2006年10月29日

「失う」ということ

4b2c9857.jpg人は、大事なもの(人)を失ったり、ショックな出来事があったり、希望を失ったり、期待していたことが台無しになったりしたとき、誰もが愕然とし落ち込むものである。

僕は、もうすでに3回ほど弔辞を読んでいる。
弔辞を頼まれるということは、すなわち自分にとって特に親しい人を亡くしたことを意味する。つまり、「生前の彼にとって、もっとも近い関係であった“あなた”だから」である。
これはキツかった。
通夜や葬儀は「亡くなった人とのお別れの場」である。
もう、ぐちゃぐちゃになって泣き叫んで、悲しさや寂しさを表出することが許される場のはずである。
しかし多くの場合、次々に訪れる来客の「お迎え」に追われてなかなか「悲しい気持ち」に浸りきることができない。

涙が枯れるほど思い切り泣けば、そして悔しさや怒りを出すことができれば、人は少しずつでも立ち直っていける。
だが、それができないまま感情を抑圧したり、無理に気晴らしをしたりして紛らしたりすると、結局は「大事な人を失ったという事実」を受け入れないまま時が過ぎていく。
頭では解っていても深い自分がそれを認めていないわけだから、その後もずっと引きずっていくわけである。
人は、あまりにも悲しく苦しい時に、心が壊れてしまわないよう自動的に防衛が働くものだ。
たしかに、あまりのショックに涙すら出ないということはあり得る。
でもそれは、その後何年間にも渡って自分を追い詰めていくことになる。

認めたくない事実。受け入れたくない事実。
しかし、目の前にある事実はどんなに否定したくても、それは既に起こってしまったこと。
これはどうしようもない。


※続きも読んでね。


人は何故「愛着」など持つのだろう?
人は何故「過去の記憶」など持っているのだろう?
人は何故「未来」を怖れるのだろう?

多くの人は、これまでの自分(生活や環境も含めて)を守りたいがためにそれにしがみつこうとする。
だが、それ故に前に進めない。
あなたがいま、手に握っている「命綱」を放さなければ、いずれは切れて落ちてしまうのに・・・。
手を放さなければ、別の「命綱」には飛び移れないのに・・・。

でも、それは怖くて難しいこと。

それでは人生は前に進まない。

頭で理解することと、腑に落ちることはまったく別のこと。

以前、ある人に「捨てる哲学」という本をもらって読んだことがある。
その本では、「とにかく自分にとって最も大事に思えるものから先に捨てよ!」と説くのであった。
何のために?
「させられている自分」から「選ぶ自分」への脱皮のためだそうだ。それができない限り人生は始まらないという。
これは、たとえば、引きこもりの我が子を大切に思うなら「まずは、その子を捨てろ!」ということである。
我が子を失うこと・・・。
親を失うこと・・・。
配偶者を失うこと・・・。
恋人を失うこと・・・。


かけがいのないもの(大事な存在)として思いをはせれば、これほど悲しいことはない。
日本の哲学者“西田幾多郎”は、「真の哲学とは絶望から始まらなければならない」と言っていたが、私が私としての人生を生きるということは、かくも厳しいものなのかと考え込んでしまう。


ところで、自分にとって最も大事なもの?って何だろう?

それは「自分自身」かもしれないし、究極的な意味では「自分の命」かもしれない。
では、これを捨てること?

それに関しては、実存哲学者のハイデッガーも同じような意味のことを言っている。

要は、こういうことだろう。
真に自らの死を正面から受け入れた者でなければ、自分にとっての人生は始まらないし、死を見つめるのが怖いからといって懸命に気晴らし(忙しいということ)に励むのもまた生きているとは言えない。

今は今である。
今、この瞬間なくして明日はない。
そのために「いま、ここで」を味わう。
しかし、味わうにしても「目の前にある事実」を受け止められる自分(器のレベル)があってこそである。

誰しもが、危機を成長のきっかけに転換できるとは限らない。
受け止める自分が壊れてしまうことだってあるのだ。


torapa1701 at 14:20│Comments(8)こころ | 生き方

この記事へのコメント

1. Posted by 銀行@USA   2006年10月30日 14:13
大切な人との別れは身を切られるほど辛いです。今まで30数年の人生で、親しい人を見送ったのは10回近く、弔辞を読んだのは2回・・・本当に辛い経験でしたが、その度に、目の前で起っている現実を受け止める度胸がついていったような気がしますが、それって人の死に対する感覚の麻痺?!なのかしらとも思います・・・弔問客の対応に采配をふるわなければいけない時、通夜の準備の為、臨終に立ち会わず、一足先に帰宅して部屋を片付ける等(共に20代前半の頃)年齢の割には大人びた振る舞いをしなければいけない状況も多々ありましたし・・・。続く
2. Posted by 銀行@USA   2006年10月30日 14:14
反対に旦那は40年近い人生で親しい人を見送った経験は2度しかなく、去年親しい友人が心筋梗塞で急死した時には1週間泣き続け、生活にも支障をきたす有様で・・・「幾ら泣いても彼は戻って来ないんだから、彼の事を心に留めて、これからのあなたの人生を彼に恥じないよう、彼の分まで生きる覚悟をしないと」と諭したのですが「お前は冷たい!」と言われてしまいました。その時はちょっとヘコみましたね・・・ 感情表現が過激なアメリカ人と日本人の温度差かしら? 私も喜怒哀楽が激しいのですがアメリカ人にはかないません
3. Posted by kamome   2006年10月30日 22:46
こんばんは。
はじめてコメントさせていただきます。
コメントと言うより質問ですが・・・・・。
最後の1行に関してです。
「受け止める自分が壊れてしまうことだってある」これを回避するにはどんな方法が考えられるでしょうか。
しゅうべえさんのお考えをお聞かせ下さい。
4. Posted by しゅうべえ   2006年10月31日 12:03
回避する方法とのことですが、僕は回避してはいけない気がします。

非情なようですが、自分が壊れることもまた必要なプロセスだと思うのです。
でも、そのことで命まで失う場合もありますよね。そこは難しい選択です。

というのは、実存的な言い方を借りれば、人間の存在というのは「死ぬか生きるか」よりも「成長」こそが主題なのではないかとも思えるからです。

極端な言い方に聞こえるかもしれませんが、人は誰もがいつか死にますよね。
ならば、単に「長生きすること」よりも「どのように生きるか」が問われると思いますし、自分が生きている瞬間瞬間の「今」をいかに味わっているかだと思うんです。
(そこには「苦」も「楽」も差別はありません)
たとえば、自分の死を受け入れること自体も「肉体を持っているからこそできる最終的な成長」なのかもしれない。

少なくても、僕らカウンセラーはそこに立ち会うことを選んだ者でなければならないし、成長の援助者でなくてはならないと思っています。

僕のブログには言葉が足りなかったと思います。
僕は、それが必要な流れ(プロセス)だと頭では解ってはいても、たしかに辛いし、悲しいと感じるよな・・といった独り言を書いたのかもしれません。
5. Posted by ミヤモト   2006年11月01日 11:43
久しぶりにブログを見たらテーマが昨日買って読んだ本と偶然にも一致したので紹介させてください。テーラワーダ仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老著「心は病気」という本です。
「失う」ことにもふれてます。大切なものを失うことを受け入れられないのは、悪い意味で自我を守ろうとすることなのだそうです。
んー、私の稚拙な説明では逆に伝わらないので是非読んでください。
6. Posted by 鯨   2006年11月06日 22:37
お久しぶりです。
三年ほど前に父をなくしましたが、一番つらかったのは火葬にされる瞬間でした。まだ亡骸があるときは良いのですが、いざ骨になるというときの瞬間はなぜあれほどつらいものなのでしょうか?今でも思い出すと涙がでるほどです。
「死」とはまことに理解しがたい存在です。
7. Posted by kamome   2006年11月07日 23:16
こんばんは。
不躾な質問に丁寧なお答えを頂きありがとうございました。
私の考えも書こうかとも思いましたが・・・・
どんな風に書いてもこの問題は切なく辛く悲しいと思える自分がいて、言葉にすると何か違うという感じもしてくるのでやめることに致します。
う〜ん・・・やっぱりこの問題は苦しいです。
私は力をつけていく必要があるようです。
8. Posted by 志歩   2006年11月12日 23:34
私はまだお葬式に出たことがないんですよ。
これから経験する事ですがね。
昨日見たテレビでお葬式の時に亡くなった人の顔を携帯のカメラで撮る人がいるようです。
これってどうなんでしょうね。

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