みなさん、こんにちわ。
この記事は2017年の4月から7月頃までの期間に放送され、あるいは配信していたアニメの感想を一言ずつ書いたものです。かなりゆるーい内容ですので、鼻ほじりながら読むとちょうどいいでしょう。取り上げている作品も、私が気まぐれで見ていた作品だけです。
今回取り上げる作品は、

ひつじのショーン バック・トゥ・ザ・ホーム
龍の歯医者
有頂天家族2
サクラクエスト
リトルウィッチアカデミア
神撃のバハムート virginSoul
笑ゥせぇるすまんNEW
Re:CRESTORS レクリエイターズ
正解するカド
進撃の巨人 season2
インサイド・ヘッド

以上の11本です。

ひつじのショーン バック・トゥ・ザ・ホーム

ひつじのショーン バック・トゥ・ザ・ホームNHKで放送していたので、なんとなく視聴。
見る前は……そもそも台詞のない、牧場だけで終わるようなミニマムスケールの作品が、劇場映画になり得るのだろうか……? さすがに無理だろう、まあ感じのいい小品程度で終わるだろう。
……と思って見始めたのだけど、いや、舐めてたな。もの凄くきちんとエンターテインメントをしている。「なんとなくいい感じのお話」に逃げてない。台詞はほぼないのだけど、しっかり引き込むし、見せ場はあるし、最後には感動もさせる。
むしろ台詞がないからこそ、いかにきちんと物語の動線を作るか、見ている人に理解・納得させるのか、ここがきちんと作られているし、勉強にもなった。映画の勉強している人に、ちょっとオススメしたくもなる。なかなかの良作だった。

さて、本編はいつもの牧場を飛び出して、羊たちが街へと繰り出す。ここで映画らしい“大きな舞台”の構築に挑戦している。映画用の新しい舞台を作らなければならないわけだが、都市となると、とことん作り込まないと奥行き感が生まれない。さらに厄介なのが街中に配される“モブ”通行人。さて、どうなるかな……と見ていたけど、まず街の景観はかなりしっかり作り込んで映画らしい豪華なルックスになっているし、なにより街の人々が面白い。ちょっとした小ネタがあちこちに鏤められていて、2周目はこちらを見る楽しみも生まれそうだ。
街にやって来て“敵”として現れるのは動物収容センターのトランパー。トランパーとショーンたち、追う者、追われる者との緊張感ある攻防戦がなかなかにいい。私は以前からこのブログで、「エンターテインメントとは脱出だ」と語っていたが、このエンターテインメントの部分をトランパーが引き締めている。
この映画中、面白いのは「同じネタを2回繰り返す」こと。例えばショーンがもの凄いスピードに壁に「外の風景」を描いてしまうシーン。もう1つは柵を越える姿を、あの「羊が1匹、羊が2匹……」のイメージのように見せ、人を眠らせてしまうシーン。1回目に出す時は、どちらかといえばギャグっぽい色彩で、笑いを取っておき、同じネタをもう1回使用する時は、「おっ!」と思わせるような意外性を持った場面、つまりは「危機の脱出」にうまく利用されている。
これを“伏線”といえば、間違いないのだけど、この手法を使うことで、まず“いきなり感”がなくなる。ショーンの壁の落書き能力にしても、いきなり出したら「!?」となるけど、最初に出していれば、「おお、あれをあんなふうに使うのか!」と観る側としては「やるな」というふうに感じられてしまう。もう1つの効果としては、まあ、よくよく考えれば漫画的、馬鹿馬鹿しい、そんなのあるわけないだろ、と言われる場面を一度笑わせることによって見る側に受け入れさせている。納得させるためのギミックとして活きる使い方をしている。
他にも羊たちの女装姿とか、牢屋でなんとなく怖い顔で見詰めてくる謎の犬とか……。一つ一つのギミックの使い方がうまい。
ドラマ部分を引き締めているのは、記憶を失った牧場主。最終的に記憶を取り戻すわけだが、そのやり方がなかなかに憎い。こちらも、映画冒頭に出してきたあるシーンの繰り返し、繰り返しをさせることで記憶が刺激される……というやり方を取っている。タイミングの素晴らしさもあり、牧場主とのやりとりが、感動の一場面としてしっかり引き締めている。
プロットの一つ一つがきちんと整理され、きちんと“結”が用意されている。この無駄のなさが実に鮮やか。映画シナリオの勉強している人にお勧め。サイレント的、漫画的な作りだけどだからこそ、プロットと情景をしっかり描写していたら、台詞なんてなくてもちゃんと伝わる……ということがよくわかる。プロットさえしっかり作っていれば、台詞なんぞいらんのだ! ……くらいの自信を感じる一作。


龍の歯医者

庵野秀明企画『アニメーター見本市』の中から生まれた作品。『アニメーター見本市』は短編でありながら素晴らしい作品がいくつも生まれた。「これは短編で終わるには惜しいな……」という作品も多数あったので、その1本がこんなふうに長編になったのは嬉しい話。

龍の歯医者さて『龍の歯医者』。
『アニメーター見本市』で見た時はなんとも謎の作品。「龍の歯医者? ってなにをする人ぞ?」。『アニメーター見本市』でもその解説はあまりなく、ストーリーはおそらくイニシエーションの話かな……? というところまでは読み取れたけど、読み取れたのはそれだけ。イメージは魅力的だけど、よくわからない作品だった。
長編となった『龍の歯医者』ではよくわからなかった謎の部分が丁寧に分解されて解説が加わる。まず職業としての「龍の歯医者」とはなんなのか。普段、どういうことをしているのか、なぜ龍の歯医者なのか……。その説明的な描写からきちんと作られているし、あの『アニメーター見本市』のワンシーンはやっぱりイニシエーションだったんだな、と確認(この辺りのシーン、ずいぶんあっさりとナレーションで流されたけど)。さらに龍の歯医者を取り巻く世界観……世界観は戦時中の日本をモデルとしているわけだが、それとは異質な、架空で作られたファンタジー的なギミックとうまく調和しているし、戦時中の日本を上から被せることで世界観にどっしりとした厚みが生まれている(ふわっとしたイメージとして、戦時中の日本はまだそれ以前の社会・風習・宗教観が背景にあったわけだけど、その宗教観のところがごっそりと龍の歯医者にちなむものにすり替わっている感じ)
あきらかにいって、この作品は「龍の歯医者」という職業集団を創造するところから始まり、それから周辺世界をどうするか、「龍の歯医者」を世界観全体においてどういうポジションに置くか、という手法で構想されている。……と思ったのだけど、これは大体において正解で、さらにいうと「龍の歯医者」という名前だけ思い付いて、この名前から世界観やストーリーを構想したそうだ。……うーむ、すごい。
で、龍の歯医者とはなんぞや? 謎で奇妙な職業集団の物語。『アニメーター見本市』で作られたストーリーでは、ごく短いからこそ、小さな世界観で完結できたけれども、90分となるとそうはいかない。これをどうやってより大きな世界へと展開させていくか。90分間どっしりと見せるストーリーに変えてみせるか。
これが実にうまくいっている。前半、龍の歯周辺の生活や仕事をしっかり描き、観る側に「了解させる」ところからお話をスタートさせる。この辺りの描写が非常にきちんとしているので、地に足が付いている感じがする。「龍の歯医者」というちょっと聞くと訳のわからない職業集団の仕事、社会的な役割がきちんとわかるように作られている(社会全体の中に置ける立場をきちんと書いているから、“地に足が付いている感”が出ている)
後半は地上に転落。そこから始まるめくるめく冒険活劇。龍の歯周辺という閉じた舞台から、大きく世界が広がっていく。龍の歯周辺でもかなり厚みのある世界観の奥行きを感じていたけど、後半戦に入り、世界観がどこまでも広がっていく感覚……これを見ているだけでもすでに痛快なのだけど、その中で繰り広げられる冒険活劇が実に楽しい。クライマックスまで変な怠みもなしに、一気に突き進むのも見ていて楽しい。前半で描かれていたギミックの一つ一つが後半に入り、大きな世界観に向けて展開していく過程も冒険映画的なワクワク感があって楽しい。
絵はどちらかといえばかなりシンプル、スッキリとした線に、水彩画風の背景。写実的な背景画ではない。だからこそ活劇に入ると、漫画的な勢いが活きてくる。
さっきは「戦時中の日本を上から被せることで……」と書いたけど、実際にはほとんど説明されていない。それぞれの登場人物がどんな役割を持っているか、あまり解説されていない。戦っている相手勢力が何で、何を理由で戦っているのか、そういう話すら出てこない。しかしシンプルに描かれた線画に向こうから迫り来る設定の暴力、設定の雨嵐で、その世界観の中に放り込まれたような感覚にさせてくれる。よくよく考えてみれば意味がわからない部分が一杯あるのだけど、それを考えさせない、世界観を構築する一片に過ぎないのだと感じさせてくれる(その一方で、あの世界の中に何があるのか、もっと紐解いてじっくり見たかった……と思う部分もある)
キャラクターや背景画(などのカット)だけを見るとあっさりしていて、(TVスケールっぽくて)ちょっと見るとそんなふうに凄い作品には感じないのだけど、実際映像に接した時は、「これは凄い」「才能の暴力だ(笑)」と思った。動画の厚み、設定の厚み、世界観の厚みが突き抜けている。徹底的に作り込んだものを、最終的なアウトプットの過程であっさり味に削ぎ落としてみせた映像だったんだな(そこには多分、制作スケジュール的な都合もあったように思えるが)。なんかもう……参りました。

後は……やっぱり『パトレイバー』かな。あれはパイロットフィルムだと思ってるから、早くテレビ、劇場シリーズにしてほしい。
アニメ1本作っておしまい……ではなく、あの頃と同じやり方で、漫画、小説、ゲーム、アニメとメディアミックス展開そのものをもう一度やってほしい。


有頂天家族2

有頂天家族2京都の風景と、タヌキのちょっと変わった日常風景が見事にマッチした作品。第2期『有頂天家族』は2代目たちの物語だ。
監督のお仕事は、作品の方向性を決めて、その方向性に合わせて人材を集め、配し、さらに人材を鍛えて調整、実制作に備える。もちろん、ここまで前段階での話で、試合開始はここから。しかしこの前段階さえうまくいっていれば、その後はよほど大きなトラブルが起きない限り、作品はきちんと成立する。
『有頂天家族』はこれが見事なくらいうまくはまっている。ストーリーも、キャラクターも、背景美術、演出、全てがいいところにピッタリ収まっている。ピッタリはまりすぎて、もう見ているだけで気持ちいい。この作品に関して、もはや褒めるところしかない。最も好きなテレビアニメの1つに挙げたい。
まず構図。構図の作りは必ず3点透視図で、空間がやや広がりぎみに描かれている。色のグラデーションは押さえられ、線が際立つように描かれている。この空間の切り取り方がなんとも居心地が良い。京都の雅な風景とうまくマッチしていていい(2代目と弁天の背景には西洋屋敷のイメージが使われいたが、この背景画、家具や調度品などの細かい設定が実にしっかりしていて、京都の和の風景と負けないくらいの存在感を持っていた)。その中で久米田康治キャラクターが実にいい感じに活きている。久米田康治の描くキャラクターは線が洗練されて、可愛らしく、それでいて格好いい。背景画の描き方と非常にいい重なり方をしていて、双方が活きる描かれ方をしている。必要最低限の線しか使われていないのだが、デッサン的な嘘が感じられず、時に肉感を感じさせる。特に素晴らしいのは弁天の描き方。シンプルな線でありながら、非常に肉感的、性的な印象を喚起させる。どうやったらあんな線の使い方ができるのか、描いているところを見たい。
弁天は演技も素晴らしい。楽天的で飄々としているが、時々見せる物憂げな表情。2代目と戦う時の荒々しい獣のような唸り方と、その後に見せた弱さ……。そのどれもがパーフェクト。能登麻美子の演技は、聞く度に惚れてしまう。素晴らしい役者だ。
ロケーションがしっかりしていて、空間の切り取り方もきちっとしている一方で、かなり非常識というか、不思議なことをやってくれる。例えば第3話、空に手を伸ばして、月をポンッと取ってしまう。今度はその月をひょいと投げて、戻してしまう。なんとも不思議なものを見たような気分になるし、ああいった描写のしかたが楽しい。地獄絵図に関するお話も、絵の中に放り込まれる……という不思議現象も妙に古典的な寓話に接しているような、お伽話的な楽しさがあっていい。その地獄風景の描き方も素晴らしい。とにかく背景画の素晴らしさ。「背景のPAWORKS」と呼ばれるだけのクオリティを存分に発揮している。
キャラクターは非常に多く、エピソードを飛び石しがちだけど、あまり混乱はしない。きちんと立っている。印象の付け方がうまくいっている。
ストーリーはどちらかといえばオムニバス的。キャラクター数が非常に多いわけだが、エピソードごとにキャラクターのドラマがきちんと立っている。第4話、第5話にかかる玉瀾の恋愛が私のお気に入り。なんとも歯がゆく、初々しい恋愛だろう。その間を取り持つ赤玉先生も素敵だ。
一つ一つのシーン、キャラクターの立たせ方が非常に素晴らしく、かつ全体の流れが失われていない。イメージの作り方が、テレビアニメーションというより、劇場アニメを見ているような気分にさせる。劇場アニメになっていたら、喜んで見に行くタイプの作品。
と、まあこんなふうに『有頂天家族』に関しては褒めるところしかない。シリーズ1作目に続いて、「名作の気風漂う作品」だ。なんとも独特、エキセントリックだったり、なのに落ち着きを感じたり、どっちに振ってもしっかりと品格を感じさせる映像作りをやっている。率直に大好きな作品。いくらでも褒めたくなる作品だ。

ただ苦言を1つ。どこで放送・配信されているかよくわからなかった。私の住んでいる地域では放送がなく、配信はどこも有料。
テレビ放送はこれから減って、ネット配信が多くなるんじゃないか……という話を聞くし、私自身、ネット配信が始まりかけた数年前、「そろそろテレビはいいんじゃないか」というブログ記事を書いており、いよいよその通りの時代が来るんだな……という気配はしている。
ただ、今は逆に配信拠点が乱立している状態で……。dアニメストア独占、Amazonビデオ独占、AbemaTV独占……。今時そういう文句は珍しくないけれども、その都度、それぞれのサービスに向かってお金を払わなくてはならなくなる。という以前に、「どこで配信しているの??」と混乱してしまう。
良い作品を作っても、ユーザーに作品を見付けてもらえない……が一番良くない状態なので、そこはよろしくです。


サクラクエスト

一方で、「無職のタヌキ」のお話を描くPAWORKSだが、その一方で、女の子の職業ものに挑戦する。どういった経緯でこの2つが同時期に放送・配信になったかはわからないが、作品の方向性といい、『有頂天家族』と面白い対象を作っている。

サクラクエスト『花咲くいろは』『SIROBAKO』と女の子の職業ものでヒットを得たPAWORKSが、その第3弾として町興しをテーマにアニメを描く。
しかし、『花咲くいろは』と『SIROBAKO』の2作品と比較して、ちょっととりとめがないというか……。『花咲くいろは』なら仲居として一人前になるまでのストーリー。『SIROBAKO』は作品を完成させるまでのストーリー。どちらのストーリーも目標地点が明白で、そこに至るまでのドラマがしっかりあった。
サクラクエストある意味で、「どこにでもある」「ありふれた」仕事をする女の一幕。それが『花咲くいろは』や『SIROBAKO』だった(『花咲くいろは』の始まりはありふれてなかったが……)
『サクラクエスト』も目標地点ははっきりしているものの、そこに至るまでのプロセスを作るのが難しい。何しろ、現実的な参照例が少ない。「町興し」は今日的なテーマだが、成功事例が極端に少なく、定番の成功物語を描けないので、物語がどこかファンタジーちっくにならざるを得ない感じがある。このファンタジー感が、作品に真実味を感じさせないというか……。
風景の描き方も、『花咲くいろは』なら喜翆荘のどっしりとした存在感(非常に美しかった)。『SIROBAKO』のちょっとしおれた感じの趣ある佇まい。……と比較すると、『サクラクエスト』は町1つを舞台にしているのにも関わらず前2作より妙に狭さを感じるというか……。奥行き感が弱い。大きな拠点であるチュパカブラ王国にしても、書き割り感がある。

と、『花咲くいろは』『SIROBAKO』の2作と比較すると、だいぶ見劣りするのだけど、それでもそこそこ以上のクオリティに仕上げてくるのがPAWORKS。物語の流れが小気味よく軽妙。ついつい最後まで引っ張られて見てしまう。PAWORKSならではの軽妙さがこの作品にもある。主人公5人組である女性キャラクターのデザインも非常によい。関口可奈味のデザインは可愛らしいし、ファッションも見ていて楽しい。このセンスの良さがまずいい入口を作ってくれる(キャラクター原案はBUNBUN)
サクラクエスト物語は、前半部分で、都会と田舎を妙に強調するところがある。木春由乃、緑川真希、香月早苗の3人はもともと東京にいたが……という背景を持っている。特に香月早苗はオーバーワークを強いられた挙げ句、結局「自分でなくてもよかったんだ」という現実に気付く……というストーリーを持っている。
都会ではその人間の能力や資質は無関係で、いかにクライアントが要求するものを仕上げるか……が全てなので、はっきりいえばその工程で手を出しているのは誰なのかは気にされない。コンビニに並ぶ商品なんかはみんなそうだ。誰が作ったか、なんてものは求められないし、そこに人間を感じたら欠陥品扱いされる。我々大多数の消費者も、商品に人間味など求めていない。「私が作りました」というアピールが通用するのは、本当の天才だけ(あるいはアイドル)
一方、田舎という町では、まず人間が先に来る。どんな人間がいて、その人間がどんな能力を持っていて、何を生み出せるのか。人間主義に戻れるのが田舎だ。そういうところで、「キャラクターを立たせる」というアニメの目的と、作品の目的が合致する。
ゲームで言うところの、大手メーカーとインディーズみたいな対比だ。そこにいる人間で何ができるのか……という視点に立ち戻って、その上で限界を目指していく。

木春由乃というキャラクターについて、随分な働き者なのに、なぜ面接で落ち続けたんだ……? という疑問をニコニコ動画あたりでよく聞くが、私の持論では、「相応しい場所をきちんと与えれば、誰でもしっかり働くものだ」(元ネタは『七人の侍』の「子供はよく働くぞ。子供扱いしなければな」という台詞)。これは若者だろうが、中年だろうが関係ない。ただ、今の問題は、まず「働く場所」を与えられてない(これが非常に大きい)。さらにその個人の能力を相応しい働き方をさせてない。体を軍服に合わせろ方式だ。
現代は若者をないがしろにしすぎだ。若者にきちんと働く場所を与えない。機会を与えない。そのクセに若者叩きはやる。問題は若者自身ではなく、その若者を弾こうとする社会のほうだ。

と、こんな感想で良かったのかな……。『サクラクエスト』についてはちょっと書きづらい。
『サクラクエスト』は2クール作品。これから作品の本題が見えてくるところだろう。後半に向けてどんなふうに展開していくか、町がどんなふうに変化していくか。そのプロセスを見ていく作品になると思うのだけど……。実はいまだにピンと来てない。


リトルウィッチアカデミア

リトルウィッチアカデミアこの作品に対する印象は前半とあまり変わりなく。後半戦もそれほど大きな物語の変化もなく、残念な感じが漂う。キャラクターや世界観はなかなかいいのだけど……。
主人公アッコは「シャリオに会いたい」という動機で魔法を学ぶわけだけど、シャイニーロッドが持っているストーリーとどうしても絡み合わない。「言の葉を集めるとシャリオに会えるかも……」という動機があるのだけど、それも合理的ではないし、会ってどうするのか? という目的も曖昧。それぞれが持っている要素がバラバラに展開してしまっているから、大きなドラマに繋がりにくい。
クライマックスでは、クロワが作った魔導ユニットが暴走、それを止めるためにアッコ達が戦う。このシーンにおける、ガイナックス伝統の打ち上げシーンは最高だった。が、その周辺でバタバタしてる大人達の描写が、なんとも余計に感じられる。このクライマックスで、“世界改変魔法”が発動されるのだけども、これで特に世界そのものがなにか変わるわけでもなく。そもそもクロワが作った魔導ユニットの尻ぬぐいでしかないので、クライマックスへ向けたシーンの作りとしては小さく収まりすぎている。究極魔法を使うタイミングとして、そこで良かったのか? という疑問が残る。
これはキャラクターが持っている“目的”と、物語全体が持っている“目的”をうまく一致させるところから始めるべきだっただろう。おそらくはキャラクターから物語を作る……というアプローチを行ったのだと思うけど、もうちょっとドラマへの擦り合わせをしてから、物語構築をしてほしかった。
時々、アニメの作りが紙芝居的になっているのも残念。

キャラクターや世界観は素晴らしいものだから、これで終わりにせず、まだまだ生き続けて欲しいコンテンツだ。これからゲーム版『リトルウィッチアカデミア』などがあり、次の展開に期待したい。


神撃のバハムート

神撃のバハムート前シリーズから相変わらず。重厚に作られた絵の世界。おそろしく難易度の高いアクションを易々と描いてみせるポテンシャルの高さ。ありとあらゆるアートがひしめき合う絵の世界は実にゴージャス。能力の高い絵描きが、それぞれで思うまま力を発揮した作品だ。
作画の精度は、間違いなく今期アニメシーンにおいて一番。もっとも存在感のあるビジュアルを提供したといっていいだろう。

ただ……お話が小さい。ほとんど1つの城下町のお話で終わってしまう。物語が持っている課題にもずっと変化がない。物語の展開もスローペースで、日常風景の物語がちょっと多すぎる。数話見ていても、物語が動いているような感じが、いまいち薄い。同じような展開が何度も繰り返されているように感じられてしまう。

パッと見で物語に弱さを感じてしまう作品の特徴は、“プロットに動きが感じられない”ことだ。キャラクターそれぞれが持っている立場や動機に変化がないように感じられること。キャラクターが持っている課題がどのように変化をしているか。物語舞台に変化がなくても、ここに動きがあれば物語は展開しているように見えるし、観る側も「次どうなる?」と追いかけたくなる。
『神撃のバハムート』はここが明らかに弱い。前半から中盤まで、物語全体に動きが感じられない。ずっと同じ立場で、ずっと同じ状況のものを何度も繰り返し描写してしまっている。ここに退屈さを感じてしまう。
物語がやっと動いた……と感じられるのは、第8話のシャリオス王暗殺のシーン。そこに至るまでの大部分は、あってもなくてもいいくらい。
もう1つ、どうにもバランスの悪さを感じるというか……。個々のデザインは本当に素晴らしいものなのだが、その間を繋げるイメージが妙にチープというか……。シリーズ冒頭の神様を襲撃するシーン、ビーム攻撃を「ピュン! ピュン!」と撃ち合うのだが、70年代SFみたいな描き方だ。魔法エフェクトに対するイメージが貧相。
魔方陣の出し方やエフェクトの類も、妙に書き割りっぽくて作品全体のゴージャスさに合っていない。変なところでイメージがありきたり。個々の要素は素晴らしいのだが、画面全体として見るとそれぞれの要素が活きていないというか、逆にチープに見えてしまう。個々の要素が相乗効果を発揮するのではなく、それぞれで勝手に主張しているような感じだ。イメージの全体を統括するマネジメントの視点が欠けているように感じられる。
巨人兵士もカットとして見れば存在感があるのだが、ほとんどのシーンでただ立っているだけで、全体の立ち回りが妙に表面的に感じてしまう。ファンタジー感を出すための小道具なのはわかるけど、バトルシーンでの役割をしっかり表現しないと……。アクションシーンにおけるキャラクターの作画は本当に素晴らしいが、「殺陣」として全体の大きな動きが表現できていないのは惜しい。

と、否定的に書いてきたように思えるけど、キャラクターデザインの素晴らしさ、世界観描写の素晴らしさ、アクション作画の素晴らしさ。制作スタッフの才能・能力の高さがわかるし、それらが存分に発揮された作品だといえる。見る意義は充分にある。
ただ……バランスの悪さが惜しいポイント。素晴らしい作画があっても、やっぱり物語に惹き付けるものはほしい。


笑ゥせぇるすまん NEW

笑ウせぇるすまんNEW冒頭のシーン。喪黒福造が大きな体を左右に揺らしながら、正面へゆっくり歩いてくる。そのシルエットには街の光景が映り込んでいる。
旧作と同じ表現(調べると1989~1990年だ)。喪黒福造の語りもなぞるように再現している。
旧作と同じ冒頭で懐かしさがあるが、改めて見ると上手い表現だな……と思わされる。喪黒福造という人物紹介になっているし、作品が描こうとしている街の暗さ、いびつさがこの人物の中に内包されている……まるで全てがこの悪魔の手の内にあるかのような……、そんな印象がある。作品の描き方はいかにも当時的な「漫画」なのだが、あの冒頭のシーンだけがそれを踏み越え、なんとなく他人事ではないような、身近なところでも起きそうな、そんな怖さを感じさせる。
表現がクリティカルだからこそ、今回のバージョンでもそのまま採用になったのだろう。

笑ウせぇるすまんNEW物語のパターンは毎回同じだ。
人生に行き詰まりを感じている人がいる。そこに喪黒福造がやってくる。不気味だが、「あなたの悩みを聞いてあげますよ」という親身さを装いつつ語りかけてきて、なんとなく話したいような気分になってしまう。一通り話を聞くと、未来からやってきた猫型ロボットのように現状から一瞬だけ逃避させてくれる秘密のアイテムや場所を提供する。
この時、喪黒福造はいつも警告する。「決してのめりこんではいけませんよ」と。しかし、ほとんどの人はあの時の快楽が忘れられず、理性のたかが外れ、度を超してどっぷりとはまり込み――その結果としてどん底へと転落する。

恐ろしく露悪的で俗悪的で醜悪な作品だ。
喪黒福造は親身さを装って相手のパーソナルエリアに踏み込み、悩みを聞き、そのうえであたかもその悩みを解決してくれそうな何かを提供してくれる。が、喪黒福造が差し出すものは決して解決してくれない。一時的な逃避を与えてくれるだけだ。しかも、喪黒福造はそれらをほんの一瞬ちらつかせるだけ。天国の入口をちらっと、むしろそそられるようなやり方で、目の前でひらつかせるだけ。
それが解決に繋がらないなんて、少し考えればすぐにわかる。しかし悩みを抱える人は現実から逃げたいのだ。夢を見たいのだ。
だから転落する。天国だと思った場所が醜悪な本性を現し、その人が掌に握りしめていたほんの僅かな希望や可能性を搾り取り、本当のどん底へと叩き落とす。
喪黒福造は崖っぷちに立って迷っている人を、最後の一押し、背中をぽんっと押しているのだ。

喪黒福造が見せる「天国」の描き方は非常に古典的だ。『今昔物語』の賀陽良藤の物語にあるような描かれ方と同じで、そこにあたかもこの世から切り離されたような幸福や美があり、そこに入れば全てが得られ、満たされるような、そんな錯覚をさせる。
しかしそれはまやかしに過ぎない。『今昔物語』では俗人が杖で叩くことによって夢から醒めて、賀陽良藤は自分が倉の下の穴蔵で幻を見ていたことに気付く。
『笑ゥせぇるすまん』における「天国」は、そういう古典作品に現れる『異界』と同じだ。喪黒福造はその入口だけ見せて、いかにもカーテンの向こうに煌びやかな世界があるように見せかけて、「いけませんよ」という警告を与える。
異界の住人になれる……そんな期待や高揚感がそこにあり、現実ではもう手に入らなかった幸福が手に入る……。と、いう夢を見て、それが夢でしかないことに気付かされ、どん底に落ちる。
現実ではもう手に入らなくなった幸福……。そう、手に入らなくなったと知ってしまったから、大人は夢を見るのだ。大人が見る夢は、子供が見る夢と違うのだ。喪黒福造はそういう絶望感の只中にいる大人のところにわざわざ現れ、その背中を押すのだ。
『笑ゥせぇるすまん』そういう古典的なパターンを、現代を舞台に、現代人に合う形で再現された作品だ。そういう異界の導き手となる喪黒福造は、おそらくこの世のものではない。きっと悪魔なのだろう。

ただ1つ引っ掛かるのは、作風が当時のまま。新規エピソードはもちろんあったものの、今の時代にうまくマッチさせられていない。妙に過去を引き摺ったような中途半端さが漂う。
今の時代……私たちの時代の物語、という感覚が薄い。スマートフォンが出てきたり、そういうところではアップデートはされているのだけど、小道具が新しいだけで、そこで描かれている光景が古い。例えば『おそ松さん』のような、時代を見据えた「作風の洗練」といった作業が抜けてしまっている。映像の世界がまだ1990年なのだ。
ゆえに、ちょっと遠い話を見ているような、そんな感じがする。2010年代の今の物語ではない。そこが惜しい。

この作品をつぶさに見ているうちに――人生の深刻な岐路に立たされた人が喪黒福造の一押しで転落する様を見ていくうちに、奇妙なことに愉快な気分になってしまう。この作品を見た後、「今夜のワインはとてもうまそうだ」……という気分になってしまう。
恐ろしくあけすけで俗悪な作品だが、ゆえに観る側の俗悪な快楽を刺激させる。観る側の俗悪な性質を呼び覚ましてしまう。そして、そこまでの転落を経験していない私たちは安心する……安心している自分に気付かされる。そういう時、私たちは喪黒福造に囁きかけられているのだ……「あなたも一緒ですよ」と。喪黒福造のあの不気味な微笑は、物語中のキャラクターではなく、モニターを通してこちらに向けられているのだ。


Re:CRESTORS レクリエイターズ

レクリエイターズフィクションの世界のキャラクターが現実世界にやってきて、戦いを始める……というユニークな設定、ユニークなストーリーの作品。昨今、現実世界の若者が異世界へ飛ばされる「異世界探方もの」が大流行している中で、まったくの逆アプローチで存在感を放った作品(これだけ「異世界もの」が流行している中で、誰もこの種のアイデアを出さなかったことが驚きでもあるのだが)
まったく違う世界観を背景に持ったキャラクターが、同じ世界観の中に集結し、バトルロワイヤルを展開する。ちょっと格闘ゲームを連想するというか……。私が最初に思い出したのは『ワールドヒーローズ』。もちろん『ワールドヒーローズ』はぜんぜん違うコンセプトの作品だが、ちょっと連想してしまった。どちらかといえば、マーヴェルヒーローが集結する『アヴェンジャーズ』だろうか。

近年、フィクションと現実のバランスは、かなり危うくなっているように感じる。今の若い人は、生まれた時からフィクションの世界にどっぷりと浸かっている。フィクションでの約束事を、現実世界へと持ち込もうとする若者も多い(中二病と呼ばれる)
フィクションが飽和状態で、すでにそれぞれのジャンルが一旦行き止まりまで進んでしまっている。観る側がその種の物語の「約束事」を完全に完璧に把握、了解するところまで進んでしまっている。ほとんどの人が、前半の展開で後半のストーリーを裏読みできるくらいになっているし、その向こうに意外性を求めていない。伝統芸能の世界……歌舞伎の世界で「よっ! 待ってました!」と待ち構えているような状態だ(アニメはとっくに“伝統芸能化“している……作家がどんなにそれを否定しようとも)

そうした現状の一端が、最近のライトノベルの世界で大きなテーマになっている“パロディ”。すでに提示されているストーリー、世界観の形式を、いかにパロディとして再生産するか。「全ての物語がパロディ化する」問題を創作の世界が抱えつつある(その問題を、もしかすると作り手側が認識していないかもしれないという問題もある)
いかにこれまでの文脈をパロディとして語るか……がライトノベル作家の課題になってしまっていて、作品として残る、ということよりも瞬間最大風速的な、瞬発的にネットでバズるか、トレンドワードに残った作品が一番偉い! という(ホリエモン的な)発想になってしまっている。ネット時代の考え方……なのだろう。

そうした最中に作られたのが『レクリエイターズ』だ。
登場人物全員が物語世界のお約束を了解した上で、その先にある意外性を狙っている。
『レクリエイターズ』の狙いは、それぞれで描かれているフィクションの質感を、現実という世界観の中で、1つの軸として並べること。その世界には“ご都合主義空間”なんてものはない。能力を使えば物が壊れるし、攻撃すれば人は怪我する。警察は出てくるし、事態が大きくなれば自衛隊も登場する。フィクションの登場人物は、フィクション世界にある“お約束”に守られることはない、現実世界に“当たり前”に晒される物語だ。
とりわけ、極端な影響を被ったのは魔法少女の煌樹まみかだ(ん? ……ああ! 煌あかねと被ってる!!)。何事も平和な世界というオブラートに包まれる世界観から、それぞれの影響が連続的に反響し合う現実世界の反応に、煌樹まみかは混乱してしまう。この描き方が作品の性質を現しているし、ユニークで面白い。
フィクションと現実のコントラスト。このコンセプトを強調するように、『レクリエイターズ』は現実世界をそのまま写真に撮り、引き写したかのようなカットが非常に多い。「ここはフィクションではない。私たちの世界なんだ」という事態が、これみよがしなディテールで強調されている。そうした描き方が面白いし、あおきえい監督の作風ともマッチしている。

現実の人物と、フィクションのキャラクターとの関わり方も面白い。キャラクターが具現化するのは、作家が創作した時点ではなく、より多くの人に観察され、承認され――“愛される”というプロセスを通らなければならない、という仕組みになっている。
この発想が面白いもので、キャラクターが多くの人に観察され、多くの人の体内でストーリーやイメージが形成されていき(間違いなくその中には2次創作も通っていくのだろう)、そうすることでキャラクターは多面的な側面(ディテール)が与えられ、そのもっともベーシック的な存在のものとして、キャラクターが現実世界に出現する。
“キャラクター”は創作されただけでは、存在感を持たない。発表し、人目にさらされ、見た人の中でストーリーが形成され、共有され、その上でキャラクターはより強いイメージを持つようになる。
初音ミクがまさにそれ。初音ミクは絵師の数だけ存在する……といってもいいだろう。もちろんKEIが描いたオリジナルは存在するし、それがベースモデルになっているが、これだけ自由に奔放に大量生産されつつ、それでいてあたかも“集合無意識”のように初音ミクという絶対的なイメージを共有することができるキャラクターはなかなかいない。
(それで、ちょっと思うのだけど、メテオラの「大食いキャラ設定」は「本家設定」ではなく、「2次創作設定」だったりするんじゃないだろうか……と想像している)
キャラクターは模倣され、大量生産されることで、イメージがブレるのではなく、むしろイメージとして強力になっていくのだ。大量生産されたキャラクターほど、強くなるのだ。
二次創作が創作の中心核となっているアルタイルは、まさしく最強。無限に特性が付与される厄介な存在だ。もしかしたら初音ミクが発想のベースなのかも知れないが、それを物語の中に取り入れる発想は素晴らしい。

ここで私の作品からの引用
ProjectMOE 第6話
なんの関係があるんだよ! と怒らずに、箸休めとしてお話を1つ。
これまでのジャンルが全てパロディ化しているからこそ、こういう発想も出てくる。これまで語られてきた“ありきたりな”物語をどのような文脈・リアリティに置いて語り直すか。ジャンルパロディは『ProjectMOE』という作品が持つテーマの1つだった。こういう書き方も、同時代人ならではの発想だ。
私の考えでは……“全ての物語がパロディ化する”その傍らで、かつての文脈と今の文脈を比較した『レクリエイターズ』的な作品がぽつぽつと生まれ、その後に新たな時代観を包括した“王道”が戻ってくるんじゃないか……と見ている。
ある種の“王道のリブート”のようなもの。
って、「私の考えでは」なんてえらそーに語ったけど、すでに『君の名は。』のように王道のリブートは始まっているので、「今さらなーに言ってんだこのアホは! みんな気付とるわ!」という感じです。

またまた作品から離れる話題だけど、1つだけ。
第11話『軒下のモンスター』。
このエピソードで、シマザキセツナがネット掲示板やまとめサイトに「パクリ・トレース疑惑」をかけられるお話が出てくる。
これは、ネット時代の今、よくあること。この「パクリ・トレース疑惑」をかけられ炎上した作家が、精神的に追い詰められて引退していった場面を何度か目撃したことがある。
この件について、私はある種の確信を持って話をするのだけど……………この手の掲示板で「検証」と称して焚きつけている人々は、その問題となっている作品が実はパクリでもトレースでもない、という事実を知っているんじゃないか、と。
この世界には数百万という数の絵があり、同じだけの数の構図や様式というものが存在する。物語についても同じだ。Photoshopを使い、何かしらの絵や写真のバランスを変えて重ねたら、そりゃ、だいたいのものは合うに決まっている。私の描いた絵だって、過去に誰かが描いた絵に類似しているところはあるだろう。過去のあらゆる作品と、一切の類似のない創作があるなら、むしろ教えてもらいたい(というか、“定番の構図・ポーズ”みたいなのは結構描いているから、似たやつは確実にあるはずだ)
ネットで拾ってきた、作成者が誰なのかも知らない絵を持ち出してきて「この絵をパクっただろ!」とか言われても、作家側としては「知らんがな」という話だ(「知らなかったことを証明しろ」と言われると困る。それは「悪魔の証明」だ。そこまで言うなら、まず「その作家が知っていたかどうかを証明しろ」)。作家とはいえ、世にある全ての作品を知っているわけではないし、自分の作品が何に似ているかなんて知っているわけではない。知っていたら、むしろ変えようと思うはずだ(その逆で、パロディやオマージュなどであえて似せて作る場合もある)
ソビエトの昔話研究家ウラジーミル・プロップは、ロシアの昔話は31種類の要素の組み合わせから作られている、ということを明らかにした。物語の形式、パターンなんてものは、突き詰めればそれくらいしかないんだ。
絵画でも、パターンを突き詰めればおそらくそれくらいの数しか出てこないかも知れない。
Photoshopを持っていて、ある程度の編集技術を持っているくらいなら、それくらいの創作の仕組みや構造は知っていて当然(知らなかったらただのアホ)。それで……もしかしたらああいった掲示板で同調している人の半分くらいは、腹の底で、そういう話を知っていてやっているんじゃないかな、と思う。まとめサイトを作っている人も同じだ。あとの半分は、ただただ純朴で、書いてあることを事実だと思い込んでのせられてしまった、可哀想な人達なのだろう。
掲示板で火を焚きつけている人達の「本音」は、恐らくもう少し違うところにあるのだと見ている。
とりあえず、人をひとり失業させといて「俺達の勝利」とかアホなことは言わないように。絵描きとして仕事ができるようになるまで10年はかかるもの。それだけの人生を駄目にしてしまったのだから、やってしまった経験のある人は、今後はブラック企業の批判とかは一切してはならい。
……と、この話を始めてしまうと長くなってしまうし、作品から離れてしまうので、ここまでにしよう。

話を戻しまして。
『レクリエイターズ』は脚本の作りがかなり秀逸だ。
第3話では弥勒寺優夜が登場する。“敵キャラのボスでありながら、主人公よりも人気が出てしまった”というキャラクターだ。確かに、そういうキャラクター、時々いる。……が、それを狙った通り表現するのは非常に難しい。
しかしファミレスのシーンで、“ああ、確かにこいつは主人公より人気が出ちゃいそうなキャラだ”と納得させるようなキャラ描写、台詞回し。それだけの印象を持たせるのは実際かなり難しいが、ほんの短い時間の中で表現してしまった。これは見事だ。
(敵キャラだけど、主人公より人気が出るキャラを作ってください……と言われたらこの難しさはわかるだろうと思う)
こういったところも、“お約束”をあえて踏襲させている。“お約束”を意識的に凝縮させ、パロディ化させた上で、現代人が感じられるリアリティに合わせている。こここそ、おそらくは『レクリエイターズ』の狙いとしているところだろう。
レクリエイターズトリックスターである築城院真がねの描き方もユニークだ。相当脚本に切れ味がないと活きないキャラクターだけど、きちんと表現できている。嘘、嘘、嘘を言って、その結果相手に「嘘だ!」と叫ばせる。ものすごく面倒くさいキャラクターだが、物語に混乱をもたらすジョーカーとして素晴らしい存在感を持っている(私はこういうキャラクター、おっかないから書きたくない)

ただ気になっている点が2つ。
1つ目は、フィクションの登場人物と、現実の登場人物の差異だ。
フィクションの登場人物が美しいのは当たり前だ。そのように描かれているからだ。描き手の美意識が投影されているのだから、美しいのは当たり前だし、美しくなかったら描き手の美意識を疑う。
気になっているのが現実世界の登場人物だ。フィクションの登場人物に較べて、足は短いし、松原崇は生え際が怪しいし、女性イラストレーターのまりねも少し肥え気味だ。それくらいの差異は表現されているけども……もうちょっと差ははっきり見えていてもいいんじゃないか、という気はする。
とはいえ、このバランスは難しいところだ。あまりにも絵やスタイルが乖離していると、1つの作品として成立しなくなってしまう。現実世界のキャラクターをあまりにも現実に寄せてしまうと、それはそれで見苦しいというか……。むしろ観る側の動揺を誘ってしまう。
おそらくこの辺りが落としどころだろう……という判断だったと思うけど、もう1つ、両者の差異を決定的にする何かが欲しいところ。
もう1つは会話の内容と映像の内容が一致しないシーンがしばしばあること。台詞がずーっと続く単調さを回避するため……という演出意図はもちろん理解できるのだけど、映像で描かれているもの、キャラクターのアクションと台詞が一致していないから、頭に入りづらい。台詞内容は相当複雑、集中して聞きたいところだけど、絵を見ているうちに「あれ? なんだっけ?」みたいになってしまう。
3つ目(2つでは?)。予告なく放送時間が変更になることがかなり多かったこと。これで何本見逃したやら。


正解するカド

まず、映像面について。
『正解するカド』はCGアニメだが、制作ソフトにゲームエンジンである『Unity』が使われている。詳しくは4Gamerに記事が載っているので、そちらを参考にして欲しい。


Unityの技術的なものにも興味があるひとは、こちらもオススメ。

正解するカドそれで、映像についてだけど、CGで作られたキャラクターと、手書きのキャラクターが混在する状態になっている。おそらくはコスト計算……CGキャラクターをモデリングする時間と、それぞれのキャラクターが登場する回数などが計算に入れられ、判断されているのだと思う。
Unityが作り出すキャラクターは非常に高品質だと思うし、上の記事によれば待ち時間なしで、リアルタイムレンダリングであのクオリティの映像を出せるそうだ(←これは非常に大きい)。後半、CGキャラクターの表情が柔らかく感じたが、ああいったふうに表現できるのは、なかなかすごい。
しかし、Unityでも不得手なものはあるらしく、“泣く”などの大きな表情の変化、あるいは漫画的な大きな動きをする場面、またあるいは指先が細かく動くクローズアップシーンなどは手書きになっている(後半の後半に入り、つかいやヤハクィザシュニナの表情の動きが非常に良かった。これはツールの使いこなし……とかなのだろうか?)
不得手な部分は手書きで補う……という方針で描かれているために、手書きとCGが混在することとなっているが、ちょっとバランスが悪く感じられる。
とはいっても、『正解するカド』は東映としても初めてのシリーズでのCGアニメーション。この作品を実験台にして、後の作品の方針が決まるんじゃないかな……という気はする。次の作品では、本当に全編、全キャラクター、背景を含めてCGで制作される……という可能性はありそうだ。

さてストーリーについて。
第1話冒頭。空港に突如現れた謎の物体によって、航空機が飲み込まれてしまう。その状況に群がる人々、マスコミ、ただちに政治問題になり、閣僚が集まってくる……。
この最初の展開でワクワクしてしまった。
異世界から誰か、何かがやってくる……という展開はアニメではもうやり尽くされたくらいにありがちなものだ。ただ『正解するカド』は視点を少し変えている。小さな町の小さな日常で完結する物語ではなく、世論、政治を巻き込んだ大きな世界観が振り回される構造になっている。これはただ「視点」の有り様を変えただけだが、それだけでも何とも言えない新鮮だし、刺激的なストーリー体験を与えてくれる。
「なんで誰もやらなかったんだろう」とそれから「やっとこういうテーマでやってくれるアニメ作家が現れた!」という感動がある。
そして異界の住人が現れ、文明社会とコンタクトを取る。ヤハクィザシュニナ(←何度聞いても憶えられない)が提示したのは、無限のエネルギーを提供する“ワム”だ。
近年、原発事故もあり大問題になっているエネルギー問題がテーマに取り上げられている。そのテーマ選択自体がもう素晴らしいのだが、それによる世界の混乱、反発の描写の一つ一つが「ああ、ありそう」という感じでいい。
この混乱に対して、“ワム”が実は折り紙で作れる……という提示の仕方がユニークで面白い。
物語第2幕は「寝る必要がなくなる」こと。人類はちょっとだけ超人になる。“ワム”という無限のエネルギーに対して、それを活用するだけ、消費するだけの活力が与えられる。

かなりユニークな描き方が試みられている作品だが、それでもキャラクターの描き方はアニメファンにとってキャッチャーな描き方をしている。
異邦人であるヤハクィザシュニナやそれと交流を持つ真道幸路朗、ぶっつり学者の品輪彼方……とアニメファンにとってわかりやすい、アニメファンが惹き付けられやすいキャラクターデザインが採用されている。つかい沙羅花も、アニメキャラとして非常に魅力的(このキャラはアニメだから許されるのであって、実写でやったらただのうるせー女なので注意だ)
それを取り巻く大人達、総理や閣僚が理性的な人間として、肯定的に描かれるのもいい。アニメ・漫画の制作者はどうやら本質的に“政治不安・不信”を抱えているらしく、これまでの大体のアニメでは政治家はこれみよがしなバカで無能で役立たず集団として描かれてきた。そういうところでも、アニメの視点が「成熟しきれない」弱さがあった。
『正解するカド』ではかなりきちんと政治家を描いている。そこが非常に良い。

これまでアニメが描かなかった、描こうとしなかった作品に挑戦した『正解するカド』。これまで作られたほとんどのアニメは、テーマや視点が「思春期の物語」で完結してしまっている。その次元を良い具合に揺さぶった作品になっただろう。ヤハクィザシュニナがもたらした変化は、もしかするとアニメそのものにも影響を与えてくれるかも知れない。


進撃の巨人 season2

進撃の巨人前シリーズから4年……待望の『進撃の巨人』が再びテレビアニメに戻ってきた!

……が、なんかあまり流行っている感じがしない。妙に周囲の空気が落ち着きすぎているというか……。ネットでもあまり『進撃の巨人』に関する声は聞こえてこない。
これは……なんなんだろう? ちょっとよくわからない。『進撃の巨人』人気も、一周して落ち着いてきた、ということだろうか(それにしても落ち着きすぎ、という気がするが)

えーっと……私が『進撃の巨人』2期の情報を初めて見た時、確かに「2クールで展開する」と書いていたのを見たような気がするのだが……。どうも勘違いだったらしく。
やはり『進撃の巨人』は2クールでどっしりとしたストーリーと接したかったな……という気はする。

ストーリーナンバーは前シリーズからの続きから。第26話からお話が始まる。その最初のエピソードから、リヴァイに次ぐ実力者だったはずのニケの死亡シーンが描かれる。この凄まじい描写で、一気に『進撃の巨人』の世界に引き込まれた。「そうだ、『進撃の巨人』はこういう世界だった」とハッとさせられる。
普通のアニメとは違うんだ。どこまでも異常な緊張感で漲ったストーリー。それが『進撃の巨人』だ。
しかし、物語後半戦に入って、ちょっと展開が落ち着きすぎているというか……。前半にあった緊張感が弱くなり、アクションのキレもいまいち弱く、妙にスローテンポに感じる。クライマックスシーンは原作を読んでいてかなり期待していたシーンだったのに、「おや?」と思ってしまった。

第35話でユミルの過去が回想として描かれたが、それを描くのはちょっと早すぎるんじゃないか? という気が。もうちょっと、観る側が作品の背景に持っている“正体”を知ってからじゃないと、了解しづらいんじゃないか……?
エンディングのイメージも、ちょっと出すのが早かったんじゃないか? テレビのみの視聴者も結構いるようだし、ニコニコ生放送では「謎エンディング」というコメントをちらちらと見かけた。あのイメージを出すのは、もうちょっと後で、本編を見ながら、「あっ、あのイメージってこういうことだったんだ」という気付きが来るように仕向けた方がよかったんじゃないだろうか。

先の話をちょっとネタバレすると、この先、『進撃の巨人』の物語はちょっと難しくなる。これまでは、ある意味で「体験型」のストーリーだった。
「巨人」という絶望的な存在がいて、その恐怖に対していかに対峙し、戦っていくか。観る側はただただ画面の向こうから迫ってくる状況を、アトラクション的に体験していれば良かった。
が、この先、物語の性質はちょっと変わる。「ただただ体験さえしていればいい」ストーリーから、いよいよその世界の裏側になにがあるのか? を紐解いていくストーリーに入っていく。
これがなかなか読み手に能力を要求するらしく、この辺りで挫折する人がどうやら結構いるそうだ。確かに様々な勢力が複雑に絡み合っていくし、ちょっと立ち止まって(因果関係や時間軸を)考えないと「?」なシーンも出てくる。
しかし、これだけの複雑な物語を思い切って展開し、しっかり畳み、見事なカタルシス、ストーリー的な絶頂を体験させてくれる。諫山創のストーリーテラーとしての資質を存分に感じられるフェイズになっている。
なぜこんなネタバレをしたかというと、『進撃の巨人』のアニメシリーズは、これまで1幕1クールというバランスで描かれてきた。ただ、3クール目となる今回は、アニメシリーズとして描くと、ちょっとエピソードが短い。その一方で、次の1幕は非常にボリュームが大きい。
おそらく3クール目は原作12巻ラストまで描かれるだろう……というアタリは付けていて、実際そうなったが、ここはやはり2クール構成にして、3クール目のストーリーをちょっと詰めて、4クール目のストーリーに割いた方がよかったんじゃないか……という気がする(その4クール目が来年に飛んでいってしまったのだが……いや、もしかして4幕目は2クールで描く計画なのかも知れない)

3幕目となる今回の『進撃の巨人』は意外性に富んでいた。実はユミルが巨人だった、という展開から、息をつく間もなくライナー、ベルトルトも巨人だったと明かされる。見所はやはり声優達の演技。普通ではない、異常な空間、まさしく「戦場」と形容される現場の空気をひりひりと感じさせる。それぞれが追い詰められ、限界まで絞り出す緊張感が表現されている。“聴き所”の多い作品だった。

前半はアクションのキレがあったけど、後半に入り作劇がグズグズになっていったというか、変な引き延ばしでテンポが崩壊。原作を読んで期待していた乗馬シーンがほとんどロングサイズのCG、あるいは止め絵になってしまった。この辺りは非常に残念。


インサイド・ヘッド

6月16日にテレビ放送があったので視聴。最近はテレビ欄すら見なくなっていたから、放送に気付けてよかった(放送に気付かず、後で「あっ、やってたのか!」というのがよくあるから)

作品の感想を一言で言うと……。
参りました。
この作品は凄い。そっか、その手があったのか、と素直に感心したくなる発想、それを鮮やかにまとめる構成の力。映像の作りも攻めている。見ている最中も、見終えた後も「うーん……」と唸ってしまった。なんか悔しいから拍手も贈りたくないや。

物語は、ライリーという少女が一家で引っ越し、その引っ越し先の環境に馴染めず、家族関係が崩壊、家出を思い付く……。
と、ここまでは「よくある話」。はっきり言えばありきたり。地味で平凡なストーリー。
しかしこの作品の中心舞台は、その少女の頭の中。一見地味で、どこにでもある物語の内奥でどんなドラマが、冒険が展開しているか、それを中心に描いている。
この頭の中の映像がなかなか攻めている。5つの感情と、その司令部を中心にした「島」が浮かんでいる。心理学でいうところの、人間の「意識」の世界、「前意識」、あるいはその少女が持っている世界観の全容を、非常にシンプルでわかりやすい形で映像にしている。
ライリーの頭の中では「喜び=ヨロコビ」が中心となって指揮をしているが、それに対比するように「悲しみ=カナシミ」の感情がいる。
ちょっと面白いポイントで、母親の頭の中がちらっと出てくるところがあるが、こちらでは「カナシミ」が中心となって、指揮を執っている。5つの感情が理性的に対話して、判断を下している。このお母さんに何があったかは語られないが、カナシミを感情の中心に置いているところに、ちょっと想像させるところがある。
その一方で、父親の頭の中は怒りが中心。しかもそれぞれで勝手にやっている感じで、統率が取れていない。“いかにも男性的”という頭の世界をうまく具現化していて笑えるポイントだ。
ライリーの生活環境が変わったのを切っ掛けに、ヨロコビ、カナシミの間でトラブルが起きて、2人は記憶の保管庫へ……潜在意識の世界へと放り出されてしまう……。
表面世界では実に地味な地味な物語が展開しているわけだが、頭の中では大冒険の始まる。新しい環境に放り込まれた少女が、頭の中でどんな混乱と葛藤を持っているか、そういう心理過程そのものを、冒険の物語にしてしまった。
その記憶の内奥で、「空想の動物」であるビンボンと出会う。忘れられかけていた「空想の友達」。記憶の奥だからこそ出会えた存在だ。
このビンボンが何を現しているかというと、ライリーの“幼児期の世界”。幼児期にシンボル的な存在だ。ビンボンと別れることで、ライリーは幼児期の世界観との決別する。ライリーが持っていた“世界”は一度完全に崩壊するわけだが、思春期を前にした少女の、幼児期との決別と、新しい世界観――少女期に相応しい人間観の再構築が、“冒険の成果として得られるもの”として描かれている。

こういった物語は、だいたい観念的なものになりやすい。観客に物語を投げて、その内面にあるものは「読み解いてくださいね」と。そういうものだ。
『インサイド・ヘッド』はむしろその内面の世界観を物語化。観念的なものの映像化。さらにどの国の誰が見てもわかりやすくて楽しい冒険活劇に仕上げてみせてしまった。通俗的な物語だけど、安っぽくはなっていない。内面世界の物語が、ただ心理過程を解説しただけの物語ではなく、もう1本のストーリーとしてきちんと自立している。
物語はライリーの内面世界の崩壊と再構築。それは、思春期を前にした人なら誰もが経験する内面世界の崩壊と再構築の物語だ。それを、「引っ越しと、環境の変化」という状況的、見た目的にもわかりやすい物語展開を用意して、その上でその内面世界で起きている物語を描いてみせる。全ての物語を“視覚化”してみせたのだ。この視覚化の手法、発想が実に鮮やか、実に巧み! それに構築方法が理知的。よほど頭が良くないと、こんなふうに物語は作れない。
現実のライリーに起きている物語が地味、平凡に見えるかも知れないが、斬新な語り口を持って来た場合、ベースとなっている物語はむしろ地味で平凡のほうが良い。
一見するとこの物語に先進性を発見できないかも知れないが、その安定性こそがこの作品の凄さ。ふとすると、突飛なことはなにもしていないような感覚になる。そういう安心感を提供できるのは語り口が落ち着いているからであり、この世界観があっという間に観る側にとって「当たり前だ」と納得させる力を持っているからだ。

もしかすると、見た目の可愛らしさに、「子供向けでしょ」と思われるかも知れないが、それは作品に柔らかさがあるから。どの国の文化に対しても、受け入れてもらえるようにするために練り込まれた工夫の産物。見た目のなんとなくの雰囲気に騙されず、しかしカジュアルな姿勢で見て欲しい作品だ。

ところで、5つの感情……ヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、カナシミの5人。
……ムカムカってなんだろう? イカリと一纏めにしてもいいんじゃないか? どうも欧米では、「怒り」と「苛立ち」は別の感情と捉えているらしい。日本人から見ると、不思議に感じられるが。これも文化の違いかな。

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