2018年04月29日
親心ってなんだ? それは誰のための言葉?
子どもが何かに挑戦しようとするとき、親は子どもの背中に向かって「大丈夫?」と声をかけたくなるようだ。
この問いかけの背景にはいったい何があるのか。
なぜ、親はそれを言わずにいられないのだろう。
あたかも子どものことを心配しての優しい言葉がけでもあるかのように思えてしまうが、じつはそうではない。
不安なのは子ども自身ではなく親のほうであり、子どもが振り返って「うん、大丈夫!まかしといてよ!」と言ってくれれば、親の私が安心できるのである。
つまり、「大丈夫?」とは、不安になっている私が安心したいから出てしまう言葉であり、けっして「子どもにとって必要な言葉」ではない。
「大丈夫? ほんとに大丈夫?」などと幾度も繰り返して問われれば、子どもとしても徐々に不安感が湧いてきて、「う〜ん・・やっぱりやめとこうかな・・」となるのがオチである。
このように、無自覚であるがゆえに犯してしまっていることは意外に多いのだ。
子育てにおいて、子どもに顕われる問題の多くは親の行為に起因していることが多い。
ならば親は、できるだけ自覚に努める必要がある。
たとえば、学校から帰宅した我が子に向かって「今日は何かイヤなことなかった?」「イヤなことされなかった?」と問われれば、子どもは「イヤなこと・・かあ」と、わざわざ苦い思い出だけを探し出し、再体験することになる。(これもまた私が安心したいための確認であろう)
そう問われれば、「あ、そういえば2時間目に〇〇ちゃんから・・」と、せっかく忘れていた出来事が掘り返されることになる。
もちろん、これが毎日のように繰り返されれば「学校はイヤなことをされる場所」と認識するに至り、徐々に「学校に行きたくない」と言い出すことだろう。
逆に「今日は、どんな楽しいことがあった?」と問えば、楽しかったことが再体験されることになるから「学校は楽しいところ」になるだろう。
楽しいことも悲しいことも、すべてひっくるめたものが学校であり、様々な体験があってこその集団生活であることを考慮すれば「今日は、どうだった?」「どんな一日だった?」と、どんなふうにでも答えられる「開かれた質問」が適切だろう。
このように、子どもの中で育つ認知とは、親が無意識的に作った結果だと言っても過言ではないのである。
※:続きもあります。
下の赤い文字をクリック!
この問いかけの背景にはいったい何があるのか。
なぜ、親はそれを言わずにいられないのだろう。
あたかも子どものことを心配しての優しい言葉がけでもあるかのように思えてしまうが、じつはそうではない。
不安なのは子ども自身ではなく親のほうであり、子どもが振り返って「うん、大丈夫!まかしといてよ!」と言ってくれれば、親の私が安心できるのである。
つまり、「大丈夫?」とは、不安になっている私が安心したいから出てしまう言葉であり、けっして「子どもにとって必要な言葉」ではない。
「大丈夫? ほんとに大丈夫?」などと幾度も繰り返して問われれば、子どもとしても徐々に不安感が湧いてきて、「う〜ん・・やっぱりやめとこうかな・・」となるのがオチである。
このように、無自覚であるがゆえに犯してしまっていることは意外に多いのだ。
子育てにおいて、子どもに顕われる問題の多くは親の行為に起因していることが多い。
ならば親は、できるだけ自覚に努める必要がある。
たとえば、学校から帰宅した我が子に向かって「今日は何かイヤなことなかった?」「イヤなことされなかった?」と問われれば、子どもは「イヤなこと・・かあ」と、わざわざ苦い思い出だけを探し出し、再体験することになる。(これもまた私が安心したいための確認であろう)
そう問われれば、「あ、そういえば2時間目に〇〇ちゃんから・・」と、せっかく忘れていた出来事が掘り返されることになる。
もちろん、これが毎日のように繰り返されれば「学校はイヤなことをされる場所」と認識するに至り、徐々に「学校に行きたくない」と言い出すことだろう。
逆に「今日は、どんな楽しいことがあった?」と問えば、楽しかったことが再体験されることになるから「学校は楽しいところ」になるだろう。
楽しいことも悲しいことも、すべてひっくるめたものが学校であり、様々な体験があってこその集団生活であることを考慮すれば「今日は、どうだった?」「どんな一日だった?」と、どんなふうにでも答えられる「開かれた質問」が適切だろう。
このように、子どもの中で育つ認知とは、親が無意識的に作った結果だと言っても過言ではないのである。
※:続きもあります。
下の赤い文字をクリック!
また、子どもの行動に手を出したくなる親、なにか助言せずにはいられない親の背景には「私がここで関与しないと、きっと上手くできないだろうな・・」という悲観的予測と、「私が手を貸せば何とかなる」という奢りがあると思われる。
それで結果的に上手にできたかどうかは別としても、子ども側からすれば「必ず上手にできなくてはならない。」または「失敗は許されないんだな・・」と思うだろうし、それだけなら未だマシだが、たまたまうまく出来た場合に褒めれたりすれば、「そうか、結果がすべてなんだ。どんなに頑張っても結果が出なければ意味がないんだ・・」と認識してしまう危険がある。
ヘタをすれば、「どんなに頑張っても結果を出せなくては価値がないのなら、努力することなんて意味がないんだ」または、「うまくできそうにないなら、最初からトライするだけ無駄じゃん!」となってしまうことだろう。
すでにそう思っている子どもの口から出る言葉が「ムリ!」である。
ちょっとやってみようか?
ムリ!
これ頼んでいいかな?
ムリ!
ムリという言葉の背景には、「うまくできそうにない」「期待に応えられそうにない」「だから、やるだけ無駄!ゆえにやりたくない!」という怖れと不安が隠されているのだ。
いずれにしても「大丈夫?」という確認の言葉も、老婆心ながらの助言も、言いたくなってしまう心情的背景にあるのは「我が子の力を信じていない」という不信感である。
本音としては「私、あなたが失敗する様を見たくないの!」、または「後でガッカリするのイヤだからね!」であろう。そんな状況に陥ることを回避するために助言する。
果たして、そこに「愛」はあるだろうか?
もちろん、子どもとしては自分は親に信じられていないのだな・・と察するが故に自信を失い、それが幾度も繰り返されるほど萎縮し、自尊心も無くなってしまうのは当然である。
「自立の条件」に含まれる代表的な項目に「自己責任」があるが、この「自己責任」を持つためには自己決定に基づいた行動選択が必須であることは言うまでもない。
「教える」から「育てる」に・・
「入れる」から「引き出す」に・・
このところ、学校教育現場では「アクティブラーニング」なる言葉が重要視されている。
文字通り「自発的な学習」、または「能動的な学修」という意味なのだが、それをどのように「指導?」したものか・・という矛盾した問いが多い。
教えられる教育に馴染んだ親や教師世代が、果たしてアクティブラーニングの意味を実感的に理解できるのかは甚だ疑問である。
さらに、戦後教育においては「与えられた課題をこなすこと」、つまり「成果」が重要視されてきただけに、実体験していない親や教師が子どもの力を引き出すことは難しいかもしれない。
主体性と自立性こそが、生きて行くための力となることを改めて考えたいものである。
それで結果的に上手にできたかどうかは別としても、子ども側からすれば「必ず上手にできなくてはならない。」または「失敗は許されないんだな・・」と思うだろうし、それだけなら未だマシだが、たまたまうまく出来た場合に褒めれたりすれば、「そうか、結果がすべてなんだ。どんなに頑張っても結果が出なければ意味がないんだ・・」と認識してしまう危険がある。
ヘタをすれば、「どんなに頑張っても結果を出せなくては価値がないのなら、努力することなんて意味がないんだ」または、「うまくできそうにないなら、最初からトライするだけ無駄じゃん!」となってしまうことだろう。
すでにそう思っている子どもの口から出る言葉が「ムリ!」である。
ちょっとやってみようか?
ムリ!
これ頼んでいいかな?
ムリ!
ムリという言葉の背景には、「うまくできそうにない」「期待に応えられそうにない」「だから、やるだけ無駄!ゆえにやりたくない!」という怖れと不安が隠されているのだ。
いずれにしても「大丈夫?」という確認の言葉も、老婆心ながらの助言も、言いたくなってしまう心情的背景にあるのは「我が子の力を信じていない」という不信感である。
本音としては「私、あなたが失敗する様を見たくないの!」、または「後でガッカリするのイヤだからね!」であろう。そんな状況に陥ることを回避するために助言する。
果たして、そこに「愛」はあるだろうか?
もちろん、子どもとしては自分は親に信じられていないのだな・・と察するが故に自信を失い、それが幾度も繰り返されるほど萎縮し、自尊心も無くなってしまうのは当然である。
「自立の条件」に含まれる代表的な項目に「自己責任」があるが、この「自己責任」を持つためには自己決定に基づいた行動選択が必須であることは言うまでもない。
「教える」から「育てる」に・・
「入れる」から「引き出す」に・・
このところ、学校教育現場では「アクティブラーニング」なる言葉が重要視されている。
文字通り「自発的な学習」、または「能動的な学修」という意味なのだが、それをどのように「指導?」したものか・・という矛盾した問いが多い。
教えられる教育に馴染んだ親や教師世代が、果たしてアクティブラーニングの意味を実感的に理解できるのかは甚だ疑問である。
さらに、戦後教育においては「与えられた課題をこなすこと」、つまり「成果」が重要視されてきただけに、実体験していない親や教師が子どもの力を引き出すことは難しいかもしれない。
主体性と自立性こそが、生きて行くための力となることを改めて考えたいものである。