2017年10月14日

傷つき体験は他者への攻撃性を生む

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他者を罵ったり、非難や誹謗中傷ばかりしている人がいる。

そこまではせずとも細かなイヤミを言わずにいられない人がいる。

「あいつ、ひねくれ者なんだ」と言ってしまえばそれまでなのだろうが、そんな話を聴いたときの僕は「そんなふうに言いたくなる気持ち」や「どんなふうに育てられたのだろう?」などと、そういった言動の「背景」が気になってしまう。

おそらくは性格的に屈折するきっかけとなった傷つき体験や、成育歴における欠乏欲求のなれの果てなのだろうが、自分の気持ちのまま反応的に行動する小学生ならいざ知らず、適度に社会経験を積んだはずの年齢になってもなお、変化球しか投げられない者がいる。

さて、「マイクロアグレッション」という言葉を初めて知った。
直訳すれば、些細な攻撃とでもいう意味になるのだろうか。

時間がある方は以下の記事にアクセスして読んでみてほしい。

https://minnakenko.jp/kappuru-saidai-teki-maikuroaguresshon/

以下、文中より〜
『マイクロアグレッションと呼ばれる「他者への些細な攻撃」は、たとえそれが甘い言葉と一緒に恋人に向けて囁かれた言葉であったとしても、相手の自尊心や自信を喪失させる危険な行動です。
マイクロアグレッションは目に見えない形で行われる心理的虐待です。
冗談や冷やかしのような言葉を使いながら、しつこく相手をバカにして次第に相手の自尊心を喪失させる虐待で、毎日しつこく繰り返される冷たい行動です。この心理的虐待は、相手に怪我など目に見える身体的な傷害を負わせることがないため、他人の目に気づかれないだけではなく、相手を虐待している側、そして虐待されている側のどちらにも、虐待が起こっている自覚がないことがほとんどです。マイクロアグレッションが広く認知されていないのはこのためです。
〜マイクロアグレッションと呼ばれるこれらの行動を相手から受け続けていると、自分の内面が徐々に変化していることに気づくでしょう。終いには自尊心が破壊され、相手への信頼を失います。』


なるほど・・
あからさまに暴力的だったり、攻撃的に暴言を吐くのではなく、冗談に見せかけながらキツいことを言ったり、笑顔でイヤミを言ったりする・・

うん・・そういった人は、たしかにいる。

先日、いつも行く歯科医院の待合室に置いてあった雑誌「プレジデント」の特集記事タイトルが「嫌われる人はなぜ、嫌われるか?」だった。
それを見た僕は「え、そんなことわざわざ記事にしてあげないと自覚できないものなの?」と思ったのだが、やっている行為や性格だけに焦点を当てたところで自己理解に至るか否かは別問題であり、いかに文書化したものを読んだとて、勝手に湧いてしまう情動によって生じる言動を制御できるとは到底思えない。

「自分はどうなのだろう?」と客観性を以て自らに問いかけることができる者であれば、自己洞察のきっかけくらいにはなるだろうが、自分が他者から嫌われる行為をしているという自覚がなければ、「そういう人、いるいる。ああ、それってあるある。」と他人事として流してしまうのがオチだろう。

噂話が大好きな人?もまた「そこに居ない誰かのこと」ばかり話している時の自分には全く気づいていないように思える。
そこで展開される話の内容と言えば、主観に任せた勝手な評価である場合が多い。

繰り返しになるが、「言わずにいられない自分に困っている。なんとかやめたい!」ということならば、それなりに客観性を以ていることになるわけだから改善の余地もあろう。

だが、むしろ言葉に怒りを込めて吐き出す行為・・つまり陰口やイヤミを言うことに躊躇いがないどころか何らかの「快」を感じているような者は、それをやめたいとは微塵も思わないだろう。

いや、誰かの陰口を言っているときの表情は一見すると憎々しげで怒っているようであっても、そこに含み笑いや冷笑が見えたりするのは、きっと「快」なのだと思う。

一見して判るほど攻撃的だったり、怒りに震えていたり、大声で叫んだりしてくれれば、こちら側としても対応のしようもあるが、上記にあるマイクロアグレッションのように些細でもチクチクするような言葉は、たしかに厄介だ。

たとえば「痒い」という感覚の正体は、じつのところ「微細な痛み」なのだそうだ。
痒みは、気にしなければそれでも我慢できるが、耐えていてもずっとムズ痒いのが続くところが辛い。
なんというか、気にするほど気になるという妙な感覚である。

それが我慢できないからこそ、人は爪を立ててその部分をガリガリと掻くことにより、自分にとっては分かりやすい「痛み」という感覚に置き換えようとするのだ。

蚊に刺されてもすぐ死んでしまうわけではないが、何千回も刺されたらたまらない。

そんなふうにマイクロアグレッションには、強い攻撃を受けるよりもずっと深刻なダメージを負ってしまう危険がありそうな気がする。

と、ここで・・「これって、子育てにも当てはまるんじゃないかな・・」と思った。

それはもちろん「心理的虐待」に該当するわけだが、なにしろ徐に大声で叱責したり殴ったりするわけではないので、なかなか表面化しないだろう。
もちろん警察や児童相談所に通報されることもないまま放置され時間が過ぎていく。

しかし、子どもの心の奥底には目に見えずとも細かな傷が無数に残っていることだろう。

学校では子どもたちに対して「チクチク言葉を言わないで、ふわふわ言葉にしよう!」とか、「悪口を言わないように!」と懸命なる指導に努めているのだが、残念なことに全く減らないという現状に困り果てている。

でもそれはきっと、その子が家に帰れば母親からチクチクと言われているからに他ならない。

そして、マイクロアグレッションをせずにいられない大人(親)もまた、きっとそのように育てられたのだろうということは容易に推察できる。

このような悪しき循環を断ち切るには、まずそのような言葉を吐いてる自分に気がつき、そのような行為をやめられないということを認める必要があるのだろう。

気づくのは難しいだろうけど・・(気づきたくないかも・・)

もし、気づくことができたとしたら、そんな自分を認めることができたとしたら、なんとかしてやめようとするよりも、そう言いたくなる自分の心を観ようとすることだ。

きっとそこには大きな悲しみや傷つき体験がいっぱい詰まっていると思うから・・

「癒し」が必要だと思うのだ。


torapa1701 at 07:13|Permalink教育 | 人間としての成長

2017年10月03日

揺れる心 大切にしたい心

suihannkiフェイスブックで紹介されていた以下の記事を読んで、深く感じ入ってしまった。

「我が家で58年の間現役だった松下電器の電気炊飯器、とうとう引退 長い間おつかれさま・・」

https://togetter.com/li/1156400

なぜか泣けて仕方がない・・(T_T)

炊飯器に「命」があるわけではない。だが、車でも自転車でも「道具」と呼ばれるすべての物に「魂(霊)」のようなものが宿っているような気がするし、使用していた期間が長い分だけ愛着も大きい。

この愛着は、人形や縫いぐるみに対しては特に強く起こる気がするが、だからといって擬人化して観ているわけではない。

こういった感覚的認識は、所謂「アニミズム」に通じる傾向と見做すことができる。
つまり、「海や山に神が宿り、我々を包み込んで観ていてくださる」といった自然崇拝的な成り立ちを持つ原始宗教や、森の精霊といったファンタジーにも多く見られるもので、エドワード・B.タイラーが著書『原始文化』の中で表した概念である。

確かに対象が「モノ」であっても愛着は湧く。

この感覚は、長年つきあってきた習慣(慣れ)を手放すために起こる一種の「不安感」なのか、それとも「いつも隣に置いてあった」という経緯から「名残惜しさ」を喚起するのか、はたまた単なる「もったいない。なんとなく捨てられない。」という感覚が働いているのか自分でもよく分からないのだが、いずれにしても「これまでごくろうさま。ありがとう。」という労いや感謝の想いが自然に湧いてくる。

相手はモノなので返事をしてくれるはずもないのだが、お礼と感謝の言葉を言わずにはいられない。

時には捨てるという行為に対して妙な罪悪感が湧きあがり、なにか「いけないこと」でもしているかのような感覚に苛まれ、なかなか「お別れ」ができず保留にしてるモノもある。

そんな僕だから、車のような大きなモノは取り置きができないこともあり、乗り換えにあたっては大きな苦しさ?が伴う。
どうにも寂しさや悲しさを拭い去ることができず、気持ちの切り替えに長い時間を要したこともあった。(と言いつつ、その割には何台も乗り換えてるけどね・・(^_^;) )

もちろん引っ越しでもしないかぎり、なかなか「断舎利」には踏み切れない。
いや、引っ越しを機に思い切って捨ててしまえばいいのに、それもできずに段ボール箱に入れたまま次の住居まで持ち込んでしまったりする。

既に壊れてしまった携帯電話やカメラなどにも僕と一緒に歩んだ歴史があり、その当時を振り返らせる「思い出」が詰まっているが故に捨てることができない。

結果として、部屋の中はモノで溢れている。

ということで、じつはとっても困っている。

中学生のころ、プラモデルをたくさん作った。
どれも一生懸命に作ったし、完成した後も大切にしていたので、もちろん捨てられなかった。

部屋の中に飾っておくには数が多すぎたので、苦肉の策として天井裏に保管していたのだが、大学に通うために4年ばかり家を離れている間に母が勝手に捨ててしまった。

それを知った時はショックだったし悲しい気持ちにもなったが、そんなことでもなければ今もまだ保管していたと思われるので、あれはあれで母に感謝している。

・・・炊飯器引退の記事から連鎖的にいろんな想いが湧いてしまったな・・(T_T)

それにしても、モノが多すぎるなあ・・なんとかしないと・・

・・・この記事を書きながら、なぜか幼い頃によく遊んだ犬のことを思い出した。

その犬は名前を「クロ」といい、僕の家ではなくて向かいの家の親戚が飼っていた犬である。
その家ではクロを放し飼いにしていたわけでもないのだろうが、よく逃げ出して僕の家に来ていた。
なんど連れ帰っても戻ってきてしまう。

僕はクロのことが大好きだったし、父も母も可愛がって餌をあげていたこともあり、クロにしてみれば「自分は鈴木家で飼われている」と思っていたかもしれない。

そんな折、クロには特に関心がなかった姉が、なぜか「うちでも犬を飼いたい」と言い出したことがきっかけとなり、早速ペットショップまで犬を見に行くことになった。

店に入ると生まれて2か月の「マルチーズ」が目にとまった。
とても人懐っこくて可愛い。懸命に尾を振る姿がじつ愛らしい。

その犬のことが気に入った父はすぐに購入を決め、そのまま連れ帰ることになる。

そのマルチーズにどんな名前をつけようかと姉や母が幾つかの候補を挙げていたのだが、父はそんなことはお構いなしで「マルチーズだからマリでいい」と勝手に名づけてしまった。
オスなのにマリか・・なんとも女の子っぽい感じがして抵抗があったのだが、父が決めてしまったからには逆らうこともできず、姉も母も不本意ながら同意するしかなかった。

でもまあ、慣れてしまえば「マリ」という呼び名も悪くない。
マリは、それから家族の一員として毎日を送ることになった。

それから半年ばかり経った或る日・・・
クロがまた首輪をつけたまま逃げてきた。

マリと対面したクロは・・・

ああ、ダメだ・・(T_T) 
あの時のクロの気持ちを想うと たまらない・・・

父は以前のようにクロに餌をやることをしなかった。

父に言われ、僕は向かいの家に「またクロが逃げてきたよ」とクロを連れて行ったのだが、クロはいつもとどこかが違っていて、なにかを諦めたかのように元気がなく、つないだ紐を引いて逆らうこともなかった。

それ以降、クロが逃げてくることはなかった・・

クロが亡くなったと聞いたのは一年ほど経ってのことだったが、今でも申し訳ないような妙な気持ちが残っている。

新旧交替か・・
電気炊飯器は何を思うだろう・・・
モノだから、何も思わないか・・

どうにもクロのこととオーバーラップしてしまうなあ・・

モノを捨てられない僕の心の奥底には、クロへの想いが詰まっているのだろう。

下の動画・・う〜ん、重いなあ。
やっぱり擬人化してしまってるのかもな・・
【車の気持ち】 車にとってのご主人さま - 悲しい話

torapa1701 at 00:14|Permalink今日の気分。 | 生活

2017年09月21日

自尊心とプライドについて考えてみた

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このところ教育畑では「自尊心」と「自己肯定感」の2つの熟語が登場する機会が多く、子どもらの成長にとって欠かせない重要なるキーワードとして、まるで流行り言葉でもあるかのように用いられている感がある。

もちろん不登校や各種問題行動、もしくはイジメ行為等の背景には、上記2つが欠けていると考えられる上に、そのまま「自信のなさ」につながっていると思われるので仕方がないのかもしれない。

だからこそ、これらを充足させることこそが改善策でもあるかのように、子どもたちに「自信をつけさせよう」「自信を持たせよう」と躍起になっているのだ。

だが、事はそう容易ではない。
単に与えた課題をこなせたからといって獲得できるような単純なものではないし、そこに比較評価が持ち込まれたり、途中の経過(プロセス)に重点を置かずに結果の如何を以て賞賛するような間違いを犯せば、子どもたちは「無理!」という発言に顕れているように「100でなければ、すべてゼロ!」といった白黒的な自己評価に自分を落とし込んでしまう。

もともと自己肯定感や自尊心の源泉はと言えば、ボウルビイが言うところの親子間における愛着(アタッチメント)に起因しているいうのが通説となっており、心の土台となる「存在の承認」が確立されていてこそである。(これが得られていないのが「愛着障害」ということになる。)

人は、自らの生育歴において親の身勝手な「条件付きの愛」に曝され続け、「自分は無条件に受け入れられている」といった認識が乏しい場合には、うまく愛着が形成されず飢餓状態が続くことになってしまうものだ。
この件については実年齢に関係なく、何らかの形で埋めないかぎり成人しても収まるものではない。

それゆえ、親から得られずに欠乏している欲求を充たそうと「自分が愛されること」に莫大なエネルギーを注ぎ、こと人間関係においても「試し行動」をせずにいられず、「愛の確認的行為」として執拗に相手を揺らすための異様な行動を繰り返すことに人生の大半を費やしてしまうのだ。

親から得られなかった存在の承認は、代わりに集団内において自分は歓迎されているとか、大切にされている、または期待されているという実感、つまり「自己有用感」によって、あるていど埋めることは可能だが、心に傷を負っている本人は「試し行動」的に周囲を振り回すために、最終的には集団から排除されてしまうという悲劇的結末を迎えることが多い。

さて、こんなふうに注目されている「自尊心」ではあるが、そもそも言葉の意味が今ひとつ不明瞭なまま用いられていることに僕としては違和感がある・・
ということで、今回はこの「自尊心」について改めて考察を試みたいと思う。

「自尊心」を辞書で調べてみると以下のような説明があった。

『自分の人格を大切にする気持ち。また、自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度。自分を尊ぶ気持ち。プライド。誇り。〜使用例:「自尊心を傷つけられる」』

他には
『心理学的には自己に対して一般化された肯定的な態度である。 英語のままセルフ・エスティーム(英: self-esteem)とも呼ばれる。 ここでは社会心理学における自己の概念に関して、育み維持される自己評価、あるいは「ありのままの自己を尊重し受け入れる」態度としている。』

「セルフ・エスティーム」と「プライド」は似て異なる概念だとは思うが、逆に「プライド」を英和辞書で引くと「自尊心」と訳してあったりする。

プライドとは、ひとつの解釈として「心の鎧」のような防衛的イメージがあり、よく使われる、「あの人って、なんかプライドが高いよね・・」という表現は、必ずしも善い意味ではなく、傲慢であるとか、自我が肥大して天狗になっている様を表す言葉として陰口的に使われているようだ。

つまり、本人としては何ら自覚はないのだろうが、じつは目に見える言動とは反対に「他者との比較で低く見られたくない:虚栄心」が背景にあると推察される。すなわち「劣等感の反動形成」と解釈することができよう。

言い換えれば、高いプライドとは自尊心が低下することを防ぐための防壁(バリア)ともとれる。
自分はレベルが低く情けないヤツだ・・と惨めな気持ちになるのを避け、事実を認めることが辛いので、実際の自分よりも高い位置に置いておくために理想的な己を描き、そこに同一化することで自分を偽るのだ。

しかし行動面では自分を大きく見せようと必死であるために、やたらと自己顕示に熱心で、実績や学歴などを誇張して見せたり、他者に対しても上から目線で批判的であったりする傾向があるだろう。

一方の「自尊心」に高いだの低いだのあるのか?と問われれば、そんな感覚はなく、どちらかといえば
ただ、「ある」か「ない」か?と答えるのが通例のようだ。

このように「自尊心」と「プライド」・・この2つは、どうにも微妙なニュアンスの違いがあるためにイコールとは思えず、多少ズレているように感じられるが、いずれに対しても「有る」か「無い」か、または「低い」とか「高い」といった評価を持ち込むとややこしい問題になってしまうようだ。

この件については、まだまだ議論の余地があると思うのだが、「プライド」と「自尊心」は同意語として扱うよりも、たとえば心理学で言うところの「精神」と、宗教で語られる「心」が似て異なる位置に在ることを知りながらも漠然と了解しているような捉え方がよいのかもしれない。

ただ、この部分を丁寧に分けておかないと、自分では「自信」だと思っていたことが、じつは「過信」であったり、不自然に高めようとすることにより、「自己肯定感」を育んでいたつもりで「優越感」を助長してしまっているといった「誤り」を見過ごしてしまうことが懸念される。

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torapa1701 at 07:18|Permalink人間としての成長 | 教養

2017年09月09日

緊急事態と平和ボケ・・

rendou_wireless_01いやあ、今朝は驚いた。
明け方の5時過ぎ、いきなり鳴った火災報知機の音で目が覚めた。
玄関を開けたところ、通路に設置されている報知機が赤く光りながらけたたましく鳴ってる。

ジリリリリ〜!!!と、ものすごい音量・・(~_~;) 
うるさくて耳が痛くなるほど。

僕は集合住宅の一階に住んでいるのだが、隣りの部屋の住人も音に気付いて出てきたので、どこかの部屋が火事なのか!と見渡してみたものの、全く異常が見られない。

報知機の操作パネルを見ると、2階の部屋のいずれかで火災が発生と表示され、赤いランプが点滅している。

しかし、特に問題はなさそうだ。

この非常ベルは自動的に地区の消防署にも通報となるようにセットされているらしく、しばらくするとサイレント共に消防車がやって来た。
消防車のサイレンに気付いて近所の住民も集まってきた。

消防隊員がパネルを操作してリセットしてくれたが、どうやら誤報のようだった。
だが、どこかの部屋の感知システムが異常を起こしているということになるので、すぐに取り付け業者を呼んで再点検してもらうことになったようだ。

ただ、外に出てきた住民のひとりが、明け方に何か音がすると外に出てみたら酔っ払いと思われる男性が誰も住んでいないはずの空部屋のドアをガチャガチャ捻っていたと語っていたが、もしかしたらその怪しい人物が非常ベルのボタンに何かしたのではないか?・・などと、あれこれ推測してみたりした。

戦後生まれの僕らは、幼い頃から「日本は世界の中でも特に治安の良い国だから安心だよ」と言われて育ってきた。僕の故郷である山形県は、災害と呼べるほどの出来事もなく平和だったなあ。
たしかに暗闇の中を年頃の娘や子ども独りで歩いていたからといって、すぐ誰かに襲われることなど滅多にないが、このような安全性は諸外国では考えられないことらしい。
(昔と違って、徐々に危険性が増してはきているが・・滋賀県は田舎だから比較的安全かな。)

そんなこともあって、緊急速報といわれても地震や大雨による被害の予想くらいしか思いつかない。
それを「平和ボケ」というのなら、日本は戦後70年以上もの長き期間に渡り「民衆らがボケていることが許されるほど安全で平和な国だった」ということである。
これは、よく考えれば素晴らしいことであり、できればいつまでも「平和ボケ」のまま過ごしていたいものである。

そんな中、ここ数年で構築された「J・アラート」だが、これは大きな地震や他国からのミサイル攻撃などがあった際に警報システムが作動し、テレビだけでなくスマホからも危険を知らせる緊急アラームが発せられることになっている。

Jアラート ← 文字をクリック

それこそ誤報などあってはならないわけだが、平和な日常に慣れてしまっている日本人は、「某国がミサイルを発射」といった緊急速報が流れたとしても、自分の頭上に落ちてくきたらどうしよう・・とは思わないようだ。

原発の危険に対する意識に於いても言えることだが、自分の問題として深刻にならないのは「対岸の火事」として観ているからだろう。

危機意識がない分だけ無防備というか、実際に災害に巻き込まれた際には全く動けないことも自覚しておかねばならない。
(実際に今回の誤報騒ぎで火災報知機が鳴ったことによって、僕は管理者の連絡先さえ知らない自分に気が付いた。これはマズいよな。なんてこった(~_~;))

たまたま昨日は、太陽の黒点活動に因る所謂「太陽フレア」が、地球上すべての地域において電子機器やコンピュータに大きな障害をもたらすことが危惧されると聞いていたので、この誤報もそうした影響か?などと思ったりもしたが、まあ誤報でよかった。

このところ大雨による洪水や大型の台風による被害が増えている気がするが、その都度に大雨情報や地震速報が頻繁に鳴れば、ヘタをすると回を重ねるごとに慣れてきてしまい、「あ〜、また鳴ってる〜。うるさいから切っておこう・・」と、危機管理の意識が麻痺してしまうという別の問題が起こると思われる。

たまにこういった突発的な出来事とがあってこそ考えさせられる問題だと思う。

ヨーロッパなどから観光に来ている方々が地震を体験すると、ものすごい慌てぶりで腰を抜かす者までいると聞くが、慣れている我々にとっては地震の発生など日常茶飯事になってしまっていて、小さな揺れなど気にもとめなくなってしまってる。

慣れとは怖ろしいものだ。 これではあかんねえ(~_~;)

今日は休み。なんとな〜く身体がだるい。
夏の疲れが出てきてるなあ。

・・あとで昼寝でもするかな。

追伸〜
後に設備業者から連絡が入り、誰かの「いたずら」とのことだった。
二階の報知機のボタンが押されていたようだ。

となると、例の怪しい酔っ払いの仕業か・・困ったもんだ。


torapa1701 at 10:00|Permalink生活 | 今日の気分。

2017年09月08日

「USA FOR AFRICA - We Are The World」

a0110270_181004←様々な救世主たち
(むしろ彼らがいなかったら戦争など起こらなかったりして・・)

「USA FOR AFRICA - We Are The World」

これ、何年かにいちど、なんとなくだが無性に聴きたくなる。

いいなあ。なんども繰り返して観てしまう動画です。


ウイアーザワールド ←解説(クリック)

実際には「世界がひとつ」になるなんて、まだまだ先のことなのだろうし、もしかしたら人間はエゴを克服できないまま対立を回避できずに絶滅し、ワンネスになど到達できないのかもしれない。

でも、これを観ていると、いやきっと実現するに違いない・・
と信じたい気持ちになる。

国と国との対立的緊張が高まっている今だからこそ、改めてみんなに聴いてほしいと思った。

ところで、マグレガーにおけるX理論とY理論は、人間の本質とは「悪」だ。いやいや「善」だよ。
といった具合にふたつの捉え方があることを提起した。

僕が生業としているソーシャルワークやカウンセリングは「性善説」に則ったものであり、個々人の中に在る小さな悪心は、より大きな愛によって凌駕されるはずだと僕は信じている。

実際どうなのかは、いまのところ僕には判らないが、これまでに出会った数千人に及ぶクライエントや、何らかの縁で出会った方々のことを思い起こしてみれば、それぞれが心の中で葛藤を繰り返しながらも、少しずつ成長することにより、人は利他的な位置に接近し得るものだと思う。

1960年代にアメリカの西海岸で「ヒューマンポテンシャルムーブメント(人間性回復運動)」が興った。
これは、ベトナム戦争を体験した彼らが、国と国との戦いなど人間にとって良いことなど何も生み出さないことや、他国より一足先に環境問題に直面したことにより、我々の文明の発展の仕方はおかしいのではないか?と疑問を持つことからカウンターカルチャーとして生まれた思想である。

それまでの心理学は、誤解を恐れずに言えば「いかに人を操作するか(行動主義)」から始まり、次に「おかしくなっている者をいかに治すか(精神分析)」といった潮流が主であったが、マズローが新たに創設した心理学は、健全な発達と成長に至るために必要な段階に焦点を当てたものである。
これは心理学史における第3の潮流と呼ばれ「人間性心理学」と名付けられた。

マズローは、成長モデルを5つの段階に分け、人間が到達し得る最終形態は「自己実現」であるとした。

マズローの段階欲求説 ←(解説)クリック

しかし、なぜかあまり知られていないようだが、彼はその考えを晩年に覆し、改めてもうひとつ書き加えている。

それは以下のような内容である。
私は、自己実現さえも超えてさらなる成長に至っている者を見てしまった。
彼らの存在を認めるしかない・・どうやら「自己実現」が最終地点ではないようだ。
人には個人の領域を超える可能性(トランスパーソナル)がある。
と語っている。

即ち、人の成長には際限がなく、個人という枠を超え、全体性に向けて包括的に成長する可能性を持っている、つまり「超個(トランスパーソナル)」の段階があるということだ。
トランスパーソナルを第4の潮流と呼ぶか否かについては、未だ議論が進んでいない状況ではあるが、人間が持つ可能性に焦点を当てている点で今後に期待したいとは思う。
そんな想いもあって、僕自身も日本トランスパーソナル学会支部の事務局長として活動に関わっていた時期がある。

日本トランスパーソナル学会 ←(解説)クリック。

仏教で云うところの「自他合一」的意識、所謂『悟りの境地』は、おそらく修行の果てに至ることは可能なのだろう。
ただ、個人レベルで到達できたとしても、それがいったい何になるのだろう?などと考えてしまう。

悟りとは世界的レベルで共時的に、かつ全域で変革的に起こらないと意味がないという話をきいたことがあるが、これまでの歴史において覚者と呼ばれた幾多の先人たちが、いかに懸命に人の道を説いたところで、けっきょく人は今もなお何ら変わっていないではないか!と残念な気持ちになる。
だが、この残念に思う気持ちが「執着」によって生じているなら僕の認識に問題があることになる。

仏教が「無常」を唱え、各々が「自他共にありのままであること」が受け入れられることを目指すものなら、僕はまだまだ修行が足りないことになる。

さて、気を取り直して考察を続けようと思うが、つまり「利己」の段階から「利他」の境地へ至る道筋を仏教的に解釈すれば「上昇」というよりも「深化」と捉える方がしっくりくる感があるのだが、意味合いとしてはトランスパーソナルと多分に重なる概念だと思って差支えないだろう。

最終的に個々人が成長し、成長した個人が社会を構成し、成熟した世界へと進展してほしいものだが、困ったことに現状としてはエゴイズムを克服していない族(私利私欲的な)が支配する切り捨て社会が個人に悪影響を与え、その結果として個々の成長の妨げとなっているのが現状だ。

我が国を構成する「藩と幕府」が解体されたのは、黒船の来襲によって高まった危機意識のおかげだと言えるが、だからといって地球がひとつになるためにと「地球の侵略を目論む悪しき宇宙人」の登場を願っても叶いそうにない。

ウイアーザワールドのキャッチフレーズは、たしか「愛は世界を救う」だったと思う。
愛とは元来「利他」的であって「利己」的なものと混同しないよう区別しておく必要がある。

たとえば、僕は「恋」と「愛」は相反するものだと思っているのだが、たとえ「恋」が相手との関わりにおける入り口だったとしても、恋はエゴでしかなく「僕は・・私に」といった具合に相手に求める要求が優先される意味で、自分本位な感情であることは否めない。
しかし、その経過如何によっては、最終形態として「愛」に至る場合もあり得るとは思っている。

親が子に示す愛とて、親側のエゴに染まった「条件つきの愛」であったりもする。
いずれにしても、相手に対してこちらの要求を優先せずにいられない関係に愛はない。

超えなくてはならない壁は、やはり自らのエゴなのではないだろうか。

「John Lennon - Love」・・改めて聴くと、いい曲だなあ。
※:始まるまで10秒ほどかかります。
ちょっと待ってみてね。(*^_^*)


あ、せっかくなので、これも・・・
やはり立ち上がりに時間がかかります。少し待とうね。


イマジン ←クリック(解説)歌詞の内容

彼が願ったユートピアは果たして実現するのだろうか・・

集団内におけるイジメ問題ひとつをとっても、なかなか解消するに至らない学校が悔しい。
自分の存在に自信が持てず集団に入れなくなってしまった子らを救済することにすら困難さを感じている自分が悔しい。

いったい僕に何ができるのだろう・・
やってもやっても次々に立ち起こる問題。
なにか根本的なものを変えなければ改善などありえないのかもしれない。
であるなら、変革という言葉をより鮮明に意識してみよう・・

などと思わずにいられない今日この頃・・

う〜、もはや還暦。この焦燥感はなんだ?

今の仕事、このままのスタイルでやっていていいのだろうか・・(~_~;)
他の道はないのかなあ・・いろいろと悩んでしまうよ。


torapa1701 at 23:00|Permalink

2017年08月30日

これもまた共依存・・支援者のあり方について

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僕は仕事以外の場でも「相談」を受ける機会が多いのだが、インテーク的な面接の後に本腰を入れて関わることになった限りは、しっかりと料金を戴いた上で敢えて「契約」の形を採っている。

それは、仮にも専門職を名乗っている僕としては、きちんと「請け負う」という意味で責任を持つことに加え、相談する側にとっても「単なる愚痴を聴いてもらう場」ではなく「改善に向けて自分に向き合う」ということを認識して戴く意味もあり、問題にコミットするということの姿勢と決意に価値を見い出そうとするがゆえである。

請け負うということは、その負担も然ることながら相談によって生じる結果にも対応することを踏まえれば、改善に至るまで関わり続けるという過程をも含めた「覚悟」も必要となる。

しかし、世の中にはいろんな方がいて、僕のように専門職としてではなく、単に周囲から相談されることにある種の「心地良さ」を感じている方も多いようだ。

そんな人たちは、むしろ積極的に他者の問題に首を突っ込んでは「もしよければ、私が相談に乗ってあげようか?」といった提案まで行なうのである。

こういう方々のことを世間では「お節介」とか「世話焼き」と呼ぶが、それはどちらかといえば、性格や気質に由るというよりも、そうしないではいられない傾向を持っていると解釈すべきであろう。

イネイブラーという言葉をご存知だろうか。

以下、日本トラウマ・サイバーズ・ユニオンのサイトより〜

イネイブラー(enabler)とは、嗜癖その他の問題行動を陰で助長している身近な人のことをいいます。「世話焼き人」などと訳されることもあります。
たとえば、表向きには夫のアルコール問題で悩んでいるように見える妻が、じつはその問題がなければ自分の価値がなくなってしまうために、夫のアルコール依存を陰で助けている場合などに用いられます。
あるいは、子どものひきこもりで悩む母が、子どもをひきこもりから出そうとして奮闘することにより、じつは「よい母をやっている」自分の評価を高めるだけで、ひいては子どもの人生を悪化させている場合などに使われます。
こうした人々は、自分の人生に向かい合うことを恐れ、その分を他人(夫、子どもなど)の世話を焼くことに逃げているために、このような行動をとるわけです。イネイブラーと問題行動の当事者(妻と夫、母と子など)の関係は共依存という人間関係嗜癖の状態におちいっています。
オンラインの英和辞典などにはまだ出ていないこともありますが、治療や自助グループの現場ではよく使われる言葉です。
enable とは、もともと「〜できるようにする」という動詞ですが、対象がアルコール依存やひきこもりなどの問題行動を「できるようにする」役割を、自覚しないままに背負っていることから、このように呼ばれるようになりました。
__________________

つまり、他者から「此処に居てほしい」と求められたり、他人の役に立つことによって「おかげさまで・・」と言われたりすることによって自分の存在を確認しようとする人たちのことである。

これは「承認の欲求」と呼ばれ、「欠乏欲求」のひとつとされているが、その背景としては成育歴において親から無条件的に存在が承認されることが得られず、自分の行為の結果や親の期待などによって「条件付きの承認が為された結果」と捉えることができる。

「世話焼きおばちゃん」の程度なら仕方がないが、それが民生委員であったり、福祉職であったり、カウンセラーなど、所謂「対人援助職」を生業としているとなれば、捨て置くわけにはいかない。

「してあげたい援助は援助に非ず」という言葉があるが、世話焼き的な援助は逆に依存性を引き出す結果を招いてしまうために、本来の福祉的姿勢であるはずの「自立に向けた援助」ではなくなってしまうからである。

言わば、「自分の欲求を満たすために目の前の困っている人を利用している」ということになる。

欲求の背景にあるのはメサイアコンプレックス・・つまり、自分の存在に自信がなく、自身に価値を持てないといった欠乏的感覚である。

それを埋めようと他者からの承認を得ようとするのだ。

もし、そのように「してあげたい」という動機に自覚がないままであるなら「対人援助職」に就くことはあまり好ましくない。

無意識な動機として

してあげたくなって行なう支援・・
感謝されることを期待しながら行なう支援・・

これらは「支援」ではないのだ。

ところで、僕が以前からずっと「進路指導」という言葉に違和感があるのは、背景にあるはずの動機やきっかけに対して教師が焦点をあてようとしないことである。
それは単なる「ガイダンス」でしかない。

できれば、その職に就きたいと思ったきっかけや動機、またはその職種に就いて何を為そうとするのかの明確化をも含めた「進路相談」であって欲しいものである。

そういった重要なる過程を経ずに対人援助職に就いた場合、後に様々な問題を生じさせてしまうからである。



torapa1701 at 22:38|Permalink人間としての成長 | 問題提起

2017年07月25日

子どもは社会の鏡であると言われるが・・

o0386040813889690437最近関わった「イジメ事案」についていろいろと考えさせられた。
いっこうに減少の兆しが見えないイジメ問題に対し、文科省は「本人がいじめられたと感じたら、すでにイジメが起こっているものと見做して対応せよ」という指示を出している。

この件については、これまで「それはイジメか否か?」の判断が教師の主観によって行なわれていたために、その対応も教師によって大きな差があり、イジメに遭っていながらも泣き寝入りするしかなかったという悲しい経緯があったためである。

その意味で、イジメの定義が見直され、現在は「あくまでも本人がどのように感じているか?」という一人称的な感覚に価値を持たせた形となった。

しかし、実際の現場では、それによって逆に新たな問題が浮上してきている。
というのは、被害者意識が強い児童や生徒、またはそれらの保護者が、ときに妄想的に被害者を演じることにより、相手がいとも簡単に「加害者にさせられてしまう」という、いわば「加害者にさせられる被害」が方々で起こっていることである。

日本にはケンカ両成敗という考え方がある。これは中世および近世に至るまで日本における基本的な法原則の1つであった。

たとえば交通事故においても追突事故以外は10対0というジャッジはほとんどなく、いかに不本意であっても7対3とか、5対5といった具合に当事者両者に責任割合が持たされるものだが、ことイジメに関してはなぜかこれが機能せず、先に被害者として名乗りを上げた側、つまり先に泣いた者が勝つことになる。

人間関係が相互作用であるかぎり、10対0という判定は事の次第を充分に理解した上でのことでなくてはならないはずだが、短絡的に「謝罪させること」に導かれてしまうと、加害者と呼ばれた側が全面的に非を認めざるを得ないという虚しい結末に至ってしまうのである。

仮に被害者にも何かしらの問題があったとしても、謝罪によってそのすべてが覆い隠されてしまうことになる。
教育現場なればこそ見えるであろう成長課題も問題点も取り上げられることなく、抹消されてしまうのである。
当事者同士にしか解り得ないことを周囲が勝手にジャッジすることなどあってはならないはずであるが、こういった問題は、特に子どもの社会に限ったことではない。むしろ逆に子どもの成育にとって身近な大人たちが悪しきモデルになっていることにこそ問題があるのだ。

今回私が関わったケースにしても、我が子の話を鵜呑みにした親が激昂し、こともあろうに真相が明らかでないまま教育委員会に訴えたために問題が大きくなったという経緯があるのだが、いくら我が子のことが大切であれ、なんとも大人げなく情けない行為である。

イジメられたと訴えている子に対して「あなたにも問題があるのではないか?」という声がけはもちろん禁句とされてはいるが、実際にはその場の行動や行為だけではなく、これまでの経緯についても吟味しながら総括的に観る必要があるし、互いに改めなくてはならない点もあろう。

うまくいかないことは、すべて誰かのせいであり、何かのせいであり、自分には何ら責任がない。
おそらく、こういった主張を繰り返す人生を送っているようでは自分自身の成長もまた滞ったままになってしまうと思われる。学校や家庭での教育だけではなく、社会人となってからも続くことになるのだろうが、企業にとっての新人社員も含めた「人材育成」にとっても、この問題が大きな障壁であることは今さら言うまでもない。
自分を偽り、誰かのせいにして被害者を演じているかぎり、成長は叶わない。

「自己責任」は大人であるための条件のひとつと言われているが、もし言い訳ばかりしている社員がいるとすれば、残念ながら技術面でも精神面でも育成に苦労するであろうし、必要以上に時間を要することになるだろう。

ということで、今回は以下の書籍を紹介したい。


自分が源泉 ‐ビジネスリーダーの生き方が変わる‐」
:鈴木博 著 :創元社 

身の周りに起こるすべてのことが、じつは無自覚な自分が生み出した産物であるという解釈において、意志的な自己決定ができる自分へと変貌を遂げるために大いに参考になる内容であり、同時に自分自身を俯瞰するための客観性を持つことにも繋がると思われる。

自らが被害者に身を置くことで回避できることは多いのかもしれないが、そういった回避傾向によってどれだけ成長の機会を逃してきたのか、または自分自身に向き合うことを避けていることにより、幾度も同じような繰り返しの中から出られずにいる・・
こういった呪縛を解くヒントになれば幸いである。


torapa1701 at 06:54|Permalink教育 | 問題提起

2017年07月16日

スターウォーズ メイキング予告動画が公開

キャプチャswスターウォーズ 次嶌埜紊離献Д瀬ぁ2017年12月15日公開。
同擦記録的なヒット作品になったこともあり、あの続きを早く観たい!とばかりに期待感は高まる一方だ。

それに先駆けてメイキング映像の露出となったわけだが、最後のところで出演者のひとりが言ってた「これは家族の物語・・だから力強く、精神的にも深い」という言葉が気になった・・


う〜ん・・僕としては、何でもかんでも家族の物語にしようとする傾向があるハリウッド映画に違和感があるんだよなあ・・

現代のアメリカ社会が抱える心の闇というか、問題の根源がそこに反映として顕れているのではないか・・とか、つい勝手に思えてしまうのだ。
つまり、「実際の家庭の状況」と、それを認めたくないがゆえに持ち続ける「理想の家族」のギャップがそうさせるのではないかという意味である。

以前、友人が「けっきょく、スターウォーズって宇宙を舞台にした壮大な親子ゲンカであって、巻き込まれる周囲の人間たちは虫けらみたいに簡単に命を失ってしまう。あれじゃたまらんよな・・」と言っていたのを思い出した。
素直な感想だと思う。

まあ、すべてがフィクションだし、映画なのだからどのように作ってもいいのだが、「個人の中に在る複雑な想い」を誰にでも分かるように分かり易く一般化してしまうことが、かえって深い作品に至らないというか、辛口の評価を招くのではないかと思うのだ。

p-144458-fullその意味では、スターウォーズの裏エピソードとして描かれた「ローグワン」は、良い意味でスターウォーズらしからぬ異色の作品であったし、様々な個人が織り成す人間模様が複雑に交錯していてとても楽しめた。
個々の背景が大切に扱われていたと思う。

比較しては何だがスタートレックには幾人もの個人が見える。
だが、なぜかスターウォーズには主人公たち以外が見えない。
周囲の存在がまるで「風景」でしかないように思えてしまうときがある。

たとえば、デビットリンチを監督に抜擢したら、どんなふうに描くのだろう・・などと余計なことを考えて楽しんでしまう今日この頃(*^_^*)
(いま、ツインピークスの続編にハマっていまっす♬ 忙しいけど、合間を縫って頑張って観てる。)
http://www.wowow.co.jp/drama/tp2017/?gclid=CK_T9uLJjNUCFQqBvQod0i0Kow



torapa1701 at 09:52|Permalinkこころ | 案内

2017年07月15日

鬱病の過半数は誤診だった!? 知られざる事実

350_Ehon_82360なんとなく調子が良くないだけで病院に行く人が多いようだが、相手が医師であれば何でも判ると思うのは危険な思いこみである。
症状に因って医師も選ばなくてはならない。

以前、知人の妹が「眼の具合が悪い」というので眼科に行ったものの原因が解らず、とりあえず点眼薬だけ渡されて帰宅した。
一週間後、彼女は亡くなった。
脳に異変が生じていたのだ。

もちろん眼科医も医師ではあることに違いはないが、なぜこんなことになったのか!どうして脳の異常に気づけなかったのか!と、知人は無念ながらに悔やんでいたのを思い出す。

以下のような内容の記事を見つけた。
近年急速に増えている先日のブログでも紹介した鬱病についてだが、実は精神科で鬱病と診断されているうちの過半数は鬱病ではなく副腎疲労という事実をご存知だろうか。症状は疲れが取れない、燃え尽きた感じに苦しみ、何をしても体力が回復せずに、何度も通う病院の精神科と心療内科を変えてきたという経験を持っている人がいると思います。副腎はストレスがかかった時やがんばるときにそれに対応できるようにアドレナリンやコルチゾールなどのホルモンを出すところです。この副腎の機能が低下してしまうことを副腎疲労と言います。

実はこれも現代医学では教えられていない疾患の一つで医師たちはこの存在すら認識されていないのです。内分泌学者(副腎を含む内分泌線の障害を治療する専門医)でさえ副腎疲労を明確な明確な疾患として認識したり、治療できる態勢にあることはきわめて稀なのです。現代医学で取り上げる副腎の病気はアジソン病とクッシングシンドロームですが、副腎疲労の患者数は遥かにそれらを合わせた数よりも多いので問題なのです。しかも,アジソン病やクッシング症候群のように検査では陽性にならないのでさらにわかりにくくしているのでしょう。精神科や心療内科にとってはほとんど鬱病と同じ症状なので、当然鬱病と診断をしてしまうわけです。


元ネタはこちら・・
http://zenko.karada.in.net/post-624-624.html

さて、ここで問題提起をしてみたい。
以前から疑問に思っていたことなのだが、精神科って他の医院とは違って体温も測らなければ、血圧も測らない。血液検査や尿検査もない。もちろんMRIやレントゲンも撮らない。

だから上の眼科医と同じ理由で、仮に身体に問題があっったとしても見逃すのは当然といえば当然だ。
だが、眼科医は眼の専門家であるので、その専門的な範疇において有効である。
だが、精神科医たちは果たして専門家と言えるのだろうか?と疑問に思うのだ。

医学が応用科学の1分野であるかぎり、デカルトの要素還元主義に習って「仮説を立てて検証(測定)する」という手順を踏んでこそである。
つまりエビデンスベースドでなければならないはずである。
しかし、なぜか精神科だけは異質であり、何の測定もせずに「状態像」を観た医師の主観のみで判断する。

しかも、診断と言っても、それはDSMに記載されている症状名を意味するだけのレッテル(強迫性障害とか、鬱病とか、または発達障害など)を貼るだけ。

こんな曖昧で根拠もないまま、なんと無責任にも投薬治療を始めてしまう。

このような状況からすると精神科は医学ではないと言わざるを得ない。
「心」を物理的かつ化学的に測ることはできない。
かといって機器に拠る測定の代わりである心理検査や観察が有効かといえば、あまり期待できない。
なぜなら、その多くは投影法だからである。
言うならば、クライエントが投影したものを医師個人の投影に拠って観るだけである。
観察については言うまでもない。
そこに信憑性があるか否かと問われれば、確信を以て答えることができる者などいないはずである。

ロールシャッハ、バウム、矢田部ギルフォード、PFスタディ、箱庭、どれもイメージだけに頼ったテストであり、検査を実施する側の主観に拠るものにすぎない。

さらにまた、その分野は、精神科医ではなく心理士の仕事であろう。
ただ、解釈が深く熟練した心理士にかぎっては心理テストにも価値を見い出すことができる。
(心理士も個人の力量の違いが大きいが・・きりがないね (~_~;))

最近では、たった2歳の幼児に対して「この落ち着きのなさは発達障害に因るものだ」とばかりに向精神薬を投与する医師までいる。
仮に、「3歳にも満たないのに大人のように常に落ち着いている幼児」がいるとすれば、逆に心配だ。
精神科に連れて行く親も親だが、真面目な顔をしながら処方箋を書く医師もまともとは言えない。

ただ、精神科医といってもいろんな人がいる。
できるだけ投薬をせずに治療しようとする医師もいる。
フィンランドで実践されている投薬なしの治療法である「オープンダイアローグ」を日本に紹介したのも精神科医の「斉藤 環」氏である。


※:高木俊介氏も紹介本を書いてますね。(精神科医です)
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僕としては精神科医すべてを否定しているわけではないので、そこは誤解のないように願いたい。

ところで、現在は投薬だけに専念するあまり忘れ去られてしまった感のある「力動精神医学」だが、中には少ないが精神療法を行なう医師もいる。
だが、制度上なかなか医療ポイントがつかないといった問題もあり、施術ができる医師は極めて少ない。

だが、これとてフロイトの学説が起源となっており、言うならば文系の学問である心理学が基礎となっている。
心理学は科学ではない。統計に拠って一般化しようとする試みはあっても科学とは言えない。
他の医学分野とは違って「理系」ではないのだ。
(この件、精神療法や心理療法については、また改めて書きますね。)

この辺り、みなさんは疑問に思いませんか? 

その医師に自分を任せられますか?

ついでにいえば、医学と心理学の統合的成果である心身医学」を学んでいないにもかかわらず、勝手に「心療内科」の標榜を掲げている医院が多い。(じつのところ、中身は精神科なので薬を出すだけ・・)
こういった違反行為が黙殺されている。
不安に思ったのなら、あなたの主治医が「日本心身医学会」の会員かどうかを自分の目で確かめてみればいい。

「日本心身医学会ホームページ」
http://www.shinshin-igaku.com/recognize/special.html

処方する薬が売れさえすればいいとでもいうのだろうか?

こういった詐称的行為に対して罰則の規定がないのも問題なのだが、医師自身が心療内科とは何か?を知らずに看板だけ上げているという呆れた実態があることも知っておきたい。
(知っていながら標榜を名乗っているのなら、さらに問題だが・・)

※:精神科と投薬治療について・・過去のブログ記事です。

http://blog.livedoor.jp/torapa1701/archives/52478312.html



torapa1701 at 22:06|Permalink世に対する疑問 | 問題提起

2017年07月03日

講座のお知らせ

※:終了しました。多数のご参加、ありがとうございました。

講座のお知らせです。
特に、子育て中の親、教育に携わっておられる方、養護教諭、学童の職員さんなどにお薦めです。
※:拡大したい部分をクリックすると画面を大きくして読むことができます。

jinnbo
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開催間際ですが、まだ空きがあります。
申し込みはお早めに

以下、参考図書。
作業療法士って、じつは発達支援の専門家でもあるのです。

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torapa1701 at 10:27|Permalink案内 | 教養

2017年07月02日

「意識の二重構造」・・反応する自分を観察する

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朝、ある記事を見つけた。

それを読んで、とても悲しい気持ちになった。
こういった炎上をみるにつけ、「こうであるべきだ!」といった自分の中の「常識?」や「思い込み」、あるいは「正義」を他者にまで強行に押しつけようとする人が増えていることに僕は危機感を持っている。

「ディズニーランドに行く海老蔵さんに批判の声!」
2017年6月22日、34歳という若さでフリーアナウンサーの小林麻央さんがこの世を去りました。
夫で歌舞伎俳優の市川海老蔵さんが翌23日に記者会見を開き、「できれば、ずっと一緒に生きていきたかった」と麻央さんへの深い愛情を語りました。
そんな中、ある目撃情報が注目を集めます。
それは…6月28日に海老蔵さんが2人の子どもとディズニーランドにいた。
写真付きで公開されたツイートは瞬く間に拡散され、多くの人の目にふれることに。
そして、この海老蔵さんの行動に対して、こんなコメントが多く寄せられたのです。
「麻央さんが亡くなってまだ1週間も経っていないのに。信じられない!」
「不謹慎だ。「悲しい」といったのはウソだったのか!」
「炎上して当然。これじゃあまりにも麻央さんが可哀想!」
また、海老蔵さんが自身のブログを頻繁に更新することを「不謹慎だ」と批判する声まで噴出します。


※:下の赤いURLをクリックすると記事が読めます。

http://grapee.jp/354259

昨年にも、「除夜の鐘がうるさい。つくのを止めろ!」とか、「近くに保育園ができたら、子どもの声が気になるから迷惑だ。」などという声が上がっているのを観て、情けないきもちになったが、いまの日本には「優しさ」や「思いやり」、「他者へのいたわり」などが無くなってきており、その代わりに自分優先の歪んだ正義感が蔓延しているように感じられる。

それにしても、中に書かれていた声は「批判」というよりも「非難」である。

きっと「自分ならそんなところへは行かない。家でおとなしく喪に服してるべきべきだと思う。」という想いがあっての発言だと思われるが、彼らは自分の中に湧いたその「違和感」を表出せずにはいられないといった感じだろうか。
推察するに「他者の行為に対して何かを言わずにおれない」という「自己と他者の混同」が起きていると考えられる。

おそらく、思考と感情の分離ができていないから非難せずにいられない。
つまり、なんだかんだと他者の行為について指摘したくなるのは、ボーエンが言うところの「自己分化度」が低く、他者の行為を許せず操作したい気持ち(相手に対して自分の言うことをきかせたい気持ち)が湧いているからに他ならない。

___________________________

さて・・・ここで僕自身をも含めて俯瞰してみたい。
いわゆる「自己観察」というやつだ。思考と感情の双方に焦点化してみよう。

かくいう僕自身も上の記事の中に登場する「指摘せずにいられない人たち」に対して批判めいたことを此処にトピックスとして上げているわけだが、もちろんこれを書きたくなっている僕自身にも焦点を当てなくてはならない。

つまり、このブログ自体が「自己と他者との混同」であり、僕自身が「何か文句を言わずにおれない状態」に在るのではないか・・ということである。

,海譴枠麁颪覆里? 
△修譴箸眸稟修覆里?
それとも感想なのか?

冒頭に書いた僕の言葉・・「とても悲しくなった」は感想である。
「感じられる」は、僕の自由だ。感じることを禁じることはできない。

「他者との混同が起きている」とうのは、僕が勝手に行なっている推察的分析である。

こうやって自分の行動を客観視してみることはとても大切なことである。

おそらく、このような内容をわざわざブログに書こうとする僕自身にもまた他者に対する批判的な傾向を持つ「同じ族」ということになる。

このことは自覚しておかなくてはならない。
気がつくと他者に対して批判している自分。

もしかすると、この件とは無関係な何らかの感情、または未完了になっている過去の問題を無意識的に苛立ちや憤りとして表出しているのかもしれない。

書きたくなった動機の奥にあるはずの「背景」にもまたメスを入れる必要がある。その反応的な情動の源泉は何なのか?といった具合に疑問を以て観る必要がある。

いま自分は、いったい何をしようとしているのか? 
なにをしているのか? 
それは、なぜなのか?

自己観察を忘れていれば、そこに「私」が存在せず、単に反応しているだけになってしまうのである。

感情に呑み込まれず、翻弄されず、冷静な自分であること。
しかし、思考にも呑みこまれないように・・

自分としては大切にしているはずの「自己観察」
何年も前からずっと取り組んできたことだが、客観性を持つってホント難しい・・



torapa1701 at 09:22|Permalink世に対する疑問 | 問題提起

2017年06月26日

猫も杓子も「マインドフルネス」・・(~_~;)

38f07c06da31a40e4ea40d4432179d51「流行る」という現象について少しばかり考えてみたい。

集団主義的な色合いが濃いといわれる日本において、多くの者が「知らなかったのは自分だけ?」といった状況に陥ることに不安を持っているようである。

それゆえ、いま何が流行っているのかに敏感であり、それについて知らないのが恥ずかしいことでもあるかのように情報の収集に熱心である。

以前にも「K・Y (空気が読めないヤツ)」という言葉が当たり前のように使われた時期があったが、とかく我々は「自分がどうしたいか?(気持ち)」よりも、「どう振る舞えばよいか?(考え)」を優先する傾向がある。

「知らなかったのは自分だけ?」という状況は、けっしてあってはならない恐ろしいことであり、仲間内から排除されかねない危険があると思い込んでいるように感じられる。

逆に言えば、流行に鈍感な人は「周囲から浮いている変な人」と思われるのだという。

そうならないように、表面的な部分だけでも得ようとするものだし、それに呼応するかのように情報紙やテレビ番組でも特集を組み、エッセンスだけでも手に入れようとする人々が群がる。
それは「僕も私も・・云々」といった具合である。

こういった傾向は、特に若い世代に顕著だ。

流行りというのは、言わば「多くの人たちに支持され、承認を得ている状況」とも言えるが、だからといって先述したような背景から捉えれば、必ずしも認められているものとは言い難い。

さて、マインドフルネスである。
書店に行って専門書を探さずともコンビニに置かれる雑誌にさえ大きな見出しを見つけることができる有り様だ。
間違いなく「流行って」いる。

マインドフルネスは、心身医学における応用例として心療内科の医師たち(投薬をしたがる精神科医ではなく!)からも注目を集め、今やリラクゼーションと並ぶ療法のひとつとなっているし、常に決断を求められる経営者や組織構築などにおいても活用できることから、ビジネス界でも注目を集めている。

だが、ひと頃のコーチングがそうであったように変に大安売りにされてしまうと、玉石混交的にこっそりと擬物が混じるものである。

中には、ろくに学びもせずに「誰にでも解る図解マインドフルネス」といった書をかじっただけで研修の講師を引き受けたりする族もいると聞く。

マインドフルネスとは、言うならば上座部仏教に語り継がれてきた「瞑想法」が元であり、「修行法」であり、「洞察」のための手法であり、結果としては自我や思考による囚われから脱し、「本来の私」を発見する(取り戻す)ところに価値がある。

感覚的に開いていく体験過程によって鳥瞰的な視点を獲得し、客観性と並行して内と外から自己理解の深化を促すのである。

それがアメリカに渡って実践研究されたことにより、より洗練されたものとなってボディワーク的に再構築され、手法的なパッケージ化が為されたと言ってもよいだろう 。

もちろん、そこで能力開発や啓発といった副産物も得られると思われるが、昨今「メソッド」とか「スキル」などと呼ばれて安売りされてしまっている状況を見るにつけ、なにかこう虚しい気持ちになってしまうのだ。

これは、キャリア形成という言葉が、経済的不満(収入)や自己顕示(名誉)などの欲求を満たすためのものだと誤解されている状況と似ていなくもない。
(未だに「キャリアアップ」なとという勘違いな言葉が横行している。)

どうにも本質的かつ肝心な部分が大事にされておらず、妙な言い方だが最初から形骸化しているといった感じである。

残念なことだが、そもそも流行りとはどこかの誰かが収益を狙って仕掛ける産業構造的な形態のひとつなのである。

流行りがあれば、廃りもまたあるだろう。

その際に、真のマインドフルネスもろとも失われてしまうとすれば、あまりにも悲惨である。

本物を見極めることは難しいかもしれないが、少なくとも簡易に手に入れようと思う心が、結果としてイミテーションを掴まされる罠であることは知っておくべきであろう。

本物と偽物・・
いったい何を以て?と問われそうだが、これは人生すべてのことに当てはまる。
つまり、これらの違いを知ろうとする観点。または、さらに良いものを求めようとする姿勢にこそ価値があるのではないだろうか。


torapa1701 at 23:27|Permalink