こんにちわ。
 この記事は、2017年7月から9月頃までの期間に放送され、あるいは配信されていたアニメの感想を一言ずつ書いたものです。全てのアニメではなく、私が気まぐれに見ていた作品のみです。かなりゆるーい内容なので、ぱっと流す程度に読むといいでしょう。
 今回このブログに取り上げる作品は、

サクラクエスト
NEWGAME2
魔方陣グルグル
レクリエイターズ
アホガール
てーきゅう 9期
終物語
THE REFLECTION ザ・リフレクション
RWBY
メイドインアビス

以上の10本です。

サクラクエスト

サクラクエスト 前半戦はキャラクターの紹介が中心で、この先どうなるのだろう……? と心配だった『サクラクエスト』。後半戦は数十年前に中断された地元のお祭りを復活させよう……という大きな課題が与えられる。
 なるほど、これで大きなお題目を獲得して物語の流れがよくなったし、前半よりもより“地域の物語”に深く接近するようになった。地域再生物語の本題に入っていったような感覚がある。前半戦はかなり大雑把に、かつ薄く“地方”という世界観に触れるだけだったのに対し、より深く、詳細に掘り下げられていく。
 50年前……件のお祭り【みずち祭り】が終了したいきさつの物語。山間の深いところに住む少数の人達が抱える問題。地方に残される老人達の問題。廃校となる中学校の校舎を、その後どうするかの問題。……そうした「問題」に触れ、それぞれにきちんと答えを導き出しているのが良い。

 相変わらず台詞の流れがいい。テンポがいいし、楽しい。ちょっとしたひと捻り、ひとネタが入って面白い。リアルな背景を描きながら、キャラクターはかなりユニークだし、そのキャラクターの設置の仕方がいい。なかなかい腕のいい脚本家が書いているのだろう。
 キャラクターの中でも目立った存在感を持つのがドク。物語はそれなりに無茶な展開が多いのだが、ドクの作る秘密道具が接ぎ穂になっている。ドラえもんか何かというレベルのご都合主義的なキャラクターだが、そういったキャラクターがこの中にいて、存在感を持てるから、ストーリーが嘘っぽくならなくなっている。
 引っ掛かるのは地域の物語、そのディテール面。随分うっすらとしている。過去の時代を描いたシーンはちょいちょい出てくるのだが、ディテールは緩め。伝承の時代の物語になると、かなり雑な描き方になる(『龍の唄』が現代的……という指摘もあるが、これは「ずっと歌い継いで来たもの」ではなく、断絶があり、現代人が人づてにメロディを聴いて歌ったから……という説明もできなくはないと思う。「作曲サンダルさん」みたいなところがある)。民俗学的な考証があまり深く掘り下げられなかったのだな……と残念に感じる。ここに厚みを持てば、確実に良くなるポイントだったが、そっちの方面に長けた人がスタッフにいなかったのが残念。
 もう1つ気になったのは、後半に入り、絵の崩れがだいぶ見られるようになった。クオリティの高いアニメーションで惹き付けてきたPAWORKSらしくないし、前期に放送された『有頂天家族2』の素晴らしい完成度とつい較べてしまう。
 最終話は、ロングサイズのキャラクターがかなり雑な描かれ方をされていた。最終話は再生されたみずち祭りが取り上げられ、1カット中に描かれるキャラクター数が尋常ではなく、クオリティのコントロールが難しいのは見ていてわかるが、最終話にふさわしいクオリティが欲しかった(お話は面白かったが)

 最終話はチュパカブラ王国の解散。チュパカブラ王国はどう考えてもダメ企画。間野山が抱えていた負債だったから、これが解散する……というのは正解。チュパカブラ王国という前世代の、単にブームに乗っただけに過ぎないまがいもの地域復興策が否定され、その地域が本来持っている伝承、祭儀の復活に焦点が合わせられるようになり、この作品にとって相応しい形の結末になった。また“地域再生物語”としても相応しい終わり方で非常によかった。
 国王こと木   春由乃は間野山を去った後、別の地域へ。雇われ国王? 地域復興のプロ……コンサルタント? みたいな仕事を続けるようになった。こういったユニークな題材の物語として、その後の物語として納得のいく着地点。本編終了後にダミー予告編が入るのもいい。続きはもちろんないのだけど、あのキャラクターの物語が続いていく……ということを予感させてくれる。




NEWGAME2

NEWGAME 前シリーズが新人社員である涼風青葉を中心にした成長物語だったのに対して、『NEWGAME』第2シーズンは群像ドラマに変わっている。第1話から色んな登場人物へと視点が移り、「おや? こんなキャラのモノローグって1期の頃にあったかな?」と思ってしまった。様々なキャラクターがしっかり掘り下げられ、物語のテンポもよく、ドラマに厚みが出ている。
 第1話では社員への面接シーンがあり(任天堂の岩田社長がよくやっていたやつ)、個々のキャラクターを立たせる、というコンセプトをより明解にしている。前シリーズより確実にグレートアップしている。

 第1話ではどうしてイーグルジャンプは女の子だけなのか? というメタ的な突っ込みが入る。美少女、美女しかいないのは、その世界が現実から峻別された理想世界、秘密の花園であるからだ。すべての日常系美少女作品は、世界から峻別され、閉鎖している。その文法の中にいるから、女の子しかいなのだ。
 ……が、イーグルジャンプのような女の子だらけのゲーム制作現場はまったくあり得ないわけではない。
 某アニメ会社……名前を出すとまずいのかな? 話を聞くと「それ知ってる!」と思い当たる人も結構いると思うが、某アニメ会社の社長は、ホモ――というがある。それで、社員はみんな若い男性。女性は少数いたが、みんなおばちゃん。社長の趣味と実益を兼ねていたわけだ。
 社員だったHさんにお話を聞かせてもらったが、当時は「すっげーいい人だと思っていた。でも後でホモだったと聞いて……なんか納得した」ということだった。
 で、ゲーム制作の現場はどうなのか知らないけど、アニメの現場では女性が確実に進出してきている。かつてアニメの現場では、女性は出世欲が低く、「キャラの色を塗っているだけで満足」という人も多かったが(事実だが、この辺の話を欧米ですると性差別扱いされるので注意だ)、今では作画監督、キャラデザ、演出、監督といったポジションに女性の名前が出てくることは珍しくない(色指定はずっと女性が中心。色指定と仕上げは昔から女性が就くことが多い)。京都アニメでは作画監督やキャラデザといった重要ポジションに女性がずらりと並んでいる。某アニメ会社では単純に能力の高い人を採用したら、全員女性になった……という話も出ている(さすがに男も頑張れよ……と思った)。そのうちにも、監督、脚本、キャラデザ全員女性、という作品も出てくる……あっ、すでにあった(『けいおん!』)
 そういうわけで、イーグルジャンプのように「社員ほぼ女性だけ」というゲーム会社なんかも、そのうちどこかで出てくることもあり得るだろう。いや、すでにあるかも知れない。

※ 追記。襟川恵子(光栄社長シブサワコウの奥さん)は女性を中心としたゲーム制作チーム『ルビーパーティ』を設立している。なので『イーグルジャンプ』のような女性を中心としたゲーム制作会社は、まったくあり得ない話ではない……と後で思い出したので書き足しておく。

 前シリーズに続き、作画は非常に丁寧。退屈なカットはほとんどない。舞台はしっかり描かれているし、キャラクターはみんな可愛い。
『NEWGAME』第2シリーズの大きなポイントは、一応劇中劇の扱いになるのだろうか。新作タイトル『PECO』を制作していく過程が物語の中心になっている。この『PECO』の映像がなかなかしっかり作られている。エンドクレジットにはUnityとあるので、実際のゲーム制作ツールが使われているのだろう(Unityはアニメーション制作ツールも備えており、Unityで制作されたアニメーションもすでにある)。ゲームのコンセプト、キャラクターもしっかり練られており、「作られてないの?」と訊ねたくもなる。
NEWGAME この劇中劇『PECO』の制作過程の上に起きた物語……が第2シーズン『NEWGAME』の本題だ。第2話ではキャラクターデザイン社内コンペのお話。ここで高卒で、専門学校で基礎教育すら受けていないのに関わらず現場入りした涼風青葉の実力が発揮される。社内コンペでまさかの先輩八神コウを追い落としてメインキャラクターデザインに抜擢される。高校ぽっと出の新人が重役に採用……相当の実力だ。
 第2話からコンペの話を持ってくることで第2シーズンのトーンを把握できるし(心構えができる)、ドラマとしても締まりが出てくる。大ベテランが新人に打ち負かされた……ここから起きる騒動と葛藤の物語は真実味があるし、興味深い。
 しかし変なところもあって、第2話で涼風青葉が号泣する場面……すぐ近くで八神コウが聞いているはずだ。しかしそちらのほうが都合良くなかったことにされている。感情を発露する場面作りとして、変な感じになっている。
 第11話でも、ねねとツバメの対話で同じ問題が起きている。すぐ近くでうみこが聞いているだろうに、あまり相応しいとは思えない対話がある。
 シーンの作り方が妙に都合が良すぎるというか、周辺の環境を捉えられていない……主人公の周辺だけで閉じている印象がある。“日常系美少女もの”の特徴は【世界観の閉鎖性】……というのが私の考えだが、『NEWGAME』はゲーム制作という社会に関わるお話をしているのはずなのに、変なところで閉じている。これは前シリーズで、なぜか顔を出さない涼風青葉の両親を見た時も思ったのだが(涼風青葉の両親は実在せず、青葉の妄想である……という可能性はさておくとして)、『NEWGAME』はやっぱり“日常系”の物語なのだ。
 第3話では滝本ひふみが青葉の心情をそれとなく気付いて察するが、あの察し方はほぼエスパーだ。おかげで青葉の葛藤があっという間に解決されてしまう。変なところでご都合主義的。『NEWGAME』の惜しいところであり、“日常系美少女もの”という枠組みから越えられなかった……というところにも惜しいと感じてしまう。
 秀逸なのは第6話。キービジュアルを巡るお話。おそらく『NEWGAME』第2シーズンの中でも傑出エピソードだと思うが、その理由が、物語の顛末を絵で語っているから。キービジュアルの制作に苦しむ青葉。ようやくその突破口を見付け出し、制作に勢いが出るが……八神コウの絵を見て愕然とする。見事だったのは、絵の違いを絵で表現してみせたこと。同じキャラクター、あえて似たようなスタイルで絵を描きつつ同じ作品だから似せるのは当然だが)、誰がどう見ても八神コウの作品のほうが優れている。画力にレベル差を付ければ簡単だが、それをやっていない。絵の構図、描き方でレベルの違いを表現している。シーンの流れも秀逸。ドラマ作りでちょっと変なところのある『NEWGAME』の中でもクリティカルなエピソードだ。
 後半戦は新人2人が介入してくる。ここでお話は新人の紹介で回り道する感じがある……仕方ない話だけど。

 と、いろいろ起きる物語だが、やはり劇中劇『PECO』に存在感があるから、お話に締まりが出てくる。『PECO』があるおかげで物語に目標が生まれるし、そこをしっかり描くことで「なにを制作しようとしてるのか」がわかるし、嘘っぽくない。『PECO』がなかったら、「ゲーム制作っぽい何かをしている人達」のお話になってしまう。劇中劇『PECO』を作るのはそれなりの手間だったと思うが、あえてUnityでしっかり描くことで、作品に真実味が生まれた。劇中劇に妥協してはならない……といういいお手本になった作品だ。
 ただ……ゲームの完成に向けたカタルシスがなかったこと。過程はもちろんきちんと描いてきていたのだけど、その最後でふわっと「はい完成」で終わってしまった感じがある。多くの場面についてはなかなかに秀逸なのだけど、肝心なところで惜しい感じのする作品だった。




魔方陣グルグル

 今期もっとも可愛いヒロインはククリ。異論は私が粉砕する。
 キタキタ踊りで。
魔方陣グルグル
 ある世代にとっては懐かしい作品である『魔方陣グルグル』。今では1つのジャンルとして成長した感のある“JRPGあるある”をパロディ化した世界観にした作品。当時、すでに普遍性を持っていた『ドラゴンクエスト』の世界観をベースに、『グルグル』らしい個性を作りだしている。最近ではもっとふわっとゲーム的な世界観、ゲーム的なあるあるを物語に取り込み、結果として世界観・キャラクター両面で画一的なイメージに陥ったジャンルだが(あまりにも多すぎる……という問題もある)、『グルグル』はこの作品でしかあり得ない、かなり独特の風合いを持った作品だ。
 あと、『ドラクエ』ベースなのは、エニックス(※当時。現在はスクウェア・エニックス)が出版する『ガンガン』から生まれた……というところにも大きな関係があるだろう。

『魔方陣グルグル』の世界観は、いま接しても、なかなか個性的だ。昔の、本当に漫画が漫画らしいシンプルな線を持ちつつ、かつ思い切った個性を与えられたキャラクター、一捻りあるストーリーで描かれている。衛藤ヒロユキのセンスだからこそ描き得る世界観、キャラクターがなんとも楽しいし、愛おしく思ってしまう。
 なぜ今の時代に『グルグル』? と思って見始めたが、なるほど、むしろファンタジー漫画・ファンタジー小説が画一的なディテールで描かれる今の時代だからこそ、逆に個性的に見えてくる。

 ストーリーの展開は非常に速い。もの凄く早い。普通なら25分くらいかかるかな……という話を10分程度にザーッと流していく。今回はこのエピソードで終了かな……と思ったらもうひとエピソード突っ込んでくる。展開を出し惜しみしない。
(ト書きを読む女性の声も省略されている。あの声は、ラジオのほうで聞くことができる)
 出し惜しみせず、次から次へとストーリーを出して行くのは潔いし、なかなか贅沢だ。が、一方で早すぎるという感じもするし……この感じ方は私としてもちょっと戸惑いのあるところ。もうちょっと余韻を持たせたほうが、掘り下げた方がいいんじゃないか……と思う一方で、もうありきたり、定番となったストーリーをもったい付けて出していたら、どこかで見るのを飽きてしまうから、このテンポでもいい。……と、両方の印象を持っている。
 新しいキャラクターが出たと思ったら、次のエピソードか、そのエピソードの中で早くも別れが来てしまう。それぞれのキャラクターは非常に印象的なので、後で登場する時でも「誰だっけ?」みたいにはならない。衛藤ヒロユキの個性の強さがいい方向に作用しているのは間違いないが……。
 うーん……やっぱり今くらいのスピードで進行しているのが正解なのかな。

キタキタ親父 キャラクターの中でもっとも強烈なのは、言うまでもなくキタキタ親父だ。キタキタ親父が出てくると、笑いの調子が確実によくなる。“おいしいシーン”を1人で全部かっさらってしまう。というか、全部キタキタ親父の印象に変わってしまう。
 昔のアニメシリーズを見た私も、当時は主人公ニケやヒロインのククリよりも、キタキタ親父について語っていた記憶がある。キタキタ踊りをどう描くべきか、どう解釈すべきか……アホみたいな議論をしているのが、やけに楽しかった(「違う! キタキタ踊りの肘の角度はこうだ!」とか言い合っていた)
 キタキタ親父は見ての通り気持ち悪いキャラクターだが、決して嫌われることはない。むしろ愛され、語られてしまう。嫌われていたとしても、「笑いを取れるキャラ」としておいしい。主人公と同格レベルで作品の重しとなってしまうキャラクターなのだ。
 漫画に個性的なキャラクターはそんなにたくさん必要ない。1人か2人。本編以上に読者の注目を一手に集めてしまうキャラクターが1人いるかどうか。漫画がヒットするかどうかは、そこにあるといっていい。どのキャラクターもありきたり、画一な漫画は、クオリティが高くてもいうほどヒットしない(クオリティがものすごく高ければ、それなりにヒットするが)
 キタキタ親父はそれだけの存在感を持ちうるキャラクターだ。『魔方陣グルグル』は非常に個性的な世界観を持っているが、キタキタ親父という尖ったキャラクターのおかげでむしろ普通の作品として接することができる。作品が持っている違和感すらも、キタキタ親父がたった1人で吸い上げて、スケープゴートにすらなっているのだ。
『魔方陣グルグル』のもう1つの発明、“グルグル”ももちろん物語の核として(というか作品タイトル)機能しているのだが、その対となる奇怪さを集めた存在として、キタキタ親父がもう1つの核としてそこに存在し、ゆえに作品を存在感あるものにしている。
 ……と、数十年経た今になっても、やっぱりキタキタ親父について語ってしまう。そういう存在感を持ったキャラクターなのだ。

 ところで、やっぱり気になるのは、「なぜこの作品が深夜放送なのか?」という疑問。昔はプライムタイムだったよな……としみじみ思う。若い世代にとっては深夜アニメがデフォルトかも知れないが、「アニメの歴史」からすると、そんなもの最後の数ページくらいの変化でしかない。
 アニメが変化したというか、むしろテレビのほうが変化してしまった……という感じがある。いま、テレビのプライムタイムは芸人が大騒ぎするバラエティしかない。他のコンテンツを受け入れるような空気がないというか……むしろ視聴者のほうが「アニメなんか流したらお茶の間が……」とか言い始めている。
 どちらにせよ、テレビにそれだけの企画を作る力がもうない……ということだろう。
 昔はもっと広い世代がアニメを見ていた。深夜放送の問題点は、限られた世代、限られた人種だけが見る……みたいになってしまうこと。世代を越えて通じるストーリー、時代を象徴するキャラクターになり得ない。アニメはもう、広い世代にとっての共通する文化にはなり得ないのかな……と、ちょっと昔の世代の人は思っちゃったりするわけです。
『魔方陣グルグル』みたいな作品すらも深夜放送になってしまう……というのが、今の時代なのかな……とぼやぼやと考える。


 ちょっとメインテーマからずれる話をちらっと書くけど、作り手を目指す者にとして、“ネタ切れ”になってから本当の戦い……という感じがしている。“ネタがある状態”は、言ってしまえば自分の好きなものをただただ再現している状態。再生産しているだけに過ぎない。
 が、“ネタ切れ”以降こそ、本当の意味で、自分の体内に眠っているもので勝負しなくてはならなくなる。だから“自分自身”が現れるのは、“ネタ切れ”になってから以降だ。
 と、ここで今の作家にちょっとした苦言をするが……変に小器用になりすぎている面がある。美少女の描き方なんて、“ガワ”があって、あとは“ジト目”や“アホ毛”などの属性をちょちょいっと付ければ一丁上がりできる。いくらでも量産できる。
 もちろん、これは逆に利用できる。例えば、私のように絵描きの能力がほぼないような人間でも、ある程度の約束事を守れば、美少女キャラを一丁上がりできる。そうやって『ProjectMOE』は描かれている。
 衛藤ヒロユキは優れた能力の持ち主……というわけではない。だからそれゆえに、衛藤ヒロユキならではの世界観、キャラクターを描き得たのではないか。
 今の作家は、多くはかなり技術が高い。かなりの優等生だ。それゆえに、小手先の技だけでキャラクターを作っていたりはしないだろうか? 自分が何を描けるのか、その資質を見詰め、限界に向き合ったことはあるだろうか。




Re:CREATORS レクリエイターズ

 2クール目に入り、物語はアルタイル討伐という大きな課題のために動き始める。その前半部分は、アルタイル幽閉に持ち込むために、いかにストーリーを作り上げるか。クリエイター達が意見をぶつけ合う。
 ここからすでに熱い。作家たちの意見、主義の違いからくる対立。ぶつかり合うことで、自分の能力に対する自信が揺らぐ……という一幕も。
 作り手がどういう心理でいるのか、観る側にとってはわかりにくい。特に漫画の絵は、最終的にアウトプットされる形が柔らかいから、ふとするといとも簡単に出せるような気すらしてしまう(ゆえに、勘違いしているアニメの玄人は「こんなもん俺でもできるわ」と宣う。そう言って、実際に挑戦してみせた者は非常に、非常に少ない)
 今の若い人は何においてもドライ。「なんでそんなの作る必要あるの? つらいんだったらやめればいいじゃない」くらいの認識だから、作り手が作品に込める熱さなんて知らないし、気付こうともしない(でも作品は消費する)。下手すると、「このおじさん達、なにやってるんだろう? キモイ」みたいに言われかねないところを、作品の中で全力でぶつけようとしてくれている。

 その前座的な一幕を終えて、17話以降、ひたすらアクションが続くことになる。各キャラクターが集まっての戦い。オリジナルキャラクター達による『アヴェンジャーズ』だ。『レクリエイターズ』の特色は、キャラクターごとに持っている背景がまったく違うこと。セレジアのフォーゲルシュバリエと鹿屋瑠偉のギガスマキナは同じロボットキャラクターだが、デザインの様式がまったく異なる。サイズも全く違う。バトルスタイル、エフェクトも違う。妙に目立っているのは星河ひかゆのアクション。昔ながらのハーモニーを載せての止め絵。1人だけ敢えて様式が違う……そういうのも敢えて、あるいはパロディ的な発想で入れ込んでいる(そのパロディ的描写を、マジレスで粉砕するアルタイルという構図がなんとも愉快)。ギガスマキナVSアリステリアの戦いは、サイズ差最大の戦いだ。それでも同じ軸上に立って、対等なバトルが展開される。時々、色んなゲームのキャラクターが世界観の垣根を越えて集結する格闘ゲームが作られるが、あの時の感覚だ。作品スタイルが違うのに、同じルール上で成立するように調整されたゲームを見ている感じだ。
 と、ほぼアクションばかりな展開になるのだけど、中怠みもなく。アクションはかなり気合いの入った演出だし、澤野弘之音楽とも見事にマッチしている。一時も隙も無く、どんどん惹き付けてくれる。
 17話後半に差し込まれる駿河駿馬とブリッツの対話が面白い。神と被造物との対話。理不尽な“設定”を突きつけられた被造物ブリッツと、その“設定”を作り上げたクリエイターとのぶつかり合い。キャラクターは物語の中で戦っているが、それ以前に、作家は作品と戦っている。現実にはあり得ないが、作家の体内では、精神世界ではある意味で起きている過程を、具象的な映像にしてみせているのが面白い。この心情を見せる対話が実に切れのいい脚本で描かれている。“言葉で戦う”演技ももちろん最高だ。
 次の18話も築城院と水篠颯太との対話もいい。脚本上の問題キャラである築城院。ここもキレッキレッの脚本で、物語上の重要な問題を解消してしまう。そこまでの物語の進め方が秀逸。こんな台詞、よく書けたな……と恐れ入ってしまう。

 1クール目で提示していたそれぞれのキャラクター、設定が後半戦に入って、見事に噛み合い、相乗効果を持ち、鮮やかかつ熱いクライマックスシーンの連続を作りだした。あおきえい監督の秀作。代表作を更新した。
 と同時に、現代の“虚構の描き方”がこの作品において一回総括されたようにも思える。『レ・クリエイターズ』は本質的にはパロディだ。それは現代の虚構がある一定水準のレベルまで達し、また同時に視聴者の意識が同じレベルまで来て、この両者がフラットになった……ということを意味している。それぞれの“決まり事”“約束事”が了解されている上で展開した“型破り”の作品だ。時代に対して重しを置いた作品だ。この作品を、“同時代にあるたくさんの作品と同じで、普通の作品”として見られること自体、私たちの意識がそこまで進んでいる、ということの証拠である。
 ゆえに、『レ・クリエイターズ』は現代の作家たちに次なる課題を突きつけている。次世代の虚構を作らねばならない。新しい時代の王道。過去の繰り返しではない、新しい時代の王道。総括を描いたことで、むしろそのことを突きつけられることになったように思える。


 本編と関係ない話だが、『レ・クリエイターズ』は予告無しの突発的な時間変更にぶつかることが非常に多かった。私は後半戦を2度、録画に失敗した。そのうちの1度はなんと最終回直前……。
 最終回を見ると、アルタイルがすでにいなくなっている。いったい何が起きたのやら……?(21話だと思って再生したら、22話だったのだ!!)
 最終話の感動? んなもんねーよ!




アホガール

アホガール 非常にシンプルな作品だ。主人公花畑よしことその周辺の物語。それだけしかない。この主人公のアホっぷりが実に豪快。看板に偽りなし。躊躇いのない潔さが実に心地よい。15分のハーフアニメで、さらに4本立て構成だ。短距離を全力で突っ切る。一切噛み合わないキャラクター達が遠慮なくぶつかり合っていく様は、まるで剛速球のデッドボールをぶつけ合っているかのようだ。短いショートコントを次々に見ている感じですらある。

 争いは「同じレベル」で起こるのではない。向かい合ったその瞬間、「同じレベル」になってしまうのだ。
 そう、花畑よしこというどうしようもないアホに絡まれたことによって、ありとあらゆるキャラクターがこのレベルに飲み込まれていく。
 アホに向き合ってはいけない。決してだ! 飲まれたらその瞬間、終わりだ。

 面白かったのだが……背景描写が妙にのっぺりしてる。キャラクターだけが前面に飛び出してくる感じで、背景がただの書き割りでしかない状態になっている。特にキャラクターの周辺である環境、建築の描写があまりにも投げやり。空間が狭いので閉塞感もある。
 コントになにを言っているんだ? という感じだし、勢いで振り逃げる作品だから、むしろ書き割りのほうがすっと入って来やすい……というのもわからぬもない。そもそもコントとは、通俗的なものに対する批評とパロディだ。通俗的な背景を敢えて持って来て、そこを笑いに変えるのがコントの見せ方だ。この作品の見せ方は正しい。
 しかし、映像作品としてはマイナス点だ。ただアニメのフォーマットに作品を載せました……ではいまどき通用しない。画面全体をデザインしてみせないと、今の時代のクオリティに並べることはできない。今の視聴者はかなりしっかり見るから、雑さ、粗さはただちに突っ込まれる。特に阿久津家の雑な間取りはひどい。
 主人公達はちょっと変わったワンピースタイプの制服を着ているのだから、それに合わせて舞台も何かしらの工夫が欲しい。今の状態では、キャラだけが画面から浮き上がってしまっている。
 そういった映像面の物足りなさが、この作品の惜しいところだ。




てーきゅう 9期

 もはや何を語ればいいかわからない作品。うん、相変わらずでした。
 以上。

 ちょっと気になったのは、どうも台詞が聞き取りづらくて……。疲れているのかな。今まではそれなりに聞き取れたのだけど、そろそろ難しい。字幕が欲しくなってきた。

 えっと、そういえばオープニング主題歌は主人公押本ユリ。第9期になって、ようやく主人公による単独の歌唱だ。これまで高宮なすのを始め、新庄かなえ、板東まりもと順にオープニングを担当し、「次はユリかな?」と思ったらなんだかよくわからないアイドルのタイアップ曲に……。それでようやく第9期に来て主人公の登場。
 ……出てくるのがあまりにも遅いせいで、もはやなんの感慨もない。
 今回はエンディングも作られ、こっちはなんか知らんアイドルの曲だし。オープニングとエンディング、両方作らなかったら、ユリっぺのオープニングは今回もなかったかも知れない……。




終物語

 8月12日、13日にかなり限定的な放送局のみで公開された作品。……なんでこう変な放送のやり方したのかな。枠が取れなかったとか……だろうか。それならネット配信もあっていいように思えたのだが。少し前に、ニコニコ動画で「時系列配信」というユニークな試みがあったのだから(『物語シリーズ』を実際の時系列順……現実の時間とだいたい同じくらいのタイミングで視聴できる……という配信をやっていた)、この流れで『終物語』もやって欲しかった。

 で、内容なのだが、さすがに1ヶ月以上も経つと印象も薄れかけていて……。どんな話だったかな……と記憶を遡って……。

 えっと……そうだそうだ。
 物語は、《物語シリーズセカンドシーズン》という大きな括りの中に加わるお話だ。謎のキャラクターだった忍野扇は何者なのか? それを読み解いていくお話だ。あちこちでこれまでのエピソードとリンクされており、これまでの謎が解明され、明確に説明され、その全体がきちんとまとめ上げられ、西尾維新という作家の凄さに改めて圧倒される。いったいどこまで構想した上で、作品を書いているのだろう……。あまりにも手際が鮮やかなので驚く。
 手折正弦の謎めいた台詞の意味や、行方不明だった忍野メメの再登場。羽川は以前から忍野メメを探している……という目的を明らかにしていたけど、その結末がここで結ばれている。結局、なんでまた南極なんかにいたのか……という説明は端折られてしまったが。
 あの世へと旅立ったはずの八九寺真宵は結局現世に戻り、ついに神様へ。神不在の神社を巡る物語は囮物語などでも語られてきたけど、こちらもきちんと決着が付いた。《物語シリーズセカンドシーズン》で引っ掛かっていた要件は、だいたい『終物語』で決着が付いたかな。『終物語』を終わらせたことで、ようやく《物語シリーズセカンドシーズン》という大きな物語が完結した……ように思える。
 実際はまだまだシリーズそのものは続いているわけだが。また映像化されたら、その時はきちんと見ることにしよう。

 ……傷物語まだ見ていない。




THE REFLECTION ザ・リフレクション

 アメコミ界の“神”、スタン・リーの原案を、長濱博史監督が映像化。映像は実にアメコミチック。太い線に、影なし作画。背景も思い切って単色だし、ペンを走らせたような痕跡を敢えて残している。ちょっとムラのある黒が層になって重なるとなかなか美しい。アメコミ絵をそのままアニメにしたようなそんな印象がある。表現にこだわる長濱監督らしい映像だ。
 キャラクターは『ハートキャッチプリキュア』『蟲師』の馬越 嘉彦(この人、本当になんでも描けるんだな……)。アメコミらしいリアルな身体を持ちつつも、日本のアニメらしい端正さ、バランスの良さが随所に現れている。本当のアメコミの絵なら、例えばエレノアの顔はもっと頬骨を立たせて、唇、顎までを立体的に描いただろう。そういった立体的なディテールを思い切って飛ばして、すっきり見せるのはアニメならではの見せ方だ。

 ストーリーについてだが……。かなり難あり。これ、わざわざアニメで描く必要あったのかな……という疑問すらある。
 ある時、リフレクションという現象に触れて、社会化できないスーパーパワーを持ってしまった人達の物語だ(社会化できる……というのは頭がいいとか、絵が上手いとか、「職業」に繋がる能力のこと。リフレクションの能力は、なんか凄いが、なんの役に立たない)。そんな望まぬギフトを与えられた人達が、社会との差別的な立場に苦しみながら、敵対する悪と戦う……。
 と、やっていることがまんま『X-MEN』。『X-MEN』と同じ構造のストーリーを、わざわざもう一度作る理由や意図はどこにあるのだろう……?

 作品が描いているアメリカ的な問題、アメリカ人が陥りがちな村意識を日本人の手で映像化したこと、アメリカの街を描いたこと。アメリカ的な(あるいはピューリタリズム的な)排他性を描いたこと自体はなかなかユニークかも知れない。
 ……アメリカ人から見れば、突っ込みどころ満載なのかもしれないけど。「おいおい、俺達の街にあんな風景はねえ!」みたいな。
 でも、その意義の重さは判断しづらい。
 アメリカの風景をかなり現実的に、しっかり描かれているだけに、アメコミ特有のキャラクターが「シュールの谷」として浮かび上がってくる。全身赤タイツのエクスオンが街を歩いている姿はかなりシュール。悪役キャラクターはだいたい変な姿、変な格好をしているが、背景の印象と合っていない。
 物語の傍流に、日本サイドのキャラクターもちらちらと描かれているが……これを書いている時点で、彼女たちが活躍する場面はいまだ描かれていない。

 アクションの描き方は緩慢。カットの流れが映画のように連なるのではなく、1カット1カットが止まって見える。これもアメコミの特徴で、アメコミはコマごとに連なりを作っていない、一つ一つのカットが独立していて、ゆえにアクションは非常に読みづらい。日本の漫画のように、コマが映画のように連なって、動感を持たせる工夫がない。
 時々背景が思い切って省略されることもある。アメコミらしいといえばアメコミらしいが、映像として見た時、アクションのテンポの悪さが際立ってしまう。
 これは演出家の力量とかそういう話ではなく、アメコミから得られる印象を忠実にきちんと映像化した結果だ。わざとやっているのだ。
 こだわりの結果、ああいった表現……アメコミの見事な再現と言えなくもないけど、こだわりすぎているというか。そんなとこ、再現してくれなくてもいいです。

 と、かなりアメコミの印象に寄せた作品で、それを日本のスタッフが描いている。次の『RWBY』のところでも書くのだけど、『リフレクション』の場合は、「絵柄はアメコミ風、精神的にはアニメ」といったところだ。
 しかしここまでアメコミのイメージに寄せるなら、別に日本で作らなくても……。アメリカが制作すれば良かったんじゃないかな……? 日本で制作する意図を、最後まで読み切れず。

 まだ『X-MEN』になりきれていない物語……。リフレクションによって、スーパーパワーを持った人達が現れたばかりの物語。まだプロフェッサーXもいないし、『恵まれし子らの学園』も作られていない。まだ『X-MEN』のように固まっていない世界観が描かれている。
 この先、あのキャラクターのうちの誰かが『恵まれし子らの学園』のようなコミュニティを作る……という物語になっていくのか、そこにすら至らないのか、よくわからない。
 人が集まると、何かしらのコミュニティを作るのがアメリカ的なやり方だ。『ザ・リフレクション』が『X-MEN』をやり直す物語になるのか、それとも違う道が……?


RWBY

 二次創作でありながら『Dead Fantasy』であまりにも見事、あまりにも強烈なアクションムービーを作成した天才モンティ・オウムが挑戦したオリジナル作品が『RWBY』だ。童話をモチーフにしていながら、ルックスはANIMEのスタイルで、もちろんアクションはモンティ・オウム入魂のキレッキレッのアニメーション。東洋西洋、両方の遺伝子をほどよく重ね備えた作品であり、両文化のクロスオーバーを象徴する作品だ。

『RWBY』の最初のムービーが公開されたのは2012年……となっているから、おそらく私もこの頃に一度『RWBY』の映像に触れていたと思う。しかし、この頃は日本語吹き替えもなく、英語がわからない……という理由であまりしっかりとは見ていなかった(話もバラバラだったような気がする……いまテレビシリーズを見ると、やっぱりバラバラに見ていたようだ)
 それが日本語吹き替えされ、テレビ放送される。これを見ないわけには行かない。
 見てみると、ああ、そういう話だったのか……と今さら色んなことに気付かされる。基本的な設定すら知らずに見ていた。それぞれのキャラがどんな関係だったのかすら、知らなかった。
 毎回1度は必ず挿入されるアクションは最高に素晴らしい一方で、対話シーンは平凡。キャラクターがパースに乗っていないことすらしばしばで、動きもどこか不出来な操り人形でも見てるようだ。
 オープニング、エンディングのクレジットを見ると、クリエイターとして名前が入っているのはモンティ・オウムただ一人。実際には共同監督がいたし、他にもアニメーターはいたようだけど、どうやらほとんどの骨格はモンティ・オウム一人で作られたようだ。『けものフレンズ』よりもはるかに無茶な制作体制で作られている。

 まずルックス。どう見たって日本のアニメに強い影響を受けている。モンティ・オウム自身、アメリカ人だが来歴はなかなか複雑で、「私はカンボジア人、ベトナム人、中国人、そして日本人です」と、自身について「精神的日本人」と語っている。アニメに強い影響を受けているのは間違いない。
 ところで、日本のアニメは、アメリカでは『ANIME』と呼ばれている。……ジャパニメーション? なんだそりゃ。聞いたことがない。アメリカで日本のアニメを話題にする時は、基本的にANIMEだ。カートゥーンでもディズニーでもなく、ANIMEと呼ばれ、語られている。
 ANIMEという言葉が指し示しているのはもちろん日本のアニメのことだが、近年ではちょっと事情が変わってきている。例えば、アメリカで開催されるANIMEのイベントなどへ行くと、日本人の知らないキャラクターのコスプレがちらちらと見られる。あれはなんだ? 正体は、アメリカ発のMANGAのキャラクターだ。
(※ この辺りの話、資料無しで書いてます。どっかにこの辺の話を書いていた本あったような気がするんだけど……見付からず。見付けたら出典を書き足します)
 ANIME、MANGAが指し示す意味は少しずつ解釈を変えて、「日本発のもの」だけではなく、ANIME、MANGAの技法を使ったもの、あるいはANIME風のキャラクターも同じようにANIMEというカテゴリーの中に入れられるようになった。そういった経緯で、アメリカ発のオリジナルANIMEキャラクターがあっちで人気が出ていたりもする。
 アメリカ、フランスで一番売れているMANGAは、『漫画の書き方』だ。それも10年以上売り上げベストテン入りするロングセラーだ。みんなMANGAの描き方を知りたがっている。日本の漫画が好き、というのもあるが、印象としてアメコミやバンドデシネと比較してもスピーディに展開するし、ムードもいい。他にも、漫画として描けば、難しい問題もかなりやさしく伝えられるという利点もある。ストーリーだけではなく、難しい話題をわかりやすく伝える手段として、MANGAが注目されている。世界中がMANGAに注目し、その技法そのものを欲しいと思い、研究を始めているのだ。
 pixivなんかでANIMEでタグ検索すると、たくさんのアメリカや北欧ユーザーの作品がヒットする(わりと多いのはHENTAI……日本人に向けて「HENTAI」と言うのは失礼に当たるのだけど、彼らはそれを知らない)。中には、「本当にアメリカ人の作品か?」というくらい完璧にアニメのスタイルをコピーしている人もいる(ざーっと見ていると、これはMANGAか? みたいな作品も。MANGA観、ANIME観はひとそれぞれだ……)
 ちょっと面白かったのが、アメリカ人の作品だが舞台は日本。おそらく漫画で研究したらしい日本風の町並みに(主人公の家の形が『ドラえもん』だったよ・笑)、日本人風の学生を主人公にした漫画なんかも発見した。
 それで話は『RWBY』に戻ってくるが、『RWBY』も間違いなく、この辺りの潮流の中……いや最先端でANIMEを自身の中に取り入れて作品を作った作家だといえよう。

『RWBY』を見ていて残念なのが、日常描写……というかアクション以外のだいたい全てのシーン。糸で吊っている操り人形みたいなフワフワした動きをする。
 なのに、口パクが異様に細かい。あるシーンを止めて数えてみたら7パターン。もっと多いシーンもあるかも知れない。
 日本のアニメは、基本「開き口・中口・閉じ口」の3枚のみ。『化物語』のような対話がメインの作品ではもうちょっと多く描かれることはあるが、基本、この3枚だ。
 前にもこのブログで書いた話だけど、日本人が得意とするのは漫画という以上に、物事や状況の象徴化――“概念の漫画化“であって、その能力に長けているから、日本人の手にかかるとあらゆる製品から余計なものが削ぎ落とされ、シンプルで扱いやすいものになる。日本人は小型化が得意……というのは間違っていないが、おそらく漫画的なデフォルメの手法・感性がそこにあるからだろう。
 で、口パクの話だけど――日本のアニメで口パクが3枚しか書かれないのは、ぶっちゃけて言えば予算的な都合がもともとの始まりだったのだけど、それは始まりとして、今では一つの様式として、洗練した形として描かれる。キャラクターが俳優の口パクに完璧に合わせる必要がなく、口の動きは飽くまでもニュアンスで、そこにどんな台詞、感情を載せられるかが声優の腕の見せ所となっている。声優によっては、口パクが動いてさえいれば、容赦なくアドリブ(小ネタ)を突っ込んでくる人もいるという(あるいはパクが見えないことを逆手にとってアドリブを突っ込む声優も)。パクと台詞の数が絶対的に合っている必要はない……というのが日本人の考え方だ。
 昔なにかのテレビ番組で見たのだけど……日本の包丁は柄の部分が丸く、どのように持ってもいい。手の大きさも問わない。しかし西洋の包丁は、柄の形が手の形をなぞっていて、絶対に一つの握り方しかできないようになっている。
 ……検索してみると、包丁の形もまあ色々あって、上の説明も絶対的なものじゃないとわかるけど。
 でも、「どのようにも持てる」というのが日本人的なやり方。余計なディテールをさらっと捨てて、象徴化する。その上で、作り手のどんな情緒がそこに込められるか……そこで才能と技術が競われる。やっぱりこれも漫画的な発想の一つだ。
 さっきはアメリカで『漫画の書き方』という技法書がヒットしていると書いたけども、そこでANIMEを学んでいるものの、やはりアメリカ人はANIMEのスタイルを、「アートスタイルの一つ」……として捉えるんじゃないかと想像される。“精神的なものとしての漫画の精神”をそこで完璧に学べるものじゃないだろう……と私は思っている。アートスタイルこそANIMEから影響を受け、しっかり学んでいるが、作家が持っている精神的なものは西洋の側にあるのだ。
 それで『RWBY』は恐らくはプレスコ……どの程度キャラのパクと台詞がマッチされているかわからないし、確認するのもメンドーなんでだいたいの想像で書くけども。あちらはプレスコ文化、キャラの口と台詞が正確にマッチしていないと気になって仕方ないという。そういうところもあるのだろう。

 表面上はアニメに強烈な影響を受けつつも、やはり内面的なところでは西洋的な精神が『RWBY』には流れている。ある意味、キャラクターの描写だけがANIMEだ。
 それで、これが見ているとものすごく面白い。キャラクター絵はあからさまにANIMEだが、台詞回しや仕草が完璧に欧米、カートゥン風で描かれている。オーバーなアクション、大袈裟な表情の作り、映画にありがちなもったい付けた言い方。ダンスパーティのパートナーを見付けるための悲喜交々はアメリカの青春ムービーにおける定番だが、日本人にとってはその内面はわかりづらい。
 日本のアニメは、高畑勲以降、リアルなパースの上で写実的な、落ち着いた芝居をベースにするようになっていったが、そういう視点の文化から見ると『RWBY』は実に奔放。アニメはそもそも極端で大袈裟なデフォルメの中で描かれたものだから、『RWBY』の表現がむしろ絵のスタイルに合っているかのようにすら思える(というか、あれだけ目の大きなキャラクターが、実写の芝居のように演技するって、どうなんだろうね?)
 声優の演技もキャラクターのオーバーな演技にきっちり寄せている。早見沙織さんのあんな弾けた楽しい芝居を初めて見た(聞いた)。ワイスのような気取ったキャラクターは日本のアニメにもよくいるが、あそこまで何かとジョークを挟んでくるようなキャラクターは、日本人の発想の中にはあまりない。アニメ的である一方で、カートゥン的でもある。そういう演技を聞いているだけでもなんか楽しくなってしまう。

 ちょっと残念な気がするのは、キャラクターがあまりにも立ちすぎていること。背景設定や場面描写が雑。超個性的で奔放にデザインされたキャラクター達に対して、背景のディテールがあまりにも貧相。それは絵として描写の話だけではなく、設定として、世界観に奥行きが感じられない。背景に対して、キャラだけが浮いて見えてしまう。
 とはいえ、制作人数の異様な少なさを見るに、仕方ないことかも知れない。あれがあの予算・人数でできる最大のものだったのだろう。キャラクターのクリエイトだけで予算的にも人的にも一杯一杯だったのかも知れない。
 日本人はキャラクターを作るのが得意だが、世界観の描画が苦手だ。一方、西洋はキャラクターの創作は苦手だが、ざっと俯瞰した世界を捕らえるのが得意。この辺りは、ゲーム観を見ると明らかだ。
 もっとも、大友克洋のような突き抜けた天才は、目に映るありとあらゆるものを自身の描く漫画の世界観として再構築してしまうのだが。大友克洋の系譜が息づいているから、日本のアニメはまだある程度“世界観”を意識して描くことができるのだといえる。
 そういうところから見ると、『RWBY』は妙なところで日本的。いや、結果、日本的になっただけかも知れないが。
 それで、そのキャラクター達が毎回クライマックスシーンで披露するアクションがあまりにも見事。ダンス的だし、アニメ的だし、ゲーム的。サイドビューのアクションゲーム的なカメラの動き、あるいは格闘ゲーム風の動きが頻繁に描かれるが、そういうところに日本的なオマージュが見て取れる。
 もちろんのこと、そういう話だけでは全てを捉えることはできない、自由で奔放で、才気溢れる素晴らしいアクション。ダイナミックかつミニマム的。アクションに入った瞬間、作品が変わったのかと思うくらいエネルギーの放出が、わずかな数分の間に現れる。アクションシーンが終わると私がまずすることは、戻してスローで見ることだ。モンティ・オウムのアニメーターとしてのセンス・技術が、あのシーンの中に目一杯込められている。

『RWBY』は日米文化の掛橋のような作品だ。表面的なルックスはANIME。しかし精神的にはアメリカ。その中間に、モンティ・オウムの才能が炸裂している。『RWBY』は日米文化の差異を際立たせているし、同時に両者のいいところをうまく溶け込ませている。深化していけば、より愉快で、モンティ・オウムしか描けない独自の世界観が現れてくるだろう。そういう予感をさせてくれる。『RWBY』は超低予算、超少人数制作で、どうもその表現はまだ中途半端、途中経過のような気がしてならない。まだまだ深化の余地が残されているはずだ。
 さて、これだけの作品を作った天才モンティ・オウムはその後どうしているのだろう? いまどんな作品を手がけているのだろう?
 調べてみると……………2015年2月1日、重度のアレルギー反応で死亡。享年33歳。
 絶対代替の効かない才能を亡くした。モンティ・オウム自身優れた才能の持ち主だったし、日米の文化を交差させた貴重なパイオニアだった。『RWBY』という途中経過を残してこの世を去ってしまったことがあまりにも残念。
『RWBY』の映像はどう見てもまだ未完成だ。かなり手の込んだプレビズくらいのものでしかない。これが中途半端な状態のまま、終わってしまうのはあまりにも惜しい。
 日本のアニメは世界でもの凄い人気、支持を集めている。どこかでモンティ・オウムの後を継ぐフォロワーが現れるかも知れない。いや、きっと現れるだろう。しかし、あれだけの世界観、アクションを作れるのはモンティ・オウムただ一人だ。失ってはいけない才能を失ってしまった……。

※ 『RWBY』の続きはまだ作られています。




メイドインアビス

メイドインアビス そこには人類最後の秘境と呼ばれる謎めいた縦穴がある。それは「アビス」と呼ばれていた。アビスには古き時代の遺物が多く残されており、それを探掘し生活する人々によって街が作られていった。
 と、物語のあらましも、世界観の説明も、上の2行でだいたい全部説明し終えている。非常にシンプルで、それでいて独創的、かつしっかりした奥行き感がある。2行で充分だし、それが含んでいる意味は非常に豊かだ。さらに画面の作りは見事なくらい重層的。誰も観たことのない映像に、誰も知らない物語の創造に成功している。
 上昇負荷という設定がユニークで面白い。ちょっと聞くと「?」だが、実際のその場所に話を進めると、上昇負荷の怖さがわかる。地底に潜り、そこから数メートル上へ上がっただけで身体的な異常が起きてしまう。それは地底に潜れば潜るほど重篤になっていく。この設定のおかげで、「後戻り不可」という大きな制約が生まれたし、ほんの数メートル上を目指しただけで異常が起きる……ということで緊張感が出る。アビスという場所の怖さもわかるし、実にうまい設計だ。

 キャラクターデザインは黄瀬和哉。『劇場版パトレイバー』や『GHOSTINTHESHELL』『人狼』などで知られる、我が国を代表するアニメーターだ。素晴らしい背景画を創造したのは増山修。スタジオジブリを古里とし、その後も『星を追う子ども』や『君の名は。』などの優れた作品に参加している。美術監督が元ジブリ……と聞くと、ナナチのねぐらは確かにジブリ的風景だ。
 と、名前を見ると、結構ものすごい人達が参加した作品だ。

メイドインアビス 何よりも素晴らしいのは、世界観――その世界観を描画するための絵の力。こういったファンタジーを描く難しさは、画面の隅々までしっかり細かく描くこと――そして描き続けること。これをできる人はそうそういない(私には絶対できない)。窓の1つ、タイルの1つも手を抜けないし、そこに独自の物語を感じさせなければいけない。その世界特有の文化を感じさせなければならない。これがうまく行かないと(大抵うまくいかない)、ファンタジーの創作は失敗に終わり、作品もグズグズになる。
 ファンタジーをアニメで描くことに難しさは、想像力の限界にぶち当たってしまうこと。第1話は豪華でも、話が進むにつれ、どんどん背景が貧相になっていくパターンがよくある。技術的な問題とか体力的な問題以上に、想像力がそこまで続かず……でそうなる。クオリティを安定させるために、最近のアニメは実際風景をしっかり研究する。またあるいは、風景描写にあえてこだわらず、キャラクターのみに特化させようとする。『メイドインアビス』の凄さは、第13話の最後まで、ファンタジーの風景を奥の奥まで、ぎっちりと豊かさを表現してみせたこと。一度もその世界観に疑いを持たせなかったこと。ある意味、元ジブリ兵団の凄さを見た……という感じでもあるのだが。
 第1話で面白いと感じたのは、教室のシーン。壁に机と椅子がくっついていて、生徒は縄ハシゴを登って自分の席に着く。これが見た目にもユニークだし、「縦穴に潜る物語」、「垂直に切り取られた世界」というコンセプトともマッチしている。
 細かいところ……草やタイルなどのテクスチャイメージなどはよくあるものを再利用できるが(パターンブラシっぽい感じだった)、ここまで大きな世界観の創造……となるとスケールが違いすぎる。それも、地底へ行くごとに地獄的なおぞましさがどんどん増大していく。ここで相当に独創的な――この作品でしかまずあり得ないような描写に成功している。
 モンスターの造形・生態もかなりがっちりと作られている。第9話で巨大生物のできたてのウンチの質感までよく描けている(像のように巨大な生き物は、ああいうウンチを出すのだ)。なんでもないことのように思えるが、こういうところでしっかり作れているのがいい。物語の世界観そのものは大きなウソだが、自然の生態・動物の生態に嘘を感じさせないところがいい。
 階層ごとの空気の違い、様式の差異、それに絵で地獄的おぞましさを表現しなければならない。物語が持っている重さも、地底へ行くほどに重く、キャラクターの内面世界にディープに抉り込んでくる。どこか『闇の奥』的な印象がある。ここまでの創造は相当の能力がないとできないものだし、それを鮮やかにやり抜いた。つくしあきひとの天才性がよくわかる作品だ。

メイドインアビス 世界観、モンスターの創造は見事なほど独創的、重層的な奥行き感を持っているのに対して、キャラクターは不思議なくらいにファンシー。
 世界観の描写に対して妙に愛嬌のあるキャラクター達は、ファーストインプレッションでは違和感があったが、それ以降は何とも思わないというか、むしろマッチしているようにすら思える。世界観の厚みに対して、キャラクターの描写が決して負けていない。これが凄い。主人公の少年少女だけではなく、様々な世代も同じ様式できちんと描き分けている。
 むしろキャラクターをライトに描くことで、ドラマが変に重くなりすぎず、活劇に軽やかさが生まれている。ありとあらゆる世界、ドラマを《漫画》という世界に内包してしまう日本の漫画らしい特性が活きていると言えるが、世界観の描写に負けていない力強さを持てたのは、つくしあきひとの才能によるものだ。かわいいキャラクターを創造することも、つくしあきひとが創造した巨大な構想の小さな一片……という気がする。

 世界観が独創的なのに対して、物語はオーソドックス……というか王道だ。少年少女の冒険と成長の物語。少年少女の成長を大人達が見守り、促す物語をきちんと描いている。
 リコ&レグの前に最初に立ち塞がる大人はジルオ。リコに厳しく、その旅立ちを阻止しているように見えて、実際はその旅立ちを黙って見送っている。
 次に会う大人はハボルグ。巨漢で、物わかりのいい大人だ。リコ&レグの最初の旅を見守り、ささやかながらの案内人になる。リコ&レグはハボルグに甘えることができたが、あえてそれを拒否して、過酷な冒険へと挑戦しようとする。
メイドインアビス さて、その次がオーゼンだ。オーゼンやリコを徹底的に否定、非難する。リコの旅の目的も否定するし、過激すぎる“教育”を施す。一見するとリコ&レグを死地に追いやろうとすら思えるが、後になってそれらにどんな意味があるかわかるようになる。「それくらいの理不尽と向き合わないと、この先、生き残ることはできない」からだ。
 リコの旅の目的は母親との再会だが、その母親がもう死んでいると指摘し、「それでも地底を目指すのか?」「なぜ目指すのか」という目的の再確認もさせる(結局、母親の生死は現在も不明)。もしも母親がすでに死んでいると知らされた後でも、地底へと進もうという情熱が失うことはないか……? リコはこの課題をきちんと乗り越える。単なる衝動的な思いつきではない。もっと強い意思と情熱……オーゼンはそれをリコ自身に確かめさせたのだ。
 第9話「大断層」。第9話ではキャラクターとの対話はほとんどない。暗く、細い穴蔵を延々這い回っているだけのお話だ。このエピソードがかなり秀逸で(映像も見事だったし)、ここでリコは改めて旅の目的と旅への意思を再確認している。
 第9話の後半で、リコは幻覚を見る(上昇負荷による幻覚だが)。旅を中断して、故郷へと帰る……という幻覚だ。
 これは昔ながらの英雄物語によく見られるパターンだ。英雄は使命の最中に、古里の幻覚を見る。使命を投げ出して、古里……ある種、幻想化した古里へと帰還する。が、その帰還は過ち、偽物のユートピア、まやかしだと気付き、使命へと戻る。古くからの英雄物語、新約聖書にも描かれているし、最近のライトノベルでも踏襲されている、伝統ある王道パターンだ。王道パターンだが、『メイドインアビス』らしいディープさと容赦のなさで徹底的に描いてくれている。

『メイドインアビス』のドラマ的な局面が極まるのは第10話からだ。リコが負傷し、倒れる。リコはレグに、毒の回った腕を切断するように指示する。
 この腕を切断するまでの描写。まず骨を折り、それから肉に刃物を差し入れる。かわいいキャラクターのことを忘れ……いや、キャラクターがかわいいからこそ、この一連のシーンの異様な克明さに、ただただおののいて見守ってしまう。『メイドインアビス』の凄さは、ここまでのありとあらゆるディテールを徹底的に突き詰めるところにあるが、こういった場面においても一歩も躊躇わず、容赦なく描ききってしまうことだ。
 物語の作り手は露悪的であったほうがいい。徹底的に。――というのは私の持論だ。物語を面白くする最大の秘訣は、キャラクターをどこまで転落させられるか、だ。考える限りの“最悪”を想像し、一切躊躇わず、サディスティックに責め続けること。そして――ここからがそれ以上に大事――その最悪の状況に対し、主人公は勝利しなければならない。主人公が転落したどん底の沼が深ければ深いほど、勝利のカタルシスは大きくなる。
メイドインアビス 第10話以降、リコとレグが転落した沼は、恐ろしく深く、絶望的に描かれる。その死地を救ったのはもふもふのウサギさんことナナチだ。ここでしばしのサイドストーリーに移るのだが、ナナチが持っているサイドストーリーもまた、容赦のないどん底だった。『メイドインアビス』世界における孤児の惨めな立場も描かれているし、アビス第5層以降の上昇負荷がいかに恐ろしいものなのかも描かれる。
メイドインアビス ナナチのねぐらは、魔界的な第4層の中にあって、不思議と牧歌的な空気が漂う。全身緑の風景は、浮き世離れしていて神秘的だし、神聖さも感じられる(まだジブリっぽくもある)。こうした救済も、やはり冒険物語における王道だ。しかしやはりそこはアビスの中。表面的な美しさの奥に、魔が潜んでいた。
 その結末として描かれるシーンも、これ以上のないくらいの悲劇的。1時間の特別版として描かれた13話は、長い尺を使ってレグとナナチの心理の行方がしっかり描かれた。時間としては長いが、無駄なシーンはない。完璧なドラマだ。この1本は、間違いなくこの1年のアニメの中で一番の作品だ。

メイドインアビス 長い昏睡状態から復帰するリコだが、途中まで刻まれた傷跡はしっかり腕に残ったまま。親指しか動かせず、補助器具が必要な体になってしまう。こういったところでも、決して“逃げ”ず、克明に描くのがこの作品のいいところだ。

 リコとレグの物語は、まだ終わっていない。アビスの底へはまだ到達していない。ナナチという心強い仲間をパーティに加えて、冒険物語は続く。
 アビスの風景は、さらに冥界的な、地獄的なおぞましさを深めていく。そこに住んでいる獣はより強力になっていくし、上昇負荷も生存に関わるレベルで致命的になっていく(素朴な疑問だが、第5層まで降りた後、どうやって帰還するのだろう?)
 その底のほうで待っているというリコの母親……。少し『古事記』を思い出す。黄泉の世界に待っているという母親は、果たしてまだ正気でいるのだろうか。
 アニメはその途上で終わってしまう。
『メイドインアビス』は文句なしに素晴らしい作品だが、不思議なことにさほど評判にはならずに終わってしまった。ネット上の人気ラインキングでは……サイトにもよるが、どちらかといえば低い評価に留まってしまっている。
 作品を見たという人が少なく、一方で見たという人の熱量が大きすぎるので、「メイドインアビス面白いよ!」と言うとネット上では「信者」扱いと見なされ、危険視されるというよくない傾向も見られる。
 なんとも惜しい話だ。どうしてこうもアニメファンから興味を持たれなかったのか、よくわからない(いい作品なのになんとなくスルーされる……この世界ではよくあることだ)。このクオリティなら、もっと注目され、話題にされてもよかったはずだ。キネマシトラス作品でいえば、『ゆゆ式』の例もあるし、根強く支持され話題にされ、いずれ再注目されることを期待したい。
 リコとレグの冒険が再びアニメとして描かれるかどうかわからないが、私はこの冒険が再開されることを願っている(ナナチの活躍をもっと見たいです)




 今期のアニメは、見ていたアニメがたまたまそういう傾向だったわけだが、日米文化の共同、女の子の職業もの、ファンタジーのだいたい3つのどれかになった。
 日米合作は、今後、増えるようだ。「アニメは金になるコンテンツ」ということは世界中の誰もが知っている話なので、その波に一枚噛みたいと思っている連中はたくさんいる。この流れに、(すでに参加しているが)中国も関わってくる。すでに動きがあるが、米国企業資本のアニメ、あるいはアメリカ生まれのANIME……。さらに中国企業の投資があり、中国資本で日本に住所を置いているアニメ会社もすでにある。アニメはさらに多様に、カオスになっていく。この流れの結末がどうなるか、まだまだ掴めないところだが……。

 ファンタジーは『魔方陣グルグル』と『メイドインアビス』と対極ともいえる作品。『魔方陣グルグル』はユニークなキャラクターを中心とする今時のファンタジー作品。有名RPGをヒントにパロディにして生まれた作品。それに対してハイファンタジーの『メイドインアビス』。世界観先導型のファンタジーで、キャラクターはあくまでもその世界観の一部でしかない、という捉え方。この2本で今の日本で作られるファンタジーの傾向を語ることができそうだ。
『サクラクエスト』『NEWGAME』は女の子の職業もの。これはアニメにずっとある流れ。“高校生活を始めたばかりの女の子が部活で○○するお話”というフォーマットから1歩進めて、女の子が何かしらの職業体験するお話。フォーマットがあるので、それにきちんとお話を載せれば作品として破綻することはまずない。難点といえば同コンセプト作品が市場に溢れすぎていて、埋もれやすいことだ。

 まあそれはともかくとして、最近見ているアニメの多くに共通するポイント。それは声優・日笠陽子だ。どういうわけか、私の見ているアニメの8割か7割くらいに日笠陽子が登場している。『NEWGAME』の八神コウは飄々としていながら実力を持った先輩としての存在感、『レクリエイターズ』の気高い騎士アリステリア、『RWBY』では同じく騎士でありながら、気品さとユーモアのバランスが良かったワイス、『アホガール』なんともコメントしづらいブチ切れ演技、『ザ・リフレクション』では硬質感のある悪役を堂々と演じてみせた。様々な作品に出演しながら、しっかりした存在感、それでいながらその作品に溶け込む演技力。もはや日笠陽子の声を聞かない日はないかもしれないレベルだ(いま間違いなく「親の声より聞いている」声だ)。『けいおん!』の秋山澪以降、注目され続けている声優ではあるのだが、最近はその当時よりももっと魅力的に思える。私はこの素晴らしい声優に、こっそりとささやかな賞賛を送りたい。