2018年01月18日

「みんな”が”違う」と「みんな”と”違う」

キャプチャsdfsdsdsdsdsdfd←すっぴんのパンダ。
全く印象が違うね〜とっても変!

う〜む、パンダってメイクしたのか〜(*^_^*)
なんてね。

さて・・
 \こγ罎鮹気靴討蘯分と同じ人間はいない。
いくら似ていても、同じではない。
違うのがあたりまえ。
しかし「みんなと違うのは私だけかも・・」ということに異常な怖れを抱いてしまうのはなぜだろう。

「クラスの中で私だけ浮いている・・」
浮くことが、なぜいけないの?

「不登校になっているのはウチの子だけ・・」
もしかして不登校になったことではなく「ウチの子だけが」という部分が問題なの?

それがどうだというのだ。
中には「孤立」と「孤独」の違いさえ分からない者までいる。

日本は集団主義の傾向が強い国だと言われる。
とにかく、他のみんなと同じであれば安心なのだ。

どうやら「異質なものは排除される」または「攻撃(イジメ)の対象となる」と思い込んでいるようだ。

「みんな”が”違う」のは人間なのだからあたりまえ。
僕らは工場で量産されたロボットではないし、規格に適合した製品ではない。

だが「みんな”と”違う」ことに多くの者は恐怖する。

他にも「そんなの常識だろ!」という言葉がよく聞かれるのも気になるところだ。

この発言には「多数」と「少数」という対比において「そのような変なことを言う(する)のは、おまえくらいだ!俺らが正しくて変なのはおまえのほうだ!」というメッセージが含まれている。

極端に言えば「おまえは少数派だ!多数に従え!少数派は多数派に従うか、ここから出て行くかどちらかを選べ!(排除する)」ということなのだろう。

となれば多数決とは、ある意味で「少数派の自由な在り様を否定する暴力的かつ人権侵害的行為」なのかもしれない。

日本の社会では、人権 人権 と騒いでいるわりには、多くの場面で個人特有の「持ち味」や「個性」が尊重されておらず、異なる者にとって居心地が良くないだけに留まらず、それどころか人権が侵害されているように感じられるのだ。

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torapa1701 at 23:07|Permalink問題提起 | 世に対する疑問

2017年12月09日

ストレス要因・・

24774930_1483841215064073_4737253813366083835_n今回のブログは・・
「愚痴」というか、まあ「ボヤキ」だな。
ということで、無理に付き合ってくれなくてもいいっす(*^_^*)
と、結論を先に言うのが僕の傾向。

人はみな、それぞれクセを持っていて、もちろん個々に違いがある。
思考特製の違いもあれば、行動特性にも特徴がある。
それは仕方がないことだし、それこそが多様性であり、だからこそ面白い。

以前のブログにも書いたと思うが、「出会いとは、自分と相手との違いを確認するプロセスである。」という言葉に賛同している僕としては他者との違いを認めることに何ら問題はない。
むしろ「へえ〜」と言いながら、自分たちの相違点や捉え方など、個々の「世界観(世界感)」を知ることは新鮮な驚きを伴う体験過程であり、互いを認め合うことにもつながるので大いに歓迎したいところだ。

しかし、個人間で楽しんでいるうちはいいのだが、時間的な制約のある業務上において、それぞれのユニークさがスムースに事が運ばない障害物的な要因になってしまうことになる。

さて、10月〜11月と、とにかく仕事が忙しかった。
もちろん時間に余裕もなかった・・
(ブログを書く時間もなかったし・・)

自分としては、けっこうストレスが溜まっているなあ・・という自覚があるのだが、その中身は何だろうと思い起こしてみると、他者とのやりとりがスムースに行かず、そのために余分な時間が必要になったときほど大きいことに気がついた。

つまり、話し合いがスムースに行なわれず、いらぬ時間を要することによって焦りの気持ちが湧いてくる ⇒ 帰りの時刻までが遅くなる ⇒ 夕飯にありつける時刻が遅くなる ⇒ 飲食店が混む ⇒ 順に並ぶために待たされる ⇒ お腹が空くのを我慢しなくてはならない・・
(なんだ・・けっきょくは、お腹が空くことが問題だったかっ・・(*^_^*))

ところで、あるネット上の記事で「話が伝わらない人の特徴9つ」というのがあったので覗いてみたら、けっこう納得のいく内容だったので転記してみようと思う。

http://shumatsushacho.com/post-4157/ より〜

順に並べると以下のようになる。

1主語がない(ちくいち確認が必要になる)
2必要な情報が足りないまま進める(わけが判らん)
3専門用語や横文字、略語ばかり使う
4例え話が的外れ(逆に解りにくくなる)
5話が回りくどい(余計な情報が多すぎる)
6伝えたい要点が絞りきれていないままダラダラと話す
7よく話が脱線する(焦点がボケてしまう)
8起こったことを時系列で話す(なにを言いたいか解らない)
9「あれ」「それ」といった指示言葉が多い(確認が必要)

僕としては、なんと言っても筆頭に挙がっている「主語がない」がもっとも大きい。
というか苦痛でさえある。

仕事上、人と話すことが多い僕にとって、主語抜きで話されると、逐一「ん、誰がですか?」、「え、何をですか?」と確認しなくてはならなくなるために、ちょっとした連絡であっても倍の時間を要してしまうことになる。

面談などの場面で、悩める本人(クライエント)が自分の世界に浸ってしまっていて「独りごと」のようになっている場合は仕方がないと思えるのだが、支援する側の立場にある相手がこれだと、とても大きなストレスになるのだ。

かといって英語のように毎回必ず主語を入れてくれとは言わないが、そのほとんどが抜けている話し方だと、あらぬ誤解を生じさせてしまうこともある。
長々と聞いていて違和感を持ったら、じつは別の人のことだったとか・・
確認せずにメモをとっていたら、じつは別の場面であったとかになると、メモ自体に余計な線や矢印を入れて訂正したりしなくてはならない。

なにより、いちいち確認するのが面倒だ。
でも確認しないことには理解できないし、安心もできない。
誰のことなのかを誤解したまま打ち合わせが終わってしまったら大変だ。

最初は許せていても、それが幾度も繰り返されると流石に苛立ってきてしまう。

おそらく話している本人の中では文脈的につながってはいるのだろうが、その主語をアウトプットしてくれないことには聞き手側としては大いに混乱するのだ。

ふ〜・・書いて整理したら、少しだけ気が済んだ。
けっこう溜まってるな・・あかん。

ということで、次は8の「起こったことを時系列で話す」かな・・

ホント、これにも参ってしまう。
どうでもいい情報まで持ち込まれると、これまた余計な時間がかかってしまう。
限られた時間内に終わらせなくてはならない場合には、いい加減に痺れを切らして「そのことは本題とどのような関係があるのですか?」などと、あえて失礼な質問をせざるを得ないことも多々ある。

時系列で話されると、いったい何が言いたいのかが解らないまま宙ぶらりんの状態に耐えなくてはならないから困ってしまうんだよな。
「お願いだから、早く結論を言ってくれよ〜」と叫びたくなってしまう。

またしても同じ展開!!
話し合いがスムースに行なわれず、いらぬ時間を要することによって焦りの気持ちが湧いてくる ⇒ 帰りの時刻までが遅くなる ⇒ 夕飯にありつける時刻が遅くなる ⇒ 飲食店が混む ⇒ 順に並ぶために待たされる ⇒ お腹が空くのを我慢しなくてはならない・・
(なんだ・・けっきょくは、お腹が空くことが問題だったかっ・・(*^_^*))
結果は同じか・・

僕自身、動物占いでいう「トラ」ということもあって、何かを話すときには最初に結論を言うタイプなのだ。
いわゆる「起承転結」ではなく「結起承転」で話すのが得意であり、それゆえ相手にも求めてしまうのだろうな。

でも、これもまた英語では当たり前。

う〜ん・・僕が日本の文化に馴染めない性格なのかもな・・
僕に問題があるのだろうか?

でもでも、多くの国や他の文化圏における言語の多くが、主語付きが必須であったり、結論から話すような文法になっているのであれば、日本は他国とのコミュニケーションにおいて支障をきたすことになるのではなかろうか?
などと関係ないことまで心配してしまう僕なのでした。

あ、自分のクセも直さないといかんな・・
おそらく僕は3の「専門用語を使う」と、7の「脱線」をやりがちだと思う。
自戒しなくてはな。

あはは、最後までおつきあいくださり、ありがとうございます〜(*^_^*)

今日は思いっきりダラダラして、お昼寝もして
いっぱい休むぞ〜♬


torapa1701 at 10:11|Permalink

2017年11月25日

「好きなこと」と「得意なこと」の違い?

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←良かれと思ってやっていることが、実際には悪しき結果を生み出しているという実例。
※:画面をクリックすると大きくして見ることができます。


小学校低学年の子たちに「好きなことはな〜に?」と尋ねると、「絵を描くこと〜」とか「サッカー〜」とか、または「本読み!」、「歌を歌うこと〜」といった具合に、次から次へといろんなことが飛び出てくる。

じゃあ、「得意なことは?」と尋ねるとすぐには答えず、しばらくしてから「鉄棒」とか「算数」、「読書」、「縄跳び」と、少し違った様相を見せ始める。

「え、べつにお勉強以外のことでもいいんだよ〜」と付け足すと、そこで初めて「ゲーム」とか「野球」、「お菓子作り」などが出てくる。

低学年であっても、そのまま素直に答えるのではなく「この場合、どう答えるべきか・・」、「先生から問われたのだから勉強に関することを言わなくては・・」と妙なビリーフがあるらしく、自由な発言を阻んでいるようだ。

同じ質問を高学年の子にすると・・・
好きなこと? ゲーム LINE 買い物 他に思いつかないや。とこんな感じ。
得意なこと? 特になし。 
あ、スマホの文字が速く打てることくらい(笑)

そもそも、周囲に人がいる場でそんなことを尋ねられること自体が迷惑なようで、「なんで私にそれを聞くわけ?」といった顔をする。

・・なんかねえ・・虚しくなってしまう。

彼らの言葉を聴いて、こりゃ夢も希望もあったものじゃないな・・と思ってしまった。
おそらく「好きなことは?」については、周囲から笑われたり変なふうに思われないように無難な答えを・・といった他者からの視線が気になるがゆえに考えてから開示する必要があるのだろう。

また、もう一方の「得意なことは?」に関しては、さらに応えにくそうだ。
その苦笑いに、適当に誤魔化してやり過ごそうという思惑が漏れている。

「好きなこと」についてはまだよいのだが、「得意なこと」となると途端に答えに躊躇するのはなぜだろう?

おそらく「得意」とは、「好き+ちょっと腕に自信あり」という意味として表現するのではないかと思われる。
だから、ほんのちょっとの自信さえあれば「得意」と言っても構わないのだろうが、そこに他者との比較評価が持ち込まれると、途端に話がややこしくなる・・。

「自分が一番に上でなければ口にしてはいけない」と思い込んでいるような感じだ。
つまり、自分はそれが得意だと口に出すためには、自分よりも巧くこなせる者がいないというのが前提的条件であり、それが充たされていなければ言えないということらしい。

なぜ、こんなふうに「自由にものが言えない状態」になってしまっているだろう。

今どきの子どもたちは、場の雰囲気、空気、周囲の視線、・・これらを極度に気にする傾向がある。
(僕の勝手な決めつけかもしれないが、近畿地方はまだマシかも。東北はもっと深刻に思える。)

彼らが気にする内容のほとんどが憶測でしかなく主観的な想像に過ぎないのに、どうやら心の中では事実との区別も曖昧なまま混同されているようだ。

現状がこうなっているからには、何か(誰か)が彼らの成長に影響を与え、子どもたちを取り巻く環境に何らかの問題があるということになる。
しかも、影響を与えた側は自分の言動のまずさに気づいていないと思われ、それどころか「良かれ」と思い込んだまま未だにそれを繰り返しているということだ。

ひとつ考えられることは、上手くできたときにだけ褒められてきた体験である。
プロセスを認めることなく結果だけを褒めると、子どもは「うまく出来たか否かの結果がすべてなのだ」と認識するだろうし、いかに努力をしても成果に結びつかないとなれば、やった甲斐もなければ、やる意味がないと思ってしまうのも頷ける。

また、努力する姿勢についても「もっと上手になりたい」という純粋は動機なら問題ないのだが、「〇〇ちゃんよりも巧くなりたい!」とか「負けたくない!」といった具合に他者との比較になると話が違ってくる。

子どもの「負けん気」的性格は、なぜか大人たちの間で評価が良いようだ。
お勉強も運動も優劣を持ち込みやすいものだが、世間では「ライバル意識を持つことは良いこと」と捉えられているようである。

そこから「好敵手」なる言葉が生まれたのだろうだが、互いが切磋琢磨しながらレベルを上げていくことについては、別にとやかく言うつもりはない。
但し、両者の関係性において自発的かつ主体的な動機があってのことならば・・だ。
(不本意ながらも「させられている」のであれば、上手くやれたとしても「ホッ」とするだけで自信などつかない。)

しかし、大人たちの手によって「比較評価」を受ける関係となれば問題である。

「負けたくない!」という言葉が、「私だって負けないくらい頑張りたい」という意味であるなら良いのだが、「負けず嫌い」にはたぶん相手に対して「悔しい」とか、場合によっては「憎い」といった歪んだ妬みのような感情を喚起する危険性が隠れているようにも思える。

他者との比較の中で、生き残りを賭けて戦う・・こんなことをやっていれば終には疲れてしまうだろうし、評価基準を外に求めなければならないとすれば、生まれ育った地域から出ることはできなくなってしまうだろう。

特に高校に進学した場合、これまでのように「お山の大将」でいられなくなってしまうからである。
偏差値が同等レベルの者が集まった場では勝手が違い、昨日までのようにはいかない現実に直面するために途中で息切れを起こし、徐々に壊れていってしまう生徒が後を絶たないのだ。

田舎の中学校ではトップだった子がいきなりビリになってしまったとなれば、そのショックは想像に余りあるものだろう。

もちろん、そんな状態に在る子に「あなたの得意なこと教えてください」なんて質問は、まるで傷に塩をすり込むようなものではないだろうか。

そもそも「比較」とは、モノに対する見方である。
モノであれば、どちらの性能が上か? または、どちらが役に立つか?使いやすいか?といった比較は成り立つだろう。

だが、こと「人」に関しては、それぞれの多様性にこそ価値があるのだろうし、個々に違いこそ価値があるという捉え方を以て観る必要があるのではないだろうか。

評価基準などクソくらえである。

ついでに書かせて戴くが、「不登校になってしまう児童・生徒の親の職業ランキング」というのがあるのだが、じつは保育士や幼稚園教諭、そして教師の数がけっこう多い。

これは推察だが、もしかすると、多くの子どもを観ている中で無意識的に「スタンダード(このくらいの年齢であれば、この程度のことができるのが普通)」といった水準を心の中に設けていて、家に帰ってからも「親」ではなく「保育士」や「教師」をやってしまっているのではないか・・と思うのだ。

少なくとも高校や大学の受験において比較評価される経験はけっして楽しいものではないし、その結果如何によって人生が左右されるような分岐点にしてはならない。

自分が何者であるかも知らないうちに周囲の大人たちが勝手に進路を決めさせようという風潮に対しては大いに疑問があるのだが、「早く落ち着いて私を安心させてほしい」とばかりに自分たちのエゴを押し付ける親たちにも憤りを感じるときがある。

10代〜30代までの若者の死因トップは「自殺」である。

彼らが自由に未来を夢見ることができない現代の社会について、大人たちはなぜ疑問を持たないのだろうか。

条件付きの承認・・比較評価・・
「自由にイメージしてごらん」と言いつつも、あれはダメ! これがダメ! こうあるべき!
これでは、まるでダブルバインドである。

ダブルバインドは精神の崩壊を招く大きな要因であることはベイトソンによって解説が為されているが、既に仮説などではなく誰にでもあてはまる点で一般化されてもよいだろう。

子どもたちが壊れていく。

だが、壊れ始めてきているにもかかわらず、手を緩めることなく容赦ない仕打ちをし続ける大人。
しかも彼らは、自分が子どもたちを苦しめている自覚がない。

暴力だけが虐待なのではない。
・・過保護・・過干渉・・こういった過プレッシャーは、子どもが急に動けなくなることで教育的虐待として認識される場合もあるが、それら多くは痛ぶられている側に居る子ども自身にも自覚がないときている。
苦しくとも自分がなぜ苦しいのかが分からないのだ。

どうしよう。
食い止めるすべはないものだろうか・・



torapa1701 at 23:08|Permalink