みなさんこんにちわ。

 相変わらず地獄が続いています。収入も休みもありません。ずっと働き続けています。
 「いつか報われる日が来る」と信じて1人で勝手にブラックをやっていましたが、全ての失ってブラックがダークネスへ、もうしばらくしたらデス(死亡)になると思います。

 私は何を間違ったのだろう……何をすべきなんだろう……なんでこんな無価値な作業を続けているのだろう……。
 日々自問自答して、もう早く終わりたい、死にたいと思う日々が続いています。

 人生なんて、簡単に終わりが来るもんなんです。

 えーっとそれでですね……。
 毎回書いている文言で今回も書くつもりですが、「記事全体を見るとやや長めに見えますが、一つ一つは短いです」……っていうこれ。一つ一つも結構長いよね。結構どころか、だいぶ長いよね。
 最初の頃は確かに短くて「あんまんが喰いたい!」くらいの3行くらいの内容が中心あったような記憶があるのですが、いつ頃からこうなったのかな……とにかくも一つ一つもアホみたいに長くなっている。長さ的にも内容的にも、さすがにこれは独立させた方がいいかな……という濃いやつが結構ある。
 だいぶ前から自分で気になってはいたけど、何しろ忙しい、疲れている、ブログ更新に使える日が1ヶ月のうちの1日、それも数時間しかないという状況下(ブログ更新後はまた仕事)なので、結果的にこの形をずっと続けてきたけども。そろそろ変えようか……とは考えています。今も忙しいんで、あと2~3ヶ月くらい先の話にはなりそうだけど。

 そういうわけで、いつものやつです。
 こちらの記事は、5月中にTwitterやらPawooやらに書いたあれこれをまとめて、すこーし書き足ししたものです。記事全体を見るとやや長めに見えますが、一つ一つは短いです。短いんですよ!! 見出しを付けているので、自分が興味をもったものだけど拾い読みしていくと、ちょうどいい感じになると思います。

 それでは、5月中の話題です。

5月1日 pixivで有名イラストレーターさんにフォローをもらう

 pixivで有名なイラストレーターさんにフォローをもらった。

 え? なんで? ものすごい好きなイラストレーターさんじゃないか。なんで私みたいな底辺絵師をフォローしてくれたんだ? 何か押し間違えちゃったのか? このクラスのイラストレーターさんにフォローもらったのは初めてだぞ?

 これは挨拶したほうがいい? お礼言いにいったほうがいい?
 でもどうやって? Pawoo経由でメッセージは……送り方わかんねー。関係ない投稿にコメント付けたら迷惑だよな。pixivでメッセージを送れるが……あれはいきなりくると、「え? なに?」と思うものだし。絶対忙しい人だから、送り返す必要のないシンプルなもののほうがいいよな。
 んーどうしよう。


 結果、何もせず。
 まあ、仕方ないか。なにをすべきだったかわからなかったし。
 おそらく「押し間違え」と思われるし。


5月1日 電ファミ格ゲー話の感想

電ファミニコゲーマー:格ゲー“暗黒の10年”は、『鉄拳』を世界一売れる格闘ゲームへと鍛え上げた──世界市場に活路を拓いた戦略を訊く【バンダイナムコ原田勝弘インタビュー/西田宗千佳連載】

 読み終えるのに4日。恐ろしく長いが、そのぶん濃い。読む価値のある内容だった。


〈引用〉
 けれども僕らは、ちょうどプレイステーション2(2000年発売)に移行する以前の段階からすでに、「21世紀に入ると、開発側も市場も、このままだと欧米がいちばんの勢力になる。ヤバいぞ」、「アメリカの逆襲がそこから始まる」ということに気づいていました。


 この辺りの話は、三宅陽一郎さんの話にあったよね。
 私の考えでは日本の作るものは「漫画」。欧米人の作るものは「シミュレーター」。作ろうとするものの志向が違う。それぞれの良さと悪さがある。
 欧米の作り手にも目指しているものはあったけど、それはゲーム機のスペックが低いうちでは実現不可能だった。欧米人が目指しているのは世界観全体構築するシミュレーター的なもの。PS3以降、洋ゲーが勢いをつけていったけど、そういったものの制作が可能になったから。一方の日本人は基本的にシンプルなアルゴリズムを工夫して、生々しさや豊かさを表現するやり方だから、スペックの天井が上がってもすることがない……せいぜい、豪華なムービーを入れましょう、くらいの発想しかできなかった。
 あとアメリカはハリウッドでCG作っていたクリエイターがゲーム現場に来ちゃったし、欧米はアカデミックな機関との連携も密に取る。色んな分野の“本職”が来ちゃったから敵わない。
 それに、日本人は今も昔も、「師匠の技を見て盗め」という指導の仕方をしている。すごく漠然としている。一方、欧米は技術を「研究」し、「言語化」し、「共有する」というやり方を取っている(あとさらに「合理化」もする)。こういうところでアカデミックな研究機関の考え方が力を発揮する。
 私は「日本人の作るものは全て漫画」と普段から言っていて、それが強みだと考えているけど、このやり方を欧米人は「研究」し、「言語化」し、「共有する」ということをいま絶対にやっているはずだ。日本人的なものも、いつか「日本人だけ」ではなく、世界中誰でも使える「手法の1つ」になってしまうだろう。欧米人の研究熱を甘く見ては行けない。そのうちにも、「アニメ」は日本だけのものではなくなっているだろう。
 それで、私は「文化方面」の教育思想・手法について、以前から批判的で……。というのも、スポーツの世界はとっくに「根性論」を捨てている(捨ててないところも結構あるけど、本当の意味でちゃんとしているところは捨てている ※)。科学的なアプローチからどうやって選手のスコアが伸びるか、詳しく分析し、研究し、実践している。それに対して、文化の世界……絵画や音楽や文学の世界はどちらかといえば根性論的、精神論的な世界に留まってしまっている。科学的、理論的なメソッドを持ち込もうとすると「個性がなくなる」みたいなアホみたいなことを言い始める。文化の世界のほうが、スポーツの世界よりも脳筋バカになっている。この部分は批判的に言っていいんじゃないだろうか。

※ ……と、思っていたけど日大の事件を見て、真っ当にやっているところはひょっとして少数派なのかも知れない。


〈引用〉
 最近すごく増えてるのが、“対戦はしないけど観てます層”ですね。ゲームを所有はするけど、ほぼ自分は競技者ではなく、人のプレイばかり観ている。この層が増え始めたため、格闘ゲームと格闘技の世界が似ていると言われているんです。

 原田さんのインタビューを読んでいて、「ああ、そうか」と気付いたが、普通のスポーツは、プレイしていない大多数の観戦者がいることによって成り立っているものだったなぁ、ということ。
 そうすると今後のeスポーツにとって必要なことは、「プレイしたことのない人」でも楽しめること、試合を見てワーッと盛り上がれること、そういうゲームであり、そういう試合であるべきなんだろ。
 よくよく考えたらスポーツもそういうところがあって、サッカーや野球なら多くの男の子はプレイ経験があるかも知れないが、プロレスとかボクシングになると試合経験がまったくない……という人達がほとんどのはずだ。でもプロレスの試合とか、多くの人達が集まってワーッと盛り上がれる。だからeスポーツも、極端な話、「人生でコントローラーに触れたこともありません」という人でも、試合を見て「面白い!」「盛り上がれる!」と思えるものにならなくちゃいけないんだな(で、プレイしてない人から観戦でお金を取れるようにしなくてはならない)
 さらに「人生でコントローラーに触れたこともない」ような人が監督気取りでビール飲みながら語り始めるくらいじゃないと、盛り上がっているとはいえないんだろうなぁ(そういう人、嫌いだけど)
 しかし現状、eスポーツはそのゲームの経験者が観戦者になっている……という図式だ。ゲームのプレイ経験のある人でないと、そのゲーム上で起きていることがわかりにくいし、「見よう」という入口にも立ちづらい。
 インタビュー中にもあったけど、カードゲームなんかはルールを詳しく説明されないとわからない、プレイ経験がないとわからない……というものが多い。格闘ゲームはパッと見でわかりやすいからショーとしてのeスポーツになりやすいのはわかるが、それでもキャラごとに性能・性質が細かく違う……ということは知らない人にはなかなか説明が難しい。プレイ経験があれば、すぐに了解し得ることだけども。

 セガは『ぷよぷよ』をeスポーツのプロライセンス認定タイトルに選んだが、話を聞いたとき、なぜ『ぷよぷよ』? みたいには思った。なぜ『バーチャファイター』じゃないの? 『バーチャロン』もあるし、この機会にこそ『デイトナUSA』や『セガラリーチャンピオンシップ』みたいなタイトルを復活させる時期では?
 セガ関係者のインタビューを読んですぐにわかったが、『ぷよぷよ』を選んだ理由は老若男女、ありとあらゆる世代に認知されているから。まずタイトルが知られていて、どんなゲームか知られていること。だから『ぷよぷよ』なんだそうだ。

 それから……どこかのニュースサイトのコメント欄で見かけて、「ああ確かに」と思ったのは、「選手にイケメンがいない」こと。eスポーツの選手がイケメンかイケメンでないか。確かにこれは大きい。
 eスポーツに興味を持つ人の大半は、そもそもそのゲームに興味があることから始まるはずだ。普段からゲームをやっていて、YouTubeやTwitchでゲームプレイを見ている……そういう人だろう。ゲームが第一の切っ掛けで、その「ゲームのプレイが見たい」が主で、プレイヤーはその次。ゲーム>プレイヤーという構図だ。
 でもそれだと、もともとゲームが好きな人……しかeスポーツの観戦者にはなり得ない。
 より広い層に働きかける切っ掛けが生まれるとしたら、イケメンがいるかどうか。今も昔も、「若い女性が夢中になれるかどうか」が流行っているかどうかの分水嶺と言われている。
 eゲーマーのイケメンが出現するかどうかは、時代の運。いつかそういう人寄せパンダ的な人物が現れるでしょう。その時を待ちましょう。
 eゲーマーにイケメンが現れたら観戦者の層が一気に増えるが、一方で歪な状況も生まれるだろう。大きなメディア――つまりテレビがこれみよがしに入ってくる。テレビは基本「顔が全て」の世界。テレビはきちんとした知識も身につけず、「視聴者の声」を盾に場を荒らすだけ荒らして去って行くだろう。テレビはマナーを守らない。
 そういう時が来ても、それもeスポーツ一般化に向けた通過儀礼なもの、と考えて諦めるしかないだろう。テレビマスコミは台風か嵐ようなものだから。


〈引用〉
「格闘ゲームは複雑化、もしくは高難易度化したので廃れた」という大いなる誤解です。

 格闘ゲームはもともと難しかった……うん、その通りです。
 あの頃が格闘ゲームがブームだったからその流れに乗ってみんなと一緒に遊んでいたけど、いま思うとね……。
 ある時、『ストリートファイター4』を買ったのだけど、ひさしぶりにボタンを6つも使わなければならない……というのに直面して「無理だ」と思った。
 友達いないので1人用モードで遊んでいるのだけど、モチベーションが続かない。なにを目標にそのゲームを続ければいいのか……。とりあえず、全キャラクターでエンディング見ようか……と思ったけど途中で飽きてしまった。やっていることが作業的になってしまうし、性質のまったくわからないキャラクターを使ってまでエンディングを見たいとは思わなかったから。

 私が格闘ゲームから離れたのは、超必殺技、EX技、10連コンボ、即死コンボみたいな超複雑なコマンドが出始めた頃から。どうやっても出せないもの。さらにそれを、コンボで繋げて使うのが当たり前! みたいに言われても無理。できるか!
 当時は付き合いでやっていたけど、正直、面白くなかったです。

 もう1つ、昔、ゲームセンターで「あ、あのシリーズの新しいの出たのか」と100円を投入して、「キャラクターの性質はどんな感じかな~」と試そうとしたが、すぐに乱入され、何もできずボコボコにされて終わった。初心者狩りである。以来、ゲームセンターで格闘ゲームをすることはなかった。
 上級者からしてみれば「初心者や素人がゲームセンターに来るな!」という感じだろうけど、そういうことを言い始めると文化は衰退を始める。
 ガチ勢だけが居心地のいい世界を作ってはならない。

 オンラインのマッチングシステムは……Splatoonなんかやっていると思うけど、あれはプレイしていると次第にランクが上がって行ってしまうんだ。ランク50(実力20くらい)みたいになってしまう。
 ランクが上がってくると、勝つために相当がんばらなくてはならない。しんどくなる。私のような過労死寸前なくらい疲れている人間にとって、ランクが上がりすぎるとかなりつらい。一日の仕事終わりにSplatoonをやると、さらに疲れてしまう。もうちょっと浅いところで、ゆるく遊びたいのになーといつも思う。
 ランクが上がって、プレイの緊張感がより高まると、より気分が盛り上がるし高揚する……というプレイヤーはいるだろう。でも私はそういうのは望まない。私はゆるく浅く遊びたい。疲れてるし。
 そこで、自分で入るランクを選べればいいのにな、と思う。自分のランクより低いランクに入ったら、クリアボーナスなし。高いランクに入ったら、クリアボーナスが多くなる……みたいな仕組みで。
 でも、そうするとこれみよがしに初心者狩りをやりに行くプレイヤーが大量に出現するんだろう。難しい話だ。

 格闘ゲームはプレイヤーが高度化して、入る前から諦めてしまう。今からあの中へ入っていこうと思うと、どんだけ努力しなければならないのか……。初心者や素人が入ってはいけないような空気がなんとなくある。参考に動画なんか見ようと思っても、いったい何が起きているのかもはやわからず、むしろモチベーションを下げる。
 格闘ゲームに限らずの話だけど、定期的に「一回敷居を下げる」「プレイヤー全員を初心者のスタートラインに立たせる」ということは大事。これが難しいのだけど。新規IPがなかなか入っていけない時代だから、「プレイヤー全員を初心者にさせる」ことが難しい。


〈引用〉
 日本は中流階級が多いので、みんなは定価のあいだで新作をバッと買っちゃう。少なくとも他国に比べるとはるかにそれができてしまう層が厚いのは間違いない。

 欧米でも、当然最初から定価で買うのが気にならない人が最初に買います。でもそうでない人々は、値下がりやセールの時期にようやく「欲しかったあれが買える」んです。そして、所得階層が上から下まで深い多層構造になっているわけですよね。

 日本は特殊なところがあって、新規のIPをパッと出してパッと注目されパッと売れて終わる……という図式がある。1つの流行、1つの話題に染まりやすいのが日本。
 しかし、アメリカの場合だと人口は多いし、土地も広い。土地が広すぎて、基本、コミュニティは分断されている。だから新しいものを出しても、情報が行き届かない、商品が行き届かない、流行るタイミングがコミュニティごとに違いが出る……なんてことが起きる。地域ごとで「今それ流行っているの?」みたいな現象はよく起きる。
 日本の戦隊ものシリーズ、アメリカでは『パワーレンジャー』と呼ばれている。1年おきにタイトルを変えるのではなく、1993年から現在までずっと『パワーレンジャー』。
 なぜずっと『パワーレンジャー』なのかというと、アメリカは広くて子供たちに1つの話題を共有する流れを作れないから、だそうだ。局によって放送時期も違うし。毎年『○○レンジャー』とタイトルを変えていたら、定着させることができない。だからずっと『パワーレンジャー』。これも、アメリカならではの“戦略”だ。

 今では日本でも、子供や若者の間で1つの話題、流行を共有させるのが難しくなった。日本の場合は、“情報過多”。コンテンツ量が多すぎて、時間の取り合いになっている。ゲームでも、「任天堂のライバルはソニー」なんて小さい視点で言えなくなってしまった。今は一杯ありすぎる(「いま現在」の文化だけではなく、過去のコンテンツもライバルになっている)
 こうした時代、新規IPは本当にやりづらい。娯楽を消費するには時間と金が必要だ。ハズレを引きたくないから、新規IPにはなかなか手を出しづらい。“ハズレの娯楽”は引きたくない。まず「人柱」の反応を見ようとしてしまう(私もそういうところある)。それ以前に、情報過多、コンテンツ過多ゆえに埋もれやすい。
 だから安心感を求めようとして実績あるIPばかりに手を出してしまう。結果、未だに80年代生まれ、90年代生まれのIPが現役で、新参がなかなかいない……みたいな状態になっている。コンテンツ多すぎるゆえの“贅沢な悩み”かも知れないが。

 この突破口を導き出すのは正直、難しい。現状は“よく知られているキャラクター”とのコラボを打ち出して、新規IPを押し進めていくやり方しかないだろう。他のいい方法は思い付かない。
 今の時代、弱小メーカーがコラボの助けを借りずオリジナルIPを生み出してヒット……というのはほぼ不可能なんじゃないかな……。よほどクオリティが高く、かつ運があればいけるかも知れないけど。『Splatoon』なんかは任天堂だからヒットしたけれども、任天堂じゃなかったらヒットしたかというと……そこそこに売れたかも知れないけど、すぐに火は消えたんじゃないかな。『Splatoon』は作品を出して終わりじゃなくて、その後のアップデート、フェス、スプラ甲子園、その他コラボ……といろいろあったからその後もずっと波が続いている。弱小メーカーが同じことができたかといえば……ね。
 「いいものを作れば売れる……」というのは嘘。だいたいが埋もれる。いまネットで浮かび上がるものは「いいもの」じゃなくて、「一発ネタ」でしょ。芸人の一発ネタと同じ(で、ネット発の作品にありがちな問題は「ネタ」と「物語」の区別が付けられない……誰が付けられてないかといえば、編集者。ネットで「物語」をやっても、誰も見てもらえない問題が出てしまっている)。「出せば売れる」じゃなくて「売り方」を戦略として考えないと、無理でしょう。


5月2日 底辺絵師の限界


 私の投稿イラストはpixivで20~30点辺りが平均だろうと思う。これが私の実力だ。
 ……底辺だね、本当。
 pixiv以外では……実は1点も付いていない。1点付く場合がある……というくらい。
 ……本当に底辺だね。

 しかし不思議なことに、時々、どういうわけかいくつもある作品の中の1つだけが突出した評価を獲得する場合がある。そういう作品はだいたい100点以上……普段の5倍以上の評価が出る。
 それも、だいたい「2次創作に限る」という話だが、1枚だけ、オリジナルキャラクターで100点越えの作品が存在する。それが『体操着のミコ』だ。

pixiv自作イラストランキング

 投稿作品歴代7位。
 ……いや、本当になぜ? わからない。
 そこまでいい絵だとは思わないし、「これはうまく描けなかったなぁ」という反省のある絵だし……。
 おそらくは、たくさんの人が一斉に押し間違いをした結果、こんな高評価になったのだと推測されるが……。



 と、いう話をしても所詮は「100点」とかその程度の話。100点だとランキングにかすりもしない。底辺の背比べだ。最高でも200点が限界だしなぁ。

 せめて、終わる前にもうちょっと上へ行きたかったなぁ。
 最後まで底辺脱出できなかったよ。


5月4日 ProjectMOE 第6話再掲の予定はありません。

 pixivで24時間制限で『ProjectMOE 第6話』を再掲したけど、再投稿の予定はもうありません


 ……なぜも何もないよね。売り上げに一切繋がらなかったから。pixivに画像を載せるのも手間だし、1冊も売れなかったので再投稿をする意味がない。

 しかし……意外にも再投稿したら結構な人数で読んでくれたんだ。たぶん、初公開の時よりも閲覧数は多かったと思う……24時間という制限の中では(評価も高かったと思う)。『第6話 その12(最終話)』の初公開時はひどかった……1日で閲覧数100越えなかったもの。再掲載はそれ以上に人が来たし、「24時間で消える」設定だったのになぜかブックマークもそれなりについていたし。

 理由を1つ考えるとしたら、初公開時は間が開きすぎていたから。なにしろ毎回1ヶ月から2ヶ月。読んでいた人がいても、次が来るまでに熱が冷めてしまう。1ヶ月も経つと、存在も忘れちゃっている人もいるだろう。把握できてないけど、脱落者は結構いたんじゃないかと……(ブックマークしているユーザーが少しずつ変わっていたし)
 『ProjectMOE 第6話』は一気読みしたほうが絶対にいいんだ。話の繋がりも見えやすくなるし、たぶんその裏側の意図も読めるようになると思う。
 ドラマ的な盛り上がりは弱いけど……それは仕方ない。クライマックスへの動線の弱さは反省点。

 だからそういうわけで『ProjectMOE2』を買って読んで欲しいんだ。単行本版は高画質で細かいところまで読めるし。こっちで読めば、「おお、そうか」と気付いてもらえると思う。伏線とかも気付けるだろうし(伏線……誰も指摘しないっていうことは気付いてもらえなかったんだろうな。始まって数ページ目で仕込みがあるんだが)
 そうはいっても、誰も買わないんだろうなぁ。再掲載で読んだ人も、1人も買わなかったし。


 もう1つ理由を考えるとしたら「限定に釣られて」。24時間限定だから、今のうちに読まなくちゃ……みたいな意識が働いたのかも知れない。


5月4日 ドラクエ11 エンディングへ


 昨夜、『ドラクエ11』をクリアする。魔王○○○○○撃破。

 エンディングが流れ……まだ何か続きがある感じなのか? へえー。
 エンディング後もちょっと続きがある、と話には聞いていたけど。

 まだ「最後の鍵」を手に入れておらず、開けていない扉や、何のためにあるかわからない謎の地域もたくさんあるし……。
 とりあえずやってみましょうか。


 …………
 ……………………
 ……へえ。
 いや、てっきりサブクエストやサブシナリオ的なものが追加されるのかと思ったら、きちんとしたシナリオが作られていた。こういう展開か……。レンダリングムービーも挿入されるし、完全に『ドラクエ11―2』みたいな感じになっている。「後編が始まった」感がある。
 今までのシリーズにない展開が始まっていて、着地地点が読めないところに来てしまった。今回のドラクエ、面白いぞ。


5月10日 オンラインRPGの今後はどうあるべきだろう?

4Gamer:内なる“怒り”が新生FFXIVを作った――不定期連載「原田が斬る!」,第6回は「ファイナルファンタジーXIV」吉田直樹氏に聞く,MMORPGの過去と未来


 またまた原田さんの長ーいインタビュー記事。すごく面白かった。数日掛けて、やっと読み終える。


 MMORPGの話。
 私は『ドラクエX』プレイヤーだったわけだけど、ふとMMORPGってどんなゲームでも同じようなことしているよね……って気付いた。
 どのMMORPGでも土地を買って家を建て、鍛冶職人になって武器を作り、海や川で釣りをしている……。タイトルは違うけど同じことをする……これでは意味がないな、と気付くことがあった。

 こういう時、私は「自分ならどうするか?」を考え、ノートにアイデアを書いていく。
 私が当時引っ掛かっていたのは「MMORPGのレベル上げって本当に必要?」問題。MMORPGってレベル上げにおっっっっっそろしく時間がかかる。『ドラクエX』でもモンスターを1匹倒しても、「2」とか「3」しか手に入らない。レベル1つ上げるにも数時間。時間を捧げることが当たり前の世界になっている。
 結局、『ドラクエX』は後に「エンゼル帽」でレベル79までなら経験値3倍、「メタルの迷宮」などが出てきて、さらっとレベル上げができるようになった。今までの私の苦労は? みたいに思ったし、だったらこのレベル上げの要素、いらなくない? とも思った。エンゼル帽を被ってメタルの迷宮を何往復かして……ただの作業じゃん。
 MMORPGは時間を捧げることが当たり前……これを見直してもいいんじゃない?
 それで考えたのは、「自分でレベルを調整できるシステム」。
 街の前にオーブが置かれており、これに触れると、最初からレベル99からスタートできるし、経験値量を調節してレベル10からもスタートできる。ただし、オーブから離れるとレベルはどんどん落ちていく。敵の強さは変わらないけど、自分のレベルが落ちていくから、遠出するのは大変……。あとレベルが高い状態だと、クエスト達成時の報酬が減る。
 こういうふうに考えたのは、ラジオでゲームのあまり上手でない人の話、ゲーム文化に触れてこなかった人達の話をたくさん聞いて、さらに自分が年とって難しいゲームや忍耐が必要なゲームが本気でつらくなってきたという状況もプラスして、「ゲームはもっと優しくてもいいじゃない?」と思ったから。
 何かを得るために数百時間を捧げるゲーム、時間を掛けさせることでプレイヤーをゲーム世界に縛り付けるゲームではなく、違うアプローチ方法があるんじゃないか……と考えていた。服の色を変えるために、何日もかけて素材集めて……とか、そういうの、もういいじゃんって。

 他にも色んなアイデアを出したけど、結局、駄目だなこれ……と自分で思った。だって、やっぱり「土地を買って家を建てて……」という発想から離れていない。「土地を買って家を建てて……」というMMORPGからどれだけ遠ざけられて、かつ面白く感じられるか、が目標だったのだけど、これを達成できていない、ということに気付いたから。そもそもの根幹が間違っている。

 まあどっちにしろ、アイデア出してもそれを実現できる立場にはないんだけどな。ニートですんで。

 私は面倒くさいから考えるのを諦めてしまったけれども、MMORPGの形はこれで正しいのか、考えた方がいい。これは強く思う。


〈引用〉
吉田氏:
 そうですね。あれがあったから,僕は今でもゲームメディアのことが少し苦手です。僕が憧れていた先輩達を変えてしまった。もちろん本人にも大きな責任があると思いますが, 26~7歳ぐらいの先輩達を色々な方法で持ち上げて……どんどんおかしくなってしまった。

原田氏:
 あの当時は,ポリゴンゲームバブルでしたからね。ナムコは取材にかなり慎重なところがあったからなのか,ガンガン持ち上げられて……というのはあまりなかったですが。

吉田氏:
 僕はあのとき,現場から見限られていく先輩を,現場の側から見ていたんです。だから,自分もああなっていくんじゃないかと,そしていつか現場から見限られるんじゃないかという恐怖心があった。だから,取材は全部断っていたんです。


 ああ、そういうことがあったんだ。
 ジブリのアニメーターも、メディアで持ち上げられた頃、おかしくなっていた……なんて話がある。その話の出所は押井守監督だけど(こういう話はだいたい押井さんから出てくる)
 メディアで取り上げられてちやほやされると、人はそこまでおかしくなるものなのだろうか……。当然ながら、私にそんな経験がないから全くわからない(それ以前に、人から褒められたことがほとんどない……私はうんこ製造器なので)
 実例を見たことがないから、とにかくもピンと来ない。しかし、そういう話は色んなところでぽつぽつと出てきているから、ある程度は本当なのだろう。

 ただし、宣伝のことを考えると、メディアに出たほうがいい。これは絶対。
 というのも、漫画にしても小説にしてもゲームにしても、作品って作り手の顔が見えないものなんだ。というか、ほとんどの人は漫画を見て、その後ろに漫画家いることを認識できないものなんだ。消費者の立場からしてみると、そういったものが何か得体の知れない場所から、得体の知れないプロセスを経て出てきたような……不気味な印象を持たれてしまう。だから手掛かりとして作ったメーカーとか、知っている名前を探して、その作品に作品とは別のパーソナリティを与えようとする。消費者はそのパーソナリティに信頼を置こうとする(あるいは逆で、そのパーソナリティだから信頼しない……あのメーカーのゲームは買わない!……とか)
 消費者は作り手が思っている以上に、何もわかってないのだ。

 それで、やっぱり顔が見えると、消費者と作り手との距離感は一気に縮まる。作り手の人物像が見えてくると、作品を通してその人物を見ようとするし、少々の欠点や問題はあっても、「それも彼の個性だ」と笑って受け入れるようになってくる。
(おそろしく悲惨な展開が待ち受けていても、「まあヨコオタロウのゲームだし」と受け入れるようになる)
 作り手の人格を知っている知らないかで、作品の批評の仕方、考え方って変わるんだ。

 漫画の世界はすでに2つの局面に別れていて、“売れる漫画家”というのは、「面白い漫画」を書く人か、あるいは「面白い話ができる人」のどちらかとなっている。
 「面白い漫画」を描く人……というのは昔ながらの漫画家。作品のみで勝負し、成功している人のこと。
 一方の「面白い話ができる人」というのは、漫画以外のところで顔を出して喋って、タレント的な活躍ができる人。えびすさんまで行くと、「たまに漫画も描くタレント」だ(えびすさんは極端な例)
 今は配信の時代。顔を出して、喋って、漫画を書く。この3点ができる人が一番売れる。正直なところ、作品が少々つまらなくても問題ない。タレント的、アイドル的なポジションを自分で作れる漫画家になれれば、作品がつまらなくても、ファンは「あの作家さんのパーソナリティが好きだから」とある種のアイドルのグッズ感覚で作品を買うようになる。
 それで、私の予想ではこれからの時代、タレント的な活躍ができる漫画家のほうが有利になるだろう……と見ている。今は「面白い漫画を描く人」が当然強いけど、配信の時代、ユーチューバ漫画家とかすでにいるわけだし、この傾向がどんどん加速していくと、ユーチューバ―漫画家が「面白い漫画を描く人」に勝つ時代が来るかな……と。すでにユーザー側に「物語」を読む力は弱くなっている、という傾向が起きているし。
 だから最強の漫画家は「イケメン/美女」で、「話が面白く」て、「絵が上手く」て、「面白いストーリー」も描ける漫画家だ。
 「話が面白くて」と「面白いストーリー」が描ける漫画家は昔からまあいるんだが、これからはこの上に「イケメン/美女」要素がプラスした漫画家が出てくるだろう。漫画家を漫画ではなく、漫画家のルックスから入る時代が来る。

 そういうわけで、漫画家を目指す人は無理してでも配信やったほうがいい……というのが私の考えだけど、「配信をやる漫画家は消えやすい」とも心得たほうがいい。作品が完結する前に、しょーもない発言で炎上して姿を消す……そのリスクを高めるということでもあるので。
 そこでうまく立ち回れる作家が、生き残れる作家になっていくんだろうね。

 まあ私はウンコを製造するウンコなので、どちらにしても縁のない話。


5月12日 日本のゲームって本当に世界から嫌われていたのだろうか?

ファミ通.com:海外市場での日本のゲームの復活について、クリエイターはどう捉えているのか? 9人の関係者が考えを語るドキュメンタリーがYouTubeで配信中

 日本のゲーム作家へのインタビューで構成されたドキュメンタリー。もの凄く面白い。見る価値はある。


以下、すべて妄想話です。


 ところで、私は言うほどコアなゲームプレイヤーではない。ご存知だと思うけど。PS3期前後の数年間、ゲームハードを持っていない時期があったし、その後も貧乏でしかも忙しかったというのもあって、ちゃんとゲーム機を買えてないし、話題のゲームもプレイできていない。そういうわけで私のゲーム史には空白期間があり、空白期間に起きたできごとについて、自分の体験史として語ることができない。
 それでも、まあ漠然としたもので、PS3以降、日本のゲームが売れなくなっていって、その間隙にスマートフォンゲームが隆盛して、そのスマートフォンゲームも数が増えすぎてレッドオーシャンからブラックオーシャンへと瞬く間に染まり、その後、コンシューマで和ゲーが復権した……みたいな流れは把握している。
 その和ゲー復権の流れがここ2年ほど急に起きた……という印象があって、正直なところ「なんで??」みたいな印象はある。
 何が切っ掛けで? その以前の和ゲーといったい何が違うの??

 それで、ちょっと思い付いたのだけど、「和ゲーが受け入れられなくなった」という話、ひょっとしたら日本人の勘違いだったんじゃないかな……という気がして。日本人が勝手に「日本のゲームは受け入れられなくなった」と思い込んで、それで日本人らしくないゲームを作ろうとして本当に売れなくなった……みたいな話だったんじゃなかろうか。
 根拠や証拠があるわけじゃないけど。実際の数字を探せば、私の考え自体が勘違いだった……ということになりそうだけど。

 ここ2年ほど、急に海外からの声……海外ユーザーや海外クリエイターの声みたいなものがメディアに乗るようになり、目に付いたものはだいたい全部読んでいるのだけど、多くの海外ユーザーが日本のゲームを素直にリスペクトしている。日本のゲームタイトルを次々に上げて、「あのゲームは素晴らしかった」「あのクリエイターはいい仕事をした」と賞賛する。
 そんな海外ユーザーが取り上げるタイトルの中に、意外なくらいJRPGが多い。JRPGはずっと「海外では受け入れられない」と言われ続けていた。数年前までは海外ユーザーがいかにJRPGを嫌っているか、いかにJRPGを憎んでいるか……その憎みしみっぷりがゲーム雑誌で紹介されているのをたくさん見たような記憶がある。(今にして思うと、あれはずいぶん誇張された憎悪だったんだな……)
 でも最近のインタビューを見ると、好きなゲームとして『ドラクエ』や『ファイナルファンタジー』、『クロノトリガー』『牧場物語』を挙げる人もいる。なんだ、JRPG好きじゃん。

『オーバーウォッチ』好きの彼女とE3デートだと!? 初の一般公開で会場に押し寄せた“ゲーマーカップル”達が爆発する前に突撃取材してみた【E3 2017:来場者インタビュー】


 JRPG代表格『ドラゴンクエスト』シリーズは海外では人気はない。海外版『ドラゴンクエスト』こと『ドラゴンウォーリア―』が海外でコケた……という話は事実。
 しかしその後、PS2『ドラゴンクエスト8』はヒット。これに続いて、ニンテンドーDSで『ドラクエ4・5・6』がリリースされ(『ドラゴンウォーリア―』ではなく『ドラゴンクエスト』というタイトルで)、こちらもヒット。特に『5』は大絶賛されている。
 日本ではずっと「ドラクエやドラクエ方式のJRPGは海外では売れない。日本人にしかわからない感性だ」と今でも言われ続けているが、実はちゃんと受け入れられていて、商業的成功していた。
 アニメルックのスタイルも「日本でしか受け入れられない!」と言われているが、実はその逆。『ドラクエ』のキャラクターデザインをした鳥山明作品『ドラゴンボール』は世界規模で大ヒットしまくっていて、受け入れる土壌ができあがっている。『ニノ国』のような作品もヒットしている。「海外ユーザーはアニメルックを理解しない」という事実はない。

徹底分析!「ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて」は海外でどこまでヒットできるか!?


 インディーズゲーム……私は多くはプレイしていないが、そのいくつかをプレイしてみたところ、「このデザイン、あのゲームが元ネタじゃないか?」とか「このキャラクターの挙動、あのゲームでも見たぞ」と思うところがたくさん。日本のゲームから影響を受けていないはずがない。
 海外では「メトロイドヴァニア」というジャンルが好まれている。『メトロイド』と『キャッスルヴァニア』を組み合わせた造語だ。その「メトロイドヴァニア」のゲームを見ると、『キャッスルヴァニア』をまんまコピーしてキャラクターと世界観を変えただけじゃない……みたいな作品が大量に作られ、受け入れられていたりする。

 そのインディーズゲームのクリエイターに「好きなゲームは?」と訊ねると、日本のゲームが次から次へと出てくる(日本のメディアからの質問だったから、気を遣ってくれたのかも知れないが)。尊敬するクリエイターも、ほぼ日本人。海外のクリエイターは日本を軽視している、誰も日本を相手にしていない……そんなことはなかった。

【UNDERTALE含む外国人クリエイター6人の証言】海外大ヒットインディーゲーム開発者は“和ゲー”を心底愛している──影響を受けた日本のゲーム、尊敬する人は?


 海外のプレイヤーもクリエイターもみんな日本のゲームをずっと愛していた……。

 もっと具体的な根拠を示すべきだとは思うけど、まあ今はこの辺で。ちゃんと調べている余裕もないし。日本のゲームが受け入れられなくなったのは、日本人側の勘違いと、勘違いによって作りだした状況じゃないだろうか……とだんだん思うようになっていて。国ごとの詳しいデータとか持ってないので、強く言えないけど。
 日本側の変化もあったと思う。国内の不況とライフスタイルの変化……。ゲームに相当するライバルが一杯出現した。その辺りも気分として影響しているかな。
 方向転換してより駄目になって、スマートフォンゲームに浮気して、そっちも駄目だったから元の場所に戻って以前のようにゲームを作りましょうか……ってやったら世界でヒットした……みたいな感じだろうか。
 もともと海外展開をあまりやっておらず、データもあまり作っていないところに『グランドセフトオート』みたいな大きなタイトルが出てきて……みたいな感じだったのかも知れない。もともとゲーム市場は国内でだいたい自己完結していた……という話も聞く。
 原田勝弘さんは2000年代以後、徹底した市場調査を行った……と語っていたが、逆に言えばそれまで市場調査をしていなかった……ともいえるし。
 情報の読み方と発信の仕方。海外ユーザーがどのように感じているか読み取り、海外向けへきちんとローカライズしたこと(『ドラゴンウォーリア―』の失敗って、ローカライズの問題だったようだし)。海外に向けてプロモーションをしたこと。このあたりをきちんとしたことも関係しているかな。「ドラクエがヒットしていたなんて知らなかった」ではなく。


 ところで、この間なんとなく買ったファミ通(No1531)には『海外で愛される日本産ゲーム』という特集が組まれている。
 その一つを抜粋すると、

〈引用〉
Moe. I love moe.

 「萌え」……すでに受け入れられる土壌ができあがっていたのか。
 あ、似たような意見多数です。
(「Kawaii」の言葉は見付けられず。「Kawaii」って本当に欧米で使われてるの?)
 ずいぶん前に、『オタク・イン・USA』という本を読んで、そこでは「外国人には萌えが理解できない」と書かれていた。それで結局、外国人ユーザーが下した結論は「萌=児童ポルノ」だった。それ違うよ……と思っていたが。あの頃よりもアニメは浸透していて、「萌」も受け入れられるようになっていたんだな。
 そういえば、『らき☆すた』の泉こなたイラストを描いたとき、真っ先に反応したのは外国人だった。『メディバン』というサイトにイラストを発表すると、やたら外国人がコメントを付けてくるし。
 「萌えアニメは外国人には理解できない。萌えビジネスは日本だけで自己完結する文化だ」と今でも言われてるけど、日本人だけが知らないだけで、実は意外なくらいに世界中に拡散されているのかも知れないよ。「○○は海外では受け入れられない!」と決めつける前に、「本当か?」と調べてみてもいいかも知れない。
 Steamで「日本スタイルのテキストアドベンチャー」が欧米で売れている……という話も出てきているし。もちろん「アニメ絵美少女」が出てくるやつ。さんざん「アニメ絵美少女ものは日本でしか受けない!」と言われ、今でも言っている人は多いけど、実際はだいぶ売れはじめている。ここまでくると、今までは真面目にローカライズをやってこなかったからじゃないか……みたいに思う。(『ファーストガンダム』がまさにそれだったが、翻訳がクソだった)
 「日本のアニメは海外向けには売れないから、キャラクターをディズニー風に描こう」みたいな勘違いをやって大失敗……なんてやっちゃたら間抜けだよね。ゲームでは近いことをやったみたいだけど。


 と、いう思いつきを勢いでざーっと書いてみたけど、実際はどうなんだろうね。


5月15日 高畑勲監督との別れ

→HUFFPOST:高畑勲さん「お別れ会」


 日本アニメ史において、もっとも偉大な1人との別れ。
 高畑勲作品がアニメの技術、思想面に与えた功績は大きい。ジブリにいた人達にとってはおそらくは精神的な支え。巨大な両輪のうちの1つを失ったような感じだろうか。


 宮崎駿さんにとって、高畑勲さんは演出の師であった。『もののけ姫』のメイキングビデオの中で、絵コンテを書きながら「パクさんならこう書かないな……」と呟いていたのを憶えている。
 宮崎駿さんにとって高畑勲さんはクライテリオン。「パクさんならどう書くか」「パクさんならどう考えるか」が宮崎駿さんにとっての一つの指標だった。
 高畑勲さんが演出、宮崎駿さんがアニメーターとして一緒に仕事をしたのは『赤毛のアン』が最後。その後は『風の谷のナウシカ』『天空の城のラピュタ』では高畑勲さんがプロデューサーを。『おもいでぽろぽろ』では宮崎駿さんがプロデューサーを担当した。
 『赤毛のアン』以後、あまり表向きには2人が並んでいる場面はなく、不仲説も囁かれることもあったが、実際には宮崎駿さんは高畑勲さんを尊敬し続け、目標にし続け、高畑勲さんが気に入ってくれるか、喜んでくれるか、が宮崎駿さんが作品を作る上でのモチベーションですらあった。
 一方の、高畑勲さんにとっても、天才アニメーター宮崎駿は刺激的な存在であったようだ。高畑さんは自身でも「怠け者」と評するくらい仕事が遅いが、宮崎さんの仕事に対するひたむきさと、異様な描画速度には相当刺激され、時には追い立てられるほどだったそうだ。
 高畑勲という演出家としての目標があったから、宮崎駿は大成した。宮崎駿というアニメーターがいたから、高畑勲は大成した。どちらが欠けても駄目だった。アニメ史の始まりにおいて、この2人が出会っていたことが奇跡のようなもの。2人の出会いが密かなビッグバンとなり、その後のアニメの形が定まっていった。

 そんな重鎮がこの世を去って行く……。
 宮崎駿さんは同世代の仲間達を多く失っている。天才アニメーターの近藤善文、色彩設計の保田道世……。アニメ第1世代の偉大なる盟友達だ。そういう人達が、1人、また1人とこの世を去って行く。宮崎駿さんはその中で1人残り、死の足音を側で聞きながら、最後の作品に打ち込もうとしている。
 アニメ史を支えた巨大な柱である宮崎駿さんは、そのキャリアの最後に何を残そうとしているのだろうか……。


5月15日 電ファミ感想 和製ファンタジーの限界

電ファミニコゲーマー:出渕裕×『ペルソナ』副島成記:対談】「エルフの耳はなぜ長い?」次世代に受け継がれるビジュアル作りに隠された秘密を探る


 私にとって、エルフといえばやっぱり出渕エルフだなぁ……。とんがり耳もそうだけど、金髪に白い肌、緑の衣装(と青い甲冑)……ただただ美しく高貴な存在。冬馬由美ディードリットは完璧な存在だった。
 『ロード・オブ・ザ・リング』レゴラスのおかげで、ある程度軌道修正はかかったものの、「エルフを描け」といわれたら迷わずディードリットをベースにしたエルフを描いてしまいそうだ(といってもレゴラスとディードリットもさほどデザイン感性に違いはない……そもそもアラン・リーのデザイン・意匠を参考にしていた、というのがあるから)。あそこから外れたらエルフじゃない……みたいな感じになりそうだもの。

 最近は、エルフは巨乳キャラとして定着してしまったが……。あれはただ耳が尖っているオッパイの大きな女の子であって、エルフじゃないよね。
 現代エルフはすっかり俗化してしまって残念だ。


〈引用〉
出渕氏:
 松本零士さんの女性キャラだよねって。特に昔の松本さんの女性キャラって、どこか妖精っぽい雰囲気があるじゃないですか。
 スレインは眉毛がない三白眼で「これは真田さんになっちゃった」とか、ギムに帽子をかぶせたら沖田艦長だよねとか。本当に自分では最初、無意識にやっていたんですけど、あとから改めて見ると、もう(笑)。

 あー確かに! スレインのあの顔って確かに真田さんだわ。ぜんぜん気付かなかった。
 ギムリが沖田艦長……そこまで背は低くなかったと思うけど。でも制服着せて帽子を被せれば、案外……。

 これは面白い話かも知れない。今だったら、パロディが作られていた可能性だってあったわけだ。「なんかあいつら、顔が似ているぞ」って。
 戦艦ヤマトの中に真田さんじゃなくてスレインがいて、艦長もなぜかドワーフに、森雪さんもなんか耳が長いぞ……。
 おいおい、艦長どこ行った! 真田さんは……!? ってなるけど、スレインも優秀だし、ギムリ艦長はなかなか勇猛だし、とんがり耳の森雪さんはやたらと美人だし、じゃあこのまんまでいいか……って何事もなくお話が進んで行く。
 出オチのインパクトはあるけど、笑いにはならないな……。
 今の時代なら、世界観や絵柄を越えたパロディはいくらでもあるので、誰か描いてくれないかな。

 それで、ディードリットの長耳の元ネタは、フランク・オズ監督の『ラビリンス』という話だけど……。
 妙な思いつきだけど、フランク・オズといえばヨーダ。ヨーダといえばエルフのような長耳……。ヨーダは緑だし……。
 いや、どこにも着地させる気のない話だけど。

〈引用〉
出渕氏:
 そうですね。やっぱりファンタジーっていうとヨーロッパのものというイメージが僕の中にはあって。
 一方でアメリカのファンタジーもあるんですけど、そっちは筋肉なんですね(笑)。筋肉がムキムキの人物が厚塗りで描かれていて、最後は腕力というか暴力で勝つような雰囲気の。

 ちょっと面白い共通点に気付いたけど、これってその国の「アイドル観」に結びつく話だ。
 ヨーロッパ発のアイドルって、線が細くて美しい、男性でも女性的……まあ人によるけど。一方のアメリカ発のアイドルは男性的。だいたいマッチョ。
 アメリカ人ももちろん女性的な美しい男性が好むのだが(アメリカのアニメファンは「やおい」が好きだ ※)、自国発のアイドルの中にそういったタイプの男性をなかなか見出すことができない……と昔読んだ本には書いてあった。
 まあ昔読んだ本に書いてあったことで、今はそうでもないだろうと思う。欧米のアイドル事情が今どうなっているのかとか、ぜんぜん知らないんだけど。

 ※ 2001年サンフランシスコで「Yaoi-Con」という「やおい」漫画コンペが開催され、以後、毎年開催されている。

 で、日本もまた同様に。日本人が描くファンタジーも、日本人のアイドル観とどことなく結びついているのかも知れない……。


 『ロードス島戦記』は日本発の西洋風“本格”ファンタジーの嚆矢であり、ベーシックになった作品もある一方、この作品を切っ掛けに『西洋風和ファンタジー』の方向性が決定づけられることにもなった。
 もっと決定的なのは『ロードス』より少し後に発表された同時代の作品『スレイヤーズ』。日本人の考える“ファンタジー”は、ずっと『ロードス』と『スレイヤーズ』の半径の中に閉じ込められている。“本格”“王道”ファンタジーといえば、『ロードス』と『スレイヤーズ』の半径の中で作らなければならず、そこから外れたら“異端”“異色”と見なされる。作り手にとって、“型”になってしまった作品でもある。


〈引用〉
出渕氏:
 アニメーション作品はもともとセル画と背景、つまりキャラクターの絵と背景の絵で構成されているんですけど、じつはその2つというのはぜんぜん違う絵なんですよね。

 昔のアニメは、もっと背景とキャラは分離していて……。例えば破壊される壁とかセルで描かれるのだけど、もう画面を見た瞬間に「あっ、この壁破壊されるな」と予想ができてしまっていた。
 最近はやっぱり、そういうところが進歩したよね。すごく自然に馴染ませている。1枚の背景画を簡単なポリゴン板のテクスチャとして貼り付けて動かすことができるし、なんとなれば主要舞台となる家一軒をすべてCGで、ポスターカラーふうのテクスチャを貼り付けて、一見すると手書きの背景美術と区別できないくらいできる。
 撮影自体が進歩しているので、シンプルな色彩で描かれたキャラクターと、背景との馴染ませ方もすごく巧みになっている。
 ufoteableのアニメはテレビシリーズでもキャラクターにごてごてフィルターを載せまくって、背景と一体となった奥行き感を作っている。いつも思うのだけど、あれは凄い。ufoteableの撮影班は本当に優秀。

 それで、CGだ。やっぱりこれは視聴経験の差かな……。私はいまだにCGの車に違和感がある。でももしかすると、今の若い世代はさほどの違和感は感じてなかったりするのだろうか……? CGの質感が、どうしてもアニメキャラクター・背景の2つの質感と馴染んでいるようには感じられないんだ。
 デジタルキャラクターも進歩しているし、そのうち解消される問題だろう。デジタルの車が、デジタルだと思わなくなったら、それが進歩だと思う。


 余談。
 私は漫画の背景に「Shade」を使用している。なんで「Shade」なのかというと、私がアホだったから。他にどんなCG制作ツールがあるのか知らなかった。
 間もなく「Shade」は漫画制作にふさわしくないと気付いたけど、後の祭り。新しくCG制作ツールを買う金もない。技術本も一杯買ってしまったし。

漫画カット

 見ての通り、「Shade」の質感とキャラクターの質感はぜんぜん合っていない。
 それどころか、当時グラフィックボードの役割を理解しておらず、「とりあえずあればいいんだろう」と一番安いやつを買ってしまったために、充分に作り込めない。作れたのは部屋の一部と、正面からしか見ることのできないハリボテのような外観。それ以上に作ると、ソフトが落ちてしまう。これが世界観を作る上でひどい障害となり、最後まで苦しまされることになった。

 最終的に、キャラクター、背景両方に同じ感覚で粒状フィルターを載せることに。手作業で。アニメの撮影と同じ発想だ。
 でも手作業だからアホみたいに時間がかかる。さんざん苦労して1カット1カット仕上げたけれども、誰もそこまで見てくれなかった。苦労損。
 単行本だったら、その細部までしっかり見られるんだがなぁ……誰も買ってくんねえよ!


〈引用〉
出渕氏:
 その意味で『エヴァ』はもしかしたら、最後のエポックメイキングかもしれないですよね。

 おそらくそうでしょうね。業界全体でいきなり作品の深度が変わった現象って、『エヴァ』が最後。その単体でただ「素晴らしい作品」じゃなくて、同業者全体に影響を与え、感染させ、アニメに対する取り組み方を一変させてしまった。そんな作品は『エヴァ』以後はもうないでしょう……。

 ただ、突破口はある。“やり方”はある。
 といっても、私が考えているのは『エヴァ』のような天才による革命ではなく、地味に石の壁を少しずつ掘っていくような方法だ(『エヴァ』みたいなのは天才じゃないと作れない)
 その時代に対して、いかに批評を加えていくか。同時代の平均値的な作品に対してどのように分析し、批評し、提唱すべきなのか。これは同時代をどのように読み解いていくか……という意味でもある。
 批評し、提唱する。“批評”と“提唱”は常に一体でならねばならぬ……これが私の考え方だ。

 ……と、いうことを私はずっとやってきていたのだが……。
 『ProjectMOE』の「中二病の話」とか「魔法少女篇」とか、「オタク問題」とか……。誰もそこまで読み解いてくれないから自分で話をするけど、あれ、全部“批評”と“提唱”の話だったんだよ。中二病の話なら中二病そのものの批評と提唱の話だし、「魔法少女篇」は魔法少女というジャンルそのものに対する批評だったのだが……誰もそこまで読んでくれねぇ! それでこういう種明かしを自分でやる羽目になって、もうクソダサい! こういうのは自分で言うんじゃなくて、読んだ人に解いてもらうべきだったんだよ!
 もうここでネタばらしするよ。『ProjectMOE』は何を最終目標としていたのか。要するにこういうことだったんだよ。

 世にある全てのジャンルを包括すること。

 もちろん、“包括”し、“批評”し、“再定義”することが目標だった。『魔法少女篇』もその断片に過ぎなかったんだよ。私はこのブログでずっと、「『ProjectMOE』には100を越えるエピソードが用意されている」と書いてきたけど、とどのつまりそういうことだったんだよ。世にある全てのジャンルを飲み込むことを最終目標にして、シナリオやプロットを書きまくっていたんだよ。
 誰もこの企てに賛同してくれなかったけどさ!!

 落ち着こう。
 私は失敗したわけだが、“やり方”は示した。『ProjectMOE』を読んで、正しく意味を理解した人が、「じゃあ自分ならどうするか?」を考えれば、自ずと答えは見えてくるはずだ。
 例えば、最初に書いた話。日本の「西洋風和ファンタジー」は『ロードス』と『スレイヤーズ』の半径の中に閉じ込められている……という話をしたけど、じゃあその状況を分析し、俯瞰した上で、どうやったらそれを切り崩せるか。どういったものが『ロードス』&『スレイヤーズ』に並ぶ第3の“型”になるのか。そこから考えていくとわかりやすいだろう。
 『ProjectMOE』は本質的にはパロディだと考えている。パロディは一般的には王道を茶化した笑い……そう考えられているしそれは合っていると思うが、私はこれに一つ……パロディだからこそ刺すこともできる、と考えていた。『ProjectMOE』は刺すつもりが勝手に崩壊したんだが。
 私は失敗した。だからこれを読んでいるあなたが後を継ぐ番だ。これを読んだ上で何もしなかったら殴りに行くぞ!

 このやり方は『エヴァ』のように業界人全員が大ショック……みたいな現象を生み出すことはできない。ただし、一作一作で“批評”と“提唱”を加えていけば、着実に同時代に対して影響を与えることができる。ジョルジュ・バタイユに“パロディ”の意味を教えるような話だ。
 石の壁を掘るような話だが……私にはできなかったが、あなたにならできるだろう。とりあえずは挑戦してみることだ。


5月18日 漫画の起源話 絵巻物はいかにして「漫画」に変わったのか?

ニコニコ生放送:もうひとりの高畑勲 ~研究者としての顔~


 大塚英志先生による講義。非常に面白かった。ぜひ見るべき。
 たぶん、タイムシフト視聴は今でも見られるはず……。

 この講義を見ていてふと思い出したのだが、もう何年も前に、NHKの番組に高畑勲さんが出演して、絵巻物について滔々と解説しているのを見たことがある。
 その時、教材として使われていたのは『伴大納言絵巻』。「この絵巻物には欠落している部分があるんですよ」と、確かに切って貼ったような跡があり、そこに「おそらくこういう絵が入っていたはずだ」と自分で絵を書き起こしていた。この時からすでに、絵巻物研究者だったんだな……。
 その番組で、「絵巻物はこう読んでいたはずなんですよ」とちょっとずつ巻きながら絵を右へ右へと移動していく手法を披露。『かぐや姫の物語』の劇中でも見せたあのやり方だ。
 高畑監督の指摘通り、絵巻物はよくよく見てみると同じ登場人物が何度も登場しており、博物館の展示のようにずらーと広げて全て見えている状態にしてしまうと、描き手が本来意図したように物語が読めなくなる。そこで高畑監督は、「こうやって読んだはずだ」という見方を考え出した……。他の研究者がそう言ったから、ではなくて、自分で調べて、「この方法しかない」というやり方を見付け出してくる。高畑監督はそういう人なのだ。

 さて、大塚英志先生の講義では、高畑監督が提唱した「絵巻物→漫画」という説に異議を唱えている。よく言われている説に、漫画のご先祖は『鳥獣戯画』だ……というのがあるが、しかしこれもピンと来ない。鉄腕アトムは『鳥獣戯画』のウサギさんよりも、ミッキーマウスのほうが近いでしょ……と。比較すると、なるほどその通りだ。


〈以下、読み飛ばし推奨〉
 ちょっと話を遠回りしよう。
 絵巻物は話が進むにつれ、少しずつ視点が変わっている。絵が大ロングになったり、建物や人物にカメラが寄ったり……。パノラマ画のように一つの風景を切り取ったのではなく、少しずつ視点が変わっているのが絵巻物だ。
 よくよく考えれば、日本の絵は上と下、右と左、空間が違うというか違うものが描かれていることはよくある話だ。おそらく、日本人はそういう絵の描き方をずっとしていたのだろうと思う。

安藤広重

 少し前に、春画の本を読んでいたのだが、描かれている体位がおかしい。体の向きを無視して、無理やりにチンコとマンコが手前に出てくる。
 例えば葛飾北斎の『浪千鳥』(1816年・文化13年)。……ここは全年齢のサイトだから画像は載せないよ。画像検索すればすぐに見付かりますから。
 『浪千鳥』を見ていると、腕や脚が複雑に絡み合っているのに、どういうわけか性器がこれみよがしに手前に出てくる。これいったいどうなっているの?? と首を捻る。
 あの性器描写は春画の基本フォーマットなのだが、それにしたって無理矢理だ。ピカソのキュビスムみたいな絵になっている。
 そんな春画を見ながらふっと思ったのだが、この時代には「コマ割」の発想がなかったからじゃないだろうか。「コマ割」の発想がなかったから、一つの構図にあれもこれもと詰め込もうとする。「コマ割」の発想があれば、「このカットは表情だけ」「このカットは体の動きだけ」「このカットは性器を大アップで!」という描き方ができる。
 ……こういう発想に至ってから、江戸時代の絵師にうっかり「コマ割」を教えたら、浮世絵はどう変わっていただろうか……と時々1人で考えたりするようになった。そういうSFはありだろうか?

 西洋絵画の世界では、そういう絵はないのだろうか……。
 ちょっと思い出したのが、レンブラントの『目をえぐられるサムソン』(1623年)

レンブラント 目を抉られるサムソン

 この絵を解説すると、
①怪人サムソンは、デリラに自分の怪力の秘密は髪の毛にある。髪の毛を切られてしまうと、力を発揮できなくなる……と教える。デリラはそれを聞き、サムソンの髪を切り、そこから逃げ出す。
②その直後、兵士達がドヤドヤと殴り込んできて、サムソンを取り囲み、押さえつけ、羽交い締めにして、ナイフで目をえぐる……。
 ①から②の場面まで、やや時間があるわけだが、絵ではあたかも同じ瞬間であるかのように描かれている。二つの状況を、1枚の絵の中に凝縮して描かれたのが『目をえぐられるサムソン』だ。
 こういう絵はきっと他にもたくさんあると思うのだが……今は思い当たらない(探せばいくらでもあるんだと思う)。どちらかといえば西洋絵画は一つの場面を描くのに特化しているのだと思う。こういうところで、日本の絵との違いが出ているような気がする。
〈読み飛ばしパートここまで〉

 話を戻そう。

 漫画のご先祖は『鳥獣戯画』である。
 これは間違いではないし、確かに精神的繋がりはあるが、「人類のご先祖はお猿です」というくらい極端な話。ミッシングリングが多すぎる。
 浮世絵が漫画のご先祖になった……。こちらも確かに精神的繋がりはあるが、違う。

 浮世絵は明治期に入り、新しい印刷技術、写真、新聞といったメディアに圧倒され、衰退し、今まさに消えようとしていた。
 そこで明治40年、浮世絵はどちらかといえば“大衆芸術”だったが、アートとしての浮世絵を作ろうという機運が高まる。この動きが大正5年には「新版画」として結実し、作品はヨーロッパで高く評価された。近代的なデッサンや、写真的な空間作りを取り入れた新版画は絵画として素晴らしく、川瀬巴水、楢崎栄昭、伊藤孝之、笠松紫浪、小原祥邨などの優れた作家を生み出した。川瀬巴水は私も好き。

ジャパンパンチ
『ジャパン・パンチ』 画像はWikipediaから

 浮世絵という線は新版画へと続き、漫画へは繋がらなかった……。
 では漫画の直接のご先祖になったのはなんだったのか?
 漫画のご先祖と言われているのは、チャールズ・ワーグマンが1862年に居留外国人向けに作った雑誌『ジャパン・パンチ』であると言われている。
 ……であると言われている、とドヤ顔で書いたが、実は私はまだ『ジャパン・パンチ』の現物を見ていない。いつか国会図書館へ行って、資料を読みあさりたいものだ(国会図書館にあるかどうか知らないけど)
 ともかくも、『ジャパン・パンチ』が漫画のご先祖。
 ただ『ジャパン・パンチ』は日本人にとって別の意味で因縁深い作品でもあり、西洋にありがちな日本人観……「日本人はチビで出っ歯でメガネを掛けた猿のようなもの」という偏見を作った作品でもある。
 ちなみにチャールズ・ワーグマンは五姓田義松や高橋由一に油絵を教え、2人は日本最初の西洋画家となった。チャールズ・ワーグマンは漫画の始祖だけではなく、日本の西洋画の始祖を生んでいる。

 その後はしばらく、『ジャパン・パンチ』ふうの絵のことを「ぽんち絵」と呼ばれていたが、今泉一瓢が『時事新報』(※1)で初めて「漫画」という名前を使って紹介(※2)。1891年(明治24年)のできごとである。
 ちなみに今泉一瓢は福沢諭吉の甥っ子。

※1 時事新報……後の毎日新聞。初めて漫画を掲載した新聞でもある。
※2 「漫画」という言葉は1798年の山東京伝の「四時交加」が初出とされる。しかし当時の「漫画」は『北斎漫画』で見られるような、ユーモアのあるスケッチ絵のことを指していた。現在のようなコマ割による物語進行を示した「漫画」は今泉一瓢から始まっている。

 漫画の系譜はこの辺りから始まるわけだが、昭和期のヒット作といえば田河水泡の『のらくろ』だろう。1931年(昭和6年)に始まり、戦時下に大ヒットした。
 ……と、またドヤ顔で書いている私だが、実は『のらくろ』すらちゃんと読んでいない。手に入らないんだよー!
 ちゃんと読んでいないのでたまに本に載っている引用画やグーグルで画像検索したものを見ると、それこそ絵巻物をコマ割で切り取ったような絵になっている。ずーっと同じ構図、同じ視点の絵が続いている。手塚治虫の『新宝島』(1947年)との間に断層がある。
 『のらくろ』と『新宝島』との間に何があったのか?

 ここで大塚英志先生の話。
 戦時中、ソ連のエイゼンシュタインの本『映画の弁証法』が大ヒット。このモンタージュ理論の過剰な受容が戦時下に進行し、日本中のありとあらゆる文化が「モンタージュ論」で読み換えようという運動が始まった。日本文化って、映画的じゃないか……という考え方が拡散した。
 おそらく手塚治虫もこの影響下にあっただろう。この影響が大きく、その以前、例えば屏風絵を切り取って扇子にした絵なんてものがかつてあったが、こちらはぜんぜん映画的ではない。舞台的に同じスケールの絵、同じサイズの人物画ばかりになっている。モンタージュ理論が拡散する以前と以後では、日本人の思考が変わってしまっているのだ。
 動画の中で大塚先生は、手塚治虫が商業デビューする前、友達に見せるために描いた漫画を紹介したが、その中にはすでに「カメラワーク」が導入されていた。エイゼンシュタイン的な理論を手塚治虫はすでに吸収していて、それを漫画に導入していたのだ。

 そしてもう1つ無視できぬ存在……そうディズニーのミッキーマウスだ。ミッキーマウスの出現により、キャラクターの描き方は硬質で均一な線で描くようになった。かつてあった「筆」の感覚から、均一な「板書」の線へ移行する。

 と、こうしてミッシングリングは一つ一つ埋まっていく。今泉一瓢が提唱した「漫画」は手塚治虫の「漫画」へと繋がっていく。

 と、ここまでドヤ顔で書いてきたけど、全部本に書いていたことの受け売り。自分の足で調べたものは全くない。今泉一瓢作品とか、実際どんな作品だったか調べに行きたい……と考えていたけど、それも夢だけで終わりそうだ。


 「日本の漫画のキャラクターは変だ」
 漫画のキャラクターはどこから来たのか……? これは私が個人的にずっと抱えていたテーマだ。ここ数年は、オリジナル漫画の制作であまりにも忙しく、忘れかけていた話だが。
 アメコミは実在人物と比較してもさほど差異はない。アメコミを実写化するとき、日本の漫画ほど困らない。例えば『X-MEN』のプロフェッサーXをパトリック・スチュアートが演じたが、もはや「ご本人」レベルのハマリぐあい。ストームを演じたハル・ベリーも素晴らしいキャスティングだ。ウルヴァリンは……ヒュー・ジャックマンはウルヴァリンのイメージとまったく違ったが、やはりイケメンだし優れた演技力、運動能力、さらに人格も良くウルヴァリンイメージを刷新してくれた(実写俳優がコミックのイメージを刷新する……なんて日本の作品ではまずあり得ない)
 一方、日本の漫画は実写化するとだいたい大惨事になる。なぜか? よくいわれる話だけど、漫画のキャラクターは西洋人コンプレックスがあるからだ……という説明があるが、これは違うだろう。西洋人は漫画みたいな顔をしていない。というか、どうやったら漫画のキャラが西洋人に見えるのか、私にはわからない。西洋人を主演にして漫画を実写化すれば解決するか……といえばそうはならないだろう(『進撃の巨人』と『鋼の錬金術師』は西洋人が演じるべきだったが)
 日本の漫画のキャラクターが発展していく過程で、何が流れ込んできたのか? おそらくはその一つがディズニー。ディズニーを取り入れて、そこからさらに「より違うもの」に変わっていった……その系譜を追いかけていかねばならないような気がしている。

 ところで、高畑勲監督はアニメを「日本人の顔に引き戻そう」……という試みをずっとやってきていた。『火垂るの墓』や『おもいでぽろぽろ』といった作品だ。
 『火垂るの墓』の制作段階の絵を見ていくと、もっとリアルな日本人の顔や体型を元にした節子&清田が描かれていた。それが最終的に調整が入り、我々が見ているあの『火垂るの墓』の絵になっている。リアルとアニメの、実にいい案配だ。

 高畑勲監督の試みは、そうしたアニメキャラを「日本人の顔」に引き戻すだけでははなく、絵そのものも……ディズニー的な均一な線から日本的な「筆」と「鉛筆」の線に引き戻そうとしていた。高畑監督のテーマはずっとここ、「日本的なもの」にあったのだ。



 ところで、『となりの山田くん』が制作発表された頃の話。
 テレビで制作発表、映像が流れた後、私の友人が怒って電話を掛けてきた。
「なんだ、あの手抜きな絵は!」
 いやいや、手抜きじゃない。手間暇掛けて、結果的にあの絵になっているんだ……という話をしようとしたのだが、そうするとアニメの制作方法をいちから説明しなければならず……伝えようにもなかなか伝わらない。
 友人の反応を見ていてこれはまずいな……と思っていたら、案の定、『となりの山田くん』は大惨事レベルで大コケ。映画館に行くと、私と若いカップルと……たしか全員合わせても4~5人くらいだったと思う。

 別の時に、私は同じ友人に、アニメの動画を見せたことがあるのだが……その時のやりとり。
「全部同じ絵じゃないか!」
「いやいや、違うって。少しずつ変わってるんだよ」
「……いや、全部同じ絵だろ!」
 その動画というのはかなり大きなアクションが入っている絵だったのだが、友人はパラパラとめくってみて、1枚1枚が違う絵だとは気付かなかった。
 これ以外にも色んな実体験があるのだが、普通の人はびっくりするほど普段見ているアニメがどう作られているのか知らない。どれくらいのお金をかけて、どれくらいの人数で手間がかかっているのか……。「絵が動いて見える」という現象がどういうことなのか、そもそも考えてみたこともない……知らないし考えたことはないけど、でも評論はできる、というのがだいたいの一般人。ちょっと怖いよね。
 ここをちゃんと理解できるように伝えないと、『となりの山田くん』や『かぐや姫の物語』が試みたもの、果たしたものが伝わらない。『かぐや姫の物語』にしてもただ感動できるもの、感動ポルノとして消費されるだけで終わってしまう。
 伝えるのは難しいが、ちゃんと伝えねばならない。


5月19日 笑えるプロポーズ・ハプニングの話

ゴゴ通信:【動画】アメリカのカップルが噴水でプロポーズ 隣に居た子どもがおしっこをして台無しに



 このニュースを見て思いだしたこと。

 リドリー・スコット監督のデビュー映画でもある『デュエリスト/決闘者』(1977)。この映画で、主人公アルモンがヒロインにプロポーズするシーンがある。
 アルモンが膝を付いて「結婚してくれ」みたいな台詞を言うのだが、ヒロイン役の女優は大爆笑。
 なぜなら、フレームの外で馬が勃起して、雌馬に交尾を迫っていたからだ。
 ところが、フレームの内側ではプロポーズしている男女の後ろで、馬が仲睦まじくキスをしているような画になっている。非常に雰囲気のいい画になっていたために、そのまま採用された。

デュエリスト

 こちらが問題のシーン。左の馬が牝馬を見て興奮している。フレームの外で勃起。
 しかし見ての通りものすごく画の雰囲気がいい。キスをする馬と、キスをする男女が重なって画になっている。


 解説を聞くまで、プロポーズを受けたヒロインが照れ笑いを浮かべているのだと思ってた……。


5月24日 スマートフォンを使うと眠れなくなる話は本当だろうか?

 よくいわれる話。「夜にスマートフォンを見ると、睡眠の質が低くなる」……という話。あれは嘘じゃないかな……?
 だって、いま照明もLEDでやたら明るくなっているし、普通の家庭でも大型テレビがある。色んなところで強い光を浴びる機会がある。私の実家では「間接照明」の概念を未だに知らないから、今でも深夜遅い時間でもLEDシーリングライトを最強にして点けている。テレビももちろん、バックライト最強で視聴している。
(それで家族の中で不眠に悩む人は私だけ。私だけが照明とかかなり気を遣っているのだが……。不眠症だから気を遣っている・私以外の家族は不眠の悩みを抱えてないから気を遣わない……そもそも不眠の悩みを抱えていない人は、どんなに強い光を浴びようが、寝ようと思ったら5分で眠れるものなのだ)
 強い光を照射するものは家庭の中、家の外にも一杯あるのに、なんでスマートフォンのたかだが数センチ角の照明だけが「とんでもなく悪い!!」と槍玉に挙げられるのだろう……。スマートフォンはバックライトを調節して、暗い部屋に合わせることもできる(暗い部屋の中でバックライト最強にしてスマホ見てます! というのはさすがに悪いと思うが)。どこかで読んだけど、スマートフォンのバックライトは、月の明るさよりも弱い……本当かどうかわからないけど、その程度の光なんだそうだ。
 スマートフォンはそこまで悪いものじゃないような気がする。「スマートフォンさえ取り上げれば明日から安眠が得られます」……という昨今の言われ方はどうなのかな、という気が。スマートフォンがあろうがなかろうが、眠れない時は朝まで一睡もできないものなんだから。

 夜中なんとなく眠る気になれず、パソコンを点けてしまう……というのはある。なんか面白いゲーム実況とかないかな……と動画を探してしまう。
 なんとなく寝付けずふわふわする。何かないかな……と“何か”を求めてよく閲覧するサイトを巡りはじめる。

 それでふと気付いたけど、これは“寝物語”を探してるんだ。眠る前に、ちょっと軽くてゆるい、始まりも終わりもどこなのかわからないような、浅く漂っていられるような場所が欲しい。そういう場所で少し気持ちを落ち着かせて、それから眠りたい……そういう心境なんじゃないかなと。

 それで、寝物語そのものを提供できるかどうか、だ。書き手として。
 コンテンツを用意する、ということは物語を創作して提供する……ということだが、これを毎晩読むものとして無限に作って提供する……という話にすると作る側が無駄に消耗する。あまり複雑に作りすぎると、これから寝たい、というときに読む側がしんどくなる。緩くて浅いほうがいい。小説とかはしんどくて頭に入らない。
 「毎日読むもの」と義務づけると、だんたん読むことが義務化して、しんどくなる。しばらく放置して、あるいは後からやって来て「大量にありすぎる!」という事態に直面すると、読む気を失ってしまう。これから寝たい、というときの寝物語には相応しくない。
 私はこういうときゲーム実況なんか軽くていいなとか思うのだが、なぜゲーム実況なのかというと、物語の導入に解説が不要だから。世界観とか登場人物とか知らなくてもいいし、「今の演出いまいちだな」とか批評的に考えなくてもいい。無理に追いかけなくてもいい。
 そうはいっても、物語は消費するものだ。一つの物語を、何度も消耗し続けることはほぼ不可能だ。一方で、一つのコンテンツの中で、無限に物語を生産していくのは難しい。
 作るとしたら漫画・小説よりもゲームだとは思うけど、ほとんどのゲームはアクティブさが求められる。寝る前にモルヒネを打つのはよくない。スローライフを楽しめるゲームはあるはあるが、ある程度こなれると同じ作業の繰り返しになってくる。作業がやりたいわけではない。

 寝物語は創造できるだろうか……。いろいろ考えてはみるが、通常の娯楽・創作の考え方とはまるっきり違っていて、うまく考えがまとまらない。娯楽や創作は「楽しむもの」だからアクティブさを求めるが、寝る前にそんなものはいらない……という矛盾。さて、どうするか……。

 ところで「寝物語」で調べると、「男女が同じ布団の中で話すこと」という意味だそうだ。えー、私はそういう意図で書いたわけじゃないんだけどなぁ。


 ちなみに私はスマートフォンを持っていない。


5月29日 pixivフォロワー1300人へ

pixivフォロワー1300人達成

 pixivフォロワーの数が1300人に到達……最近の増え方は凄いなぁ。
 遡ると、「pixivフォロワー1200人突破」という話題をしたのは、5月22日。1週間前の話だ。

 イラスト発表やめて漫画に集中していた1年くらいは、フォロワーなんてほとんど増えなかったのになぁ。あともう少しで絵描き引退というタイミングで……。
 新しく来たユーザーさんは漫画のほうは読んでくれてないんだろうな。全てのイラストに、広告文・URL載せてるんだが、1冊も売れてない。嬉しいような、残念なような、気持ちは複雑。


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