ニコニコ動画&YouTubeに『ProjectMOE 第6話』のメイキング動画を公開しました。




この動画は、漫画『ProjectMOE』の制作工程を録画し、字幕解説を付けただけのものです。絵とは特に関係ない話をしています。
音、音声はありません。

これを書いた私は、犬程度の知識しかありません。というか犬のほうが賢いです。問題があっても怒らずに、笑いのネタにしてください。
以下、書き起こしです。

みなさんこんにちわ。とらつぐみです。

同人漫画『ProjectMOE』という作品を描いてます。
『ProjectMOE』はpixivをはじめ、様々なサイトで無料版を読むことができます。
AmazonKindleやBOOTHでは有料になりますが、『ProjectMOE』の完全版を読むことができます。

現在第6話『魔法少女篇』を制作中です。
主人公天子サキがクラスメイトの魔法少女、煌あかねに出会ったことを切っ掛けに、一緒に魔法少女となって町を守るお話です。

この動画では『ProjectMOE』のメイキング動画を見せつつ、特に関係のないお話をしています。
『ProjectMOE』の宣伝が主な目的ですので、気になった方は漫画本編をお読みください。

今回は、こんなお話をしたいと思います。

昔、よさという貧しい男がいました。
どこかの神社にお参りしたいけれど、お金がない。隣家の熊さんが「金比羅さんへお参りに行く」というので、自分のぶんもお参りしれくれないかね、と頼んでいました。
その日の夜。
寝ているところに、天狗がやってきて、「これから金比羅さんへ行く」と言います。
よさはの手には1銭5厘あったので、「これを賽銭として入れてください」と頼みます。
すると天狗は言います。
「そんなに行きたいのなら、連れて行ってやろう」とよさを乗せて空を舞い、あっという間に金比羅さんへやってきてしまいます。
念願の金比羅さんお参りを済ませたよさだけど、天狗は「お前を連れて飛ぶのは疲れた」と言います。
帰れなくなったよさは困って、天狗に頼み込んだところ、天狗は仕方ないなと
「ならばおれの鼻に取り付け」
よさは天狗の鼻に捕まって空へ飛びます。しかし空の時間は長い。落ちる……落ちる……と思っていたところで、よさは目を覚まします。よさが握っていたのは勃起した自分のチンコでした。

今のお話は『東祖谷(ひがしいや)昔話集』に収録されている「天狗さんと金比羅参り」というお話です。
天狗に連れられて金比羅参りをしますが、その最後は実は夢オチ。しかも自分のチンコを握っていた、というちょっと笑えるお話です。

次は同じタイプのお話ですが、怖い系のお話です。

ある女が遠出をしたところ、男に声を掛けられます。
「俺の妻になって欲しい」と突然の求婚。
しかし女はすでに結婚して子供も持っている身。男の求婚を断ります。
男は「仕事もしなくてもいい。家に来たらうまいものをたらふく食べさせてやる」と強引に女を連れて行ってしまいます。
女は男の家で暮らすようになり、本当に働かず、うまいものを食べて過ごしましたが、男からは「家から一歩も出てはいけない」と命じられていました。
女はなに不自由ない暮らしをしていましたが、そのうちにもどうしても外が見たくなりました。男のいない間にこっそり外に出て、道を歩いていると、大きく立派な家がありました。
中を覗いてみると、なんとたくさんの女が逆さ吊りにされていました。
逆さ吊りの女が言います。
「私たちはみんなご馳走を食わされ、肥ってきたところをこうして脂を取られている。あなたも同じようになるから、今のうちに逃げなさい」
女は逃げ出しました。
しかし不案内な山の中、道に迷い、そのまま夜になってしまいました。
そんな時、白髪の婆と出会います。白髪の婆は男の仲間でしたが、女が懇願すると、しばらくかくまってくれ、さらに逃がしてくれました。
女が自分の家に戻ってくると、村の人からはもう死んだものと思われて、葬式を済ませた後でした。
と、ここで女は目を覚まします。すべて夢でした。


今のお話は『鹿児島県喜界島(きかいじま)昔話集』に載せられているお話です。
こちらも夢オチのお話ですが、展開がなんとも恐ろしい。見知らぬ男に連れられて、その先で女達が吊されているのを目撃し、さらに自分は死んだことになっています。自分より前にいた女が……というお話はペローの『青髭』を連想しますね。

さてさて、次は『今昔物語』からこんなお話。

昔、備中国賀陽郡葦守に、賀陽良藤(かやのよしふじ)という長者がいた。
寛平8年の秋、ある夕暮れ時に、良藤は美しい娘に会います。
良藤は妻のいる身だったけど、娘があまりにも美しかったために「私の家に来ないか」と求婚してしまいます。
娘は良藤の求婚を断りますが、良藤は娘についていってしまいます。
たどりついたそこは大きなお屋敷。屋敷の者達が娘を「お姫様」と迎え入れます。
良藤と娘はその夜のうちに契りをかわします。
そのまま月日は流れていき、女に子供が産まれ、良藤は屋敷で幸福な日々を過ごします。
ところがある日、屋敷に1人の俗人が入って来ます。
俗人を見ると、屋敷の者達が恐れて逃げてしまいます。俗人は杖で良藤を叩き、外へ連れ出してしまいます。
すると……。
良藤は元の世界へと戻ってきます。良藤がいたのは蔵の下の小さな穴の中で、娘と過ごしていたと思った月日は、わずか13日でした。蔵の下で過ごしていたから、良藤の体は真っ黒で服もボロボロになっていました。村では良藤の失踪で大騒ぎとなっていました。
良藤の話を聞いて蔵の下を覗き込むと、そこに数匹のキツネがいました。良藤はキツネに化かされていたのでした……。


賀陽良藤の物語では、美しい娘のいる屋敷で数年間の時を過ごし、子供を設けて新しい人生を築いていましたが、それは実はわずか13日の間の話でしかありませんでした。
先の2つのお話との共通点を探すと、どのお話も導き手が現れ、導き手に招かれてここではない別の場所を訪ねます。
『東祖谷昔話集』における金比羅は現実に存在する場所ですが、現実世界から天狗の手を借りて一気に飛躍する場所なので、「現実でありながら異世界である」ということにしましょう。『東祖谷昔話集』の主人公よさは、本物の金比羅を見たことがないので、よさが見たという場所はきっと不思議世界だったと思います。
よさの物語では短い滞在でしたが、『鹿児島県喜界島昔話集』の女も『今昔物語』の良藤も長い長い期間過ごすことになります。現実の世界では行方不明で大騒ぎになり、葬式も済ませてしまっています。
ところが目を覚ましてみると、それは一瞬の間のお話。あるいは13日という数日のお話。夢オチ、あるいは幻覚を見ていたというお話。キツネに化かされていたというお話は、現代的な解釈をすると、幻覚症状で蔵の下の穴を屋敷と思い込んでいた……というお話と見ることができるでしょう。

それはさておき、異世界を訪ねる物語のパターンのいくつかがここに提示されたことでしょう。
まず導き手が現れます。
導き手から招きを受けますが、主人公は拒否します。(良藤は逆パターンでしたが)
そして異世界を訪ねて、日々を過ごします。時に冒険を経て、財宝を得る物語もあります。
その後、帰還。
帰還してみると一瞬の物語であったり、わずか数日の物語であったり。
逆に数日の物語が、数百年になるケースも存在しています。

これはとある山でのお話。山で仕事をしていると、美しい娘が現れ、にっこり微笑みかけ、去って行きます。それも毎日。
ある山師があの女は何者だろう? と後をついていきます。
すると女は立ち止まり、「ここからは私の腰に捕まり、目をつぶりなさい」と言います。
言われた通りにして、次に「目を開けなさい」と言われると、そこは綺麗な野原でした。その野原にある家ではたくさんの美女がいて、山師はご馳走を食べさせてもらいました。
女は「四季の庭をお見せしましょう」と言って、戸を開けると、そこは春の庭でした。別の戸を開けると、そこは夏。別の戸を開けると次は秋。別の戸を開けると冬でした。
女は「見たらすぐに閉めなさい」と言いつけましたが、あまりにも美しい光景なので、山師はずっと、3日間も四季の庭を見ていました。
そうしているうちに、ふと帰りたくなりました。
女から「けっして開けてはなりませんよ」と忠告されてある箱を授かると、山師は古里に帰ります。
ところが、古里はすっかり様変わりしていて、知っている人もいません。
困った山師が庄屋を訪ねて事情を話すと「昔、村から山師が行方不明になった話を聞いたことがある」と言います。それは、300年前のお話でした。
孤独になった山師は、あの箱を開けます。すると山師はそこから消えてしまいました……。


今のお話は『檜枝岐(ひのえ)昔話集』に載せられているお話です。
話を聞いていると、浦島太郎やアイルランド伝承の『オシーンの物語』を連想します。
こちらでは異世界探訪は一瞬のできごとではなく、逆に300年。あの四季の庭を1度見る度に、1年の時が流れていく……という設定だったのですね。

異世界を訪ねる物語には古来から様々なパターンがあります。
その一つが、現実と時間の流れ方が違うこと。現実と時間の流れが違う場所こそ、異世界なのです。

そうしたパターンは、おとぎ話だけではなく近代文学の世界にも見られます。『不思議の国のアリス』や、『ナルニア国物語』。どちらも異世界で長い長い時を過ごしますが、『アリス』ではほんのわずかな午睡の間の物語だし、『ナルニア』ではクローゼットの中に入った、ほんの一瞬の出来事でした。
現代の物語……漫画やアニメにおいてもこのパターンは丁寧に踏襲され、『魔法騎士レイアース』や『魔神英雄伝ワタル』といった作品でも、何ヶ月にもわたる大冒険の物語が、現実では一瞬でした。
最近の漫画・ライトノベルの世界で一大ジャンルを形成している「異世界探訪もの」……ほとんど読んでいないけれど、きっとこの「異世界探訪もの」の系譜の中におさまるものになっているでしょう。現代的な大冒険物語だとしても、発想の原型を見ると、人間は100年どころか、1000年間近く考え方を変えていないのです。

まず物語の端緒として――、
導き手が現れます「お願い、私たちの世界を救って……」
その導き手に対して、主人公は葛藤します。
アニメで、こんな台詞を聞いたことがあるでしょう「なんで俺がそんなことしなくちゃいけないんだよ!」
これはジョゼフ・キャンベルの言うところの「冒険の招命」であり、その「辞退」というものです。
「なんで俺がそんなことしなくちゃいけないんだよ!」というテンプレート的台詞は実に1000年前からあるパターンなんですね。
しかし結果的に主人公は招命を受け入れ、異世界で大冒険します。
その末に帰還。
帰還するとわずか一瞬の物語か、あるいは数日の物語でしかなく、数日の話である場合は主人公は「行方不明」という扱いを受けます。

もう1つ、あまり語られていなかったポイント。
昔、読んだ本にこんな言葉が書かれていました。
「人が妖精の世界を訪ねるには、人が妖精にならねばならない」
どうやったら異世界を訪ねることができるのか? あまり語られていない条件として、その世界の住人になること……です。
『今昔物語』の例ではキツネに化かされて、キツネの夫婦になってしまいます。この物語ではキツネが人間になっていますが、視点を変えれば、良藤がキツネになってキツネとの日々と過ごしていたことでしょう。
スタジオジブリの『猫の恩返し』の主人公、吉岡ハルも少しずつ猫の姿になっていましたね。

現代の異世界探訪ものの主人公は「客人」として異世界を訪ねますが、大抵の場合、異世界を救うため、異世界を統べる魔王を倒すための異能の力を得ます。それこそが、その世界の住人になっているという動かざる証拠です。というか、その世界において最重要の人物になっていますね。
そして黄泉戸喫(よもつへぐい)。異世界に入ると、その世界の食べ物を食べてはならない、という古くから伝わる禁忌があります。なぜ黄泉戸喫が忌避されるのかといえば、その世界のものを食べると、その世界の住人になってしまうから。黄泉の怪物と同じものを食べると、その怪物と同じものになってしまいます。
私の想像ですが、昔の人は「その地域の食べ物を食べる」ことが、もの凄く大きな意味を持っていたのではないかと思います。「同じ釜の飯を食う」という言葉がありますが、同じものを食べた、という連帯感が今よりも強力だったのではないか。だから、その世界のものを食べると、その世界の住人になると思われていたのでしょう。
フィクションでは、主人公の視点で物語が語られていますが、もしもそこに客観的な視点が与えられたら、きっと主人公は恐ろしい異形になっているのではないかと想像します。

そして「帰還する」とはどういう意味かというと、主人公がもとの人間に戻ること、です。
妖精の力も、そこで得た経験も全て失います。なぜならもうその世界の住人ではないから。異世界の住人でなくなったから、もう異世界にいることができなくなったのです。

明治の作品ですが泉鏡花の『竜潭譚』では主人公の少年が、姉のもとに駆け寄りますが、「寄るな!」と退けられてしまいます。姉の目には、少年がまったくの別の何かに見えていたのです。
途方に暮れた少年は、幽霊の女と一晩過ごしますが、翌日、寺に連れて行かれて祈祷を受けます。「幽霊に取り憑かれていた」ので、祓われたのですね。
こうして霊が祓われ、少年は日常の世界に戻っていきます。
少年が異世界に迷い込んだのはまったくの別人になっていたからですし、帰還できたのは元の人間に戻れたからです。
妖精から元の人間に戻ってしまったから、異世界で得た力も、宝も、美しい妻も失ってしまうのです。
『ソードアート・オンライン』はこの『竜潭譚』の系譜ですね。異世界が現代的にオンラインゲームに変わっただけです。
というか、ゲームの世界はまさに「現実と違う時間軸を持った異世界」ですから、私たちにとってゲームは、ある意味で異世界探訪しているとも言えます。

今の日本のフィクションとして、異世界探訪ものが大きなジャンルになっているのは、単純に、みんな冒険物語が好きだから。冒険物語にワクワクする感覚は、きっとどの世代、どの文化でも同じだろうと思います。
しかし、そこで宝を得るわけではなく、全てを失って現実に帰る。ゲーム中で得た宝は、現実世界に持って帰ることはできません。
多分、ここで「宝を得て帰還する」か「全てを失って現実に帰る」かで好みが分かれると思います。
おそらく、「全てを失う」物語を好むのは日本人だからこそじゃないかな……という気がします。「宝を得る物語」には『桃太郎』や『一寸法師』といった作品もありますが、現代人が語る物語にはどちらかといえば失う物語のほうが多いように思えます。「もののあわれ」や「諸行無常」といった情緒を持っている日本人だからこそ、という気がします。
「宝を得て帰還」するパターンは、西洋のほうで多い形式かもしれません。

昔話は、ある種の実体験から作られた物語が多いのですが、その語られた現実体験から「物語化」の作用を受けています。現実体験の物語でも、語られたその時から「物語」になり、その時代において普遍的に語られている通俗的なストーリーへと組み込まれてしまいます。
この辺の細かいところは、別テーマになりますのでまた別の機会にお話ししますね。

実はこれまでの物語、どれも『神隠し譚』として伝わっている物語です。『異世界探訪』ではなく『神隠し譚』です。その当事者達はここではないどこか、ここではない遠い場所を訪ねて、そこで日々を過ごして様々な物語が展開していきます。
ところが帰還してみると、わずか数日の物語。夢オチだったり、行方不明で葬式が済ませてあったり。
それは体験者の語る物語であって、その逆、日常の世界の側にいる人から見ると、突然に姿を消した、痕跡も残さず、それは現象や状況でいえば『神隠し』と呼ぶべきものでした。
『異世界冒険譚』と『神隠し譚』は実は視点をひっくり返しただけで同じもの。背中合わせになった物語の形式だったりします。
『千と千尋の神隠し』は異世界探訪のお話ですが、タイトルに「神隠し」が入っていますね。

と、こんなお話をするのは『ProjectMOE』も『異世界探訪』と『神隠し』の物語と関係があるからです。
「『プロジェクトMOE』ってなに?」……いまあなたが見ている作品のことですよ。
天子姉妹の住む「狭間世界」は第1話で「ここではない別世界」あるいは「境界の場所」として語られています。その狭間世界に、立派なお屋敷があって、美少女が2人きりで住んでいて……母親として女神がいる、というふうに語られています。
異世界、お屋敷、美少女……これまでのお話しした異世界探訪とキーワードが当てはまるでしょ?
その狭間世界を尋ねる方法として、複雑なルートを使いますが……これは最近流行になっている、現実をゲーム的に解釈する手法の一つです。最近のライトノベルで、プログラム=魔法という解釈がブームになっていますね。あれと考え方は一緒です。ある特定のルートを辿ると、プログラマーがこっそり隠した裏ルートに入れる……昔のゲームでよくあった裏技的な現象を、フィクションの世界に持ち込んだわけです。
同じこと考えてる人は、きっと何人もいるだろうな~と思いますが、そのどれかを見てパクッたわけではありませんよ。それは、被っただけです。同世代人ゆえにジレンマですね。
「パクリだー!!」と騒がれても、いや、その作品知らんし、と言うだけです。最近の漫画はほとんど読んでないし、個人でカクヨムとかで出している作品とかになると、知っているはずがないし。

私の構想では、「狭間世界」というのは飽くまでも境界・中継地点であって、本当の異世界はその向こうにある世界。「無限平原」はその一つですが、実はこの先、「中継地点」というファクターが大きな意味を持ってくるでしょう。そこはすでに脚本ができあがっているので、いずれお見せします。

さて、「異世界探訪」と「神隠し」は表裏一体です。だから現実世界の住人である唐手いぶきと色葉あやの2人は、現実世界では「神隠し」の状態にあっています。
しかし狭間世界での時間は、現実世界と一致しています。これはどういうことでしょう。
これはまあ、あれですね。そこを複雑にすると面倒くさくなるので、現実と一緒にしちゃいましょう、と。現実とゆるやかに結びついている場所だから、時間の流れもだいたい一緒……という言い訳も作っていますが、本音を言うと、面倒くさかったからですね。ここを狂わすと、「日常もの」の世界観が成立しなくなりますので。

なぜそんな異世界探訪の形式を丁寧になぞったのかというと、いわゆる「美少女もの」の世界観って、ある種の異界だと思っていたから。アニメに出てくるようなあんな可愛くて性格のいい子なんて、現実にいるわけないじゃないですか。『けいおん!』の第1期や『ゆゆ式』なんかを見ているとものすごい勢いで時間が流れていくから、見ているほうは浦島太郎気分です。『ご注文はウサギですか』なんて、あれがリアルな現実世界の物語なわけないじゃないですか。
もしも自分がそういった物語を作るとしたら、異世界探訪の形式を採るのが相応しかろうと思ったわけです。

一見すると、不思議な設定から成り立っている『ProjectMOE』ですが、実は昔からある物語のパターンと同じですし、昔からある物語を意識的に取り入れた物語でもあります。
そのパターンは、実は現代の色んな物語の中にも息づいています。「昔の話だからつまらない。読む価値がない」……そんなふうに思わず、温故知新、昔の物語をあえて訊ねて、現代の物語を考えるのも楽しい試みの一つですし、知ることで深みを与えられるものもそこにありますよ。

さて、絵もできあがった頃ですし、そろそろお話は終わりです。
煌あかね煌あかね

完成画はニコニコ静画でご覧頂けます。



参考文献です↓↓
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