こちらではNetflixで見た映画の感想を描いています。
 ゆるーい内容ですので、軽めに読むくらいの感覚でいいと思います。基本的にネタバレありです。
 今回取り上げている作品は、

タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密
死霊館
夜は短し歩けよ乙女
ハンガーゲーム
聲の形
ワンダーウーマン
ゴーストバスターズ 2016
ウォルト・ディズニー (2015年のドキュメンタリー)

 以上の8作品です。


タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密

タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密 Netflixでスティーブン・スピルバーグの名前を検索すると、出てくるのは『シンドラーのリスト』とこの『タンタンの冒険』の2つのみ。私は数年間ほとんど映画を見ていないので、スピルバーグ映画からも遠ざかり気味。最後に見たのは『ミュンヘン』と『インディ・ジョーンズ4』。
 うーん……『タンタン』か……。『戦火の馬』とか『リンカーン』が見たかったのだが……(『インディ・ジョーンズ4』までの作品はほぼ全て見ている)
 Netflixがスピルバーグ映画をもっと取り上げてくれるのを待とう。

 さて、久し振りに見たスピルバーグ映画は『タンタン』となった。「チンチン」ではなく、『タンタン』(音だけを聞くと、どうしても「チンチン」)。デジタル技術で制作されたパフォーマンスキャプチャーアニメーションだ。簡単なセットが組まれたステージ上で俳優が演技し、その動きをトレースしてアニメが作られている。その上にデジタルスタッフが世界観を作り、最終的な画面になる。
 共同製作に名を連ねているのは、ピーター・ジャクソン監督だ。「パフォーマンスキャプチャーで制作したほうがいい」と提案したのがピーター・ジャクソン監督で、技術的な支援や、制作会社WETAの仲立ちをし、俳優アンディ・サーキスを紹介したようだ(タンタン役のジェイミー・ベルもPJ監督の『キングコング』に出演している)
(Wikipediaを見ると、最初はピーター・ジャクソンとアンディ・サーキスで演じて、それをスピルバーグ監督に見せていたようだ。ピーター・ジャクソン監督の演技は『ロード・オブ・ザ・リング』で見たが、なかなかうまかったりする)
 いまいち関係ない話だが、ハドック船長の顔が時々ピーター・ジャクソン監督の顔に見えてしまうような気がして……。完全なる気のせいである。
 映画のビジュアル面だが、照明や光の感じがフォトリアル。しかしキャラクターのシルエットが漫画調。頭が大きかったり、鼻が大きかったりとユーモラス。風景の描き方にしても、石畳や木造建築の木目とか、実写では省略されがちなディテールがくっきり浮かび上がる。妙に箱庭的というか、ミニチュア的な感じというか……恐ろしくリアルに動くクレイアニメみたいな感触で、なんだか可愛らしいなぁとすぐに気に入ってしまう(こうしたディテールの見え方をコントロールできることがアニメーションの特権だ)
 映画は次々とアクションが展開していく。通常の映画だと、アクションとアクションの間には対話――“物語”が差し挟まれるわけだが、『タンタン』だとこの部分が最小。ほとんどアクションからアクションへと話が繋がっていく、という感じ。その息もつかせぬシーンの繋げ方。
 シーンの繋げ方だが、いつもちょっと変な一捻りを入れてくる。スピルバーグは時々、前のシーンを意識したジョーク的な繋がりを作ることがあるのだが(『ロストワールド』とかの)、『タンタン』はそれを全編でやってしまっている。
 そのアクションの描き方だが、現実ではあり得ないような描き方が一杯。初手としては、成人男性が頭部への一発で気絶したりするシーン……昔の映画ではありがちだが、ああいった“漫画的”な見せ方が、アニメだからこそハマって見える。
 中盤の、船のシーンを脱した後の飛行機のシーン……何度も極端な下降上昇を繰り返し、酒が泡となって飛行機の中を漂い……。その後のシーンもそれ以上にコミカルなシーンが出てくるのだが、そういった実写ではあり得ないようなおかしなシーンが楽しい。ああいったあり得ないようなシーンを、あり得るものとして描いてしまう。実写で描くことはできるが、ただのコメディとなってしまうところを、アニメだからこそリアリティの度合いを下げて、受容可能なひと場面にしてしまっている。
 続いてモロッコでのながーい1カットチェイスシーン。これまた実写ではどうやっても描くことができない、恐ろしく長く、しかも大がかりな1カットシークエンスだ。バイク、戦車、ハヤブサという道具立てでひたすら坂道を転げ落ちていく。あそこまでキャラクターを追い詰めて、危険な瞬間の連続を描き、繋げていけるのも、こういったアニメの技術があってこそ。
 さらに続くシーンでは、巨大クレーンを使った“フェンシング”。よくもまあ、あんなシーンを思い付くものだと感心。シーンとしても面白いし、大がかりなものが動くダイナミズム、さらにクライマックスとしてのワクワク感もきちんとある。

 ただ、引っ掛かったのは「タンタンって誰?」。映画が始まって、すぐにノミの市のシーンが始まり、問題の帆船模型が出てきて、事件に巻き込まれてしまう……。
 という展開だが、「タンタンとは何者なのか?」という説明、タンタンの経歴やパーソナリティがわかる場面がほぼない。あるといえばあるのだが……オープニング映像や途中に挿入される新聞記事……そこは本当にさらっと流してしまっている。これまでいろいろやってきたんだな……というのはわかるが、ピンとこない。
 展開の早さはいいのだが、しばらくタンタンの人物像が掴めず、戸惑ってしまった。
 というのも、何の予備知識のないまま見始めたから、タンタンがかなり奇妙な人物に感じられたんだ。まず、タンタンには親も友人らしき人物も出てこず、いつも犬を連れていて、犬としか対話しない。図書館に犬を連れて行って「わかったぞ!」と話しかける姿を見て、「こいつ……大丈夫か?」と思ってしまった。もちろん、ガールフレンド的な人物などは出てこない。
 タンタンが住んでいる部屋は出てくるが、どんな家に住んでいて、その家がどういった場所か、俯瞰で示されることもなく。タンタンという人物像を掴み損ねてしまった。話がしばらく進めば、なんとなくわかってくるところだが。

 『タンタン』の興行は世界的に成功したようだ。こうしたパフォーマンスキャプチャー映画は、ロバート・ゼメキスやゴア・バービンスキーが挑戦しているが、残念ながら興行的には成功していない。私はロバート・ゼメキス監督の『ベオウルフ』はかなり好きなんだが……。
 パフォーマンスキャプチャーアニメはなかなか面白いものだから、もっと次々にフォロワーが現れて、継承されていってほしいものだ。

5月3日


死霊館

ちょっとネタバレあり

死霊館 この作品の次回作である『死霊館 エンフィールド事件』の感想を書いたとき、「第1作目がNetflixになくて残念だ……」みたいな話をしたが、その数日後、Netflixにまさかの1作目が「新着映画」として追加された。ありがとうNetflix!

 お屋敷シリーズなので、舞台が大事。第1作目の舞台はロードアイランド州ハリスヴィルという場所。一言で表現すると“田舎”。周囲に家はなく、通りの両側には大きな木が並び、その先に白い壁と緑の屋根の立派なお屋敷が建っている。家の裏側は池になっている。
 ちょうど『フォレストガンプ』に出てくるような美しい自然に囲まれた、ちょっと古びているが瀟洒なお屋敷……とロケーションとしては最高。アメリカ的な田舎だし、アメリカ的なお屋敷だ。自然とお屋敷のバランスが良く、幽霊が住んでいると知らなければちょっと行ってみたくなるような場所だ(幽霊がいるならばむしろ住みたいという人もいるだろう)
 ちょっと見には美しい風景なのだが、しかしどこかしら怪しげな雰囲気が漂っている。通りの木々は秋だからだがみんな葉が落ちているし、池の側に立っている古木は不気味にねじれている。美しいがどこかしら怪しい……そんな雰囲気が良く出ている。
 そんなお屋敷に何も知らない一家が移住してくるのだが、間もなく「殺意高め」の幽霊たちに恐怖のどん底に落とされる。
 モチーフとして使われていたのは「ドア」と「隠れん坊」。
 隠れん坊……目隠しをした状態で、音だけを頼りに隠れている子供を探すのだが……危ねーな。これ、うっかり階段から落ちたりしたらどうするんだろう? まあそれはさておき、目が見えない状態で何かを探る、探している人には周囲は見えない……そういう状況下でじわじわと存在感を示し始める亡霊達。「そこにいるのね?」と向かっていくが、その先には……。
 もう1つ、よく使われていたモチーフは「ドア」。人の気配もないのに、キィと開くドア。その向こう側は真っ暗闇に閉ざされていて……。向こう側にいるのは、人か、幽霊か……。ドアの向こうを確かめる瞬間、ワクワク感……じゃなくてドキドキ感が高まっていく。
 ドアを開ける、という動作はホラーゲームにこそ多いように思える。ドアを開けた向こう側にゾンビがいるかも知れない、幽霊がいるかも知れない。私が好きな『零』はドアを開けるとき、ドアノブへクローズアップしてちょっともったいつける。初期『バイオハザード』も演出としてドアが使われていた。何でもない動きだが、それだけで少し気分が盛り上がるのだ。
 その他にも「寝ている間に足を触られる」とか、よく考えると何でもない話だが、日常的にふっと感じられる恐怖をうまく映像の中に落とし込んでいる。
 ただ、2作目と比較すると、恐怖演出はやや単調に感じられた。「次のカットで背後に幽霊が出現するんだろうなー」と思ったら、思った場所に幽霊が出てくる。演出のパターンが「読み」やすいんだ。恐怖シーンも、2作目ほど多くない。2作目は長回しを使って丁寧なトリック撮影を組み立てていったが、1作目はどちらかといえばかなりスタンダートな幽霊映画の作りになっている。
 普通に1作目→2作目という順序で見れば気にならないところだが、2作目→1作目という順序で見てしまったので、スケールダウンしたものを見ている印象になってしまった。
 映画の構成は2作目と一緒。前半1時間くらいを使って幽霊屋敷の状況を丁寧に説明し、後半1時間でウォーレン夫妻がお屋敷にやってくる。ロレインは地縛霊だらけの素敵幽霊屋敷を見て、心を躍らせる……いや、そんな感じじゃなかったな。地縛霊だらけの幽霊屋敷を見て、顔を曇らせる……こっちが正解だったな(心ピョンピョンさせていたのは、おそらく……私だ)
 ウォーレン夫妻の調査が始まり、幽霊屋敷の背景が開かされる。この辺りの話がちょっとさらっと流している印象。といっても、詳しく話そうとするには歴史がやや深すぎる。「セイラム魔女裁判」の話や、その周辺で起きた不審な事故の話や……ちょっと大きすぎる。子供やメイドの幽霊が出てくるのだが、フックにはなっているが、あまり物語のクライマックスには介入してはこず。最終的に魔女退治のお話に収束していくのだが、その他たくさんいたはずの幽霊のエピソードが飛んでしまっている。魔女と戦うお話……としての凄みはきちんとあって楽しめるのだが。
 映画のラスト、魔女に取り憑かれた女にロレインが上から手を差し伸べる。光が同時に射し込み、天使が女の頭に手を添えているように見える。ちょっといい構図だ。
 最終的には穏やかなラストで収束する。ちゃんと戦って、お話をきちんと畳むところがこのシリーズのいいところ。まだ続きがあるなら、見てみたい作品だ。

5月7日


夜は短し歩けよ乙女

夜は短し歩けよ乙女 湯浅政明監督×森見登美彦原作。『四畳半神話体系』の監督原作の2人が劇場映画で邂逅する。
 森見作品といえば、屁理屈なのか詭弁なのかよくわからない言い回しと雑学で見るものを煙に巻きつつ、韜晦しつつ、それでいて妙に耳に心地よい節回しでなんともいえない言葉の快楽を生み出してくれる作家だ。今作は特に真っ当なのか異端なのかわからない話術、作術で、奇怪で愉快な世界観を構築している。
 そんな不思議で珍妙な世界観と湯浅監督の感性がうまくマッチしている。物語は、奇妙なくらい間延びしたある一夜の出来事を描いている。実際描かれている内容は怪奇不可思議。主人公は先輩と黒髪の乙女の2人。この2人が交互に語り手を変えながら、物語上に起きている状況を語り上げていく。とある知人の結婚式、二次会を前に1人抜け出した黒髪の乙女と、それを追いかける先輩。しかし先輩はすぐに黒髪の乙女を見失い、先輩は延々黒髪の乙女を探してさまよい、黒髪の乙女は夜の街をひとり突き進んでいく。
 理想の女性として描かれる黒髪の乙女だが、かなり豪快な変人だ。会う人会う人拒まずついていき、詭弁踊りを恥ずかしげもなく披露し、かなりの酒豪で天狗と目される李白と飲み比べで勝ってしまい……。好奇と本能のままにずんずん突き進んでいく。その異様なくらいのポジティブシンキング。ネガティブな先輩と真反対のパーソナリティだ。
 その後を、もう1人の主人公である先輩がついていく……という構図だが、先輩は黒髪の乙女とは真逆。普通で平凡で特に個性のない人物で、主張も弱く回りに飲み込まれ振り回され、それ故に黒髪の乙女に近付けず遠ざかっていく。
 『四畳半神話体系』『有頂天家族』を連想させるキーワード、人物があちこちに登場する。「どこかでこっそり作っているという偽電気ブラン」という話が出てくるが、作っているのはきっと『有頂天家族』のタヌキたちだ。李白と寿老人は関連のある人物だろうか。
 吉原正行監督『有頂天家族』はきっちりした3点透視の空間に、森見らしい奇怪な人物が愉快に動き回る作品で、こちらもこちらで作品の志向と映像の感性がキレイに噛み合っていた作品だが、湯浅『夜は短し歩けよ乙女』の絵も不思議なくらいにマッチしている。中途半端にならない、振り幅の大きすぎる作風がむしろ森見作品と合うようだ。中途半端によくあるアニメの作法に寄せるよりも、濃いめの個性を持った映像のほうが森見作品には相応しいのかもしれない。
 きっちり空間が作られた『有頂天家族』に対して『夜は短し歩けよ乙女』。湯浅監督らしく、自由にのびのびと作られた空間描写に、あるはずのない動きに動画的快楽を与えていく。例えば、お酒を飲んだときのゴックン。そんな量飲んでないでしょ、というくらい喉からお腹へ、極端なくらい大きく膨らませて描かれる。鍋を食べるシーンも、火を噴いた餃子やラーメンを食べて顔を真っ赤に、唇を大きく腫れた姿を描く。詭弁論大会の時に披露した奇妙な踊りは、どことなく『クレヨンしんちゃん』を思い起こさせる。
 色彩は、赤、黄色、青、緑の4色くらいしか使われていない。あとは彩度と明度を調整しただけ。黒髪の乙女は明るい赤と黄色。先輩は色のない白と、色がそれぞれの立場を現している。
 物語は、一応群像劇……というべきかな。先輩、黒髪の乙女という語り手の周囲に、樋口、羽貫、東堂といった人物が現れるが、物語の中でそれぞれが関連を持ち、最後には葛藤を乗り越えて、時には踏み潰され、最終的には先輩と黒髪の乙女の物語へと収束する構造を持っている。誰かの物語が誰かの物語に干渉し、傍流で小さなドラマを作りつつ大きなドラマを収束させる……そんな群像劇的な作りを感じさせる。
 この広がりの中に、なんとなく『四畳半神話体系』や『有頂天家族』の物語も巻き込まれており、この作品だけではない広がりを感じさせてくれるのが面白い。

 ただ、後半の展開。一応、同じ夜の物語……というが、時間的な連続性、ドラマの連続性はあまり感じられない。文化祭の一幕で物語の熱が一旦収まって、感覚的には時間が少し進んだような感じがある。着ているものの装いも冬っぽいものに変わるのに、風邪の大流行という時間の経過を感じさせる異変があるのに、しかし同じ夜の物語……というところで奇妙な感じになってしまう。
 これもこの作品に流れる不思議な時間感覚というべきなのだろうか。物語のはじめのほう、老人達の集まりのシーンでそれぞれで時計の動きが違うと示されている。当事者の中で時間的な連続性があるというなら同じ一日だ……という理屈なのだろうか。
 クライマックスは黒髪の乙女が先輩の家を訪ねるまでの道のり。その物語が先輩の精神世界の中で描かれ、その世界の中で理屈が付けられている。これまで群像的な作りで描かれてきたのに、ここで一気に個人の物語に変わってしまう。どうせなら、最後まで群像劇的な作りを貫いて、スムーズに先輩と黒髪の乙女の物語に収束して欲しかったと思うところはある。

 もう1つ引っ掛かる場面は、文化祭での劇。ミュージカル的な踊りが描かれるが、この動きがあまり力強くない。奇妙な動きには独特の躍動感がある湯浅アニメだが、ダンスといった動きそのものを真正面から捉える、魅せるという瞬間にはやや弱い。

 とはいえ、湯浅らしさと森見らしさがうまくマッチした作品。奇妙な世界観に身を委ね、絵と言葉の心地よさにしばし身を委ねていたくなる。この2人による映像作品を、またどこかで見てみたい。

5月10日


ハンガーゲーム

ハンガーゲーム Netflixにハンガーゲームあるのね。2012年のヒット作だ。当時、やたらテレビで宣伝打ってたなぁ……。
 貴族階級と貧民階級に分けられた近未来のアメリカ。貧民階級の人々は各地域ごとに2人ずつ選出し、「ハンガー・ゲーム」に参戦し、殺し合わなければならない。全12地域で、24人が殺し合うハンガー・ゲーム。主人公のカットニスはその中で生き残れるのか……。
 というSF設定はともかくとして、アメリカ発のバトルロワイヤルものである。日本では正直なところ、似たような設定のストーリーが氾濫しているので、Netflixで見かけたもののバトルロワイヤルものは食傷気味なので、どうしようかな……とは思った。日本ではこういったストーリー、すでにテンプレート化しているので、設定そのものに新鮮味はまったくない。
 まあそれはともかくとして。
 本編冒頭。貧民階級の生活が描かれる。お山のふもと、道路も整備されていない場所に、貧相な家がぽつぽつと建てられている。手ぶれの多いハンディカムと、クローズアップ多めの映像。ドキュメンタリー的な印象を狙っているのだろう。
 映像はともかくとして、その街に住む人々の顔。いい人連れて来たなぁ。モブキャラ達の顔が、場所を説明してくれている。ただ、全体的に画角狭めなので、場面の広がりはあまり感じない。

 そんな街に貴族階級の人達がやってくる。カットニスがハンガー・ゲームのプレイヤーに選出され(正確には妹が選出され、カットニスは代理)、ピーターと共に都市を目指す。
 都市の映像に入ると、カメラに手ぶれがなくなり、フィックス、クレーンと動き方が明確になる。建物の様式は壁紙のないコンクリート面剥き出しの壁に、大きな窓。ちょっとコルビジェっぽい印象だが、それ以上に人の生活観を感じさせないというか、人肌を感じさせない冷たさがある。そんな中で暮らす人々は、これみよがしにカラフル、常に仮装パーティー状態。ハレと祝祭。貧民街の光景との落差を作っている。
 貧民街はかつてアメリカにもあった貧しき時代、状況を映像にし、都市の光景は極端に“作り物”っぽさを強調している。貧民街に都市の人達がやってくる映像は、若干ギャグっぽく見えてしまうのだが。そういった極端さを作ることで、今という時代とは違うSF空間を作ろうとしたのだろう。
 剥き出しのコンクリート面と仮装パーティー状態の人々……この落差で都会の人達の精神的貧困を表現しているのだと思うが、映像としてはあまり華やかではない。SF映画はどんな都市を見せるか、が1つのポイントだが、『ハンガー・ゲーム』の都市は風刺に寄りすぎ、映像作家としての個性が弱く感じられた。

 さて、都市にやってきてハンガー・ゲームが始まる……かと思いきや、まだ始まらない。カットニス&ピーターはヒーローとして迎えられ、テレビ出演や、スタイリストや教官との交流が始まる。
 次第に都市の空気に飲み込まれていくピーターと、戸惑い警戒し続けるカットニス……。
 すぐにハンガーゲームが始まるものかと思っていたが、ゲーム開始は1時間が過ぎたところから。予備知識を入れずに見ているから意外だったが、登場人物同士の交流を大切に描かれる。アメリカ映画でこういうところをもったい付けてキャラクターを掘り下げていく展開は珍しい。
 前半ははっきりと見せ場は特にない。SF的な光景に驚きや新鮮味は特にない……ただただキッチュなだけだしで(未来的なテクノロジーを見せる描写がない)。ただ、このワンクッションがあるから、後半に入ってもきちんとキャラクターが把握できる。

 前半いろいろあって、やっとハンガーゲーム開始。24人での殺し合いが始まる。
 カットニスはリュックを確保したらすぐに森の中へ逃亡。しばし身を潜めて状況を見守る……。
 前半部分を見ていて気付いていたけど、アクションにはあまり力はない。アクションの流れはあまりきちんと描かないし、やたらと表情を描こうとする。顔のクローズアップ多め。アクションの凄みとか、緊張感はあまりない。それ以上に物語の展開が重視されている。それぞれの人物がどのように交流したか、展開と関係性のほうに重きが置かれる。こういう描き方はやっぱりアメリカ映画では珍しい。
 物語展開はなかなか面白いのだが、その一方で、ちょっと引っ掛かる部分というか……キレイに描きすぎるかな、と思う部分がある。例えばカットニスと一緒に行動していた少女が殺されたとき……見晴らしのいい森の中、カットニスがしばし悲嘆に暮れて、少女に花を添える……。いや、それをやっている間に狙われないか? しかも結構尺を取るし……。
 少女が殺される一連のカットの流れがなんとなく一昔前のアニメみたいだ。たまたまだとは思うけど。
 アクションがそれほどパワフルではなく、映画的なクライマックスに向かっていく感覚は薄い。あくまでも物語展開のほうが重視されるので、どこかテレビドラマの一気視聴のような印象(あるいは劇場版総集編みたいな感じ)。それはそれで悪くないが。
 日本でこういった作品が作られる場合、悲劇的な場面を強調するために、その人物観を無視していきなり主人公を裏切ったり……シーンを過激にするために無理矢理にキャラクターが殺されたり……という展開が日本の作品には多くなっている(で、結局人気絵師のキャラデザと人気声優さえ出ていれば、そこそこ以上の数字が取れるのが我が国の現実だ)。このジャンルは人物を大事にしない。それでこのジャンルには食傷気味になっているのだが『ハンガー・ゲーム』はそこまで酷くはない。キャラクターの個性はちゃんと一貫してくれる。展開にはやや段取りくさい場面が……わざとらしく殺されるキャラクターがちょいちょいいるのが惜しいところではあるけども。

 Netflixには2作目、3作目もあるようだ。どうしようかな……。1作目も結構しんどかった。2作目を見るかどうかは、しばし考える。

5月14日


聲の形

聲の形 子供の頃というのはだいたい何か間違うものだし、その間違いを取り戻すために何年もかかる時もある。最後まで取り戻せないこともある。子供の頃の失敗は、実は重くつらい。

 石田将也は下を向いて、耳を閉じる。声は掌に遮られて、耳の中でかすかにこもって聞こえるだけ。ずっと下を向いているから、足が描かれることが多い。色彩は淡い。明度も彩度も高い。なにもかもが漂白したような絵に、線画が際立ってくる。
 繊細な線の束、慎重に作られた演技。描いたのは西屋太志だ。私が最も好きな京都アニメ作品である『氷菓』のキャラクターデザイン、作画監督を手がけた人だ。西屋太志の絵は線の厚みがもの凄いが、しっかり整理されている。ハイライトも線で描かれている。線でしっかりキャラクターの実在感を浮かび上がらせるし、なによりキャラクターが愛らしい。鉄壁のヒロイン像を描きだしてくれる。ただデザインが可愛いだけではなく、動きの一つ一つでキャラクターを語ってくれる。
 山田尚子監督は『けいおん!』で素晴らしいデビューを飾った監督だ。『けいおん!』はキャラクターが先行しすぎている印象があるが、山田監督の特筆すべきは少女の何気ない、何でもなさ過ぎる心情の機微。その捉え方。台詞や物語ではなく、まるでドキュメンタリーのようにカメラを回している印象、空気感をアニメで作ってしまう。
 山田演出は『聲の形』という作品の中であまりにも見事な輝きを放っている。映像がどことなくアニメ的な感じがしない。どこかハンディカムを回しているような雰囲気で、しかしアニメだ。実写的、というものとも違う。独特なのに異端な感じがなく、ふわっと観る側の心象に入り込んでくる。
 映像は、主人公将也の心象を描くことに徹底的に集中している。全てを遮断している将也は、キャラクターが並んでいても、なかなか同じ構図の中に2人が並ばない。まず足下だけを写す。わざわざ切り離すようなカット割りで、あたかも一緒に並んで撮影していないかのような雰囲気を出す。そういうプロセスを経て、やっと2人が同じ構図に入ってくるが、将也はだいたい下を向いて、目の前の人を見ていない。顔を上げても、そこにあるのはバッテンだ。結局、相手の顔は見えない。
 色彩は漂白したように全体が白い。空を見上げても雲はなく、映像にすっきりと抜けるようなものが何もない。美しいがもやもやしている……という印象だ。全体が淡いが、描き方は非常に繊細。僅かに赤味を入れたり、僅かに青を加えたり。将也がその時感じている印象、相手との距離感とで、少しずつ色が変わっている。
 いわゆるアニメという感じがない中で、しかしアニメという今までにない映像観を作りだしている。それは『聲の形』という物語を表現する手法として、素晴らしくはまっている。見て数秒で、もうこれしかないと感じさせる力強さがある。
 キャラクターの演技で特筆すべきは手話。単純に、今まで全編手話を使いながら対話するアニメキャラは見たことがない。その動きに嘘が感じない。手を動かしながら、その動きにすら感情が表現されている。絵の表現力の凄さに参ってしまう。ただただ見事だった。

 物語は聾唖といじめを取り扱っている。平凡な小学校の中に混じり込んだ一つの異物……耳が聞こえず、喋れない女の子。子供たちは最初は受け入れようとするが、間もなく嫌悪と憎しみを向けるようになる。
 最初の切っ掛けは大人達が特別扱いをしているような気がした。不公平だ。合唱コンクールの結束が乱れる。邪魔だ。
 将也が西宮硝子を標的にした切っ掛けは、「面白半分」というのも多分にあるように思えるが、切っ掛けそのものは隣に座っている女の子の不満を感じたから……という気もする。
 とにかくも将也は西宮を攻撃した。……子供はいつも自分が正義だと信じている。自分が正しいと信じている。自分の意思が無制限に世界に対して通用すると思っている。そんなわけはないのに。
 結果的に将也は、自分の犯した罪を、自分で背負うことになる。これが将也にとっての原罪となり、その後ずっとつきまとってしまう。“自身”を失ってしまう。

 実際には、その時そこにいた当事者全員が間違っていて、その時自分たちがしたことに背を向けて、なかったことにしようとしている。将也に罪を押しつけて逃げている。その後ろめたさをずっと抱えながら、日々を過ごしている。原罪を背負い、自身を失っているのは、将也だけではなく、当事者全員だった。……後半に入り、その実像が浮かび上がってくる。
 間違いに気付きつつも、目を向けようとしない。その後ろめたさの話。今ある社会から弾かれないために、ごまかしを続けていく。
 基本的には将也が失った社会性を取り戻すための物語だが、将也たった1人の物語ではなく、当事者全員が自分の罪を向き合い、乗り越えるための物語だ。社会の中にいるが孤立している……という人達の物語でもある。

 山田尚子監督は明るい性善説を描く作家だ。『聲の形』は一見すると「嫌な人」が描かれるが、実は決して“悪意”があるわけではない。むしろ“善良さ”を描いている。ただその善良さが過ちとすれ違いによるもので狂ってしまっている……その状況を描いている。しかし結局は最終的に“善良さ”が最後に勝利する。
 将也が失ったものを取り戻すための物語だ。それはごく当たり前のこと……耳を塞がず、目の前の人を見ること。たったそれだけの話。それだけのものを取り戻すために、ただひたすら葛藤し、戦いつづける物語だ。

5月21日


ワンダーウーマン

ワンダーウーマン プロローグ、母親がダイアナにかつてあった神々の戦いについて話して聞かせる。これがミケランジェロのフレスコ画風の絵で、これが少しずつカメラを変えながら動く。どうやって作っているのだろう。神秘的だし、美しい。でもやたらとポーズを決める神様はちょっと笑える。
 冒頭の舞台は、女だけが住むセミッシラ。女サイヤ人ことアマゾン族達の王国だ。この辺りの舞台がどうも作り物っぽく感じるのが惜しい。しかし、それもアリかな……と後々思うようにもなる。ドワーフの兜のようなサークレットはやっぱり笑えてしまうが。
 さて、絶海の孤島セミッシラに冒険の導き手であるスティーブがやってくる。冒険の誘いを受けたダイアナは、第1次世界大戦中の“こちら側”の世界へとやってくる。
 冒険物語は導き手に誘われて“異世界”へ行くものだが、この作品の場合は逆。異世界の住人が導き手に誘われて“こちら側”へとやってくる。ダイアナがいた世界がリアルな世界ではなく“異世界である”と思えば、ちょっと嘘くさく感じるのも悪くないと思うようになってくる。なぜなら異世界だからだ。
 ちょっと変わった構造だな……と最初は思っていたが、そういえば『スーパーマン』も異世界である惑星クリプトンからやってきた。意外に共通するものはあるのかも知れない。私たちの発想で捉えると、魔界から召喚術でやって来た超人的な力を持ったヒーローみたいな感覚かも知れない(最近はやたらと魔王が召喚されているようだが)
 セミッシラからイギリスへ……。ん? ずいぶんあっという間に到着したな。意外と近かったのだろうか。イギリスへやってきて、物語はしばし小休止。ダイアナにとって異世界である私たちの世界。その世界観を楽しむ場面が流れる。ここでダイアナのチャーミングな姿が見られる。この一幕がかなり好き。
 その後、仲間達を集めて次の冒険の舞台へ……と見ているとこれは純然たる冒険物語映画なのだとわかってくる。
 そんな幕間を経て、戦いの場面へ。扮装のマントを脱ぎ捨てて、バトルコスチュームが現れる。赤と青の配色。アメコミヒーローはみんな赤、青だ。武器はゴッドキラーと呼ばれる剣と、盾、それからヘスティアの例の紐だ。ダイアナは超人的な力技で戦場を駆け抜けつつ――基本的には殺さない。DCヒーローらしいやり方だ。
 舞台は第1次世界大戦の最中で、人々の戦いは一応リアルな戦争ものの体裁を持っている。しかしダイアナのバトルは超人的な肉弾戦。ハイスピードカメラを何度も差し挟みながら、その超人技が強調させる。セミッシラでの戦いでもそうあったが、アマゾン族達の戦いは基本的にはハイスピードカメラを挟みながらの戦いだ。戦い方や映像の作り方で、世界観の差異を表現している。
 その力感、軌道線の作り方がちょっと変かな……という気はしたが基本的には格好いいし、たった1人で戦場を突き抜けていく姿はどこまでも痛快。『バットマンVSスーパーマン』でも聞いたあのテーマ曲も格好いい。へスティアの例の紐を使った戦い方はかなり楽しかった。
 ダイアナ達が探し求める敵。その敵側のキーとなる存在にイザベル・マル博士。なんか懐かしい気がするマッドサイエンティストだ。リアルな世界観が背景になっているのに、妙に漫画的な“悪”が配置されているが……そういえば『スーパーマン』の宿敵もレックス・ルーサーという変人だ(変人ではなく、悪の天才科学者!)。そういうところで意外に共通する感性があるのかも知れない(そういえばダイアナの弱点ってなんだろう?)
 ところで、ダイアナの愉快な仲間達であるサミーアとチャーリー、酋長……あまり活躍する機会がなく、残念。ダイアナとスティーブの存在が強すぎて、背景に引っ込んでしまっている。敵役マル博士は存在が強烈だし、確かにキーとなっているのだがあまりシナリオの中で強力とは思えない。しかし立たせすぎると物語に渋滞が起きるな……と考えると、これくらいがいい案配なのかも知れない。
 いろいろあって物語はクライマックスへ。ダイアナは力を覚醒させてスーパーサイヤ人ばりの戦いを繰り広げていく。こういった絶対的な力を持った存在への憧れと尊敬は、アメリカ人が潜在的に持っている感性だ。アメリカ人はコミックスの中で現代の神話を創造したいという欲求があるのだ。スーパーマンと並ぶ存在としても相応しい。
 ダイアナの超人を越えた神に近い者としての表現。非常に力強いし、描き方にも納得感がある。主演のガル・ドレットは容姿だけではなく全身が完璧に美しく、超人の体現者として相応しい存在感を持っている。ガル・ドレットという素晴らしい女優と、パティ・ジェンキンスのセンスを得て見事な「超人賛歌」の映画になっている。最近のDCムービーの中でも一番の作品だ。


 ただ気になるところといえば、ドイツ軍の扱い。シンプルな勧善懲悪ものとして作られているから、ドイツ軍がただの“悪者”として描かれてしまっている。なんか可愛そうだな……。こういう映画が作られたら、日本軍も同じように“ただの悪者”として描かれてしまうから、なんとなく他人事のようには思えない。もうちょっとドイツ側にも人間味を与えて欲しかった。……なにしろこの時のドイツの敗北が、次なるもっと悲惨な戦争の切っ掛けを作ってしまうのだから。
 それで、ダイアナは次なる戦争……第2次世界大戦には参戦しなかったのだろうか? ちょっと気になる。

5月25日


ゴーストバスターズ 2016

ゴーストバスターズ 2016 第1作目の『ゴーストバスターズ』は楽しかった。ゴーストを電撃で捕まえて、閉じ込めてしまう。この発想に行き着いたのが素晴らしい。幽霊を現代的な科学(かなりいい加減なものだけど)を使って捕まえてしまう。今もって、これほど見事な創造で幽霊ものを表現した例はない。
 映画での幽霊表現といえば、どうしても古風なものになりがちだ。その文化が記憶している“古いもの”を呼び起こす。だが『ゴーストバスターズ』に出てくる幽霊はファンキーで可愛い。現代人の思考が生み出した新しい幽霊だ。完全にこの作品独自の感性だし、幽霊表現のビジョンを間違いなく刷新した。
 もちろんのこと俳優達の愉快な掛け合いに、最高の楽曲! あらゆるものがうまく噛み合って、『ゴーストバスターズ』は今でも忘れられない名作映画となった。

 さて、そのリブート作である『ゴーストバスターズ 2016』。
 『ゴーストバスターズ』の続編は何年も浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返していた。何度も「脚本が完成したらしい」「監督が決まったらしい」という話が出るが、それから間もなくして「白紙に戻った」で立ち消えになり……。関係者の年齢も上がりすぎて、もうこのまま続編は作られないのではないか……。そう思ったところにようやくリブートの話が浮かんできて、ついに実現したのがこの作品。

 主人公達エリン、アビー、ジリアンの3人は社会からのはぐれものだ。この3人が誰も認知しなかったゴーストの存在を追い求め、さらに捕まえる方法を発見する。はぐれものが社会性を取り戻し、ヒーローになっていく、定番のプロットだ。
 前シリーズの精神性は受け継がれていると思うが……あまり面白くない。コメディ映画らしく、俳優同士の掛け合いにたっぷり時間を使っているのだが、これが面白くない。ネタの一つ一つが小さすぎるし、ことごとく滑っている。滑っている上に、長い!
 肝心のストーリーの方はなかなか進まない。幽霊は早いうちに登場するが、一つ一つがどうしてもモタモタする。最初のお屋敷の幽霊が出てくるシーン、ジリアンがポテトチップスを食べているが、その次のカットで足下に落ちているミスもある。お屋敷の後に地下鉄の幽霊と、空振りが多い(結局どちらも捕獲せず放置だし)
 幽霊捕獲装置が出てくるまでが遅いし、説明も長い。ようやく劇場の霊を確保するが、ここまでに随分時間を掛けている。
 この後、市長の邪魔が入るが、それでも活動を続けるゴーストバスターズ。その活躍の過程が描かれていない。幽霊捕獲を続けて街のヒーローになっていく……という展開がなく、いきなりホテルの地下に真犯人がいることに気付いてしまう。活躍の場面がなく、雑に“解明編”に入ってしまう。ゴーストバスターズの存在が人々に知られて、受け入れられていく……という過程がないので、どうしてもゴーストバスターズの人達が社会から弾かれたままの存在……という感じに見えてしまう。
 ローワンが持っていた本で彼の計画が明らかになるのだが、ページをめくるたびに出てくるやたら豪華に作られたイラスト! あまりにも説明的で笑えてしまう(一番笑えたところかも)。あのただのイラストに過ぎないものを根拠に市長のところへ警告に行こうとする場面が、あまりにも無理矢理。警告に行くのなら、まず証拠集めでしょうに。
 残念だったのは、前シリーズで主演だったビル・マーレイをあっさりと殺してしまったこと。しかもかなり雑な死に方。もうちょっと前作を尊重して欲しかった。
 結局は前作『ゴーストバスターズ』のアイデアを借りて、ほんの少々の付け足しをしただけの映画。この映画ならではの独創性がほとんどない。1984年という時代においては先進だったし驚きのあった表現の数々が、充分なアップデートもされずほとんどそのまま表現されてしまい、ただただ古くさく、陳腐なものになってしまっている。前作の素晴らしかったものが全部駄目になっている。
 前作の楽曲が少し使われているが、その使い方もあまり良くない。やはりメロディの一部を借りただけ。現代的なアップデートがない。

 この映画の一番大きな問題は、登場してくるキャラクター、俳優達を愛せないこと。内容はともかくとして、この人達の続きが見たい……という気分にはならない。彼女たちが新しいゴーストバスターズであると認めたくない。ゴーストバスターズらしい軽快さ、観客も取り込んでいく一体感に欠ける。相応しくない。特に受付の男! ただただイライラさせられる。最悪のキャラクターだ。
 ファンにとっては30年近く待たされた新作。『ゴーストバスターズ』の新シリーズだったが、残念な結果に終わった。再リブートに期待しよう。

5月27日


ウォルト・ディズニー (2015年のドキュメンタリー)

 ※全4話のドキュメンタリー

ウォルト・ディズニー ドキュメンタリー 次は何の映画を見ようかな……とNetflixの映画一覧をふらふらと彷徨っていると、こんなドキュメンタリーを見付けた。おお、これは面白そうだ。
 でも冒頭にあのミッキーマウスのテーマ曲が流れたらどうしよう? あのテーマ曲が最初に流れたら見るのをやめよう……そう思いながら見始めたが、そういうドキュメンタリーではなかった。関係者のインタビューと、当時の記録映像、記録写真でウォルト・ディズニーの人物像を掘り下げていく、スタンダードなドキュメンタリーだった。

 ただ、いろんなところで説明不足なドキュメンタリーだ。関係者のインタビュー映像がたくさん挿入されるが、誰なのかを説明するテロップがない。最後の方でやっとウォルトの親族だとわかる話が出てくるが、それも一部で、ほとんどは「結局、誰だったんだろう?」という印象で終わってしまう。
 記録映像のナレーションも、名前が次から次へと出てきて、やっぱりほとんど説明されない。例えばウォード・キンボール。キンボールはディズニー「ナイン・オールド」と呼ばれ尊敬されるアニメーターの1人で、彼が所有していた機関車が、後にディズニーランド創設の切っ掛けとなった……重要人物だと思うが、ドキュメンタリーではさらっと名前が流れていく。

 あまりにも説明不足なドキュメンタリーで、見る前にちょっとした知識を入れておいたほうがいいだろう。ここでも1つ、見る前に大事な情報を紹介。
 イライアス・ディズニー。ウォルト・ディズニーの父親だ。イライアスという人物を一言で表現すると「クズ」だ。
 イライアスは思いつきで行動するし、すぐに飽きるので、ディズニー一家はずっと引っ越しばかりの生活。アテのない投資をして失敗を繰り返し続けていたので、いつも貧乏。それでディズニーは一家で働いていたし、ウォルトも子供の頃から働かされ、「子供らしい遊びを知らなかった」と言われている。
 一家が働いた金はすべてイライアスが巻き上げ、アテのない投資に回してしまう。暴力的なイライアスの苛立ちは4男ウォルトに向けられることがあったらしく、地下室に閉じ込めて、暴力を振るうこともあったそうだ。
 そんな父親が嫌で、4人兄弟だったが上から順番に家出。長男と次男のその後については文献にも出てこないし、ドキュメンタリーにも出てこない。どうなったかよくわからない(3男ロイは後にディズニー社の経理を担当するので、よく知られている)
 父・イライアスとの確執は後々までずっと残ったらしく、『白雪姫』の大ヒットの後、両親に家をプレゼントするが、父が死んだ時、旅行中のウォルトは父のために旅行を切り上げる……ということはしなかった。
(母のことは愛していたようだ。母が死んだ時、ウォルトはひどく落ち込んでいた。自分がプレゼントした家に備え付けられた暖房機で一酸化中毒死……という死に方だったから、より落ち込んだだろう)
 4男のウォルトは最後まで家に残っていたが、第1次世界大戦への出征を切っ掛けに家を出る。戦後、家に戻ることなく、カンザスで広告の仕事を始める……。

 ドキュメンタリーはカンザス時代から始まる。ウォルトが仕事を始めたごくごく最初の時代だ。アニメーションはまさに黎明期。「絵が動くこと」にウォルトは夢中になり、広告の仕事からやがてアニメーションを本業にし始める。
 この頃、ウォルトは映画館にアニメを売り込んだりしていたわけだが……話に聞いていたが、実際の作品を見るのはこのドキュメンタリーが初めて。思った以上に技術が低い。この当時のアニメーションはこんな感じだったんだろうな……。
 やがてハリウッドに移り、『不思議な国のアリス』『オズワルド・ラッキー・ラビット』を手がける。この時代の写真が出てくるのだが……みんなカッターシャツを着ている。当時はこんな格好でアニメーションを作っていたのか……隔世の感というか、信じられない。
 ウォルトは基本的には人と壁を作らない。誰に対しても気さくで朗らかで楽天的。母親と一緒に映っている写真が出てくるのだが、母親似だったようだ(ロイは父親そっくり)。だが時に、ウォルトは“独裁者”になる。
 『オズワルド』の制作中、ウォルトはスタッフに無理を強いた挙げ句に給料を払わない。強引なやり方にスタッフは不満を募らせ、ある時、スタッフ全員でウォルトを裏切ってしまう。『オズワルド』の権利とその後の制作は権利主だったミンツが引き継ぎ、ウォルトは現場から追い出されてしまう……。
 この辺りのエピソード、今まで読んだ文献ではウォルトが一方的にユニバーサルから嫌がらせを受けた……という話で描かれていてそうだと思っていたのだが、こういう面もあったのか。
 ウォルトの独裁者としての顔。「父親とは似ても似つかぬ人物」と評される影に、ふっと現れる父親の遺伝子。独裁者としての顔を、父親から受け継いでいたのだ。

 ウォルトは失意の底でハリウッドを後にして、新しいキャラクターの創造に取りかかる。起死回生、一発逆転のクリティカルなキャラクター。それがネズミのミッキーマウスだ。
 このミッキーマウスが活躍するアニメーションを作る……その過程で、ウォルトはとんでもない思いつきに辿り着く。……アニメーションに音を付けよう、というのだ。前代未聞の音付きアニメーション『蒸気船ウィリー』だ。
 これが大ヒットになり、ミッキーマウスのキャラクターは売れに売れてウォルトは瞬く間に時の人として祭りあげられていく。

 そのミッキーマウスで得たお金を全部注ぎ込んで作られたのが名作『白雪姫』。1937年という時代に突如現れた、ある意味オーパーツ的なトンデモ名作である。世界初の全編カラー作品で、重厚なストーリーを持った最初のアニメーション、83分長編映画だ。同時代の作品と比較しても、クオリティの差が凄まじすぎる。日本で最初のテレビアニメ『鉄腕アトム』が制作されたのは1963年……。今でこそ日本はアニメ先進国なんて言われているが、この当時は絶望的な格差があった。
 ドキュメンタリーを観ていると、『白雪姫』を切っ掛けに「ディズニー的なもの」が作られていったんだな……と感じた。ディズニー的なアニメーション……全体的にぼよんぼよん跳ねるボールのような動き方。エフェクト類が糸を引くようなしつこさを持っている。ディズニー的な動き、あるいはキャラクターの描き方は『白雪姫』を制作しながら決定していったんだな……。
 当時の事情を考えると、『白雪姫』の制作は誰が考えても無茶・無謀だった。兄ロイ・ディズニーも反対した。当時はアニメといえばストーリーのない、短編のギャグものしかない時代だ。そんな時代にあれだけのドラマが展開するアニメなんて、誰も見たこともなかったし、絶対に失敗すると思われていた。ウォルトだけが成功すると信じていた。
 結果、『白雪姫』は大成功だった。興行的にも批評的にも大成功だったし、アニメ史的においてもまさしく「歴史が動いた」瞬間だった。『白雪姫』の登場で、アニメーションに対する認識ががらっと変わったのだ。

 『白雪姫』の成功の後、その『白雪姫』で得たお金を注ぎ込んで『ピノキオ』と『ファンタジア』を制作する。しかしどちらもさほどの評価、お金を生み出すことはなかった。
 『ピノキオ』は『白雪姫』ほどの衝撃はなく、すでに戦争が始まっていてヨーロッパ市場は全滅。『ファンタジア』は上映できる映画館が限られているという制約があったし、なによりコンセプトが新しすぎた。
 『ピノキオ』と『ファンタジア』はどちらも名作なのは間違いないが、当時はこの作品を楽しもう……という余裕が人々にはなかった。
 それにウォルトは別の問題を抱えていた。ディズニー社の過酷な労働環境、低賃金問題。ディズニー社は完全にブラック企業化していた。しかしウォルトはディズニー社の抱えている労働問題に対してまったく認識ができずにいた。
 ディズニー社が始まった頃は、ウォルトは社員をファミリーとして接していた。社員に「ミスターウォルト」とは呼ばせず、ファーストネームで呼ばせた。ウォルトも社員全員の名前を覚えていて、全員をファーストネームで呼んだ。本当にファミリーらしい連帯感を持った組織だった。
 それが『白雪姫』を切っ掛けにあまりにも人が増え、新社屋に移り、ウォルト自身も社員の顔がわからなくなっていた。
 間もなくディズニー社内でストライキが始まり、制作が進行しなくなる。社員の半分がストライキに加わっていた。ウォルトはそんな社員達を講堂に集め「不平ばかり言わないで自分で行動しろ」というような自己責任論を語り、社員全員から失望される。ウォルトの“独裁者”の顔がここにまた現れる。
 その後も問題認識ができないウォルトは、ストライキの背景に誰かが糸を引いているに違いないと思い込むようになり、「共産主義のせいだ」という妄執を抱くようになる。

 ストライキ問題を放置して、ウォルトは南米へ旅行……逃亡である。旅行中に問題は兄ロイが解決。ウォルトは問題解決後にアメリカに戻ってくるが、もう会社はファミリーではない。ウォルトは孤独な王様になっていた。
 ウォルトはアニメから遠ざかり、『南部の唄』や自然ものドキュメンタリーを撮っていたが……この辺りの話、ぜんぜん知らなかった。そんな作品、あったんだ。
 1950年頃、ウォルトは再びアニメーションに戻り、『シンデレラ』の企画を立ち上げる。しかしウォルト自身は『シンデレラ』の制作にほぼ加わらず、機関車模型の制作に没頭し続ける。機関車といっても、人が乗って蒸気を噴きながら走れるくらいの大きさのものだ。
 この辺りで、ウォード・キンボールの話も出てくる。ウォルトはもともと機関車好きだったのだが、それが変な方向にこじらせはじめる切っ掛けを作ったのがウォード・キンボールだ。
 ドキュメンタリーの中で説明がなかったが、ウォード・キンボールが“本物”の機関車を買ったことが1つの切っ掛けだった。当時、廃棄された機関車にコレクター的価値があると思われておらず、「鉄屑」として格安で購入したのだ。キンボールはこれを修理して、自宅敷地内に短いレールを敷き、機関車を走らせた。ウォルトはこれに乗せてもらい、そして自分も機関車が欲しいと思った……が本物の機関車を手に入れることなどできず、思いを募らせていく。
 ウォルトの機関車好きは次第に膨れあがっていき、やがて自分だけの施設を作り、その中で蒸気列車が駆け巡るテーマパークの構想を思い付く。ミッキーマウス・ビレッジ(文献によってはミッキーマウス・パーク)。後のディズニーランドである。
 テーマパークの創造がいかに狂喜の産物と思われたか、現代の人にはなかなか伝わらないだろう。なにしろ、キャラクターを中心にしたテーマパークなどというものが当時、地上に存在していない。遊園地といえば、当時は「移動遊園地」だ。ちょっと縁日っぽいものだったし、遊園地といえばいかがわしい人が集まる「見世物小屋」的なものもあった。それとは一線を画するものを作る、しかも、そのテーマパークに自分の名前を付ける。控えめにいってもイカれてるとしか言いようがない。

 ウォルトは資金集めにABCと『ディズニーランド』という番組を作り、自分がホストとして番組の案内役になる。
 すでにウォルトはメディアに出まくっている有名人だが、ここでタレントとしての顔が出てくる。ウォルトは顔がいいし、メディアに出るときの立ち回り方もいい。テレビに出てくるウォルトは酒も煙草もやらない(ように見える)し、誰に対しても優しいし、いかにもな「優しいおじさん」の雰囲気だ。独裁者や妄執を持った人物の顔はどこにも見えない。タレントとしての才能が明らかにあった。

 テレビ番組の『ディズニーランド』は大成功して、着々と資金が集まり、ディズニーランド建設が始まる。
 そのディズニーランド建造過程の映像が出てくるが、これまた貴重な映像だ。ディズニーランドが建造される前の、広大な土地に何もない、一面土だけの映像が出てくる。
 そこからじわじわと道ができて、建物ができて……その中で、ウォルトも働いている。ウォルト自身が毎日現場に来て、現場指揮をやっていたのだ。もうアニメ監督ではなく、誰も見たことのないテーマパークを作るという妄執に取り憑かれた、スノッブなオッサンだった。

 ディズニーランドとはどういう場所なのか?
 ディズニーランドは2次元の具現化である。今でこそ2、5次元……なんて言い方があるが、それを1950年代という時代に実現してしまった。しかも完璧なクオリティで。空想世界の具現化をやってのけてしまった。
 ディズニーランドの原型になったのはミズーリ州のマーセリンという田舎だ。ディズニー一家はずっと貧しく、ウォルトの幼い頃は各地を転々としていたが、ウォルトはマーセリンで農業をやっていたことを後々までずっと憶えていた。ずっと「古里はマーセリン」だと言い続けていた。
 ディズニーランドのメインストリートはそのミズーリ州マーセリンがベースになっている。が、似ても似つかない。ウォルトの頭の中で変換され、理想化された田舎の町がディズニーランドだ。
 ウォルトは自分の子供時代を徹底的に美化したかったのだ。そしてその美化された田舎の風景が、アメリカ中の人々の琴線に触れた。1950年代、アメリカの黄金時代と呼ばれた時代だが、まだまだ困難はたくさんあった。そんな最中に、ディズニーランドは理想化されたアメリカの田舎、アメリカの過去、アメリカの未来まであり、さらにウォルトがアニメの中で創造した世界までも内包している。アトラクションがどうこうではない。現実を忘れて理想に浸っていられる……それがディズニーランドだった。

 ディズニーランドの建造を終えたウォルトは、家族との時間を大切にする。ディズニー社の人達はもうファミリーではない。ウォルトは家族以外の人とはあまり関わりを持たなかった。
 なんだか宮崎駿みたいな晩年だな……という気がしたが(宮崎駿の場合、家族ともあまり仲が良くない)
 ウォルトは新しいテーマパークの建造を夢見ていたが、実現することなく、1966年、肺癌でこの世を去る……。

 ドキュメンタリーはウォルトが仕事を始めてから、死去するまでを描いている。説明不足の場面がやや多いのが気になる。大事なところをさらっと流してしまうところもわりとある。見るときは止めたり戻しながら見るのがいいだろう。全4話だが、もうちょっとあってもいいんじゃないか……もっと話数を使って厚みを増やしても良かったんじゃないかとも思う(とりあえずWikipedia情報は事前に読んでおいたほうがいい)
 軽く見るにはちょっとしんどくなるドキュメンタリーではあるが、今まで知れなかったこと、貴重な映像をたくさん見られて良かった。

5月29日