2017年11月

2017年11月25日

「好きなこと」と「得意なこと」の違い?

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←良かれと思ってやっていることが、実際には悪しき結果を生み出しているという実例。
※:画面をクリックすると大きくして見ることができます。


小学校低学年の子たちに「好きなことはな〜に?」と尋ねると、「絵を描くこと〜」とか「サッカー〜」とか、または「本読み!」、「歌を歌うこと〜」といった具合に、次から次へといろんなことが飛び出てくる。

じゃあ、「得意なことは?」と尋ねるとすぐには答えず、しばらくしてから「鉄棒」とか「算数」、「読書」、「縄跳び」と、少し違った様相を見せ始める。

「え、べつにお勉強以外のことでもいいんだよ〜」と付け足すと、そこで初めて「ゲーム」とか「野球」、「お菓子作り」などが出てくる。

低学年であっても、そのまま素直に答えるのではなく「この場合、どう答えるべきか・・」、「先生から問われたのだから勉強に関することを言わなくては・・」と妙なビリーフがあるらしく、自由な発言を阻んでいるようだ。

同じ質問を高学年の子にすると・・・
好きなこと? ゲーム LINE 買い物 他に思いつかないや。とこんな感じ。
得意なこと? 特になし。 
あ、スマホの文字が速く打てることくらい(笑)

そもそも、周囲に人がいる場でそんなことを尋ねられること自体が迷惑なようで、「なんで私にそれを聞くわけ?」といった顔をする。

・・なんかねえ・・虚しくなってしまう。

彼らの言葉を聴いて、こりゃ夢も希望もあったものじゃないな・・と思ってしまった。
おそらく「好きなことは?」については、周囲から笑われたり変なふうに思われないように無難な答えを・・といった他者からの視線が気になるがゆえに考えてから開示する必要があるのだろう。

また、もう一方の「得意なことは?」に関しては、さらに応えにくそうだ。
その苦笑いに、適当に誤魔化してやり過ごそうという思惑が漏れている。

「好きなこと」についてはまだよいのだが、「得意なこと」となると途端に答えに躊躇するのはなぜだろう?

おそらく「得意」とは、「好き+ちょっと腕に自信あり」という意味として表現するのではないかと思われる。
だから、ほんのちょっとの自信さえあれば「得意」と言っても構わないのだろうが、そこに他者との比較評価が持ち込まれると、途端に話がややこしくなる・・。

「自分が一番に上でなければ口にしてはいけない」と思い込んでいるような感じだ。
つまり、自分はそれが得意だと口に出すためには、自分よりも巧くこなせる者がいないというのが前提的条件であり、それが充たされていなければ言えないということらしい。

なぜ、こんなふうに「自由にものが言えない状態」になってしまっているだろう。

今どきの子どもたちは、場の雰囲気、空気、周囲の視線、・・これらを極度に気にする傾向がある。
(僕の勝手な決めつけかもしれないが、近畿地方はまだマシかも。東北はもっと深刻に思える。)

彼らが気にする内容のほとんどが憶測でしかなく主観的な想像に過ぎないのに、どうやら心の中では事実との区別も曖昧なまま混同されているようだ。

現状がこうなっているからには、何か(誰か)が彼らの成長に影響を与え、子どもたちを取り巻く環境に何らかの問題があるということになる。
しかも、影響を与えた側は自分の言動のまずさに気づいていないと思われ、それどころか「良かれ」と思い込んだまま未だにそれを繰り返しているということだ。

ひとつ考えられることは、上手くできたときにだけ褒められてきた体験である。
プロセスを認めることなく結果だけを褒めると、子どもは「うまく出来たか否かの結果がすべてなのだ」と認識するだろうし、いかに努力をしても成果に結びつかないとなれば、やった甲斐もなければ、やる意味がないと思ってしまうのも頷ける。

また、努力する姿勢についても「もっと上手になりたい」という純粋は動機なら問題ないのだが、「〇〇ちゃんよりも巧くなりたい!」とか「負けたくない!」といった具合に他者との比較になると話が違ってくる。

子どもの「負けん気」的性格は、なぜか大人たちの間で評価が良いようだ。
お勉強も運動も優劣を持ち込みやすいものだが、世間では「ライバル意識を持つことは良いこと」と捉えられているようである。

そこから「好敵手」なる言葉が生まれたのだろうだが、互いが切磋琢磨しながらレベルを上げていくことについては、別にとやかく言うつもりはない。
但し、両者の関係性において自発的かつ主体的な動機があってのことならば・・だ。
(不本意ながらも「させられている」のであれば、上手くやれたとしても「ホッ」とするだけで自信などつかない。)

しかし、大人たちの手によって「比較評価」を受ける関係となれば問題である。

「負けたくない!」という言葉が、「私だって負けないくらい頑張りたい」という意味であるなら良いのだが、「負けず嫌い」にはたぶん相手に対して「悔しい」とか、場合によっては「憎い」といった歪んだ妬みのような感情を喚起する危険性が隠れているようにも思える。

他者との比較の中で、生き残りを賭けて戦う・・こんなことをやっていれば終には疲れてしまうだろうし、評価基準を外に求めなければならないとすれば、生まれ育った地域から出ることはできなくなってしまうだろう。

特に高校に進学した場合、これまでのように「お山の大将」でいられなくなってしまうからである。
偏差値が同等レベルの者が集まった場では勝手が違い、昨日までのようにはいかない現実に直面するために途中で息切れを起こし、徐々に壊れていってしまう生徒が後を絶たないのだ。

田舎の中学校ではトップだった子がいきなりビリになってしまったとなれば、そのショックは想像に余りあるものだろう。

もちろん、そんな状態に在る子に「あなたの得意なこと教えてください」なんて質問は、まるで傷に塩をすり込むようなものではないだろうか。

そもそも「比較」とは、モノに対する見方である。
モノであれば、どちらの性能が上か? または、どちらが役に立つか?使いやすいか?といった比較は成り立つだろう。

だが、こと「人」に関しては、それぞれの多様性にこそ価値があるのだろうし、個々に違いこそ価値があるという捉え方を以て観る必要があるのではないだろうか。

評価基準などクソくらえである。

ついでに書かせて戴くが、「不登校になってしまう児童・生徒の親の職業ランキング」というのがあるのだが、じつは保育士や幼稚園教諭、そして教師の数がけっこう多い。

これは推察だが、もしかすると、多くの子どもを観ている中で無意識的に「スタンダード(このくらいの年齢であれば、この程度のことができるのが普通)」といった水準を心の中に設けていて、家に帰ってからも「親」ではなく「保育士」や「教師」をやってしまっているのではないか・・と思うのだ。

少なくとも高校や大学の受験において比較評価される経験はけっして楽しいものではないし、その結果如何によって人生が左右されるような分岐点にしてはならない。

自分が何者であるかも知らないうちに周囲の大人たちが勝手に進路を決めさせようという風潮に対しては大いに疑問があるのだが、「早く落ち着いて私を安心させてほしい」とばかりに自分たちのエゴを押し付ける親たちにも憤りを感じるときがある。

10代〜30代までの若者の死因トップは「自殺」である。

彼らが自由に未来を夢見ることができない現代の社会について、大人たちはなぜ疑問を持たないのだろうか。

条件付きの承認・・比較評価・・
「自由にイメージしてごらん」と言いつつも、あれはダメ! これがダメ! こうあるべき!
これでは、まるでダブルバインドである。

ダブルバインドは精神の崩壊を招く大きな要因であることはベイトソンによって解説が為されているが、既に仮説などではなく誰にでもあてはまる点で一般化されてもよいだろう。

子どもたちが壊れていく。

だが、壊れ始めてきているにもかかわらず、手を緩めることなく容赦ない仕打ちをし続ける大人。
しかも彼らは、自分が子どもたちを苦しめている自覚がない。

暴力だけが虐待なのではない。
・・過保護・・過干渉・・こういった過プレッシャーは、子どもが急に動けなくなることで教育的虐待として認識される場合もあるが、それら多くは痛ぶられている側に居る子ども自身にも自覚がないときている。
苦しくとも自分がなぜ苦しいのかが分からないのだ。

どうしよう。
食い止めるすべはないものだろうか・・



torapa1701 at 23:08|Permalink