ニコニコ動画&YouTubeに『ProjectMOE 第6話』のメイキング動画を公開しました。



この動画は、漫画『ProjectMOE』の制作工程を録画し、字幕解説を付けただけのものです。絵とは特に関係ない話をしています。
音、音声はありません。

これを書いた私は、犬程度の知識しかありません。というか犬のほうが賢いです。問題があっても怒らずに、笑いのネタにしてください。
以下、書き起こしです。

「行けたら行くわ」という言葉があるじゃないですか。
ネットでよく聞く言葉だけど、リアル世界で聞いたことがありません。
ま~たネットだけのあるあるかー…とか思っていたのだけど、ふとある事実に気付きました。

……私、友達いないんだった。

みなさんこんにちわ。とらつぐみです。

同人漫画『ProjectMOE』という作品を描いています。
『ProjectMOE』はpixivをはじめ、様々なサイトで無料版を読むことができます。
AmazonKindleやBOOTHでは有料になりますが、『ProjectMOE』の完全版を読むことができます。

現在は第6話『魔法少女篇』を制作中です。ぜひ読んでください。
この動画では、『ProjectMOE』のメイキング動画を流しつつ、特に関係ないお話をしています。
『ProjectMOE』の宣伝が主な目的の動画ですので、気になった方は漫画本編を読んでください。

さて、今回はこんなお話。

映画監督の押井守さんですが、『ドラクエ』プレイヤーとしてもかなり知られています。
『ドラクエ』シリーズのナンバリングタイトルは10以外の全てをプレイしていて、どの作品も2週以上、素手でクリアなどの縛りプレイなど、かなりディープに遊び込んでいるようです。

ドラクエビルダーズそれで、『ドラクエビルダーズ』にもどっぷりはまり込んでいる様子だけど、その遊び方が面白い。
シナリオをほとんど進めず、メルキドに留まって、延々、森を破壊し、山を削り、資源を取り尽くして、自分がこうしたいと思う風景を作る。
そこに先史文明があった……ということにして、それが崩壊し、廃棄され、さらに泥や水にまみれた光景を作りだし、その風景がどの角度で見れば美しいか、ベストアングルを探す。
そのうちにも本来の設定にないサイドストーリーが生み出され、拠点の周辺にある島は植民地なんだ。資源を収奪して、ただひたすら拠点を豪華にしていく。……要するにこれは、帝国主義のゲームなんだ。「ビルダー」とは「エンパイアビルダーズ」のことなんだ。だから主人公・プレイヤーは帝国主義者になるしかない。だから、自分たちが搾取して崩壊に追いやったかつての文明の姿を、自ら作りだしてやろう……と。
(引用元→「これは僕の廃墟願望を満たすゲーム」押井守、『ドラゴンクエストビルダーズ』に妄想の塔を建設す 前編

いやいや、面白い遊び方してますよね……。
こうした遊びが、きっと次の映画を生み出す材料にもなります。この頃は忙しすぎて押井守作品から遠ざかっているけど、こういった遊びを起爆剤にしてまた面白い映画を撮って欲しいものです。


いわゆる「考察」という遊びは、物語本編に語られていないところに物語を作り出す、作品の中でばらばらに語られているエピソードに一貫性を与え、“もう1つの一連なりのストーリー”を作り出すこと。それは「物語消費論」とはちょっと違う局面を持った、今時な知的ゲーム……とか思ってはいるのだけど。


でも、そうだな……。
「面白いと思うゲーム」「何度も繰り返して遊びたくなるゲーム」って、「自分の中でストーリーが生まれるゲーム」なんだよなーって。
ある種の二次創作……ゲーム本編では何も語られてないけど、プレイしている過程で、自分の体内でストーリーが生成されていくような感じ。
ゲーム中のキャラクターと感情が合わさって、心の中で「うぉぉぉぉぉぉ! いっけぇぇぇぇ!」とか叫んでいる感じ。
どんなに優れた作品でも、なんとなく一度通過したらおしまい。もう一回遊びたい! と思うまでにはなかなか至らない。
「ハマる/ハマらない」の境界にあるものって、プレイヤーの体内でストーリーが生まれるかどうかじゃないか……。
『Splatoon』をやっている間、言葉には出さないものの、やっぱり心の中で仲間に呼び掛けているもの。「そっちは危ないぞ!」とかさ。届かない声だけど。
そういう、「心を突き動かす手段」として、ゲームの中に飛び込んで、異世界を疑似体験してすっと戻ってくるのもいいけど、
そこから一歩進んで、新しい物語を作りはじめてしまうことが、二次創作なんだろうな……。

では、どういったゲームなら、そういう気持ちになり得る?
というこれは、人によって絶対に違うはずだから、作り手になりたい人は、自分の「ハマりポイント」を列挙していくのもいいかも知れないです。自分が何が好きか、どんな感覚を求めているのか、これは克明にしていたほうがいいです。これが明解になっていないと、「自分が作りたいもの」の軸がぶれてしまいますから。漠然と「作り手になりたい」ではなく、「具体的に何を作りたいか」が見えているかでだいぶ違いますから。
漫画でもアニメでもゲームでも映画でも、プロになってから、それからようやく「自分が何を作りたいのか?」を考えはじめる人は結構いますから。
プロになるという憧れだけで突っ走る人はわりといますし、切っ掛けとしては悪くないですけど、「自分が本当に作りたいもの」という軸を知ることは、続けていく上で大切ですよ。「プロとしての仕事」と折り合いを付けながら、ね。

私はというと、ゲームに関しては、「表現は漫画っぽいほうがいい」という持論がございまして。
飽くまでも個人的な見解なんですが……。
というのも、ゲームはリアルにすればするほど、ゲームとしてわかりにくくなる、というのがあります。
そこに落ちているものはアイテムとして拾えるの? とか、この道は進めるの? 進めないの……とか。パッと見でわかりづらくなるんですよね。ゴリゴリに陰影表現をやっているゲームは、目の前にある道すら見えづらくなって、ゲームとしてどうなの?ってなります。
それに、リアルにすればするほど、ゲーム的な表現が違和感として浮かび上がってきます。例えば、“見えない壁”に向かってその場走りしているとか……。プレイヤーは必死だけど、客観的に見れば、すぐそこにある棚のものを取るためにその周囲をずっとウロウロしている状況だとか。
ゲームはゲームだからこそああいった表現がそのなかで成立しうるけども、それをリアルな絵にしてしまうと「あれ?」みたいになってしまいます。そういう理由を含めて、「ゲームは漫画っぽい表現のほうがいいよ」というわけです。
ゲームは、「ゲーム的なルール」というのがあって、そのためにステージというフィールドがあるわけです。ゲームキャラクターはその「ゲームルール」以上のことはできませんし、そのフィールドにおける「ゲーム的表現」の住人でしかありません。現実世界のように、その人間が行動しようと思ったことなら何でもできる世界ではありません。そこでルックスのみに写実的リアリティを追い求めてしまうと、ゲームとリアリティの狭間で違和感が出て来てしまうのは、仕方のない話です。

そうはいっても、『バイオハザード』とか『零』とかも好きですから、言っている側から矛盾してしまうのですけども。
『メタルギア』はちょいちょい笑いを入れて、違和感を緩和している感じがあります。

ホラーゲームの場合は、ちょっと難しいところがありまして……。
画面が暗いとゲームとしてわかりにくい。しかし明るくすると、ホラーらしい雰囲気が出ない。
ゴーストやゾンビを、お手軽に痛快に倒せてしまうと、やっぱりホラーらしい怖さが出ない。
ホラーらしい雰囲気の成立と、ゲームとしての成立との葛藤。ここで葛藤し続けることがホラーゲームの本質かも知れないですね。

サンドボックスのゲームといえば『Minecraft』ですけど、ちょっと前に購入したのだけど、あまり遊びませんでした。というのも、ルックスが可愛くないなーって。
「可愛い」というのは、「キャラクターが」、という意味ではなく、それぞれの要素に愛着が持てなかったんですよね。木のブロックとか、石のブロックとか。主人公はなんか四角の箱にオッサンの絵が描いてあるだけですし。

それにFPS!
FPSのゲームがどうしても駄目。あれはヘルメットを被っている状態ですよね。とにかく視界が狭い。
足下が見えないから、ジャンプのタイミングがわからないし、目の前のアイテムがちゃんと取れたのかわからない。実際、アイテムと重なったつもりでも、アイテム取れてないことってよくあるし。
視界の狭さがどうしても気持ち悪くて、息苦しくて、FPSをずっとプレイし続けたいとは思えないんですよ。
Minecraftでは視点変更でカメラをキャラクターの後ろに置けるけど、カーソルが後頭部に重なってわかりづらいし……。
過去にGC『メトロイドプライム』とWiiU『ゾンビU』などでFPSゲームを経験したけれど、クリアした後、どちらも「2度とFPSはやりたくない」と思いましたもの。
面白そうなゲームがFPSとして発売されたら、“仕方なく”また手に取るかも知れないけど……。

欧米プレイヤーはFPSが好きで、日本のプレイヤーはTPSが好きで……とよく言われますけど、
私が思うに、欧米のプレイヤーは、「ゲーム中のキャラクター=俺」という思いが強いからじゃないか……と推測しています。ヒーローは俺だ! と。アメコミヒーローってだいたい筋肉ムキムキマッチョのゴリラですが、そういうゴリラと自分を同一化したいという願望がストレートにあるんじゃないでしょうか。
一方、日本のプレイヤーは、自分がヒーローになるのではなく、ゲーム中のキャラクターに感情移入して、育ててヒーローにしようとします。
「ゲーム中のキャラクター≠俺」です。
このキャラクター観が、あらゆる創作でキャラクターに対する意識を分けている……というのが私個人的な考え方です。キャラクターと現実の自分の間における距離感の差異ですよね。
私もゲーム中のキャラクターがエディット可能なら、徹底的に可愛くします。自分好みの、自分が愛情注げるデザインにカスタマイズします。自分の感覚にフィットするまで、延々調整してますね。
「憧れの自分」ではなく、「好みのタイプ」ですね。どうせゲームするなら、自分が好みのタイプが主人公でいてくれた方が、楽しいもの。
ファイヤーエムブレムIF「ゲーム中のキャラクター≠俺」ですから、そのキャラクターが異性キャラクターと結婚する……みたいな展開になると、「えー……」とか思います。『ファイヤーエムブレム if』とか。なんでやりたくもない異性の顔をなで続けねばならぬのだ、と思いながら例のミッションを進行させていました。苦行でした。ゲーム中のキャラクターを通して、別のキャラクターを愛でたいとはまったく思わないです。

でもそこで作りだした姿こそが、実は潜在的に自分がなりたい、憧れの姿だったりするのですが。

『Minecraft』を範としたサンドボックスゲームはたくさんあるけど、どのゲームもルックスが可愛くない。その個々の要素に、作り手の愛着が感じられないんですよね。デザイナーの心意気が感じられない。犬とか馬とか、真面目に作っているような気がしないし、キャラクターにしてもやっぱり四角四面にちょんちょんと目鼻が描かれているだけ。なぜにそこを聖域にするか。
私も画学生でしたが、先生からはああいった四角四面でも木は木、土は土とわかるように描きなさい……と言われていました。しかしサンドボックスゲームのそういうふうに作ってませんよね。
そういう意味で、『ドラクエビルダーズ』はサンドボックスゲームの中でも興味そそられるルックスを持ってるな……という好感が持てます。ドラクエMODの『Minecraft』やればいいじゃん……という話じゃないんですよ。

と、いう話をした後でなんだけど、この台本を書いた後、Minecraftをやることになりました。独立記事はこちら→MinecraftでProjectMOEの世界観を再現する。

どうぶつの森 引っ越しテロ『どうぶつの森』をモチーフにしたサンドボックスゲームがあればぜひやってみたいな……という気もします。『どうぶつの森』は家具バリエーションが数千もありますから、これがサンドボックスゲームになったら年単位で遊べそうな気がします。
『とびだせどうぶつの森』は極めて自由度の高いゲームでしたけど、村の中で丁寧に石畳の道を作って、そどうぶつの森 引っ越しテロれに沿うように木を植えて、要所要所に花壇を作っても、最終的に引っ越しテロで台無しにされますから。それが嫌でやめちゃった。引っ越しテロをやらかした家は、家の周り落とし穴だらけにして、毎日スコップで壁を叩きまくりましたから。
次の『どうぶつの森』はそうならないことを願って……。

と、ここまでゲームをベースに考えていたのだけど、ゲーム以外のストーリー……漫画や小説や映画とか、そういったものでも「ハマる瞬間」は同じなんじゃないかな、と。
漫画や映画や小説における「いいストーリー」は、ストーリーの中で“ある部分”が語られていない作品ではないでしょうか。その語られていないところが、読んでいる人、見ている人のなかで自分のストーリーが作られる作品じゃないでしょうか。
ストーリーの中で、全て語られている作品は凡作。主人公はこういう立場で、だからこう思って……と行動理由や心情や最終的にどう思ったのか、ある意味の感動ポイントまでぜんぶ物語の中で語っちゃっている作品に感情移入はできません。それは、「なにもかもぎっちり描き込んでいる絵」と同じです。本当にいい絵は余白のある絵です
物語もあえて余白を作ること。物語の最終局面で主人公がどう感じたかは読み手に委ねられている方が良く、そして、その印象がどの読者も同じ、作者の狙い通りに導けていれば大成功です。そう導ける作家こそ、優秀であると言えるのでしょう。画竜点睛の最後に目を描き入れるのは読者で、どの読者も同じクオリティで目を描けることができること……というわけです。昔のコナミでいうところの、エンディングの最後に「and you」を入れる感じです。
「物語を読ませる」というところから一歩進んで、「語られていない感情を読ませる」、それができる作品こそが名作たる資格が得られるのではないでしょうか。

ではどうやって「読ませる物語」を描くのか。
1つのやり方として、「ベタ展開」で埋め尽くすこと。
「ベタ展開」とはある種の「記号化された表現」あるいは「定番の表現」のことです。例えば、古い例ですが自殺現場に靴を揃えて置かれているとか……意味ありげな絶壁に靴を揃えて置くだけで、説明がなくても見ている人は「ああ、ここに自殺者がいたんだな」と推測できます。
これが「ベタ展開」。
しかし一方、ベタ展開とはすでに一定以上の人々に膾炙された表現でもあります。ベタ展開と言われるのは、表現世代が1つ古いからそういわれるわけです。すでに「使い古されている表現」ですね。
「崖に靴」なんて、使い古されすぎて、今やるとギャグになります。
テレビはそういうベタ展開の見本市みたいなものですよね。より多数に訴えるために、テレビは意外性や目新しさや不安要素をとことん排除してしまっています。既知のものしかありません。ゆえに、いまテレビは「時代遅れのメディア」と呼ばれるのです。漫画やアニメやネットで流行っているものを取り入れるのに1周も2周も遅れるし、さらに新しい若者文化やコンピューターをはじめとする科学技術などが出てくるととりあえず否定して叩くという悪癖があるので、10周くらい遅れてやっと取り上げる……という始末です。テレビ離れが起きるのは当たり前でしょう。
作家としては、そういうベタ展開を踏まえつつも、その手法に甘えていてはいけません。常に新しい表現を模索するのが、作家の命題でもあります。
先の例で言う「靴を揃えておけば自殺者がいたんだな」というのを、違う手法で、説明せずに観る側が察するように差し向けること。ここで死体を描写するのは禁じ手にしましょう。死体を描写せずに気付かせるように仕向けてください。ここはエロと一緒ですよ。裸の女を描くことは、エロ表現として優秀とは言えません。裸そのものは実はエロくないですから。裸を一切描かず、なんでもないところからエロを感じさせてください。「崖に靴が揃えて」というベタ表現だったら、「なーんだ」と思うけど、違う表現がそこにあったら、まったく同じことでも、観る側を「はっ!」とさせられます。それを生み出すのが作家の命題なのです。
新しいベタ展開を作れ、というわけです。

語らせるのではなく、感じさせるのです。
主人公の内面をぜんぶ語ってしまう作品ほど、状況をぜんぶ解説してしまっている作品ほど、つまらないものはありません。
特に、日本映画は過剰なくらいに感情を語りすぎる手癖の悪さがありますから……。

前にも話をしましたけれど、ある時代においてはリアルに感じられる表現でも、次の世代から見ると「?」という表現はいくつもあります。
例えば、昔の映画では、どんな屈強な男でも首の後ろに一撃をくわえると、一発で気絶してしまいます。
この表現がリアルに感じられた時代はきっとあったと思うのですが……。私の子供の頃でも「いや、それはねーだろ」と思って見ていました。
いま、「首の一撃で気絶」をやっている映画なんてありませんよね。それは「一昔前のベタ表現」で、今の時代では誰も納得しないからやらなくなったのです。
そんなふうに表現の一つ一つを吟味しつつ、いかに新しい時代に向けて刷新するか……。ということを念頭においたほうがいいでしょう。

エロ漫画での「ぼろん」とか「くぱぁ」とかも、そのうちにも古くさい表現と言われるのでしょうね。「その表現おかしいだろ!」って。
ベタ表現をただなぞるのではなく、「俺ならこうする! こう表現した方が絶対にいい!」という主張を持って欲しいものですね。そういう挑戦的な意識が、表現を新しくするのです。
自分の描いた表現がスタンダードになっていたら、気分がいいでしょ?

ちょっと唐突な話題ですが、「アート」と「エンターテインメント」の違うをどこに置くべきでしょう?
こう表現すると異論多数だと思うけど、アートは同時代表現から一歩進ませることエンターテインメントは半歩進むこと……ということにします。
アートであることの条件に「ファインアート」であること、それそのもので孤立していること、も条件だと思うけど、そういうのはまあいいでしょう。
エンターテインメントは半歩でいいんです。1歩も2歩も進むと「早すぎた作品」と呼ばれてしまいますから。半分はベタで、半分は新しい表現で、そのバランス感覚を突き詰めて創作を考えて行けばいいと思います。

ただ、アートはすっかり怠惰なものになっちゃったな……。本質を求めようとしても韜晦するばかりだし、韜晦することで無理矢理な神秘性を演出しようとするし、そうでなければただ無闇な騒動を起こすだけ。商品が資産として認められているから、金持ちのマネーゲームの玩具にされてますし。
今やエンターテインメントのほうが、表現や技術というものに対して、真摯に向き合っているような気がします。
浮世絵がそうでしたけど、大衆娯楽でも力を持てばアートを圧倒するんですよね。

ふと思ったけど、『おそ松さん』の二次創作って、異様な数がありますけど、それはやっぱり、色んな人が自分の体内で『おそ松さん』のストーリーが生まれたからでしょうね。
そういう切っ掛けを作らせる作品……ということは本当に優れた作品だったんだな、と思います。
語りたくなる作品は、いい作品に決まってますもの。

ところで、押井守監督は『ドラクエ10』だけは手にしなかったそうで……。
やっぱりオンラインは異質ですものね。
私は『ドラクエ10』プレイしていたのだけど、バージョン2の途中で止まってて……。なぜそこで止めたのかというと、その当時はそこまでしか公開されていなかったから。
ずっと気になっているんですよね。喉に刺さった小骨みたい。
でもオンラインゲームは攻略に何百時間と必要だし、まだ物語は完結していない様子だし……。
タイミングを見て『ドラクエ10』に戻りたいとは思っているけど、そのタイミングが掴めない……。
んーじゃあNintendoSwitch版が出たタイミングで戻ってみようかな。
長い間戻ってないから、データが消えてたらどうしよう。

それでは絵もできあがったので、お話もおしまいです。
最後までお疲れ様です。
ProjectMOEProjectMOE
完成画はニコニコ静画でご覧頂けます。


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