横浜遊郭のまとめ

安政06年05月(1859年06月)横浜初の遊郭として、駒形町仮宅(駒形屋)営業開始。
安政06年10月(1859年11月)港崎町遊郭へ移転。
安政06年11月(1859年12月)らしゃめん許可権を岩亀楼が管理する事により1両2分の歩合金を微収する権利を岩亀楼が得る。
万延01年03月(1860年04月)初の港崎細見発行される。
文久02年11月23日(1863年01月12日)岩亀楼らしゃめん喜遊自害
文久03年03月16日(1863年05月03日)生麦事件を発端とする日英戦争に緊迫する横浜では神奈川奉行が、庶民並びに楼主へ横浜(関内)より避難する様に指示。港崎町遊郭営業中止する。
幕府の徹底抗戦の構えにイギリス以外の締盟各国は、打開策を提案するもイギリスは04月02日に再度要求する。
文久03年04月04日(1863年05月21日)幕府は、開港を拒絶する事に決定し一般に布達したが、緊張が膨らむ中04月21日諸外国に説得され幕府はイギリスへの賠償金支払いを決める。
文久03年04月22日(1863年06月08日)約一ヶ月に渡る関内閉鎖が解かれ港崎町遊郭営業を再開する。
慶応02年11月(1866年12月)港崎町遊郭焼失の為、太田町仮宅へ移転
慶応03年06月(1867年07月)吉原町遊郭へ移転
吉原町遊郭門前である姿見町にて揚弓屋が流行る。
明治04年12月(1871年12月)吉原町遊郭焼失の為、長者町9丁目仮宅へ移転
明治05年11月(1872年11月)高島町遊郭へ移転
明治10年12月(1877年12月)高島町の微毒病院が戸部山へ移転
明治14年04月(1881年04月)高島町遊郭使用期限超過の為、長者町3丁目仮宅へ移転
明治14年05月(1881年05月)高島町遊郭取り壊し作業始まる
明治15年05月(1882年05月)永真町遊郭(永楽町遊郭・真金町遊郭)へ移転開始
明治21年06月30日(1888年06月30日)高島町遊郭移転完了申請を神奈川県へ提出
大正10年永楽町遊郭側で軒を連ねた屋台が発祥の私設市場が神奈川県より真金町公設市場に認定された。(後の横浜橋通り商店街)

昭和33年03月(1958年03月)売春防止法施行により全国の遊郭閉鎖。

横浜には、私娼街として相鉄線和田駅北側の「楽天地」や南浅間町の「新天地」そして「曙町」と「黄金町」「本牧(北方・十二天)」「大丸谷」があり、「楽天地」と「新天地」はカフェーを主体とした特殊飲食店街(赤線地域ではあるが遊郭では無い)であり、戦後、米兵相手に開設されたRAA慰安所として再起したが、昭和33年03月(1958年03月)の売春防止法施行により閉鎖された。

又、「黄金町」は京急黄金町−日の出町間のガード下を中心に小規模飲食店(青線地帯であり遊郭ではない)街が形成されあらゆる悪(賭博、ひろぽん、人身売買)が凝縮された闇の町(ある一部の団体にとって一等地であった。)として名をはせた。売春防止法施行後も、ちょんの間(表向きスナック)として長らく悪行を続け終焉と成る2000年代はアジア系及びロシア系や南米系の女性が刺激的な下着姿で客引きする姿が見られた。

しかし2009年の”横浜開港150周年”を目前とした2005年に当時の横浜市長(中田市長)と伊勢佐木警察肝いりの市内浄化作戦(バイバイ作戦)が展開され黄金町の小規模飲食店街は、伊勢佐木警察と初黄町会により閉鎖に追い込まれた。

最後に、あらゆる法規制を掻い潜って来た「曙町」は、カフェー街から発祥し、その営業形態を時代と共に変化させ現在でも親不孝通りを中心にヘルス等の風俗店が軒を並べているが、その店舗数も激減し細々と営業している感は拭えないが、元横浜遊郭の受け皿(引退した娼婦が店を構えた土地)として機能していた事は語るまでも無い。

「本牧(北方・十二天)」「大丸谷」は、明治期に出現したちゃぶ屋と呼ばれ、その業態は異国人相手の飯盛旅籠と言えよう。その後ちゃぶ屋は進化を続けカフェーの前身と言える。

開港場横浜を舞台に、未知なる異国より日本防衛と言う重責を任された”なでしこ”
彼女達の歴史を追って来ましたが、近辺には保土ヶ谷宿や神奈川宿にも夫々遊郭がありました。
保土ヶ谷宿や神奈川宿の遊郭は、元飯盛旅籠であり宿場内に点在していた為に当初遊郭では無かった。

しかし、保土ヶ谷宿内の飯盛旅籠を岩間上町新開地へ移転(天王町駅より旧東海道を戸塚方面に向かうと大門通り交差点が遊郭の大門であり敷地は川側一帯と成る)し保土ヶ谷遊郭と成る。その後、瀬戸ヶ谷に移転。
一方、神奈川宿の飯盛旅籠は明治初期に高島町遊郭を経て、神奈川町(神奈川台場までの埋立地)へ移転し神奈川遊郭と成る。その後、明治33年5月に反町(現反町公園:スケートリンクの有る公園)へ移転した。(飯盛旅籠時代は私娼、遊郭時代は公娼)※明治33年5月以降を青木町遊郭と呼ぶ場合がある。

両遊郭は、宿場の飯盛旅籠を起源に持ち横浜遊郭の様な政策的意味合いは勿論持ち合わせて居ませんでした。

今回、伝えたかったのは昭和と言う時代まで日本人は”性”を使った政策が実在した事実を認識して欲しいと考えた為です。
横浜遊郭と言う特殊な存在を忘却されない様、多少乱文では有りますが書き残したいと思います。

※今回、横浜遊郭の歴史を追う事を主体にした為、現在の写真を極力使用していません。
(公共性が高いと考えられる写真に限り掲載し、元カフェー及び元遊郭等と想像される個人宅に付いては個人を尊重し掲載していません。)この点に付いてご了承下さい。