昔の僕に一言、今言ってあげるとしたら
「思い通りにならなくたっていいじゃない」
ってことです。
僕の10代は
思い通りにならなかったことがたくさんありました。
「あんなに祈ったのに。。。」
「ちゃんと奉仕したのに。。。」
「イエスさまのために良い事したのに。。。」
それなのに思い通りにならなかったことがたくさんありました。
例えば、
クラスマッチのバスケの試合。
僕は祈りながらたくさん個人練習しました。
優勝目指して本気でした。
だけど、結果は準優勝。
バスケはチームスポーツなので
個人の力では
勝てないときも多いけれど、
だからってチームメイト誰のせいにもしたくなかった。
なのでとりあえず、「神さまのせい」にしました。
だってほかに優勝できなかった理由が当時の僕にはわからなかったから。
しばらくずっとそのことを根に持っていて、
神さまもきっと「おい、まだ高校時代のクラスマッチの話かよ」
って思っていたと思います。
実は数年前まで
ずっと根に持っていました。
「祈っても思い通りにならなかったあのクラスマッチは何だったんだ」
って。
でも、今は違います。
神さまのせいにしたことを謝りました。
反対に、
今は感謝しています。
優勝できなかったことよりも、
準優勝できたことを。
バスケが出来たことを。
思い出が出来たことを。
優勝して、高慢にならなかったことを。
優勝したい理由の1つは、かっこつけたかったってのもあるんです。
今、思うと「若いな」
くらいにしか思いません。
こんなことを書くと、
驚かれるかもしれませんが、
牧師の子どもとして
生まれたことを
10代の頃は嫌で嫌で仕方が無くて
自分の体験や友達の話を聞いてまとめた
「牧師の子どもは傷ついている」
という記事など
このブログの代表的なことを以前は書いていましたが、
今は、
牧師の子どもとしての苦みを
忘れ始めています。
乗り越えちゃったから、平気になってきてしまいました。
だから、時々
牧師の子どもと話さないと
当時の僕がどんなことを考えていたか
忘れてしまうという心配をしています。
これは希望でもあるんですよね。
牧師の子どもの傷って正しく話し聞いてもらって、祈ってもらって
わかってもらえたり、受け止めてもらえれると
将来乗り越えて、癒されて
もう思い出せなくなってしまうようです。
僕も傷をいつまでも覚えていたいとも思ってなかったので
忘れかけていること自体はうれしいんですけどね。
ただ、僕の場合、死ぬまで牧師の子どもの話を聞いてあげたいし、
共感したいから
感覚だけでも忘れないでいたいですね。
とにかく、
牧師の子どもとして生まれて
そのことをバカにされたり、
仲間はずれにされたり、
日曜日友達と遊べないとか
そういう思い通りにならない、
できれば変えたい状況って
ありましたけど、
それでもいいんじゃん。
って今は思います。
今だから思えます。
その理由は、
地上の人生って「あっという間で」
でも天国の生活は「最高に楽しく永遠だから」です。
10代の頃は一度きりの人生だし、
全部思い通りにしたいって思っていました。
結果から何かを学ぶより
「自分が心地よいことをしたい」
と思っていました。
結局、自分だけの幸せを
わがままに自己中心に求めていただけなんですね。
でも、それをするための人生じゃないって
最近学んだから
もう自分の欲を中心にする人生をやめたいと思ってます。
あのクラスマッチの敗戦に
一体何の意味があったかは
はっきりとは今もわかりません。
ただ僕らが弱かっただけかもしれません。
しかし、
今振り返って思うのは
「人生は思い通りにならないこともある」
ということをあの体験から学べるということです。
勝ちたくても勝てないときもあるし、
祈っても祈った通りにならないことをあると思います。
だから
イエスさまのせい、神さまのせいでもないし、
それを一生、根にもって生活するなんて
時間の無駄っていうか
脳みそのスペースの無駄遣いだと思います。
ショックを受けたり、落ち込んだりすること自体は
悪いことではないですが、
いつまでもそれにとらわれて
「あっという間の」地上の生活を
棒に振ってしまうのはよくないと思います。
自分の思い通りにならないこともあるけれど、
神さまの思い通りになれば僕は満足だし、
地上で少々喜べないことがあっても
天国では全部喜べるんだし、
思い通りにならないことから学ぶってことは
地上でしか出来ない貴重な体験だし、
何より、イエスさまは
僕たちが「祈ったこと」を決して忘れない方だと思うので
祈ることも無駄ではないと思います。
天国が楽しみですね、
楽しみは後にとって置こうと思います。
おわり