みなさんこんにちわ。

この記事は2016年の12月頃から4月頃までの期間に放送、あるいは配信していたアニメの感想をゆるーく書いているだけのものです。要約すると、ネットのゴミです。
私が個人的な気まぐれで見ていたものしか書いていません。
今回取り上げる作品は、

アナと雪の女王
けものフレンズ
小林さんちのメイドラゴン
この素晴らしい世界に祝福を 2
うらら迷路帖
リトルウィッチアカデミア
あいまいみー
クズの本懐
銀魂
昭和元禄落語心中

以上の10本です。

アナと雪の女王

今期放送のテレビアニメ……というカテゴリからちょっと外れるけど、テレビ放送があったのでついでで取り上げます。まあ短い内容なんで、かるーく。

『アナと雪の女王』……テレビ放送でやっとこの作品を見ることができた。もっと早く見たかったけど、時間もお金もなく……。
ディズニーアニメを見るのは久し振りだ。『アナと雪の女王』を見ていて、「ああそうだ。ディズニーってこんな感じだった」と思ったけど、そう思ったということはどれだけディズニーアニメを見てこなかったのだろう。ディズニー独特のフォルム感と、そのフォルム感の連続で成立している画作りが見ていて楽しい。

おっ、と思ったのはプロローグのシーン。両親が船旅の途中で波に飲み込まれるシーン。大きく立ち上る波に帆船が隠れて、その後間もなく波の向こう側が見えるけど、すでに帆船の姿はどこにもない……。波の表現はリアルではない、ウソの動きだけど、ハッとさせられる。死のイメージをきちんと伝えている。

質感はツルッとしたクレイアニメよりもうちょっと質感を載せたような、微妙な案配。手書きで作ってきた「ディズニーっぽさ」を変に乗り越えず、リアルな光源とエレメント表現、それから漫画表現が乗算するのではなく、バランスよく表現されている。
そう、エレメント系は基本的にリアルな描き方だった。ディズニーといえば、風も炎ももちっとしたフォロースルーを載せた“ディズニー風”に描いてきたのだけど、CGにおけるディズニー表現はややリアル寄りに描いている。手書き時代のディズニーを知っているだけに、ちょっと寂しさがある。

それからもう1つ、歯の表現。意外としっかり描くんだな……。日本のアニメでは歯をどう描くかも難しいところで……美少女の表現では描く時、描かない時、その都度で考えないと、表現としてあっさりし過ぎたりしつこくなりすぎたりしてしまうので、やや難しい。

さて、ストーリーについてだけど、前半部分がかなり急ぎすぎている。情報の提示が不充分なまま、次の状況へ、かなり強引にストーリーを進めているところがある。
例えば、エルサが魔力を封じる切っ掛けとなる場面。「アナを怪我させてしまった」……という理由付けは「妹想い」という設定が見えてきて、そこには問題ない。しかし、魔力そのものを封じる理由としては弱い。“魔力の暴発”などではなく、ただの不注意だし、子供の時点では魔力をコントロールできていたわけだし、封印する動機付けとしては弱い。
しかも、それがたかが手袋程度で封印されてしまう力……何か特別な手袋……例えば魔力を押さえる呪符が付いた手袋とか、そういう設定にしたほうがよかったんじゃないか。

次に、エルサが城を脱出して、雪山に氷の城を築くまでの展開。戴冠式で魔力を暴発させてしまい、逃げ出して……という動機。“逃避”あるいは“追放”がそもそもの理由なのだけど、その後、「ありの~ままで~」と異様なポジティブさで歌いあげ(この一曲が、あまりにも出来がいい。他のシーンはただの説明曲でしかないが、あの曲だけは突き抜けている)、状況を肯定して、“雪の女王”としての姿に変わってしまう。
ああいった展開だと、普通、自分の魔力を呪って後悔するんじゃないか? どうやって帰還するか、受け入れてもらおうか、とかそういう考えは全くなし。感情の流れとして不自然だし、氷の城を築く必要性が感じられない。

ミュージカルシーンは状況や物語を象徴化し、明らかに不自然な展開でも強引にジョイントしてしまう力を持っているが、しかし今の時代、設定や登場人物の感情などに整合性が求められている。そういった整合性をすっ飛ばしてしまったところは惜しいところ。
以降の展開は、物語作品としてぐいぐい引っ張っていく。物語としてのノリがよくなっていくのはここからだと思う。

ところでエルサの人物設定……。大きな力をギフトとして授かるが、その力ゆえに苦悩し、葛藤し、その葛藤を乗り越えていくことでその力を制し、あるいは社会と調和してく。……というこの設計は、アメコミヒーローのものだ。氷の魔力を手袋なんかで封じる設定は、どこかサイクロップス(『X-MEN』のキャラクター)の目から出る光線を、サングラスなんかで封じる設定に似ているような気がした。
要するに、『アナと雪の女王』はアメコミの精神で描かれている。
一方で、心に入った氷は「愛のあるキス」で溶かすことができる……という設定は(このあたりの象徴的な描き方はディズニーっぽい)、これはわかりやすい「ディズニーヒロイン」のモチーフ。

しかし、この「愛のあるキッス」はなんと達成されない。氷になって硬直してしまったアナを、エルサが抱きしめて号泣しているうちに元通りになってしまった。最終的にはクリストフとのキッスを達成するのだけど、タイミングが違う! そのタイミングじゃなくて、氷漬けになったあの場面でするべきでしょうが! わりと大きな設定として置かれていたはずなのに、すっ飛ばしてしまったのが残念。
あとクライマックスの場面、真の黒幕との対決の場面なのだが、“対決の構図”としての持って行き方が弱い。悪役は小物にしてはいけない。悪役は悪役として徹底した方がもっと輝く。ここも惜しいところ。

ディズニーヒロイン的なモチーフがすっ飛ばされ、その一方でアメコミ的なモチーフが前面に出てくるあたり、これも時代の反映なのかしら……とか思うけど、ひょっとして今までのディズニーなんかもそうだっけ? とか思ったり。……いや、意外と今までもそうだったような気がしてきた。あまりにも長いことディズニーアニメを見ていなかったから、よくわからない。
とネガティブに描いてきたけど、キャラクターの描き方は基本的にしっかりしていて、1人1人の結末をきちんとオチまで描かれていて、キャラクターを大切にするディズニーらしい。引っ掛かるところはあったけどなかなかの良作だった。

酷かったのはテレビ版のエンディング。扮装した子供たちがあの曲を熱唱する場面が次々と編集されるのだが、いっきに昭和に引っ張り戻されたような気がした。
いや、投稿した子供たちに罪はない。企画した大人達のセンスがお爺ちゃん。このセンスのなさが、今のテレビ局の問題なんだろうな……。



けものフレンズ

間違いなく今シーズン覇権的な存在感を持った作品。
私が『けものフレンズ』に気付いたのは、第1話がニコニコ動画で120万再生を突破したあたりだ。なにやらずっとランキング1位に鎮座しているアニメがあるぞ? なんだこれ、というのが切っ掛けで、見て…………困惑した。

現在は……538万7023再生(ブログ執筆時)。すでにシーズンが変わっているのに、いまだランキング上位という驚きの支持率。

困惑の理由は、私の引き出しにないタイプのアニメだったからだ。この作品を、どういう角度から見ればいいんだろう? ……かなり困惑した。
『けものフレンズ』にはまり込んでいる人にあらすじを聞いても、まるで要領を得ない……という話を聞いたけど、まあそうでしょう。「うまく説明できない」のは、みんなにとっても「引き出しにない」タイプのストーリーだからだ。私も『けものフレンズ』のあらすじはちょっと上手く説明できない。まとめようと思っても、なんというか、ふわふわしている。
ちょうど見始めたタイミングで1話~7話まで一挙放送があったので、これを見て、以降はテレビで視聴。
まあ引き出しにない作品で最初は気持ち悪かったのだけど、第3話に入ってアルパカ登場。おそらくアルパカ役藤井ゆきよは新人だと思うが(念のために調べたら、2009年デビューで結構キャリアあった。新人じゃなかった)、またしても引き出しにないタイプ。しかしこの引き出しにない感じが、いい感じに「脇を突っついてくる」気がして、だんたん楽しくなってきてしまった。珍獣・金朋と並んでも存在感を発揮できるあたり、なかなかすごい役者だ(ニコニコ動画の人気投票では迷わずアルパカに入れたのだが……第3位はハシビロコウだった。なぜハシビロコウ??)
私が作品を楽しみ始めたのは、その辺から。

見終えて思ったのは、『魔法少女まどか☆マギカ』との共通点。
1つめは、最初の印象と後半の印象がだいぶ違っている。『魔法少女まどか☆マギカ』は最初の数話は、いわゆる「日曜日の朝」にやっているような魔法少女アニメ……に、見えるように偽装されていた。第3話以降、作品の本質が姿を現し、一気にダークな世界へ、キャラクター達の転落する姿が描かれていった。
『けものフレンズ』はもちろんそこまでダークではない……というか底抜けにハッピーだが、それはさておくとして、第1話を見た率直な感想を言うと、チープで未完成なアニメだ。明らかに予算も人材も足りてない。初見の印象はただただ「完成度の低いアニメ」であって、そこに何かしらの奥行きがあるようには思えなかった。
が、実はそれも表面的な印象に過ぎず、色んなところに“奥行き”が裏面に隠されていた。表面的ないわゆる「IQが溶ける」と言われるようなシーンや描写にまどわされてすっかり見落としてしまっていたが、物語の背景にあるディテールがあちこちに用意されている……そういう作品だった。
初見と二度目では、まるで印象が変わる。それが『けものフレンズ』だ。

もう1つは、「二次創作」と「考察」。
以前から書いている通り、「二次創作」と「考察」は本質的には一緒である。本編では書かれていない部分に、接ぎ穂となるストーリーや設定を勝手に創作してしまうことである。「考察」は「二次創作」よりもオリジナルに接近しているし、ある種、歴史家や考古学者がやるような発想がそこに使われているので、より知的な「遊び」だと言える(考察は「仕事」ではなくあくまでも「遊び」←ここ大事。考察が仕事・職業の人も一杯いるけど)。要するに「判じ解き」。それで、ディープなアニメファンほどこの知的な遊びが大好きで、そういう興味がそそられる作品がアニメファンは昔から大好きだ。
『魔法少女まどか☆マギカ』も第3話以降、物語の裏にあるのは何か、物語の結末はなんなのか……当時、東日本大震災の影響で最終話が1ヶ月後という“おあずけ”を喰らったということもあり、「考察」がものすごい賑わった。
『けものフレンズ』もアニメファンが大好きな知的ゲームの対象になった。あのひたすら脳天気なストーリーの裏にあるものは何か? 「フレンズ」は何者なのか? 「ジャパリパーク」とはなんなのか? 主人公かばんちゃんは何者で、なぜあの場所にいたのか……(SFとは世界の構造を解き明かすことが命題で、だから『けものフレンズ』は本質的にSFなんでござる)。徐々に開示されていく設定を、新しいヒントと考えたことの答え合わせにして、次の「考察」の肥やしにするために貪欲に吸収する。「考察」の盛り上がりが「現象」にまでなったのは『魔法少女まどか☆マギカ』以来のものだろう。
もちろんのこと、「二次創作」も作られた量も凄い。ニコニコ動画の上位組はだいたい『けものフレンズ』の二次創作だし(1つのコンテンツがニコニコ動画ランキングを独占した例は、おそらく野々村議員号泣会見以来だ)、pixivでも『けものフレンズ』の二次創作は大いに賑わっていた。
『魔法少女まどか☆マギカ』における「変態ほむら」のような二次創作の中で新たなキャラクターが作られるほどではなかったと思うが……いや、知らないだけで作られたのかな? 何にしても「二次創作」「考察」が大いに賑わった作品だった。

私としては反省したいのは、「いい作品」というものは、「レベルを上げて物理で叩く」みたいなものだという考え方だ。
絵は美しく、ストーリーは展開に無駄がなく、伏線回収も鮮やかでクライマックスへの動線に緊張感を持たせて……。それで、私なんかはアカデミックに忠実であること、「レベルの高い平凡さ」を追い求めようとする傾向がある。
でもそんな「レベルを上げて物理で叩く」発想は、1つのユニークさには勝てない。よくよく思い出せば『進撃の巨人』だって同じだったじゃないか。あんなに絵が下手なのに、ストーリーや構図作りでぐいぐい引っ張り込んでくる。みんなの引き出しにないもので叩けば、レベル1がレベル50を倒すことだってあるんだ。
レベルの高い作品は、「よりよい品質である」と、それはそれで賞賛を受けるし、賞賛を受けるべきだけど、それだと時代は動かせない。「みんなの引き出しにはない」そういうユニークさ1つで一点突破をすることも、考えの1つに入れたほうがいいかも知れない。

それはそれとして、『けものフレンズ』はもともと一過性の作品で終わるものではなく、
普遍性を持ったIPにしよう……という目標を持って生み出された作品だ。要するにミッキーマウスやマリオのようなポジションを狙っていた。
その最初のスタートを切るはずだったスマートフォンゲームは、アニメが始まる前に終了。そういう躓きもあってかなり厳しいスタートだったが、今やすっかり人気作。今シーズンの覇権作品として堂々たる作品へと成長した。今のムーブメントがこの先どう展開していくのかわからないが、ようやく動き始めた企画だ。もともとの構想通り、長く長く愛されるキャラクターに成長していくことを願うばかりだ。

そうそう、最後にもう1つ。『けものフレンズ』の大ヒットが「ステルスマーケティング」によるものだ……という意見がもの凄く多いそうだ。実際に私もいくつかの場所でその実例を見た。
作品のプロデューサーも話しているけど、「そんなお金があるんだったら、動物園に等身大ポップ置くよ」と。まったくその通りだ。そんなお金があるんだったら、普通、クオリティアップのためにスタッフを増員するだろう。そんな予算がないのは見りゃわかるという話だ(予算は外資も入っていたが……外資って思ったほど金出ないんだな)
それに、ステルスマーケティングは実際、それほど有効な手段ではない。いや、「有効な手段ではなくなった」というべきだろう。なぜなら、みんなすぐに気付くから。気付いて、ネットで情報を共有できるから。そしてアニメユーザーは、そういう情報をめざとくチェックするタイプが多い。
最近のステマ商品といえば「水素水」が挙げられるだろう。有名芸能人があれだけ熱烈にステマしたけど、大ヒット商品にはならなかったどころか、水素水の効能自体に疑問が向けられた。
(アニメ界でも声優の内田真礼と上坂すみれがあれだけ取り上げたのだから、アニメファンが水素水を買い占める……という現象が起きそうだけどそうはならなかった。もっとも、こちらは最初から「オカルトウォーター」扱いでステマとは呼ぶべきではないが)
今、ステマをすればむしろマイナスになりかねない……。それでもやるところはやるだろうけど、私は「やるべきじゃない」と考えている。もしそういう宣伝事業に勤めている人がいれば「やめとけ」とアドバイスする。本当にマイナス要素しかないから。特に、アニメファンはそういうの気付くから、より「やめておけ」と言っておきたい。ステルスなんかするより、ダイレクトに「DVD買ってください」と言ったほうが絶対に効果がある。




けものフレンズ 最終話ニコニコ生放送レポート

けものフレンズ 12話ニコニコ生放送始まって6秒。
最終話は混雑することが予想され、1時間前から開場。私は開場してすぐに入ったのだけど、立ち見席だった……(一回で「すぐに入れた」のは初めてだった。今まで何度もリロードして、やっと入れた、という感じだったから。)
13万8178人。コメント数25万9816回と、すでにコメント数がとんでもない数字を記録している。

けものフレンズ 12話ニコニコ生放送ボスがサーバルとコミュニケーションを取ったシーン。
「シャベッタァァァァァァ」でコメントは大騒ぎ。




作中、間違いなくけものフレンズ 12話ニコニコ生放送もっとも盛り上がるシーン。今まで登場してきたキャラクター全員が集合して、オープニングテーマをバックにタイトル。



けものフレンズ 12話ニコニコ生放送セルリアンの目の前を、火の点いた紙飛行機が横切る……。第1話のシーンを繰り返している。クラフトができず、火も使えないはずのサーバルが、危機に直面して欠点を克服した場面。


けものフレンズ 12話ニコニコ生放送セルリアンに吸収され、なんだかよくわからない何かになったのだが、間もなく人間に戻るかばんちゃん。もちろん記憶も消えてない。感動の場面に、コメントも大騒ぎ。



けものフレンズ 12話ニコニコ生放送我が身を犠牲にして、セルリアンを海に沈めるボス。
画面は「ボスうううううううう」のコメントで埋め尽くされる。



けものフレンズ 12話ニコニコ生放送そのボスを、砂浜で発見するが、びっくりしたサーバルが海に投げてしまう。
ボスの苦難は続く……。



けものフレンズ 12話ニコニコ生放送
たーのしー




けものフレンズ 12話ニコニコ生放送ミライさんの記録映像。帽子に残った毛一本が、かばんちゃんに変わった……。最終的に、かばんちゃんが何者なのか開示された。



けものフレンズ 12話ニコニコ生放送いよいよお別れ……と思ったら?





けものフレンズ 12話ニコニコ生放送何やら手が黒いかばんちゃん。
どうやら手袋、ストッキングが再生中のようだ。そこだけ1ヶ月もかかる?




けものフレンズ 12話ニコニコ生放送エンディング。
エンディング中はずっと「あああああああああ」の文字で埋め尽くされる。



けものフレンズ 12話ニコニコ生放送おわり
……と思いきや、おわりを掻き消すようにサーバルがフレームインする。



けものフレンズ 12話ニコニコ生放送ラストシーン。
ここで画面右下に「つづく」の文字が浮かんでいるらしいのだが……私はわからなかった。色味調整しても「つづく」の文字は出てこない。どうすれば見えるのだろう?


けものフレンズ 12話ニコニコ生放送さあ終わった。アンケート……と思いきや、画面が動かない。
この時、来場者数18万8270人。コメント数75万9194。


けものフレンズ 12話ニコニコ生放送数字はぐんぐん伸びていく。
来場者数19万3329人。コメント87万5061。
コメントはともかくとして、なぜ来場者数が増えるんだ?

けものフレンズ 12話ニコニコ生放送32分。画面上に注意書きが現れる。
この時、来場者数20万3210人。コメント数103万2456。
来場者数20万人、コメント数100万回突破。


けものフレンズ 12話ニコニコ生放送やっとこさアンケート終了。本編が終わってから13分ほど過ぎてからだった。
①98%
②0.5%
③0.3%
④0.2%
⑤0.8%
コメント数は111万7933回を記録していた。

小林さんちのメイドラゴン

『小林さんちのメイドラゴン』のお話をする前に、『日常』のお話を少々。
【読み飛ばし推奨】
ニコニコ動画での『小林さんちのメイドラゴン』が配信されるちょっと前、1月8日に『日常』の一挙放送があった。来場者数47万4215人。アンケートでは①が90%以上(ブログ書く予定がなかったので、うろ覚えです)。ほとんどの人が作品に「満足」「面白かった」という判定を下した。
しかし『日常』が放送・配信されていた頃はひどいもので、動画はほとんど「炎上」というレベルで荒れていて、いろんなブログで『日常』は取り上げられていたものの、どこを見ても非難囂々。「つまらない」「クソアニメ」「京アニブランド崩壊」……等々、あの当時、同時期で放送されていたアニメの中で最も非難された、叩かれた作品だったといえるだろう(あの時ほど「京アニアンチ」と呼ばれる人達が元気だった頃はないだろう)
もはや、「この作品をいかに貶めるか」「いかに面白い表現を使って叩くか」を競う合うような状況が見られて、おそらくすでに「作品がどうか」という視点が失われ、ポトラッチ的な“競争”という段階に入ってしまっていたのだと思う。
ポトラッチ的――という言葉は度々このブログで使われて、使い方、意味が間違っている、という突っ込みがきそうだけど、まあこのブログだけで使われる特有の言い回しだと思ってくだされ(根本的に間違っているので、普段の会話で使うと恥を掻きます。正しい意味は調べてね)
当時の『日常』に関するアニメ評論の多くは、早い段階から「作品そのもの」という視点を欠き、ポトラッチ的な「この作品をいかに貶めるか」という「叩き合戦」の状態に入っていたように思える。
「作品そのもの」という視点が欠落する……すでに「その作品そのもの」のことなんて、正直、どうでもよかった。当時のネット評論家は、もしかすると作品そのものを見ていなかったんじゃないか……という疑いすらある。ただネット上での「そういう祭り」に参加するための、作品としての『日常』はその状況を作るためのおもちゃにされてしまったのではないか……。
しかしこういうネット上のポトラッチ的な状態は、その場所だけで閉じたお遊びだけでは終わらない。商業的なものにダイレクトに影響を与えてしまう。ネガティブなイメージがついてしまうと、純粋視点で面白いと思っていた人でも、なんとなく影響され、なんとなく流されてしまい、なんとなく作品を購入しようという意欲を遠ざけてしまう。ネット上の炎上は、外の世界へ影響を与えてしまうのだ。
ネットの世界は、日常世界にない「本音」がある、「本音が言える」からいい……という意見もよく聞くし、それは間違ってないけど、その場所で起きている渦に飲み込まれやすい(本当は「本音を話すと炎上する」世界だったりするが)。渦に飲み込まれると、純粋視点……その人間の良心やものごとの善や悪もその場限りのものとして生成され、正当化されやすい。「政治的」になってしまいやすいのだ。
『日常』はすでにNHKで再編集版が放送され、これが高評価。この段階で評価を取り戻した……といってもいいと思うが、今回の一挙放送での高評価は、ネット上、あるいはニコニコ動画で、本当の意味で作品の真価を取り戻せた……といえる。
あの当時のポトラッチ的な叩き合い状態から抜け出せたからの評価だと言えるが、叩き合いのほうに参加していた人達の多くは、この①90%以上という評価をどう受け止めるだろうか……。

小林さんちのメイドラゴンそれでは『小林さんちのメイドラゴン』の感想です。
この作品の前に『日常』の一挙放送があったのは、絵の方向性が似ているからとか、そういう理由じゃないかと思うけど、監督は武本康弘。『らき☆すた』の監督だ(『氷菓』や『甘城ブリリアントパーク』の監督でもあるので、作風は多彩)。どちらかといえば、『らき☆すた』の系譜として見るほうが正しいだろう。
『らき☆すた』といえば埼玉を舞台にし、当時としてはかなり詳細にロケハンが実施され、その風景を漫画的にディテールを落とした画作りが試みられていた。線や色が整理され、4頭身の可愛らしいキャラクターにマッチするように調整されている。
『小林さんちのメイドラゴン』における風景の描き方も同じ方法論で成り立っているが、こちらのほうがより精度が高まっているように思える(半分記憶で書いているので、曖昧な言い方にしています)。何気ない通りや、商店街、駅前の風景……地元の人ならすぐに特定可能なレベルの詳細さでありながら、シンプルな線のキャラクターにマッチするように質感が削ぎ落とされ、かわりに水彩ふうの柔らかさが足されている。
小林さんちのメイドラゴン 2話右のカットは望遠レンズ風に描かれた背景だ。ガードレールの距離感が圧縮されている。漫画的な絵でありがながら、きちんとレンズワークも入れ込む。実景を追った詳細さを持ちながら、漫画的なウソや、架空の風景を何気なく同居させやすい……そういう絵が設計されている。

小林さんちのメイドラゴン動画については、さすが動画職人の京都アニメーション。前作と比べるとちょっと小休止のような絵柄だが(『響け!ユーフォニアム』がちょっとおかしいレベルの作画だったのだが)、それだけにかなりがっつりと動きを付けてくれる。
取り上げたいカットはたくさんあるのだが、長くなってしまうのでここだけ。第2話で泥棒を追いかけるため瞬歩を使うトール。
①駆け出す寸前のポーズ。
②残像だけになる。
③残像がながーーく伸びて、
④一瞬トールの姿が現れて
⑤煙エフェクトドーン、画面揺れるなどの演出。
一瞬の動きをどのように捉えるか。残像の現し方や煙エフェクトの扱い方が見事。丁寧だし、高速の動きを鮮やかに捉えている。こういう瞬間を見ても、さすがの一言だ。

ストーリーは暗殺者を引退したソーニャが“小林”と名前を変えて数年の時が過ぎた。
SEとしての生活していたものの、日々は鬱屈と過ぎていった。が、ふとした切っ掛けでドラゴン娘と同居することとなり、親友を失った高校時代の傷が少しずつ癒やされていく……。
……と、いうお話ではない。ぜんぶウソだ。
いや、小林さんの頭の形を見ていると、なんとなく『キルミーベイベー』を思い出してしまって……。
あれは髪の色を染めたソーニャだ……子供時代の写真は過去を偽るために作ったニセ写真だ……あのハゲの課長を消したのは、暗殺者時代のワザマエに違いない……とか思い始めて。
でもこの設定だと、折部やすな死んでるな。

小林さんちのメイドラゴンという話は置いといて、
異界の住人が日常世界にやってきて、平凡な主人公と同居する日々を過ごす……というお話だ。あっ、これって『オバQ』とか『忍者ハットリ君』とかああいう作品の系譜だ。今の時代の『オバQ』なんだな。
それで、異界の住人と日々を過ごすことによって、小林さんはただ家と職場を往復するだけの日々から解放され、家族との暖かな暮らしと、張りのある生活を……鬱屈していた“仕事するだけの日々”から“充実ある日常”へと生活を変えていく。
現代では「普通」「平凡」な暮らしほど難しいものはない。誰もが「普通」、ちょっと前にあったはずの「人並みの暮らし」――気の合う友人がいて、充実した仕事と、多くはないがきちんと生活できるだけの給料、それから良き伴侶とその良き伴侶とつくる家庭――そういう「人並みの暮らし」を得ることが難しくなっている。
小林さんはドラゴンと生活することによって、そういう「人並みの暮らし」を獲得してしまう。トールという“妻”と、カンナという“娘”と同居することになり、小林さんはその一家と生活を支えるための“父親”としての役割を担う。
小林さんちのメイドラゴン 3話が、トールは人間ではない。ドラゴンだ。こちらの世界の人間ではなく、異界の住人である。異界の住人と作り上げた家庭はどこまでもウソ、虚構でしかない。小林さんはドラゴンと暮らすことで、1ランク上の部屋を手に入れ、以前の生活にはない充実感を持つようになるが、全部ウソ、仮初めのものでしかない。虚構の住人と過ごすことによって得た日常なんて、虚構でしかない。
もしかしたら現代の人達によって、「人並みの暮らし」「充実した日常」こそが、もはや虚構……虚構の住人(2次元)と生活するくらいのファンタジーになっているのかも知れない。

それはそれとして今シーズンは、ドラゴンにフレンズに悪魔や天使、それからモンスターと、亜人種、それもキワモノヒロインが勢揃いだ。
そもそも現実という立脚を持たない2次元にとって、ドラゴンだろうがモンスターだろうが、ジト目とアホ毛と同じくらいの属性に過ぎない……そういうことだろうか。というか、そろそろ目の色や髪の色といったパターン、「ツンデレ」や「中二病」といった性格パターンをいじるだけではバリエーションの限界、「もはや人間ある必要はない」というところまで足を進めようとしているのだろうか。正直なところ、普通の学園ドラマの女子高生の物語だとちょっと物足りない……みたいに思うようになってしまったのも事実だし。
マジやばくね?
あれもこれもやり尽くして、独自性を打ち出すのが難しい時代。ただ単に“女子高生”というだけでは「別の作品で見た」と言われてしまう。そう思うと、仕方ない……のかな。

小林さんちのメイドラゴン 6話そうそう、『小林さんちのメイドラゴン』といえばオッパイ。巨乳揃い。
それもいいのだけど、京都アニメーションと言えばやはり上質な太股。『小林さんちのメイドラゴン』も太股アニメの系譜にある作品と見た。オッパイに釣られて、ついつい視点を上へ上へといってしまうのはわかるが、ここはあえて視点を下へ、太股のもっちり感にも注目したい。
オッパイもいいけどね。ボヨン、ボヨンの音が可愛らしい漫画的な音で処理されていて、いい味になっていた。オッパイが一杯だったけど、エロスを主張しすぎない範囲がいい案配でした。ごちそうさま。今日寝れるわ。


キルミーベイベーの下り、やめておけばよかったね。滑ってるわ。



この素晴らしい世界に祝福を 2

第1期見てないから、入りづらいかな……と思ったらそんなことはまったくなく、“文脈”さえ知っていれば入っていける世界観だった。あらすじなんて、知らなくてもOK。それぞれのキャラクターがどんな由来を持っているかなんて、いまこれを書くために公式サイトでキャラ紹介を読んで初めて「ああそうだったのか」と知ったが、知らなくても楽しめてしまう。それくらい情報を知らなくても楽しめるのが良い。
キャラクターにストーリーを持っていないことに弱さを感じるが、間口が広いのは強みにもなる。パロディの要件は、元になっている事象をどれだけの人が知っているか、だから変に独自性なんか打ち出すと入りづらくなる。物語にドラマを持たせづらい弱点を抱えるが、どうせパロディをやるなら、全面的に振り切ってくれていたほうが見ているほうも安心だ。

画作りも、思い切って崩して描いているところもいい。ギャグものは、きっちり描くとどうしても伝わりづらくなるところがある……なぜか「ギャグの絵」にならないのだ。これがどういうことなのか、私も未だによくわかっていないが、ギャグを描く場合、絵はどちらかのほうへ両極端に振り切った方が、「ギャグの絵」になりやすいようだ。両極端に……吉田戦車やうすた京介のようにふと見ると下手に見えてしまうくらいに崩すか(実際は滅茶苦茶うまい)、平本アキラのように突き抜けた画力でシュールな状況を思いっきりリアルな絵で描くか。そのどちらでもない絵は、中途半端でいまいち笑いにならない。
『このすば』ははっきりと崩す方にベクトルを向けている。昨今、少々の線のブレで「作画崩壊だぁぁぁぁぁ!!」と非難されてしまう時代に、あえて絵を崩し、その崩した絵を多くの人に受け入れてもらえている……という状況も面白い。

『このすば』は役割分担がきっちしているのがいい。数分見ただけで、だいたいそれぞれのキャラクターのポジションが理解できる作りになっている。大雑把に言えば、女の子がボケて、男の子が突っ込む。そういう漫才だ。特にアクアは、ボケればボケるほどに可愛らしさが際立っていくユニークなキャラクターだ。ボケるほどに愛嬌が際立つキャラクターは、コメディを描く場合において貴重な存在だ(ドリフの志村けんとか)
お屋敷住まいで、可愛い女の子に囲まれて、ふとするとハーレムものになりそうなところだけど、嫌味な感じがしない。なんとなくだけど、コントのセットでも見ているような気分だった。
役者の掛け合いも非常にいい。何気ない一言や、アドリブがうまくはまっている。キャラクターとの感触と合っている。いろんなものがうまくはまっていて、見ていて心地いい。
コメディはネタの精度以上に、キャラクターに愛嬌があってこそだ。『このすば』はどちらかといえば、どこかで見たような二番煎じ的なネタが多いが、このキャラクターにこの演者があるから、その作品ならではのものとして輝いている。それに、やはりそれぞれのキャラクターが可愛い――可愛いというのはルックスが、という意味ではなく愛おしさを感じるかどうかという意味だが、そこでしっかり掴んでくれているから、このキャラクターでならもっともっと見たいという気持ちになる。愛すべきコメディ作品だ。



うらら迷路帖

うらら迷路帖占い師を目指す女の子だけが集まる街を舞台にした作品。
……設定からかなり無茶をしている。とりあえずのものとして「女の子だけしか出てこない」理由を作っているけど、占い師、占い師見習いだけで構成されている街……というのはかなり思い切っている。

ジャンルとしての「日常系美少女もの」の特徴は、閉鎖された空間だ。教室であれ喫茶店であれ、美少女ものは基本的に世界観が閉じている。外の世界が出てこないことで“美少女”というこの世ならざる夢想の存在を、あたかも本当であるかのようにみせることができる。
『うらら迷路帖』の場合は、占い師だけで構成された“街”そのものを創造するところから始まっている。もっと小さな教室や、小コミュニティだけで完結してしまいがちな“美少女もの”の世界観を、“街”というところまで延長してみせている。その挑戦は、うまくいっていると思う。
背景の線は定規で書かれた直線ではなく、ゆるく歪みが入れられ、和風の木造建築に、ちょっとくすみのある赤や青の市松模様をあちこちに配置する。この描き方がなんとも暖かく温もりのある印象をもたらすし、少女達が過ごす場所として相応しい可愛らしい雰囲気が存分に出ている。上にセピアのフィルターがかけられているのも、作品に柔らかい色調をさらにプラスさせている。少女と街の景観が、とてもいい具合にマッチしている。

うらら迷路帖 1話という表層的な温もりを反転させるかのように、作品は時々暗部を見せる。占い師の街には、タブーがいくつもあり、そのタブーを踏み越えると警告として異形が地の底から這い上がってくる。
異形は時々姿を現すが、いかにもモンスターという感じの質感を載せるのではなく、あくまでもフォルムで見せている。デザインに自信があるんだな、というのがわかるし、実際、異形達のデザインは非常に優秀だ。美少女達とはっきり質感を変えながら、スマートで、どこかしら不気味さを感じさせる。『うらら迷路帖』という可愛らしい作品の空気を壊さず、それでいて怖さを表現している。このデザイン感性は素晴らしい。
私の作品で、いくつかデザイン描いてくれませんか?

この作品は、恐らく作者の好きなものを力強く押し込めて作ったのだろう。和風世界に、和装少女たち。けもの娘に、西洋かぶれ少女もいて、キャラクターの色彩は豊かだ。好きなものだけを追いかけて、うまく結晶化した作品だといえるだろう。
しかし、弱点もある。好きなものだけで構想して、デザインを作るところで作品そのものが完結してしまっているので、ドラマへの転換が弱い。“設定”だけで作品の構築が終わってしまっている。だからどうしても同じ行動の繰り返しを見ているだけになってしまう。ストーリーに展開が期待できない……続きを見たい、というモチベーションをストーリー部分に作り出せていないところが惜しい。



リトルウィッチアカデミア

2013年のアニメミライから構想が始まり、その後好評を得てクラウドファンティング、劇場映画、テレビ版と作品人気が良い循環を作って展開し続けている作品である。
作品は、さすがのTRIGGERというべき勢いのあるアクション、京都アニメ『小林さんちのメイドラゴン』とははっきりと違う方向性を持っている。大胆で激しい。
例えば第1話で、ツタの籠の中に閉じ込められたアツコたち。そのツタの籠を自ら転がして逃げ出すわけだが、籠の線が激しくブレ、形が崩れ、アニメ的な像が完全に姿を消す。アニメ的というか、“漫画的”な描き方を、アニメの世界で堂々と描いてしまう……その思い切りの良さがなんとも潔くて楽しい。

しかし、ストーリー展開にちょっと不満もあって、アツコの成長の段階がいまいち見えづらい。アツコは魔法に憧れるだけで何もしない、怠け者だ。1クール目の後半になって、ようやく魔法を学ぶことに本腰を入れ始める。この展開、もうちょっと前のほうにあってもいいんじゃないだろうか。傍流に逸れたエピソードが多く、大きな展開そのものがもたつくように感じられる。
シナリオを見ても、TRIGGER作品としては、やや大人しい印象だ。箒レースとスーシィの精神世界に入る2篇は最高だったが、他のエピソードがどうしても印象が弱い。TRIGGERは動画が荒ぶってこそ……もっともっと暴れて欲しい、という感じがある。
世界観としても、どうしても「どこかで見た」という印象があるわけだし、ストーリーが平坦だとTRIGGER作品としては落ち着きすぎてやしないかい? ……という気がしてしまう。

まあとにかくも、『リトルウィッチアカデミア』は2クール作品だ。ストーリー後半になって、劇的な展開が待っているかも知れない。残りの12話でどのくらい“変化”を見せられるか、アツコがどのように変わっていくのか、作品が何を最終目的にするのか、後半にこそ真価が現れるかも知れない。



あいまいみー

今まではニコニコ動画なんかで「時々」見ていたのだけど、今回は最初からちゃんと見ようかな……。
と、いう軽い気持ちで見始めてみた。
それで、今回最初からしっかり見てみたところ、これまでの印象と……まったく変わりませんでした。
まあ、そうですよね。そういう作品です。

『てーきゅう』なんかもそうだけど、こういった作品は長短距離走型。3分間でいかに最大瞬間風速を発揮できるか、が勝負所。3メートル走みたいなもの。
『てーきゅう』との違いは、『てーきゅう』はわりとがっちりとネタを練った上でのシュールギャグであるのに対し、『あいまいみー』は半分はネットで交わされているネタの後追い。特に多いのは声優ネタ。これをどのように料理してみせるか。ネット上でホットなネタをどのように「自分のもの」にしてみせるか。ふとすると飲み込まれやすい題材を扱っているが、『あいまいみー』ならではの個性がきちんと表現されている。
その個性とは、一見すると愛らしい美少女ルックスながら、どこかしらで歪んでいるように感じられる映像の作り。デッサンも狂わされているし、背景パースも狂わせているし、キャラクターのルックスも、ほんのちょっとの匙加減だが、どこかおかしい。奇怪に、もっといえば“病的”とすら感じさせる歪みを、作品特有の個性にしてみせている。このスタイルを獲得することだけで、ちょぼらうにょぽみ(←これ名前??)はこの作品を成立させるための、ほとんどの仕事を完了させてしまっていると言ってもいい。あとはネタが凡庸でも、飛躍しすぎても、このスタイルが全て包み込んで作品として成立させてしまう。

しかし弱点は、作家自身がこのスタイルに捕らわれてしまうこと。
今や溢れんばかりに創作が量産される時代。流行廃りがものすごく早い。消費者はすぐに「飽きた」と言ってしまう。作品、あるいは作家の賞味期限はあっという間に来てしまう。
こうした時代感覚に合わせて、変化を付けられるか。変化を追いかけていけるか……がこの作家の今後の勝負所になるような気がする。



クズの本懐

片思いをしている相手の片思いをしている相手を、代替物として“消費”することを決めた高校生の物語。本当に欲しいものは手に入らない代わりに、代替物で一方的に欲望を消費しようという、利己的な恋愛観がテーマになっている。
その消費の中身には性的なものも含むので、表現としてもかなり際どいものが出てきている。そのぶん、ディープな欲の深さ、業の深さが表現されている。
しかし、そこには人間対人間だ。ただ欲求を処理するだけの関係だったはずが、どうしても感情が絡んでくる。安良岡花火は、粟屋麦と肉体的な接触を持ち、その内面へと接近していくが、麦という少年に対してまったく心惹かれない。それどころか、処理の対象と見ていることへの後ろめたさや、自分の気持ちに対して正直ではない事への自己嫌悪、さらに絵鳩早苗までも絡んできて、求められることの重さを知ってしまう。利己的な動機ではじめたものが、繊細さゆえに逆襲されてしまう。
と、花火はこんなふうに煩悶とするが、そこに現れるのが皆川茜――ジョーカーである。
茜は他人を欲望の処理として消費することに、まったくの後ろめたさを感じていない。それどころか、その行為自体に快楽を感じているし、そうすることでその周辺の人間関係が崩壊していく状況にも快楽を感じている。
まさにジョーカー。安良岡花火から良心を抜き取ったのが茜だ。そしてジョーカーこと茜は、快楽を得る目的のために花火を精神的に追い込んでいこうとする……。

安良岡花火、粟屋麦、鐘井鳴海の3者だけなら、ある意味ふつうの恋愛物語だ。だがそこに茜というジョーカーを放り込んだことで、物語がダイナミックに動き始める。恋愛ものと言えば、たんに“感傷的”なだけの退屈なある過程……ただただ男女がくっつくというだけの予定調和を延々見せられるハメになるのだけど、茜の存在のおかげで、“恋愛物語”が“心理戦”を取り入れた対決ものにもなっている。展開を読み切れない面白さが出ている。“罪と良心”というテーマにも踏み込んでいて、興味深い。

しかし、物語の終盤に入り、この茜がいとも簡単に陥落してしまうのが残念だった。もっと全員をボロボロに引き裂いて、そこから這い上がって“恋愛関係”を獲得するストーリーが見たかったのだけど……。茜が陥落してしまったことで、そうはならなかった。
もう1つ残念だったのは鴎端のり子……モカちゃんの存在。花火や麦、鳴海、茜といった関係性の中にほとんど接点を作ることができなかった。
「本当に想っている人が手に入らない」……モカは花火というキャラクターの残像、あるいはライバルという関係性で設定されたのだと思うが、蛇足っぽくなってしまったのが残念だ。一度、エピソードに絡んできて、麦とベッドまでインするが、肉体的にはインせず。その後は特に何のエピソードもなく撤退していってしまった。キャラクターとしてかなり独自の存在感を持っていただけに、活躍する場がほとんどなくて残念。

画作りは、線の感触が非常に淡い。瞳のクローズアップが多かった印象だが、ハイライトが波打ったような形になるのが面白いし、その描き具合でキャラクターの心理が表現されているのもいい。キャラクターのデッサンは崩れがちだが、それは意図的だし、その瞬間の印象を優先した画作りにしている。漫画風の分割構成、モノローグなども相まって、よりキャラクターの心理に迫る作りに徹底され、非常に良かった。

茜が陥落した後のストーリーは、さらっと流れるように終わってしまい、やや物足りなさがある。花火も麦も失恋し、別れることで物語は終わってしまう。早苗との関係も、中途半端に投げたままだ。クライマックスの作りとして、やや荒削り、未回収なところがあるのが惜しい。
恐らく作者の横槍メンゴは論理的にストーリーを構想するタイプだろうと思う。花火、麦、鳴海という構図にしても、そこに茜というジョーカーを思い付くあたり、相当なものだと思う。しかし、構図の作りが闇鍋状態過ぎた。これだけの複雑さを抱えて、それでも芯の部分はぶれることなく――花火も麦もお互いに恋愛感情は抱いていない……普通に考えればこの2人をくっつけさせれば結末として綺麗になるが、そういう安易さに決して逃げることなく、あくまでも冷静な判断としてあの結末まで持って行けたのは、この作家にそれだけの資質があるということだ。

この作品を最初に見た時、「安斉知佳さんはまーた先生に叶わない恋してるよ……」とか思ってた。声優はそういうたまたまがわりと続く職業なのである。



銀魂

『銀魂』という作品の生成はちょっとユニークだ。長く長くギャグ漫画として描かれ続け、それがある時ふっとシリアスものに転換する……。ジャンプ漫画には、はじめギャグで後半シリアス展開という作品は、昔からよくあるが、『銀魂』はそれをとんでもないスケールまで引き延ばした作品だ。ギャグをやってきた間に積み上げたエピソード、キャラクターといった“貯金”がこれまでの漫画と較べても、圧倒的に厚みがある。そして、今その総決算としてのクライマックスを描いている。
と、そもそもギャグ漫画で始まっている……という前提があり、ビジュアルそのものはその段階で組み上げられたものなので、シリアス展開に入ったいま感じるのは、映像が非常にチープであること。宇宙空間を舞台にしているけど、SF的な考証はほとんどないし、メカ描写にも驚くべきものは何もない。
その一方で、キャラクター達のぶつかり合い、ドラマは非常に熱く盛り上がっている。長い連載の間に積み上げたものが、大きなドラマとなって、抉るように結末を目指してつき進んで行っている。
あのキャラクター達の過去に何があったのか、どんなものを抱えていたのか。長く連載をやっていたからこその厚みが、今回のシリーズで一気に放出されている。空知ゴリラはこうした瞬間の人情ドラマを描くのに恐ろしく長けた霊長類なので、映像のチープさを忘れさせるくらいぐいぐい引っ張り込んでいく。
それで、思うにこのゴリラは相当に冷静に自分の作品を俯瞰して見ているように思える。パロディを描くための資質は、状況をロングサイズで見る感性だ。空知ゴリラは自分の作品に対しても、どこか遠くから見ているように思える。これだけ熱いドラマが展開されている一方で、冷静にシーンを配して、いかに感情を高めていくか……その過程をきちんと描いている。要所要所に挟まれているギャグは、霊長類の長としての余裕からだろう。
ただ、回想シーンがやや多めなのが、エピソードの進行を邪魔しているように感じてしまう。
時々、地球に残してきたあのキャラクターたちを思い出して、寂しい気持ちになる。マダオはもう出てこないのだろうか……。

さて、『銀魂 落陽決戦篇』も完結し、今は「よりぬけ!銀魂さん」が放送されている。1クール分迂回して、その後、続きが放送されることが確約されている。
そんな間の期間に……えっと実写版? ヒットしてもコケても作品としてはネタになるので美味しい。黒歴史になっても封印せず、ネタとして掘り返すつもり……というのは『銀魂』らしいところだ。そういうところは羨ましい。



昭和元禄落語心中

第1期のラストで、助六が与太郎の体を借りて戻ってきてしまった。途端に、物語が“怪談”めいてしまった。「八雲」と「助六」、この2人の因縁は、終わってなかったのだ。
第1期――戦争を挟んで、昭和という時代を駆け抜けた落語の生き様を描いた物語だ。このクライマックスで、八雲と助六は、悲劇的な別れ方をしてしまう。
これで終わったように思えた……しかし、助六は戻ってきてしまった。先代と同じように。別の人間の体を借りて、八雲と助六の輪廻の物語は続いていく。
おそらく、落語の世界が“名”を継いでいく、というところからこういう発想が生まれたのだと思うが、名前だけではなく因果も引き継いでいくという物語はユニークだし、作品に悲劇としての深みを与えている。

先代助六も少し語っていたけど、この助六と八雲を巡る因縁の物語は、もしかするともっともっと以前から、江戸時代からずっと続いていたのかも知れない……ちょっとそういう空想をしてしまう。といっても「三代目」と役名にあるので、そこまで古くはないようだが。(ちょっと『ジョジョ』のジョースター家とDIOの因縁の物語を連想してしまった)

作品の見所は、なんといっても役者の演技。第1期では山寺宏一さんの素晴らしい演技、素晴らしい落語を披露したが、関智一さん石田彰さんがそれを引き継ぐ形で、見事な演技を見せて……いや、聞かせてくれる。
石田彰さんは今回は名人と呼ばれる落語界の重鎮……という役割だ。声のトーンが重く、嗄れた声で芝居をするが、嘘を感じさせない。若者時代の女性的な線の美しさを残しつつ、重鎮らしい堂々とした重さも表現している。このトーンを維持したまま落語を演じてみせるのだが、八雲という人物をベースに残したまま、落語の中に登場してくる様々な人物を演じ分けてみせている。ただただ「すげぇ……」と溜め息が漏れる。石田彰さんもすでにこの道を究めようとしている人なんだな……。
若手落語家を演じる関智一さんも優れた存在感を見せてくれる。明るく、脳天気な役柄なのでかなりトーンが高めだが、このトーンならではの落語を演じてみせる。『昭和元禄落語心中』はとにかく耳が幸福になる作品だ。

八雲と助六……巡り続ける因縁の物語だが、それもいよいよ終幕へと向かおうとする。
八雲は落語界の名人となるが、その優れた技を継承せずたった1人で抱えて、まさに落語という文化とともに心中しようとする。折しも「文化50年説」という時だ。戦後落語の文化も50年というサイクルを迎え、一時代を育んだ者とともに幕を閉じようとしているのではないか……(こういうところは、漫画やアニメも同じ。こちらも戦後から80年も過ぎて成熟期を越えて、今が“衰退期”に入りかけているのではないかとすら言われている。文化を守るために踏ん張る……という立ち位置はアニメも落語も変わりない)
そこにやってきたのが、与太郎という流れ者だ。なんだかんだと家に引き留め、養っていくうちに、なんとなく情がわき、ふとした気まぐれで時々稽古を付けて……。たった1人で落語心と中しようとしていたのに、与太郎を切っ掛けに、その周囲にゆるりと潤いが生まれ始めてくる。いつの間にか与太郎が八雲の技を引き継ぎ、小夏と結婚することになり、子供が産まれ、孤独と孤独がただ同居している関係が家族という結びつきを持って再生へと向かい始めようとする。
『昭和元禄落語心中』は継承の物語だ。八雲と助六、師匠と弟子。長い輪廻の過程で、ずっと結びつかずにいた2人が、最後には認め合い、この2つの流れが交差する。(師匠と弟子……関智一……あっ、ドモン・カッシュだ!!)
これまでの物語を見ていくと、最終話で助六が「八雲」の名を受け継ぐ……という展開がなんとも感動的だ。決して結びつかなかった八雲と助六が、最後の最後で結びついたのだ。この結末は八雲と助六という呪いの終わり、和解と融和が象徴されている。アニメの最後、「こんな面白いものが消えるわけねえべ」という軽い一言が心地よい。脳天気なまでのポジティブさが、「文化50年説」というハードルを乗り越えて、新しい時代を築く切っ掛けを作ったのだ。
最終話で、信之助が実は八雲の息子では? ……という話がちらっと出たが、これは八雲、助六の2人を交差させる、もう1つの仕掛けなのだろう。助六と八雲が和解するまでもなく、この2つの道筋は、すでに交差していたのだ。という裏のストーリーを、最終話で開示してみせることに意味がある。すべてが解決されたからこそ、この秘密に意味が出てくる。

物語の最後、与太郎は舞台の上で『地獄』を演じてみせ、奈落の向こう側に死神となった八雲を目撃してしまう……。
落語を演じる者の業なのか、極められた技は、死神を召喚してしまうようだ。それは与太郎もこれから死へ向かっていく……その予告をしている。
だがその死も決して悲劇では終わらないことはすでに予告済みだ。なにしろ八雲を継ぐであろう次世代がすでに育っていることが描かれている。
悲劇、悲劇の連鎖だった物語は、これから幸福へと転じようと、その切っ掛けを見せて、この物語は幕を閉じる。





ところで、ファミ通とニコニコ動画の人気投票では、『昭和元禄落語心中』は男性人気ランキングでは姿を見せず、女性人気ランキングのほうのみに出ていた。
あれ? 女性に支持された作品だったのか?
こういう男性の職業もの、「男性が頑張る」作品こそ、男性が見るべきじゃないか。逆に、「女性が頑張る」作品こそ、女性が見るべきではないか。男性がこういった作品を見て、古典芸能のような文化に興味を持つべきじゃないだろうか……という気がするのだけど……? なぜ男性に支持されなかったのだろう?

※ 読者に共感を求める手法の1つに、主人公を読んでもらいたい読者と近い性別・年代にする……という方法がある。例えば、12歳くらいの少年に読んでもらいたいと思ったら、主人公は12歳の男の子だ。14歳くらいの少女に読んでもらいと思ったら、主人公は14歳の女の子だ。
年齢や境遇などの設計方法は今も昔も変わらないのだけど、どういうわけか『性別』だけが反転してしまっている。14歳女の子を主人公にしたら、読者の大半は男性になる。12歳の男の子を主人公にしたら、読者の大半は女性になる。
私も『ProjectMOE』という大半が女の子キャラクターという漫画を書いているが、“男性向け”というつもりでは描いていない。
これはいつからなのだろう? 私は2010年頃再びアニメを見るようになって、すぐにこの現状に気付いて「どういうこった??」と思ったのだが……。私がアニメから離れている間に何があったのやら……。
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