2017年01月31日

ストレスのない良好な対人関係を構築する

suki3←相手のことを「お前」などと呼んでる時点でアウトだと思うぞ。

長年に渡って相談業務に関わってきて感じていることだが、悩みや困りごとの多くは対人関係に起因すると言ってよいだろう。

人は他者との関係性において、なかなか思い通りにならず困惑することが多いが、それはつまり相手のリアクションや反応が想定外であったり、自分にとっては意外なために起こるのである。

相手の不可解な態度や状況に際してどのように対応したらよいのかが判らないまま自らの行動選択に躊躇することも多い。

躊躇している最中の脳は全力で思考しているために全く余裕がなく、交感神経が過剰に機能しているがゆえに、脳だけでなく身体もまた緊張状態に晒されていることになる。
これが長期に及べば疲労が蓄積され、身体症状として顕在化するに至る。

また一方で、集団内においては特に「空気(雰囲気)」という名の得体が知れない「同調圧力」があり、よほど強い自我を有していないかぎり呑み込まれてしまいがちである。

いずれにせよ相手や周囲に合わせようと無意識に迎合してしまうために、自分が「どうしたいのか?」、或いは「どうありたいのか?」が抑圧され、無自覚なままストレスを溜め込んでしまうのである。

このような状態が長期化するほどに自分の内部に湧く感情に対してどんどん疎くなり、いつの間にか感情面だけでなく身体的な感覚も鈍感になってしまう。
そのように「自分の気持ちが分からなくなっている状態。もしくは、身体感覚までもが麻痺してしまった状態を「アレキシサイミア」と言う。

(※:以下、ウィキペディアから抜粋)
アレキシサイミア (alexithymia) は、P. E. シフネオスらによって1970年代に提唱された概念であり、ギリシャ語の「a:非, lexis:言葉, thymos:感情」から作られた造語である。 
自らの感情を自覚・認知したり、表現することが不得意で、空想力・想像力に欠ける傾向のことを指す。
日本語では「失感情症」などと訳されることがあるが、感情鈍麻や無感動のように「感情の変化を失った状態」という印象をあたえる可能性も含まれていて同じではない。あくまでも「感情を認知することの障害」である。
心身症とアレキシサイミアの関連は有名である。心身症とは、ストレス性の潰瘍、高血圧など、心因による影響が大きい身体疾患のことである。アレキシサイミアの傾向を持つ人は、自らの感情を認識することが苦手なために身体の症状として現れてしまうという機序が想定されている。


「社会性」は、地域や職場などの環境に適応するために必要なものであると同時に、日々の生活に於いて他者と接する機会には欠かせないものである。
実際に、現代社会において他者との接触を避けて生きていくことは難しく、かといって山に籠もって自給自足の生活は現実的ではない。

社会性が身につくための訓練として「ソーシャルスキルトレーニング(SST)」なるものが開発され、一般に言われる「社交儀礼」や「TPO」などをも含めた療育的かつ躾け的なメソッドとして活用されているが、「過ぎたるは及ばざるが如し」の格言にもあるように、逆に過剰適応に陥ってしまうことも多い。

SSTを学んだ者が「○○であるに超したことはない・・」の程度に身につけている分には何ら問題がないのだが、「○○であるべき」、または「△△でなくてはならない」という非合理な思い込みのレベルにまで至っている場合には、理想主義的な対応を満点とした規範的基準から減点法的に自己評価を低下させる流れに向かい、自らを卑下するような方向に行ってしまいがちである。

「はたして自分はしっかり出来ているのだろうか」と気になって常に頭から離れないとなれば、すでにそれは神経症であり、精神科に行けば「強迫性障害」という診断名をもらうことになる。

「これではいけない・・」とばかりに自分を責め続ければ「鬱状態」に陥ってしまう危険性もある。
「鬱や神経症になりやすい性格」というものが本当に在るか否かは別として、こういった固定的認識が本来の自分を見失ってしまう要因のひとつになっていることは否定できない。

バウンダリー(境界線)を理解し、それを実践することで多くの悩みや困りごとが解消する

社会性を身につけながらも、それが自分を追い詰めてしまうような負担にはならず、円滑で良好な人間関係を維持できるためには対集団や個々の相手との境界が明瞭になっていることが重要である。
「バウンダリー(境界線)」は、日常茶飯事的に繰り返される「もめごと」を避けるために欠かせないものであり、先述したように自分を失ってしまわないための構造認識である。

バウンダリーは、よく使われる言葉としての「他人との距離をおく」とは意味が異なる。
相手との出会いを避けたり関わりを断ったりすることではない。「相手と関わらないこと」ではなく、「関わりにおける心構え」のようなものと解釈してもらえばよいだろう。言うならば、対人スキルというよりも対人関係に於ける基本認識であり、立ち位置や判断の基準になるもの・・といってよいだろう。
逆の言い方をすればバウンダリーができていないから相手との距離の取り方が判らなくなるのである。

バウンダリーが明瞭になっているか否かは幼少期における環境(多くは家庭内)に左右されると言われている。
特に親子の関係性において、親が無自覚的にバウンダリーを侵しているケースは多いものだが、これは過保護や過干渉といった形で行われているのが通例で、そういった癒着関係が「誰の問題なのか」を不明瞭にしてしまい、境界線がない状況で育つことによって他者との区別がつかなくなるのである。

それは誰の問題なのか? 
それは誰にとってなのか? 
なぜ、それを私は引き受けてしまったのか?
なぜ、他人の問題に首を突っ込みたくなるのか? 
なぜ、その場に居合わせない人について評価的な話(陰口)をするのか? 
なぜ、自分には関係のない「噂話」を聞きたくなるのか? 
なぜ、他人の世話を焼きたくなるのか? 
なぜ、我が子の隠し事を暴きたくなるのか?

これらはすべて、心の中で相手との境界線が引かれておらず浸食している状況を表しているといえる。

■ 「相手との境界線を意志的に引く」ための三原則
◎ 他人の問題と自分の問題とを分け、必要以上に関与しないこと
◎ 他人が負うべき責任と自分の責任とを分け、意味もなく抱え込まないこと
◎ 他人がやるべきことは当人に任せ、自分から引き受けたりしないこと

バウンダリーを意識的に明確にし、認識を強化することにより、健康的な人間関係の構築を助け、日常の活動領域で想定外に起こりうる「望まない影響」や「不本意な選択をせざるを得ない状況」から自分を守り、心と体を健全な状態に保つことが可能になるのである。

▼自分の意思で構築するもの
誰かが代わりにやってくれるものではなく、まずは自分自身がバウンダリーを意識し、敢えて境界線を引こうと努めることでバウンダリーが明確となり、強化していくことができる。

▼自分の周りにある「低い垣根」のようなもの
バウンダリーとは、外界との関わりを遮断するための「壁」ではなく、愛と開放感を併せ持った、いわば「低い垣根」のような存在であり、バウンダリーを作ることにより健全な人間関係を築くことができる。

▼「自分」と「目の前にいる他者」は別の存在だと認識すること
自分と目の前にいる他者とが別の存在であることと互いの違いについてきちんと認識する。
当たり前のように聞こえるだろうが、じつはこれが案外難しく、これらが混在しているからこそ、悩みが尽きないといっても過言ではない。

ここでは自己と他者との境界線について説明してきたが、他者の認識において他にも様々な境界線が曖昧なまま、不本意ながらも状況に巻き込まれてしまっている。

自分にとって「当たり前」になっていることにこそ焦点を当て、敢えて客観視してみる必要があるだろう。

※: 一部、他のサイトの言葉を参考にしました。


torapa1701 at 22:20|Permalinkこころ | 生活

2016年12月19日

「中華そば」に観るシンプルな人間関係

15171251_690266811129872_7030785348583995105_n透き通ったスープ。
具はメンマとチャーシュー&海苔とネギ。できれば、カマボコではなくてナルトがいい。
今は少数派となってしまった感のある「昔ながらの中華そば」が食べられる店を探している。

僕は昔からラーメンが大好きで、「美味しい店があるよ」と聞けば、たとえ遠くとも食べるためだけに出かけて行ったりするほどだ。

ただ、ここ数年は年齢のせいか脂っこいものや味が濃い類のものには食傷気味で、どちらかと言えばサッパリして薄味のものを好むようになってきている。
だが、いかに薄味であってもダシが効いていないものは失格だ。
というわけで、最近は「昔ながらの中華そば」が食べたいと強く思うようになった。

ラーメンは既に日本独自の食文化として定着しており、ラーメンだけでテレビの特番が組まれるほどの人気となっている。

各店とも独自の味を目指し、様々な工夫を凝らしながら「味」の追求に命を賭けていると言っても過言ではない。だが、そういった真剣な姿勢や熱意は買うが、いかんせん過ぎたるは及ばざるが如しの格言にもあるように、どれもこれも凝り過ぎていて本来の「美味さの追求」から外れてしまい、最初にガツンとくる味もすぐに飽きられてしまう。
リピート客が来なくては、一巡したら廃業となってしまうだろう。

凝れば凝るほど、そもそも「求められる味」とはどのようなものなのかが判らなくなってきつつあるような気がする。

僕としては、もはや背油で混濁したスープなどいらないし、それこそ奇を衒った変なトッピングや山のように具を乗せたものなどは既に次回候補から外している。

要するに「話題性を狙っただけで中身のないラーメン」など、もはや食べたいと思わなくなったのだ。むろん化学調味料などは論外である。
そこで、初心に戻って・・というわけではないのだが、「昔から在った中華そば」・・という流れである。

意外にも蕎麦屋のメニューの隅っこに載っている「中華そば」こそが美味しかったりする。
意外と言っては失礼だが、どちらかといえば本業である「蕎麦」ではなく、お客さんの要望に応えるためにサブ的に用意してあるメニューだと思うのだが、シイタケや昆布、または鰹節といった「めんつゆ」を作る材料で仕上げられた中華スープは、シンプルながらも深い味わいがあって美味しいのだ。

いきなり冒頭からラーメンの話など始めてどういうつもりだ!とお叱りを受けそうだが、意外にもこのことは人間関係性にも共通することではないだろうか・・と思えたのである。

というのは、年齢のせいかもしれないが、こと人間関係においてもラーメンと同様に、ゴテゴテしたものではなく、回りくどいものでもなく、変な誇張もなく、できるだけ単刀直入でシンプルなやりとりを望むように変化してきている気がする。

言い訳的な釈明や立場を考慮に入れた弁明などをできるだけ排除し、少ない言葉ではあっても変に飾らず「そのままを伝えること&変に勘ぐることなく相手の言葉を信じること」を目指そうと思うようになったといえば理解して戴けるだろうか・・

思ったということだけで、実践できているか否かは別のことではあるが、いろいろと言葉を飾ることや変に言い方を考えて脚色したりすることが、まさに「伝わること」の邪魔をしているのではないか・・と思い始めている。

つまり、人と人との関係がなかなか深まらない最大の要因は「遠慮」であったり、余計な「配慮」であったり、いらぬ「気遣い」ではないかと思うのだ。

もしかしたら、意外にも「コミュニケーションスキル」こそが、他者との関係に溝を作り、なかなか距離が埋まらないといった結果を生み出す「余計なもの」なのかもしれない。

社会構成的な言い方を借りれば、複雑な関係とは複雑なイメージや余計な言葉のやりとりによって生み出されていると言えなくもない。

「本質」を言葉で表現しようとするならば、語彙力や豊富なボキャブラリーを用いて・・となりがちだが、意識化が不充分なまま急いで言語化すること自体に無理があるのかもしれない。沈黙も大切である。
かと言って何も語らなければ、相手が待ち切れずに去ってしまうこともある。

「対話とは、他者と自分との違いを確認し合うプロセスである。」・・これはM・ブーバーの言葉だが、先人たちが残した古い書籍を読むにしても、トーク番組で語る評論家の言葉を聴くにしても、目の前の相手と向き合うにしても、いずれの場においても、そこに自分の「思い込み」や通念としての「普通」、または既成の概念を持ちこんでしまえば、彼らの主張は全く聴こえないだろうし、こちらの意図も伝わることはないだろう。

互いの違いに違和感が浮上するような意外性にこそ価値があるのである。
それも、僕が勤務する教育現場でも、企業体でも、役場でも、医療現場でも、なにかといえば「チームが一丸となって事に臨むことが肝要だ!」と口を揃えるが、本当の意味でのチームビルディングとは深い信頼関係が土台になっていなくてはならない。

信頼関係とは、互いの間に「違い」があることが大前提であるのだから、遠慮など無用であり、煩わしい配慮など省き、気遣う必要などない状況に在って、両者が安心して自己開示できる関係のことである。

などとラーメンの汁を啜りながら思いつくまま思考することを楽しんでいたら、ダシに使われている昆布やシイタケ、鰹節や煮干しなど、混然一体と溶け合っていた味のひとつひとつが感じられ、うん・・対人コミュニケーションも、決してテクニックやスキルなどによって築かれるものではないよな・・それじゃインチキだ!などと勝手に納得してしまった。


じつは今、「オープンダイアローグ」について学んでいるのだが、ヘタに「傾聴における技法」とか「聴き方のセオリー」が身についていては、かえって邪魔になるような気さえしてきている。

※:「オープンダイアローグ」 ← 知りたい人はクリック!

動画 ← クリック!

もちろん、これはあるていど聴き方をマスターした上でのことなので、敢えて言い換えるなら、技術や自己観察を意識的にいったん脇に置くという意味においてである。

書籍「オープンダイアローグ」に付いていた帯に書いてあった「あなたは専門性という鎧を脱ぎ捨てられますか?」という言葉について、ここ一ヶ月間ほど考察を続けている。

はたして専門性が自分にとって「鎧」になってしまっているのかどうかは解らないが、長年の経験によって身についてしまっている思考の特性や、不快と感じることから生じる反応的な考えは、おそらく本質から外れたところに在るのは確かだ。

ということで多少の無理を承知で話を戻すのだが、やはりラーメンはダシがメインで、塩や醤油、味噌はあくまでも脇役であると思う。

名脇役が主役を食ってしまい、ドラマ全体をダメにしてしまうことって案外多いのではないだろうか・・と思うのだ。


torapa1701 at 08:03|Permalink生活 | 人間としての成長

2016年12月17日

「謝罪」と「償い」は、まったく別のこと

kjiuこんな記事を見つけました。
みなさんは、どう思われますか?

下の赤い文字をクリックするとリンク先の記事を読むことができます。↓

「怒ると逆効果?!どうしたらいい?「謝れない」ときの対応」

そもそも「謝る」とは「自分側の非を認めたこと」でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
迷惑をかけた相手との関係性において、修復を目指す意味で必要なことではあるのだろうが、謝ることがけっしてゴールではないし、それで終わりにしてよいはずがない。

相手にも感情があり、被害をうけたことについて許してくれるか否かは全く別の問題である。
謝られたら許さなくてはならない?これもまた理不尽な話である。

以前、イジメがあって加害側が被害者に謝罪しようとしたところ、被害を受けた子は「謝ってほしくない!」と叫んだことがあった。

それは、「謝罪だけで収束したことしてほしくない」という意味である。

もちろん、許せない想いがあるのなら、蟠りが消えて気持ちが晴れるまで許す必要などない。
不本意ながら無理して許してしまえば、後に遺恨を残すことになる。

だからこそ加害側は、これから「どう償っていくか?」を考えなくてはならないのだが、多くの親や教師は、何かをしでかした子が「ごめんなさい」とさえ言えば、「よし!ちゃんと謝れたな!」
「ということで、相手は謝ってくれたぞ。これでいいな!」・・一件落着
冗談じゃない!そんなはずがない。

だが、多くの場面において、このような形で終わりにしてしまっているのが現状だ。

指導的に怒ることで無理に謝らせるなんてのはもちろん論外だが、だからといって、単に謝らせることだけを目的にしてはならない。
「ごめんなさい」を、「なかったことにするための魔法の言葉」にしてはいけないと思うのだ。


これまでも幾度か書いてきたが、日本人は「謝罪」と「償い」の区別がないと言われる。

それは神道における「穢れと禊」の概念が他国にも通じるという錯覚によって起きていると考えられる。

加害側:「心を込めて謝罪すれば済む?」
両者の間に生じた感情の問題だけなら許してくれる場合もあるだろうが、不快な思いをさせられたという記憶的事実は、それ以降もずっと残ることだろう。

加害側:「あるていどの時間が経過すれば許される?」
相手に与えた傷(外傷)が完治すれば許してくれるかもしれないが、被害側が完治までに費やした時間と苦痛については消えるものではないし、心の傷がトラウマとして残ってしまったら償いようがない。

被害側:「悔しいけど水に流す?」 
水に流し許せる寛容さが大人の証? よく、些細なことは気にしないという人を「心が広い」などと称する風潮があるが、それが加害側にとって有利に働く要素として捉えられるのは如何なものだろう?
自分がしでかした行為が、相手の性格によって許される場合があるかもしれないが、誰にでも通用するわけではない。少なくとも海外では成立し得ないことだろう。

元来、「水に流す」は日本固有の概念でしかなく、他国ではいっさい通用しないことを知っておかなくてはならない。

もちろん、日本国内でしか通用しない概念や尺度を以て捉えようとするなら、たとえばパレスチナやイスラエルの問題など到底理解できないと思われる。

僕も史実を知っただけでは実感的によく分からない。(分かろうとはするけど・・)
いや、分かるはずがないというのが前提だと思う。

やはり「自分にとって普通」に対してこそ、改めて再考しなおす必要があるのだな・・と改めて思う。


torapa1701 at 08:12|Permalink世に対する疑問 | 日本の文化

2016年11月03日

目には見えない価値

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上の写真は「バックロードホーン型スピーカー」の断面図である。
表面的にはシンプルだが、内部はけっこう複雑な構造となっている。


僕は現在「スクールソーシャルワーカー」を生業にしているわけだが、主な仕事のひとつとして「児童や生徒との面談」や「保護者面談」というものがある。

多くの場合は、どのような子なのか? または、保護者さんはどんな考えをお持ちなのか、どのような方なのか?を知るために行なうのだが、教育相談と名をかりながらも、せっかく学校までお越し戴いたわけだから、すぐに助言などしたりせずに丁寧に聴き取ることに努めている。

以前、「カウンセラー」を職務としていたこともあって、話を聴くことには慣れていることもあり、初回に関してはあれこれと尋ねてしまうが故に面談の時間が1時間半を超えてしまうことも多いが、しっかりと聴いた甲斐があって、ほとんどの方々が「今日は来てよかったです〜」と仰ってくださる。

未だ問題が解消したわけでもないし、先の不安が消えたわけでもないのに、前向きな気持ちで目の前の問題に向き合おうと決意されたことが表情から覗える。

学校と家庭とが良好な関係を保ち、足並みが揃っていれば問題解決に向けたプランもスムースに運ぶのだが、両者の関係が良くなければ間に居る子どもは混乱するだけである。
その意味でも、円滑に事が運ぶように調整することもまた僕の役目なのだ。

この「聴く」ということの意味は、「傾聴/アクティブリスニング」とも呼ばれるが、相手に対して積極的に関心を持ちながら問いかけを行ない、置かれている状況だけでなく、そこに伴う心情面についても全人的に理解しようと努める姿勢と態度を含む概念である。

単に相手の発する言葉を「聞くこと」ではないし、こちらが知りたい情報を得るための質問として「訊くこと」でもない。
(イジメが起こった際に行なう事実確認においても、事情聴取を行なう場合いには「訊く」だけではなく、本人の言い分を「聴くこと」も忘れてはいけない。)

これをお読みになっている方々には実際の現場に同席して戴くわけにもいかないので、これらの違いを実感的に理解して戴くにはご自身が面談を受けて戴くしかないのだが、けっして誰にでもできることではなく、この僕とて長きに渡ってトレーニングを積んだからこそ、いま何とか形になっているのである。
(それでも、「これでいいのだろうか・・」と今でもなお自問自答を繰り返している。)

もちろん最初からできたわけではなく、始めたばかりの頃は「聴くこと」と「聞くこと」の違いについてもよく分からないまま不安を抱えてやっていた時期もある。

しかし、こと面談としてカウントすれば、この15年間で8000時間を超えているし、関わらせて戴いた人数も3000人近くになるので、これだけやれば少しは「聴くこと」もできるようになってきた感触もある。
いろんな資格の取得も含めれば、トレーニングに費やした時間数だけでも相当なものだし、多額の費用も掛ってる。
しかし、そのことは僕が自己紹介の中で敢えて口に出すことでもしなければ誰も知らないことだろう。

スクールカウンセラーをやっていた頃のことだが、ある人に「カウンセラーって楽な商売ですよね。ただ相手と話をするだけでお金がもらえるわけだし・・」と言われたことがある。

そうか・・そんなふうに思っているんだな・・と少し驚きながらもガッカリしたのを覚えている。

仕事上で出くわすクライエントの中には、リストカットを始めとした自傷行為をやめられない方や自殺念慮を持つ方もいたし、言葉に気をつけないと忽ち怒りだし攻撃態勢に入ってしまわれる方もいた。
ヘタなことを言えば上げ足を取られ、責任問題に発展してしまう危険だってある。
そんなことが頭の隅にあれば緊張もするし、とても疲れる。

今でも、たった一度のチャンス(なんとか調整して作った貴重な機会)を無駄にするわけにいかないので、一発勝負のような張り詰めた空気の中で行なうことだってある。(そうは悟られないようにしてるけどね。)

請け負うからには大きな責任も伴うし、絶対に失敗できないというプレッシャーもある。
とても大変な仕事なのだ。

おそらく、「楽な商売」と言われた方は、「聴く」・「聞く」「訊く」に違いがあることさえ知らないのだろうし、「興味が湧くこと」と「関心を持つこと」の違いも理解していないのだろう。

さらに言えば、実際にカウンセリングを受けたこともないので、自分の中に勝手に作り上げた「カウンセリングのイメージ(想像/推測)」と「実感に基づく事実」との区別もないと思われる。

べつに、そう言われたことについて僕としては何とも思ってはいないのだが、実感を持たない人たちに対して「傾聴トレーニング」が持つ価値についてどう伝えればよいのかについては考えあぐねていた。
いや、それ以前に教師や親たちに「聞くなんて簡単なことだ」と思ってほしくないからである。

仕事上で教師の方々に対して「子どもたちの言葉を丁寧に拾ってあげてくださいね。」とお願いしている立場としては、「分かりました。よく訊いておきますよ。」などと応えられては困るのだ。

ということで、面白い画像を見つけたので読んでみてね (*^_^*)

続きは、以下の赤い文字をクリック!
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torapa1701 at 11:48|Permalink

2016年10月03日

「キャリア形成」について深めてみる

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先行きが不透明であり、暗雲が立ち込める現代日本において、今後の自分がどのような人生を送ればよいのか判らないまま、あたかも風に揺れる木々の如く目の前の諸問題に翻弄されている方が多いように思う。

これまでも幾度か「キャリア形成」について述べてきたが、ここでまた改めて考えてみたい。

キャリアと聞くと、未だに「経歴」とか「就職」など、短絡的に仕事に関することだと思い込んでいる方が多いようである。
または、過去の職業における体験から得た経験値としての技能や知識の集積として捉えている方も多い。

いずれにしても、そういった誤解認識があるためか、キャリア形成と聞けば「下積み経験が大切だ」とか、「いつかは憧れの職業に就くこと」という解釈を基に、念願かなって就職できたことを「夢の実現」だと勘違いしてしまうのである。そもそもキャリアアップなどという言葉は存在しない。
キャリアには、アップもダウンもないのである。

それに「憧れの職種」とは言っても、その内容が自分にとって「欠乏欲求を埋めるための手段」であったり、苦しんでいた時期に自分を助けてくれた人を「救世主」でもあるかのように捉え、自分も誰かの力になりたいといった憧れを以て抱いているとすれば、やはりそれも同一視的な意味でしかなく、自らを重ね合わせて観ているだけにすぎないことになる。

キャリアを語るには、そういった思い込みや偏った認知をあるていど解消しておく必要があるのだ。

また、「自分は何をしたいのか」がなんとか自覚できているとしても、自己評価的な意味で「どうせ無理だ」と無意識的に抑圧し、無駄なことはしないとばかりに考えることを遮断しているケースも多い。

可能なかぎり「ニュートラルな位置」に立って自分に聴いてみることをしなければ、心の底からやりたいことなど見つかるわけがないのである。 「やりたいこと」と、「充たすこと」はイコールではない。

たとえば、「もし、魔法が使えるとして、いちばんやってみたいことは何ですか?」と尋ねられたときに、「そうですねえ、独りで旅に出て、どこかの高級リゾート地でゆっくり休みたいですねえ。」と答えた場合、それは「夢」というより日頃から充たされていない欲求の解消・・つまり「経済的に余裕がなく、ゆっくり休む時間も取れず、常に誰かに振り回されている現状から一時的にでも逃れたい」ということであり、先が見えない苦しい状況において、心労が溜まっていることに他ならない。

この場合、本当の「夢」を語るために、まずは辛く落ち着かない状況を脱する必要があるだろうし、あるていど充たされていて心に余裕がある状態が前提となるだろう。

また、「もし夢が叶うなら、何処に住んでみたいですか?」に対して、「◎◎に住んでみたい」と明確に行き先を指定できるなら問題ないのだが、「とにかく此処から出たいんです」とか「どこか遠いところに・・」と言うのであれば、これもやはり「出たい(呪縛から逃れたい)」であり、「行きたい(目標を実現したい)ではないと言える。この場を去ることに違いはなくとも、含まれる意味が全く異なることになる。

夢を叶えるというのは、言わば「自己実現に至ること」と解釈することができるが、ここで言う「自己」とは、未だ観ぬ自分、まだ出会っていない自分(自覚できていない部分)を含むものであるし、今後の人生航路において発見するであろう未知の自分をも内包する開発的かつ進歩的なものである。
(C・G・ユング:「個性化」に近い概念として)

人は、発達の過程に従って見聞が広がっていくものだし、成長の度合いによって識もまた変化し続ける。
つまり、どんな場合にも言えることは、「今の時点では・・」という限定された範囲で語られるものだということである。
これは、絶対に外してならない大前提である。

当然ながら、初等教育の場においては、職業など「作業」としてしか認識できないだろうし、世の中にどれだけの職種が存在するかも知らないままに限られた枠の中で想いを馳せることは、むしろ思考の範囲を狭めてしまう危険があるばかりか、下手に絞り込んでしまえば固定化された自己イメージを手放せなくなってしまうことも危惧される。 

世の中には数千種類をも超える数の職種があると言われているが、小中学生の段階で持ち得る狭い領域内で想定できる職種など、せいぜい20〜30程度であろう。それも自宅から通える範囲で・・となれば尚更である。むしろ、早期に決めてしまうことで発達と共に広がっていくキャリア発達的観念を抑制してしまいかねない。

そもそも、自分がどんなことを楽しいと感じ、どのようなことなら夢中になれるか・・など、自分の性格はもちろん、気質的な傾向や趣向についての理解抜きで夢を語ることなど不可能である。
 これが、初等教育におけるキャリア教育で「職種」について触れてはいけない理由であるが、未だ多くの大人たちは自分が罪を犯していることに全く自覚がないまま、子どもに対して「ねえ、大人になったら・・」と意味不明の質問を続けているのである。

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torapa1701 at 01:09|Permalink

2016年09月10日

「十流大学」・・? ランクってなんだ?

11988192_880372322044026_1640894919188780332_n※:画像は記事と関係ありません。

最近、あるクライエントから「我が子の進学について」相談を受ける機会があったのだが、いろいろと調べてみた結果、私だけではなく相談者である母親までもが大笑いすることになってしまった。

一流・・二流・・そして三流大学という評価は昔からあったが、なんと現在ではSランクから数えてXランクまでの階層的分類があるという。

SABCDEFGH・・X、つまりSランクを「超一流」としたら、Xは「十流」ということになる。
相談に来たクライエントの息子は、地元の大学か、または東京の大学を狙うかのどちらかで迷っているとのことだが、私が「う〜ん、こちらが六流で、そちらは八流となっていますねえ・・」と答えたものだから、母親は「え〜、大学って三流以下もあるんですねえ・・」と驚きながらも苦笑していた。

また、息子がそんな六流大学になんとか受かったとしても、四年もの時間と1000万円以上にも及ぶ学費&生活費に果たして価値があるのだろうか・・と悩み始めてしまった。

ちなみにFランクはフリーという意味もあり、ただ名前さえ書けば合格となる大学であり、Gランクは定員割れで存亡の危機にある大学。
Hランクは知名度が低くどこにあるかさえ知られていない大学、そしてXランクは・・もはや大学とは名ばかりで入ってはいけない大学だという。

戦後、高校への進学は言うまでもなく、大学の進学率が上がったこともあって、今は「自分は大卒だ!」などと胸を張れる時代ではなくなってしまっている。
どうしても自慢したいのであれば、なんとか努力してBランク圏内に入ることである。

さらに、学生自身が自分の将来像をまったく描くことができず、「何が目的で進学するのか?」と誰かに問われても答えることができないようだ。せいぜい「大学を出たほうが就職に有利だと思うし、高卒より大卒の方が給料も高いだろうから・・」と言うだけだろう。

だが現実は甘くない。いまどきの企業は、こういった大学の実情を知っている。

卒業論文といっても、どこかのサイトに載っていた解説をそのままコピペしただけの粗末なものだったり、たとえ卒業に届かぬ赤点しか取れなかったとしても保護者?からの攻撃を怖れて卒業させてあげたりしている現状を知れば、いかに求人に応募して来たとしても欲しい人材ではなかろう。

このような実態を知ってしまえば、「大卒」が価値を失うのも当然である。

それゆえ、書類選考で大卒として扱うならば、せめてDランクまで・・と線を引いている企業も多いという。
Eランクは、学歴そのものは無駄にはないかもしれないが、加点評価の対象にはならないとのことだ。

そもそも「AO入試」とはユニークな人材を発掘するために生まれたようなものであった。
グローバル化が進む産業界や経済社会にあって、企業が生き残るためには「差別化」が欠かせないからである。
むろんユニークなアイデアはユニークな人材からしか生まれないというのは道理だと思うが、大学もまたそういった企業サイドからの要求に応えようという意図だけでなく、これからの大学の在り方として新たな展開に期待を寄せてのことだったと思われる。

しかし、今や大学院でさえ「希望の職種に就けなかったが故の残された道」というか、学生である時間を引き延ばそうと目論むものでしかなかったりするし、採用する側でもモラトリアムとして受け取る場合が多いと聞く。
これから進学を考える本人はもちろん、親もまたこういった現状を理解しておく必要があるだろう。

そもそも何が目的で進学するのか?
そこには、「学びたい」という主体的な想いではなく、「就職で不利にならぬよう」といった強迫観念があり、少なくとも「学歴」や「資格」を採用されるための必要条件として捉える者が多いことは否めない。

これでは、やれランクがどうのこうのと言う以前に、言わば入試の動機自体が不純であり、「無難にうまく世を渡るための手段」でしかない。
果たして、そういった若者たちのことを「学生」と呼んでよいものかは疑問だが、文科省が掲げるスローガンである「生きる力」の解釈が「創造性」や「変革」ではなく、社会適応だと勘違いされてきた結果だと思えてならない。

エンプロイアビリティ(雇用される力:企業に求められる強み)という言葉を初めて聞いたのは、たしか10年ほど前だったと思うが、いま改めて本来の意味を問い、初等教育から始まるキャリア教育に活かすことをやらねば誤解されたまま状況はさらに悪化の一途を辿ることになるだろう。

torapa1701 at 23:20|Permalink世に対する疑問 | 問題提起

2016年08月21日

オリンピックに学ぶ「イジメをなくすための方法」

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前回の記事にも書いたように、オリンピックやワールドカップなどの試合において、多くの人々は、主に「母国のチーム」を応援する傾向がある。

「そんなの当たり前じゃないか!」と一蹴せずに考えてみてほしい。

それは、同じ言語を使う文化圏であったり、同じ環境下にある立場であったり、または運命共同体的に国を捉えるが故に、そこに殉ずる想いが共通していたり、同じイデオロギーを共有していたりといった具合に、そのほとんどが「立場を共にする同族意識」が、そこに「自分たち」という集団心理を形成し、それ以外の異人は「ヤツら」として認識してしまっているのだろうと思われる。

細分化すれば、家庭においては「両親と子どもたち」であり、他の家庭との関係では「ウチと隣の家」であり、少し視野が広まれば「自分の母校と他校(対抗試合など)」であり、県境を越えれば「同郷の友と他県の人たち(国体や甲子園野球など)」であり、さらには「我が国の選手と他国(異人)」という境界ができあがっている。

たとえば、卓球選手の「福原愛」について言えば、僕は彼女と会ったことは一度もないし、個人的にどんな方なのか、プライベートではどうなのかに関して全く知り得ないが、幼いころから天才少女と呼ばれて注目され、テレビや雑誌の誌面において多くの情報を得てきている経緯があるために、なぜか親近感がある。

少し前に知った石川や、今回の大会を観るまで知らない存在だった伊藤よりも福原だけが近く感じてしまう。

しかし、大会の途中で各選手に興味が湧き、ネットでいろいろ調べるうちに彼女たち2人の子ども時代の様子や物心がつく以前から母親と共にトレーニングを重ねて今日に至っている事実を見せられてしまったとき、やはり福原に対する親近感に近い感覚を得ることになる。

その結果として「がんばれ3人」となり、対戦相手に対しては「がんばれニッポン」となるのである。

同様に、体操の内村のことは以前から知っていたこともあって、金メダル争いを演じた「オレグ・ベルニャエフに負けるな!がんばれ!」とばかりに当たり前のように応援している自分がいた。

だが、試合が終わったあとの記者会見において、内村に向けられた記者の失礼な質問に対して、答えに詰まっている内村の名誉を守ろうとしたベルニャエフの言葉をきっかけに彼の背景が見えてきた。

知らない方のために参照:以下の赤い文字をクリック!

無駄な質問だ」内村揶揄したメディアに銀メダリストが一喝

以下、文中より〜
「ベルニャエフの祖国であるウクライナは分裂状態が続き、国からの支援は一切ない状態。劣悪な練習環境で、月給約1万円という状況の中オリンピックに出場していたんです。練習は壊れているところばかり、故郷は戦地、親とも会えない、そんな状態だったようです。」

といった具合に、今日に至るまでの経過や置かれている環境、そしてけっして恵まれていないトレーニング環境において、どれだけ苦労して這い上がってきたかを皆が知ることになる。
それに加えて、彼がいかに「ナイスガイ」であるかも知ってしまう。

その途端にベルニャエフへを支持したい気持ちが一気に高まり、日本人でありながら個人としての彼を応援したくなるのである。

僕もまたその中の一人なわけだが、だからこそ自分を通して周囲の者たちがどのようなプロセスで「味方」になってしまうのかも実感することができた瞬間だった。

つまり、このような「親近感」は、所属や同族意識というよりも「自己と他者」の心の距離感を表わしており、相手を詳しく知れば知るほどに大きくなるらしい。

と、ここで「イジメ問題」を例に挙げてみよう。

続きも読んでね。以下の赤い文字をクリック!
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torapa1701 at 13:37|Permalink問題提起 | 世に対する疑問

2016年08月19日

メダルは誰のもの?

20160114162512五輪のマークには意味がある。

オリンピックの創始者であるピエール・ド・クーベルタンは、「スポーツの場を借りて互いが手をつなぎ、世界がひとつになることを祈念して!」という主旨を以て、5つの大陸を表す5個のリングが重なり合うデザインを考案した。

以下、参考になるサイト 
http://olympicnewsd.com/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E4%BA%94%E8%BC%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6 ⇒ 左の赤いURLをクリック!

でも、実際のところ、多くの人々がその主旨を理解していないのではないか?と思われてならない。
五大陸がひとつになるどころか、国の威信を懸けた戦いになっているような気がする。

そもそも速報などで言われる「これで日本が獲得したメダル数は、◎◎個となりましたね。」などという妙なアナウンスは、たとえば海外で大きな旅客機事故が起こった際に「日本人の乗客は含まれておりません。」とわざわざ言うのと同じくらい、おかしなことだと思う。

自分の身内が亡くなることは悲しいが、どこかの知らない誰かが亡くなっても心は痛まないのである。

というよりも先に「認識」が偏っているんじゃないかなあ。

話を戻すが、メダルはあくまでも個人の栄誉を讃えたものであり、べつに国が獲得したわけではない。

こういった国家や民族意識の強調によってナショナリズムを煽ることから「選民思想」が生まれ、優劣を基軸とする「優生学」を生み出し、未だに世界から「自分たちとヤツら」の敵対的な構図や排他的な態度がなくならない理由のひとつになっている。

宗教にも同じことが言える。
それぞれが愛を説いていながらも、他宗教や他の流派に対して否定的かつ排他的な面があったりする。
しかも、どこにも所属していない者は不安を感じ、集団に埋没することで安心を得ようとする。この安心こそが自身の想いを覆い隠してしまう。

所属意識こそが「敵」を生みだすのだ。

日本人だから日本を応援する? 
そう・・日本人だからだろうな。 地球人ではなく・・

ちょっと前まで、この狭い日本国内ですら、薩摩藩士と長州藩士が衝突・・とか、地域的な小競り合いをしていたのに、黒船来訪のおかげで人々の心は一丸となり「日本人」になることができたのを覚えているだろうか。

これ、誰もが小学校のときに日本史で学んだはずだよね?

出身国があるのは当たり前だが、あくまでも個人としての競技であってほしいものだ。
そこに本人ではなく観衆が「愛国心」とか「郷土愛」などというものを混在させてしまうから事がややこしくなるのである。

卓球などはドイツもシンガポールも中国出身の選手が目立ったが、中国籍では選出される代表の枠に入れないために、やむなく他国から出場するのだろう。
受け入れた他国としても、「我が国のメダル」にできるから断る理由はない。

これは、甲子園に出たいがために、敢えて他県の高校に進学する選手と同じである。

以前、山形に住んでいた頃に東海大山形高校が順調に勝ち進んだことがあった。
僕は何気なく試合を観ていたのだが、途中で流れたメンバーの構成を見て驚いた。
9人の選手のうち、なんと8人が山形県以外から受験してきた生徒たちで占められていたのだった。

それを知った上でも、やはり地元では当たり前のように東海大山形高校を応援するのである。

国体だって、大会ごとに住所を変えて開催地に勝利をもたらす「ジプシー選手」がいる。
開催地からの要請で「転居して来て、しばらくは◎◎県の住人になってほしい」と依頼されるのだ。

開催地であるだけで急に強くなることの不自然さに誰も疑問を持たない。 
いったい、なにをやってるんだろうねえ。

日本びいきで応援したくなるあなたにとって、所属とはなんだろう?
もしかして、未だに小学校時代の赤組VS白組・・または他校との対抗試合で敵味方になった構図を引きずっているのだろうか?

もういい加減に、国境など取り払った「地球人」としての自覚を持つことはできないものだろうか?

他国の選手にだって自分の活躍を応援してくれている親もいるし、心配してくれる友人もいる。
彼らとて、日本の選手と同じく、ここまで到達するために血の滲むような努力を重ねてきたはずなのだ。

ということで、吉田選手も愛ちゃんも、金メダルじゃなかったからといって、「日本のみなさまに申し訳ない」などと思う必要はないのだ〜。

↑ これが言いたかっただけかも・・(^_^)♫

自分のために、切磋琢磨するために相手と競い合えばいいんじゃないかな。

そうだ!! 表現を「戦う」ではなく、「互いに競い合う」に変えればよいのだ。

企業の世界では、すでに国境など意味を失いつつあるのにねえ・・

ということで、以前にも同じような記事を書いていますので、読んでみてね。

http://blog.livedoor.jp/torapa1701/archives/50554698.html



torapa1701 at 19:40|Permalink世に対する疑問 | 人間としての成長

2016年08月17日

存在が承認されていることの大切さ 

まずは、以下の動画を観てほしい。
母親の態度如何によって赤ちゃんの表情にどのような変化が生じるかを観てみよう。
赤ちゃんがどのような気持ちになっているかが解るはずだ。


こういった、ちょっとした母親の態度によって、子どもは「自分は見捨てられたのではないか・・」という不安が生まれ恐怖心に包まれる。
もちろん、相手は赤ちゃんなので、そこには理由や根拠などといった理屈に因るわけではない。
とにかく実感に基づく感覚的なものである。

しかし、だからこそ怖いのである。
身体が記憶すると言ってもよいだろう。

じつは、自分の存在自体が親に承認されていなければ、成長の過程において自己肯定感も自尊感情も得ることができないのだ。
もちろん自信も持てない。

自信と言っても自分の存在そのものに自信がなく、言わば「自分は、ここに居てもいいのだろうか?」という不安感であり、自分が排除され孤立するのではないかと怖れている。

つまり、「存在承認」とは心の土台であり、これが欠乏しているが故に愛の欲求を充たそうと躍起にならざるを得ませんし、この状態のまま放置すれば、人生における多くの貴重な時間を失い、自分が愛されるようにと莫大なエネルギーを費やしてしまうことだろう。

母親の気分によって、子どもに対して条件付きの承認を行なってしまうことで、子どもは「周囲から自分がどう思われるか?」が気になり、「相手や集団から嫌われないためにどう振る舞うか」を予め考えてことが行動選択の基本になってしまうのだ。

つまり、自分が本当は「どうしたかったのか?」がどんどん分からなくなっていく。

抑圧され蓄積したた欲求は、社会への恨みに向いてしまえば平気で他者を傷つるような行為に及ぶだろうし、それでも想いを呑み込もうとすればリストカットなどの自虐的な行為がやめられなくなるケースも少なくない。

この辺りのことについて、母親はよくよく理解しておくことが大切である。

しかし、母親とて人間・・

自分自身もまた成育歴の過程において、親からの承認が得られなかった、または条件付きの承認を繰り返されたとすれば、いかに我が子といえども受け入れるのではなく、操作しようとしてしまうかもしれない。

つまり、親に対して持っていた「自分のことを理解してほしかった(分かってほしかった)」という想いは、次に恋人や配偶者に向かい、それでも得られない場合は我が子へと対象を変えることになる。

だが、そのときは子どもに対して「ママの気持ちを分かってほしい」ではなく、「自分の言うことをきかせたい!分からせたい!」に変換されてしまっていることだろう。

良き母親であろうと努めようにも、これまでの辛かった経験が邪魔をして、なかなか優しく接したり、子どもの気持ちに関心を寄せることなどできない。

「子どもは、親自身の姿を映し出す鏡である」という言葉があるが、まさに自分が行なってきたことが子どもの言動に写し絵のように顕れているわけである。

だからこそ、「いまわが子に何をどうすればいいのか?」ではなく、まずは「自分が何をしているのか?」
もし、子どもの行為に無性に腹が立つのなら、「私はなぜこんなにも怒っているのか?」と自問自答し、私を俯瞰して観ようとする姿勢が大切なのである。

気づけない人は、いまの行為をやめることはできない。

子どもへの関わりは、自分の気分(興味)によって行なうことではない。
できれば、意識的に「関心」を以て関わることができれば、ずいぶん違ってくるのである。

興味は湧くもの ・・・
でも、関心は持つもの ・・・

さらに言えば、子どもの「存在」と「行為」とは分けなくてはならない。

存在は大切・・でも、その行為はダメでしょ!といった具合に・・・

これが、「そんなことをする子は、ウチの子ではありません!」というように、行為によって存在が脅かされることはあってならないのだ。

むろん、賞賛する際も同じことが言えよう。
「ママの言うとおりにちゃんとできたら褒めてあげる」・・・
「がんばったら、買ってあげる」・・これでは「条件付きの承認」にしかならない。

褒めることなど、単に親側の主観や気分による勝手な評価でしかないことを知っておくことが肝要である。


torapa1701 at 11:58|Permalink育成 | 自分さがし

2016年08月03日

私は誰なのか? 



母親も
妻も
嫁も

どれも「立場的な役割」でしかないのに、いつの間にか「役割」を自分だと思い込んでしまっているかもしれないね。

長らく夫からも「お母さん」とか「ママ」呼ばれていた私が

突然、名前で呼ばれた瞬間、ただそれだけで「オキシトシン」の分泌量が増えるという。

オキシトシンとは、別名「しあわせホルモン」とも呼ばれるもので、他にも・・・

「幸せホルモン」
「恋愛ホルモン」
「抱擁ホルモン」
「信頼ホルモン」
「絆ホルモン」
「思いやりホルモン」
「癒しホルモン」

など、数々の異名を持つ。

私にだって名前があるのに、お母さんとかママといった役割名でしか呼ばれないことに慣れてしまっている。
「私」として扱われていない自分・・

これは、とっても大事なことだと思うんだよな。

もちろん子どもにとって母親は、自分に「〜をしてくれる存在」なのかもしれないが、だからといって「私」を失ってはいけないし、子どもはそんな役割的な母親を観てモデル化してしまう。

男の子は、いずれ今の夫のようになっていくだろうし・・
女の子は、いずれ今のあなたと同じような毎日を体験をすることになるだろう。

全国の「お母さん」!
ちょっと立ち止まって、現在の自分を観てみようよ。

健康で長く生きるためにも「私」を取り戻そう。

夫のことを「主人」などと呼ぶのもやめよう。
主人の反対語は、「召使い?」、「家政婦?」、「メイド?」

どれも違うなら、自らディスカウントしてはいけない。

妻に相対する言葉は「夫」。言うならば「ウチの夫は・・」です。

これも併せて ご覧ください。日頃の鬱憤が晴れるかもよ(*^_^*)
クリック↓
http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/news_business/p242ec61ae380e8576274e44e8757ee20

torapa1701 at 20:53|Permalink世に対する疑問 | 日本の文化

2016年05月28日

「スクール・ソーシャルワーカー」という職業

12814354_656900617781064_9172680068283987369_n僕の仕事はスクール・ソーシャルワーカー(以下SSWとする)である。
今年で9年目となるのだが、自分としてはけっこう大変な仕事をしているなあ・・と思うことが多い。
年齢的な問題はさておいて、かなり疲れるしね・・
なにせ個人情報を持ち歩くことが禁止されているから、常に頭の中が飽和状態なのだ(>_<)

しかし意外にも、このようなキツい仕事である「SSW」になりたいという若者が多いと聞いて驚いた。
なぜか人気職らしく、大学にもSSW養成の学科が増えつつあるという。ひところ、スクールカウンセラーがそうであったように流行りなのだろうか・・

だが、それはおそらく、どのような仕事内容なのか知らずにイメージだけで希望を膨らましているのだと思われる。
そのまま夢を抱いていては後に悩むことになると思うので、この場を借りて実情をお知らせすることにした。

書籍等で説明されている内容と若干の違いもあるだろうが、大雑把に言えば下記のような内容となる。

複雑化の度合いを増す今日の社会において、不登校や問題行動、またはイジメや貧困問題など、学校組織の力だけでは解消が困難となってきている現状に対し、学校教育現場に「福祉的な視点」の導入を目指す。

スクールカウンセラーとの違いは、主に親の影響が大きい小中学生を対象としていること。
(※:高校や専門学校においても要請が増えてはきているが・・)

また、カウンセリングとは違って心の問題だけに限定せず、子を取り巻く環境(主に家庭環境)を調整することで改善を図るという具体的な部分に力を入れていることである。それを実現するために地域の関係機関と力を合わせ、具体的かつ総合的に取り組む。

問題解決の対応方法については、ケースカンファレンス(ケース会議)にて共有的に行なう。
だが、これまでのように最初から対応策について検討するのではなく、下の手順に沿って行なう。
(「対応マニュアル」のようなもので一律化することはせず、個別に対応策を考える。)

できるだけ多くの情報を集める。

集められた情報を基に多面的な視点を以て「アセスメント(児童の行動の背景について見立てを行なうこと)」を行なう。

その上で改善に向けた長期目標を定め、その方向に沿った「プランニング(手立てを検討すること)」を設定する。

問題の解消や改善については、あくまでも児童や生徒自身にとっての最大の利益となることを目指す。

学校内の職員のみならず、家庭はもちろんのこと保幼小中連携、地域の関係諸機関との連携をも同時に行ないながら「チーム対応」を基本として取り組む。

これらを推進しながら、学校や地域における「体制づくり」を目に見える形にしていくことである。

アセスメントについて言えば、原因⇒結果といった直線的因果律的な解釈ではなく、様々な要因から円環的かつ多面的な視点を以て心情的な部分をも含めた「全人的な理解」を目指さなくてはならない。
「人の行動には必ず何らかの背景がある!」が合言葉である。

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torapa1701 at 15:00|Permalink真実 | スクール・ソーシャルワーク

2016年05月26日

執着を手放すということ グリーフケアとは・・

4506「グリーフ」について、あれこれ考えてみた。

「グリーフ」とは、悲嘆・・深い悲しみなどを意味する言葉であり、たとえば肉親や大切な友人など、「自分にとってかけがえのない存在を失った際に生じる喪失感」を指す言葉として解説されることが多い。

そこには、手放したくない想い 残念な気持ち 離別による大きな悲しみ、そして心にポッカリと穴が空いてしまったかに感じられる空虚感などがあり、場合によっては生きていく気力を失ってしまうことさえある。

その対象は、特に人間だけにかぎったことではなく、可愛がっていたペットや大切にしていたモノであっても、それが失われた場合には苦しい感覚に襲われる。

特に相手が亡くなった場合や、なにかを失ってしまったときだけではなく、大好きだった友人や恩師とのお別れ、つまり卒業式や退職などの場面でも似たような気持ちになることは誰もが経験しているはずである。

「失恋」などは、その典型的な例と言える。
もう逢えないという意味においては、相手が亡くなってしまったことと同意であろう。

かく言う僕も、じつは20歳のときに大きな失恋を経験しているのだが、その後何年にも渡って引きずることになってしまった。
彼女と過ごした数年間を手放すことができず、仲むつまじく楽しかった日々を思い出す度に胸が苦しくなり、いかに忘れようと努めてもなかなか振り切ることができなかった。

そういえば、小学校を卒業したときに大好きな女の子が県外に引っ越してしまったときにも大きなショックを受けたっけ。
「初恋は成就しないものだ」と聞いたことがあるが、理屈で割り切れるものではない。
そこには、やむにやまれぬ苦しい想いがあるものだ。
(あ、今ここで連鎖的に思い出したということは、未だ決着がついていないのかもしれないな・・(>_<) ありゃあ・・なんてこった!ああ、やはり男は過去の奴隷なのか・・)

さて、これら諦めきれない感覚、または名残惜しい気持ち・・これらはどこから生じるのだろうか。

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torapa1701 at 06:59|Permalink