横浜中華街を歩いていて、ひとつ気に成る事柄がある。
それは、時折店先になびく台湾の国旗?(台湾は、国として認められていない為に、正確には国旗ではない。)が目に付く。
其れも中華街のシンボル的存在である関帝廊を中心に多く見受けられる様だ。
日本人(私だけかも知れないが…)がイメージする中華街とは、単純に現中国である中華人民共和国を連想すると思う。しかし、おなじみの赤地に黄星が描かれた旗を探す事が難しい。
果たして、この不可思議な現象は何なのか?興味が有るので早速調べてみた。
そもそも、中華街に台湾系の方々が店舗を開く事に不思議は無いのだが、四川や広東と中国本土の料理を掲げる台湾人とは…インドカレー店をオープンさせたナンチャってインド人みたいな軽い感じなのか?
そこで、横浜中華街の歴史を調べると実に複雑な歴史が有り、現台湾系の方々とは多少異なる事実が判る。
先ず、現横浜中華街の中心である加賀町(旧山下町50番地以降)の歴史を紐解く。
横浜開港当初の加賀町(旧山下町50番地以降)界隈は、幕府が準備した外国人居留地の外れにあたり野原であった。
1861年(文久1年)居留を始めた各国は、自国民保護の名目で軍隊を加賀町(旧山下町50番地以降)一帯の野原に上陸させ野営を始め、山手の駐屯地が整備されると加賀町(旧山下町50番地以降)は演習地として使われた。
その後、1862年(文久2年)に横浜市街地(居留地)は手狭と成り。加賀町(旧山下町50番地以降)の演習場は市街地造成の為に本牧(北方)へ移転する。
元演習場である加賀町(旧山下町50番地以降)は、下級外国船員の宿舎が立てられ下級船員と彼らを相手に商売する白人娼婦(ロシア人)が集まる町へと変わった。
さて、此処までは中華街との関連が無い訳だが当時の清国人は白人の通訳や給仕として来日しており彼等は、山下や山手の西洋人宅で住み込みとして働いて居た。
要するに、白人が雇い主となり連れて来たと言う訳だ。
又、現地人(日本人)を雇用する事も有ったが、日本人の管理は清国人に任されていた。
(清国人にこき使われて居たのだが、当時の日本人の風潮ではエリート中のエリートと認識されていた。)
明治に時代が変わり単身日本を訪れる清国人や西洋人より自立する者が現れ、彼らは買弁と呼ばれる仕事を得ていく。
買弁とは、西洋人相手のバイヤーであり日本人と西洋人のパイプ役として生計を立てた。
この様に自立した清国人は、居住地内で最も位の低い加賀町(旧山下町50番地以降)に移り住む様に成る訳だが、当初日本(幕府)と清国に於ける正式な国交(修好・通商条約)が無い為に、日本は清国人の定住を正式には認めて居なかったとある。
しかし、西洋人が連れて来た清国人や単身渡日して来た清国人は居た訳であり。彼らは日本に滞在する為に西洋人に雇われる必要が有った訳だ。
その後、徐々に緩和され西洋人の保証人を立てれば独立が可能に成る。しかし、日本人のコミュニケーション能力も次第に向上し、更にヘボン博士が生み出したローマ字により意思の疎通が出来る様に成った為に、清国人の買弁を必要としなく成る。
横浜に於いて、初めて商いを始めた清国人は“邵結萍”と言われ山下居留地52番にて両替商(源秦号)を開業したとある。
彼は、1862年に上海(浙江省湖州出身)より単身横浜を訪れ、西洋人商店にて働きながら自立の機会を伺い幕末に両替商を始めた。その後、彼に続けとばかりに多くの清国人が商売をはじめる事に成る。
当初、出稼ぎ的な意味合いで横浜入りを果たすが、定住目的で来日する様になる訳だが、彼らを後押しする様に明治4年7月29日に日清修好条規が結ばれ金儲けの出来る新天地横浜へ中国本土より家族や親戚を呼び寄せ山下居留地(現加賀町)に於ける清国人人口が急激に増えて行った訳だ。
この様な彼らは、現加賀町に於いて両替、クリーニング、散髪、ピアノの調律を初めとした居留地に滞在する外人相手に商いを行い定住して行く事に成る。
当初の中華街は、南京町と呼ばれ職人の町であり現在の様な中華街(飲食店街)は明治初期の時点では構成されておらず中流以下の西洋人(下級船員宿やロシア人娼婦街が有った)と清国人商店(中華料理屋は1〜2軒)が混在する街であった。
さて、横浜に入った清国人は、自由貿易港である上海より渡ってきた西洋人に着いて来たのが切欠であり。
彼ら清国人の殆どが浙江省湖州を故郷と人々が上海で雇われ日本に来たと言う。
民族別に分けると郷幇(きょうばん)又は、広東幇(かんとんばん)と呼ばれ潮州、福建及び客家(はっか)、三江(さんこう)と成る様だ。
横浜中華街の基礎を形成したと言える彼らは、同郷の者を支援するシステムを立ち上げ後に華僑と呼ばれる組織と成った。
要するに、同郷とは潮州、福建、客家、三江の出である人々であり横浜中華街の核と言える。
しかし、彼らの祖国は、アヘン戦争、日清戦争と連敗を続け国内の不満より滅満興漢運動(満州人支配に対する漢民族の反発)が盛んに成る。
1911年に起きた辛亥革命(清朝打倒と共和制政体の確立)により清(満州人)は滅び漢民族主体の国民党が実権を握る。
此処で、初めて国家として中華民国が建国され清国人から中国人(中華民国)となる訳だが、中華民国国軍は共産主義者や元清朝(満州人)間にて内戦が続く中も依然、他国に拠る実効支配は継続されていた。
又、日本が支援した元清朝(満州人)は昭和7年満州国建国を宣言。
第二次世界大戦(日中戦争)終戦の影で、アメリカより支援されていた国民党(中華民国)とソビエトが支援した中国共産党(後の中華人民共和国)との争いが激化。
しかし、アメリカは国民党の支援を打ち切り、後退する中華民国国軍は人民解放軍に敗北した。
敗北した国民党の彼らは、台湾へ逃げる結果と成ってしまった。
その後、中華民国国軍を一掃した人民開放軍は中華人民共和国(中国本土)建国を宣言され北側の一員として日本との国交は閉ざされた。
一方、日中戦争中お互いに敵であった中華民国と日本は、戦後に於いて関係を深めていく。
之は、終戦後国家として認められて居た中華民国は戦勝国として日本と終戦調停を結び国交正常化へ向かっていた。
しかし、中華民国政府が中国本土を取り戻す事は不可能と国連が判断し中華人民共和国を支持した。
※同一領土に異なる国を宣言する事が出来ないと言う原則の下に、中華人民共和国が現実効支配国と認められた。
この事より、中華人民共和国建国以前に移住した中国人全てが中華民国を祖国としている訳である。之は横浜中華街でも当然の様に例外では無い。
ここで、中華民国の旗が台湾の旗と言う訳では無く亡命先がたまたま台湾であって、台湾に正式な国旗は存在しない。
そもそも、台湾は戦後日本より独立を果たす筈が、亡命者である中華民国に牛耳られてしまった訳である。
※台湾人は、台湾共和国の独立を願っている。一方で中華民国は、本土との統一を願っている。(台湾統一は中華人民共和国側の考えであり。中華民国側の主眼は、本土復帰だろうと考えられる。)
その後、横浜華僑総会は国交を復活させた?中華人民共和国の中国人を多く受け入れて来たが、その祖国の違い(政治思想の違い)より横浜華僑総会(中華人民共和国)と中華民國留日横濱華僑總會(中華民国)に分断する事に成った訳である。
因みに、戦後の中華街一帯はバーやクラブが多く立ち並び夜の繁華街であった事を忘れてはいけない。
最後に、秋の中華街で行われる祭典としてマスコミに取上げられる国慶節(こっけいせつ)。
之は日本の建国記念日に当たる祭典であり一般に国慶節として認知されている。
しかし、中華街の建国記念日は年に二回ある事をご存知だろうか?当然、新旧華僑が関係している事は言うまでも無く。
10月1日の国慶節は横浜華僑総会主催(中華人民共和国)であり、10月10日の雙十節(双十節)は中華民國留日横濱華僑總會主催(中華民国)と成る。
以前(日中国交正常化以前)は、10月10日の雙十節(双十節)が横浜中華街の秋の祭事であったが、近年国慶節が注目されている。
其れでは、何故に国慶節が広くマスコミに取上げられ注目されるのか?其れは、中国(中華人民共和国)との国交回復時に台湾(中華民国)との国交を断絶したからであり。雙十節は、政治的配慮から各マスコミのタブーと成っている。しかし、横浜中華街に於いて雙十節が本来の建国記念日でありこのマスコミの対応に何か納得出来ない訳である。
要するに、国慶節と雙十節の両方を祝う者は居ない訳であり両日共に両者の温度差があからさまに判る日と成る。
※10月10日の雙十節で、普段通りの営業をする店は横浜華僑総会(中華人民共和国)であり新華僑と呼ばれる方々だ。
因みに、中華街のランドマークである関帝廟は老華僑と言える中華民國留日横濱華僑總會(中華民国)が主体と成って維持している。又、新たなランドマークと成った媽祖廟は横浜華僑総会が主導と成り建立し日本人には判らない権力争いがある様だ。
現在の中華街に於ける新・老華僑の比率は2対1と言われ老華僑の弱体化が伺える。
国慶節より雙十節を祝う為に、今年は月曜日ですが横浜中華街へお越し下さい。国慶節では見られなかった竜の舞や中国芸能演目等も中華学院校庭(関帝廟横)で行われます。勿論、獅子舞やパレードも行われます。特に反中の方は是非お越し下さい。
因みに、関帝廟脇に入った所で中華民国グッツの販売あり旗やTシャツ等をお土産に如何かな?がんばれ国民党!
2011年10月10日追記
本日、雙十節へ行ってまいりました。
中華街の色々なミス4人がパレードに参加。中でもミス雙十節は美人でした。(アップの写真も当然有るのですが・・・気に成る人は、ネットで探して下さい。)
左から一人目ミス雙十節、ミス日華親善、ミス中華学院校友会、ミス中なんちゃら・・・
中華民国の国旗を掲げる店の激変に多少驚きながらも中華学院の校庭へ、私が訪れたのはお昼すぎ入るなり青天白日の手旗を渡され、壇上では式典の挨拶。
戦後、日華平和条約にて中華民国は戦後保障を断った経緯に触れ。中華人民共和国が日本との国交回復の折にODAと言う巨額の戦後保障を求めた事に付いて「中華人民共和国は、恥じるべき」と述べた。
しかし、日本人として大変複雑な気持ちで国民党の彼らに混じり「万歳」と青天白日の手旗を振る私が居た。
国慶節では、登場しなかった日の丸が登場し青天白日と共に行進した。
日本支持の彼ら国民党(中華民国、現台湾)に、大きな転機が訪れる事を願う。
それは、時折店先になびく台湾の国旗?(台湾は、国として認められていない為に、正確には国旗ではない。)が目に付く。
其れも中華街のシンボル的存在である関帝廊を中心に多く見受けられる様だ。
日本人(私だけかも知れないが…)がイメージする中華街とは、単純に現中国である中華人民共和国を連想すると思う。しかし、おなじみの赤地に黄星が描かれた旗を探す事が難しい。
果たして、この不可思議な現象は何なのか?興味が有るので早速調べてみた。
そもそも、中華街に台湾系の方々が店舗を開く事に不思議は無いのだが、四川や広東と中国本土の料理を掲げる台湾人とは…インドカレー店をオープンさせたナンチャってインド人みたいな軽い感じなのか?
そこで、横浜中華街の歴史を調べると実に複雑な歴史が有り、現台湾系の方々とは多少異なる事実が判る。
先ず、現横浜中華街の中心である加賀町(旧山下町50番地以降)の歴史を紐解く。
横浜開港当初の加賀町(旧山下町50番地以降)界隈は、幕府が準備した外国人居留地の外れにあたり野原であった。
1861年(文久1年)居留を始めた各国は、自国民保護の名目で軍隊を加賀町(旧山下町50番地以降)一帯の野原に上陸させ野営を始め、山手の駐屯地が整備されると加賀町(旧山下町50番地以降)は演習地として使われた。
その後、1862年(文久2年)に横浜市街地(居留地)は手狭と成り。加賀町(旧山下町50番地以降)の演習場は市街地造成の為に本牧(北方)へ移転する。
元演習場である加賀町(旧山下町50番地以降)は、下級外国船員の宿舎が立てられ下級船員と彼らを相手に商売する白人娼婦(ロシア人)が集まる町へと変わった。
さて、此処までは中華街との関連が無い訳だが当時の清国人は白人の通訳や給仕として来日しており彼等は、山下や山手の西洋人宅で住み込みとして働いて居た。
要するに、白人が雇い主となり連れて来たと言う訳だ。
又、現地人(日本人)を雇用する事も有ったが、日本人の管理は清国人に任されていた。
(清国人にこき使われて居たのだが、当時の日本人の風潮ではエリート中のエリートと認識されていた。)
明治に時代が変わり単身日本を訪れる清国人や西洋人より自立する者が現れ、彼らは買弁と呼ばれる仕事を得ていく。
買弁とは、西洋人相手のバイヤーであり日本人と西洋人のパイプ役として生計を立てた。
この様に自立した清国人は、居住地内で最も位の低い加賀町(旧山下町50番地以降)に移り住む様に成る訳だが、当初日本(幕府)と清国に於ける正式な国交(修好・通商条約)が無い為に、日本は清国人の定住を正式には認めて居なかったとある。
しかし、西洋人が連れて来た清国人や単身渡日して来た清国人は居た訳であり。彼らは日本に滞在する為に西洋人に雇われる必要が有った訳だ。
その後、徐々に緩和され西洋人の保証人を立てれば独立が可能に成る。しかし、日本人のコミュニケーション能力も次第に向上し、更にヘボン博士が生み出したローマ字により意思の疎通が出来る様に成った為に、清国人の買弁を必要としなく成る。
横浜に於いて、初めて商いを始めた清国人は“邵結萍”と言われ山下居留地52番にて両替商(源秦号)を開業したとある。
彼は、1862年に上海(浙江省湖州出身)より単身横浜を訪れ、西洋人商店にて働きながら自立の機会を伺い幕末に両替商を始めた。その後、彼に続けとばかりに多くの清国人が商売をはじめる事に成る。
当初、出稼ぎ的な意味合いで横浜入りを果たすが、定住目的で来日する様になる訳だが、彼らを後押しする様に明治4年7月29日に日清修好条規が結ばれ金儲けの出来る新天地横浜へ中国本土より家族や親戚を呼び寄せ山下居留地(現加賀町)に於ける清国人人口が急激に増えて行った訳だ。
この様な彼らは、現加賀町に於いて両替、クリーニング、散髪、ピアノの調律を初めとした居留地に滞在する外人相手に商いを行い定住して行く事に成る。
当初の中華街は、南京町と呼ばれ職人の町であり現在の様な中華街(飲食店街)は明治初期の時点では構成されておらず中流以下の西洋人(下級船員宿やロシア人娼婦街が有った)と清国人商店(中華料理屋は1〜2軒)が混在する街であった。
さて、横浜に入った清国人は、自由貿易港である上海より渡ってきた西洋人に着いて来たのが切欠であり。
彼ら清国人の殆どが浙江省湖州を故郷と人々が上海で雇われ日本に来たと言う。
民族別に分けると郷幇(きょうばん)又は、広東幇(かんとんばん)と呼ばれ潮州、福建及び客家(はっか)、三江(さんこう)と成る様だ。
横浜中華街の基礎を形成したと言える彼らは、同郷の者を支援するシステムを立ち上げ後に華僑と呼ばれる組織と成った。
要するに、同郷とは潮州、福建、客家、三江の出である人々であり横浜中華街の核と言える。
しかし、彼らの祖国は、アヘン戦争、日清戦争と連敗を続け国内の不満より滅満興漢運動(満州人支配に対する漢民族の反発)が盛んに成る。
1911年に起きた辛亥革命(清朝打倒と共和制政体の確立)により清(満州人)は滅び漢民族主体の国民党が実権を握る。
此処で、初めて国家として中華民国が建国され清国人から中国人(中華民国)となる訳だが、中華民国国軍は共産主義者や元清朝(満州人)間にて内戦が続く中も依然、他国に拠る実効支配は継続されていた。
又、日本が支援した元清朝(満州人)は昭和7年満州国建国を宣言。
第二次世界大戦(日中戦争)終戦の影で、アメリカより支援されていた国民党(中華民国)とソビエトが支援した中国共産党(後の中華人民共和国)との争いが激化。
しかし、アメリカは国民党の支援を打ち切り、後退する中華民国国軍は人民解放軍に敗北した。
敗北した国民党の彼らは、台湾へ逃げる結果と成ってしまった。
その後、中華民国国軍を一掃した人民開放軍は中華人民共和国(中国本土)建国を宣言され北側の一員として日本との国交は閉ざされた。
一方、日中戦争中お互いに敵であった中華民国と日本は、戦後に於いて関係を深めていく。
之は、終戦後国家として認められて居た中華民国は戦勝国として日本と終戦調停を結び国交正常化へ向かっていた。
しかし、中華民国政府が中国本土を取り戻す事は不可能と国連が判断し中華人民共和国を支持した。
※同一領土に異なる国を宣言する事が出来ないと言う原則の下に、中華人民共和国が現実効支配国と認められた。
この事より、中華人民共和国建国以前に移住した中国人全てが中華民国を祖国としている訳である。之は横浜中華街でも当然の様に例外では無い。
ここで、中華民国の旗が台湾の旗と言う訳では無く亡命先がたまたま台湾であって、台湾に正式な国旗は存在しない。
そもそも、台湾は戦後日本より独立を果たす筈が、亡命者である中華民国に牛耳られてしまった訳である。
※台湾人は、台湾共和国の独立を願っている。一方で中華民国は、本土との統一を願っている。(台湾統一は中華人民共和国側の考えであり。中華民国側の主眼は、本土復帰だろうと考えられる。)
その後、横浜華僑総会は国交を復活させた?中華人民共和国の中国人を多く受け入れて来たが、その祖国の違い(政治思想の違い)より横浜華僑総会(中華人民共和国)と中華民國留日横濱華僑總會(中華民国)に分断する事に成った訳である。
因みに、戦後の中華街一帯はバーやクラブが多く立ち並び夜の繁華街であった事を忘れてはいけない。
最後に、秋の中華街で行われる祭典としてマスコミに取上げられる国慶節(こっけいせつ)。
之は日本の建国記念日に当たる祭典であり一般に国慶節として認知されている。
しかし、中華街の建国記念日は年に二回ある事をご存知だろうか?当然、新旧華僑が関係している事は言うまでも無く。
10月1日の国慶節は横浜華僑総会主催(中華人民共和国)であり、10月10日の雙十節(双十節)は中華民國留日横濱華僑總會主催(中華民国)と成る。
以前(日中国交正常化以前)は、10月10日の雙十節(双十節)が横浜中華街の秋の祭事であったが、近年国慶節が注目されている。
其れでは、何故に国慶節が広くマスコミに取上げられ注目されるのか?其れは、中国(中華人民共和国)との国交回復時に台湾(中華民国)との国交を断絶したからであり。雙十節は、政治的配慮から各マスコミのタブーと成っている。しかし、横浜中華街に於いて雙十節が本来の建国記念日でありこのマスコミの対応に何か納得出来ない訳である。
要するに、国慶節と雙十節の両方を祝う者は居ない訳であり両日共に両者の温度差があからさまに判る日と成る。
※10月10日の雙十節で、普段通りの営業をする店は横浜華僑総会(中華人民共和国)であり新華僑と呼ばれる方々だ。
因みに、中華街のランドマークである関帝廟は老華僑と言える中華民國留日横濱華僑總會(中華民国)が主体と成って維持している。又、新たなランドマークと成った媽祖廟は横浜華僑総会が主導と成り建立し日本人には判らない権力争いがある様だ。
現在の中華街に於ける新・老華僑の比率は2対1と言われ老華僑の弱体化が伺える。
国慶節より雙十節を祝う為に、今年は月曜日ですが横浜中華街へお越し下さい。国慶節では見られなかった竜の舞や中国芸能演目等も中華学院校庭(関帝廟横)で行われます。勿論、獅子舞やパレードも行われます。特に反中の方は是非お越し下さい。
因みに、関帝廟脇に入った所で中華民国グッツの販売あり旗やTシャツ等をお土産に如何かな?がんばれ国民党!
2011年10月10日追記
本日、雙十節へ行ってまいりました。
中華街の色々なミス4人がパレードに参加。中でもミス雙十節は美人でした。(アップの写真も当然有るのですが・・・気に成る人は、ネットで探して下さい。)
左から一人目ミス雙十節、ミス日華親善、ミス中華学院校友会、ミス中なんちゃら・・・
中華民国の国旗を掲げる店の激変に多少驚きながらも中華学院の校庭へ、私が訪れたのはお昼すぎ入るなり青天白日の手旗を渡され、壇上では式典の挨拶。
戦後、日華平和条約にて中華民国は戦後保障を断った経緯に触れ。中華人民共和国が日本との国交回復の折にODAと言う巨額の戦後保障を求めた事に付いて「中華人民共和国は、恥じるべき」と述べた。
しかし、日本人として大変複雑な気持ちで国民党の彼らに混じり「万歳」と青天白日の手旗を振る私が居た。
国慶節では、登場しなかった日の丸が登場し青天白日と共に行進した。
日本支持の彼ら国民党(中華民国、現台湾)に、大きな転機が訪れる事を願う。