2016年11月03日

目には見えない価値

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上の写真は「バックロードホーン型スピーカー」の断面図である。
表面的にはシンプルだが、内部はけっこう複雑な構造となっている。


僕は現在「スクールソーシャルワーカー」を生業にしているわけだが、主な仕事のひとつとして「児童や生徒との面談」や「保護者面談」というものがある。

多くの場合は、どのような子なのか? または、保護者さんはどんな考えをお持ちなのか、どのような方なのか?を知るために行なうのだが、教育相談と名をかりながらも、せっかく学校までお越し戴いたわけだから、すぐに助言などしたりせずに丁寧に聴き取ることに努めている。

以前、「カウンセラー」を職務としていたこともあって、話を聴くことには慣れていることもあり、初回に関してはあれこれと尋ねてしまうが故に面談の時間が1時間半を超えてしまうことも多いが、しっかりと聴いた甲斐があって、ほとんどの方々が「今日は来てよかったです〜」と仰ってくださる。

未だ問題が解消したわけでもないし、先の不安が消えたわけでもないのに、前向きな気持ちで目の前の問題に向き合おうと決意されたことが表情から覗える。

学校と家庭とが良好な関係を保ち、足並みが揃っていれば問題解決に向けたプランもスムースに運ぶのだが、両者の関係が良くなければ間に居る子どもは混乱するだけである。
その意味でも、円滑に事が運ぶように調整することもまた僕の役目なのだ。

この「聴く」ということの意味は、「傾聴/アクティブリスニング」とも呼ばれるが、相手に対して積極的に関心を持ちながら問いかけを行ない、置かれている状況だけでなく、そこに伴う心情面についても全人的に理解しようと努める姿勢と態度を含む概念である。

単に相手の発する言葉を「聞くこと」ではないし、こちらが知りたい情報を得るための質問として「訊くこと」でもない。
(イジメが起こった際に行なう事実確認においても、事情聴取を行なう場合いには「訊く」だけではなく、本人の言い分を「聴くこと」も忘れてはいけない。)

これをお読みになっている方々には実際の現場に同席して戴くわけにもいかないので、これらの違いを実感的に理解して戴くにはご自身が面談を受けて戴くしかないのだが、けっして誰にでもできることではなく、この僕とて長きに渡ってトレーニングを積んだからこそ、いま何とか形になっているのである。
(それでも、「これでいいのだろうか・・」と今でもなお自問自答を繰り返している。)

もちろん最初からできたわけではなく、始めたばかりの頃は「聴くこと」と「聞くこと」の違いについてもよく分からないまま不安を抱えてやっていた時期もある。

しかし、こと面談としてカウントすれば、この15年間で8000時間を超えているし、関わらせて戴いた人数も3000人近くになるので、これだけやれば少しは「聴くこと」もできるようになってきた感触もある。
いろんな資格の取得も含めれば、トレーニングに費やした時間数だけでも相当なものだし、多額の費用も掛ってる。
しかし、そのことは僕が自己紹介の中で敢えて口に出すことでもしなければ誰も知らないことだろう。

スクールカウンセラーをやっていた頃のことだが、ある人に「カウンセラーって楽な商売ですよね。ただ相手と話をするだけでお金がもらえるわけだし・・」と言われたことがある。

そうか・・そんなふうに思っているんだな・・と少し驚きながらもガッカリしたのを覚えている。

仕事上で出くわすクライエントの中には、リストカットを始めとした自傷行為をやめられない方や自殺念慮を持つ方もいたし、言葉に気をつけないと忽ち怒りだし攻撃態勢に入ってしまわれる方もいた。
ヘタなことを言えば上げ足を取られ、責任問題に発展してしまう危険だってある。
そんなことが頭の隅にあれば緊張もするし、とても疲れる。

今でも、たった一度のチャンス(なんとか調整して作った貴重な機会)を無駄にするわけにいかないので、一発勝負のような張り詰めた空気の中で行なうことだってある。(そうは悟られないようにしてるけどね。)

請け負うからには大きな責任も伴うし、絶対に失敗できないというプレッシャーもある。
とても大変な仕事なのだ。

おそらく、「楽な商売」と言われた方は、「聴く」・「聞く」「訊く」に違いがあることさえ知らないのだろうし、「興味が湧くこと」と「関心を持つこと」の違いも理解していないのだろう。

さらに言えば、実際にカウンセリングを受けたこともないので、自分の中に勝手に作り上げた「カウンセリングのイメージ(想像/推測)」と「実感に基づく事実」との区別もないと思われる。

べつに、そう言われたことについて僕としては何とも思ってはいないのだが、実感を持たない人たちに対して「傾聴トレーニング」が持つ価値についてどう伝えればよいのかについては考えあぐねていた。
いや、それ以前に教師や親たちに「聞くなんて簡単なことだ」と思ってほしくないからである。

仕事上で教師の方々に対して「子どもたちの言葉を丁寧に拾ってあげてくださいね。」とお願いしている立場としては、「分かりました。よく訊いておきますよ。」などと応えられては困るのだ。

ということで、面白い画像を見つけたので読んでみてね (*^_^*)

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torapa1701 at 11:48|Permalink

2016年10月03日

「キャリア形成」について深めてみる

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先行きが不透明であり、暗雲が立ち込める現代日本において、今後の自分がどのような人生を送ればよいのか判らないまま、あたかも風に揺れる木々の如く目の前の諸問題に翻弄されている方が多いように思う。

これまでも幾度か「キャリア形成」について述べてきたが、ここでまた改めて考えてみたい。

キャリアと聞くと、未だに「経歴」とか「就職」など、短絡的に仕事に関することだと思い込んでいる方が多いようである。
または、過去の職業における体験から得た経験値としての技能や知識の集積として捉えている方も多い。

いずれにしても、そういった誤解認識があるためか、キャリア形成と聞けば「下積み経験が大切だ」とか、「いつかは憧れの職業に就くこと」という解釈を基に、念願かなって就職できたことを「夢の実現」だと勘違いしてしまうのである。そもそもキャリアアップなどという言葉は存在しない。
キャリアには、アップもダウンもないのである。

それに「憧れの職種」とは言っても、その内容が自分にとって「欠乏欲求を埋めるための手段」であったり、苦しんでいた時期に自分を助けてくれた人を「救世主」でもあるかのように捉え、自分も誰かの力になりたいといった憧れを以て抱いているとすれば、やはりそれも同一視的な意味でしかなく、自らを重ね合わせて観ているだけにすぎないことになる。

キャリアを語るには、そういった思い込みや偏った認知をあるていど解消しておく必要があるのだ。

また、「自分は何をしたいのか」がなんとか自覚できているとしても、自己評価的な意味で「どうせ無理だ」と無意識的に抑圧し、無駄なことはしないとばかりに考えることを遮断しているケースも多い。

可能なかぎり「ニュートラルな位置」に立って自分に聴いてみることをしなければ、心の底からやりたいことなど見つかるわけがないのである。 「やりたいこと」と、「充たすこと」はイコールではない。

たとえば、「もし、魔法が使えるとして、いちばんやってみたいことは何ですか?」と尋ねられたときに、「そうですねえ、独りで旅に出て、どこかの高級リゾート地でゆっくり休みたいですねえ。」と答えた場合、それは「夢」というより日頃から充たされていない欲求の解消・・つまり「経済的に余裕がなく、ゆっくり休む時間も取れず、常に誰かに振り回されている現状から一時的にでも逃れたい」ということであり、先が見えない苦しい状況において、心労が溜まっていることに他ならない。

この場合、本当の「夢」を語るために、まずは辛く落ち着かない状況を脱する必要があるだろうし、あるていど充たされていて心に余裕がある状態が前提となるだろう。

また、「もし夢が叶うなら、何処に住んでみたいですか?」に対して、「◎◎に住んでみたい」と明確に行き先を指定できるなら問題ないのだが、「とにかく此処から出たいんです」とか「どこか遠いところに・・」と言うのであれば、これもやはり「出たい(呪縛から逃れたい)」であり、「行きたい(目標を実現したい)ではないと言える。この場を去ることに違いはなくとも、含まれる意味が全く異なることになる。

夢を叶えるというのは、言わば「自己実現に至ること」と解釈することができるが、ここで言う「自己」とは、未だ観ぬ自分、まだ出会っていない自分(自覚できていない部分)を含むものであるし、今後の人生航路において発見するであろう未知の自分をも内包する開発的かつ進歩的なものである。
(C・G・ユング:「個性化」に近い概念として)

人は、発達の過程に従って見聞が広がっていくものだし、成長の度合いによって識もまた変化し続ける。
つまり、どんな場合にも言えることは、「今の時点では・・」という限定された範囲で語られるものだということである。
これは、絶対に外してならない大前提である。

当然ながら、初等教育の場においては、職業など「作業」としてしか認識できないだろうし、世の中にどれだけの職種が存在するかも知らないままに限られた枠の中で想いを馳せることは、むしろ思考の範囲を狭めてしまう危険があるばかりか、下手に絞り込んでしまえば固定化された自己イメージを手放せなくなってしまうことも危惧される。 

世の中には数千種類をも超える数の職種があると言われているが、小中学生の段階で持ち得る狭い領域内で想定できる職種など、せいぜい20〜30程度であろう。それも自宅から通える範囲で・・となれば尚更である。むしろ、早期に決めてしまうことで発達と共に広がっていくキャリア発達的観念を抑制してしまいかねない。

そもそも、自分がどんなことを楽しいと感じ、どのようなことなら夢中になれるか・・など、自分の性格はもちろん、気質的な傾向や趣向についての理解抜きで夢を語ることなど不可能である。
 これが、初等教育におけるキャリア教育で「職種」について触れてはいけない理由であるが、未だ多くの大人たちは自分が罪を犯していることに全く自覚がないまま、子どもに対して「ねえ、大人になったら・・」と意味不明の質問を続けているのである。

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torapa1701 at 01:09|Permalink

2016年09月10日

「十流大学」・・? ランクってなんだ?

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最近、あるクライエントから「我が子の進学について」相談を受ける機会があったのだが、いろいろと調べてみた結果、私だけではなく相談者である母親までもが大笑いすることになってしまった。

一流・・二流・・そして三流大学という評価は昔からあったが、なんと現在ではSランクから数えてXランクまでの階層的分類があるという。

SABCDEFGH・・X、つまりSランクを「超一流」としたら、Xは「十流」ということになる。
相談に来たクライエントの息子は、地元の大学か、または東京の大学を狙うかのどちらかで迷っているとのことだが、私が「う〜ん、こちらが六流で、そちらは八流となっていますねえ・・」と答えたものだから、母親は「え〜、大学って三流以下もあるんですねえ・・」と驚きながらも苦笑していた。

また、息子がそんな六流大学になんとか受かったとしても、四年もの時間と1000万円以上にも及ぶ学費&生活費に果たして価値があるのだろうか・・と悩み始めてしまった。

ちなみにFランクはフリーという意味もあり、ただ名前さえ書けば合格となる大学であり、Gランクは定員割れで存亡の危機にある大学。
Hランクは知名度が低くどこにあるかさえ知られていない大学、そしてXランクは・・もはや大学とは名ばかりで入ってはいけない大学だという。

戦後、高校への進学は言うまでもなく、大学の進学率が上がったこともあって、今は「自分は大卒だ!」などと胸を張れる時代ではなくなってしまっている。
どうしても自慢したいのであれば、なんとか努力してBランク圏内に入ることである。

さらに、学生自身が自分の将来像をまったく描くことができず、「何が目的で進学するのか?」と誰かに問われても答えることができないようだ。せいぜい「大学を出たほうが就職に有利だと思うし、高卒より大卒の方が給料も高いだろうから・・」と言うだけだろう。

だが現実は甘くない。いまどきの企業は、こういった大学の実情を知っている。

卒業論文といっても、どこかのサイトに載っていた解説をそのままコピペしただけの粗末なものだったり、たとえ卒業に届かぬ赤点しか取れなかったとしても保護者?からの攻撃を怖れて卒業させてあげたりしている現状を知れば、いかに求人に応募して来たとしても欲しい人材ではなかろう。

このような実態を知ってしまえば、「大卒」が価値を失うのも当然である。

それゆえ、書類選考で大卒として扱うならば、せめてDランクまで・・と線を引いている企業も多いという。
Eランクは、学歴そのものは無駄にはないかもしれないが、加点評価の対象にはならないとのことだ。

そもそも「AO入試」とはユニークな人材を発掘するために生まれたようなものであった。
グローバル化が進む産業界や経済社会にあって、企業が生き残るためには「差別化」が欠かせないからである。
むろんユニークなアイデアはユニークな人材からしか生まれないというのは道理だと思うが、大学もまたそういった企業サイドからの要求に応えようという意図だけでなく、これからの大学の在り方として新たな展開に期待を寄せてのことだったと思われる。

しかし、今や大学院でさえ「希望の職種に就けなかったが故の残された道」というか、学生である時間を引き延ばそうと目論むものでしかなかったりするし、採用する側でもモラトリアムとして受け取る場合が多いと聞く。
これから進学を考える本人はもちろん、親もまたこういった現状を理解しておく必要があるだろう。

そもそも何が目的で進学するのか?
そこには、「学びたい」という主体的な想いではなく、「就職で不利にならぬよう」といった強迫観念があり、少なくとも「学歴」や「資格」を採用されるための必要条件として捉える者が多いことは否めない。

これでは、やれランクがどうのこうのと言う以前に、言わば入試の動機自体が不純であり、「無難にうまく世を渡るための手段」でしかない。
果たして、そういった若者たちのことを「学生」と呼んでよいものかは疑問だが、文科省が掲げるスローガンである「生きる力」の解釈が「創造性」や「変革」ではなく、社会適応だと勘違いされてきた結果だと思えてならない。

エンプロイアビリティ(雇用される力:企業に求められる強み)という言葉を初めて聞いたのは、たしか10年ほど前だったと思うが、いま改めて本来の意味を問い、初等教育から始まるキャリア教育に活かすことをやらねば誤解されたまま状況はさらに悪化の一途を辿ることになるだろう。

torapa1701 at 23:20|Permalink世に対する疑問 | 問題提起

2016年08月21日

オリンピックに学ぶ「イジメをなくすための方法」

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前回の記事にも書いたように、オリンピックやワールドカップなどの試合において、多くの人々は、主に「母国のチーム」を応援する傾向がある。

「そんなの当たり前じゃないか!」と一蹴せずに考えてみてほしい。

それは、同じ言語を使う文化圏であったり、同じ環境下にある立場であったり、または運命共同体的に国を捉えるが故に、そこに殉ずる想いが共通していたり、同じイデオロギーを共有していたりといった具合に、そのほとんどが「立場を共にする同族意識」が、そこに「自分たち」という集団心理を形成し、それ以外の異人は「ヤツら」として認識してしまっているのだろうと思われる。

細分化すれば、家庭においては「両親と子どもたち」であり、他の家庭との関係では「ウチと隣の家」であり、少し視野が広まれば「自分の母校と他校(対抗試合など)」であり、県境を越えれば「同郷の友と他県の人たち(国体や甲子園野球など)」であり、さらには「我が国の選手と他国(異人)」という境界ができあがっている。

たとえば、卓球選手の「福原愛」について言えば、僕は彼女と会ったことは一度もないし、個人的にどんな方なのか、プライベートではどうなのかに関して全く知り得ないが、幼いころから天才少女と呼ばれて注目され、テレビや雑誌の誌面において多くの情報を得てきている経緯があるために、なぜか親近感がある。

少し前に知った石川や、今回の大会を観るまで知らない存在だった伊藤よりも福原だけが近く感じてしまう。

しかし、大会の途中で各選手に興味が湧き、ネットでいろいろ調べるうちに彼女たち2人の子ども時代の様子や物心がつく以前から母親と共にトレーニングを重ねて今日に至っている事実を見せられてしまったとき、やはり福原に対する親近感に近い感覚を得ることになる。

その結果として「がんばれ3人」となり、対戦相手に対しては「がんばれニッポン」となるのである。

同様に、体操の内村のことは以前から知っていたこともあって、金メダル争いを演じた「オレグ・ベルニャエフに負けるな!がんばれ!」とばかりに当たり前のように応援している自分がいた。

だが、試合が終わったあとの記者会見において、内村に向けられた記者の失礼な質問に対して、答えに詰まっている内村の名誉を守ろうとしたベルニャエフの言葉をきっかけに彼の背景が見えてきた。

知らない方のために参照:以下の赤い文字をクリック!

無駄な質問だ」内村揶揄したメディアに銀メダリストが一喝

以下、文中より〜
「ベルニャエフの祖国であるウクライナは分裂状態が続き、国からの支援は一切ない状態。劣悪な練習環境で、月給約1万円という状況の中オリンピックに出場していたんです。練習は壊れているところばかり、故郷は戦地、親とも会えない、そんな状態だったようです。」

といった具合に、今日に至るまでの経過や置かれている環境、そしてけっして恵まれていないトレーニング環境において、どれだけ苦労して這い上がってきたかを皆が知ることになる。
それに加えて、彼がいかに「ナイスガイ」であるかも知ってしまう。

その途端にベルニャエフへを支持したい気持ちが一気に高まり、日本人でありながら個人としての彼を応援したくなるのである。

僕もまたその中の一人なわけだが、だからこそ自分を通して周囲の者たちがどのようなプロセスで「味方」になってしまうのかも実感することができた瞬間だった。

つまり、このような「親近感」は、所属や同族意識というよりも「自己と他者」の心の距離感を表わしており、相手を詳しく知れば知るほどに大きくなるらしい。

と、ここで「イジメ問題」を例に挙げてみよう。

続きも読んでね。以下の赤い文字をクリック!
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torapa1701 at 13:37|Permalink問題提起 | 世に対する疑問

2016年08月19日

メダルは誰のもの?

20160114162512五輪のマークには意味がある。

オリンピックの創始者であるピエール・ド・クーベルタンは、「スポーツの場を借りて互いが手をつなぎ、世界がひとつになることを祈念して!」という主旨を以て、5つの大陸を表す5個のリングが重なり合うデザインを考案した。

以下、参考になるサイト 
http://olympicnewsd.com/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E4%BA%94%E8%BC%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6 ⇒ 左の赤いURLをクリック!

でも、実際のところ、多くの人々がその主旨を理解していないのではないか?と思われてならない。
五大陸がひとつになるどころか、国の威信を懸けた戦いになっているような気がする。

そもそも速報などで言われる「これで日本が獲得したメダル数は、◎◎個となりましたね。」などという妙なアナウンスは、たとえば海外で大きな旅客機事故が起こった際に「日本人の乗客は含まれておりません。」とわざわざ言うのと同じくらい、おかしなことだと思う。

自分の身内が亡くなることは悲しいが、どこかの知らない誰かが亡くなっても心は痛まないのである。

というよりも先に「認識」が偏っているんじゃないかなあ。

話を戻すが、メダルはあくまでも個人の栄誉を讃えたものであり、べつに国が獲得したわけではない。

こういった国家や民族意識の強調によってナショナリズムを煽ることから「選民思想」が生まれ、優劣を基軸とする「優生学」を生み出し、未だに世界から「自分たちとヤツら」の敵対的な構図や排他的な態度がなくならない理由のひとつになっている。

宗教にも同じことが言える。
それぞれが愛を説いていながらも、他宗教や他の流派に対して否定的かつ排他的な面があったりする。
しかも、どこにも所属していない者は不安を感じ、集団に埋没することで安心を得ようとする。この安心こそが自身の想いを覆い隠してしまう。

所属意識こそが「敵」を生みだすのだ。

日本人だから日本を応援する? 
そう・・日本人だからだろうな。 地球人ではなく・・

ちょっと前まで、この狭い日本国内ですら、薩摩藩士と長州藩士が衝突・・とか、地域的な小競り合いをしていたのに、黒船来訪のおかげで人々の心は一丸となり「日本人」になることができたのを覚えているだろうか。

これ、誰もが小学校のときに日本史で学んだはずだよね?

出身国があるのは当たり前だが、あくまでも個人としての競技であってほしいものだ。
そこに本人ではなく観衆が「愛国心」とか「郷土愛」などというものを混在させてしまうから事がややこしくなるのである。

卓球などはドイツもシンガポールも中国出身の選手が目立ったが、中国籍では選出される代表の枠に入れないために、やむなく他国から出場するのだろう。
受け入れた他国としても、「我が国のメダル」にできるから断る理由はない。

これは、甲子園に出たいがために、敢えて他県の高校に進学する選手と同じである。

以前、山形に住んでいた頃に東海大山形高校が順調に勝ち進んだことがあった。
僕は何気なく試合を観ていたのだが、途中で流れたメンバーの構成を見て驚いた。
9人の選手のうち、なんと8人が山形県以外から受験してきた生徒たちで占められていたのだった。

それを知った上でも、やはり地元では当たり前のように東海大山形高校を応援するのである。

国体だって、大会ごとに住所を変えて開催地に勝利をもたらす「ジプシー選手」がいる。
開催地からの要請で「転居して来て、しばらくは◎◎県の住人になってほしい」と依頼されるのだ。

開催地であるだけで急に強くなることの不自然さに誰も疑問を持たない。 
いったい、なにをやってるんだろうねえ。

日本びいきで応援したくなるあなたにとって、所属とはなんだろう?
もしかして、未だに小学校時代の赤組VS白組・・または他校との対抗試合で敵味方になった構図を引きずっているのだろうか?

もういい加減に、国境など取り払った「地球人」としての自覚を持つことはできないものだろうか?

他国の選手にだって自分の活躍を応援してくれている親もいるし、心配してくれる友人もいる。
彼らとて、日本の選手と同じく、ここまで到達するために血の滲むような努力を重ねてきたはずなのだ。

ということで、吉田選手も愛ちゃんも、金メダルじゃなかったからといって、「日本のみなさまに申し訳ない」などと思う必要はないのだ〜。

↑ これが言いたかっただけかも・・(^_^)♫

自分のために、切磋琢磨するために相手と競い合えばいいんじゃないかな。

そうだ!! 表現を「戦う」ではなく、「互いに競い合う」に変えればよいのだ。

企業の世界では、すでに国境など意味を失いつつあるのにねえ・・

ということで、以前にも同じような記事を書いていますので、読んでみてね。

http://blog.livedoor.jp/torapa1701/archives/50554698.html



torapa1701 at 19:40|Permalink世に対する疑問 | 人間としての成長

2016年08月17日

存在が承認されていることの大切さ 

まずは、以下の動画を観てほしい。
母親の態度如何によって赤ちゃんの表情にどのような変化が生じるかを観てみよう。
赤ちゃんがどのような気持ちになっているかが解るはずだ。


こういった、ちょっとした母親の態度によって、子どもは「自分は見捨てられたのではないか・・」という不安が生まれ恐怖心に包まれる。
もちろん、相手は赤ちゃんなので、そこには理由や根拠などといった理屈に因るわけではない。
とにかく実感に基づく感覚的なものである。

しかし、だからこそ怖いのである。
身体が記憶すると言ってもよいだろう。

じつは、自分の存在自体が親に承認されていなければ、成長の過程において自己肯定感も自尊感情も得ることができないのだ。
もちろん自信も持てない。

自信と言っても自分の存在そのものに自信がなく、言わば「自分は、ここに居てもいいのだろうか?」という不安感であり、自分が排除され孤立するのではないかと怖れている。

つまり、「存在承認」とは心の土台であり、これが欠乏しているが故に愛の欲求を充たそうと躍起にならざるを得ませんし、この状態のまま放置すれば、人生における多くの貴重な時間を失い、自分が愛されるようにと莫大なエネルギーを費やしてしまうことだろう。

母親の気分によって、子どもに対して条件付きの承認を行なってしまうことで、子どもは「周囲から自分がどう思われるか?」が気になり、「相手や集団から嫌われないためにどう振る舞うか」を予め考えてことが行動選択の基本になってしまうのだ。

つまり、自分が本当は「どうしたかったのか?」がどんどん分からなくなっていく。

抑圧され蓄積したた欲求は、社会への恨みに向いてしまえば平気で他者を傷つるような行為に及ぶだろうし、それでも想いを呑み込もうとすればリストカットなどの自虐的な行為がやめられなくなるケースも少なくない。

この辺りのことについて、母親はよくよく理解しておくことが大切である。

しかし、母親とて人間・・

自分自身もまた成育歴の過程において、親からの承認が得られなかった、または条件付きの承認を繰り返されたとすれば、いかに我が子といえども受け入れるのではなく、操作しようとしてしまうかもしれない。

つまり、親に対して持っていた「自分のことを理解してほしかった(分かってほしかった)」という想いは、次に恋人や配偶者に向かい、それでも得られない場合は我が子へと対象を変えることになる。

だが、そのときは子どもに対して「ママの気持ちを分かってほしい」ではなく、「自分の言うことをきかせたい!分からせたい!」に変換されてしまっていることだろう。

良き母親であろうと努めようにも、これまでの辛かった経験が邪魔をして、なかなか優しく接したり、子どもの気持ちに関心を寄せることなどできない。

「子どもは、親自身の姿を映し出す鏡である」という言葉があるが、まさに自分が行なってきたことが子どもの言動に写し絵のように顕れているわけである。

だからこそ、「いまわが子に何をどうすればいいのか?」ではなく、まずは「自分が何をしているのか?」
もし、子どもの行為に無性に腹が立つのなら、「私はなぜこんなにも怒っているのか?」と自問自答し、私を俯瞰して観ようとする姿勢が大切なのである。

気づけない人は、いまの行為をやめることはできない。

子どもへの関わりは、自分の気分(興味)によって行なうことではない。
できれば、意識的に「関心」を以て関わることができれば、ずいぶん違ってくるのである。

興味は湧くもの ・・・
でも、関心は持つもの ・・・

さらに言えば、子どもの「存在」と「行為」とは分けなくてはならない。

存在は大切・・でも、その行為はダメでしょ!といった具合に・・・

これが、「そんなことをする子は、ウチの子ではありません!」というように、行為によって存在が脅かされることはあってならないのだ。

むろん、賞賛する際も同じことが言えよう。
「ママの言うとおりにちゃんとできたら褒めてあげる」・・・
「がんばったら、買ってあげる」・・これでは「条件付きの承認」にしかならない。

褒めることなど、単に親側の主観や気分による勝手な評価でしかないことを知っておくことが肝要である。


torapa1701 at 11:58|Permalink育成 | 自分さがし

2016年08月03日

私は誰なのか? 



母親も
妻も
嫁も

どれも「立場的な役割」でしかないのに、いつの間にか「役割」を自分だと思い込んでしまっているかもしれないね。

長らく夫からも「お母さん」とか「ママ」呼ばれていた私が

突然、名前で呼ばれた瞬間、ただそれだけで「オキシトシン」の分泌量が増えるという。

オキシトシンとは、別名「しあわせホルモン」とも呼ばれるもので、他にも・・・

「幸せホルモン」
「恋愛ホルモン」
「抱擁ホルモン」
「信頼ホルモン」
「絆ホルモン」
「思いやりホルモン」
「癒しホルモン」

など、数々の異名を持つ。

私にだって名前があるのに、お母さんとかママといった役割名でしか呼ばれないことに慣れてしまっている。
「私」として扱われていない自分・・

これは、とっても大事なことだと思うんだよな。

もちろん子どもにとって母親は、自分に「〜をしてくれる存在」なのかもしれないが、だからといって「私」を失ってはいけないし、子どもはそんな役割的な母親を観てモデル化してしまう。

男の子は、いずれ今の夫のようになっていくだろうし・・
女の子は、いずれ今のあなたと同じような毎日を体験をすることになるだろう。

全国の「お母さん」!
ちょっと立ち止まって、現在の自分を観てみようよ。

健康で長く生きるためにも「私」を取り戻そう。

夫のことを「主人」などと呼ぶのもやめよう。
主人の反対語は、「召使い?」、「家政婦?」、「メイド?」

どれも違うなら、自らディスカウントしてはいけない。

妻に相対する言葉は「夫」。言うならば「ウチの夫は・・」です。

これも併せて ご覧ください。日頃の鬱憤が晴れるかもよ(*^_^*)
クリック↓
http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/news_business/p242ec61ae380e8576274e44e8757ee20

torapa1701 at 20:53|Permalink世に対する疑問 | 日本の文化

2016年05月28日

「スクール・ソーシャルワーカー」という職業

12814354_656900617781064_9172680068283987369_n僕の仕事はスクール・ソーシャルワーカー(以下SSWとする)である。
今年で9年目となるのだが、自分としてはけっこう大変な仕事をしているなあ・・と思うことが多い。
年齢的な問題はさておいて、かなり疲れるしね・・
なにせ個人情報を持ち歩くことが禁止されているから、常に頭の中が飽和状態なのだ(>_<)

しかし意外にも、このようなキツい仕事である「SSW」になりたいという若者が多いと聞いて驚いた。
なぜか人気職らしく、大学にもSSW養成の学科が増えつつあるという。ひところ、スクールカウンセラーがそうであったように流行りなのだろうか・・

だが、それはおそらく、どのような仕事内容なのか知らずにイメージだけで希望を膨らましているのだと思われる。
そのまま夢を抱いていては後に悩むことになると思うので、この場を借りて実情をお知らせすることにした。

書籍等で説明されている内容と若干の違いもあるだろうが、大雑把に言えば下記のような内容となる。

複雑化の度合いを増す今日の社会において、不登校や問題行動、またはイジメや貧困問題など、学校組織の力だけでは解消が困難となってきている現状に対し、学校教育現場に「福祉的な視点」の導入を目指す。

スクールカウンセラーとの違いは、主に親の影響が大きい小中学生を対象としていること。
(※:高校や専門学校においても要請が増えてはきているが・・)

また、カウンセリングとは違って心の問題だけに限定せず、子を取り巻く環境(主に家庭環境)を調整することで改善を図るという具体的な部分に力を入れていることである。それを実現するために地域の関係機関と力を合わせ、具体的かつ総合的に取り組む。

問題解決の対応方法については、ケースカンファレンス(ケース会議)にて共有的に行なう。
だが、これまでのように最初から対応策について検討するのではなく、下の手順に沿って行なう。
(「対応マニュアル」のようなもので一律化することはせず、個別に対応策を考える。)

できるだけ多くの情報を集める。

集められた情報を基に多面的な視点を以て「アセスメント(児童の行動の背景について見立てを行なうこと)」を行なう。

その上で改善に向けた長期目標を定め、その方向に沿った「プランニング(手立てを検討すること)」を設定する。

問題の解消や改善については、あくまでも児童や生徒自身にとっての最大の利益となることを目指す。

学校内の職員のみならず、家庭はもちろんのこと保幼小中連携、地域の関係諸機関との連携をも同時に行ないながら「チーム対応」を基本として取り組む。

これらを推進しながら、学校や地域における「体制づくり」を目に見える形にしていくことである。

アセスメントについて言えば、原因⇒結果といった直線的因果律的な解釈ではなく、様々な要因から円環的かつ多面的な視点を以て心情的な部分をも含めた「全人的な理解」を目指さなくてはならない。
「人の行動には必ず何らかの背景がある!」が合言葉である。

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torapa1701 at 15:00|Permalink真実 | スクール・ソーシャルワーク

2016年05月26日

執着を手放すということ グリーフケアとは・・

4506「グリーフ」について、あれこれ考えてみた。

「グリーフ」とは、悲嘆・・深い悲しみなどを意味する言葉であり、たとえば肉親や大切な友人など、「自分にとってかけがえのない存在を失った際に生じる喪失感」を指す言葉として解説されることが多い。

そこには、手放したくない想い 残念な気持ち 離別による大きな悲しみ、そして心にポッカリと穴が空いてしまったかに感じられる空虚感などがあり、場合によっては生きていく気力を失ってしまうことさえある。

その対象は、特に人間だけにかぎったことではなく、可愛がっていたペットや大切にしていたモノであっても、それが失われた場合には苦しい感覚に襲われる。

特に相手が亡くなった場合や、なにかを失ってしまったときだけではなく、大好きだった友人や恩師とのお別れ、つまり卒業式や退職などの場面でも似たような気持ちになることは誰もが経験しているはずである。

「失恋」などは、その典型的な例と言える。
もう逢えないという意味においては、相手が亡くなってしまったことと同意であろう。

かく言う僕も、じつは20歳のときに大きな失恋を経験しているのだが、その後何年にも渡って引きずることになってしまった。
彼女と過ごした数年間を手放すことができず、仲むつまじく楽しかった日々を思い出す度に胸が苦しくなり、いかに忘れようと努めてもなかなか振り切ることができなかった。

そういえば、小学校を卒業したときに大好きな女の子が県外に引っ越してしまったときにも大きなショックを受けたっけ。
「初恋は成就しないものだ」と聞いたことがあるが、理屈で割り切れるものではない。
そこには、やむにやまれぬ苦しい想いがあるものだ。
(あ、今ここで連鎖的に思い出したということは、未だ決着がついていないのかもしれないな・・(>_<) ありゃあ・・なんてこった!ああ、やはり男は過去の奴隷なのか・・)

さて、これら諦めきれない感覚、または名残惜しい気持ち・・これらはどこから生じるのだろうか。

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torapa1701 at 06:59|Permalink

2016年04月30日

生きるとは何か? 命とは何か?


1934691_1033081880083965_2706438275268070896_n・・・以下の動画を観て、ある言葉を思い出した。

『人間とは,「為す」ことができる存在である.「為す」とは,意識して,しかも自己の意志に従って行動することを意味する.人間に関してこれ以上完璧な定義は見出せない.』・・
 G・I・グルジェフ

こんなことをして何になるのだ?
と問う人もいるだろうが、目に見える成果や希求する状況を得るためではなく、それを為そうとする意志と、なんとか達成しようと本気で向き合っている「過程」にこそ、いま此処に自らが存在しているということの意味と価値を見出すことができるのだと思う。

以下のURLをクリックしてみてね(*^_^*)

https://www.facebook.com/livingwonderful/videos/258816414278115/

参考まで・・「グルジェフ語録」

http://www.eonet.ne.jp/~takafumi/self-real/term/gurd.html


torapa1701 at 09:52|Permalink自分さがし | 問題提起

2016年03月26日

就学時に起こりがちな「分離不安」(再投稿)

分離不安にまでならずとも、2人以上の子を持つ方は以下の動画を観て感じてほしい。
また、親である自分自身が末っ子であったり、一人っ子である場合にも、第一子の気持ちを知っておくために是非とも観て戴きたい。
(たったの1分半ですし・・)


もうすぐ4月。小学校の入学式も目の前だ。

しかし、就学を楽しみにしていたはずの我が子が、登校を初めて3日も経たないうちに突然「学校に行きたくない」と言いだすことがある。(数ヵ月後に起こる場合もある。)

集団登校に間に合わず、仕方なく母親が校門まで送って行ったとしても、「どうしても離れることができずに泣き叫ぶ」といった光景を目にすることが多い。

こういった場合、「言い聞かせる」というのは、もっとも無駄な行為なのだが、母親自身が急いで勤務先に向かわなくてはならない状況だったりすると、その「焦る気持ち」が子どもに伝わり、さらに「見捨てられ不安」が倍増!⇒ もっと、しがみつく・・という悪循環となってしまうだろう。

これは一般的に「分離不安」と呼ばれる状態を指す言葉だが、単に対応法を考えたり解決法を探すよりも先に知っておくべきことがある。

ということで僕の過去のブログを読んで戴きたいと思い、ここにリンクを貼ることにした。

(以下のURLをクリックすると、「分離不安」について詳しく書いた2010年10月09日の記事に飛ぶようになっています。)

http://blog.livedoor.jp/torapa1701/archives/52575357.html

犬でさえ動揺するし、排除されることは淋しい。
要は親が関心を持って気づいてあげられるか否かなのだ。
そのためには、興味ではなく関心を持つことが肝要である。



torapa1701 at 23:06|Permalink育成 | 教育

2016年03月25日

合法的なイジメ? これこそが「スケープゴート」だ。

12177990_945670622178518_1105208195_nまずは、以下のURLを開いてみてほしい。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/masakiikegami/20160325-00055839/

「扉の向こうで「ひきこもり」している像を流したがるテレビ局の体質」という記事である。

以下、文中より〜
3月21日夜、テレビ朝日は「TVタックル」の「大人のひきこもり」特集で、本人の同意もないまま、フリースクールを運営する団体代表が部屋の扉を突き破り、大声で怒鳴って威圧する映像を流した。
そんな当事者への暴力的な手法をとる支援業者を終始、宣伝のように紹介していた番組に対し、ネット上では「酷すぎる」などの批判が殺到・・・


人は、自分の行為を無自覚なまま合理化しようとする。
合理化とは、相手よりも先に、まず自分を欺くのだ。

こういった「集団による暴力」が後を絶たない。
いや、自分たちの行為が暴力であることにさえ気づいていないというべきか・・

人が自分以外の誰かを見下すことで「オレのほうがまだマシだ・・」と安心しようとする心の防衛作用に「仮想的有能感」と名付けた人がいたが、実際にそういった感覚を持つ人たちが多いのは事実のようだ。

イジメがなくならないのも、じつのところイジメ自体が「娯楽」と化しているからだと思うし、いい歳こいた大人たちが自分の行為がイジメであることだと認識していないからではないだろうか。

もちろん「ドッキリカメラ」などは、完全にイヤガラセかイジメでしかないと言いきることにしよう。
他人が困っている様子を観て愉快だと感じる時点で既にアウトだ。

自分を安定化させるために「ダメな状態に陥っている 誰か 」が必要なのだろう。
こんなものは明らかに「生贄」であり、集団による暴力以外の何者でもない。

しかも巧妙に、年老いた親の側に焦点を当てることによって、こういった暴力を正当化しようとさえする。

この国に住む多くの人たちは、「ふがいない自分」や「情けない自分」を誤魔化すために誰かをボコボコにすることによって、なんとか平静を保っている」と言えるのかもしれない。
それこそ、ダメな自分と向き合わずに現実逃避をしているわけだが、どちらが情けないか考えてみたら?と言いたくなる。

こんな番組を制作する放送局も最低だと思うが、興味本位でそれを観る視聴者たちもまた無責任で最低だと思う。
残念ながら、これら両者は利害関係が一致しているのだろう。
例のベッキ―の一件などは、彼女が優等生的で高感度が高かったがゆえに格好の標的にされたと言える。
 
少なくとも僕はこういった野卑な集団の一員にはなりたくないし、自分が行なっている行為を常に俯瞰する目を失わないようにしたいとは思う。

以下の動画・・ なかなかいいポイントを突いてる。

それともフジテレビが、常日頃 自分たちが行なっている悪行の数々に良心の呵責を感じていて、そこに葛藤を感じているからこそ「言い訳」的に制作されたドラマなのかな?・・



torapa1701 at 09:37|Permalink世に対する疑問 | 日本の文化