世の中には、突然襲い掛かるトラブルが有る。いきなり上から鉄パイプが落ちて来る（最近、それでプロ野球選手が怪我したね）とか、電車とホームの間の隙間に人波に押されて落ちてしまったりとか。今回はそんな、突然巡って来た逃れられなかったトラブルのお話。
あれは私が京王線から新宿乗り換えJR中央線って通勤方法で四谷、水道橋方面に向かっていた頃だから00年か01年。競馬でいえばテイエムオペラオーが8連勝（うちG��5勝）して史上初の秋の古馬3冠を達成した頃……ではなく、その翌年ジャングルポケットが年度代表馬になった年だ。
シドニー五輪の翌年で更に次の年にはサッカーのW杯開催を控えていた狭間。季節は冬、私はミリタリーのコートを着ていた記憶がある。場所は新宿駅構内だ。
一日の乗降者数が約342万人と言われ、世界一に認定されている場所。使っている人間はそんな事を意識する暇もなく雑踏の間を擦り抜け、目的地へ歩を進める。その朝、私もいつものように乗り換えを急ぎながら通勤している最中だった。
JR各線のホームが軒を連ねるようにして並び、そこへ上る階段が両サイドに陣取る乗り換え通路。カーキ色のタイルを足早に進む群衆。私も勿論その一人だ。と、何やら大きな声で揉めている人が居る。
「とにかく！一度来て下さい！ちゃんとした場所で話し合いましょう。絶対許さないから」と金切り声で叫ぶ女性。
「俺は関係ないから！行きたいなら一人で行けよ」と応戦する年配のサラリーマン。
ああ、何か揉めてんなぁ。普通に私もそう思った。二人は親子程も年齢が違う。実際の親子？に、しては会話の内容がちょっと違う。娘は親から逃げようとする事はあっても、あんなに詰め寄りはしない。まして、公衆の面前で。
「一人で行っても意味はないでしょ。してないんなら堂々と付いて来て下さい」怒りを露わにする女性は黒のスカートスーツ姿に白いYシャツ。一見するとOL風だが、かちっとし過ぎているようにも見える。就活中の大学生だろうか？小柄だ。
「だから！俺は関係ないから」そう抗弁する恰幅の良いサラリーマンは脂ぎった顔に縁が青みがかった眼鏡を掛けている。剥げて来た頭髪、弛んできた肉体を必死に何かに転換しようとしている様が感じられる。時計などは多分オメガだ。
痴漢かな？朝の電車内の揉め事でこの組み合わせだとまずピーンと来るのはその定番。実際の被害も多く、同時に冤罪も多い厄介な出来事だ。私も満員電車に乗る時には必ず両手を上げる態勢を取るようにしている。大体、一つの吊り皮両手持ち。偶にドア付近両手壁ドンだ。この隙間に女性がするりと入って来た時、ドアと私の体で押し潰さないように両手をぷるぷるさせて踏ん張る事になる。
で、当然のように無視して通り過ぎる。そこへ、OL風が吹っ飛んで来た。相手の手首を掴んで強引に連行しようとしたところ、振り払われた。その力が思いの他強く、慣れないヒールでバランスが取り辛かったってところだろう。蹈鞴を踏み、よろける。私のところへ突進して来る。
条件反射で相手を受け止める。抱き抱えたりしないように両手でパスを受け取るように肩を掴み、一回きちんと立たせて静止させる。次いで、両手を離す。
「大丈夫ですか？」そう一声掛け、また歩いて先を急ぐ。（今思い返して自画自賛するが、紳士だべ？）
だが、突如紳士の行動は決壊する。その娘にいきなり手首を掴まれた。
「助けて下さい。お願いします」そう言い終わらないうちに、私を引っ張って元の修羅場へ戻って行く。
「え？何？何？何なの？」あまりの出来事に声が裏返る私。しかも及び腰。何か怖い。なのに、ずんずん進む娘に引っ張られるまま。咄嗟の事に腰の弱さを露呈する。
「相手が暴力振るわないように居てくれるだけで良いです。助けて下さい」短く切り捨てるように言い、修羅場へ到着する。男を連れて来たので相手が身構える。行け行けの娘は私の背中を押し、勝手に対峙させる。何て強引な。
「何だ君は！関係ないだろう」怒鳴られる。苦笑する。ええ、ですよねぇ。と受けながら両手を翳し、相手に落ち着いてと頷く。
「貴方が暴力振るうから、親切な人に助けて貰ってるんです。痴漢した上にまずくなったら暴力振るって逃げようとするなんて、ちょっと酷くないですか！」私の横に立った娘が鼻息荒く言い返す。丸顔、美人ではないが可愛らしいルックスだ。ちょっと垂れ目で、今で言えばグラドルのおのののかに似ている。
「だから！俺はそんな事はしていない。大体、君の勘違いじゃないのか？満員電車で身動き取れない状況で人と体が接する事なんて、当たり前の事だ」苛々した様子でサラリーマンが応戦する。今で言えば潰れた吉田鋼太郎といった風情か。
「そう言うんだったらちゃんと鉄道警察のところへ行って証言出来ますよね。誰か、駅員さん呼んで下さい。お願いします」と、ノノカが声張る。私といい、周囲を巻き込むのが上手い娘だ。ちらっと周囲を見るが野次馬は集まっているというより通り過ぎている。声を掛けたが誰かが駅員を呼んだかどうかは解らない。
「そんな事して仕事に遅れたらどうするんだ？君と違って私は今日大事な会議が有るんだよ。そんな人間がそんな事する訳がないだろう」と、偽ヨッシーが抗弁する。冷静に吟味すれば言い訳として成立していないのだが、気持ちは解らないでもない。
痴漢で捕まった場合、下手すればそのまま会社を馘になる。恐らくは40代後半から50代の年配の方。普通に考えれば管理職で、現場の最前線に立つよりも陣頭指揮の形でチームを纏めるような仕事の可能性が高い。そのキャリアがこんな騒動で終わる。リスクが高過ぎる。
だが、その年代のそれなりの地位の人が傲慢なのも確かだ。女の尻を撫でるのも一つのコミュニケーションと考えている方は多い。男尊女卑、女に言う事聞かせられない男など腰が弱い情けない奴と思われる風潮も確かに在った。
「とにかく、俺はもう行くよ。会社に遅刻しちゃうから」偽ヨッシーがそう言って歩き出す。ノノカがバスケのディフェンス宜しく両手を広げてその進路を通せんぼする。肩に手を伸ばしてノノカを払いのけようとしたところで、私と偽ヨッシーの目が合った。
「良い加減にしてくれ」怒鳴り付ける。私を睨む。コートのポケットに両手を突っ込み、私はすっかり弱ってしまった。事情も現場も知らない。どちらの肩も持ちたくない。かといって、女性が暴力を振るわれる可能性のある場所を離れる訳にもいかない。溜息しか出ない。
40年、50年生きてきた人生。20年、30年続けてきた仕事。その積み上げてきた信用や実績が、こんなちっぽけな事件で全てパーになる恐怖。それを思えば偽ヨッシーは大人しい方だ。だが、強引に逃げようと暴れ出したら、私はどうすれば良い？
「お前、関係ないだろう。良い格好しようとして若い娘の味方するな。それともお前達グルか？美人局か？」
「自分のした事棚に上げて人を犯罪者呼ばわりするなんて本当に失礼な人ですね？」私と相手の顔を交互に見ながらノノカが言い返す。相手が激高して詰め寄る。ノノカが私の体を引っ張り盾にする。洗い息、何だか玉ねぎの匂いがするような口臭だ。
「お前、関係ないだろう」と言って偽ヨッシーが私の肩を押す。負けじとノノカが怯むなとばかりに私の背中を押す。これが本当の板挟み。と、心の中で独り言ちる。すっっっっかり弱ってしまった。怒りや反発心も湧かない。ただただ、うんざりする。
「落ち着いて、二人共落ち着いて下さい」相手の感情をクールダウンさせる目的で敢えてゆっくり落ち着いた口調で語り掛ける。互いの瞳に憎しみの色が浮かんでいた。脂ぎった見ず知らずの中年の手が自分の体に纏わり着く嫌悪。軽い欲情を含んだ気がその手を媒介にして自分の身体を侵食する気持ち悪さ。女の怒りは理解出来ないでもない。
偽ヨッシーには蝦蟇蛙感がある。脂ぎった感じとも言おうか、独特の助平感。やっていたとしても不思議ないって雰囲気は滲んでいる。だが、それは証拠でも何でもなく、ただの印象だ。怒りや推測だ。悔しいのは解る。だが、やり過ぎだとも思う。
偽ヨッシーは灰色だ。傲慢な感じ、脂ぎった助平感、実際に被害者が名乗り出てる事実。それでも冤罪の可能性は高い。そして、痴漢冤罪は実はびっくりする程に多い。か弱い女性を守ろうと周囲の正義感に火が点いてしまうからだ。
どうしよう？私は途方に暮れていた。突然足が攣ったって叫んで床を転がり回ろうか？その間に偽ヨッシーは逃げるだろう。頃合いを見て私は何喰わぬ顔で立ち上がる戦法。
どうしよう？ノノカに逆ギレしてやろうか？
「可愛い税だと思ってあきらめろ！俺だってあんただったら抱き着きたいもん」とでも言って実際に抱き着く真似でもしてみようか？この娘なら股間を蹴り飛ばされて下からアッパー風ストレートを叩き込まれるかもしれない。顎にでも喰らったら、ただでさえ及び腰の私は腰砕けになってタップを踏むかもしれん。
「こっちです！こっち！……あそこです」と、いう声が聞こえた。見ると職員らしき数人が善意の第三者によってこちらに呼ばれている。あの格好が鉄道警察隊だろうか？私は即座に反応した。
「ここです！ここでトラブルが発生してます！」挙手をして大声を出す。直ぐにノノカが事情を説明しだす。偽ヨッシーが何事か抗弁しているが、職員はとにかく事情を聴きますからと言って向こうに歩かせる。
「君は？」職員が私に尋ねる。
「善意の第三者です」と答える。通りすがりの正義の味方って言った方が良かったか？
「ああ、その人は関係ないです。どうも有難うございました」と、ノノカが冷たく言い放つ。お役御免、出番終了宣言だ。
私はホッとすると同時に、矢面に立たされながら事の顛末も知る事の出来ない立場を思う。利用するだけ善意を利用されたような不快感。詐欺にあったらこんな気分になるかもしれない。もやもやする。
と、嘆いたところで仕方ない。私は時刻を確認し、溜息を吐きながら公衆電話に向かった。（01年ケータイは大分ポピュラーだが通話料金が高かった。よって、発信は公衆電話）
「すいません、新宿駅でトラブルに巻き込まれまして………ええ、痴漢された女の子と相手の男の間に入って仲裁してました。……ええ、終わりまして、これから向かいます」と、説明したところ
「りょうちゃん、寝坊だろ。そんなに大掛かりな言い訳しなくても大丈夫だよ、言っとくから。どの位で来れる？今起きたら1時間後か？」
「いえ、新宿駅に居ますので、30分で行けると思います」と、答え、受話器を置く。朝に弱い男が定着し過ぎてて、ちっとも今回の騒動を信じて貰えない私。
溜息を吐いて歩き出す。一度だけさっきの現場の方を振り返った。勿論、もう誰も居ない。
何か出来ただろうかと考え、首を振る。
世の中にはどうにも出来ない事も有る。
ただ、それだけの事だ。
PS.画像はグラドルのおのののかです。垂れ目特有の甘さって在るよね。多分、私は意外とそれに弱い性質なのだ……。
