2018年11月26日

強制参加は人権を侵害している?

507 歩き読書は危険だもんな。
教育上よろしくないということでちゃんと座って読むようになった二宮金次郎くん

さて、以下の記事を読んで思い出したことがある。

下の赤い文字をクリックしてみてね。

『体育苦手だったけど社会に出たら困らなかった』に共感多数『学校の体育は授業ではなくてハラスメント』『運動嫌いを量産してる』

10数年前、高校のカウンセラーを務めていた時代に「体育の授業がイヤだ!もう出たくない」という男子生徒が相談室を訪れたことがあった。

もちろん体育は必修科目なので出ないわけにはいかない。
中学校と違い、高校では授業を受けなくては評価がつかないので単位が取れず卒業できない。

彼曰く、とび箱にしろマット運動にしろ、上手くできないことを皆に笑われ、バスケットやバレーボールなどの球技ではミスをする度に責められるという。

自分は身体を動かすことが苦手なのだと皆に開示し、できれば選手に選んで欲しくないと意思表示しているにもかかわらず無理やりメンバーに入れさせられる。
でも、試合中にミスをすれば集中砲火を浴びるが如く非難され責められる。
しかも生徒連中だけでなく、教師もまたそのような様子を観ながらニヤニヤしているだけで注意もしない。

「これって絶対におかしい。そう思いませんか!」

目に涙を浮かべながら訴える彼の歪んだ表情から、尋常ではない悔しさと憤りが伝わってきた。

たしかに、これでは選択の自由を奪われる意味でれっきとした人権侵害であり、ハラスメント以外のなにものでもない。

彼は言葉を続ける。
「僕は英語が得意だ。でも僕は、先生に当てられた他の生徒が英文の教科書を読むことができずに戸惑っている光景を見ても笑ったりしない。でもなぜ体育が不得意だというだけで、みんなの非難を浴び、こんな情けない気持ちにさせられてしまうのですか?

なるほど・・彼の言うとおりである。

続きもあります。
下の赤い文字をクリックしてね。
続きを読む

torapa1701 at 03:55|Permalink 世に対する疑問 | 問題提起

2018年11月24日

映画「ボヘミアン・ラプソディ」に観る「個人」

映画『ボヘミアン・ラプソディ』予告編

「ボヘミアン・ラプソディ」を観てきた。
自分でも不思議に思えるくらい たくさん泣いた。
嗚咽しそうになるくらい心が揺れた。

・・僕がQueenの音楽と出会ったのは、たしか高校3年生のときだったと思う。

夜、FMラジオから流れたアルバム「クイーン供廚粒擽覆鯆阿い董△海譴泙任膨阿い燭海箸ない奇抜さと新鮮さにぶっ飛んでしまった。

それまでも既にピンクフロイドやキングクリムゾン、そしてEL&P、Yesなど、どれをとってもプログレッシヴ(進歩的)なバンドばかりを好んで聴いていたので、こと「新しさ」に関しては驚くことなどなかったのだが、それでもQueenの演奏には大いに興奮を覚えた。

参考まで・・過去のブログ
http://blog.livedoor.jp/torapa1701/archives/53164441.html

ちなみに、最初に聴いた曲がこれである。
「オウガ・バトル」※:徐々に音が大きくなります。
https://www.youtube.com/watch?v=0hy3mpWlGDs


「ホワイト・クイーン」
http://mewbo.jp/song/video/queen-white-queen-as-it-began


デビュー当時のクイーンは、彼らの母国であるイギリス国内での人気はイマイチで、たいして注目を集めなかったらしいが、日本ではセカンドアルバムの発表と来日コンサートのタイミングが合っていたこともあってか一気に火がついた。
(特に女性たちには凄まじい人気だった。)

日本公演における成功は、アメリカやイギリスにおいてテレビや音楽雑誌等で大々的に取り上げられ、その後のクイーンは誰もが知る世界でもっとも有名なバンドとなっていく。

僕にとってのクイーンは4枚目のアルバム「オペラ座の夜」が最盛期であり、あとは様々な方向に進んで行くのを横目で見ながらも、あまり関心を寄せる対象ではなくなっていった・・・

しかし、フレディ・マーキュリーが亡くなったことを知ったとき、関心を失っていた期間を後悔するかのように未だ聴いていなかったアルバムを慌てて買いあさったものだ。

あれから25年・・
まさか、フレディを主人公にした映画が公開されようとは夢にも思わなかった。

クイーンは、たとえ一時的にでも僕の心を熱狂させてくれたバンドのひとつであるし、「供廚函屮ペラ座の夜」に限っては、たぶん千回以上は聴いている。

大学進学に伴う上京で生活が一変したことや、それと前後して父親が亡くなったりして何かと心が落ち着かない時期ではあったが、そんな僕に「思い切って観に行こうよ」と誘ってくれた友人のおかげで初の来日公演に行く機会を得たのだった。

初めて武道館に入ったとき、こんな大きな会場なのに天井を支える柱が一本もなくて、雪が積もったら崩れるのではないのだろうか・・などと、雪国育ちの田舎者が故のいらぬ心配をしながら彼らの演奏に耳を傾けたものだが、曲が終わるたびに沸き起こる大歓声がまた凄かった。
コンサートが終わり、九段下の駅まで歩く途中「耳がキーンとなって声が聞こえないね」と笑いながら大声で話していたのが思い出される。

ところで、フレディ・マーキュリーという個人についてだが、これまであまり知ろうとはしてこなかったし特に興味もなかった。
彼がゲイだったことや、エイズに感染したことが原因で亡くなったこと、バンドとして大成したあとも結婚せずに派手な生活に身を浸していたことなどは知っていたが、だからどうだということもなく、好きなバンドのメインヴォーカルとしての彼しか観ていなかった。

それが25年の時を経て、いまさらながら覆されたのである。

肉声をまるで楽器のように使いこなす彼らの演奏スタイルは独特であり、初めて聴く曲であってもすぐにそれがクイーンだと判るユニークさには惹かれていたが、歌詞の内容までは気に留めていなかったし、ひと塊の「楽曲」としてしか聴いてこなかったことが悔やまれる。

今回の映画では、歌にも日本語の訳がついていたのだが、歌詞を読みながら聴いたフレディの歌は、まさに彼自身の生き様そのものであり、紛れもない「個人」の姿がそこにあった。

物語の内容はともかく、「個人」に焦点化した再現フィルムのような作品にこれほど心が揺れるのは初めてだ。

世界規模の大イベントであった「ライブエイド」は、絶対に録り逃すことのないようにビデオデッキ3台を並べて録画したのを覚えているが、じつはせっかく保存してあるにも関わらず、その後1度も観ることなくお蔵入りしており(ベータで録ってあるのだがデッキが壊れたままなので観られない。)、クイーンの演奏も今回の映画を観てきた後でYouTubeで検索して見つけた次第だ。
https://www.youtube.com/watch?v=A22oy8dFjqc
 Queen - Live at LIVE AID 1985/07/13 [Best Version]

他者の内面を知るということ・・
加えて、その存在だけでなく「個人としての姿」を敢えて意識的に知ろうとすることは・・
とても重要なことだと思う。

僕は意図的に他者を理解することを生業としているわけだが、また改めて「自己と他者の間に在る垣根」を如何に低くできるかについて考えてみたくなった。

ということで、上映期間中にもういちど観に行こうかと考えてる自分がいる(*^_^*)
SF映画のように映像に重きを置いた作品以外で、このような気持ちになるのは初めてかもしれない。

この映画をFB上でアップしている友人たちも、また観に行きたいと口を揃える。
不思議な映画だ。

torapa1701 at 17:36|Permalink

2018年10月22日

秋深し・・

bvgこの10月でまたひとつ歳を取り62歳になった。

この10月でまたひとつ歳を取り62歳になった。
ここ数年、なぜか夕刻になると胸の奥が空洞になっているかような感覚に陥り、なんとも言いようのない虚無感に襲われる。

仕事の帰りに立ち寄ったスーパーで流れる「閉店の音楽」がなんとも虚しく、周囲に人がいるにもかかわらず涙することもある。
「釣瓶落し」と言われるが如く、あっという間に暗闇に支配される秋の夜は、どうしても「終焉」のイメージと結びついてしまう。

・・今から12年ほど前、50歳の誕生日を過ぎたあたりにも妙な感覚に苛まれたことがある。

当時は、これまで頑張ってやってきたことや、今も努力して続けていることが「もしかして何の意味もなかったのではないだろうか・・」、「現在やっていることなど全く無駄なのではないか?」といった絶望感が伴う虚しさに心が支配され、生きる気力が急速に減退し、「意味がないのなら、いっそ死んでしまおうか・・」と思ったものである。

おそらく精神科に行けば「それは、うつ病ですね」と診断され、すぐに抗うつ薬を処方されてしまうのだろうが、あれは投薬で改善されるような類のものではなかったっと思うし、無理に治すことが正しい選択だとも思えない。

かのC・Gユングは「人生の正午」という概念を以て、こういった実存不安的な状態について解説してくれている。言わば、これは言わば男性の更年期であり、これを乗り越えることにより次の段階へと開花する良き意味での「兆し」でもあると語っている。(※:ゴーギャン・コンプレックスの例もあります。)

当時は、ありがたいことに2人の師が僕の身を案じて支えてくれたことによって何とか危機を脱した経緯があるのだが、もし彼らが僕に関わってくれていなかったら、けっして大袈裟ではなく、いま僕はこの世にいなかったかもしれない。

いまにして思えば、かのような通過儀礼的な体験のおかげで、それまでに学んだことや構築してきた人間関係に対して敢えて意識的に距離を置くことができたわけだし、その結果として新たなもの(状況や知見)を手にすることができたわけだが、還暦という節目を経てまたしても再燃というか、「揺れ」が起きてきている。
(どうも誕生日が引き金になっているようだ。たしか昨年も似たような気持ちになっていたなあ・・)

突然に目が覚め「あ、これまでのことは全て夢だったのか・・なんてこった・・」などというオチが待っていたらどうしよう・・などと怖くなったりもする。

独り暮らしである僕は、良くも悪くも自分のために使える時間がたっぷりあるために、何かに囚われてしまうと脱することが難しい。

自分と向き合うこと。自分を俯瞰して観ること。
物理的に1人の時間が確保されているので、気を紛らそうとテレビやネットに逃げ込みさえしなければ、いくらでもそのモードに入ることができるのだが、ヘタをすると戻ってこられなくなってしまう危険もある。

「自己との対話」・・若い頃に憧れたフレーズだが、実際には聞いてイメージするほどカッコいいものではないようだ。
ドロドロした混迷の世界に意図的に埋没し、そこにじっとして身を浸らせることができるのは、「観察する自己(客観性とはちょっと違う)」がしっかりと機能していてこそであり、もし目を閉じて状態に身を委ねてしまえば、闇に囚われたまま浮上することができなくなってしまう。

それゆえ、浸っている間も、もうひとりの冷静な自分が僕の襟の部分を放さずに掴んでいて、いつでも引き上げることができるようにしておかねばならないのだ。

12年前にお世話になった2人の師は、悲しいことに亡くなってしまっているので、もう助けてはくれない。自分だけが頼りである。

こんなことを記事に書くと、読んでくださっている方々は「あんた、大丈夫?」と案じてくださるのかもしれないが、いまのところ このように気持ちを文章化できる分だけ自己観察が機能しているので問題はなさそうだ。

明日も明後日も、何ら問題なく仕事をこなすことはできるし、暗闇に踏み込むことさえしなければ墜ちることもないし以前のように、引き込まれそうになることもない。
(目の前の「忙しさ」のおかげで深みにハマらずにいるといってもいいかな・・)

「そんなふうに読み手のことを気にかけるくらいなら、こんな内容をブログに載せなきゃいいじゃないか!」と思われるかもしれないが、こうやって「今の自分を言葉に著すこと」は、このブログが僕にとって日記でもあり、後に自分を振り返るための材料になると思うからご容赦願いたい。
それも含めて、今日いまの僕が此処に居るのだ。
ああ、これ 実存哲学っぽくていいな。
(あはは、自分に酔ってるかも(~_~;) )

とにかく、今は読んでくださっている方のことは何も考えずに書いているので、「ふ〜ん、しゅうべえさんは、いま、こんな感じなのか・・」と思ってくだされば、それでいい。

もの想いに耽るのは秋だからなのか・・?

還暦を過ぎてからの秋は・・なんというか若い頃に感じていた「哀愁(寂しく悲し)」とは全く異なっていて、「虚しさ」と言うほうがまだ近い感じがする。
(他に適切に表現できる言葉や言い回しが見つからないし、僕には文学的才能がないようなので仕方がない。)

他者の体験については解らないし、心境について尋ねてみたところで「へえ・・」としか応えることしかできないから何も言えないが、僕としては還暦を過ぎて初めて見える世界(心象的風景)があるのだな・・こんなものか・・という感じ。

きっと一週間もすれば「62歳になった自分」を受け入れ、かのような違和感にも慣れ、何事もなかったかのように日々の生活に戻っていくのだろうが、来年もまた「63歳の自分」を初めて体験し、今年とは多少なりとも違った感覚を持つのだろうか・・?

おっと、気がつけばもう23時か・・
もう寝るかな・・

torapa1701 at 23:19|Permalink 今日の気分。 | 生活

2018年08月29日

自分らしい生き方ってなんだ? 今さらアナ雪!

elsa800
面談の席で「私は自分らしく生きてゆきたいのです。」という言葉を聞くことが多い。

一見すると前向きな発言と取れなくもないのだが、じつはそうでもない。

自分が何者で、どのような人間で、どういった自分が本来の姿(真の姿)なのか?
それを十二分に自己理解した上で語るのであれば、まだいい。
しかし、もしかすると、そこには「理想とする自分の姿」を思い描いていたり、今の自分を否定するような意味で「こんなのは私じゃない。もっと自分らしく!」というのであれば、それは今の時点では達成できていない中途半端かつ偽りの自分のことでしかないし、憧れを抱いたまま背伸びをしている状態に過ぎないことになる。

テレビのCMを観ていても「私らしく!」というセリフが多く目につく。
これはおそらく、人生というキャンバスに自由に自分を描くことができる私。という意味なのだろうが、どうやら「ありのままに」と混同されているような気がする。

「ありのままに」と「自分らしく」は似ているようだが、じつはまるで意味が異なる。
「ありのまま」は、書いて字の如く、自然である様というか、何も飾らず仮面をつけることもせず、もちろん相手に対して愛想笑いなどする必要もなく、部屋の中に独りで居る瞬間と集団の中に居る自分とを比較しても何ら差がない状態にあること・・と言えるだろう。

対する「自分らしさ」とは、そこにあきらかに意図的な拘りがあり、「こうあるべき」といった「枠(囲い)」を感じるのだ。

もし、あなたが身近な友人から突然「そんなのおまえらしくないぞ!いったいどうしたというんだ?」と言われたら、どんな気持ちになるだろう?
きっと気分を害し、「なんだよ!いったい俺の何が解るって言うんだ!俺の何を知っているというんだ!俺に対するイメージを勝手に作らないでくれよ!」「余計なお世話だ!」とでも言い返したくなるのではないだろうか?

他者から勝手なイメージを持たれ、それを押し付けられたら不快になるのも当たり前である。
しかし、おかしなことに、人は自分に対しては「こんなの私らしくない!」などと平気で言うのである。
「らしく」という言葉遣い自体が既に何らかの「規定」に縛られている状態であり、すでに「〜でなければならぬ」「こうあるべきだ」といった意味を含んでしまっていることに気づいているだろうか。

自らの自由を縛っているのは、他でもない自分に対する規定そのものなのだ。

ディズニーのアニメ映画「アナと雪の女王」におけるLet It Go は、「ありのままで〜♪」と訳されていたが、知り合いのアメリカ人に教えてもらったところ、あれは元々「手放す」という意味であり、「ありのままで」というよりも、「もうどうにでもなればいい!知ったこっちゃない!わたし、もう勝手にすることにしたわ!」という翻訳が妥当だという。
言わば冬山に向かうエルサは「ヤケクソ状態」だったわけである。
なるほど、シーンを観てみれば身に纏う服を脱ぎ捨て、手袋を捨て、人里を離れた山奥に氷の城を築いて引きこもる様子が描かれている。
けっして「ありのまま」ではなかった。
本当に「ありのままで」と歌っているのであれば、わざわざ山にこもる必要などなく、周囲に誰がいようと独りであろうと関係なく、どこでも「ありのままの自分」でいられたはずである。

そのようなわけで、つい僕らは、そこにどのような意味が込められているかを理解せずに軽々しく言葉を使ってしまうことが多いようだが、「ありのまま」もまた、本当の「ありのまま」とは、どのような自分のことなのかも意志的に理解しようと試みて初めて手に入るものではないだろうか。
自己を見つめることなく、真の自分の姿など見えるはずもない。
ましてや自分を規定し自ら自由を放棄する「自分らしさ」など論外である。

人は、何らかの役割を担っていたり、期待される立場に在る際に「〜したいと思います」と「〜せねばならぬ」の区別が曖昧になってしまうことが多いようだ。
私の目標は・・から始まる宣言は、果たして自らに対して主体的に課した目標なのか、それとも自分が所属する集団の要求に応えるべきといった受動的なものなのか?

自分の本当の気持ちを見失った状態で事に臨めば、むろん次第に苦しくなっていくことだろう。
それは「偽りの自分」だからである。


torapa1701 at 00:15|Permalink 世に対する疑問 | 生き方

2018年08月12日

自分の怒りの正体を自覚できていますか

20140105053331このブログで「怒り」について取り上げるのは確か3度目になるかと思うが、とある研修の場において幾つかのお薦め本を紹介したところ、多くの質問を頂いたにもかかわらず時間切れになってしまった。
ブログをお知らせしたけど過去の記事を探して戴くのも申し訳ないので改めて書いてみることにした。
(かなり長いので、覚悟して読んでね(*^_^*) )

とかく「怒り」に纏わるトラブルは後を絶たず、世の中で起こっている対人トラブルのほとんどが「怒りに任せた振る舞いによって最悪の結末に・・」と表現されると言っても過言ではない。

しかも「後悔、先に立たず」とも言われるように、クールダウンした後でようやく自分が何をやらかしてしまったのかに気づき、そのとき冷静ではなかった自分を責めながら、もはや取り返しのつかない結果を自ら招いたことに後悔するのである。
そのようなことを性懲りもなく幾度も繰り返しているのに、なぜいつまで経っても改善に至らないのか?

それは「反省」などやっているからである。

反省とは、もともと過去の自分を対象化し客観的に省みることであるはずなのだが、その多くは「いけないことをしてしまった。」が前提であり、「やらかした行為」にだけ焦点を当て、自分の非を認めた上で謝罪へと導かれることを目指す、形ばかりで内容の伴わないパターンになってしまっている。

敢えて「行為」には焦点化せず、いったん脇に置きながら、そもそもなぜそのような行動に出るほど腹が立ったのか、自分の中でどのような感情が起こっていたのか・・について、いっさい善し悪しの評価を持ち込まずに俯瞰することができて、そこで初めてその時の自分の姿が見えてくるのではないだろうか。

評価を持ち込んでいるかぎり防衛が働くのは当然であるし、なんとか罪を軽くして逃れようと自らの行為を正当化するだけである。

「反省させると犯罪者になります」という本が売られているが、読んでみるとなかなか面白い内容だった。
なるほど、まさにそのとおり!だと思った。

反省は実際のところ「どうしたら許してもらえるか」、または「なかったことにできるか」について知恵を働かせる「言い訳」のトレーニングでしかなく、非難の的になっている状況から逃れるための口実を考えるだけである。
もちろん、そこに「相手に対する申し訳ない気持ち」など全く含まれていなくとも、反省文に書かれていることが立派な内容でさえあれば、その後の実効性はともかく一時的にでも受け取ってもらえるのである。

必要なのは「もう二度としません」と言わせるための「反省」などではなく、自分を見つめ、何がそうさせているのか(いたのか)を自覚するための「振り返り」である。

何度も書くが、怒りとは二次感情である。
怒っているようでも、じつは本当の感情(一次感情)が先に湧き上がってきているのだが、その感情の正体が何なのかが自覚できないまま次第に大きくなってくる苦しさに耐えきれず、つい怒りとして出さずにいられなくなるのだ。

このような状態になったのはオマエの言動のせいだ!と、一次感情を理解するよりも先に怒りに転換して相手にぶつけたくなるのである。
それが漠然とした社会全体に対する怒りであれば「誰でもいいから殺そうと思った」などと言うことになるのだろう。

勝手に自分の中で揺れている感情を誰かのせいにしているのだ。
これは依存として解釈することもできる。
感情は誰のものでもなく自分自身のものでしかない。

この怒りの背景に何があるのか?・・と、その瞬間の自分の心を観察すれば自分にとっても意外な「本当の感情」が見えてくるものなのだが、とにかくこの不快感を払拭したいと必死なので自分を観る余裕などないのだろう。

極端な言い方をすれば、そもそも『怒り』などという感情は存在しないと言っていいかもしれない。
それは前に書いたように何かが転換された偽りの感情であり、表出するとすれば「怒りにして出すこと」以外の手段を持っていないということにすぎない。

続きもあります。下の赤い文字をクリックしてね。
続きを読む

torapa1701 at 15:41|Permalink こころ | 気づき