皆様こんにちわ。
 この記事は、2018年1月から3月頃までの期間に放送、配信されていたアニメの感想を一言ずつ書いたものです。全てのアニメではありません。私がなんとなく見ていた作品のみです。
 全体的に、ゆるくて軽くて薄い内容なので、パッと読み流して、サッと忘れるくらいの気持ちで読むといいと思います。
 今回取り上げている作品は、

(前編)
ポプテピピック
おそ松さん
銀魂
ダーリン・イン・ザ・フランキス
デビルマン crybaby
(後編)
B:The Beginnig
A.I.C.O Incarnation
ゆるキャン△
ヴァイオレット・エヴァーガーデン

※ 前後編に別れています。

 以上の9本です。

はじめに 読み飛ばし推奨

 前の記事でも報告したが、2018年に入り、Netflixに入会した。これまで、こういった配信サービスは基本的に避けていたのだが……避けていたのは「宗教上の理由」とかそいういう事情ではなく、単にお金がなかったから。かなりギリギリの生活をしているから、月々いくらのサービスなんて、生活が苦しくなるだけだぞ……と思っていた。それは確かにその通りで、そのぶん削らなければならないものが出てしまったが。

 それはさておきとして、なぜ突然にNetflixに入会したのか。それは今期見たいアニメのいくつかがNetflixオンリーだったからだ。これまでもNetflix配信のアニメはあったけど、少数だったし、テレビでも見られるから、特にNetflixに課金する必要はないかな……。
 と、思っていたのだが、今期に入り、明らかにNetflixアニメが本気を出してきた。去年くらいから、Netflixがアニメに力を入れている、日本のアニメ会社にものすごい額の投資をしている……という話がちらちらと出てきていたのだが、2018年、それがはっきり形となって現れてきた。

 生活苦しいし、なんか話題になっているな……で諦めて遠くから見ているだけで終わる。というのも1つの手だが、ちょっとこの流れに乗ってみたい。この先に何があるか見てみたい。そういう欲が出て来て、それでNetflixに入ってみようか、と。
 もしも展望が見えないようだったら、3ヶ月で契約を打ち切ればいいわけだし最初の1ヶ月は無料だし)。そこまで懐は痛くならないだろう――そう思って。

 Netflixで日本のアニメはどう変わるのか? 作品を通して見ていかねばならないテーマはここだろうと思う。
 まず書かなければならないこととして、Netflixコンテンツはとても金払いがいいらしい。アニメだけではなく、色んな映画雑誌を見ても関係者が好意的に言及している。Netflixはしっかり金を払ってくれる、と。実際に、アニメにしてもドラマにしても映画にしても、驚くような予算で作品を制作している(アニメシリーズならテレビの数倍だそうだ)。しかもそのお金の多くは、きちんと現場の人間が手にしているという。
 いったいどこからそんなお金が出てくるかわからないが……。
 何にしても、これまでテレビでできなかったテーマ、これまでにない予算枠でより優れた作品が見られる、作られる機会ができるなら大歓迎だ。 

 それで、その功罪がどんなふうに形として現れるか――。Netflixアニメだって、どこかしらマイナスポイントはあるはずだろう。それを従来の委員会方式製作アニメと天秤に掛けて、良いポイントと悪いポイントがどれだけあるか。そういう諸々が関係者から語られるのはきっとこれからだ。

ポプテピピック

 第1話を見て……
 うわークソだ! うわーなんてクソなんだ! すげークソだ!

 でも、日和るなよ。2話から日和るなよ……

 第2話を見て……
 やったー第2話もクソだ! めちゃくちゃにクソだ! もうクソすぎて嬉しい。

 ……褒めすぎだ。

ポプテピピック 今期アニメシーンを完全制覇したアニメ『ポプテピピック』。そのインパクトはかなり大きい。いかにして観る側の意識を攪乱するか、観る側の固定概念を引っかき回すか。最終的に「クソ」と一言で要約される印象に持って行かせるか。クソであることに全勢力が注がれた作品だ。

 『ポプテピピック』のモチーフはかつてなく柔軟だ。
 オープニングアニメでは様々なものに形を変えていくポプ子とピピ美が描かれる(オープニング曲は、私個人的に今期ナンバーワンだ)。歯磨き粉だったり、金太郎飴だったり、なんだかわからないチューブ状の何かだったり……。デザインの志向も次々と変容していくが、そのどれを切り取ってもポプ子とピピ美だ。どこまでも変容してもポプ子とピピ美であるという認識が崩れることはない。主張が強力なのだ。
 一応、ポプ子とピピ美を定義付ける設定はある。ポプ子とピピ美、ともに14歳の中学生で、ポプ子よりピピ美のほうが背が高い。しかし、そもそも学校に通う場面すらなく(……そういえば遅刻しそうな場面はあったなぁ)、車を運転するし、喫煙シーンも頻繁にある。最近は架空のキャラクターであっても喫煙問題はうるさく言われる時代であるのに、中学生キャラクターが喫煙をしても、誰も何も言わない。「14歳設定」が「17歳設定」と同じくらいに「設定だけのもの」になっているのだ。
 『ポプテピピック』のイメージは様々に変容していく。第2話では万策尽きた原撮動画に、実写シーン。第4話ではコマ撮りによる人形アニメ。第5話にて唐突に始まった少女漫画風アニメ『イモ☆ヨバ』。第7話では伝説となった高速紙芝居による『ヘルシング矢野』。毎回挿入される奇怪な短編『ボブネミミッミ』も見逃すことはできない。
 毎回毎回、様々なイメージが展開されていく。様々な映画、アニメ、ゲームからの引用し、ただ引用するだけではなく、その都度、作品の志向、デザインスタイルもずんずん変容させていく。
 こう描いていくことで、私たちの「アニメってこうでしょ」という先入観を徹底的にかき乱し、混乱させ、そして笑いを引き起こしていく。ここまでイメージをかき乱しながら、『ポプテピピック』であるというアイデンティティは決して崩れていない。ここが凄い。
 『ポプテピピック』は毎回様々な作品から引用……パロディが描かれるが、大人しいパロディはただの1つとしてない。安全に笑いを取ろうと思ったら、ネットで繰り返し引用されているネタをやればいい。例えば、人が倒れているシーンだったらヤムチャを描けばいい。特に意味はなくとも「人がゴミのようだ」とか「話は聞いた。世界は滅亡する」とか、そういうネタを放り込んでおけばいい。安易だが、安全に笑いが取れる。
 だが『ポプテピピック』はネットで繰り返し引用されているネタを一切なぞらず、独自の道を切り拓いていく。毎度毎度「そう来たか」「そんなの誰がわかるんだ」「……これ、元ネタなんだ?」というような、ありとあらゆる作品やイメージかが引用され、展開されていく(解説されないと元ネタがわからない引用が非常に多い)。パロディといったら、あのありきたりなイメージが使われるんだろう……そんなこちら側の読みを軽々と飛躍し、思いがけないイメージを次々に引用し、連ねてくる。「ネットで形骸化したネタは使わない」という作り手側の挑戦……笑いのフロンティアを目指そうという意欲すらも感じさせる。
 笑いとは安易な世界からは生まれない。笑いとは、私たちの意識を攪乱させ、裏を突くことだ。その不意を突かれた瞬間にこそ、鮮度のある笑いは起きる。『ポプテピピック』はこの笑いを引き起こすために、ありとあらゆる手段を尽くし、みんながよく知っている表現を壊し、アニメという形を壊し、これまで誰もやらかった表現に挑戦する。私たちは『ポプテピピック』の映像を笑う前に、感心している。私たちは心から感心し、賛辞の代わりにこう言う――クソだと。
 そう、クソなのだ。『ポプテピピック』には敷居の高さなんてものがない。なにもかもが馬鹿馬鹿しい、低質なジャンクフードに変えてしまう。だが堂々たるクソであるから、笑いが起きる。
 私たちの『ポプテピピック』に対するイメージはあっという間に崩壊し、あっという間に再構築されていく。どこまでもイメージを変容させていくのが『ポプテピピック』だ、と了解する。第3話前半の、上坂すみれと小松未可子コンビが一応正式な声優であるはずで、この2人の演技は間違いなくキャラのイメージに合っているのだが……第3話まで来ると、もはや違和感しかない。『ポプテピピック』はイメージを壊して変容していくものだ、という認識が、早くも私たちの中に作られてしまったからだ。イメージ通りだとかえって違和感になるという不思議状態に陥ってしまった。
 『ポプテピピック』は私たちがアニメに抱いていたイメージを変容させ、アニメの笑いを新たな次元へと押し上げてみせた。それは現代のアニメシーンに対する批評でもある(笑いとは楽しいものであるが、批評でもあるのだ)。「アニメってこういうものでしょ」とか「アニメファンが喜ぶ笑いってこういうものでしょ」とか、そういう思い込みを徹底的に破壊し、間違いなく新しいものを描いてみせた。私たちが『ポプテピピック』という作品を通して感じられるのは、コントロールの効かない駄々っ子……あるいは革命家の姿だ。

 私のお気に入りは第5話。杉田智和&中村悠一コンビ。本編が12分で、『イモ☆ヨバ』でさらに短くなってしまっていたのが惜しい。息が合いすぎて、愛おしさすら感じる。この2人の芝居なら50分くらい聞いていたかった。
 ちなみにNetflixなら、アドリブ部分もばっちり字幕でフォローされる。何を言っているのかわからないところも、Netflixならわかる。あのアドリブがきちんと字幕で書き出されるのは、かなりシュールではあるが……。

 『ポプテピピック』が描いた衝撃は、あっという間に国内のアニメシーンを飲み込み、評判は国外へと拡大していった。が、懸念と苦言が2つ。
 1つは『ポプテピピック』の成功が、「成功体験」になってしまうことだ。『ポプテピピック』はよくよく考えるまでもなく、危ない綱渡りをやっている。放送時期を間違え、告知していた主演声優が登場せず、しかも同じ映像を2回放送する……。普通に考えたら炎上する。普通に考えたら炎上するようなネタで、見事大成功したのが『ポプテピピック』だ。 
 成功した理由は、スタッフが足並みをしっかり揃え、最終的に帰結したのが『ポプテピピック』という作品だったからだ。『ポプテピピック』という作品でなければ、炎上して終わっていただけだ。他の作品では使えない。
 しかしこれがうっかりアニメビジネスの「成功例」として語られ、模倣しようという制作者が現れたら……。あるいはこの作品に関わった人達が「成功体験」として刷り込まれ、別作品で同じことをやろうとしたら……。その時は、普通に炎上するだけだ。
 もう1つの懸念は、「2度目はない」だ。『ポプテピピック』は今期のアニメシーンを制覇しただけではなく、円盤販売も好調なスタートを切った。もしかしたら第2期の話は出ているかも知れないが……2度目はない。
 同じネタは通用しない。笑いは鮮度が短く、あっという間に腐る。もしも第2期があったとして、その第2期も同じフォーマット……パロディてんこ盛りで、毎回同じアニメを声優を変えて放送したら? それは誰も見ないだろう。「もう飽きた」で終わる。『ポプテピピック』の特殊なフォーマットは驚きを持って歓迎されたが、第2期にもなったらそれは「意外」ではなく「予定調和だ」。予定調和に笑いはないし、私たちが『ポプテピピック』に求めている笑いはそれではない。誰も予想が付けられないエキセントリックなものが見たいんだ。それがなくなったら、もう『ポプテピピック』ではない。
 それでも第2期があり得るとしたら、第1期で私たちが「ポプテピピックとはこういうものだ」というイメージを徹底的に破壊し、攪乱させ、刷新させるものでなければならない。私たちは『ポプテピピック』に、全てを破壊して欲しい、ということを期待しているのだ。


おそ松さん

おそ松さん2 第2期1クール目がやや低調だった『おそ松さん』。2クール目に入って、徐々に本来の調子を取り戻していく。13話の「戦力外通告」、第14話「チョロ松事変」、15話「カラ松タクシー」と印象的なエピソードが続き、18話「イヤミはひとり風の中」ではいつもの笑いを封印し、素晴らしい感動を引き起こしてくれた。第20話の「こぼれ話集2」も一つ一つが秀逸だった。

 今期は対抗馬『ポプテピピック』の登場により、なにかと比較されがちだった『おそ松さん』。ある種の巻き込まれ事故……だったが。なんとなく比較されてしまったのは、方向性が似ていたから。『おそ松さん』って、本来こうじゃなかった? ……というものが『ポプテピピック』の側にあって、『ポプテピピック』はさらにそれを濃く煮詰めていたからだ。
 第2期『おそ松さん』は最初の頃、明らかに日和っていた。ネタに力はなく、危なそうなパロディは排除されていたし、どちらかといえばキャラクターのゆるい対話ばかりの話になっていた(それも、「起・承」まではよかったが、「転・結」でグダグダになるパターンが多かった)。安全運転しすぎだ。
 違う、『おそ松さん』に求めていたのはそうじゃないんだ。もっとアグレッシブで切れ味のある笑いを期待しているんだ。みんなが期待したものが『おそ松さん』にはなく『ポプテピピック』の側にあった。だから気持ちは『ポプテピピック』に偏りがちだし、同時期のギャグ作品として比較されがちになってしまった。
 ある意味、『ポプテピピック』に飲み込まれてしまった……と言えなくもないが。

 それに、笑いは腐るのが早い。笑いは鮮度が大事……というが、最近はコンテンツ数が多いせいで、笑いが腐る速度がより速くなったように思える。
 『おそ松さん』第1期終了2016年から第2期2017年、わずか1年だったが、『おそ松さん』から受ける新鮮味はだいぶ薄くなってしまった。笑いを次々に刷新していかなければならない作り手側は大変だ(それに、今期は『ポプテピピック』という強ライバルが出現してしまった)
 2クール目の『おそ松さん』は初期の勢いのある笑いはじわじわと戻ってきたが、時々、自己模倣と再生産が入る。第19話の「バレンタインデー」は、「そういうノリはもういいよ……何度目だ」と思わされた。ああいうネタはもう飽きた。もうわかった……というものは何度も繰り返さなくてもいい。思った通りのものしかないものは笑えない。
 そういう印象になるのも、「今」という時代だから。「定番の笑い」とか「鉄板のネタ」とかそういうものがない時代。常に笑いを創造していかなければならない……。その時代の難しさに直面した作品だったといえるかもしれない。

 たった1年。あの時の『おそ松さん』人気はすっかり落ち着いてしまった。あれほどの熱狂はもう『おそ松さん』にはない。第2期第1話で描かれたような女の子に大人気……という姿はもうない。
 それでも、『おそ松さん』というキャラクターの強さだけはまだ残っているはずだ。キャラクターだけは残った。この先の展開があり得るのかわからないが……とにかくも、来期にはうっかり『ポプテピピック』とはぶつからないようにしたいものだ。


銀魂

 3ヶ月の休止期間を経て、『銀魂』がテレビに復活した。
 ……が、私個人的に、気持ちが『銀魂』から遠ざかり始めていて……。細かい設定や、あらすじを忘れてしまっている、というのもあるけど。物語の熱に、どうしても気持ちが乗らない。
 前期『ポロリ篇』が短編ものだったから、メインストーリーのほうは1年……(『烙陽決戦篇』2017年1月9日~3月27日まで)。さすがに時間が開きすぎだった。気持ちの途切れができてしまうのは、仕方ない。
 それに、作画の熱も冷めてしまっている。『将軍暗殺篇』『烙陽決戦篇』と比較して確実に作画のエネルギーは弱くなっていっている。作り手側も熱を失い掛けているんじゃないだろうか。エピソードの作りも、一つ一つに緊張感が弱い。物語が展開していく快感がない。
 こういった設定が雑なのにかかわらず人気作で、ずっと物語が続いていく作品はかなり貴重なのだが……。漫画は本来、これくらい雑で楽しいものだ、ということに戻れる唯一の機会になっているのだから。
 相変わらずギャグセンスは好きなんだけど……。津田健次郎の素晴らしい演技、ハタ皇子にまつわるエピソードは秀逸だった。

 熱が冷めていく『銀魂』だが、その中でも素晴らしいパフォーマンスを見せてくれるのが杉田智和の熱演。杉田智和といえば「笑い」のほうを期待され注目される声優だが、実際には優れたポテンシャルを持っている。『銀魂』は銀さんとの付き合いが長く、理解が深いというのもあるが、「ギャグ」と「シリアス」この両方でベストな演技を見せている。特にシリアスなほうの演技は、他の作品では聞いたことのない熱量を持っている。声を聞いていて、ゾクゾクする場面がいくつかあった。銀さんを演じる杉田は最高に格好いい。
 銀さんは杉田智和の人間を引き出したキャラクターといえるかも知れない。


ダーリン・イン・ザ・フランキス

ダーリン・イン・ザ・フランキ “表面的”にはロボットアニメ。旧ガイナックス遺伝子を強烈に感じる作品。
 これまでTRIGGER作品はガイナックス遺伝子を感じさせつつも、コミカルな方面へと振り切っていて、そこで“ガイナックスの子”として独自の成長を遂げていったように思える(シリアスな作品もあったけど)
 しかし『ダーリン・イン・ザ・フランキス』では巨大ロボットと怪獣が登場し、思春期の少年少女の葛藤が描かれ……かつての『エヴァンゲリオン』を思わせる構造だ。不思議と、謎めいた用語の使い方や、エレベーターやエスカレーターシーンの構図なども『エヴァンゲリオン』に似ている。『エヴァ』の子であることを隠そうともしない(というか意図的に『エヴァ』と連想させるように作っているようにも思える)。劇場版『エヴァ』と分離した、新しい『エヴァ』。ある意味でも兄弟的な関係の作品だ。

 ただ……これを書いている頃というのはまだ7話。第6話までの大きな一幕が終わり、インターバル的な“水着回”が描かれたところだ。
 前半部分……社会性に欠落のある少年パイロットが、一度は任務から外されかけたが、強敵の襲来、ゼロツーという新たなパートナーの獲得で再びチャンスを得る。ヒロはその後も障害に悩まされ、迷いつつもそれを乗り越え、力を覚醒させ、次なる強敵を撃破する……。ここまでが6話だ。
 ここまではロボットアニメ定番のプロットだ。ロボットアニメ王道のプロットを丁寧になぞった作品だ……と、“表面的”には言える。

 問題となるのはここからだが……。明らかにいって、この作品は何かを隠している。いや、隠していることは見え見えで、半分以上見えてしまっているわけだが。その隠しているものが何で、これからどのように情報を開示していくのか。ここで、この作品の真骨頂が現れてくるだろう。
 というわけで、今これを書いている時点では、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』の感想は「保留」だ。
 2クール作品、残り15話もある。表面的にはいわゆるなロボットアニメの体裁で作られているが、その奥行きに何が隠されているか。次なる展開を期待して待つとしよう。



デビルマン crybaby

デビルマン デビルマン……子供の頃、テレビで見てたな。テーマソングをおぼろげながら憶えてる。内容はほぼ憶えてない。私のデビルマンの知識は、まあだいたいそのあたりで止まっている。

 私がNetflixに入会した理由の1つがこの『デビルマン』だ。といっても『デビルマン』というより湯浅政明監督だから、だ。湯浅監督がどんな作品を作ろうとしているのか、なぜ『デビルマン』なのか、それを見てみたい。Netflixに課金してでも見たいと思ったから、が理由だ。

 湯浅監督の画はかなり独特だ。ある瞬間、子供のようにしか見えない画を出してくる。例えば『ピンポン』で描かれた町の風景は、すべて本来のパースと逆方向に描かれている。色もドバッと置いたようなまとまりのない感じで、あたかも子供が図画・工作の時間に描いたような絵だ。
 しかし、これがものすごくはまっている。不思議な感じなんだ。『デビルマン』第1話でも、不動明に手を差し出す飛鳥了。デッサンも構図もおかしい。しかし技術のない人間が迷って描いた線ではない。「そう狙って描きましたけど何か?」というくらいの自信が感じられる。
 『デビルマン』で特徴的な描写といえば悪魔が走る姿だろう。あんな奇妙な画は見たことがない。カートゥーン的というべきか、黎明期のアニメ的というか。洗練されているように見えないのに、描写に迷いがない。見ているとだんだんと野獣的な美しさすら感じる。アニメ的な走りといえば『NARUTO』の前傾走りだが、それよりも一段上の表現を描いてみせた……という感じだ。
 人間パートはわりとしっかりとしたデッサンと空間描写で描かれるのだが、悪魔が登場すると、全てが崩れる。デビルマンが登場し、姿がシルエットになって叫ぶ場面は、手足が大きく誇張され、なんというか、子供の描いた絵のようだ。歯の描き方はバイキンマンのようにギザギザ。あんな表現、今時のアニメではあり得ない。
 悪魔が登場する場面はだいたいみんなこんな感じ。デッサンとかそういうものがない。グズグズに崩れるのだが、しかし一方でアニメ的な快楽はどんどん大きくなっていく。線の動きはダイナミックだし、荒々しいデザインからは野獣的な恐ろしさが感じられる。普通のアニメ……線が整理されたアニメの世界では、ああいったデタラメでしかないデザインの怪物はだいたいキャラクターに厚みが感じられなくて破綻するのだが、湯浅『デビルマン』はあれだけ思いっきりデタラメなのにもかかわらず、きちんとその世界観の中で存在感を持てていて、映像がきちんと成立しているように感じさせてくれる。総じて恐ろしいと感じられるし、しかも格好いい。実に不思議だ。
 普通のアニメのロジックや、画作りのセオリーを全て無視して、どのカットを見ても「湯浅監督」でしかない。完全なオンリーワンの画を作り出す。構図の作りも、線の流れも。一見すると洗練されてないように思えるし、色彩もどぎつい色を好む。でも見れば見るほど、そうして作られた画が心地よい。画作りに迷いがない。シンプルで固まりすぎてないキャラが目一杯動き回る動画が心地よい。構図全体が醸し出す空気に魅了され、ずっと見ていたような、奇妙な快楽を生み出す。

 『デビルマン』は第1話から“やらかす”。「サバト」と呼ばれる集会へ行くが、そこでは男女が乱交パーティを始めている。もうこの時点からテレビ放送不可能だ。男女が密着して激しく腰を振っている。大きな乳房が揺れる。尻も揺れる。嬌声があちこちから聞こえてくる。その描写は、変な小細工をして隠そうとしない。とにかく明け透けなのだ。
 エロスの場面だが、受け取れる印象はそこまでエロに傾いていない。女体そのものに集中しすぎず、常に構図や色彩といった全体要素に目が向けられているからだろう。それにシーンの異様さは“サイケデリック”と表現したほうがいい。
 期待通り、エロスの場面からバイオレンスの場面へと移り変わる。享楽の乱交パーティが惨劇へと変わる。衝撃的なシーンの流れだが、不思議なくらい、“ショック”というか、“シームレス”に移動していく。「起こるべくして起こった」……そういう感じだ。
 第1話からこんな具合だが、やはり全体に張り巡らされているのが湯浅節だ。尋常ではないエロスから、尋常ではないバイオレンスへ。シンプルな線と色彩の動きだけで、場面が持っている奇怪さ、サイケデリックな空気を演出しきっている。あの演出は、湯浅監督にしかできない。

 物語は基本的に、3人の主人公を軸に動いている。
 不動明。もともとは非常に繊細な少年だ。ちょっとした不幸を聞いただけで泣いてしまう。あまりにも繊細すぎて、あまりにもか弱い。
 そんな不動明が悪魔に取り憑かれる。悪魔に取り憑かれると暴力、食欲、性欲がコントロール不能になって、まさに悪魔的行動を取ってしまうわけだが、ベースとなっている不動明が超繊細だったためか、理性が残り、悪魔をコントロールできるようになる。しかし完全にコントロールできるわけではなく、物語が進行するにつれ、自身の内側から来る獣性に取り憑かれそうになる。
 そこに、葛藤が生まれる。人間としての自分と、悪魔としての欲望が不動明を引き裂こうとする。そのアンビバレンツな状態の中で、ドラマが生まれる。
 飛鳥了。不動明の幼なじみだ。全身がほぼ真っ白。金髪で、真っ白なシャツ、真っ白なズボン、真っ白なコートを着ている。おそらく、天使がモチーフになっているのだろう。飛鳥了は悪魔の存在をいち早く察知し、悪魔との戦いのために様々手を尽くして備えようとする。だが、その“正義的行動”は異様だ。迷いがなさ過ぎる。第1話で悪魔を炙り出すために、サバトにいる人達を躊躇なく刺し殺していく。行き過ぎた正義の不気味さ。ためらいなく正義を行える不気味さ。第4話では“ある場面”をビデオで撮影するのだが、その時の了はとてもいい笑顔をしている。場面が場面だけに、あの笑顔はなんとも不気味だ。
 牧村美樹。物語のヒロインだ。美樹は「正しいと思うことを、正しく行うことができる人間」。飛鳥了も「正義の人間」だが、美樹は性質が違う。美樹には力強い良心が備わっている。物語の後半ほど、悪魔的な展開が強くなっていくのだが、牧村美樹は決して間違ったことを行わない。常に正しい。常に優しい。その見事なまでの高潔さはもはや聖女と呼ぶべきものだ。聖女的な神々しさを持っているから、美樹は暗澹とした物語の中で輝き、物語全体の中で“重し”になり得ている。

 悪魔と人間の間で迷い続ける不動明。迷いがなさ過ぎる正義ゆえに不気味な飛鳥了。まさに天使の牧村美樹。この3者が交差し、その3者を取り巻くように物語が進行していく。
 進行していく……というかほとんどの人が“堕ちていく”物語だ。『デビルマン』の物語は、底の見えない暗闇へと、絶望へと、全員がはまり込んで堕ちていく。
 『デビルマン』の原作は1972年。当然ながら、当時と世相は違うだろう。違うはずなのだが、湯浅版『デビルマン』は妙に現代にはまっている。都市の中で生まれていく「貧困」や、「成功者への妬み」。「金」と「薬」と「銃」。日常という「幸福」が覆い隠そうとする、その裏にある現代的な悲劇が描かれ、その悲劇からさらに惨劇へと、堕ちていく物語が描かれていく。2018年という時代に描かれた湯浅『デビルマン』だが、もしかしたら40年後の時代でも相変わらず日本は変わらない、変わらない葛藤と暗部を抱え続けるのかも知れない。


ここからネタバレ!!


 しかし、実は引っ掛かる場面がある。第7話以降の展開だ。第6話ラストで世界に変革が起き、第7話で世紀末世界が描かれる。……のだが、その展開がかなり強引だ。いきなり日本が「銃社会」になり「自警団」が生まれるのだ。
 「誰が悪魔なのかわからない」という疑心暗鬼の中で、ネット上で噂話だけが進行し、まったく無関係な人達が理不尽に「悪魔認定」されリンチされる。今のネット社会、ありそうな話だ。
 ただ、「銃社会」と「自警団」はあまり日本的ではない。まず銃は日本にいうほどない(全くないわけではない)。それが第7話になると突然に、誰もが銃を持っている、みたいな状態になってしまう。こういう展開になるのなら、もっと早い段階で、日本で銃が拡散されていく過程を描いてほしかった。
 もう1つは「自警団」。自警団文化は欧米、特にアメリカで盛んな思想だ。日本は自警団というより、「運営したがり」だ。「ゴミの分別はこうしなさい」とか当事者ではない人がやたらと口を出してくる。ルールを作っても守らせたがるのが日本人だ。自警団的なものとは、ちょっと発想が違う。

 唐突に舞台が動きすぎて動揺を誘う7話以降だが、ドラマ的な動きは7話以降にこそ濃密に、7話以降こそ作品の本題へと入っていく。
 まずこの地点で、「人間と悪魔」の立場が入れ替わる。人間こそ悪魔。普通の人間こそやばい。普通の人間が抱える危うさ、人間の内部に潜む悪魔的な危うさが描かれている。悪魔に取り憑かれる間もなく、人間には悪魔的な性格がすでにあるのだ……と。
 ネット社会についても言及されているこの作品だが、まさにネットこそ、「人間と悪魔」の境界が危うくなっている世界だ。他人の、少々の欠点を探してえぐり出してマウントを仕掛けたがるあなたは人間か、悪魔か、それともただのクズか……ってね(あれだけ世界が荒廃しているのに、ネットは当たり前のように繋がるのは、かなり不思議だが)
 『デビルマン』が指摘するまでもなく、ネットという世界で、悪魔的な性格を剥き出しにている人間は、それこそ一杯一杯いる。おそらくそういう人のほとんどが「普通の人」、きっと日常世界では「繊細で気弱な人」なのだろう。だがネットというタガが外れやすい世界こそ、人間は悪魔になる。

 これ以降の物語について、ここではあまり言及できない。
 ただ1つ、『デビルマン』は他で例えることのできない「悲劇」の傑作である、と言いたい。7話以降、それ以前から観る側を抉ってくるような展開だったが、7話以降こそ本格的に抉ってくる。苦しくなる。展開が絶望的すぎて見るのもつらくなる(『デビルマン』はバイオレンス描写が盛りだくさんの作品だが、本当に恐ろしいできごとが描かれるのはストーリーのほうだ)。しかし物語が持っている魔的な力がどんどん引き込んで、あと1話だけあと1話だけといっきに最後まで視聴してしまう実際7話から最終話まで一気視聴した)。全て見終えた後は、しばらく茫然と言葉を失ってしまう。悲劇でしかない。
 しかしただ悲しいだけの物語ではなく、悲しいと同じくらい「美しい」物語だ。不動明=デビルマンは悪魔に取り憑かれつつも、「愛」を信じ続ける。そしてその「愛」を誰かに受け渡そうとする。そのモチーフとして陸上のバトンリレーが描かれている。
 と、こう文字だけで書くと安っぽいドラマのように聞こえるかも知れないが、そんなことは決してない。どん底の悲劇、どん底へと全員が手を繋いで落下しようとする中で、愛を信じ、たった1人で踏ん張って、堕ちていこうとする人達を引っ張りあげようとする者の物語だ。その人間描写が絶望の闇の中で美しく輝く。映像は後半ほど真っ黒になっていくのだけど、愛を信じる人間がどこまでも美しい。
 クライマックスが描く悲劇は、名作と評されるべきだろう。愛の美しさと絶望。その全てが混沌と混ざり合って収束していく物語。この1作だけでNetflixに入会して本当に良かったと心から言える傑作だ。



後編へ続く