(ケイタ)
大人は判ってくれない
「どうして、子どもは大人の言うことをきかなくちゃいけないんだ?」
朝の支度や宿題というやらなければならないことを後回しにし、愚図愚図遊んでいて母親に叱られると、ケイタは必ずこの台詞を言いだす。
親達から「ああしろ、こうしろ」と言われて、それに従わなければならない時に、たまらなく口惜しくなって泣きながらこういうのだ。
サッカーの練習やスイミング教室など習い事をしているからというわけでもないが、小学生は平日でも時間に追われ、なかなか忙しいらしい。
でも、朝の支度にしても、いつまでのパジャマのままで愚図愚図しているケイタを見ていると、もう少しシャキッとしろよ、と言いたくなる感はいなめない。
2年生の国語で『音や様子を表す言葉』を習ったばかりだったので、ケイタに、「グズグズ、ダラダラ」ではなくて「テキパキ、サッサッ、キビキビ」にしろよ。と言って叱った。
母親に注意されると、「うるせー」などと言う暴言も吐くこともあるらしい。僕のいるところではまだそんな言葉を言わないところを見ると、相手を見て使っているようだ。
この話を母親から聞いて自分の子どもだった頃を思い出した。
確かに悪い言葉だけど、親に向かって「うるせー」と口答えしない子どもはたぶんいない。誰もが一度位はそんな言葉を発して親を怒らせたことがあるに違いない。僕にもおぼえがあるけれど、そんな昔のこと事は棚にあげて、もし僕に向かってそんな事を言おうものなら、ぜったいに許さん、という気持ちなるから不思議だ。
さらに、親からあれこれ指示されること自体が嫌だという気持ちもよくわかる。
「今やろうと思ったのに、言うんだもんなぁー」という気持ち。
親に言われたことで更にやる気をなくすことは良くあるし、親の言いなりにはならない、父ちゃんのロボットじゃないんだーと泣きながら駆けていく星飛雄馬をそっと見守る明子ねえちゃんの目に涙…
でも、そんな懐かしの子どもだった思いを押し殺して、あえて親の立場になったから思うのだけど、子どもに対しては口うるさいくらいの親で丁度いいんじゃないかという気がするのだ。
親の言いなりにならないという反発心は自己主張や独立心の発露なのだけど、だからといって、小学生のするがままに放任するべきじゃない。反抗する相手として、壁として子どもに臨むことも時には必要である。
変に物分りのいい親を装って子どもの自主性を説く評論を耳にするが、ある意味では反抗する相手になろうとしない無責任な親の免罪符に使われているような気がする。
子どもにとってはそんな親はどう映るのだろう。自分と本気で向き合おうとしない親は『お金は出したけど子育てにお前手を抜いたろ』といわれてもしょうがない
時には子どもと同じ土俵に上って子どもに面と向かって接することもとても重要である。要はこの手のバランスが大事なのだ。干渉しつつ放任する。自主性を認めつつ突き放さない。そしてそれは頭で考える理論ではなく日々の子どもと接していく過程でしか育まれてこない『知恵』なのだろう。
母親に叱られて二階に上がったケイタが泣きながら宿題をしていた。
「どうして…子どもは、大人の言うことをきかなくちゃ…いけないんだ?」
そんなケイタに僕は『自律』という字を教えた。
「自ら律する。ひとに言われたリ、規則で決まっているからするんじゃない。自分で自分を律することができて、はじめて大人なんだ。それが自ら立つということだし、それができるようになれば、誰もケイタにああしろ、こうしろと言わなくなるよ」
ケイタがこの意味を本当に理解できるようになるのはかなり先の話だろう。それまでは何回も叱られて反発して、その繰り返しが果てしなく続くのだろう。
でも、君も親になったら解かる。子どもの感覚では計り知れない速さで通り過ぎていくこの日常のなかで、何一つ変わらない大人と違い、子どもたちは昨日とは鮮やかに違っていく。それは傍から見ているだけで本当にかけがえのない素敵な日々なのだ。
大人は判ってくれない
(関係ないけど、 フランソワ・トリュフォーの映画)
大人は判ってくれない
「どうして、子どもは大人の言うことをきかなくちゃいけないんだ?」
朝の支度や宿題というやらなければならないことを後回しにし、愚図愚図遊んでいて母親に叱られると、ケイタは必ずこの台詞を言いだす。
親達から「ああしろ、こうしろ」と言われて、それに従わなければならない時に、たまらなく口惜しくなって泣きながらこういうのだ。
サッカーの練習やスイミング教室など習い事をしているからというわけでもないが、小学生は平日でも時間に追われ、なかなか忙しいらしい。
でも、朝の支度にしても、いつまでのパジャマのままで愚図愚図しているケイタを見ていると、もう少しシャキッとしろよ、と言いたくなる感はいなめない。
2年生の国語で『音や様子を表す言葉』を習ったばかりだったので、ケイタに、「グズグズ、ダラダラ」ではなくて「テキパキ、サッサッ、キビキビ」にしろよ。と言って叱った。
母親に注意されると、「うるせー」などと言う暴言も吐くこともあるらしい。僕のいるところではまだそんな言葉を言わないところを見ると、相手を見て使っているようだ。
この話を母親から聞いて自分の子どもだった頃を思い出した。
確かに悪い言葉だけど、親に向かって「うるせー」と口答えしない子どもはたぶんいない。誰もが一度位はそんな言葉を発して親を怒らせたことがあるに違いない。僕にもおぼえがあるけれど、そんな昔のこと事は棚にあげて、もし僕に向かってそんな事を言おうものなら、ぜったいに許さん、という気持ちなるから不思議だ。
さらに、親からあれこれ指示されること自体が嫌だという気持ちもよくわかる。
「今やろうと思ったのに、言うんだもんなぁー」という気持ち。
親に言われたことで更にやる気をなくすことは良くあるし、親の言いなりにはならない、父ちゃんのロボットじゃないんだーと泣きながら駆けていく星飛雄馬をそっと見守る明子ねえちゃんの目に涙…
でも、そんな懐かしの子どもだった思いを押し殺して、あえて親の立場になったから思うのだけど、子どもに対しては口うるさいくらいの親で丁度いいんじゃないかという気がするのだ。
親の言いなりにならないという反発心は自己主張や独立心の発露なのだけど、だからといって、小学生のするがままに放任するべきじゃない。反抗する相手として、壁として子どもに臨むことも時には必要である。
変に物分りのいい親を装って子どもの自主性を説く評論を耳にするが、ある意味では反抗する相手になろうとしない無責任な親の免罪符に使われているような気がする。
子どもにとってはそんな親はどう映るのだろう。自分と本気で向き合おうとしない親は『お金は出したけど子育てにお前手を抜いたろ』といわれてもしょうがない
時には子どもと同じ土俵に上って子どもに面と向かって接することもとても重要である。要はこの手のバランスが大事なのだ。干渉しつつ放任する。自主性を認めつつ突き放さない。そしてそれは頭で考える理論ではなく日々の子どもと接していく過程でしか育まれてこない『知恵』なのだろう。
母親に叱られて二階に上がったケイタが泣きながら宿題をしていた。
「どうして…子どもは、大人の言うことをきかなくちゃ…いけないんだ?」
そんなケイタに僕は『自律』という字を教えた。
「自ら律する。ひとに言われたリ、規則で決まっているからするんじゃない。自分で自分を律することができて、はじめて大人なんだ。それが自ら立つということだし、それができるようになれば、誰もケイタにああしろ、こうしろと言わなくなるよ」
ケイタがこの意味を本当に理解できるようになるのはかなり先の話だろう。それまでは何回も叱られて反発して、その繰り返しが果てしなく続くのだろう。
でも、君も親になったら解かる。子どもの感覚では計り知れない速さで通り過ぎていくこの日常のなかで、何一つ変わらない大人と違い、子どもたちは昨日とは鮮やかに違っていく。それは傍から見ているだけで本当にかけがえのない素敵な日々なのだ。
大人は判ってくれない
(関係ないけど、 フランソワ・トリュフォーの映画)