平成26年3月24日最高裁判所第二小法廷決定
裁判要旨:労働者が過重な業務によって鬱病を発症し増悪させた場合において、使用者の安全配慮義務違反等を理由とする損害賠償の額を定めるに当たり、当該労働者が自らの精神的健康に関する情報を申告しなかったことをもって過失相殺をすることはできない。
事案の概要:Y(被上告人)の従業員であったX(上告人)が、鬱病に罹患して休職し休職期間満了後に被上告人から解雇されたが、上記鬱病(以下「本件鬱病」という。)は過重な業務に起因するものであって上記解雇は違法、無効であるとして、Yに対し、安全配慮義務違反等による債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償、支払等を求めて提訴した。原審裁判所は、解雇は無効であるとし、過重な業務によって平成13年4月頃に発症し増悪した本件鬱病につきYはXに対し安全配慮義務違反等を理由とする損害賠償責任を負うとした。そして、その損害賠償の額を定めるに当たり、Xが、神経科の医院への通院、病名、薬剤の処方等の情報を上司等に申告しなかったことは、YにおいてXの鬱病の発症回避・発症後の増悪を防止する措置を執る機会を失わせる一因となったものであるから、過失相殺に関する民法418条又は722条2項の規定の適用ないし類推適用により損害額の2割を減額した。
判決文:「上告人は、本件鬱病の発症以前の数か月において、……のとおりの時間外労働を行っており、しばしば休日や深夜の勤務を余儀なくされていたところ、その間、当時世界最大サイズの液晶画面の製造ラインを短期間で立ち上げることを内容とする本件プロジェクトの一工程において初めてプロジェクトのリーダーになるという相応の精神的負荷を伴う職責を担う中で、業務の期限や日程を更に短縮されて業務の日程や内容につき上司から厳しい督促や指示を受ける一方で助言や援助を受けられず、上記工程の担当者を理由の説明なく減員された上、過去に経験のない異種製品の開発業務や技術支障問題の対策業務を新たに命ぜられるなどして負担を大幅に加重されたものであって、これらの一連の経緯や状況等に鑑みると、上告人の業務の負担は相当過重なものであったといえる。」
「上記の業務の過程において、上告人が被上告人に申告しなかった自らの精神的健康(いわゆるメンタルヘルス)に関する情報は、神経科の医院への通院、その診断に係る病名、神経症に適応のある薬剤の処方等を内容とするもので、労働者にとって、自己のプライバシーに属する情報であり、人事考課等に影響し得る事柄として通常は職場において知られることなく就労を継続しようとすることが想定される性質の情報であったといえる。使用者は、必ずしも労働者からの申告がなくても、その健康に関わる労働環境等に十分な注意を払うべき安全配慮義務を負っているところ、上記のように労働者にとって過重な業務が続く中でその体調の悪化が看取される場合には、上記のような情報については労働者本人からの積極的な申告が期待し難いことを前提とした上で、必要に応じてその業務を軽減するなど労働者の心身の健康への配慮に努める必要があるものというべきである。」「上記の過重な業務が続く中で、上告人は、上記のとおり体調が不良であることを被上告人に伝えて相当の日数の欠勤を繰り返し、業務の軽減の申出をするなどしていたものであるから、被上告人としては、そのような状態が過重な業務によって生じていることを認識し得る状況にあり、その状態の悪化を防ぐために上告人の業務の軽減をするなどの措置を執ることは可能であったというべきである。」
「これらの諸事情に鑑みると、被上告人が上告人に対し上記の措置を執らずに本件鬱病が発症し増悪したことについて、上告人が被上告人に対して上記の情報を申告しなかったことを重視するのは相当でなく、これを上告人の責めに帰すべきものということはできない。以上によれば、被上告人が安全配慮義務違反等に基づく損害賠償として上告人に対し賠償すべき額を定めるに当たっては、上告人が上記の情報を被上告人に申告しなかったことをもって、民法418条又は722条2項の規定による過失相殺をすることはできないというべきである。」
解説:民法418条又は722条2項に規定されている「過失相殺」とは、被害者の落ち度によって損害が拡大した場合に、損害賠償額を減額するものです。本件では、 Xの欝病が悪化した一因として、自己の病状等上司等に申告せず、会社側YがXの鬱病の発症回避することができなかったという事情がありました。原審の裁判所は、この事情から過失相殺認定し、損害賠償額を2割減額しました。これに対し、最高裁判所は、欝病などのメンタルヘルス情報は、他人に知られたくないプライバシーに属する情報であるから、労働者から積極的に申告がなくてもやむを得ないこと、また、使用者の労働者に対する安全配慮義務が十分に尽くされてとはいえないことを理由に、過失相殺を認めませんでした。
安全配慮義務とは、使用者は労働契約上の信義則(民法1条2項)基づき、労働者の生命・健康を危険から保護するように配慮すべき義務です。昭和50年以降、判例法理として定着し、平成20年に制定された労働契約法5条で明文化されました。本判例も、過失相殺を否定した理由として、使用者Yの安全配慮義務不履行の事実を重視したと言えます。
コメント