姉妹ブログ『モノクロのアニメ』に映画『かぐや姫の物語』の感想を書きました。


最近の『モノクロのアニメ』記事には毎回「ネタバレ注意」の文字を付けるのだけど、今回はありません。というのも、この映画はみんなが知っている『竹取物語』そのままだから。絵本や童話でみんなが親しんでいる『竹取物語』をそのまま。余計な手を加えず、原典に忠実で、それでいて新しい解釈を与えようとした作品。ネタバレしようにもネタバレ部分がない。みんな結末を知っているはずだから。
でも『かぐや姫の物語』の凄いところは、誰もが知っている『竹取物語』そのまんまなのに、ちゃんと映画になっていること。映画的ドラマになっていること。
映画オリジナル要素として捨丸というキャラクターが登場するけど、原作との違いといえばそれだけ。原作に描かれていなかった感情が付け加えられ、『竹取物語』ってこんな悲しい話だったのか、というような驚きがある。映画で付け加えられた感情が蛇足という気がしない。あの映画を見ると、「竹取物語は本来こうあるべきだった」と思うしかない内容になっている。作品として素晴らしいけど、学術的な視点でも凄い成果というしかない。『新説・竹取物語』と呼ぶべき作品じゃないかな。

■ かぐや姫のモデル

『竹取物語』のかぐや姫のモデルとしては、『古事記』に垂仁天皇の妃として記載される、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が指摘されている(「筒木」は筒状の木と解すれば竹、また「星」の古語「つづ」との関わりもあるか。また、同音の「綴喜」には月読命を祀る樺井月神社と月読神社を祀る式内社が鎮座する)。大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、竹取の翁の名「讃岐造」(さぬきのみやつこ)を連想させるが、現存する原文には「さかきのみやつこ」か「さるきのみやつこ」であり「さるき」では意味が分からないので「さぬき」と変えて「讃岐神社」が奈良県広陵町にあったから述べているにすぎない。本来の「讃岐垂根王」の「讃岐」は、四国地方のことであり畿内になく遠い存在と言えよう。『古事記』によるとこの兄弟は開化天皇が丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘「竹野比売」(たかのひめ)を召して生まれた比古由牟須美王(ひこゆむすみのみこ)を父としており、「竹」との関連が深い。『日本書紀』では開化天皇妃の「丹波竹野媛」の他、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された5人の姫のうち「竹野媛」だけが国に帰されたという記述がある。

他に賀茂建角身命の子孫で馬岐耳乃命又は伊志麻命の娘・賀具夜媛命や、赫夜姫という漢字が「とよひめ」と読めることから豊受大神との関係について論じられることもある。
イラン史研究者の孫崎紀子は、百済の善光王や、675年正月に天武天皇に拝謁して以後、行方のわからないトカラ人(サーサーン朝ペルシア人)の舎衞女とダラ女とする説を出している。
ブログを書く前にWikipediaを読んでみたけどなかなか面白かった。かぐや姫が『日本書紀』に出てくる迦具夜比売命がモデルにされていること(ということは、やっぱり神様だったわけだ)、求婚する貴族たちがいずれも実在人物で、そこから描かれた時代を大雑把に特定できることなど……。
映画を見てから読むと、なるほどと思うところがたくさんある。映画のパンフレットに『竹取物語』と『天女の羽衣』に繋がりが……と書いているのを見て、なぜ? と思ったけどWikipediaでもその部分に言及されていて参考になった。

でも『かぐや姫の物語』は酔狂な映画だな……と思った。
この映画のために50億円が投資され、現在のジブリとは別に新しい会社が新設され、人材が集められ、コンピューターを買って、新しい制作システムが研究されたけど、これを次に持ち越そうという考えはどうやらないらしい。
普通の考えだと、「このシステムを使ってあと2、3本作ろう」とか「このシステムの廉価版でテレビシリーズを作ろう」とか「せっかく優秀な人材が集まったのだから」とか色々考えるのだろうと思う。そうやってトータルで投資したお金を取り戻そうとするんだと思う。それが普通のビジネスだ。
しかしどうやらこの映画の制作スタッフはこの映画限りで解散らしい。スタッフは本来のエヴァの制作に戻っちゃうようだし(絵コンテは『魔法少女まどか☆マギカ』の笹木信作がクレジットされていた)
新しく作った作業場はさすがに残るだろうと思うけど、この後どうするんだろう? 今回の興業で、もしも50億円回収できなかったらどうするつもりだろう? ショービジネスは1本でも失敗すると、後々大きな禍根を残すことになるけど……。

声優はプロではないタレント俳優が起用されていたけど、みんな上手かった。宮崎駿作品は単に下手なだけだけど、高畑勲監督はちゃんと演技させている。そういうところで宮崎駿と高畑勲との差が出るのだろう。
声優の弱点が何かといえば、上手すぎること。キャラクターに合わせて即座に演技ができてしまう。そのように訓練されているのだから当然だ。しかし訓練されすぎているからこそ、その声や演技を嫌うという人もいる。訓練されすぎているから、声優特有の癖や節回しがついてしまう。自分の世界観を打ち出すためには、それを避けたいというわけだ。
宮崎駿はキャラクターから手練の声を抜いて、素朴さを出そうとする。これでそれなりに見えるのは宮崎駿の絵があるから。他の作家の絵で庵野秀明が声を当てたら大惨事必至だろう。訓練されたイメージをとことん抜いて素朴さを強調する。それでいて成立するのは宮崎駿の才能が背景にあるから。宮崎駿にとって、演技力は邪魔なのだ。
一方高畑勲のアプローチは違う。演技経験のない素人でもがっちり演じさせようとする。『おもいでぽろぽろ』でも『火垂るの墓』でも、演技は際立って上手いわけではないけど、どれも自然な感覚が出ている。動きと合っているような気がする。もしかしたら演技に合わせて絵を作っているからかも知れないけど、これも高畑マジック。

でもこの映画の絵が気に入らない……という意見も多いようだ。映画を見た後、ネットでこの映画の批評をいくつか見た。そう言われると、確かにちょっと取っつきにくい部分があるかも知れない。
なにせ、この映画には余白が多い。普通の観客は画面に描かれているディテールの量で、カットに描かれている厚みを知ろうとする。しかし『かぐや姫の物語』は描き込むべき部分をあえて抜いている。真っ白にしている。
そうやって作った構図は、誰が見ても明らかなものになっている。構図が何を物語っているのか、何を伝えようとしているのか、見れば明らかだ。時に、素人のような描き方もしている。
しかしそれが逆に、「手応えがない」と感じる人もいる。
私も実は最初「うーん?」という感じだった。でも、しばらくして「描かれていない世界」が見えるようになって、「この映画凄いぞ」と思うようになった。描かれていない部分に込められているディテールを読み取りながら見るんだ、と思った。
でもそういった機会がないと、映画の世界に入り込みにくいのかも知れない。画面を見れば誰が見ても明らかな絵なのに、むしろ判じにくい絵になっている……というのは何か不思議な感じもする。

その一方で、この映画の線を引くのは大変だっただろうな……。この映画は、感情の動きと線の揺らぎがリンクするように描かれている。感情が動くと線も揺れる。この微妙なブレを描き分けるのは大変だっただろう。高畑勲監督のことだから「線が違う!」で何度もリテイク出したんじゃないだろうか。

音楽はよかった。久石譲のメロディが何かを語りかけるような声のように聞こえてくる。映画全編を通して同じメロディの繰り返しだけど、これがよかった。見終わった後も印象深く耳に残る。
音響面もシンプルだった。必要最低限の音しか使われていない。宮殿の床を走る音と、鳥の音だけ、とか。普通の映画だと周辺を包むありとあらゆる雑音が作られるのだけど、そういうノイズは一切無し。作り手が聞かせたい音が常にクリアに聞こえてくる……という感じ。このシンプルな構成が実にいい感じだった。
ところで挿入歌は高畑勲自身で作曲された。公式サイトを見ると、なんと初音ミクで作られたとか(→かぐや姫の物語公式サイト:プロダクションノート)ぜひ初音ミクバージョンも聞いてみたいけど……。サウンドトラックには初回特典で何か入っているようだけど、もしかして……(買っていないのでわかりません)

かぐや姫の物語 女童女童が可愛かった(→)。まさか高畑勲監督作品で萌キャラが出てくるとは意外だった。このキャラで癒やされる。これから見るという人は、このキャラクターに注目してほしい。
でも画像を探そうと思ったけど、グーグルで検索しても出てこない。予告編にすら出てこない。女童は隠しキャラだったのか……。
右画像はパンフレットからスキャンしたけど、元画像が小さかったために綺麗に画像が作れなかった。

映画館へ行って気になったのは『夢と狂気の王国』もやっていたこと。やっぱり、あちらも見たほうがよかったかな……。
それから、2日予定をずらせば1000円デーだったこと。当日券が1000円だった。知っていたら1000円の時に行っていたのに……。





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