2017年07月16日

ゴダール「気狂いピエロ」

2017.07.16(日)アミューあつぎ映画.comシネマ 15:05〜17:00
監督:ジャン=リュック・ゴダール 
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ
1965年フランス・イタリア 105分
デジタル・リマスター、新字幕:寺尾次郎

 ヌーヴェルヴァーグで有名なゴダールだが、私は初めて観た。とってもおもしろかった。
 印象を物語要約文風に何通りか書いてみる。

・詩人(あるいは言葉と関係性に拘る者)が結局は破滅する物語。
・殺人に関わる女と逃避行する男の物語。
・逃避行中他の誰とも出会わないで(関係性を持てず)、かといって男と女もまた思いがすれ違う物語。
・自由奔放な女を言葉で愛撫し、その女に振り回される男の物語。
・「ピエロ」は男に他する命名で、男は拒否するが、やがて「ピエロ」だとわかって「気を狂わせる」物語。
・フランス中部の田園地帯や南部の港湾地帯を舞台に、美しい風景と男と女の悲惨がきわだつ物語。
・詩語のような、繋がりの難解なせりふにあふれた物語。
・殺人あり逃亡あり追跡あり裏切りありで、サスペンスあふれる展開で引きつける物語。
・挿入されるバロック音楽が人物の心象風景を表していて、印象的な物語。
・結局、男は詩人の象徴で、女はミューズであったかと思わされた物語。
・ベトナム戦争が時代の背景としてあって、人々に影を落としていた物語。

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2017年07月10日

横浜ボートシアター「日本間で聴く一葉〜『大つごもり』『十三夜』」

2017.07.09(日)16:00〜 横浜「自在」(南軽井沢稲葉邸)
演出:遠藤琢郎
音楽・ベース演奏:松本利洋
語り出演:「大つごもり」/岡屋幸子,「十三夜」/吉岡紗矢

 前日に青空文庫で読んでいたこともあり、文語文にもかかわらず、内容がわからないということはなかった。
 それどころか、語り手の語りが地の文や複数の登場人物の声を使いわけていて、臨場感がとても伝わってきた。
 岡屋さんは、カルチャーセンターで7年前に語りを始めた方。その語りは、身体全体を振り、そこから振り絞って発声していて、口の動きも激しく滑舌なめらかであった。とりわけ奉公先から金子(きんす)を盗んでしまうお峰を高い声で表現していたのが印象的だった。
 ボートシアターの公演で音楽とべース演奏を担当していて、雰囲気を印象づけている松本だが、この語りでは、音がなくてもいいのではと思うところが何ヶ所かあった。音なしで、語りを聴きつづけていたいところが。ここで私は、表現読みの渡辺知明さんがいつもおっしゃっていることを思い浮かべていた。すなわち、音楽に頼る朗読はだめだ。――しかしながら、放蕩息子の石之助が登場する所で奏でたユーモラスな音楽はとてもマッチしていておもしろかった。
 ボートシアターの公演で何度も拝見している吉岡さんの語りはものすごかった。
 岡屋さんの何倍も身体や口を振り絞っていた。さらには何人もの登場人物の声色を工夫して表現していた。父の低音は腰のあたりから、お関や母の高音は頸部全体から、地の文などはその中間から、おのおの声を出し、表情まで伝わらせていた。
 この語りは「聴く」のではない。まさに「観て聴く」ものであった。耳で「聴く」だけではこの舞台の50%もわからないと思われた。
 巨大なコンクリートビル群が林立する横浜駅から徒歩圏内で、しかもその前面にはやはりビルが建ち並ぶ、その奥の、森の入口に位置する築60年ほどの日本家屋という会場は、特筆すべきものだ。実のところ、もっと広い部屋を想像していたのだが、二間をつなげて17畳ほどの庭に面した空間で一葉作品をこれらの語りで味わえたことは、珠玉のことであった。野球応援を途中で抜けだして、無理をして観に来て、とても良かったと考えている。


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2017年07月02日

上溝南のケヤキ林〜2017・夏

2017.07.02(日)
 母親宅から上溝南へ。試験前とあってか、何人かの職員が仕事をしていた。
 ケヤキ林の林床には、盛りの過ぎた花があるだけ。昨年まであった色の薄い紫陽花も、伐採されちゃったんだな。
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 ケヤキ林の柵の向こうの畑に、派手な花が咲いていた。
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2017年06月30日

「ピントをべつのところにあわせると」〜渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』から

 「じつは人間の目にうつるものの像は、カメラのとらえる像とはかなり異なる。たとえば人間の目は、視野の全域にピントをあわせておくことができない。だから、いま注目している小さな範囲以外は、視野という構図のなかにあっても、ぼんやりとかすんでいるのだ。ピントをべつのところにあわせると、さきほどとは構図そのものがちがってきてしまう。」――渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』第3章「日本語の詩の可能性」P88

 きょうの帰宅途中、このような体験をした。
 わたしはいつものように遅い時間にいつもの小さなホームにとまっている電車にいつも乗る1両目のドアを開けて入り、いつものように立っている人もいる車内に自分の居場所をみつけることができずにいつもとはちがっていちばん前の運転手が世界をかかえてくもんしている小さな空間の右端にわずかに空いたまどの下の金属製の手すりにからだ全体でもたれかかりおのずと狭小な謎に満ちた向こうの空間の床に視線が行く。列車は発車する。揺れる。焦点がもだえる。
 冷たく汚れた金属っぽい床にはなんのためにつけられているのかさっぱりわからない長細いものが3つやっぱりさっぱりわからない角度ではりついている。車輌が揺れる毎にそれらの画像も揺れなにとなくながほそい右めとながく尖った鼻にみえてきた。しかしながら、それら二つの部品とは明らかに異なる向きと色ではりついているその棒状のものは、しだいに軟体動物のように輪郭が揺れ、ほそながいちょうほうけいというだいたいのそれをたもちながらもぐにゃぐにゃとじわじわと波うち、固体から幽体化しどろどろぶしゅぶしゅと蠢く無数の虫たちが合体したように見えて来・・・・・・
 気がついてわたしがとびだしたホームは、いつも降りる見なれた駅とはちがう風景をかもしだしていた。

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2017年06月25日

「ボイマンス美術館所蔵ブリューゲル『バベルの塔』展」

2017.06.24(土)上野・東京都美術館
 ヒエロニムス・ボスのへんてこキャラクターがおもしろかった。絵はがきを何枚も買った。
 ブリューゲルの作品もおもしろかった。しかし、肝心の「バベルの塔」は、予想外に大きくなくて、細部に書き込まれているという、庶民や職人の姿がまったく肉眼で見えなかったのが残念だった。

tomtom_poem at 00:25|PermalinkComments(0)mixiチェック アート 

2017年06月03日

風煉ダンス「まつろわぬ民2017」with 白崎映美

風煉ダンス「まつろわぬ民2017」with 白崎映美2017.06.02(金)19:07〜21:32 座・高円寺1
作・演出/林周一
演奏/ドラム・Pc等:関根真理,トランペット・テルミン等:辰巳小五郎,ギター・ベース:ファン・テイル
出演/胆沢スエ:白崎映美,黒いゴミ袋:伊藤ヨタロウ,扇子・レラ:柿澤あゆみ
冷蔵庫・アジム:反町鬼郎,ピアノ・トノト:林周一,テレビ・イタク:山内一生 他

 何もかも鬱屈している中、これを観なければ後悔すると、ちょっと無理して観に行った舞台。鬱屈も発散され、エネルギーももらえた! 行って良かった!!!

 白崎さんと伊藤さんの、修羅の二重唱が圧巻だった!!

 手づくりの道具の迫力。たとえば金属のドリル・アームの手作り感がかえってリアルでかつ軽みを産み出していた! プロジェクション・マッピングを使わずに空間を表現したところに、この劇団のこだわりがみえ、好感を持った。

 ストーリーは現実を踏まえたファンタジーなのだが、ところどころその中にもきつい現実が見えた。たとえば、ガラクタになった家具が散乱している家が原発事故の放射能汚染で放棄された家族と重なって見えた。

tomtom_poem at 00:33|PermalinkComments(0)mixiチェック 演劇 

2017年05月27日

TOMISANPO第4〜上野から,森鷗外ゆかりの地を歩く

2017.05.26(金)
 雨天のため上野駅中央改札前、翼の像付近に集合。
 来週から「舞姫」に取り組む私は、階段道をのぼり、東京文化会館前に出た。道は渋滞していたが、ちょうど前方を”北めぐりん”千駄木・谷中方面行きがのろのろ動いていた。しかし、駅前のバス停を出たあとだった。私はバス通り沿いに左折して国立博物館前まで歩くと、追い抜いていったその”北めぐりん”がバス停に止まっていた。駆け寄ると、ドアが開き、私を乗せてくれた。乗車賃100円。
 赤い小型バスは東京芸大の周囲をうろうろ曲り、谷中霊園入り口を斜め左方向に進むと、なが〜い坂。地図を見るとその道を直進すると、第一の目的地”森鷗外記念館”があるのだが、バスは路地を右折しずんずん行く。慌てて降車ボタンを押して、谷中銀座入口で降りる。しかし、バスはすぐに左折し、不忍通りに出るとまたまた左に曲がった。私もまた、それと同じコースを歩く。先程の交差点の手前でそれは止まる。そこにバス停が。小雨の中、もう一駅乗っていれば良かったとも思った。
 さて、そこを右折すると、急な団子坂。登りきった左に、その記念館はあった。
 入館料500円。この日は、企画展で「鷗外の〈庭〉に咲く草花―牧野富太郎の植物図とともに」があった。
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 館は、鷗外一家が住んだ観潮楼(当時はそこから海が見えたのだという)の跡地にあるが、コンクリート打ちっ放しの前衛的な建築物であった。写真は、内部。
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 外観。
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 団子坂を下り、不忍通りをつっきって、3つ目の路地を右に入る。地図ではへび道となっている。その名の通り、ぐにゃぐにゃと曲りながら進む路地であった。
 少し広い通りに出ると、道は直進。途中、左側に何軒かの由緒ありそうな寺があった。
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 行き止まりを左折すると、”水月ホテル鷗外荘”の目立つ看板が見えた。ここは鷗外の旧居跡で、留学から帰った彼が「舞姫」などを執筆した場所だという。いまはこんな天然温泉つきのホテルになっている。レストランのメニューが鷗外にちなんだものがあり、おもしろい。
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 記念館を出てからもう30分は歩いただろうか。目の前を”めぐりん”バスが通過した。15分待つよりそのまま歩くことにした。上野精養軒前を過ぎ、不忍池弁財天前を過ぎ、上野駅前の交差点を渡り、アメ横に行く。
 屋台の店”マーラータン”で、マーラータン(辛さ2、具材5)880円を食す。アメ横にしてはちょっと高いと思ったが、具が大きく、スープも薬膳のような香りがし、辛かったが美味であった。
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 中国から来たてと見られ、日本語を余り理解できない青年に、水を求めると、天然水を示し、100円で買えと言う。何と!



























 













 



tomtom_poem at 00:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック 散歩 | 文学・評論

2017年05月19日

堀辰雄『かげろふの日記・曠野』

昭和二十六年七月十日初版 昭和五十年五月三十日改版九版発行 角川文庫
 古典の授業で初めて『蜻蛉日記』に取り組んだ。そのために、書棚から引っ張り出してきた。すでにカバーはない。埃にまみれていた。紙も焼け、活字も薄くなりがちで。けれど、新鮮な感動を呼び覚ましてくれもした。
 とりわけ、『蜻蛉日記』の後半を題材にした「ほととぎす」がすばらしかった。よい日本語を読んだ。

―ながらくとだえていたこの日記を再びなんということもなしにこのごろ附けはじめていたのは、前のように自分で自分をなんとかしなければならないといった、切迫した気持なんぞからではなかった。ただ、あれほど自分のことだけでぎりぎりいっぱいになっていた私が、こうしてあのかたに棄てられた女の子を養うような余裕のある心もちにまでなりだしたのが自分にも不思議なくらいで、それで筆をとりだしたのだが、やっぱり、この日記を私に書かせたものは、あのかたへの、また、自分自身への一種の意地であったかもしれぬ。しかし、そういう気もちもだんだんなくなりかかっている現在、その日記がこうして終わるともなく終わろうとしているのも当然であるのだろう。この日記にいつかまた別のはずんだ心で向かえるような日の来るまで、しばらくそれをしまっておくため、私はいま、この物憂い筆をとっていると言えようか。 「ほととぎす」P66・67

―「・・・このごろ私自身にさえ見向きもされなくなってしまった私の物思いが、毎夜のように自分のうちから抜けだして、時鳥となり、あちらこちらを啼き渡っているのだろう」などと考え考え、そんな負けず嫌いな気もちを歌によんだりしてわずかに悶をやっていた。 同P67

―自分でもはっきりとはわからないもののために自分の心がせつないほどゆらいでいるのを、私もまたせつなくそれをゆらぐがままにさせていた。・・・・・・/しばらくしてから、私は観念したように閉じていた目をやっと見ひらき、できるだけ心を落ち着けるようにして、自分の前にこの日記を置いた。 同P68

―私はその目のうらに、自分自身のこうしている姿を、ついいましがた頭の君にぬすみ見せられていたでもあろうような影として、なんということもなく蘇らせていた。それは半ば老いて醜く、半ばまだどこやらに若いときの美しさを残していた。(中略)そういう自分の影がいつまでも自分のうちに消えずにいるためばかりではなかった。(中略)自分自身を裏切った、自分のしゃがれた声がまだそこいらにそのままそっくりと漂っているような感じのしだしてきたためだった。 同P78

―撫子をお求めになられる同じ文中の御ことばが、なぜかしら、いよいよ空疎なものに見えてくるのに気がつかないわけにはいかなかった。おそらくそれにはただ私だけが気がついているのだということも自分にはわかっていた。それがいっそう私を身じろぎもできないような苦しい心もちにさせていた。 同P94

―二人はなんとも言わずにいた。しかし、そのながい沈黙は、私にとっては、何かいちめんに張りつめていた薄氷(うすらい)がひとりでに干(ひ)われるような、うすら寒い、なんともいえずせつない気もちのするものだった。 同P96

―「おまえが自分のことにかまわずに、己のことばかりかまおうとしているのが己には窮屈でならないのだ。・・・・・・」(中略)/男がその女の家に姿を見せなくなったのは、それから何日もたたないうちだった。 「曠野」P118

―「あのかたさえおしあわせになっていてくだされば、わたくしはこのまま朽ちてもいい」/そう思うことのできた女は、かならずしも、ふしあわせではなかった。  同P120

―すべては失われてしまったのだ。男はそこにいた。そこにいたことはたしかだ。それを女にたしかめでもするように、男の歩み去った山吹の茂みの上には、まだ蜘の網(い)が破れたままいくすじか垂れさがって夕月に光って見えた。女はそのまま荒(あば)らな板敷のうえにいつまでも泣き伏していた。・・・・・・ 同P123

―女はそれには何にも返事をしないで、むなしい目を上げて、ときおり風に乱れている花薄(すすき)の上にちぎれちぎれに漂っている雲のたたずまいを何か気にするように眺めやっていたが、急に「そうだ、わたくしはもうあのかたには逢われないのだ」とそんなあらぬ思いを誘われて、突然そこにうつ伏してしまった。 同P125

―いままでのふしあわせな来しかたが自分にさえ忘れ去られてしまっているような、――そうして、そこには、自分が横切ってきた境涯だけが、野分のあとの、うら枯れた、見どころのない、曠野のようにしらじらと残っているばかりであった。 同P127

―しかし女は苦しそうに男に抱かれたまま、一度だけ目を大きく見ひらいて男の顔をいぶかしそうに見つめたぎり、だんだん死顔に変わりだしていた。・・・・・・ 同P131

―煩悩おおき女の日記  (注:「かげろふの日記」について)  「更級日記」P145
―不幸になればなるほどますます心のたけ高くなる、「かげろふの日記」を書いたような女  同P147

―「更級日記」を書いたいかにも女のなかの女らしい、しかしけっして世間並みにしあわせではなかったその淋しそうな作者すらもなんとなくしあわせに見え、本当にかわいそうなのはやっぱり「かげろふ」の作者であるような気がした。そうしてそのとき私が一つの試練でもあるかのように自分をその前に立ち続けさせていたのは、そのどこまでもあきらめきれずにいるような、一番かわいそうな女であったのだ。  同P147





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2017年05月08日

楽塾「もももすももももものうち」

2017.05.06(土)13:00〜14:40 座・高円寺2
作/佃典彦
演出・出演・ナビゲーター/流山児祥
出演/楽塾メンバー大勢

 いま、授業で思想家・丸山真男の「『である』ことと『する』こと」(原典は岩波新書の『日本の思想』の最終章。教科書掲載部分はその抜粋)を読んでいる。近代社会は、出自が重要な「身分」的な「である」社会である前近代の封建社会に比べて、ある目的を「する」ために集まった集団・組織がメインの社会で、アメリカなどの西欧に比べると日本の近代は、「する」組織に「である」人間関係が根を張った社会だと説く。しかし、政治や経済に対して、学問や芸術などの文化的創造では、効用・能率を重視した「する」価値より、古典などの、蓄積された「である」価値の方が重要だと述べる。つまり、時間に追われて、日々はぁはぁしながら何かをしつづける「する」生活より、自分のいる位置を大切に見つめつづける「である」生活が、文化に特化した場合は、大切だと言っていると受け取れる。これはミヒャエル・エンデの時間泥棒のファンタジー「モモ」に通じる――このエネルギッシュで快活な舞台を観ながら、そんなことも考えていた。

 私は佃さんの、ちょっと変則的な目線からの劇が大好きだ。しかし、今回は「モモ」という偉大な原作に敬意を表したのか、案外素直に芝居の「時」は(誰にも邪魔されることなく)進んだ。ある意味、気持ちの良さすら感じた展開だった。
 流山児さんの演出が楽しいし、平均年齢うん十歳の役者たちもたくさん動いてたくさん放水していた。
 この舞台をエキサイティングにしていたのは、最近(の舞台で流行りの)プロジェクト・マッピングだった。ふんだんに転換毎に使われ、ラスト近くでは、――古くは赤点との状況劇場、最近では燐光群の芝居で、後ろの壁が割れて、異次元の空間が現出する演出が好きだったが――実際の壁ではなく、映像によって写された戸が大きく割れ、それによっていわゆる「異化」の噴水を客は浴びることができた。

 何年ぶりかでオーディションが行われ、新しいメンバーも何人か出ていて、新鮮な雰囲気を醸しだしていた。一方、私どもの知り合いであったSKさんがこの公演を最後に楽塾を退塾してフリーになると聞いた。アダルト(すぎる)劇団・楽塾も気になるが、SKさんの新たな展開にも期待したい。

 

 


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2017年05月07日

曹操について―藤堂明保の著書より

 3年の古典で、「『三国志』の世界」という単元で、十八史略の「乱世の姦雄」を読むことになった。曹操の若い頃の話である。そこで、私が若い頃に読んだ藤堂明保の『中国の歴史と故事』(旺文社文庫)『中国名言集・下』(朝日文庫)を引っ張り出してきて、曹操について記述した部分を抜き出してみた。ただし、一部簡略したり改変した部分がある。

一八四年、中国各地で一揆が起こり、黄巾の乱と呼ばれた。ここで河南省の曹操が登場した。呉の王・孫権、蜀の王・劉備も、黄巾と豪族の乱戦の中から出てきた。華北一帯を握っていた豪族・袁紹に対して、華中(魏)の曹操は、後漢王朝の幼い献帝をかかえて当時の都・洛陽の南東にある許に臨時の都をたてた。二〇〇年、曹操は袁紹と黄河下流で一戦を交えた(官渡の戦い)。鄴はこの頃から曹操の事実上の都となった。倭国(日本の王朝)の使者が訪れたのはここであろう。藤堂明保『中国の歴史と故事』P166
曹操は魏の武帝ともいい、詩人でもあった。曹操は苦労人だった。彼には天下統一を成し遂げるほどの器量がなかった。漢の高祖ほどの、無学から来る大胆さがなかった。なまじ詩などがうまいようでは、あたら苦労が多いものだ。スケールの大きさが限られて、細かいことで人を処罰したり叱ったりする。起源二一九年の春、曹操は、長安と漢中地区を平定して洛陽に戻ったが、疲れが重なって六十六歳の一生を終えた。P168
崩壊に近づいた後漢王朝の天下は、文字通り四分五裂の状態となった。そのうち東方の雄は兗州の牧(長官)となった曹操である。彼は漢初の将軍曹参の子孫で、沛国の出であった。遠く西北には、荒くれ者の董卓が兵力の強さを誇っていたが、都に攻めのぼり、ついに何太后と霊帝を殺して献帝を擁立した。また、四世にわたって王朝の高官の位を占めた袁氏の一族、袁紹は保守官僚たちの重鎮としてなおも洛陽に控えていた。いっぽう江南の豊かな土地を占有したのは、呉王孫策およびその弟の孫権である。これらの間にはさまれて、いまの湖北省には、劉表が荊州の牧として洞が峠をきめこんでいた。P170
各地の豪族で「われこそは」と気負い立った者どもがしだいに姿を消し、北の曹操、江南の孫権、そして長江中流の劉備が鼎立する「天下三分」の時代、いわゆる三国時代の幕開けとなった。劉備は戦略的な目を備えてはいたものの、曹操に比べると人物が小さく、当座の駆け引きには長じていても、天下を牛耳るだけの政略がない。P173
劉備が孔明の説に感心した翌年、曹操は南征の軍をおこした。曹操は㐮陽を襲ったが、すでに劉備は脱出したと知って、軽騎五千だけを引きつれて、「一日一夜、三百里」という急行軍を続けた。P177
二〇八年秋、赤壁の戦いに破れて曹操は北方に退いた。二二一年、劉備は帝位につき「昭烈帝」と称することとなり、孫権も「呉王」と名のった。それに先立ち、曹操は二一六年にすでに「魏王」と称して、事実上、華北・華中に君臨していた。P179
三国時代の豪傑のうち、魏の曹操は華中の譙(今の安徽省毫県あたり)の人で、ここから河南・安徽・山東へと勢力を広げていった。また、呉の孫権は呉郡の富春の人、今の杭州・金華・蘇州あたりに父祖いらいの地盤をつちかってきた一族の出であるから、江南を支配したのは自然の成り行きであった。ところが劉備は北方人である。彼は河北の中山国(漢の景帝の子・劉勝の封ぜられた地。)の劉氏の出だというが、落ちぶれて涿郡(北京の西南七十キロ。)で、ムシロやゾウリを織って売っていた。P184
関羽は、劉備に従って華中の徐州・下邳を守っていたが、曹操に攻められて投降する。しかし曹操も関羽を客分としてもてなした。このとき劉備は北に逃げて袁紹に身を寄せた。P185
劉・孫の連合軍は紀元二〇八年、三十万と号した史上最大の曹操の軍団に焼き討ちをかけた。これが「赤壁の戦い」である。P187
曹操 紀元二二〇年没、六十六歳。あと、曹丕が魏の文帝となる。
劉備 紀元二二三年没、六十三歳。あと、劉禅が後王と呼ばれる。
孫権 紀元二五二年没、七十一歳。あと、孫亮が継ぎ、廃帝と呼ばれる。
「人生五十年」といわれた当時において、この三人はなかなか長命のほうである。きっと激しい戦いの中を生きぬくには、それなりの粘り強い体質を備えていたのであろう。
曹操は、「魏公」「丞相」などという人臣最高の位を名のりながらも、なお後漢の献帝をシンボルとして推したて、自ら帝位になろうとはしなかった。P201
後漢のすえ、中国の混乱はすさまじいものであった。この大帝国においては、中央の権力がくずれてくると、全国があっという間に争いのルツボと化する。そのさい、まともにあらしの波をかぶるのは、五千万の農民たちであって、餓えになく者、戦火に倒れるものが山野にあふれる惨状となる。藤堂明保『中国名言集下』P168
長安をめぐって西方から来た荒れ武者と、洛陽から出むいた将軍たちの間に乱戦が続き、「人民飢困し、二年の間にあいくらいて食ほぼ尽きぬ」という惨状となった。献帝は一時避難していたが、こんどは「天子を擁する者が勝ちだ」というので、武将たちが皇帝の身柄の奪いあいをはじめた。献帝一行はいったん洛陽に戻った。曹操はそれをみて、献帝を擁して洛陽の南二百キロにある許県(今の許昌)に根拠地を定めた。P173
許は河南平野のまん中にある田舎町で、洛陽から馬車で三日も南に下れば行けたところである。
袁紹は河北・山西両省の北部の四州を支配すると、「皇帝」になろうという野心をおこし、いよいよ献帝と曹操がいる許の攻略にかかろうと考えた。P175
二〇二年五月、戦い疲れた袁紹は鄴の城にたどりついたが、間もなく病に倒れてしまった。曹操は、むしろ「後に発して人を制す」というやり方で強敵を破ったのであった。白馬での戦いを早めに切りあげて官渡まで退き、袁紹を黄河の南に引き入れたのがその一。官渡では正面決戦を避けて、敵の後方にある兵粮を焼き払ったのがその二・・・・・・こういう「柔」の作戦が図にあたって、「剛」の相手をきりくずしえたのであった。一年の間をおいて、曹操は袁氏兄弟(袁紹の子)の内紛がひろがるのを利用し、まず二〇三年に黎陽を奪い、翌二〇四年の冬、鄴の城外に長さ二〇キロにわたる水溝をほり、漳水の水を引いて鄴を水中に孤立させた。四カ月にわたる水攻めの後、鄴はついに陥落し、袁尚も曹操に敗れて北方に逃走した。
時に曹操もすでに五十歳、城壁に登って、老いと望郷の詩を詠んで思わず目をうるませたという。P179
曹操は、旧黄河の支流を利用して運河をひらき、糧食を輸送できる手だてを講じたのち、紀元二〇七年の晩春、易県(今の河北省雄県)に本陣を進め、軽装の兵だけを連れて無終(今の北京東郊薊=ケイ県)に出てきた。P181
曹操は北征の帰りに、今の山海関を越えて中国にもどった。P182
芝居では、劉備が眉目うるわしい将軍、関羽が満面に朱をそそぐ元気ものであるのに対して、曹操は蒼白の大きい顔、険しい目つきをしている。まさに悪玉の代表なのであるが、歴史に登場する曹操は苦労に身をすりへらした実践家であった。P183
この年曹操はもう五十三歳、その翌年、南にあった劉備ははじめて諸葛孔明に会い、「天下三分」の計を授けられる。それにしても、曹操が苦労した割には報われず、戦乱の天下を安定に導くことができなかったのはなぜだろう。思うにそれは、彼が当初から「黄巾」一揆を敵として頭角をあらわした軍閥で、大衆を味方とする心に欠けていたからであろう。P184
曹操は北方の烏桓(烏丸)を平らげると、紀元二〇八年、いったん鄴に戻って休息した。P185
建安十三年の夏(紀元二〇八年)、曹操は大軍をひきいてまず宛城(今の河南省南陽)に出た。P186
曹操の大軍は、江陵を占領してひと息つくと、船団を仕立てて長江を下り、今の湖北嘉魚県、長江南岸の赤壁の岸にもやいしたとき、遡上してくる周・劉の連合軍と向かいあった。曹操の先頭船団は水戦が苦手である。緒戦に敗れると、赤壁の対岸、烏林に退いて本隊と合流した。P189
曹軍は長江北岸にはいあがり、大部分は陸路に草をしいて歩き、わずかに残った水軍とともに江陵におちのびた。このとき、曹操五十四歳、周瑜三十四歳、魯粛三十七歳、そして諸葛亮はまだ二十七歳、であった。年老いた苦労人曹操がその力量の限界を思い知らされた敗戦であった。P190
曹軍はしばらく江陵に留まったものの志気衰え、ついに江陵をすてて北に帰った。劉備の軍はその後を追い、襄陽近くにかくまわれていた甘夫人と息子の劉禅とを救い出すことができた。P191



tomtom_poem at 01:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック 歴史 

2017年05月05日

TOMISANPO第3〜橋本から高田橋を通って海老名・泉橋へ〜

2017.05.04(木)
 前日、駅で京王線沿線の観光パンフレットをもらったら、相模川の高田橋が出ていた。GW中、川に巨大な鯉のぼりの群れが架かるのだ。また、家族から海老名の酒蔵の酒の所望があり、愛川からその酒蔵の最寄りのバス停に行こうと(はたまた無謀かつ無計画なことを)考えた。
  桜上水−京王多摩センター−橋本
 京王のパンフレットには、高田橋は橋本からバスと記してあった。しかし、橋本駅のバス検索システムで検索すると、高田橋の最寄りの水郷田名に行くバスは夜21時45分までないとくる。仕方がないので、手前の田名バスターミナル行きに乗った(ここですでに私の”バス心”が波打っていたのである)。
 田名に着くが、愛川方面に行く半原行きのバスは出たばかり。他のバスの運転手が寄ってきて、次のバス停まで歩いた方がよいと進言してくれた。ターミナル前の道は大渋滞中で殆ど動いていない。その波の中に、いま出たばかりの半原行きのバスが顔を向けていた。
 次の田名坂上を通り過ぎ、長い坂を下りていっても車は渋滞していて、ついに高田橋入口まで歩いた。そこでもバスが来る気配は全くないので、相模川に架かった橋を渡り、人の波と鯉のぼりの波と川の流れを写した。
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 川を渡りきった。田名BTから30分は歩いた。バスはまだ来ない。しかし、渋滞は高田橋入口で終わっていて、愛川方面はすいている。
 小沢(こさわ)の渡しの案内板があった。
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 少しのぼると、小沢のバス停があり、何人かの子供や少年が待っていた。
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 ここから坂の傾斜が高いので、このバス停で待つことにした。時刻表を見ると、田名から4分で通過することになっている。もう、その時刻から40分も経っていた。遂に来たバスには運転手以外に誰も乗っていなかった。二つ先の箕輪辻で降りた。さて、ここから愛川バスセンターまでどのくらいあるのだろうと少々恐怖を感じつつ交差点を左折すると、すぐにそのBSがあった。そして、海老名行きのバスが2台、口を開けていた。
  愛川バスセンター−今泉(海老名駅の二つ手前)
 40分ほどかかった。そこから泉橋酒造まで、3分歩いたら着いた。しか〜し、休日は休業日であった!
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 仕方ない。海老名駅まで歩くしかない。今泉陸橋の交差点を見あげると、空が何だかおもしろかった。
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 20分ほど歩いた。駅西口の手前に”いずみ橋”の料亭があり、そこで酒も売っていた!! 買った。

 



tomtom_poem at 01:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック 散歩 

TOMISANPO第2〜玉川上水第二公園〜

2017.05.04(木)
 11時過ぎ、近くのスーパーで食パンとチャーハンの素を買う。
 帰途、少し回り道をして、暗渠化した玉川上水の上に作った”玉川上水第二公園”を歩いた。案の定、いろんな花々が咲いていた。
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 思いのほか、鳩たちが集結していた。
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 帰ってから、昼は素を使ってチャーハンを作り、母と食す。夕食は宅配弁当が来るので、私の足は外へ行く。


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2017年05月04日

映画「まるでいつもの夜みたいに〜高田渡 東京ラストライブ〜」

2017.05.03(水)渋谷・アップリンク 14時30分〜15時54分
監督・撮影・編集/代島治彦
出演/高田渡、中川イサト、中川五郎
語り/田川律 
ピアニカ/ロケット・マツ
製作・配給/スコルプ工房
2017年 日本 74分

 2005年3月27日日曜日、高円寺の沖縄料理屋(?)で高田渡はライブを行った。映像には客も映っていたが、30人もいなかったようだ。うち前列左の青年はマイクを直したりしていたから、主催者側だろうか(この人が、知友のふくおかかつひこさんに似ていた)。客は女性の方が少し多いようだった。
 
 高田渡が活躍し始めた60年代は私は小学生で、そのころは曲を聴いたことがなかった。
 意識したのは数年前、山之口貘の詩を歌ったアルバムでであった。18曲中、10曲を高田が歌っていた。
 映画のチラシのコピーに、「フォークシンガー高田渡の『人生の柄』を抱きしめる音楽ドキュメンタリー」とあり、映画館のロビーに置かれた本にも「高田渡の生活の柄」という言葉が目に着いた。「生活の柄」は山之口の詩である。ライブでも、いつもは最後に「生活の柄」を歌うのだがと高田自身が言っていた。しかし、ラストライブでは歌わず、別の歌で締めた。

 北海道ツアー中の2005年4月4日に倒れた高田はその12日後、56歳で亡くなったそうだ。つまり、この映画のライブが生前最後になった――。

 映像の高田は白髪まじりの髭もじゃで、皺の彫りが深かった。私のいまより若かったんだ。

 中川イサトや中川五郎のコメントにより、当時のアメリカフォークのさまざまな曲調を日本語に敷衍したことが分かった。音楽知識のない私には啓示のようだった。

 たんたんとした、日本語に馴染んだメロディはここちよかった。その日本語がまた、人々(高田の)現実の生活を具体的に描いていて、心に響く。しかし、詩はすべて自作でなく、著名な詩人の詩も多かった。
 金子光晴、谷川俊太郎、黒田三郎、菅原克己、ラングストン・ヒューズ、マリー・ローランサン。
 とくに、金子の「69(シックス・ナイン)」、菅原の「ブラザー軒」、ローランサンの「鎮静剤」がよかった。



tomtom_poem at 02:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック 映画・演劇 | 音楽

TOMISANPO第1〜神泉から代々木八幡へ〜

2017.05.03(水)
 時間があれば色々散歩するので、”TOMISANPO”というカテゴリーを作ってみた。その第1回。
 前夜、桜上水のマンションに泊まって、母の食事の世話や薬を飲む世話をした。午前中訪問看護師が来て薬の管理やマッサージなどの世話をしてくれた。母の腹痛が長引くので、今日の昼食はメイバランスだけにしようと言って、私は家を出た。
 そこで駅周辺で店を探した。踏切を渡った”すきや”に入り、(私も少々お腹がゴロゴロ言っていたので)(軽い)牛丼セットを食した。
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 桜上水−明大前−神泉(人混みがあふれかえった渋谷に出るのが嫌だったので、手前の神泉で降りて、漫ろと歩いた)・・・松濤美術館(今様展をやっていて興を引かれたが、時間がないので通過したが、周辺の個性的な邸宅をいろいろみて、目の保養とした。円形のデザインの建物が多かった)・・・鍋島松濤公園
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 水車小屋のある池が風情があった。畔のベンチに外国人が佇んでいた。
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 坂を下ると、前方にNHKが見えた。手前の十字路を見ると、その右角が目指すミニシアター”アップリンク”であった。ここで「高田渡 東京ラストライブ まるでいつもの夜みたいに」を観るのである。
 〜映画については別の記事で触れる〜
 観終わって、私の足は渋谷とは反対方向に向かった。
 代々木公園の脇の道は渋滞していて、バスものろのろしていた。
 私は山手通りを横切った。ふと左前方を見あげると、かつて行った”HAKUJU HALL”の建物が見えた。私は直進し、右カーブする所で左の路地に入った。そしてさらに狭い小路に入った。
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 見当をつけた通り、私は小田急の代々木八幡駅に着くことが出来た。しかし、駅は大改築中であった。
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 下北沢で降り、”オオゼキ”で梅ヶ丘・美登利寿司の鮨を夕食に買った。”Ona Casuita”で苺を買った。
 

tomtom_poem at 01:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック 散歩 

2017年05月01日

散歩の会2017春〜岡本かの子碑・旧陸軍登戸研究所資料館〜

2017.04.30(日)
 二子新地に集合、多摩川土手近くの神社へ。岡本かの子の碑があった。
 その手前に、おもしろい名前の店があった。
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 碑。
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 岡本かの子の墓所。勇壮な大木がそそり立っていた。
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 大山街道を高津方向に歩くと、またおもしろい名前の店。
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 高津図書館のある公園内。岡本かの子の碑。
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 いろいろ難儀があって、結局溝の口駅から向ヶ丘遊園駅行きのバスに乗る。混んでいた。
 バスを乗り換え、明大正門へ。資料館のS女史が親切丁寧に案内をしてくれた。
 まず、正門付近の動物忠魂碑。戦時中の実験で犠牲になった動物たちの慰霊碑だ。
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 陸軍によって作られた弥心神社。
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 資料館は充実していた。保存して後世に伝えようという強い意志が感じ取れる施設だった。
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 風船爆弾の模型が迫ってきた。
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tomtom_poem at 10:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック 散歩 | 歴史

2017年04月17日

さくらエイプリルフール2017&笑いと涙のぽえとりー劇場

2017.04.01(土)小田急相模原・エルトピート〜TASKEさん主催のさくらエイプリルフール2017
2017.04.02(日)西荻窪・奇聞屋〜服部剛さん主催の笑いと涙のぽえとりー劇場

 詩が浸みた夢のような2日間だった。声をかけてくださったTASKEさん、服部さんをはじめ、その場で詩のときを共有したみなさんに感謝感謝なのです。
 自分で読んだ読んだ作品を書き留めておきます。

 エルトピート:「あらかじめ失われたふるさとへの道順」(山脈102号1998.7)「腹話術ができない」(山脈99号1996.11)
 奇聞屋:「とうとうとうさん」(狼30号2017.3)「子」(山脈100号1997.6)「父」(山脈93号1993.6)「腹話術ができない」

 集まった皆さんとの出会いはとても大切なものですが、なかでも、話をして、交流を深められた方とのひとときは何よりでした。
 エルトピート:てんとコラさん
 奇聞屋:村野美優さん
 ありがとうございました。


 腹話術ができない

――バ行・パ行・マ行は唇を合わせないと発音できないので、腹話術ではできないといいます

マダム むかっぱち まっぴるま
むすめ むしゃむしゃ パイ生地を
むすこ パセリを もてあそぶ
美顔 埋没 マギー・ブイヨンに
まんまんとむらむら

ままごと場所を
いっぱいおっぴろげ
びーだまビーズ
マー坊にビーバー
めちゃめちゃ
ばらまきっぱなし

水あそびはむこうみず
水浴び
水鉄砲
水浸し
びしょびしょ
水攻めの猛爆だ

まんまんマダムを見たまんま
見た目もピエロのマー坊と
もぐもぐパクパクするばかり
パイナップルの発泡酒
みるみるみあってマダムと妄想
びゅっととび出たまつぼっくりがもの申す

 皆のもの
 身どもはまつのみはぜるのみ
 みなもとへ
 未明から
 童夢をまぶすべし

「山脈」第九十九号 1996.11.20より一部改変




tomtom_poem at 01:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック 詩歌 

2017年04月16日

正岡子規展〜神奈川近代文学館

2017.03.31(金)
 午前中は職場に行って、ちょっとした仕事を片付けた。電車を乗り継いで西横浜の会場に行ったら、会議の出席者がバッティングしていた。そこで、その会議の出席権はその人に譲って、少し雨が降っていたが、私は「正岡子規展」に行くことにした。
 まず坂を下りて、藤棚商店街を端まで歩き、インドレストラン”ラスミ”で本日のカレーセット(豆カレー、ミニサラダ、ナン)790円を食す。
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 食後、根岸線方面に歩き、バス停に着いた。元町経由のバスに乗ったのだが、私の思惑とは違って、港の見える丘公園の麓ではなく、元町の石川町口で下ろされた。しかたがないので、そこから徒歩で登って近代文学館まで行ったのだ。
港の見える丘公園手前の廃屋













港の見える丘公園3













港の見える丘公園2













港の見える丘公園1














 「子規展」はとても良かった。とくに、晩年の直筆画が何点か展示されていて、興味深かった。角川ソフィア文庫の『仰臥漫録』にその画がカラーで載っていて欲しいと思ったが、アマゾンでは何故かKindle版しか売っていない。

 

tomtom_poem at 01:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック 文学・評論 

2017年04月15日

上溝南のケヤキ林〜2017卯月

2017.04.15(土)
 2週連続で教材研究・作成のために午後から出勤。きょうは総合学習の打合せ。
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2017年04月08日

田辺聖子『蜻蛉日記をご一緒に』

1991.9.15第1刷発行 講談社文庫
 3年の古典精読で、最初に扱う教材が『蜻蛉日記』。書棚に眠っていたのを取り出して読んでみた。
 いろんなことを教えられた。授業の参考にしたい。

「蜻蛉日記はなぜ書かれたか」より
―日本三美人の一人――一人は光明皇后で、一人は麗景殿の女御で、一人は『蜻蛉日記』の作者であると昔から言われております。  〈美しき歌人のプライド〉P16
―『源氏物語』というのは大変さびしい小説なんですね。あんなに人生の栄華をきわめた源氏が行きつく先は、最愛の紫の上に死に別れたり、自分が大切にしていた女三の宮に背かれたり・・・・・・母親に早く死なれ、小さいころからかわいがってくれたおばあさんにも死なれ、やがては、自分を庇護してくれた父にも死に別れるというように、いわば死別生別の小説ですね。 同上 P18
―蜻蛉はずっと家の中に引っ込んでいた女ですから、自分の裡のせまい女の発想でしか物が考えられない。男性的発想というものがどんなものかというのがよくわからないわけで、だから、何でも自分の思うようにしようと、自分が正しい、とのみ主張し勝ちな女だったのではないかなと思ったりします。 〈世間知らずの蜻蛉〉P36
―『蜻蛉日記』は初めから終りまでそのこと(注:男と女の溝)ばっかり書いてるのです。(中略)はじめからしまいまで男と女のかかわりだけが書かれていて、全くこれは女の世界。 女の本質を映す鏡〉P38

「蜻蛉日記の王朝」より
―蜻蛉が『蜻蛉日記』を書いてから五十年余りして清少納言の『枕草子』ができて、さらにそのころから推察すればぼつぼつと『源氏物語』が書きつづけられていたという、女の文学の伝統はそんなふうに流れているんですね。 〈兼家、道長――藤原家の栄華〉P79
―道長の自筆の日記=『御堂関白記(みどうかんぱくき)』 〈女の日記、男の日記〉
―藤原実資の日記『小右記』 〈硬骨漢・実資の日記から〉P80
―私たちが平安時代のことをまず知ろうと思いますと、男が書いた日記と、『蜻蛉日記』みたいに女の生活を書いた日記と両方、読まないといけないんですが、その当時筆がたつのは、一部の特権階級とか文化程度の高いハイクラスの人々ばっかりですから、それだけではまた片手落ちになるわけです。(中略)上流階級と下層社会のことを知らないといけない。それで、こういう王朝文学のほかに『今昔物語』みたいなものを読みますと、庶民の生活感覚がわかり、かなり立体的に王朝のことが把握されるわけでございますね。 〈庶民生活を知る文献〉P83
―一条天皇の中宮定子のサロンは、(中略)定子自身が非常に明るくて、活発で、にぎやかなことをお好みになった。だから、そういう女房たちがあつまって、そのサロンは殿上人の若い青年たちの人気の的になったんです。一方の彰子中宮という方は、じっくりした、地味な方で、あんまり才気を表にお出しにならない。聡明な方なんですけれども、それを外にひけらかすということをなさらない。だから、彰子中宮のサロンは非常に着実で、あんまりまあ、言えばおもしろいことはないと思われるかもしれないと、これは紫式部が『紫式部日記』の中で書いております。 〈上流の女房たち――サロンをささえる〉P84

「結婚といさかい」より
―『蜻蛉日記』というのは、『源氏物語』よりも大変とりつきにくくて、それに手から手へ写しているうちに散佚した部分もあって前後の脈略がつかなかったり、省略のせいか意味の汲みとれないところがあります。それから、主語がないんですね、困るのは。だれそれが、どうした、という主語・述語があると、近代的文法に慣れた私たちにもはっきり関係がわかるんですけれども、主語は『源氏物語』よりももう一つ省いてあって、結局、作者が自分の精神状態のままに恣意的におしゃべりしてるという感じ。だから、その文章のリズムに身を任せて、かなり長く読み慣れてきますと、主語の在り場所がおぼろげにわかるんですけれども、勉強しようと思って読んだり、とにかく急いで頭へ入れようと思って読んだりすると絶対にわからないという、非常に手のこんだ文章なんです。 〈非常に難解な原文〉P89・90
―この時代の物語小説というのは、どんなふうなものがもてはやされていたのか正確にはわかりませんけれども、もちろん『源氏物語』はずっと後にできたことですし、『竹取物語』とか『宇津保物語』とか、つまり中国から入ってきた神仙譚といいますか、神と人の結婚とか、いろんなけだものが姿を変えて人間と結婚したり、神の霊力で芸術的才能を発揮するとか、奈良時代からの言い伝えを漢文で書いた小説とか、いわゆる伝奇小説でしょうか、非現実的なロマン、夢のような恋愛物語、歌物語、そんなものが世間にはやっていて、きっと作者もそういうふうなものを読んだのだろうと思われます。 〈序―なぜ私は書くのか〉P91
―新婚当時は兼家が大変やさしくしてくれまして、そのうちに蜻蛉は妊娠しました。父がいないところで(まあ母はいますけれども)、物心両面にわたって頼りになる人がいないのに出産するというのは、若い彼女にとってもうどんなに心細かったかしれない。でも出産までの間じゅう、兼家はたいそう親切に面倒を見てくれた。さすがに、いかに気の強い、被害者意識の濃厚な蜻蛉にもそれはわかったとみえまして、ちゃんとその辺のところは書きとどめています。「そのほどの心ばへはしも、ねんごろなるやうなりけり。」 〈蜻蛉の懐妊と兼家のやさしさ〉P103
―『蜻蛉日記』の文章はむつかしいと言いましたけれど、王朝文学の特質として直接表現を避けているということがあります。妊娠・出産ということを直接に指していわない「なほもあらぬことありて、春夏悩み暮らして、八月つごもりに、とかう物しつ」こういう文章で表します。「なほもあらぬことありて」というのは、普通じゃない状態がございまして、ということですね。で、「春夏悩み暮らして」と言いますから、春から夏とずっとぐあいが悪くて、「八月つごもりに」旧暦ですからいまの九月ごろでございます。「とかう物しつ」というのは、まあ何とかお産がすみましたという、暗示的な抽象的な表現になります。(中略)注釈書がないと、私たちはとてもこんな原文は読めない。 〈道綱が生まれる〉P106
―子供が生まれ、夫はやさしくしてくれる、蜻蛉にとっては、いままで知らなかった女の幸せを強く感じたろうと思われます。 同上 P107
―蜻蛉というのは、兼家に自分の方に来てもらいたいのにやまやまなんですけれども、それが素直に言えなくて、そして、来たら素直に喜べばいいんですけれども、ついすねてしまう。 〈裁縫のうまい蜻蛉〉P116

「兼家、病む」より
―蜻蛉という人はね、思い詰めると、いまの言葉でいうとヒステリーだったらしくてね、夫婦で言い合いをしておりますと、かっとなって目の前にある物も見えなくなったという描写があります。 〈母の死に取り乱す蜻蛉〉P134
―この時代の、お寺へ上げるお布施なんて大変なものですね。(中略)金持ちは黄金百両とか、何百匹という絹をお寺にお布施したりする。 〈兼家のやさしさと頼もしさ〉P137
 
「初瀬詣」より
―自分には子供が少ないということでもコンプレックスを持たざるを得ない。時姫のところにはたくさんの子供がいるから、人の出入りも多くって、兼家もしげしげ訪れるからこんなには荒れてはいまい、などと思う。それに、頼りにしている父はずっと地方官で、地方ばっかり回っていてろくに京都にいてくれないし、それやこれやで家はいよいよ荒れていく。たまに来る夫が、家の荒れように関心がないらしくて、平気で出入りする。わたしが心細く思うだろうとは、考えたこともないのかしら。それはきっとわたしへの愛情が少ないからだと、またしてもそこへ来るんですね。 〈荒れた庭〉p180
―女の方にはやっぱり甘えがあるわけですね。わたしがこんなに言っても、これはわたしの愛情から言わせるんだから、そこのところはわかってもらえるだろう、という甘えがあるわけです。 〈心の行き違いとむなしさ〉P181
―髪をすくとき使うための米のとぎ汁  同上 P181
―この時代の物詣というのは女の唯一のストレス解消のチャンスですから、大変楽しみにして出かけるんですけれども、蜻蛉の目から見ると、何もかも物思いの種になってしまいます。 〈物詣の旅日記〉P183

「西山ごもり」より
―この子供(注:道綱)は非常にマザーコンプレックスのある、主体性がまだできていないような感じですね。母親に対して批判できない。みんな母親の言う通りにしてしまう。 〈道綱のマザーコンプレックス〉P215

「心の鬼」より
―この年は兼家は大変いいことがあって、春の司召で彼は大納言に昇った。司召というのは、官吏の任用の会議ですけれども、春にあるのは京官といって中央官庁の役人の叙任で、秋の司召は地方官の任命です。司召の時分はもう、社会、上下こぞって大揺れに揺れて大騒動で、いまの大学入学試験と組閣工作と一緒になったようなものですから、一大事なんですね。(中略)自薦他薦入り乱れての猟官運動、あれこれの思惑が飛び交って、贈賄もはなばなしく行われますし、大騒動でした。 〈兼家の昇進にも冷ややかな蜻蛉〉P254
―蜻蛉は大納言夫人になったというわけで、知合いの人たちが〈おめでとうございます〉と言ってくる。でも蜻蛉にしてみると、何かばかにされてるみたいだわと、本文にはそう書いてあるんです。平生あんまり兼家が来てくれないのに、わたしのところに昇進のお祝いを言ってもらったってどうしようもないでしょうという気があって、被害者意識といいますか、絶えずそういうふうに屈折して物を見る。もっとも、これは、二十世紀の私たちが考えることでもありましてね。やっぱりこの『蜻蛉日記』が一千年の間女性たちに支持されてきたというのは、そういうふうな物の考え方が、共感をもたれたからでしょう。 同上 P254
―夫の方からは〈昇進おめでとうとどうして言ってくれない。これでは昇進のし甲斐もない〉という手紙がくる。次いで、〈どうしてるんだ。こちらは忙しいんだ。なんで手紙一本くれない、薄情じゃないか〉といってくる。これに蜻蛉は(いうことがないから逆恨みしてるわ)なんて思う(笑)。 同上 P255
―兼家がたまたま、手紙も寄越さないでやってくるということがありました。突然来たものですから、蜻蛉にしてみたら、考えることがちょっと素直でなくなります。来ると言わないのに突然来たのは、きっと近くの愛人のもとへ行くつもりであったのに、その女が月の障りか何かで追い返されたに違いない(笑)。「心の鬼は、もしここ近きところに障りありて、帰されてにやあらむと思ふに、人は(兼家のこと)さりげなけれど、(わたしは)うちとけずこそ思ひ明かしけれ」//(中略)この、もやもやした「心の鬼」が、文学の発光体の芯のような気がします。 〈“心の鬼”を見つめる〉 P255
―傷つくのを恐れる心で、蜻蛉は甘い考えを持つまいと、警戒しているのです。 〈春の朝〉 P257
―庭は、春にきれいに草が生えそろうようにというので、一応全部焼いてしまうんですけれどね。 同上P258
―この朝の描写は、『蜻蛉日記』の中でも非常に印象深いものでございます。 同上 P258
―まだこの時代は、道長は六歳ぐらいで、お姉さんの詮子も十一歳の少女です。/(中略)裳着というのは、女の元服ですね。(中略)はじめて月の障りを迎えると、めでたく一人前の女になったというので、お歯黒をつけて、髪を上げて、裳を着けるわけですね。それを裳着といいます。 〈裳着への心くばり〉 P272
―そんなこんなで蜻蛉にも生きる希望が出てきたのでしょうか、それからの『蜻蛉日記』は描写に何かこうやわらかみが加わったような気がします。 同上 P273
―蜻蛉は当代の名だたる歌詠みですから、〈お前、これじゃちょっとだめだわよ〉と言って(笑)添削をします。道綱がまた、〈これはどういう意味でいってるんでしょう〉といちいち、相手の手紙まで見せに来る(笑)。こういう点が教育ママのゆえんなんですけども、蜻蛉が何べんか代作しまして、向こうから返事が来る。(中略)がっかりしている息子を見ると、蜻蛉はまた必死になって腕によりをかけて(笑)歌を代作してやる。 〈道綱の恋と蜻蛉の応援〉 P278

「愛をもとめつづけた女」より
―兼家の異母弟の遠度(とおのり)という人が道綱の上司になって、大変かわいがってくれた。(中略)//この遠度という人は大変美男でございます。年は三十五、六になっておりますけれども、非常に若々しい。(中略)//遠度というのは非常に不思議な男でして、大変熱心に娘(注:蜻蛉の養女)に求婚するんですけれども、どうも何か求婚しているうちにだんだん蜻蛉の方に気が移っていって、遠度自身ももう最後には、娘に求婚してるのか蜻蛉に求愛してるのかわからなくなったんじゃないかしらんと思われます。(中略)蜻蛉はこのとき遠度より三つ四つ年上なんですけれど、当時のことですから、かなりの年上に感じられるということはありますが、ただ、この当時の人は年齢はあんまり気にしなくって、それより情緒を解するかどうかが大事なのと、その人の持っている芸術的世界がいかなるものかということに非常に興味を持つわけです。 〈遠度の蜻蛉に対するふしぎな態度〉他 P297、298、301





tomtom_poem at 12:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック 文学・評論 | 歴史

2017年04月04日

「ミュシャ展」〜国立新美術館

2017.04.03(火)
 桜上水−新宿−六本木・・・国立新美術館
 チェコの画家「ミュシャ(チェコ語ではムハ)」の展示を観た。
 第吃瑤痢屮好薀叙事詩」の連作には圧倒された。

 どういうわけか、撮影可能の展示エリアがあった。
 「スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」1926年制作(未完成)。
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美術館から乃木坂に向かう坂の歩道には、同時に企画展が開かれていた草間彌生のデザインを下半身に纏った木が立ち並んでいた。
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tomtom_poem at 00:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)mixiチェック アート