2014年01月

2014年01月24日

《葬儀前後・備忘録》

1/17(金)
  9:30弟より父危篤の連絡
 10:05退勤
 10:22社家発
 11:30浴風会病院病室着
 12:30K到着
 13:30機械接続
      心筋動0になる間隔がしだいに長くなっていく
      しばらく0のままなのが再び振れだす
      呼吸停止
心筋の針は動く
大前医師来室、ベッドの振動も機械は反応するという
 14:01心不全等のため死去と宣告
      遺族はロビーで待つ
      遺体は着替え、霊安室に移送
 16:30遺体を保元寺に搬送、母・Kと同乗
      弟夫婦は銀行等に行って電車で保元寺へ
 17:30保元寺到着
      弟夫婦も到着、崎陽軒シュウマイ弁当を皆で食す
 19:00誠実屋伊藤氏と葬儀の打合せ     
 20:30弟夫婦と母、私とK、2台のタクシーに。
      私とK:上野(アトレでパン購入)→東京→茅ヶ崎→香川(私)・寒川(K)
 23時前  帰宅
      試験問題印刷を試みるもプリンター不調


1/18(土)※K:出勤
 12:00起床
午後   職場への連絡表作成・FAX送信
      試験問題作成、きょうはプリンター正常動作


1/19(日)※K:出勤 
10:05外出
 10:19香川発→新橋→浅草
      松屋で生野菜+牛丼並(380円)
 12:20松屋発…徒歩…
 12:45保元寺着 既に弟夫婦は来ていた
 13:00住職・里見達人氏(90歳)とお話
 13:30安置されている座敷で弟と葬儀等の打合せ
      言問橋…徒歩…
 14時過ぎ スカイツリーSORAMISE
      ヴィドフランス・フードコートで打合せ
      星形メロンパンとコッペパン(あんこ+ジャム・マーガリン)購入
 15時過ぎ 押上→永田町(弟夫婦と別)・赤坂見附→新宿→喜多見
      サミットで食料購入
 17:30マンション到着
      娘・手製のカレーライス食す
 22:00就寝


1/20(月)
  6:40起床
  7:50マンション出発
      喜多見→下北沢→明大前→桜上水
  8:55Sマンション着
  9:05タクシーで浴風会病院へ
      受診(むくみの原因は栄養不足なり)
 10:00タクシーでSマンションへ
      電話しまくり
      いなげやへ行き、食料購入
 13:00Sマンションを出る
      桜上水→橋本→寒川
 15:30帰宅


1/21(火)
  午前  仕事・作品作り
  午後  香川〈相模線〉
茅ヶ崎〈東海道線〉
新橋〈銀座線〉
15:30浅草〈北めぐりん〉
15:40橋場老人福祉会館西
保元寺[ご住職里見達人氏に納骨(四十九日)の儀を2/23に依頼。
10時30 分から法要が入っているので11時30分からにする。]
 15:55橋場老人福祉会館西〈北めぐりん〉
 16:10三ノ輪駅
      三ノ輪〈日比谷線〉
      永田町・赤坂見附〈丸ノ内線〉
      新宿〈京王線快速〉
      桜上水
      京王ストア[サニーレタス、ヨーグルト、おかゆ2個、バナナ、しらす、パン]
18:00「さと」桜上水店[弟夫婦・母と食事]
   マンションへ
  泊[21:30就寝も寝つかれず。]


1/22(水)
  8:00起床
      朝食[パン]
 12:00昼食[おかゆ] 
 13:10マンション〈徒歩〉 
13:25下高井戸〈世田谷線〉
13:35豪徳寺〈小田急・各停〉
13:50狛江[上りホーム待合室でFと待合せ]
14:15〈小田急・区間準急〉
代々木上原〈千代田線〉
表参道〈銀座線〉
浅草
松屋1F和洋菓子売場[妻・Gと合流]
東武浅草駅前〈北めぐりん〉
橋場老人福祉会館西
保元寺
 18:00
〜18:50通夜
      食事
 20:50保元寺〈タクシー〉
      浅草スマイルホテル(母と泊)
      22:00には就寝。
      4時ごろから5時ごろまで母起きだしテレビをつける。起こされ、寝られず。


1/23(木)
 8:00すぎ起床[母5時ごろまで寝つかれず、朝方やっと寝られたという]
      朝食
10:00 ホテル〈タクシー(なかなか来ず)〉
10:05 保元寺[すでに他の家族は来ていた]
11:00
〜12:00葬儀
      保元寺〈バス〉
      町屋葬儀場[火葬]〈バス〉
      保元寺[初七日法要・精進落とし]
      東浅草〈都営バス〉
      東京駅八重洲口
      大丸1F[職場用の菓子を買う]・地下街
      東京〈東海道線〉
      茅ヶ崎〈神奈中バス〉
      大曲
      帰宅


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2014年01月15日

文芸アート誌「狼」22号

2013.12 狼編集室発行

 主人公が車に娘を乗せて走っている。「と 老舗の もと蕎麦屋だった土地に/新しくできた 囲い/看板に「ド・ッ・グ・ラ・ン」と書いてある」娘との会話から、死に瀕した愛犬のマルをそこに想像する。「四方に麻痺の四肢を投げ出し/床に腹を軸として もう動かないマルが/老いて最期の鼓動で/ドッグランのさなかを 走っている」(石川厚志「雨つぶ」より)――父が死に瀕して病床に横たわっているので、こういうフレーズに敏感に反応してしまいます。

 「ブラウスに袖をとおし ぬけたことに外はひさしぶりの雨がきのうから/とぎれとぎれに髪のようにからみついては降りつづいている//                わたしのよこで白い顔をうかべ妻も寝息をたてている//                    あのときというときをいくつもえらびかさね/                         たゆたう水槽のなかに沈んでゆく」「((できないほどによどむおもいをつよくからませてしまい」「夏の暮れが秋の夜のはじまりにとかれ」「うすやみの曲がり角」「眠る妻が/濃紺のさざ波に沈みかけては漂っていき」「ふたりどちらともなく傷跡の手をのばし/にぎりあう手の温かさと爪先の堅さに/溶けていく月が満ちた姿からブラウスをおとしていく」(光冨郁埜「ひとはひとにひとへのおもいを」)――この詩は、イメージ以上に音韻の美しさに引かれました。たとえば、「あのときというときをいくつもえらびかさね」は前半のO音の繰り返しによる開いていく感じと、後半のi音とe音の繰り返しによる収束していく感じ。「((・・・・・・よどむおもいをつよくからませて」の前半のO音の繰り返しの後の、後半のa音とe音の連続。


 以下、私の琴線に触れた表現を挙げてみます。

 「朽ちるのは 物体/朽ちないのは 配列」「テーブルの脚に近い軽さ」(麻生有里「満月の底」)

 「晩夏の蝉は/静かにじぃ…と経を詠む」「池の向こうの緑の木々も/雲の行方に身を傾げ」「私の膝の木漏れ日に」(服部剛「風の手紙」)

 「風が樹々との盟約を果たしに訪れる。」 (三浦志郎「約束の道」)


 「詩のリズムや美感が読者においてスムーズに共有されるとき、作品と読者は適度な距離を持ち、その適度な距離において成立する関係が所有なのである。」「作品は言語というコードを媒介にして、そのリズムやイメージを読者に対して近すぎも遠すぎもしないところでシンクロさせ、読者がその作品を所有するという関係を築いているのが通常である。」(広田修「海埜今日子詩集『セボネキコウ』について」より)――これは散文ですが、詩と読者との関係について、なるほどと思わせられた論説でした。

tomtom_poem at 02:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0) mixiチェック 詩歌 

2014年01月13日

ドキュメンタリー映画「オロ」〜Missing Ringセレクト ドキュメンタリー映画祭〜

2014.1.12(日)15:30〜17:18 千歳船橋APOCシアター
監督:岩佐寿弥 2012年日本

 観終わると、心があったかくなっていました。主人公の少年の表情から、希望を見いだしました。こんな希望がいつまでもつづくといいなぁと考えました。
 けれども、少年の置かれた現実を思うと考え込んでしまいます。
 少年「オロ」はインド北部のダラムサラで、チベット亡命政府が運営するチベット子ども村に寄宿し、学んでいます。彼に注目した77歳の老監督は、寄宿舎生活を描いた後、少年と彼を取りまく主として子どもたちの夏休みと冬休みを描いていきます。夏休み、オロは会ったこともなかった叔父さんとダラムサラの町に下りていき、生活します。仲の良い姉妹のお父さんは中国で撮った映画のために投獄されたままです。お母さんは路地で行商をして食べています。みんなは清流で洗濯をします。とても冷たそうですが、きれいな水です。洗剤を泡立てているので、日本で観ている私は川が汚れないかなと心配するのですが、この場面は印象に残っています。
 冬休み、5年ぶりに雪の積もった町から、今度は老監督と通訳のおじさんによってオロは連れ出されます。オロは6歳の時に中国領のチベットからヒマラヤを通って亡命してきたのですが、その逆を行ってネパールに行く旅です。目的地はポカラ。そこのチベット難民収容所を訪れます。ここには10年前に岩佐監督が撮ったおばあさんがいました。岩佐監督も再会です。当時子どもだった女の子たちは少女になっています。オロと彼らとの交流も描かれます。そして、オロは6か月かけて亡命した時の様子を語ります。望郷の思いは「木を植えた男」のようなタッチのアニメでも描かれます。ドキュメンタリーの中にアニメが挿入されたのは初めて見ました。おもしろかった、というか、無垢な少年の思いがアニメによってさらにわかりやすく伝わってきたと思います。
 オロは監督に無邪気に聞きます。「(たぶん中国で観たカンフー映画のような)闘う主人公になるんだと思った」とか、「(監督は)おじいさんなのに、しんどくないか」とか。
 
 蛇足ですが、チベットの人たちって日本人とそっくりでした。日本人のルーツを思いました。また、通訳のおじさんがクリームシチューの上田さんのお兄さんにそっくりでした。

 この映画でも曖昧だったチベットに関する知識が増えました。

1951年 中国軍、チベット全土を制圧、併合。以後、チベット人による抵抗運動はことごとく弾圧され、多数の市民・僧侶が大量虐殺された。
1959年 ダライ・ラマ14世がインドへ亡命、チベット亡命政府を樹立して、現在に至る。

 水城ゆうさんの主宰する現代朗読協会のイベントで知り合った中村(徳久)珠央さんが制作応援者に名を連ね(タイトルバックでもお名前が見えました)、強く押していた映画でしたが、観てよかったです。

 それと、この映画祭を主催した岩切章悟さんはお一人で制作から映写までされているそうです。頭がさがります。もっともっとがんばってほしいと思います。

 この映画祭では「スケッチ・オブ・ミャーク」という宮古島のおじい、おばあの唄のドキュメンタリー映画も上映しましたが、渋谷のアップリンクで昨秋に観たので、今回は観ずに帰りました。アフタートークが聞けなかったのは残念でした。

 
 



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2014年01月12日

ドキュメンタリー映画「カンタ!ティモール」〜Missing Ringセレクト ドキュメンタリー映画祭〜

2014.1.12(日)13:15〜15:05  千歳船橋APOCシアター
監督:広田奈津子  2012年東ティモール-日本

 子どもたちは青年のギターに合わせて歌う。のびやかで陽気な歌。その冒頭「ねぇ仲間たち ねぇ大人たち 僕らのあやまちを 大地は知っているよ」
 大学4年だった広田奈津子さんは、この歌の意味することを知りたくて、この青年を訪ねて再び東ティモールに渡ります。
 青年が歌い出すと子どもたちが集まり、輪になって歌います。広田さんは現地の人々の苦難を知っていきます。

 私も知らなかった東ティモールの近現代史。整理すると次のようになります。

16世紀 ポルトガルによって植民地化。
1859年 東ティモールがポルトガル、西ティモールがオランダによって分割統治。
第二次大戦時 オランダ軍とオーストラリア軍が保護占領、次いで日本が占領。
1949年 西ティモールはインドネシアの一部として独立、東ティモールはポルトガル領のまま。
1974年 ポルトガルでカーネーション革命。東ティモールでも独立の動きが加速した。
1975年 インドネシア軍が侵攻、翌年インドネシアは併合宣言をする。日・欧・米・豪は黙認。インドネシア・スハルト政権はゲリラの抵抗等に対して激しい弾圧を加え、1980年代までに20万人が殺されたという。
1991年 平和的なデモ隊にインドネシア軍が無差別発砲し、400人近くを殺したサンタクルス事件勃発。
1999年 国連監督下で独立に関する住民投票が行われ、90%以上の投票率で独立が決まった。住民たちは投票用紙を焼かれるのを防ぐために土に埋めたりして、投票した。また、投票に行くと殺されるかもしれなかったが、それでも行った。
 同年 独立を認めないインドネシア政府は、破壊と虐殺を行った。これまでの軍への武器の供与には日本も荷担しているという。また、兵士に虐殺を行わせるために覚醒剤も使用したという。インドネシアが東ティモール併合にこだわり、日米等がそれに荷担した理由は、ティモール海にある油田なんだそうです。
2002年 選挙の結果、大統領にシャナナ・グスマン、首相にマリ・アリカティリが選出され、5月20日に独立式典が行われた。
独立後 国連が国作り支援を行った。日本の自衛隊もPKOとして派遣された。

 歌う青年もゲリラに身を投じ、多くの友人を殺されたといいます。生き残ったひとりは、インドネシアの兵に撃たれ、突き落とされ、なおも何回も刺され、内蔵もとび出た状態で逃げのびたそうです。いまでも、再手術が必要だといいますが、信頼できる医師や施設もないということです。
 でも、彼らは陽気に歌います。広場で教会で。歌う彼らをカメラは追いますが、独立への戦いの大きな傷も追うことになります。
 「僕らのあやまちを 大地は知っているよ」―「大地は知っている」とはどういうことなのか。広田さんたちは青年に導かれて山の奥へと行きます。人々は、モーリックがいるから平気だと言います。「モーリック」とは、自然の中に宿っている精霊です。木や草には精霊がいる。彼らが助けてくれると。そして、そういう霊力を持つ人が傷口を撫でると消えたんだそうです。大地(自然)の守ってくれる――これは日本の先住民だったアイヌの人々の思想と同じですね。
 ついに山の奥にすんでいるシャーマンの男性に話を聞くことが出来ました。
 
 冒頭の歌は日本に紹介され、何人かのアーティストが歌っているそうです。とても口ずさみやすくて、いい歌です。けれども、そこには東ティモールの人々の苦難が込められていたのです。
 映画を見終わっての最初の感想は、知らなかったことのショックでした。そして、歌の力を改めて思いました。


 


 

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2014年01月06日

高井戸・浴風会から喜多見へ

 先週土曜に重篤になったと家族が呼ばれていくと、父は個室に入っていた。病院へ行ったあと、この日は危急な場合の対応がしやすい喜多見の部屋に泊まる。病室に泊り込んだ弟と交代するために早朝、井の頭線・富士見ヶ丘駅から浴風会病院へ行く。前の日より持ち直したようで、目を開けたり声を出すようになっている。医師の話ではここ数時間のうちにどうこうという状態ではないらしい。一安心だが、今晩は泊り込むことにする。

 一晩父のベッドの横で寝ていたが、朝起きても父の状態は変わらない。きのうよりは顔つきがさえないような気がするが、血圧・酸素の状態も平常値、体温だけが32〜34度と低い。鼻や口に管を通して痰を取ると楽になるらしい。これらの措置を夜勤の看護師は夜中1時間おきに来室して行っていった。
 精神科の主治医が病棟に来るのは午前遅い時間か、午後だというので、話は電話ですることにして、病棟を出た。浴風会は敷地が広く、病院の他に、本部、何棟かの特養施設、建築中の病院の建物、レストラン、コンビニなどもある。敷地内を歩いていると、出勤時刻なので、何人もの私服の男性や女性が歩いたり自転車を漕いだりしてくる。彼らが制服に着替えると、看護師だったり介護士だったりに変身するのだ。ふと、彼らがやってくる方向が、いつも高井戸や富士見が丘からくる方向とはちがう門だということに興味を引かれた。そこで、正門とは反対の門を出てみた。やはり何人かの人がこちらに向かって歩いてくる。医師の風情の人もいた。中央高速の下の側道を渡り、住宅地の道を進んでいく。左側が開け、生産緑地地帯があった。甲州街道にぶつかり、見たことのある風景にやって来た。娘のマンションの管理会社の入った臙脂色のマンションがあった。浴風会からここまで、特筆すべき所がなかったが、由緒ありげな寺があったので、足を踏み入れてみた。長泉寺という。観音堂の中の板絵が杉並区の文化財だと書いてある。
芦花公園駅・長泉寺・観音堂









芦花公園駅・長泉寺





























 寄り道をしたが、浴風会から京王線・芦花公園駅までは徒歩約20分。この駅から通勤してくる人も多いということなのだろう。

 駅前商店街の狭いバス通りを歩いていると、踏切のあちら側から、千歳烏山行きの小田急バスがやってきた。この路線は確か2時間間隔の運行ではないか。珍しいものを見たと思う次の瞬間、私の”路線バス魂”がむくむくと沸き上がってきたのだ。バス停の時刻表を見ると、あと18分で成城学園前行きがくる。これは乗りたい!

 そういえば、先日も蒲田から喜多見の娘の所に行くときに、路線バスツアーをおこなったのだった。つまり――

 日本工学院専門学校→蒲田駅→東急バス・田園調布駅行き乗車→田園調布駅→東急バス・千歳船橋行き乗車→千歳船橋→喜多見〈所要約2時間?!〉
 とくに蒲田―田園調布間が、細い道が多く、おもしろかった。

 京王線の踏切を渡り、数分行くと世田谷文学館がある。先日はここで寺山修司展と映画を観たのであった。バスが来るまであと十分程あるので、さらに歩いていき、千歳烏山との分かれ道になっている芦花恒春園バス停には粕谷村地蔵を祀った祠があり、恒春園等の立派な案内が設置されていた。
粕谷村地蔵









芦花恒春園・小田急バス停





























 成02千歳烏山駅―成城学園前駅西口、この路線も、細い道や坂を通ったり、おもしろい。駒沢大学のグランドや寮、上智大学の施設があったりした。
 終点の成城学園前駅まで行かず、二つ手前の成城4番で降りた。なぜかというと、このあたりから西に向かうと、野川があり、娘のマンションまで歩けるはずだと考えたからだ。そう、きょうもまた、娘のマンションに寄って、今度は荷物を取りに行くのだ。
 ところが、道がわからぬ。方向の見当だけつけて歩いている。だから、あっちにいったり、逆にいったり。途中、城のような立派な長い家があった。表札を見ると、”犬童一心”とある。成功した小説家の家だ! さらに行くと、世田谷区保存樹木の立て看がある。シラカシの木。白い可憐な花をつけていた。ガラケイの写真では繊細な部分は出てこない。
成城・シラカシの木





























 
 結局、30分ぐらいかかって成城の丘を下ることができた。ふもとに緑地公園があった。国分寺崖線の案内板があった。
成城4丁目緑地公園・国分寺崖線案内板










 野川が見えてきて、橋を渡ると、冬の野川も風情があった。南の方はやはり印象派の絵のように光に弾んでいたし、北の源流方向には白い鳥が遊んでいた。
野川





























 道を間違えて少し時間がかかってしまったが、喜多見のマンションに辿り着いたのは10時20分。浴風会を出てきたのが8時25分だったから、約2時間のぶらりだった。もちろん、その間、父についてどんな知らせが来るかわからぬので、コートのポケットの携帯は握ったままであった。

tomtom_poem at 17:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0) mixiチェック 旅・観光 

2014年01月04日

詩誌「飛揚」第58号「特集 からだ」

2014.1.7発行
 「 骨こそ極上の食事/肉に群がる肉たちを/見降ろしながら鳥は言う」「 もう見つけられはしまい/数多の骨は/常に極上のスープを/飲み干すものたちの腹の中だ」(青島洋子「骨落とし」冒頭と末尾)

 「石が立っている/立ったままならんでいる」「石/ここで/身代りを生きている」(北村真「立石岬」冒頭連と最終連)

 この詩誌で今回とくに注目したものはエッセイ2編です。
 葵生川玲「『からだ』と『こころ』のことなど」では、「四年前に、青梅に住んでいた従弟が孤独死(脳出血)をした自宅現場に立ち会い、近くに身内がいないためにその後の全ての処理をすることになった」とあり、ローン、税金、遺品の整理と処分、相続申請、株の売却等々をするのがとても大変だったとありました。人の死後の、残された人の処理はほんとに大変なのだと思いました。
 青島洋子「映画『X年後』を見て」には教えられることが多かったです。「ビキニの被爆者久保山愛吉さんの墓前祭」で「放射能を浴びた『X』年後」というドキュメンタリー映画を観たそうです。第五福竜丸事件があった1954年から1962年まで、アメリカは百回以上もの水爆実験を行い、年間延べ一千隻もの漁船や貨物船がその海域にいたといいます。高知県の高校で「地元被曝漁船の胃貘社への聞き取り調査」をおこなっていたが、愛媛県の南海放送が合流して、8年に及ぶ「忍耐強い緻密な調査」がつづけられたそうです。そして、「あるべきメディアの姿勢が貫かれ歴史から消されたアメリカ水爆実験の事実が明らかにされて」きました。その中で、アメリカが放射能測定地を122ヶ所もうけ、「放射能降下物の広がり」を記録しており、日本には嘉手納、三沢、東京、広島、長崎の5ヶ所に設置したということがわかります。アメリカの機密文書によれば、「(水爆実験で)日本全土が放射能で覆われていた」。聞き取り調査は難航します。なぜかというと、次のような被害者たちの意識です。「今さら何を」「もうそっとしておいて」「被曝手帖をもらうと明日からの操業ができない。私らはきょうあしたの漁が大切だから」。「広島、長崎で被爆し、さらにビキニで被爆した青年は、放射能の恐ろしさを知りつつ漁に出かける日々の中、自らの命を絶」ったといいます。
 この映画を観て教えられた筆者は、「福島の原発事故でも似たような事が起きている。国や東電への責任を問う訴訟に消極的な人が多いと聞く。(中略)私たちは知らないこと、知らされないことの多さに愕然とする。/権力者に操作される側の私たちは、知ろうとしなければ事実を手に入れられない。」として、すでに成立してしまった「秘密保護法案」への危惧を述べています。
 私は、まったく同感します。

tomtom_poem at 02:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0) mixiチェック 詩歌 

2014年01月03日

山崎るり子詩集『雲売りがきたよっ』

2012.10.31 思潮社発行

 全32編。空に浮かぶいろんな形の雲を売る「雲売り」がやってきて、来なくなって、「僕」が雲売りに任命されて「出発」するまでのお話になっています。
 空に浮かぶ雲は人々の想像力をかき立て、同時に常時に動きつづけて、それらはお話をすら描かせてくれます。そういう雲を売る人なんぞ、想像したことさえありませんでしたから、まずは作者のその想像力に射抜かれました。
 最初の4編「ああ いい雲だなあ」,次いで「ああ いい時間だなあ」「ああ いい雲だねえ」「ああ いい青だなあ」「さみしいなあ」「ああ いい雲だなあ」「ああ いいしぶきだなあ」,一つとんで「ああ いい雲だったなあ」,また一つとんで「ああ いい雲だねえ」,一つとんで「おーい いい雲だねえ」「雲売り 早くこないかなあ」「ああ いい雲だった、だね」「ああ と雲売りはいう/今日の空とおんなじだ」,一つとんで「雲売り 早くこないかなあ」が2回続き,「ああ なつかしい色だなあ」「ああ いい雲だなあ」「早くこないかなあ」「いい雲だろう?」,4つとんで,来なくなった雲売りの夢を見て「いい雲だなあ」――と、最後の1行がたまらなくほんわかとしていていい気持ちにさせてくれます。でも、そこには買った雲も、雲売りもなくなるという喪失感が重奏低音のように流れています。

 「空には姿を変えながら/移動していく雲時計/ほら時間が通る/ほら広がった/ほら輝いた/ほら惜し気もなく形を変えていく/時間は勇敢だ/ひるまず行く/ずんずん行く/高らかに行く/ほら惜し気もなく消えていく/雲売りがきたら/僕に似合った時間を買おう」(「待つ時間」より)――「ほら」のリフレイン、「ひるまず」「ずんずん」「高らかに」の「行く」に連なる対句、そして「ほら」のリフレインの後の「惜し気もなく」は「行く」の対の「消えていく」に連なっていく。この、リズミカルなさりげない技巧!

 「高いとお思いでしょうが/雲が消えたあとの空が深い」に対して「あんまりきつく見つめて/空に落ちなさるなよ」ということばのニクいほどの対!! (「四分で消えてしまう雲」より)

 「形が変わるというのは/すぎていくということなんだな/すぎていくものの下で/少しの間じっとしていよう/僕だけ/すぎていかないでいよう」(「雲売りがくる前のひとりごと」より)

 「湯気でメガネがくもるのも好きです/メガネがくもると雲の中にいるようです/雨の日は一日中 雲の中にいられるのです/そういって雲売りはうっとりする/ああ いい雲だったなあ」(「雨の日の雲売り」より)

 詩人で岐阜の高校教師(いまは特別支援学校)の伊藤芳博さんのHPを見ていたら、「2012年詩集ベスト3」で次のように激賞していたのがこの詩集でした。「とにかく、心が躍り震えた。2012年(いや近年)に読んだ詩集の中で間違いなくマイベストの1冊。」「詩を読む歓びって(私にとってみれば、詩を書く歓びも含めて)こういう気持ちなんだ、と改めて思わせられた。」「読んだ後、だれかを抱きしめたくなる、自分を抱きしめたくなるような詩集。」
 それで、自分も読みたくなり、昨年末に注文して読んだのです。
 伊藤さんのHPのアドレスを貼りつけておきます。

 http://www.geocities.jp/iyo59/newpage92.html


 「まだ僕のものじゃない雲に」「出発」どちらかを、卒業するクラスの生徒のためにHR通信に紹介したいなあ。どちらがいいかなあ。



 

tomtom_poem at 01:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0) mixiチェック 詩歌