2018年08月29日

自分らしい生き方ってなんだ? 今さらアナ雪!

elsa800
面談の席で「私は自分らしく生きてゆきたいのです。」という言葉を聞くことが多い。

一見すると前向きな発言と取れなくもないのだが、じつはそうでもない。

自分が何者で、どのような人間で、どういった自分が本来の姿(真の姿)なのか?
それを十二分に自己理解した上で語るのであれば、まだいい。
しかし、もしかすると、そこには「理想とする自分の姿」を思い描いていたり、今の自分を否定するような意味で「こんなのは私じゃない。もっと自分らしく!」というのであれば、それは今の時点では達成できていない中途半端かつ偽りの自分のことでしかないし、憧れを抱いたまま背伸びをしている状態に過ぎないことになる。

テレビのCMを観ていても「私らしく!」というセリフが多く目につく。
これはおそらく、人生というキャンバスに自由に自分を描くことができる私。という意味なのだろうが、どうやら「ありのままに」と混同されているような気がする。

「ありのままに」と「自分らしく」は似ているようだが、じつはまるで意味が異なる。
「ありのまま」は、書いて字の如く、自然である様というか、何も飾らず仮面をつけることもせず、もちろん相手に対して愛想笑いなどする必要もなく、部屋の中に独りで居る瞬間と集団の中に居る自分とを比較しても何ら差がない状態にあること・・と言えるだろう。

対する「自分らしさ」とは、そこにあきらかに意図的な拘りがあり、「こうあるべき」といった「枠(囲い)」を感じるのだ。

もし、あなたが身近な友人から突然「そんなのおまえらしくないぞ!いったいどうしたというんだ?」と言われたら、どんな気持ちになるだろう?
きっと気分を害し、「なんだよ!いったい俺の何が解るって言うんだ!俺の何を知っているというんだ!俺に対するイメージを勝手に作らないでくれよ!」「余計なお世話だ!」とでも言い返したくなるのではないだろうか?

他者から勝手なイメージを持たれ、それを押し付けられたら不快になるのも当たり前である。
しかし、おかしなことに、人は自分に対しては「こんなの私らしくない!」などと平気で言うのである。
「らしく」という言葉遣い自体が既に何らかの「規定」に縛られている状態であり、すでに「〜でなければならぬ」「こうあるべきだ」といった意味を含んでしまっていることに気づいているだろうか。

自らの自由を縛っているのは、他でもない自分に対する規定そのものなのだ。

ディズニーのアニメ映画「アナと雪の女王」におけるLet It Go は、「ありのままで〜♪」と訳されていたが、知り合いのアメリカ人に教えてもらったところ、あれは元々「手放す」という意味であり、「ありのままで」というよりも、「もうどうにでもなればいい!知ったこっちゃない!わたし、もう勝手にすることにしたわ!」という翻訳が妥当だという。
言わば冬山に向かうエルサは「ヤケクソ状態」だったわけである。
なるほど、シーンを観てみれば身に纏う服を脱ぎ捨て、手袋を捨て、人里を離れた山奥に氷の城を築いて引きこもる様子が描かれている。
けっして「ありのまま」ではなかった。
本当に「ありのままで」と歌っているのであれば、わざわざ山にこもる必要などなく、周囲に誰がいようと独りであろうと関係なく、どこでも「ありのままの自分」でいられたはずである。

そのようなわけで、つい僕らは、そこにどのような意味が込められているかを理解せずに軽々しく言葉を使ってしまうことが多いようだが、「ありのまま」もまた、本当の「ありのまま」とは、どのような自分のことなのかも意志的に理解しようと試みて初めて手に入るものではないだろうか。
自己を見つめることなく、真の自分の姿など見えるはずもない。
ましてや自分を規定し自ら自由を放棄する「自分らしさ」など論外である。

人は、何らかの役割を担っていたり、期待される立場に在る際に「〜したいと思います」と「〜せねばならぬ」の区別が曖昧になってしまうことが多いようだ。
私の目標は・・から始まる宣言は、果たして自らに対して主体的に課した目標なのか、それとも自分が所属する集団の要求に応えるべきといった受動的なものなのか?

自分の本当の気持ちを見失った状態で事に臨めば、むろん次第に苦しくなっていくことだろう。
それは「偽りの自分」だからである。


torapa1701 at 00:15|Permalink 世に対する疑問 | 生き方

2018年08月12日

自分の怒りの正体を自覚できていますか

20140105053331このブログで「怒り」について取り上げるのは確か3度目になるかと思うが、とある研修の場において幾つかのお薦め本を紹介したところ、多くの質問を頂いたにもかかわらず時間切れになってしまった。
ブログをお知らせしたけど過去の記事を探して戴くのも申し訳ないので改めて書いてみることにした。
(かなり長いので、覚悟して読んでね(*^_^*) )

とかく「怒り」に纏わるトラブルは後を絶たず、世の中で起こっている対人トラブルのほとんどが「怒りに任せた振る舞いによって最悪の結末に・・」と表現されると言っても過言ではない。

しかも「後悔、先に立たず」とも言われるように、クールダウンした後でようやく自分が何をやらかしてしまったのかに気づき、そのとき冷静ではなかった自分を責めながら、もはや取り返しのつかない結果を自ら招いたことに後悔するのである。
そのようなことを性懲りもなく幾度も繰り返しているのに、なぜいつまで経っても改善に至らないのか?

それは「反省」などやっているからである。

反省とは、もともと過去の自分を対象化し客観的に省みることであるはずなのだが、その多くは「いけないことをしてしまった。」が前提であり、「やらかした行為」にだけ焦点を当て、自分の非を認めた上で謝罪へと導かれることを目指す、形ばかりで内容の伴わないパターンになってしまっている。

敢えて「行為」には焦点化せず、いったん脇に置きながら、そもそもなぜそのような行動に出るほど腹が立ったのか、自分の中でどのような感情が起こっていたのか・・について、いっさい善し悪しの評価を持ち込まずに俯瞰することができて、そこで初めてその時の自分の姿が見えてくるのではないだろうか。

評価を持ち込んでいるかぎり防衛が働くのは当然であるし、なんとか罪を軽くして逃れようと自らの行為を正当化するだけである。

「反省させると犯罪者になります」という本が売られているが、読んでみるとなかなか面白い内容だった。
なるほど、まさにそのとおり!だと思った。

反省は実際のところ「どうしたら許してもらえるか」、または「なかったことにできるか」について知恵を働かせる「言い訳」のトレーニングでしかなく、非難の的になっている状況から逃れるための口実を考えるだけである。
もちろん、そこに「相手に対する申し訳ない気持ち」など全く含まれていなくとも、反省文に書かれていることが立派な内容でさえあれば、その後の実効性はともかく一時的にでも受け取ってもらえるのである。

必要なのは「もう二度としません」と言わせるための「反省」などではなく、自分を見つめ、何がそうさせているのか(いたのか)を自覚するための「振り返り」である。

何度も書くが、怒りとは二次感情である。
怒っているようでも、じつは本当の感情(一次感情)が先に湧き上がってきているのだが、その感情の正体が何なのかが自覚できないまま次第に大きくなってくる苦しさに耐えきれず、つい怒りとして出さずにいられなくなるのだ。

このような状態になったのはオマエの言動のせいだ!と、一次感情を理解するよりも先に怒りに転換して相手にぶつけたくなるのである。
それが漠然とした社会全体に対する怒りであれば「誰でもいいから殺そうと思った」などと言うことになるのだろう。

勝手に自分の中で揺れている感情を誰かのせいにしているのだ。
これは依存として解釈することもできる。
感情は誰のものでもなく自分自身のものでしかない。

この怒りの背景に何があるのか?・・と、その瞬間の自分の心を観察すれば自分にとっても意外な「本当の感情」が見えてくるものなのだが、とにかくこの不快感を払拭したいと必死なので自分を観る余裕などないのだろう。

極端な言い方をすれば、そもそも『怒り』などという感情は存在しないと言っていいかもしれない。
それは前に書いたように何かが転換された偽りの感情であり、表出するとすれば「怒りにして出すこと」以外の手段を持っていないということにすぎない。

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torapa1701 at 15:41|Permalink こころ | 気づき

2018年06月26日

旧友との関係を断つ勇気

10055678915「断捨離」・・この語句は、既に一般用語として定着してしまっている感があるが、ウィキペディアによれば以下のように説明されている。

『断捨離とは不要な物を減らし、生活に調和をもたらそうとする思想であり、山下英子の著書において発表された。
なお、「断捨離」ないし「クラターコンサルタント(「暮らす」と「ガラクタ」を組み合わせた造語)」は山下英子の登録商標となっている。』
(引用終わり)

もともと日本には伝統的文化のひとつとして「もったいない」という観念があるわけだが、これがあまりに行き過ぎるとモノに対する執着を生み、なかなか捨てることができなくなる。

捨てるという行為に妙な罪悪感が湧き上がり、「まだ使えるモノを捨ててもよいのだろうか・・」という自責の念に駆られてしまうのである。

やがて、役に立たなくなったモノまで残すことになり、徐々に家の中が埋め尽くされ、最終的に自身が快適に過ごすための空間までもが圧迫されることにより心身の健康にまで害が及ぶほどの悪しき循環に至ってしまう。

断舎離は、このような状況に陥ることを避けるために意志的に捨てる決意と敢えて断行する覚悟が必要ではないか?といった提案と言えるだろう。

この提案は、既にご存知のように既に圧迫に悩んでいた者たちにとって「整理」や「整頓」について再考するきっかけとなり、結果として多くの支持を得ることとなる。

さて、こういった考え方や捉え方はモノだけに留まらず、果たして人間関係にも言えることなのだろうか?というのが、今回のテーマである。

先日、「旧友を捨てる勇気」というタイトルのコラムを見つけて読んでみたところ大いに考えさせられた。副題として「50歳を過ぎたら同窓会に出席してはならない」とある。

内容としては、以下のようなものであった。一部、抜粋〜
同窓会に行けば、たいてい病気と薬と副作用の話、そして昔話で会場が埋め尽くされる。
「最近、手術をしたんだよ」「この前、具合が悪くて病院に行ってきたところだ」「こういう薬を飲んでいるんだ」「その薬は副作用があるみたいだ」とこんな会話が延々と続いている。
別のグループでは「最近、墓を買ってさ」「昔は楽しかったな」「お前、彼女とつき合っていただろう?」などといった話をしている。
病気、死、懐古主義・・。そういう実のない話で場を温めるのも、たまのことならご愛嬌でいいだろう。その後に、「いま、こんなことを計画している。」「来年はこうしようと考えている」「資格を取得しようかと思ってね・・」などと明るい前向きな話題がつながるのであれば良いのだが、同窓会というところでは、そういう風に話がつながるようなことがほぼないと言ってよい。この傾向は年齢を重ねるほどひどくなる。
ましてや、「昨年ノーベル物理学賞をとった人の本を読んだのだけど、科学の今後についていろいろ考えさせられたんだ」というようなことを語ろうものなら完全に浮いてしまうだろう。
「2100年になると、日本の人口が5060万人になるというけど、そのとき、日本の行政区域は今のままでいいのだろうか」「あなたは憲法改正についてどのように考えている?」などという、教養に裏付けされたような話、未来の話、時事的な話は一切ない。
そういう人たちの集まりには、若い頃の陽気さも軽やかさもなく、不快な思いだけが心のなかに沈着する。帰路は足だけでなく心も重い。だから50歳を過ぎたら、今までの友人との縁を徐々に整理しはじめたほうがいい。70歳になったら、「古い友人」とは出来るだけ縁を切って、「新しい友人」への切り替えを完了させたいものだ・・・


以上が、その要旨である。
同窓会における会話の多くは、たしかに建設的かつ発展的内容には程遠いものばかりであるし、頻繁に登場する話題は過去の思い出だけである。
かといって「現在の私」に関する内容といえば、悲観的かつ絶望感を喚起させるような愚痴やボヤキが目立つ。

しかも、自分だけでなく他のみんなも多かれ少なかれ健康維持に難があるという状況を知ることで同族意識的に安心感を得るような流れがあり、そこに居合わせるだけで不健康な状態に引きずり込まれてしまうかのようなドロドロした構図も見え隠れする。

せっかく時間を作って集まったのだから、これから自分たちはどのように生きていくのかについて熱く語り合うような前向きなやり取りになれば良いのだが、聞かされているうちにこちらまで意気消沈してしまうような重苦しい空気が会場内に充満している。

そのような場に我が身を置くことは全く以て時間の無駄であるし、なにより気分が滅入ってしまうような展開だけはできるかぎり避けたいものだ。

せいぜい、会が終わった後の帰り道は足取りが重くなり、もはや自分の未来に可能性などひと欠片も残っていないのかも・・と気持ちが沈んでしまうのがオチである。

となれば答えは明白だ。早々と人生の幕を引こうとする旧友らとの関係を絶ち、これからは自分たちの未来について前向きに語り合える友人とのみ接触すると決めることである。

人の成長に限界はない。生涯学習、生涯発達という言葉が示しているように、自らの寿命が尽きるまで自己実現を追求し続けることこそが「人生を全うする」ということであり、すでに成長を諦めた者たちにつきあう必要などない。
と言い切ることにしよう。

いささか強引な書き方になってしまったが、これを書いている僕自身もまた還暦を過ぎ、いま改めて人生の再構築について模索している身であるが故のことである。

残された時間をいかに有意義なものとするか。

そして後悔しない人生の選択とは何か? 
やはりそれも意志決定に拠るものでなくてはならない。 
環境を作るのもまた自分の意志なのである。

時間は有限である。
この事実は年齢を重ねるほど実感的なものとなっていく。
それこそ「もったいない」の意味について、改めて考え直してみる必要があるのかもしれない。


torapa1701 at 21:38|Permalink 生き方 | 人間としての成長

2018年05月21日

心の経済学? 何に価値を見出すか・・

31925137_482025062216251_8907117273974571008_nスーパーカーの購入は、金銭的な障壁よりも心理的障壁のほうが大きい・・・という興味深い見出しを見つけた。

内容的にも おもしろかった。

読んでみて、なるほど そうだな・・と思った。

日本人は狩猟民族ではなく農耕民族だったから・・なんてことも関係しているかもしれない。
お金を貯めてから買うか、買ってから頑張って返済するか・・

無理して購入し、その結果として借金地獄に陥っては元も子もないが、ここで言いたいのは「ものごとの捉え方」についてである。

以下のURLをクリックすると、その記事が読めます。
http://intensive911.com/?p=106096

誰もが自分の家を建てるためには、数千万円という大きな金額を当たり前のようにつぎ込むのに、同額でも車には出せないというのは、買えないのではなく、その選択肢を避けているだけなのだ。

お盆の時期など、家族全員で実家のある田舎まで帰省すれば、けっこう多額のお金を使うことになるが、4Kの大型テレビなど高くて買えないという人がいる。

いまどき安い電子ピアノなら3万円もあれば買えるが、本物のピアノ、それもスタンウェイやべーゼンドルファでないとダメと言って車や家を買えるほどの金額を出す人もいる。

ただ音楽を聴くだけならパソコン+小型スピーカーでも十分なのに、敢えて高価なオーディオにお金をかける人もいる。

スマホで音楽を聴くのにダイソーで売っている100円のイヤホンではなく、1万円もするイヤホンを購入する人もいる。

人が4人乗れて移動できる道具として車を選ぶなら、新車であっても100万以下で買うことができるのだから、それで充分だという人もいれば、どうせ買うならスポーツカーや高級車でないとイヤだという人もいる。

どれもがお金の使い道を自分が選んでいるだけなのだ。
人は其々いろんな趣味を持っているだろうが、それはあくまでも主観的な価値観に基づいていて、必ずしも一般的ではないし、他者には理解できない世界である。

それなのに、信号待ちなどで隣りにベンツやBMWなど高価な車が横に停まれば、何の根拠もないのに「どうせ金持ちなんだろ!」とか、「なんだ暴力団か・・阿漕な商売やって稼いだのだろうな」などと勝手に推測して妬んだりする。

もしかしたら、その車の運転席に座っている彼は、まいにち頑張って働きながら何十年間も家計費を切り詰めてお金を貯め、その苦労が実ってようやく憧れの車を手に入れたのかもしれない。

実際に、漫画「サーキットの狼」の作者である池沢さとしさんも、昔はアパート住まいながら高価なスーパーカーを所有していた時期があったという。

要は心の問題なのだ。
どこに価値を見いだせるかの違いだけなのである。
でも、「欲しいけど持っていない」という人は、所有している人を見ると勝手に妬んだりする。

僕は大学生の頃にロックバンドをやっていて、アルバイトで稼いだお金のほとんどをシンセサイザーやオルガンなどの電子キーボード類につぎ込んでいた。
後になって録音機材と楽器類の合計金額を算出してみたら、じつに350万円も使っていた。
(現在とはレートが違うから、現在なら600万ほどになるかな・・)

けっきょくは、それら高価な楽器類はひとつ残らず処分してしまったので、いま手元に残っているのは「思い出」だけである。

同じ大学生でも、アルバイトで稼いだお金を使って世界中を旅行している友人がいた。
僕は、彼に「え、また行くの? 昨年の夏休みもヨーロッパに行ったと言ってたよな。」と言いながら、350万を機材の購入に使った僕は「お金持ちはいいよな・・」などと勝手に羨んだものだった。

この記事を読んで、「いや、私なんか趣味は何もないし、生活費以外に使うお金の余裕なんかない。子どもを育てるだけで必死なんだ。時間だって余裕がないし・・」と言う人がいるかもしれないが、そう言いながらも中古車はイヤだと新車しか買わなかったり、毎日のようにスーパーに買い物に行ってたり、スマホでのLINEやゲームに何時間も費やしていたりする。

相手のことは見えても自分の姿はなかなか見えないものである。
羨ましい、妬ましいという感情もまた、こんなふうにして生まれるものなのだ。

いまの自分が置かれている環境や状況は、5年前に選んだ結果だと聞いたことがある。
いま同居している配偶者や、現在の勤務先もまた、過去の自分が選択した結果なのだ。

「後悔、先に立たず」という諺があるが、後悔しないために大切にしたいのは、その決定が「自己選択&決定」によるか否かである。

自分の意志で選んでいなかったり、うまくいかないことを誰かのせいにしているならば、きっとどのような選択をしても後悔することになるだろうし、常に自分は被害者であり世界でいちばん不幸だと感じることだろう。

妙な義理や気遣いを以て、または不本意だけど△△さんかがそう言ったから・・
と、こんな気持ちで行動を選んだ末に好ましくない結果となった場合、人は自己責任を負えないのである。



torapa1701 at 06:43|Permalink こころ | 気づき

2018年04月29日

親心ってなんだ? それは誰のための言葉?

29790473_1624728157563740_6471362464813416448_n子どもが何かに挑戦しようとするとき、親は子どもの背中に向かって「大丈夫?」と声をかけたくなるようだ。

この問いかけの背景にはいったい何があるのか。

なぜ、親はそれを言わずにいられないのだろう。

あたかも子どものことを心配しての優しい言葉がけでもあるかのように思えてしまうが、じつはそうではない。

不安なのは子ども自身ではなく親のほうであり、子どもが振り返って「うん、大丈夫!まかしといてよ!」と言ってくれれば、親の私が安心できるのである。

つまり、「大丈夫?」とは、不安になっている私が安心したいから出てしまう言葉であり、けっして「子どもにとって必要な言葉」ではない。

「大丈夫? ほんとに大丈夫?」などと幾度も繰り返して問われれば、子どもとしても徐々に不安感が湧いてきて、「う〜ん・・やっぱりやめとこうかな・・」となるのがオチである。

このように、無自覚であるがゆえに犯してしまっていることは意外に多いのだ。
子育てにおいて、子どもに顕われる問題の多くは親の行為に起因していることが多い。
ならば親は、できるだけ自覚に努める必要がある。

たとえば、学校から帰宅した我が子に向かって「今日は何かイヤなことなかった?」「イヤなことされなかった?」と問われれば、子どもは「イヤなこと・・かあ」と、わざわざ苦い思い出だけを探し出し、再体験することになる。(これもまた私が安心したいための確認であろう)

そう問われれば、「あ、そういえば2時間目に〇〇ちゃんから・・」と、せっかく忘れていた出来事が掘り返されることになる。

もちろん、これが毎日のように繰り返されれば「学校はイヤなことをされる場所」と認識するに至り、徐々に「学校に行きたくない」と言い出すことだろう。

逆に「今日は、どんな楽しいことがあった?」と問えば、楽しかったことが再体験されることになるから「学校は楽しいところ」になるだろう。

楽しいことも悲しいことも、すべてひっくるめたものが学校であり、様々な体験があってこその集団生活であることを考慮すれば「今日は、どうだった?」「どんな一日だった?」と、どんなふうにでも答えられる「開かれた質問」が適切だろう。

このように、子どもの中で育つ認知とは、親が無意識的に作った結果だと言っても過言ではないのである。

※:続きもあります。
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torapa1701 at 14:19|Permalink 教育 | こころ