2016年05月28日

「スクール・ソーシャルワーカー」という職業

12814354_656900617781064_9172680068283987369_n僕の仕事はスクール・ソーシャルワーカー(以下SSWとする)である。
今年で9年目となるのだが、自分としてはけっこう大変な仕事をしているなあ・・と思うことが多い。
年齢的な問題はさておいて、かなり疲れるしね・・
なにせ個人情報を持ち歩くことが禁止されているから、常に頭の中が飽和状態なのだ(>_<)

しかし意外にも、このようなキツい仕事である「SSW」になりたいという若者が多いと聞いて驚いた。
なぜか人気職らしく、大学にもSSW学科なるものが増えつつあるという。ひところ、スクールカウンセラーがそうであったが、流行りなのだろうか・・(でも・・誰が何を教えるのだろう?現場を持っていない教授などには分らないと思うのだが・・)

それはおそらく、どのような仕事内容なのかを知らずにイメージだけで希望を膨らましているのだと思われるが、そのまま夢を抱いていては後に悩むことになると思うので、この場を借りて実情をお知らせすることにした。

書籍等で説明されている内容と若干の違いもあるだろうが、大雑把に言えば下記のような内容となる。

複雑化の度合いを増す今日の社会において、不登校や問題行動、またはイジメや貧困問題など、学校組織の力だけでは解消が困難となってきている現状に対し、学校教育現場に「福祉的な視点」の導入を目指す。

スクールカウンセラーとの違いは、主に親の影響下が強い状況に在る小学生を対象としていること。
また、心の問題だけに限定せず、子を取り巻く環境(主に家庭環境)を調整することで改善を図るという具体的な部分に力を入れていることである。それを実現するために地域の関係機関と力を合わせて総合的に取り組む。

問題解決の対応方法については、ケースカンファレンス(ケース会議)にて共有的に行なう。
だが、これまでのように最初から対応策について検討するのではなく、下の手順に沿って行なう。
(「対応マニュアル」のようなもので一律化することはせず、個別に対応策を考える。)

できるだけ多くの情報を集める。

集められた情報を基に多面的な視点を以て「アセスメント(背景について見立てを行なうこと)」を行なう。

その上で改善に向けて長期目標を定め、その方向に沿った「プランニング(手立てを検討すること)」を設定する。

問題の解消や改善については、あくまでも児童や生徒自身にとっての最大の利益となることを目指す。

学校内の職員のみならず、家庭はもちろんのこと保幼小中連携、地域の関係諸機関との連携をも同時に行ないながら「チーム対応」を基本として取り組む。

これらを推進しながら、学校や地域における「体制づくり」を目に見える形にしていくことである。

アセスメントについて言えば、原因⇒結果といった直線的因果律的な解釈ではなく、様々な要因から円環的かつ多面的な視点を以て心情的な部分をも含めた「全人的な理解」を目指さなくてはならない。
「人の行動には必ず何らかの背景がある!」が合言葉である。

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torapa1701 at 15:00|Permalink真実 | スクール・ソーシャルワーク

2016年05月26日

執着を手放すということ グリーフケアとは・・

4506「グリーフ」について、あれこれ考えてみた。

「グリーフ」とは、悲嘆・・深い悲しみなどを意味する言葉であり、たとえば肉親や大切な友人など、「自分にとってかけがえのない存在を失った際に生じる喪失感」を指す言葉として解説されることが多い。

そこには、手放したくない想い 残念な気持ち 離別による大きな悲しみ、そして心にポッカリと穴が空いてしまったかに感じられる空虚感などがあり、場合によっては生きていく気力を失ってしまうことさえある。

その対象は、特に人間だけにかぎったことではなく、可愛がっていたペットや大切にしていたモノであっても、それが失われた場合には苦しい感覚に襲われる。

特に相手が亡くなった場合や、なにかを失ってしまったときだけではなく、大好きだった友人や恩師とのお別れ、つまり卒業式や退職などの場面でも似たような気持ちになることは誰もが経験しているはずである。

「失恋」などは、その典型的な例と言える。
もう逢えないという意味においては、相手が亡くなってしまったことと同意であろう。

かく言う僕も、じつは20歳のときに大きな失恋を経験しているのだが、その後何年にも渡って引きずることになってしまった。
彼女と過ごした数年間を手放すことができず、仲むつまじく楽しかった日々を思い出す度に胸が苦しくなり、いかに割り切ろうと努めてもなかなか振り切ることができなかった。

そういえば、小学校を卒業したときに大好きな女の子が県外に引っ越してしまったときにも大きなショックを受けたっけ。
「初恋は成就しないものだ」と聞いたことがあるが、理屈で割り切れるものではない。
そこには、やむにやまれぬ苦しい想いがあるものだ。
(あ、今ここで連鎖的に思い出したということは、未だ決着がついていないのかもしれないな・・(>_<) ありゃあ・・なんてこった!ああ、やはり男は過去の奴隷なのか・・)

さて、これら諦めきれない感覚、または名残惜しい気持ち・・これらはどこから生じるのだろうか。

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torapa1701 at 06:59|Permalink

2016年04月30日

生きるとは何か? 命とは何か?


1934691_1033081880083965_2706438275268070896_n・・・以下の動画を観て、ある言葉を思い出した。

『人間とは,「為す」ことができる存在である.「為す」とは,意識して,しかも自己の意志に従って行動することを意味する.人間に関してこれ以上完璧な定義は見出せない.』・・
 G・I・グルジェフ

こんなことをして何になるのだ?
と問う人もいるだろうが、目に見える成果や希求する状況を得るためではなく、それを為そうとする意志と、なんとか達成しようと本気で向き合っている「過程」にこそ、いま此処に自らが存在しているということの意味と価値を見出すことができるのだと思う。

以下のURLをクリックしてみてね(*^_^*)

https://www.facebook.com/livingwonderful/videos/258816414278115/

参考まで・・「グルジェフ語録」

http://www.eonet.ne.jp/~takafumi/self-real/term/gurd.html


torapa1701 at 09:52|Permalink自分さがし | 問題提起

2016年03月26日

就学児童に起こりがちな「分離不安」(再投稿)

分離不安にまでならずとも、2人以上の子を持つ方は以下の動画を観て感じてほしい。
また、親である自分自身が末っ子であったり、一人っ子である場合にも、第一子の気持ちを知っておくために是非とも観て戴きたい。
(たったの1分半ですし・・)


もうすぐ4月。小学校の入学式も目の前だ。

しかし、就学を楽しみにしていたはずの我が子が、登校を初めて3日も経たないうちに突然「学校に行きたくない」と言いだすことがある。(数ヵ月後に起こる場合もある。)

集団登校に間に合わず、仕方なく母親が校門まで送って行ったとしても、「どうしても離れることができずに泣き叫ぶ」といった光景を目にすることが多い。

こういった場合、「言い聞かせる」というのは、もっとも無駄な行為なのだが、母親自身が急いで勤務先に向かわなくてはならない状況だったりすると、その「焦る気持ち」が子どもに伝わり、さらに「見捨てられ不安」が倍増!⇒ もっと、しがみつく・・という悪循環となってしまうだろう。

これは一般的に「分離不安」と呼ばれる状態を指す言葉だが、単に対応法を考えたり解決法を探すよりも先に知っておくべきことがある。

ということで僕の過去のブログを読んで戴きたいと思い、ここにリンクを貼ることにした。

(以下のURLをクリックすると、「分離不安」について詳しく書いた2010年10月09日の記事に飛ぶようになっています。)

http://blog.livedoor.jp/torapa1701/archives/52575357.html

犬でさえ動揺するし、排除されることは淋しい。
要は親が関心を持って気づいてあげられるか否かなのだ。
そのためには、興味ではなく関心を持つことが肝要である。



torapa1701 at 23:06|Permalink育成 | 教育

2016年03月25日

合法的なイジメ? これこそが「スケープゴート」だ。

12177990_945670622178518_1105208195_nまずは、以下のURLを開いてみてほしい。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/masakiikegami/20160325-00055839/

「扉の向こうで「ひきこもり」している像を流したがるテレビ局の体質」という記事である。

以下、文中より〜
3月21日夜、テレビ朝日は「TVタックル」の「大人のひきこもり」特集で、本人の同意もないまま、フリースクールを運営する団体代表が部屋の扉を突き破り、大声で怒鳴って威圧する映像を流した。
そんな当事者への暴力的な手法をとる支援業者を終始、宣伝のように紹介していた番組に対し、ネット上では「酷すぎる」などの批判が殺到・・・


人は、自分の行為を無自覚なまま合理化しようとする。
合理化とは、相手よりも先に、まず自分を欺くのだ。

こういった「集団による暴力」が後を絶たない。
いや、自分たちの行為が暴力であることにさえ気づいていないというべきか・・

人が自分以外の誰かを見下すことで「オレのほうがまだマシだ・・」と安心しようとする心の防衛作用に「仮想的有能感」と名付けた人がいたが、実際にそういった感覚を持つ人たちが多いのは事実のようだ。

イジメがなくならないのも、じつのところイジメ自体が「娯楽」と化しているからだと思うし、いい歳こいた大人たちが自分の行為がイジメであることだと認識していないからではないだろうか。

もちろん「ドッキリカメラ」などは、完全にイヤガラセかイジメでしかないと言いきることにしよう。
他人が困っている様子を観て愉快だと感じる時点で既にアウトだ。

自分を安定化させるために「ダメな状態に陥っている 誰か 」が必要なのだろう。
こんなものは明らかに「生贄」であり、集団による暴力以外の何者でもない。

しかも巧妙に、年老いた親の側に焦点を当てることによって、こういった暴力を正当化しようとさえする。

この国に住む多くの人たちは、「ふがいない自分」や「情けない自分」を誤魔化すために誰かをボコボコにすることによって、なんとか平静を保っている」と言えるのかもしれない。
それこそ、ダメな自分と向き合わずに現実逃避をしているわけだが、どちらが情けないか考えてみたら?と言いたくなる。

こんな番組を制作する放送局も最低だと思うが、興味本位でそれを観る視聴者たちもまた無責任で最低だと思う。
残念ながら、これら両者は利害関係が一致しているのだろう。
例のベッキ―の一件などは、彼女が優等生的で高感度が高かったがゆえに格好の標的にされたと言える。
 
少なくとも僕はこういった野卑な集団の一員にはなりたくないし、自分が行なっている行為を常に俯瞰する目を失わないようにしたいとは思う。

以下の動画・・ なかなかいいポイントを突いてる。

それともフジテレビが、常日頃 自分たちが行なっている悪行の数々に良心の呵責を感じていて、そこに葛藤を感じているからこそ「言い訳」的に制作されたドラマなのかな?・・



torapa1701 at 09:37|Permalink世に対する疑問 | 日本の文化

2016年03月23日

過ぎ去った時間 気がつけば還暦〜 (T_T)

しゅうべえ6←大学生の頃の僕。

前回のブログに書いたように、「ちょっとばかり、まいってる」の状態からなかなか脱することができない。

僕にとって「ロックミュージック」とは、いったい何だったのか・・
いま改めて振り返り、過去の出来事を時系列に沿って思い出しながら見つめ直してみることにした。

僕には姉がいる。彼女が大のビートルズファンだったことと、新しいもの好きの父親が家の応接間に置くためにと当時としては高価だったステレオを購入したことなどから、小2の頃から洋楽のレコードが聴ける環境を得ていた。
小学生の僕はといえば音楽のレコードを聴くよりも、鉄腕アトムや宇宙エース、宇宙少年ソランなどのフォノシート(挿絵付きで話が録音されいるもの)を聴くのが主ではあったが、他の友人たちよりもずっと早くから「洋楽のポップス」に親しんでいたとは思う。
もちろん、僕にとって英語の歌詞はチンプンカンプンで、いったい何を歌っているのかさっぱり分らなかったが、発音だけを真似て歌ったりしていたのを覚えている。

それに加えて、当時は深夜放送を聴くことが流行っていたが、夜中ならずも学校帰りはテレビなどそっちのけで家に着くよりも早くラジオのスイッチを入れたものだった。

“文化放送のセイヤング”、“ニッポン放送のオールナイトニッポン”、そしてTBSの“パックインミュージックなど、曜日ごとに代わるパーソナリティ(担当者)を選びながら時間帯によって受信チャンネルを変え、睡眠不足と戦いながら?も毎晩欠かさずに聴いていた。
というのも、自分が投函したリクエストハガキを番組の中で取り上げてもらえるかもしれないという期待から、寝てなどいられなかったのである。
読まれた日の翌日は、学校に行けば「昨夜の放送、聴いたぞ!すごいな!」とみんなが声をかけてくる。田舎の中学校に通う学生してみれば、全国放送で自分のハガキが読まれるなど夢のような出来事であり、たったそれだけのことでみんなは大騒ぎだった。

ラジオ少年と化した僕は、夕方の6時から始まる「オールジャパン・ポップ20」という番組も欠かさず聴いていた。(たしか、みのもんたが進行役だったな。)
これは週ごとに移り変わるヒットチャートの順に曲を流す番組で、新曲を知るには恰好の番組だった。

当時の主流と言えば、吉田拓郎、井上揚水、赤い鳥、岡林信康などに代表されるニューフォークだったが、日本のシンガ―ソングライターたちに影響を与えた本家本元的な存在であったボブ・ディランやCSN&Y、ピーターポール&マリー、そしてサイモン&ガーファンクルなど幾つかあった音楽番組のおかげで邦楽も洋楽も分け隔てなく耳に入ってきたことにより、「字余りソング」と呼ばれた和製フォークなどよりずっと洗練されたメロディの洋楽を中心に聴くようになっていった。

わが山形第七中学校においてロック好きは少数派だったが、中3のときにビートルズが解散したことや、グランドファンクレイルロード(アメリカのハードロックグループ)やシカゴ(ブラスロック)の来日、そしてビートルズと入れ替わるように立ち上がってきた新たな波であるプログレッシヴ・ロックの登場などで、俄かにロックが話題になっていた。
そしてそれに僕は魅了され、いつしかプログレの虜となった。


続きも読んでね。・・でも、今回の記事はすっごく長くなってしまった。
読み飽きたら途中でやめてもいいっす(>_<) でも、盛りだくさん!
ということで、以下の赤い文字をクリック〜!
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torapa1701 at 02:35|Permalink今日の気分。 | 自分さがし

2016年03月19日

「追悼」 ・・喪失感・・ 悲しみと虚しさ

キャプチャfsdgfエマーソン・レイク&パーマー(以下、EL&P)のキーボード奏者「キース・エマーソン」が亡くなった。
自殺とのこと・・

神経系の病気で指が動かなくなりつつあったらしく、密かに悩んでいたとの情報もある。

彼は、演奏のテクニックは言うまでもなく、クラシックやジャズだけでなく世界各地の民族音楽にも精通しており、その意味でもロック界における最高実力者と言われていた。

また、今やライトミュージックだけに留まらず一般の楽器としても馴染んだ感があるシンセサイザーの元祖である「ミニムーグ」をDrムーグと共に開発し、初めて生演奏に導入した功績も大きい。
(だが、意外にも彼はミニムーグはほとんど使っておらず、スタジオ用の大型シンセ「システム55」をステージに持ち込むことが多かった。)

初期ののシンセサイザーと言えば、パネル上の調整用のツマミと無数の配線に面食らう者も多かったと思うが、音響工学的な知識がなければ上手く操作することさえできない代物だった。
それを左手で音色を作りながら右手でアドリブを奏でるという、とんでもない離れ業をやってのけている。
当時の観衆は度肝を抜かれたことだろう。

そんな彼にしてみれば、その卓越したテクニックが徐々に失われていくことがどれだけ厳しいものだったのか・・・
321B128A00000578-3489624-image-a-5_1457825011301彼のファンは世界中にいるし多くの音楽仲間もいただろうに、彼を「ひとりの人間」として、つまり個人として向き合ってくれる者が誰もいなかったのかもしれない。
多くのファンの中の一人に過ぎない僕は彼のプライベートについて何も知らないが、個人として悩み続ける彼に誰も関心を持たなかったのだろうか・・と思うと、胸のあたりが苦しくなってしまう。

エイズで亡くなったクイーンのヴォーカリスト「フレディマーキュリー」がインタビューの中で「僕はいつも孤独なんだ」と答えていたのを思い出す。
「僕に近づいてくる女性たちは、みな財産が目当てで僕を愛してくれているわけじゃない・・」これはあくまで彼の主観なので何とも言いようがないが、そのような空虚感に襲われていたことは否めない。
ゲイに関係を求めたのも、それがきっかけだったと言われている。

EL&Pの演奏と出会ったのは高校の1年の頃だった。
斬新かつ画期的な演奏スタイルはもとより、これまでに存在していなかった新たな音楽性に驚き、惹かれ、酔い痺れ、一日に何度も何度もレコード盤に針を乗せたものだった。

当時、僕にとって彼らの存在は、まるで宇宙人でもあるかのようなかけ離れた存在だった。
NHKで放映されたライヴ映像を初めて観たとき、写真ではない「動くEL&P」に衝撃を受けた。
それを観て「宇宙人」ではなくなったが、それでもまだ人間には見えなくて、やはり雲の上の住人「神」か「仙人」のような感じだった。12800282_1007613652650287_4957874798905991646_n
それが近年では、FBで彼の日頃の様子を写した写真を見ることができたり、個人的な生活の一部が垣間見える場面が増えたことで勝手に身近な感覚が湧いたりしていた。

幼少時代から家庭内の問題で苦しんできた僕にしてみれば、音楽に熱中できていた時間は救いだったし、夢中になることでなんとか現実逃避できていたような気がする。

悲報を聴いてから今日で一週間となるが、勤務には支障がないものの、少しでも間が空くと勝手に涙が溢れてきてしまう。

なんというか・・まるで肉親を失ったかのような喪失感・・
ピンクフロイドのリックライトやイエスのクリススクワイアが亡くなったとき同じような想いに苛まれたが、今回ばかりは・・
ちょっとばかり、まいってしまってる。

それは、彼の死因が病気や事故ではなく「自殺」であるということも大きいのだろう・・
悲しさを上回る虚しさ・・だな。これは・・

動画は、ムソルグスキーの名曲「展覧会の絵」をロック調にアレンジしたもの。以下の野外コンサート「カリフォルニア・ジャム」には25万人が訪れたと言われている。(冒頭に15秒間のCMあり。ちょっと我慢してね。)


これもカリフォルニア・ジャムの一部。三部作である「悪の経典#9」の第三印象


アルバム「恐怖の頭脳改革」 彼らの代表作にして最高傑作。


アルバム「トリロジ―」 始まりは無音。徐々に音が大きくなります。ピアノが素晴らしい。


アルバム「タルカス」 初めて聴いたときは驚いた。リフが変拍子というのも初めてだったな。



torapa1701 at 16:13|Permalink今日の気分。 | こころ

2016年03月05日

そこに「自分」はあるのだろうか?

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まずは、以下のURLをクリックしてみてほしい。

「私が、好きなアニメを見れなくなった理由」

http://togetter.com/li/944943
(うまく見られない方のために下に内容を添付します。小さな画像をクリックすると大きくなりますので、順に開いてみてください。)

1・・1
2・・2
3・・3
4・・4
5・・5
6・・6



これを見て、この子の気持ちに同調する人もいれば、そうではなく逆に疑問を抱く人もいるだろう。
実際に、この流れに対するツイットにおいても「ひどいね!」と同情する声もあれば、「それはおかしいだろ!」と意見する者もいる。

色々な意見があったが、だいたいはこの二人の会話に集約できると思われる。

やまこ @yamako0430 2016-03-01 21:17:05
@micorun RTで流れてきたので少し。人気が出てしまえば、ファンに対して必ずアンチも出ます。アンチは嫌われがちですが、批判というのは社会に必要です。耳を傾けて受け入れるも良し、反論するも良しですが、自分の好き嫌いの責任を他人に押し付けることだけはやってはいけません。


パシフィカ @PacificaUFO624 2016-03-01 21:33:39
@yamako0430 外からですが
この作者さんが言いたいのは「人の好きなものをその人の前で否定しても悲しむだけだからやめてほしい」という対人関係の問題なのではないでしょうか。批判は必要でも、盛り上がっているところに水を差す必要全くはないと思います。


やまこ @yamako0430 2016-03-01 21:45:23
@PacificaUFO624 リプありです。たしかにそうですね、ただ少なからず水を差してくる(または無意識にやってしまう)人は居るので、そういったときでもめげずに変わらずファンを続けてほしいというつもりで書いたのですが、読み返すと伝わりにくいですね。追記させてもらいます。


パシフィカ @PacificaUFO624 2016-03-01 21:58:57
@yamako0430 どういたしまして。そういう意図だったのですね。こういう話題だと「批判くらいで好きじゃなくなるなんて愛が足りない」とみんな追い討ちをかけることが多いので身構えてしまっていました。私の場合批判されると自分の感性が否定された感じがして虚しくなるんですよね…


やまこ @yamako0430 2016-03-01 22:27:54
@PacificaUFO624 それは申し訳ないです。感性の否定というのは正しいと思います。「楽しい」という自分の主観に否定されているわけですから。結局は図太いほうが勝者で、細かいこと気にしたら負けなんですよ。と言いつつもいつ批判されるかと思うとヒヤヒヤなんですけど…。


パシフィカ @PacificaUFO624 2016-03-01 22:58:37
@yamako0430 いえいえ、こちらこそ責めるような言い方になってしまって申し訳ないです。いっそ批判をされて悲しいという気持ちをストレートに言えば良識ある相手なら気遣うようになってくれるでしょうしそうすべきなんですかね、それでも駄目ならそういう人だったということで…


うん、大人同士の会話だな(*^_^*)

これは、なかなか面白いテーマである。

僕が思うに、これは「理由」などではなく「きっかけ」だと考える。

自分の感性よりも他者からの評価を優先的に選択するという性格的な傾向によるものだと思うのだ。

アニメを批判する友人のせいにするのはお門違い・・と僕は思う。

口に出して批判することについては、場の雰囲気や隣りにいる友人の手前を気にかけることができるかどうか否かの問題であり、その点においては「空気が読めない友人」なのかもしれないが、逆に自分のことを仲の良い友人だと思っていてくれるからこそ遠慮がないのかもしれないし、友人は作品についてあなたと議論したいのかもしれない。

どう感じるかは各自の自由のはずだが、おそらくこの子は「非難」と「批判」が別のことであることが理解できていないまま被害者意識に囚われてしまったのだと思われる。
非難は単なる攻撃であるが、批判には必ず代案があり、「より良いものを求める」という建設的な想いも含まれる。
「批判精神」があってこそ進化や成長があるのではないだろうか。

もちろん、自分が気にいってるものを他者から貶されたら面白くない気持ちにもなるだろうが、好きなものが何でもかんでも他のみんなと共有できるものである必要などないし、そもそも誰かと一緒でないと映画を観に行けなかったり、観賞することによって自分の内部に湧いた感覚よりも先に、同意的共有に価値を置いてるとしたら、その時点ですでにアウトなのだ。

この「アニメが観れなくなった子」には、諸富祥彦著である「孤独であるためのレッスン(NHKブックス)」を薦めたくなった。

孤独であるためのレッスン (NHKブックス)
諸富 祥彦
日本放送出版協会
2001-10



torapa1701 at 09:48|Permalinkこころ | 人間としての成長

2016年02月11日

盲目的慣習 知らないことの罪

恵方巻きの食べ方-2016年の方角向き-いつ-300x298ハロウィーンに引き続き、今回もまた「社会に対する疑問」と言う観点から、「恵方巻き」について論じてみたい。

まずは以下の写真を見て戴こう。



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籠の中に入れられた商品は、まだ食べられるにも関わらず賞味期限が切れたという理由で廃棄された恵方巻である。
しかも大量に・・・
むろん販売する側のコンビニとしては大損害である。
「損失」とは書かずに、あえて「損害」と表現したことには理由がある。

小売の仕組みについては誰しもが小学校でも教わることだが、たとえば75円で仕入れた商品が100円で売れた場合、発生する利益は25円ということになる。
しかし、思惑どおりに売れてくれれば良いのだが、もし売れ残ってしまった場合はどうなるのか・・

ひとつ廃棄になるということは、4個売れてようやくプラスマイナスがゼロ!つまりチャラ(まったく売らなかったのと同じ状態)になることになる。( 教科書では売れなかった場合が想定されていませんからねえ・・(´Д` ) )

ということは、100個ほど仕入れたうち75個が売れたとしても、25個が売れ残ったならば利益がゼロということになるわけだが、それ以上に廃棄が出てしまえば、すべてが販売店の損失となる。
だが、チェーン店を束ねる本部としては、流通させた分のすべて(店に収めた分)が収益になるという一方的かつ理不尽な仕組みとなっていることは知られていない。

さらに、この注文数量は店舗の仕入れ担当者(店長)ではなく、本部が勝手に送りつけてくるという非情さだ。
如何に大量に廃棄が出ようが本部としては痛くも痒くもなく、泣かされている店舗を尻目に利益だけがもたらされることになる。

ご存知のように食べ物に関しては「賞味期限」というものが規定されている。
特に鮮度が問われる弁当や惣菜などは、当然ながら期限が短い。
スーパーなどで見切り品として安く売られているのは、期限が近づいていて廃棄となる前になんとかして損失を最小限に抑えたいという思惑による苦肉の策であり、先述したような損失を被るくらいなら原価を割ってでも売って現金化したほうがいいと判断に拠る。

割引販売は、販売店の損失を抑えるだけでなく、購入する客としてもお買い得感を得ることになるわけだから、両者の利害関係が一致していると言ってもよいだろう。

だが、コンビニ経営の場合、値引き販売は本部からの指示で固く禁止されているうえに、期限の2時間以上も前に陳列棚から撤去する決まりとなっている。

加えて、期限切れに設定されている時刻がこれまた理不尽この上なく、これから売れるであろう昼食や夕食の時間帯の直前、たとえば昼の廃棄であれば11時半に行なわれるといった非合理なものとなっている。

もし、そのまま撤去せず13時まで並べておくことができたなら売れたかもしれないものを、客が押し寄せる前に捨ててしまっては売る機会すら奪われていると言ってもよいだろう。

店としては、11時半の廃棄チェックで棚に何も残らないという状態を避けるために、やむなく昼用の商品を仕入れなくてはならない。(それもまた、翌日の朝まで残すことが許されない。防腐剤等の添加剤もたっぷり入れてあるので、それほど早く傷むとは思えないのだが・・)

いずれにしても、各店舗が売り切れなかった分も含めて仕入れ額に比例した収益をもたらしてくれるという本部にとって都合の良いシステムなのである。

建前的には独立した事業主ということになってはいるのだが、実情はそうではない。
これが店長たちが本部に対して「ヤツらはまるで吸血鬼だ。搾り取るだけ!」と揶揄したくなる所以である。
「損失」ではなく「損害」だというのはこういった背景(不利な契約)に因るものだ。

個々の店長は本部に対して“上納金”を納めることになっている。
これは、一般に「ロイヤリティ」と呼ばれるものだが、「忠誠を誓う」という意味であり、契約したからには本部の方針が気にいらないと感じても、いかに不本意であっても絶対に逆らうことなど許されない。

全国のスーパーやコンビニで売れ残った恵方巻きが大量に廃棄される実態をツイッタ―などで知った消費者からは、「食べ物を無駄にしないでほしい」「こんなことならやめたほうがいい」という声が寄せられてきているという。

以下は、2月3日の夜にyahooニュースから発信された記事である。

「異常な量の恵方巻き残ってる」「26万円の廃棄」「100個以上捨てる」――。2016年2月3日夜、こんな悲痛なツイートがコンビニ店員から相次いだ。節分にあわせて入荷した恵方巻きが大量に売れ残り、それを廃棄しているというのだ。さらには、「大量に売れ残った恵方巻きを、従業員が自腹で買い取るよう強要される」ケースもあるようだ。
■「ノルマ達成できなかったから恵方巻きを買わされた」
 節分に恵方(幸運を招く方角)を向いて太巻きを食べる、「恵方巻き」の風習。もともとは関西地方で行われていたローカルな文化だったが、今では全国のスーパーやコンビニで大々的な「恵方巻きフェア」を見かけるようになった。
 だが、こうした「恵方巻商戦」の裏で、大量に廃棄される売れ残り品が問題になっている。商品の販売期限を迎える16年2月3日深夜から4日未明にかけて、ツイッター上には、全国のコンビニ店員から「恵方巻きの大量廃棄」の報告が数十件も寄せられた。
「私の働いてるコンビニでは恵方巻きが49本廃棄になりました」「26万円分の廃棄 二度と恵方巻き見たくない」 「恵方巻きの廃棄えげつなかったwww84個wwwwww」 「恵方巻きのみで合計価格13万以上の廃棄が」ツイートの多くは画像つきで、大量の恵方巻きをゴミ袋にまとめて廃棄する様子などがおさめられている。さらに、「ノルマ達成できなかったから恵方巻きを買わされた」「恵方巻きのノルマさばけずに困ってる」といった投稿も見つかった。
 こうしたネット上の報告の通り、大量に売れ残る恵方巻きを押し付けられるケースは本当にあるのだろうか。労働組合の「首都圏青年ユニオン」はJ-CASTニュースの取材に「恵方巻きの『販売ノルマ』を、コンビニのオーナーが従業員に強要する例は少なくありません。従業員が買い取りを強要されているという相談も、数年前より徐々に増加しています」と答えた。社員だけでなく、アルバイトであっても販売ノルマが課されるケースも存在したという。


参考サイト 以下の赤いURLをクリックしてみてね。
http://netgeek.biz/archives/65755

◎ 恵方巻き起源説(じつは、ここからが問題なのだが・・)

あなたは、こういった「恵方巻き」を日本古来の伝統的風習だと思い込んではいまいか。
じつは、恵方巻きとはバレンタインデーやハロウィンと同じく、単に製造販売業の儲けのために作られたインチキ風習なのである。

恵方巻きが全国に広まったきっかけは、1998年にセブンイレブンが「丸かぶり寿司 恵方巻」という商品名で発売したことである。
このときに初めて「恵方巻」という言葉がマーケティング策略として用いられ、いまでは節分における行事のひとつとして全国的に知られるようになっている。
つまり、恵方巻きは販売戦略として大手チェーンであるセブンイレブンが全国的に仕掛けた販促イベントであり、伝統な文化が背景にあるように作為的に演出されたものなのである。
単なる思いつきだけではなく、実際に一部の地域で行なわれていた流行りごとを巧妙に持ち込んでいる。

その由来とは、大阪船場の鼻魁(おいらん)遊びということらしい。
大阪の花街界隈では節分の日に遊女に巻寿司を丸かじりさせるお遊びが流行っていたそうである。
太い巻き寿司が何をイメージさせるかは読者の推察にお任せするとして、こういった破廉恥かつセクハラとも言える悪戯が由来であることを知っている人は少ないのではないだろうか。
(知っていたら、特に女性の場合は屈辱的な気持ちになると思うし・・)

さて、輸入してまで大量の生ゴミを出し続けることがやめられない日本とは違い、フランスでは以下のような法律が作られたようだ。

フランスは、スーパーマーケットに対し、賞味期限切れの食品の廃棄を法的に禁止した世界で最初の国になった。テレビ「iTele」が伝えた。
報道によれば、フランス上院は、満場一致で、新しい法案を可決した。この法律は、直ちに効力を発した。すでに今日5日、フランスの大手スーパーマーケットは、調味期限の切れる食品の廃棄が禁止される。それらは廃棄される代わりに、人道援助組織に回され、必要とする人々に配られる。
また新しい法律の中では、故意に食品を廃棄したスーパーマーケットに対する罰則も規定されている。これまで多くのスーパーは、倉庫周辺に集まる失業者やホームレスの人々が食べられないように、食品を故意に「損なって」きた。
この法案の採択に向け尽力した活動家達は、こうした措置が、EUレベルで取られるよう期待している。


さて、まとめに入ろう。

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torapa1701 at 12:24|Permalink真実 | 世に対する疑問

2015年12月20日

自分に向き合うための時間・・

Gauguin-我々はどこから来たのか


上の絵画:ゴーギャン作「我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?」 
右のURLをクリック ⇒ http://www.nagoya-boston.or.jp/gauguin/guide.html

僕は電車を利用する機会が多いのだが、よく通勤帰りの男性が座席で寝ている光景を目にする。

時計を見れば、まだ19時を過ぎたばかりである。
彼は眉間に皺を寄せて目をつむっているのだが、本当に眠っているのか、または何もすることがないからそうしているだけなのかは判らない。

激務に追われて疲れが溜まっているのかもしれないし、どこか具合が悪いのかもしれないので一概に決めつけることはできないが、同じように瞼を閉じている人があまりに多いのに驚いてしまう。

一方、若い男性といえば、ほとんどがスマホをいじること(きっとゲームだと思う)に熱中し、目は画面に釘づけ、耳はイヤホンから流れる音楽といった有り様だ。

対する女性群は年齢に関係なく会話が弾み、豊かな表情や身振り手振りを使って話し合う様子を観るかぎり、とても楽しそうである。(本当に楽しいか否かはべつとして・・)

連れのいない女性も、きっとLINEでもやっているのだろう・・着信の度に様々な表情を見せ、何かを思いついたようにレスポンスしている。
何もしていないかに見える女性ですら、真っ暗な外をガラス越しに見ながら、想いにふけっている様子が窺える。

この対照的な光景を観て、僕はつくづく男性は時間の使い方が上手ではないなのだな・・と思ってしまった。
特に中高年の方々が・・

かといって、電車の中でも仕事の続きをしたり、勉学に励むことが時間の有効利用などと言うつもりはない。

何らかの方法で空いた時間を埋めること以外に術を知らないというか、手持ちぶさたというか、とにかくボーッとすることさえ苦手なのではないかと思えてしまうのだ。

かく言う僕も男性なわけだが、今はこうやって人間ウォッチングをやっているし、または今日一日の出来事や自分の言動について、客観的に振り返ることを日課として欠かさずやってきた。

この空いた時間こそが、自らを見つめて自己理解を深めるための有意義な時間だとさえ思っている。

それは、カウンセラーを生業にしようと決心し、養成講座に通うようになった日を境に欠かしたことがなく、かれこれ15年は続けている。

人が、自分以外の人間のことを理解するというのは途方もなく難しいことであり、まるで雲を掴むかの如く曖昧かつ不明瞭なものである。

それでも相手を理解しようとするならば、最低でも以下の2項目は必須であろう。

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torapa1701 at 14:30|Permalink自分さがし | 人間としての成長

2015年12月07日

「思い込み」という呪縛からの脱却に向けて

「〜であるべき」という思い込みや「これは良いことだ」といった「自分にとって当たり前」と認識していることにこそ、あえて意識的に疑問を持つ必要があると思う。 

観察や洞察抜きに事は語れない。


以下の記事も読んでみてください。

「1人のモデルに対し、6人の写真家にまったく違う肩書きを伝えてポートレートを撮ってもらったら…驚異の結果に!」

クリック ⇒  http://tocana.jp/2015/12/post_8181_entry_2.html

対象に向けるイメージだけで、視点や認識にはこれだけの差が生じるものである。

これは、すべての問題にいえることではないだろうか・・



torapa1701 at 19:54|Permalink真実 | 問題提起

2015年11月30日

腸が第二の脳? それは違う。

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ある記事を読んで、気づいたことがある。

文中より〜
「腸が「第2の脳」と呼ばれている理由は大きく2つあります。
ひとつは、「脳からの指示がなくても自ら動くことができる」こと。もうひとつは、「神経細胞が脳に次いで体内で2番目に多い」ことです。腸は権威に抗うレジスタンスのように、脳からの信号を待つことなく消化という重要な機能を果たすことができるのです! こうした芸当は、腸と同じ消化器官である胃はもちろん、ほとんどの臓器で不可能といわれています。」

以下のURLをクリックしてみてね。

http://promotion.yahoo.co.jp/mjb/secondbrain/?utm_source=ycd&utm_medium=yahoojp-shogakukan-dimejp

これは面白い。

よく考えてみれば、そもそも生命体の「核」はイソギンチャクなどを見てもわかるように、栄養を吸収する器官である消化管だと言われている。

それが、動けない植物と違って、ただ待っているだけではなく、栄養を摂取するために自ら移動して獲物を捕えようと発達したのが腕や足であり、それを上手く使いこなすために最後に発達したのが脳であるのならば、僕らは「脳が主人」という認識を変えなくてはならない。

その意味で言えば、腸こそが第一の脳であり、脳が第二の脳と捉えるべきなのだろうな・・

特に人間の場合、思考が自分であると錯覚しているために、本来の主人である腸との間で葛藤を起こすのではないだろうか。

私の手? 私の足? 私の腸?
違う! 腸が私であり、いま主観だと思っている自意識は、主人である腸に対する反乱だ。

ちなみに、以下のサイトは、このことを証明しているとも言える。

クリック ⇒ http://www.choshin.net/#!about_us/cjg9


torapa1701 at 08:49|Permalink教養 | 真実