、
主に数字で表されるモノであり、名物とか、食べ物なとどいったぼやんとしたモノは含まれていなかった。
好き嫌いとか、愛着とか、そうした言葉とは無縁とされていた。
まだ街が発見されていなかった時代と言ってもよい。
だが、この10年で街の意味、重みはずいぶん変わった。

急に昔の記事を思い出したのは昨日、千葉県市川市の梨振興のためのイベントに行ったからである。
千葉県は日本一の梨の産地で特に市川市は県内でも売り上げでトップ(生産では白井市)。
ただ、意外にそれが知られていないのが直売所経由で地元で消費される量が多いためらしい。
地元でといっても、地元の人が食べるだけではなく、地元で買って親族や友人などの送る量も多いのだとか。
「毎年、決まって購入される人がいるんです、自慢の梨なんですよ」という
誇らしげな市の方の言葉に記事を思い出した。
自分の住んでいる街に自慢できる何かがあるという喜び。
それが愛着、郷土愛などというものに繋がり、街を良くする力になる。
10年前には理解してもらいにくかったことが今、フツーになったよねと思うと、ちょっと感慨。
この10年で悪くなったこともたくさんあるが、良くなったこともあるわけで、
いずれにせよ、世の中は変わるものなのだあと実感する。

nashi

ちなみに千葉の梨はスーパーで売られているのが2Lサイズだとすると、4Lという品も多いのだとか。
かなり、羨ましい。

ところで、10年前の記事には私の古い写真が載っている。
これ、かなり太っていた時期のもので久しぶりに見て我ながらぎょっ。
腎臓のために飲んでいたステロイド剤の副作用で今より20キロ近く太っており、
顔は真ん丸、身体もぱつんぱつん。
身体の免疫力が落ちていたこともあり、
クリアファイルに触れただけで皮膚がべろりと剥けるようなひどい時期だった。
それから10年。服薬を勝手に中止して体重は落ち、免疫力も戻ってきた。
人間も10年経てばずいぶん、変わるものである。


だが、






イタリア人が見た日本の「家と街」の不思議

IMG_1286
海外の人から見た日本というジャンルには様々な類書がある。
それにつき、余計なお世話という意見もあるが、いやいや、比べる作業というのはけっこう面倒。
それをやってくれる人は基本、日本が好きな人だと思う。
そういう意味では的外れと思う部分があるとしても、ホントにそれが的外れなのかも含めて、
きちんと読むのが礼儀じゃないかと思う。
というわけで、「イタリア人が見た日本の『家と街』の不思議」
(ファブリツィオ・グラッセッリ著、パブラボ発行)である。

面白かったのはイタリアの高度経済成長期の問題点、
旧市街と日本同様あまり考えて造られていない新市街との比較その他、
自国のマイナスがきちんと書かれていること。その上で、現在はどうなっているか。
考えて見ると、自国のそうした流れは抑えていても、他国の流れをきちんと押さえているかというと
はなはだ怪しいところがある。勉強、必要だなあと思った。

ところで、例によって(?)印象に残ったところを引用。

 いまの日本人は「プライバシー」を重視し過ぎるあまり、エゴイストになっていないか?というか、日本の現代の家の構造そのものが、他人に干渉されるのを嫌う、日本人のメンタリティーに影響を与えている気さえするよ。

プライバシーを否定するわけでは全くないものの、このところのプライバシー至上主義的な、
なんでもかんでも個人情報ですからという風潮を不思議に思っている。
そして、それと家の構造との関係についてはホント、その通りとも。
以前、団地の歴史を取材した時、聞いている途中で映像が頭に浮かんだ。
鉄の扉を持つ住宅が生まれ、そこに初めて我が家を持つ家族が入居した日、
そこに初めてプライバシーが生まれたのだと。
初めて手にした、誰からも監視されない、私事に口を挟まれない時間、空間。
その解放感は分かるものの、それは逆に家族だけで閉じこもる時間、空間とも言い換えられる。
個人的には閉じこもり傾向があるので、閉じこもる快適さは分かるものの、
人は箱の中だけでは生きていけないのである。

都市とは人間が暮らすところだ。オフィスとレジャーランドの集合体になってはいけない。

この言葉が出てくるくだりでは古都を残すことと同時に新しい暮らしにふさわしい住まいとの共存、
つまり、古いだけでも、新しいだけでもない、バランスの取れた街を作る大事さが語られていたのだが、
日本では時としてどちらかに傾きがちな気がしてならない。
古いモノを残すことに熱心なあまり、ただただ古いモノ万歳というのも違うし、
古いモノは全部だめ、新しくしようというのも違う。
要はバランス、その全体を考えた計画なのだと思うが、
日本の街作りの中ではそうした全体像とか、バランスが考えられてこなかった気がする。
そして、今後も作られないのかなあという不安も。
特に経済最優先で考えると考えられないというか、考える必要がないというか。う~む。

僕が思うには、たぶんいまの日本には、60年代の建築家や評論家たちのような「ユートピアへの熱情」みたいなものが必要なんじゃないかな。現代の日本の建築家……いや、建築家に限らず、日本人全体が何かを深く考えたり、敢えてリスクを冒してでも自分の主張を他人の前で展開する勇気を失っているように感じられるよ。

これについては賛成半分、反対半分というところだろうか。
確かに理想を語る人が非常に少なかった時代があったし、今でも理想だと、何を青臭いことをという人もいる。
その一方でかつて失われていたように見えた理想を語る人達が確実に増えてきていることも感じる。
それが多数派ではないとも知りつつ、私は期待したい。

イタリア人が見た日本の「家と街」の不思議
ファブリツィオ・グラッセッリ
パブラボ
2016-01-25






Amazonライブリンク
記事検索
月別アーカイブ
livedoor プロフィール
MessageLeaf
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ