宇田川〜初台・代々木上原から渋谷の「春の小川」を辿る〜

2005年06月18日

神泉谷・松濤の支流(終)滝坂道

9e0beabc.jpg神泉駅前の谷底の道を上がると滝坂道に出ます。滝坂道はいにしえの甲州街道で、現在途中まで淡島通りとなっています。右に進むといったん下った後、上り坂になります。江戸時代の一部の地図にはこの登り坂になる辺り、神泉町7番地近辺に池が描かれており、ここから神泉谷に向かって小川が描かれていますが、明治以降の地図には池も小川も載っていません。いずれにしてもこの近辺の湧水をあつめた細流が谷に沿って流れていたのでしょう。もともと滝坂道の名称自体が、雨が降ると坂道に水が滝の様に流れたためとの説もあるようです。(調布市の滝坂に抜ける道とも)。

2005.7.20追記
大岡昇平「少年」に掲載されている地図には、神泉谷に発し松濤からの流れに合流する流路がしっかりと描かれており、少なくとも大正期まで流路が健在だったことがわかります。流れは弘法湯の湧水の余水に発していたと書かれています。

地図

以上で宇田川水系の探訪はおわりとし、次回から渋谷川の源流から渋谷までの流路を辿っていくこととします。

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神泉谷・松濤の支流(4)神泉駅の水路

2273ce8f.jpg神泉駅は谷を横切る形でつくられており、駅の半分と渋谷側をトンネルに挟まれた珍しい形状をしています。流路跡の延長線が線路を横切るところには水路が見えます。線路の南側にも、この水路に続くかたちで怪しい未舗装の空間が道路端に残っています。更に延長し道路を挟んだ向かいのビルやマンションが建っている窪地が、かつて弘法湯のあった場所です。

地図

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神泉谷・松濤の支流(3)神泉谷

dbebbce5.jpg先ほどの遊歩道の終了地点から左(南)には、かつて神泉谷からの流路がありました。現在流路跡と思われる道が井の頭線神泉駅方向に続いています。神泉の地名は「空鉢仙人」(弘法大師との伝承も)に由来する霊泉からとられたものです。江戸時代にはその水を利用した共同浴場「弘法湯」ができ、滝坂道(現淡島通り)を経由した淡島参り(下北沢・森厳寺の「淡島の灸」)の参拝客が帰りに立ち寄る場所として賑わったといいます。明治時代には浴場の2階に料亭がつくられ、料亭に出入りする芸者の置屋が出来、これらが円山町の花街のルーツとなりました。戦後も1976年まで銭湯として営業していましたが、現在は跡形もなくなっています。この泉のほかにも、かつてはあちこちで水が湧き出ていたといいます。

地図


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神泉谷・松濤の支流(2)鍋島松濤公園

a2ea9c88.jpg鍋島松濤公園一帯は江戸時代紀州徳川家の屋敷地で、明治時代には鍋島公爵家の経営する茶園「鍋島園」となり、のち池の周囲が公園として開放されました。池は三方を囲まれた窪地(谷頭)の湧水池となっていて、屋敷となる前から存在していたといい、東京都の調査によれば現在もわずかながら湧水があるようです。池の北西側からはかつて三田用水神山口分水が流入していました。三田用水は世田谷区北沢5−34で玉川上水から分水し、目黒区と渋谷区の境界沿いに台地の尾根筋を南東に進み代官山〜目黒を経て白金・芝方面に達する用水で、もともとは飲料用の上水、その後は農業用水、そして明治以降は工業用水として1975年まで利用されていました。渋谷川水系にはいくつか分水がひかれ、明治時代には精米・製粉や動力用の水車が数多く設けられたといいます。神山口分水もそのひとつで、松濤2−3で分水し、2−4近辺に水車があったそうです。

2005.7.20追記
三田用水神山口分水は、松濤の池に流入する手前で東側に流路を分け、公園の南東側で滝状に落下して水車を廻したのち、池から流れ出る水と合流していたそうです。松濤園の茶を育てるために分水の水量を増やしており、この水量によって流域の2つの水車や、宇田川合流地点のすぐ下流側にあった大向橋の水車を安定稼働させることが可能となっていたようです。

地図

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神泉谷・松濤の支流(1)

e3065ad3.jpg宇田川本流(20)の辺りで、かつて神泉谷/松濤からの支流が合流していました。この流れは鍋島松濤公園の湧水池と、神泉谷からの湧水を源としており、江戸時代後期から明治時代後期にかけては、三田用水の神山口分水が松濤公園の池に流れ込んでいました。現在、流路の跡は途中まで遊歩道となっています。遊歩道の終了地点の近辺が神泉谷方面からと松濤公園からの流れの合流地点でした。そこから右(北東)に向かうとすぐに鍋島松濤公園があります。

2005.7.20追記
現在東急本店となっている場所には大向小学校があり、裏手には大正中期まで水田が残っていたそうです。流路は木材で護岸されていたそうです。

地図

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宇田川水系鳥瞰図2

3b4e3142.jpgこちらの方がわかりやすいでしょうか。真上からみた鳥瞰図です。流路の位置が少しずれてしまった部分もありますが、大体の流路と地形の関係は分かるかと思います。
狼谷のH字型の谷が浮かび上がっています。
[国土地理院数値地図5mメッシュ東京都区部と国土地理院発行2万5千分の1地形図(東京西部、東京西南部)を合成加工]

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2005年06月17日

宇田川水系鳥瞰図

c24b438f.jpg宇田川水系の鳥瞰図です。標高はやや強調してあります。流路はおおよその位置です。
台地に幾筋も刻まれる谷の様子が分かります。

(国土地理院数値地図5mメッシュをフリーソフトカシミール3Dで処理)

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2005年06月16日

宇田川本流(終)

0507dcbb.jpg山手線の土手をトンネルで潜った先で渋谷川と合流し、宇田川は終りとなります。西原の源流地点から約3km、河骨川の源流からだと約3.2km。水源の標高は、本流、上原支流、河骨川、初台川、富ヶ谷のいずれも約40m、神山と神泉・松濤の支流は30mですが、合流地点は約15mとなっています。なお、渋谷川はこの先渋谷駅を越えたところから開渠となって地上に姿を現します。
畠山直哉氏が、渋谷川の暗渠の中を撮影した写真集「Underground」には、宇田川と渋谷川の合流点とおぼしき、2つの暗渠が合わさる地点の写真が掲載されています。

「Underground」

この後、神泉・松濤の支流を紹介してから、渋谷川上流部を水源から訪ねていくこととします。

地図

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宇田川本流(21)

5141ddea.jpg西武デパートA館とB館の間は非常に人通りの多い道ですが、この下に宇田川が流れていることを知る人はほとんどいないでしょう。この暗渠のため、西武A館とB館の地下はつながっていません。

「魅惑のチリルーム」より

2005.7.20追記
もともとの流路はここより南東寄りにあり、109辺りから東急本店通り北側沿いに流れていました。川上家屋があり、大盛堂書店などの商店が入っていたそうです。1931年頃に渋谷駅近辺が暗渠化されたとのことですので、その際に現在の暗渠の流路につけかえられたのかもしれません。
道玄坂下は明治初期までは八反田と呼ばれる湿地・沼だったそうです。

地図

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宇田川本流(20)東京の三十年

aa609a24.jpgここより下流は戦前よりすでに暗渠だったようです。宇田川町交番の前を経て井の頭通りと合流し、西武デパートA館とB館の間に至ります。明治頃まではやや南よりの東急本店通り沿いを流れていたようです。写真の場所近辺で、右手から松濤公園方面と神泉谷からの支流が合流していました。また、やや下流には堰と水車があったそうです。
田山花袋「東京の三十年」には、先の国木田独歩宅への訪問記「丘の上の家」が収録されており、ここの水車や田圃の中を蛇行して流れる宇田川、楢林や大根畑といった風景が描写されています。
「武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた」とあるのが、ここまで辿ってきた川筋が谷を刻んでいる台地でしょう。

松濤・神泉支流についてはについては後ほど紹介します。

2005.7.20追記
堰は現在のBEAMの前辺りに水車に水を引くためにあったそうです。宇田川町交番よりやや上流寄りには「大向橋」があり、橋の傍には大正中期、作家大岡昇平が住んでいました。彼の回想記「幼年」に大正中期の近辺の風景が詳細に描写されています。以下は彼の家の側にあった井戸の描写です。
「宇田川町のこの一帯は、水が豊富なことで特徴づけられる。おそらく道玄坂方面の台地の地下水脈があったのだろう、深さ二メートルくらいの浅い井戸から、水が絶えず湧き出て、低い井戸側を一杯にし、溢れ出ていた。夏は冷たく冬はあたたかいのが珍しかったが、少し鉱気を含んでいたから、台所で使う水は、水瓶に棕櫚の切れ端を沈めて異物を付着させ、上の澄んだところを汲んでいた。」

地図

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宇田川本流(19)武蔵野の風景

bca90525.jpg宇田川町に入ると遊歩道で終り、それより下流は車道となります。ガードレールの根元のコンクリート壁は護岸の名残なのでしょうか?
独歩の「武蔵野」では、渋谷川や目黒川、神田川といった川に対して「林をくぐり、野を横切り、隠れつ現われつして、しかも曲りくねって流るる趣は春夏秋冬に通じて吾らの心を惹くに足るものがある。」と評しています。100年ちょっと前、この近辺もそのような風景だったのでしょう。この風景から想像することはできるでしょうか。

地図

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宇田川本流(18)植込みのある暗渠

473ba1c3.jpg一箇所だけ、以前の状態の遊歩道が残っていました。1896年(明治29年)から97年にかけ、この場所からほんの数百メートル東、現在のNHK放送センターから渋谷公会堂に抜ける道沿いに国木田独歩が居を構えていました。この家での暮らしや周囲の風景をもとに「武蔵野」が書かれました。
独歩が去った後、1909年(明治42年)には陸軍代々木練兵場ができ、戦後米軍に接取されてワシントンハイツ〜返還後東京オリンピックの宿舎となったのち1967年に代々木公園となりました。
また、ここのすぐそば、NHK放送センターの辺りは窪地となっていて池があったようです。現在、井の頭通りがわずかな区間二手にわかれ、間に島状の緑地がある一角がありますが、カーブしている方が旧道で、池を避けるために曲がっていた様です。

地図

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2005年06月14日

宇田川本流(17)神山町の支流・草むす流路

8811467c.jpg宇田川水系の暗渠には珍しく、道路となることもなく雑草が生い茂った空き地となっています。比較的最近まで開渠だったのかもしれません。神山町38で暗渠は終り、そこから先50mほどは普通の道路となって宇田川遊歩道に合流しています。

地図


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宇田川本流(16)神山町の支流・源流

485f3c19.jpg神山町の支流は幅30mほどの谷底の南縁の崖下を流れ、神山町と富ヶ谷1丁目の境界線となっています。長さにしてわずか500m足らずですがはっきりとした流路跡が残っています。
山手通り沿い、NTT代々木ビルの裏手が谷頭地形となっていて谷底に下る階段があり、その途中から暗渠がはじまっています。崖の土手に緑が残っており、今川が流れていてもおかしくない雰囲気です。マンホールが飛び出ているのはなぜなのでしょうか。

地図

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宇田川本流(15)

40d7c212.jpg川をイメージしたのか、歩道が蛇行しています。この近辺、神山町2番地で、神山町と富ヶ谷1丁目の間の谷からの支流が合流していました。


地図


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宇田川本流(14)宇田川遊歩道

33badf7e.jpg川は駅前の道路南側に並行した後(初台川(終)参照)、道路の北側に移ります。ここから宇田川遊歩道が始まります。以前は植え込みや遊具がありましたが、最近きれいに整備されてしまいました。遊歩道が始まってすぐに河骨川が合流します。(河骨川(終)参照)

地図


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宇田川本流(13)小田急線

8e1ead6c.jpg川跡は代々木八幡駅の北西で小田急の線路にぶつかります。ここで小田急線の南側に渡り、少し東側の踏切のところで小田急線を越えてきた初台川と合流していました。(明治期までは現富ヶ谷小学校の敷地を横切り、富ヶ谷支流と合流してから初台川・河骨川と合流していました。)

地図


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2005年06月12日

宇田川本流(12)二宮尊徳像

13340037.jpg暗渠沿いに唐突に現れた二宮尊徳像。あとでたまたま目を通した資料にこの像のことが載っていました。敷地の住人の先代が借金のカタに預ったものだそうです。

地図


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宇田川本流(11)西原支流

81ee7412.jpg西原と元代々木町の境目にも北から南に向かう細い谷があり、かつては田圃と小川がありました。元代々木町13から南下する暗渠が残っています。元代々木町12で東に向きを変え、11番地で南から宇田川本流をあわせ、そのまま宇田川となって東に進みます。

地図

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宇田川本流(10)迷路

3b907c90.jpgこの近辺の流路は河骨川などと同じく東京オリンピック前後に暗渠化されたようです。細く曲がりくねった暗渠が路地裏を縫っています。この当りは普通の道も細く曲がりくねっていて迷路のようです。暗渠化前の地図をみると、沢山の小橋が架かっていたようです。流路は写真の場所でいったん代々木上原方面からの地蔵通り沿いに出たのち、少し進んでから北に曲がり、西原の谷からの支流に合流します。

地図

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宇田川本流(9)上原支流と底ぬけ沼

8ef40367.jpg上原の谷の流れは、上原3−28近辺の崖下からの湧水と、上原3−33近辺の谷からの細流を上原中学校近辺であわせ、(8)の近辺で宇田川に合流していた様です。明治末期の地図には上原の谷にはっきりと流路が描かれていますが、現在痕跡はありません。写真の上原中学校前の道路沿いを流れていたようです。大正時代末にこの谷を横切って井の頭通りが建設されました。地下に水道管を通した水道道路であったためか、谷と交差する部分は盛り土となり、通りの南側の谷底にあたる湿地帯には水が溜まり沼となりました。この沼は「底抜け沼」と呼ばれ、大雨の後には井の頭通り下に設けられた排水路から宇田川に向かってかなりの水量が流れていたとか。昭和16年に「底抜け沼」は埋め立てられ、跡地には住宅が建てられました。おそらくこの前後に流路も埋め立てられてしまったのでしょう。沼には特に湧水はなかったため、工事は順調だったとのことです。

地図(底抜け沼)

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2005年06月10日

宇田川本流(8)西原児童遊園からの暗渠

24597c07.jpg代々木上原駅前にある小さな公園から、はっきりした暗渠が東方向に始まっています。この近辺で、駅南西側の上原の谷からの支流が合流していました。代々木上原駅前から代々木八幡駅近辺にかけての宇田川流域一帯は、かつては「底ぬけ田圃」と呼ばれる低湿地帯で、踏み入った鳥追いが泥に呑まれ溺れ死んだとの伝承も残っているそうです。

地図

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宇田川本流(7)大山園

08e7ddf6.jpg大山町の谷からの流れも西原交番近辺で西側から合流していたようです。もともと一帯は森で、明治初期には木戸孝充所有の農園となり、その後所有者の変遷をへて1913年(大正2年)、谷頭にあたる大山町35−25に地形を利用して池や滝を備えた遊園地(庭園)「大山園」がつくられました。1927年の小田急線開通後に周囲が高級住宅地として造成された後もこの庭園は残り、戦後はレバノン人の貿易商の豪邸となり(朱塗りの太鼓橋や温水プールもあったとか)、その後紆余曲折を経て現在は某アパレル会社社長の邸宅となっています。邸内には池が残っているようですが、石垣が高く張り巡らされていて中の様子はまったくわかりません。石垣が谷を横切ってダムの様にたちはだかっています。

地図

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宇田川本流(6)交番裏の怪しい道

32a9b1e8.jpg西原交番の南側に、すぐに行き止まりになる怪しい道があります。1960年頃の地図をみるとここから東に、宇田川本流と並行した水路が延びています。明治時代の地図ではもう少し南に下って上原からの流れと合流していますが、その後流路が変更されていたのかもしれません。
2005.6.12追記
なお、交番の西側、大山町43番地の辺りには、大正時代から昭和初期にかけて、道路によってせき止められて出来たと思われる池がありました。その後一帯の住宅分譲地造成で埋め立てられたようです。

地図

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宇田川本流(5)徳川山

6fb96447.jpg代々木上原駅前方面にまっすぐに下っていくこの道沿いに、かつて宇田川が流れていました。一帯は昭和初期に住宅地「徳川山」として造成され、高級住宅地となっています。川の痕跡はまったく見つけることができません。

地図

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宇田川・渋谷川上流地図(修正版)

udariver20050610
流路図を修正しました。とりあえずここに掲載します。あとでこちらの地図を差し替えます。

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2005年06月09日

宇田川本流(4)狼谷底を望む

ea014e40.jpg写真は代々木大山公園南東側の道から、谷底の方向を望んだものです。かなり急な坂となっています。谷底の左手はH字の真ん中の横棒にあたる谷となっています。大正末から戦前にかけてこの谷(大山公園北側)には沼がありました。おそらく水田だった場所が、耕作を放棄され、周囲の造成により水が溜まるようになったのではないでしょうか。ちなみにH字の横棒が左側の棒とつながる地点が(2)の池の近辺となります。

2005.6.12追記
(2)に追記したとおり、大正〜戦前にかけてこの一角は森永製菓創業者の屋敷となり、湧水池を2つ有していたとのことです。したがって、沼というよりも庭園に意図的につくられた池だったのかもしれません。

地図

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宇田川本流(3)代々幡斎場南の道

fde7cd23.jpg江戸時代よりこの地にあった代々幡斎場の南側に、いかにも暗渠っぽい道がありました。この道はH字の右上に位置します。明治〜大正期の地図には途中左にわかれ下る道沿いを少し下ったところから川筋が描かれています。

地図

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宇田川本流(2)源流地点に残る湧水池

81a7db46.jpgかつての狼谷は斜面を森に囲まれ、谷底は水田となっていました。現在でもJICA東京国際センターや製品評価技術基盤機構の敷地には緑が残っています。JICA東京国際センター敷地内には小さな池がありますが、東京都の1991年の調査では敷地内に一日40立方mほどの湧水が確認されており、この池の水源と思われます。見学を申し出たのですが、現在警備の関係で平日の昼休みの開放となっているとのことで、ロビーから覗き込んでみたところ木立の隙間からわずかに水面が確認できました。現在も湧水が残っているかどうかはわかりませんでした。
なお、隣の製品評価技術基盤機構の敷地にも人工的に造形された池があります。

2005.6.12追記
大正〜戦前にかけてこの一帯は森永製菓創業者の屋敷となり、湧水池を2つ有していたとのことです。現在ある池はこの池のひとつだと思われます。


地図

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宇田川本流(1)「狼谷」の源流

1a98139b.jpg宇田川の本流は渋谷区西原2−49近辺の「狼谷」に発していた細流だったと思われます。「狼谷」は「大上谷」とも書かれ、H字型の窪地となっています。川はH字右下にあたるところから南下し、小田急線代々木上原駅近辺で上原の谷からの小流と旧大山園近辺からの水をあわせ、その先で西原と元代々木の境界の谷からの小流をあわせ、代々木八幡駅近辺で河骨川、初台川、富ヶ谷支流と合流していました。
かつて西原から初台にかけての一帯は「宇陀野(うだの)」と呼ばれており、ここから流れ出る川ということで宇田川の名がついたといわれています。「宇陀」「宇田」のつく地名は全国にあり、語源にも諸説ありますが、ここ場合は湿地帯や河川流域の湿地をさす語との説が適切でしょう。すぐ近くの西原小学校校歌(1955年制定)では

「みなもと清き渋谷川 細くはあれど一筋に 
つらぬき進めば末遂に 海にもいたるぞ事々に
精魂かたむけ 当たらん我らも」

と歌われており、この一帯が宇田川≒渋谷川の源流と捉えられているようです。代々幡斎場や製品評価技術基盤機構、国際協力機構(JICA)東京国際センターといった施設がH字の底を囲むように建てられています。写真はJICA東京国際センター前の道で、H字左上にあたる谷の谷頭地形が道路の起伏に現れています。

地図


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