2006年09月
2006年09月29日
「復活」
人はまぐれと言う。
しかし俺は無理にでも「復活」と位置付けをしたいのである。
昨年9月、ソフトボールの試合中に転倒して左鎖骨を骨折した。
以来、約半年間、ソフトは勿論、ゴルフも出来なかった。
今年の春に完治してクラブを握ったが、100を切る事が出来なくなってしまった。
それまでのアベレージは90であり、時には80前半も出ていたものだ。
ソフトボールは完全に元に戻る事が出来たが、ゴルフは駄目だった。
それでも夏の入り口頃に何とか100が切れた。
もうこのまま、元に戻ることなく年老いて行くのだろうか?
淋しさと焦りみたいなものが交錯した。
あきらめともつかぬ一種の開き直りが効いてきたのか、この所90前半が出だした。
そして昨日、怪我から丁度1年経過して、何と81が飛び出し、コンペで優勝した。
人はこれを「マグレ」と言う。
ある日突然、こんないいスコアが出た事は、誰しも不思議に思うし、己自身もよく解からない。
しかし、人知れずリハビリを続け、素振りの地道な練習をやってきた事は伏せてあるし、この他に、思い当たる事がないではない。
密かに「復活」を宣言したいのであるが・・・・・・。
それの答えは、次のラウンドで証明される。
次のゴルフに、早く行きたい気持ちと、行きたくない気持ちは、半ばである。
行くのが、“怖い”のだ。
小心者の 寅次郎


しかし俺は無理にでも「復活」と位置付けをしたいのである。
昨年9月、ソフトボールの試合中に転倒して左鎖骨を骨折した。
以来、約半年間、ソフトは勿論、ゴルフも出来なかった。
今年の春に完治してクラブを握ったが、100を切る事が出来なくなってしまった。
それまでのアベレージは90であり、時には80前半も出ていたものだ。
ソフトボールは完全に元に戻る事が出来たが、ゴルフは駄目だった。
それでも夏の入り口頃に何とか100が切れた。
もうこのまま、元に戻ることなく年老いて行くのだろうか?
淋しさと焦りみたいなものが交錯した。
あきらめともつかぬ一種の開き直りが効いてきたのか、この所90前半が出だした。
そして昨日、怪我から丁度1年経過して、何と81が飛び出し、コンペで優勝した。
人はこれを「マグレ」と言う。
ある日突然、こんないいスコアが出た事は、誰しも不思議に思うし、己自身もよく解からない。
しかし、人知れずリハビリを続け、素振りの地道な練習をやってきた事は伏せてあるし、この他に、思い当たる事がないではない。
密かに「復活」を宣言したいのであるが・・・・・・。
それの答えは、次のラウンドで証明される。
次のゴルフに、早く行きたい気持ちと、行きたくない気持ちは、半ばである。
行くのが、“怖い”のだ。
小心者の 寅次郎
2006年09月27日
「結婚式」
姪の結婚式に参列した。
今風のチャペルで誓い、賛美歌を歌い、牧師に祝福されるというものであった。
昨今の我々は実に多宗教であるともいえる。
正月はお宮参り、子供が生まれてもお宮参り、地鎮祭、安全祈願祭も神事、結婚式も神前が大半の様であるが、今回の様に欧米型キリスト教もかなり多くなってはきているが。
仏前結婚はまれである。
故人の法要や、人生の終わりの儀式は仏式がほとんどである。
クリスマスはケーキで祝い、そのすこし後の年末、一年納めの除夜の鐘はお寺に出向く。
家の中にも、神棚と仏壇が同居している。
そしてこれらを、巧みに使い分けしている。
こんな器用な人種は日本人くらいではなかろうか?
何が良くて、何が悪いと言うのではない。
もうす少し、一貫性があってもよいのではなかろうかと思うが。
今日の挙式、披露宴には、仲人というものがなかった。
我々年寄りには、何か物足らないものを感じる・・・・・。
会場のトイレで隣の若者の会話が耳に入った。
「今日の結婚式は最高や!素晴らしい!」と。
ゼネレーションギャップがこれ程までに大きいかと、ショック気味で、出かけていたものも、止まるほどであった。
姪が参列者一人一人に、これまでの自分との触れ合った様を、自筆で丁寧に書いてくれた一枚のカードがあった。
この「一短文」が何にもまして、うれしい引き出物であった。
この短文の様に、相手を思いやる、細やかな気持ちを忘れずに、幸せになって下さい。
新しい形に戸惑う 寅次郎


今風のチャペルで誓い、賛美歌を歌い、牧師に祝福されるというものであった。
昨今の我々は実に多宗教であるともいえる。
正月はお宮参り、子供が生まれてもお宮参り、地鎮祭、安全祈願祭も神事、結婚式も神前が大半の様であるが、今回の様に欧米型キリスト教もかなり多くなってはきているが。
仏前結婚はまれである。
故人の法要や、人生の終わりの儀式は仏式がほとんどである。
クリスマスはケーキで祝い、そのすこし後の年末、一年納めの除夜の鐘はお寺に出向く。
家の中にも、神棚と仏壇が同居している。
そしてこれらを、巧みに使い分けしている。
こんな器用な人種は日本人くらいではなかろうか?
何が良くて、何が悪いと言うのではない。
もうす少し、一貫性があってもよいのではなかろうかと思うが。
今日の挙式、披露宴には、仲人というものがなかった。
我々年寄りには、何か物足らないものを感じる・・・・・。
会場のトイレで隣の若者の会話が耳に入った。
「今日の結婚式は最高や!素晴らしい!」と。
ゼネレーションギャップがこれ程までに大きいかと、ショック気味で、出かけていたものも、止まるほどであった。
姪が参列者一人一人に、これまでの自分との触れ合った様を、自筆で丁寧に書いてくれた一枚のカードがあった。
この「一短文」が何にもまして、うれしい引き出物であった。
この短文の様に、相手を思いやる、細やかな気持ちを忘れずに、幸せになって下さい。
新しい形に戸惑う 寅次郎

2006年09月25日
「生命力」
コスモスが舗装を割るようにして、堂々と咲き誇っている。
我が家の駐車場は舗装を嫌って、砂利のままである。(一説には舗装する金がないからと言うのも聞こえてくるが、半ば当たっている)
隣境の塀際に女房がコスモスの種を蒔き育てたものが、一部、塀を乗り越えて、隣の側溝と舗装のわずか数ミリの隙間に入り込み、写真のように咲き誇っている。
何処で養分を摂取しているのか、その生命力には驚かされると共に、頭の下がる思いすらする。
そして又、可哀そうにも思える。
あまりにも環境と言うか、条件が過酷であるから。
それでも、負けない力強い根性に脱帽である。
今時のひ弱で、すぐ切れるガキ共に見せてやりたい気がする。
「秋桜」(コスモス)と言う さだまさし作詞・作曲で山口百恵が歌った曲が好きだ。
“うすべに色のコスモスが秋の日の 何気ない 陽だまりに 揺れて いる この頃 涙もろくなった母が 庭先で ひとつ咳をする・・・・・・
あれこれと思い出をたどったら いつの日も ひとりではなかったと
今更ながら 我儘な私に 唇かんでます
明日への荷造りに手を借りて しばらくは楽し気にいたけれど
突然涙こぼし 元気でと 何度もくりかえす母
ありがとうの言葉を かみしめながら 生きてみます私なりに
こんな小春日和の 穏やかな日に
もう少しあなたの 子供でいさせてください“
コスモスが一段と好きになった 寅次郎


我が家の駐車場は舗装を嫌って、砂利のままである。(一説には舗装する金がないからと言うのも聞こえてくるが、半ば当たっている)
隣境の塀際に女房がコスモスの種を蒔き育てたものが、一部、塀を乗り越えて、隣の側溝と舗装のわずか数ミリの隙間に入り込み、写真のように咲き誇っている。
何処で養分を摂取しているのか、その生命力には驚かされると共に、頭の下がる思いすらする。
そして又、可哀そうにも思える。
あまりにも環境と言うか、条件が過酷であるから。
それでも、負けない力強い根性に脱帽である。
今時のひ弱で、すぐ切れるガキ共に見せてやりたい気がする。
「秋桜」(コスモス)と言う さだまさし作詞・作曲で山口百恵が歌った曲が好きだ。
“うすべに色のコスモスが秋の日の 何気ない 陽だまりに 揺れて いる この頃 涙もろくなった母が 庭先で ひとつ咳をする・・・・・・
あれこれと思い出をたどったら いつの日も ひとりではなかったと
今更ながら 我儘な私に 唇かんでます
明日への荷造りに手を借りて しばらくは楽し気にいたけれど
突然涙こぼし 元気でと 何度もくりかえす母
ありがとうの言葉を かみしめながら 生きてみます私なりに
こんな小春日和の 穏やかな日に
もう少しあなたの 子供でいさせてください“
コスモスが一段と好きになった 寅次郎
2006年09月23日
「福寿草」
愚妻は休みであり、快晴である。
新穂高ロープウエーで、アルプス連山を見るには絶好の天気だと、画策していたら、鷲見院長から電話、西濃運輸、田口会長に逢いに行くが、一緒に行こう、と言う。
大自然の眺望はあきらめて、田口会長を少し調べた。
郡上JC創立のときの日本JCの会頭で、認証をしてもらった人である。高山の東海ブロック会員大会で会ったのが始めて。
PM3時のアポであったが早く着き、西濃本社前のあんみつ屋で時間潰し。きっちり15分前に入門。
いきなり係りの方が玄関で手招きしている。
車ごと、こちらに来てくれといっている。
連絡がきちんとついているのだ。
玄関を入ると左手に、創業者田口利八翁の銅像が、同じ目線と言うよりも、少し低めに位置した形で、迎えるような微笑である。
「踏まれても踏まれても、強く野に咲く福寿草」どんな試練にも耐えるという、有名な「福寿草精神」が胸の下に刻まれている。
「人さまの世話を出来る限りせよ。見返りは求めるな。求めれば自分が惨めになる」と言うのが根底にあるようだ。
又、会社の経営理念のなかに「礼節」を重んじる言うのがあった。
お出迎へ頂いた社員の皆さんの立ち居振る舞いに、それは充分なほど感じられた。
「美しい国・日本」をじかに見て、触れた感じでもあった。
田口会長もじつに穏やかな感じの方で、大会社の社長にありがちな威張ったところなどは微塵も感じられない。
ましてや傲慢さなど露ほどもない。
人の話を、じっくりと聞かれる。
そして我々の愚問にも丁寧に答えられる。
人の気持ちをそらすことなく、応対される。
我々はW-Cupの為とは言え、考えようによっては、体のいい無心の客ではないか。
それをして、この丁重なる応対である。
一時間余、様々なお話を聞いていただき、お教えを頂いた。
帰り際は玄関までお見送りいただきを恐縮の極であった。
久々に本物の”紳士”本物の日本人、本物のトップリーダーにお逢いすることが出来、あらためて勉強をさせられた。
絶景のアルプス連山にも増した、素晴らしい人との出会いであった。
偉い兄貴になりたいと、奮闘努力の甲斐もない 寅次郎


新穂高ロープウエーで、アルプス連山を見るには絶好の天気だと、画策していたら、鷲見院長から電話、西濃運輸、田口会長に逢いに行くが、一緒に行こう、と言う。
大自然の眺望はあきらめて、田口会長を少し調べた。
郡上JC創立のときの日本JCの会頭で、認証をしてもらった人である。高山の東海ブロック会員大会で会ったのが始めて。
PM3時のアポであったが早く着き、西濃本社前のあんみつ屋で時間潰し。きっちり15分前に入門。
いきなり係りの方が玄関で手招きしている。
車ごと、こちらに来てくれといっている。
連絡がきちんとついているのだ。
玄関を入ると左手に、創業者田口利八翁の銅像が、同じ目線と言うよりも、少し低めに位置した形で、迎えるような微笑である。
「踏まれても踏まれても、強く野に咲く福寿草」どんな試練にも耐えるという、有名な「福寿草精神」が胸の下に刻まれている。
「人さまの世話を出来る限りせよ。見返りは求めるな。求めれば自分が惨めになる」と言うのが根底にあるようだ。
又、会社の経営理念のなかに「礼節」を重んじる言うのがあった。
お出迎へ頂いた社員の皆さんの立ち居振る舞いに、それは充分なほど感じられた。
「美しい国・日本」をじかに見て、触れた感じでもあった。
田口会長もじつに穏やかな感じの方で、大会社の社長にありがちな威張ったところなどは微塵も感じられない。
ましてや傲慢さなど露ほどもない。
人の話を、じっくりと聞かれる。
そして我々の愚問にも丁寧に答えられる。
人の気持ちをそらすことなく、応対される。
我々はW-Cupの為とは言え、考えようによっては、体のいい無心の客ではないか。
それをして、この丁重なる応対である。
一時間余、様々なお話を聞いていただき、お教えを頂いた。
帰り際は玄関までお見送りいただきを恐縮の極であった。
久々に本物の”紳士”本物の日本人、本物のトップリーダーにお逢いすることが出来、あらためて勉強をさせられた。
絶景のアルプス連山にも増した、素晴らしい人との出会いであった。
偉い兄貴になりたいと、奮闘努力の甲斐もない 寅次郎


2006年09月21日
「敬老の日」
好きな言葉の一つに
「若者叱るな、来た道だ、年寄り嫌うな、行く道だ」と言うのがある。
嫌われる存在になりつつある、今の自分に言い聞かせる言葉でもある。
昨日、敬老の日。
これの始まりは、60年前兵庫県の、とある村の村長さんが、「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村つくりをしよう」と敬老会を開き、それが兵庫県全体、そして全国に広まり、それから20年後に国民の祝日となったと言う。
「敬老の日」は外国にはなく、日本独自のものであるらしい。
老人とは何歳からを言うのか・・・・寅は気になる。
調べてみた。
「高齢者」とは、国連の世界保健機構(WHO)では65歳としている。
65歳〜74歳までを前期高齢者、75歳以上を後期高齢者としている。俺は高齢者の中の若者だ。
一方では、年金受給者、介護保険証取得者を高齢者と言うとも。
それがどうした!勝手に決めるな!
日本で65歳以上の人口はは2,640万人、その内、男が1,120万人、女が1,520万人と、何と女が400万人も多いのだ。
何ともバランスが悪い。後家が量産されすぎている。
如何に女が、楽な人生を送っているかの証明ではないのか?
定年以降は、政治、経済、教育等総てを、女にやってもらい、今まで、懸命に働いた、男共は、勝手気ままに余生をおくらせてもらう、てな訳にはゆかんものかのう。
猛烈な反論が来そうな提案だなぁ・・・・・・。
高齢者の新人 寅次郎

「若者叱るな、来た道だ、年寄り嫌うな、行く道だ」と言うのがある。
嫌われる存在になりつつある、今の自分に言い聞かせる言葉でもある。
昨日、敬老の日。
これの始まりは、60年前兵庫県の、とある村の村長さんが、「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村つくりをしよう」と敬老会を開き、それが兵庫県全体、そして全国に広まり、それから20年後に国民の祝日となったと言う。
「敬老の日」は外国にはなく、日本独自のものであるらしい。
老人とは何歳からを言うのか・・・・寅は気になる。
調べてみた。
「高齢者」とは、国連の世界保健機構(WHO)では65歳としている。
65歳〜74歳までを前期高齢者、75歳以上を後期高齢者としている。俺は高齢者の中の若者だ。
一方では、年金受給者、介護保険証取得者を高齢者と言うとも。
それがどうした!勝手に決めるな!
日本で65歳以上の人口はは2,640万人、その内、男が1,120万人、女が1,520万人と、何と女が400万人も多いのだ。
何ともバランスが悪い。後家が量産されすぎている。
如何に女が、楽な人生を送っているかの証明ではないのか?
定年以降は、政治、経済、教育等総てを、女にやってもらい、今まで、懸命に働いた、男共は、勝手気ままに余生をおくらせてもらう、てな訳にはゆかんものかのう。
猛烈な反論が来そうな提案だなぁ・・・・・・。
高齢者の新人 寅次郎

2006年09月19日
命名〜「瀰」
秋篠宮家に、長男が誕生し、場合によってはこの人が先々、天皇陛下に成られる可能性を秘めた人である。
その名を「悠仁」(ひさひと)と命名された。
「悠」の意味は、Netで調べてみた。
「悠」は「心」+「攸」(ゆう)の形成文字。
「心」は、心臓の形をした象形文字。
「攸」(ゆう)は、人の背中に水をかけている象形文字で、みそぎを表している。
それに「心」をつけた「悠」は、みそぎによって心身が清められて、ゆったりと落ち着いた心の様子を表す字、だそうです。
そこで、常々我が名前の「瀰」についても今まで、その難しさに悩まされ、正確な意味も理解してこなかったので、この際、調べ直してみた。
我が家に古くから伝わる国語辞典(昭和0年発行・定価が1円50銭)に唯一出ていて、薄々その意味も覚えてはいたが、今回これもNETで再調して、ほぼ今迄の思いと合致した。
「瀰」は「彌」にサンズイが付いてできた字で水の様子を表すようです。
意味は、
1.満ちる、はびこる、水が満ち溢れる様、
2.広い、遥か、水の果てしなく広い様
「瀬木重瀰」の命名主は、我が祖父・瀬木為助(昭元)である。
その意味は〜せせ(瀬々)らぎは、木を育てつつ大河となり、その先、重厚な大海(瀰)となる、らしい。
完全に名前負けしている 寅次郎


その名を「悠仁」(ひさひと)と命名された。
「悠」の意味は、Netで調べてみた。
「悠」は「心」+「攸」(ゆう)の形成文字。
「心」は、心臓の形をした象形文字。
「攸」(ゆう)は、人の背中に水をかけている象形文字で、みそぎを表している。
それに「心」をつけた「悠」は、みそぎによって心身が清められて、ゆったりと落ち着いた心の様子を表す字、だそうです。
そこで、常々我が名前の「瀰」についても今まで、その難しさに悩まされ、正確な意味も理解してこなかったので、この際、調べ直してみた。
我が家に古くから伝わる国語辞典(昭和0年発行・定価が1円50銭)に唯一出ていて、薄々その意味も覚えてはいたが、今回これもNETで再調して、ほぼ今迄の思いと合致した。
「瀰」は「彌」にサンズイが付いてできた字で水の様子を表すようです。
意味は、
1.満ちる、はびこる、水が満ち溢れる様、
2.広い、遥か、水の果てしなく広い様
「瀬木重瀰」の命名主は、我が祖父・瀬木為助(昭元)である。
その意味は〜せせ(瀬々)らぎは、木を育てつつ大河となり、その先、重厚な大海(瀰)となる、らしい。
完全に名前負けしている 寅次郎


2006年09月17日
「辞任」
偉大なるイエスマン、竹中平蔵大臣の散り際や良し!
小泉無き後、あなたは国会にいても、その居場所はない。
“座して美食を食むよりも、新天地で餓死した方がましだ”の心境か?
良く心得ておられるようで、見上げたモノです。
無責任だが・・・・・・。
もうお一人の偉大なるイエスマン氏は幹事長をお辞めの後はご隠居様でしょうか?
それとも親しい六本木の方角へ向かわれるのでしょうか?
過日、この地区の自民党後援会・女性部長さんが来られて、「女性部長を辞したい」と言われる。
「何故ですか?」と問えば、「今、無所属の藤井を応援している人が、自民党の役をしていたのではおかしいでしょう」と金子会幹部の人に言われたと言う。
さすが金子会は一本筋が通っている。言うことは合ってる。
“金子派にあらずんば自民党員でない”と仰せられる。
見上げたご見識だ。
懐の浅い、この程度の集団なら、会費まで払い、寸暇を割いて応援するには値しない。
「さっさとおけつをおまくり遊ばした方がようござんすよ」と ご進言申し上げた。
今度、安倍さんに会った聞いてみようと思っている。
こんなんでいいの?・・・・と。
誇り高き無所属の端くれ 寅次郎

小泉無き後、あなたは国会にいても、その居場所はない。
“座して美食を食むよりも、新天地で餓死した方がましだ”の心境か?
良く心得ておられるようで、見上げたモノです。
無責任だが・・・・・・。
もうお一人の偉大なるイエスマン氏は幹事長をお辞めの後はご隠居様でしょうか?
それとも親しい六本木の方角へ向かわれるのでしょうか?
過日、この地区の自民党後援会・女性部長さんが来られて、「女性部長を辞したい」と言われる。
「何故ですか?」と問えば、「今、無所属の藤井を応援している人が、自民党の役をしていたのではおかしいでしょう」と金子会幹部の人に言われたと言う。
さすが金子会は一本筋が通っている。言うことは合ってる。
“金子派にあらずんば自民党員でない”と仰せられる。
見上げたご見識だ。
懐の浅い、この程度の集団なら、会費まで払い、寸暇を割いて応援するには値しない。
「さっさとおけつをおまくり遊ばした方がようござんすよ」と ご進言申し上げた。
今度、安倍さんに会った聞いてみようと思っている。
こんなんでいいの?・・・・と。
誇り高き無所属の端くれ 寅次郎

2006年09月15日
「落し物」
日曜日の夕方、ソフトボールの練習の帰り道、グラウンド片隅の自販機の前で財布を拾った。
現金は入っていなかったが、皆で相談するまでもなく、警察へ届けようとなり、帰り道であるので俺が届けた。
警察では、こまごまと聞かれたり、署名をしたりと、善意もなかなか面倒である。
2〜3日したら、見知らぬ人から電話がかかってきた。
財布を落とした人の母親だと言う。丁寧な応対で、お礼に伺いたいと言う。
大した事をした訳じゃなし、この電話だけで充分、結構ですよと来訪をお断りした。
更に2〜3日したら、見知らぬ親子さんが玄関に現れた。
落とし主とその親父さんである。落とし主は中学生の感じであった。
丁寧にお礼を述べられ、子供さんが菓子袋を差し出した。
丁重にお断りしたが、聞き入れられず、頂戴してしまった。
この両親は素晴らしいと思った。
菓子をもらったから言う訳ではないが、このお母さんと、お父さんは、世の中の「仕組み」「ルール」を「落とした財布」を通じて、自らが子供を連れて行動をし、子供に教えているのだと思った。
10年ほど前だろうか、友達の子供が、時計を拾って、親に見せたら、親は「今日は運の良い日だったなー」と言う光景を思い出してしまった。・・・・様々である。
酒飲み寅次郎がこれほど美味しい菓子を頂いたのは始めてだった。
すがすがしい甘さに酔った 寅次郎

現金は入っていなかったが、皆で相談するまでもなく、警察へ届けようとなり、帰り道であるので俺が届けた。
警察では、こまごまと聞かれたり、署名をしたりと、善意もなかなか面倒である。
2〜3日したら、見知らぬ人から電話がかかってきた。
財布を落とした人の母親だと言う。丁寧な応対で、お礼に伺いたいと言う。
大した事をした訳じゃなし、この電話だけで充分、結構ですよと来訪をお断りした。
更に2〜3日したら、見知らぬ親子さんが玄関に現れた。
落とし主とその親父さんである。落とし主は中学生の感じであった。
丁寧にお礼を述べられ、子供さんが菓子袋を差し出した。
丁重にお断りしたが、聞き入れられず、頂戴してしまった。
この両親は素晴らしいと思った。
菓子をもらったから言う訳ではないが、このお母さんと、お父さんは、世の中の「仕組み」「ルール」を「落とした財布」を通じて、自らが子供を連れて行動をし、子供に教えているのだと思った。
10年ほど前だろうか、友達の子供が、時計を拾って、親に見せたら、親は「今日は運の良い日だったなー」と言う光景を思い出してしまった。・・・・様々である。
酒飲み寅次郎がこれほど美味しい菓子を頂いたのは始めてだった。
すがすがしい甘さに酔った 寅次郎

2006年09月13日
「サクラ」
季節外れの話題だが、向かいの山を見るたびに思うことがある。
太平洋と日本海をさくらでつなごう!
「この地球の上に 天の川のような 美しい花の星座をつくりたい
花を見る心が一つになって 人々が仲よく くらせるように」
旧国鉄バスの車掌をしながら、御母衣ダムの底に沈む運命にあった、荘川さくらの移設を目の当たりにし、古木が見事蘇った事に大きな感動を覚えた。
以後、さくらの植樹に自分の人生をかけた男・佐藤良二氏。
残念ながらガンに侵され47歳を一期として、志半ばで旅立ちました。
以後、その足跡が、映画になり、太平洋と日本海を結ぶ270kmネイチャーランマラソンとなり、東海北陸六県を結ぶ、シニアソフトボール大会サクラカップともなり、又、秋のもみじカップへと発展をし、その意思が連綿と受け継がれております。
しかし今ひとつ淋しいのは、佐藤氏の出身地・白鳥町にシンボル的なサクラの名所がないことである。
白鳥町を訪れる人々が、一様に、サクラは何処にありますか?と尋ねる。
善勝寺の桜、藤路の桜も立派だが、自慢するには、今一息だ。
そこで、向小駄良の山をキャンパスに見立てて、桜の木で「サクラ」と読めるように植樹し、季節が来ると、「サクラ」文字が浮き出るようにしては・・・・京都の大文字の様に。
夜はライトアップして、漆黒の闇に浮かぶサクラ文字を眺めての一献も又、一風情かな。
サクラの兄貴の寅次郎

太平洋と日本海をさくらでつなごう!
「この地球の上に 天の川のような 美しい花の星座をつくりたい
花を見る心が一つになって 人々が仲よく くらせるように」
旧国鉄バスの車掌をしながら、御母衣ダムの底に沈む運命にあった、荘川さくらの移設を目の当たりにし、古木が見事蘇った事に大きな感動を覚えた。
以後、さくらの植樹に自分の人生をかけた男・佐藤良二氏。
残念ながらガンに侵され47歳を一期として、志半ばで旅立ちました。
以後、その足跡が、映画になり、太平洋と日本海を結ぶ270kmネイチャーランマラソンとなり、東海北陸六県を結ぶ、シニアソフトボール大会サクラカップともなり、又、秋のもみじカップへと発展をし、その意思が連綿と受け継がれております。
しかし今ひとつ淋しいのは、佐藤氏の出身地・白鳥町にシンボル的なサクラの名所がないことである。
白鳥町を訪れる人々が、一様に、サクラは何処にありますか?と尋ねる。
善勝寺の桜、藤路の桜も立派だが、自慢するには、今一息だ。
そこで、向小駄良の山をキャンパスに見立てて、桜の木で「サクラ」と読めるように植樹し、季節が来ると、「サクラ」文字が浮き出るようにしては・・・・京都の大文字の様に。
夜はライトアップして、漆黒の闇に浮かぶサクラ文字を眺めての一献も又、一風情かな。
サクラの兄貴の寅次郎

2006年09月11日
「骨折一周年」
一年前、ナイターソフトボールで転倒して、左鎖骨を骨折した。
以来、半年間ソフトボールが出来ず、苦しく、淋しかった。
一年過ぎた昨日、県のリーグ戦で中津川に遠征し、二試合を戦ってきた。
いまだに左肩に違和感を抱えているが、何とかプレーは出来ている。
そんな中、昨日の試合中に内野フライを“朝鮮バック”で追いかけ、飛びついたが後ろに転倒!あわや一年前の再来か!と一瞬感じたが、今回は上手く回転して、事なきを得た。
昨年、骨折したときは、やる気のないプレーであったので、受身が出来なかったのだ。
今回は、闘志むき出しのプレーであったのが、怪我を防いだものと思う。
足からも頭からもスライデングし、背面へ転倒もし、右中間突破で全力疾走で三塁打も打てた。ユニフォームの左ひざは、スライデングで、ボロボロであるが、これが俺の元気の勲章でもある。
何時まで続けられるかわからないが、永く続けるには日頃のトレーニングは当然だが、今少しの「節酒」が課題のようだ。
生涯現役を願う 寅次郎


以来、半年間ソフトボールが出来ず、苦しく、淋しかった。
一年過ぎた昨日、県のリーグ戦で中津川に遠征し、二試合を戦ってきた。
いまだに左肩に違和感を抱えているが、何とかプレーは出来ている。
そんな中、昨日の試合中に内野フライを“朝鮮バック”で追いかけ、飛びついたが後ろに転倒!あわや一年前の再来か!と一瞬感じたが、今回は上手く回転して、事なきを得た。
昨年、骨折したときは、やる気のないプレーであったので、受身が出来なかったのだ。
今回は、闘志むき出しのプレーであったのが、怪我を防いだものと思う。
足からも頭からもスライデングし、背面へ転倒もし、右中間突破で全力疾走で三塁打も打てた。ユニフォームの左ひざは、スライデングで、ボロボロであるが、これが俺の元気の勲章でもある。
何時まで続けられるかわからないが、永く続けるには日頃のトレーニングは当然だが、今少しの「節酒」が課題のようだ。
生涯現役を願う 寅次郎


2006年09月08日
「ゴミ当番」
七夕様みたいで、一年に一回だけ回ってくる、ゴミ出し立ち会い当番に出た。
一週に3回、朝7時から8時までの一時間である。
はじめの頃は、何でこんな事をやらなくちゃならないのか?といやいや立っていた。
ゴミを出す方は、実にいい加減で、分類がでたらめで、やはり立っていて指導しないと滅茶苦茶になりそうであった。
所が最近は、かなり分類がなされており、指導が行き届いた感じである。
当初、ゴミなんぞは分類なんか出来るモノか、と思っていたが、粘り強く行政がやり、それが実を結びつつある。
やれば出来るモノだと感心した。
分類されたモノを見ると、ゴミではない、これは立派な資源だと感じる。
飽食の世に生きる者として、アフリカの女性大臣ではないが、「もったいない」の言葉を真剣に考えないと、この付けは、何時の日か帰って来るような気がしてならない。
今一つは、朝、出ていると、日頃は滅多に顔を見ない人とも出会えて挨拶をするし、登校する子供達も挨拶をしてゆく。
子供達は向こうから元気良く挨拶する子も居れば、こちらから声をかけても、下を向いて素知らぬ顔の子も居る。
これらは家庭環境なのかなー・・・・?
いやいや、知らないおじさんに声を掛けられても、対応してはいけないと言う、教えを守っているのか?
あの人は誰?あの子は何処の子?と近くにいても分らない人を、知る時でもあり、貴重なコミニュケーションと資源勉強の1時間でもあった。
人間大好きの 寅次郎

一週に3回、朝7時から8時までの一時間である。
はじめの頃は、何でこんな事をやらなくちゃならないのか?といやいや立っていた。
ゴミを出す方は、実にいい加減で、分類がでたらめで、やはり立っていて指導しないと滅茶苦茶になりそうであった。
所が最近は、かなり分類がなされており、指導が行き届いた感じである。
当初、ゴミなんぞは分類なんか出来るモノか、と思っていたが、粘り強く行政がやり、それが実を結びつつある。
やれば出来るモノだと感心した。
分類されたモノを見ると、ゴミではない、これは立派な資源だと感じる。
飽食の世に生きる者として、アフリカの女性大臣ではないが、「もったいない」の言葉を真剣に考えないと、この付けは、何時の日か帰って来るような気がしてならない。
今一つは、朝、出ていると、日頃は滅多に顔を見ない人とも出会えて挨拶をするし、登校する子供達も挨拶をしてゆく。
子供達は向こうから元気良く挨拶する子も居れば、こちらから声をかけても、下を向いて素知らぬ顔の子も居る。
これらは家庭環境なのかなー・・・・?
いやいや、知らないおじさんに声を掛けられても、対応してはいけないと言う、教えを守っているのか?
あの人は誰?あの子は何処の子?と近くにいても分らない人を、知る時でもあり、貴重なコミニュケーションと資源勉強の1時間でもあった。
人間大好きの 寅次郎
2006年09月06日
「愛車」
「さようならデアマンテ」
151,700km走った。
2000年の12月に我が家に来てくれた。
以来6年弱のおつき合いだった。
この距離はハワイへ12回程行ってきたことになる。
1年に2回のペースだ。
実際は、それ程遠出はしなかった。
単純計算して70km/day走り続けてくれた。
事故もなく大きなトラブルもなく、黙々と走ってくれた。
デアマンテは2台目であり、派手さはないが、堅牢に出来ていて、この先も、同じ車に乗りたいと思い続けていたが、メーカー側が生産中止を打ち出し、終止符である。
たかが車とは言うが、6年間、毎日相手をしてくれたのだ。
それこそ雨の日も風の日も、雪の日も嵐の日も愚痴一つこぼすことなく、意のままに動いてくれた。
これほど従順な部下はいない。
別れの時になり、もう少し大事に手入れをし、日々きれいにしていてやれば良かったと後悔の念しきりであった。
今まで何台となく車を代えてきたが、今回は何故か、我が子同様の情念が湧いた。
ご苦労さんデアマンテ、有り難うデアマンテ、そして、
・・・・さようならデアマンテ。
その朝、ハンドルに別れの口づけをして送り出した。
秋の入り口でセンチになりかけた 寅次郎

151,700km走った。
2000年の12月に我が家に来てくれた。
以来6年弱のおつき合いだった。
この距離はハワイへ12回程行ってきたことになる。
1年に2回のペースだ。
実際は、それ程遠出はしなかった。
単純計算して70km/day走り続けてくれた。
事故もなく大きなトラブルもなく、黙々と走ってくれた。
デアマンテは2台目であり、派手さはないが、堅牢に出来ていて、この先も、同じ車に乗りたいと思い続けていたが、メーカー側が生産中止を打ち出し、終止符である。
たかが車とは言うが、6年間、毎日相手をしてくれたのだ。
それこそ雨の日も風の日も、雪の日も嵐の日も愚痴一つこぼすことなく、意のままに動いてくれた。
これほど従順な部下はいない。
別れの時になり、もう少し大事に手入れをし、日々きれいにしていてやれば良かったと後悔の念しきりであった。
今まで何台となく車を代えてきたが、今回は何故か、我が子同様の情念が湧いた。
ご苦労さんデアマンテ、有り難うデアマンテ、そして、
・・・・さようならデアマンテ。
その朝、ハンドルに別れの口づけをして送り出した。
秋の入り口でセンチになりかけた 寅次郎

2006年09月04日
「サンダル」
姪が「私たち、今度結婚します」と亭主になる人を連れて、挨拶に来た。
ついこの前まで、鼻垂らして、ピーピー泣いていた子が、結婚し、自立するというのだ。
おめでたい事である。
反面、月日のあまりにも早い経過に、怠惰に過ぎし我が人生を思い、老いを実感するのみであるだ。
我が家は、まだ二人の子供が独り立ち出来ていない。
それの一日も早やからん事を、神仏に祈るのみである。
姪は、俺がトラキチなので、寅印の付いた菓子を持ってきてくれた。気が利くねー。
一緒に挨拶に来た男の子は25歳で、食品関係のサラリーマンですと言う。
やや小柄な優しそうな、男性である。無駄口はたたかず、終始ニコニコとしている。
30分ほど話して、次の所に挨拶に行くというので、玄関に見送った。
素足にサンダルを引っかけて、頭をぺこりと下げ、にっこりとして帰っていった。
飾り気のない、さっぱりとした好青年だなあー、が初対面の印象であった。
今時の若者は、こんなモノなのだろうかと、古風な寅は少し考えた。
親類付き合いなんてなものは、肩肘張らず、気楽なのが一番良いのだろう。
服装はどうあれ、親類のホンヤに手土産提げて挨拶に来ただけでも、立派なものと、褒めてやるべきなのだろう。
ホンヤと言ったところで、それほどの家であるわけでなし・・・おれんちは。
でも、もし、てめえの子供が、その立場にあったら、俺は何か言いそうだ。
まあ、そんな心配はご無用か。
こんな、お節介な親がいるから、縁が薄いに、ちげえねぇ・・・、カカと苦笑しきり。
「お控えなすって・・・」派の 寅次郎

ついこの前まで、鼻垂らして、ピーピー泣いていた子が、結婚し、自立するというのだ。
おめでたい事である。
反面、月日のあまりにも早い経過に、怠惰に過ぎし我が人生を思い、老いを実感するのみであるだ。
我が家は、まだ二人の子供が独り立ち出来ていない。
それの一日も早やからん事を、神仏に祈るのみである。
姪は、俺がトラキチなので、寅印の付いた菓子を持ってきてくれた。気が利くねー。
一緒に挨拶に来た男の子は25歳で、食品関係のサラリーマンですと言う。
やや小柄な優しそうな、男性である。無駄口はたたかず、終始ニコニコとしている。
30分ほど話して、次の所に挨拶に行くというので、玄関に見送った。
素足にサンダルを引っかけて、頭をぺこりと下げ、にっこりとして帰っていった。
飾り気のない、さっぱりとした好青年だなあー、が初対面の印象であった。
今時の若者は、こんなモノなのだろうかと、古風な寅は少し考えた。
親類付き合いなんてなものは、肩肘張らず、気楽なのが一番良いのだろう。
服装はどうあれ、親類のホンヤに手土産提げて挨拶に来ただけでも、立派なものと、褒めてやるべきなのだろう。
ホンヤと言ったところで、それほどの家であるわけでなし・・・おれんちは。
でも、もし、てめえの子供が、その立場にあったら、俺は何か言いそうだ。
まあ、そんな心配はご無用か。
こんな、お節介な親がいるから、縁が薄いに、ちげえねぇ・・・、カカと苦笑しきり。
「お控えなすって・・・」派の 寅次郎
2006年09月01日
「親父越え」
今日、9月1日で親父と並ぶ。
親父は大正3年7月2日に生まれて、昭和55年11月10日、冥土に旅立った。
66年と4ヶ月と10日。閏年を考慮して計算すると、24,239日の生涯であった。
この数字を自分に置き換えると今年の9月1日に、この数字と並んだことになる。
今の自分はソフトボール、ゴルフ、スキーと戸外を飛び跳ねている。
仕事も第一線を少しは退いたものの、気持ちは現役で、時には測量をしたり、図面を書いたり、パソコンを叩いている。
IT関連のNPOにも首を突っ込み、若者にややバカにされながらも、ぶら下がっている。
酒色の酒の方は、少しは落ちたものの、まあまあ人並みにお付き合いはしている積もりだ。
色香の方は、興味深々、思いは変わらないが、やや面倒になってきた・・・・・?
定期健診で、多少の引っかかりはあるものの、極めて健康な状態で、親父を越えることが出来た事は、周りの人々のお陰だと、感謝、感謝、感謝である。
これを思うと、66歳を一期とした親父は、若かった、早すぎたと言うのが、今 実感として、胸を打つ。
今 生きていれば92歳だ。頑強な体の持ち主だった。
仕事場の不注意でガンに倒れたが、あれがなければ充分長生き出来ていただろうと思うと残念だ。
曾孫―大河・虎哲・凛菜達と遊ぶことも出来たろうに。
この秋に、親父の27回忌と母親の米寿の祝いを同時にやろうと思っている。
俺の「親父越え」も含めて。
今度は「母親越え」を目論む 寅次郎

孫の「幹太」と
親父は大正3年7月2日に生まれて、昭和55年11月10日、冥土に旅立った。
66年と4ヶ月と10日。閏年を考慮して計算すると、24,239日の生涯であった。
この数字を自分に置き換えると今年の9月1日に、この数字と並んだことになる。
今の自分はソフトボール、ゴルフ、スキーと戸外を飛び跳ねている。
仕事も第一線を少しは退いたものの、気持ちは現役で、時には測量をしたり、図面を書いたり、パソコンを叩いている。
IT関連のNPOにも首を突っ込み、若者にややバカにされながらも、ぶら下がっている。
酒色の酒の方は、少しは落ちたものの、まあまあ人並みにお付き合いはしている積もりだ。
色香の方は、興味深々、思いは変わらないが、やや面倒になってきた・・・・・?
定期健診で、多少の引っかかりはあるものの、極めて健康な状態で、親父を越えることが出来た事は、周りの人々のお陰だと、感謝、感謝、感謝である。
これを思うと、66歳を一期とした親父は、若かった、早すぎたと言うのが、今 実感として、胸を打つ。
今 生きていれば92歳だ。頑強な体の持ち主だった。
仕事場の不注意でガンに倒れたが、あれがなければ充分長生き出来ていただろうと思うと残念だ。
曾孫―大河・虎哲・凛菜達と遊ぶことも出来たろうに。
この秋に、親父の27回忌と母親の米寿の祝いを同時にやろうと思っている。
俺の「親父越え」も含めて。
今度は「母親越え」を目論む 寅次郎
孫の「幹太」と