2005年07月06日

原宿村分水(5)徳川屋敷の池跡

fd3a2627.jpg徳川屋敷一帯は緑に囲まれた静かな場所であったため、大正から昭和初期にかけては学者や文化人が多く居を構えていたそうです。昭和2年に屋敷の池は埋め立てられ、跡地には鉄道病院が建ちました。現在はJR東京総合病院となっています。
写真左手が、かつて池があった辺りです。道路が低くなっている地点を左から右に横切って水路が流れ出し、100mほど先のところで原宿村分水へ合流していました。

2005.7.7追記
葵通り(玉川上水跡)の一本南側に現存する通りは「博士横丁」と呼ばれ、通り沿いに北一輝や長谷川伸、幸徳秋水なども住んでいたとか。徳川邸の池から流路が流れ出す地点は段差があり滝状になっていたとのこと。明治末の地図にはここに水車の記号が描かれています。

地図(池跡付近)

tokyowater at 22:01│Comments(2)TrackBack(0) 渋谷川上流域〜千駄ヶ谷・原宿から渋谷の流路と水源を辿る〜 

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この記事へのコメント

1. Posted by 瀧本 英樹   2006年05月30日 17:14
ここの内容についてお尋ねしたいことがあり書き込みさせて頂きます。当社は螢侫献ラ(旧社名:藤倉電線)ですが、明治23年〜明治29年まで6年間、今のJR東京総合病院(当時は紀州家庭園)のところに本社工場がありました。当社の社史の中でもこの時期は写真も資料も残ってなく、空白となっており、その当時の写真を探しているところです。この内容を読ませて頂きよくご存知に方がいらっしゃるようですので、ぜひ情報を頂ければありがたく思います。
知りたい、ほしい内容ですが、ゝ州家庭園の写真
△修猟躅爐涼罎砲△辰真綣屬亮命拭,茲蹐靴お願い
致します。
2. Posted by HONDA   2006年05月30日 22:59
明治後期の地図を見ると、現在の文化学園のところに藤倉電線さんの工場があります。また、明治30年、電線用糸製造のためにこの場所にあった水車が増設されたとあります。これ以前に紀州徳川家庭園のあたりに工場があったということでしょうか。残念ながら写真や詳細な資料は私の手元にはありません。

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