前置き


 高畑勲監督の訃報があり、『かぐや姫の物語』が追悼番組としてテレビ放送され、これに合わせて私も過去にブログ上で書いた感想文を再掲しようか……。と、考えていたのだけど、あれは劇場公開時に勢いで書いたものだから、いま見返してみると引っ掛かるところが多い。それで一部を使いつつ、全文を書き直すことにした。何かの息抜きに読んでもらえれば幸いである。



かぐや姫の物語 感想文

かぐや姫の物語 今となっては昔のことであるが、竹を取り様々な用途に使い暮らしていた翁とその妻の嫗がいた。翁の名はさるきのみやつこといった。
 ある日、翁が竹林にでかけると、光り輝く竹があった。不思議に思って近寄ってみると、中から三寸程の可愛らしいことこの上ない女の子が出て来たので、自分たちの子供として育てることにした。

 『竹取物語』は日本人が誰もが知る物語であり、教科書にすら載っている作品である。誰もが学生時代、冒頭の部分を読むように言われたし、中には暗記させられた人もいるだろう。
 しかし、『竹取物語』には謎めいた部分が多い。まずいつ成立したのか、誰が書いたのかもわかっていない。物語の中身も謎は多い。竹から生まれた姫が、最終的に月に帰っていく……というお話だが、よくよく考えてみると意味がわからない。
 神話や民話にはある程度の“型”があり、モチーフの違いはあるが基本的には“型”の組み合わせである――というのはソビエトの学者プロップの説で、ロシアの昔話は31種類の組み合わせで成立しているという。
 『竹取物語』を型に当てはめると、「異常誕生譚」「求婚難題説話」「昇天説話」といったキーワードが浮かび上がってくる。ただ日本最古の物語と呼ばれる『竹取物語』、過去の創作という足がかりのない中でのこの完成度。作り手の練度や話者の変遷……どちらかわからないけど、成立した時点ですでにその中の決定版ともいえる形を持っており、それでいてこの形に当てはめきれない不思議な風合いを持った作品となっている。どうやって成立し得たのか、『竹取物語』を巡るミステリはまだまだありそうだ。

 この難題『竹取物語』に正面から挑んだのが高畑勲監督だ。
 高畑勲監督の挑戦は、まず画。まるで「動く絵本」のような優しい肌触りを持った絵だ。絵は隅々まで描くのではなく、あちこちに余白を残している。劇場公開時……初めて映画を見たとき、ちょっと騙されてしまったのは「空も描かれている」と思って見ていたこと。ほとんどのシーンで空は描かれていない。観る側が勝手に描かれてないものを補完して見てしまう絵になっているのだ。
 余白の多い絵だが、決して手抜きとも思えないし、絵として完成していないとも思えない。むしろ描かれていない向こう側に、観る側が勝手に奥行きを想像してしまう。
 描かれているのは近景から中景までの登場人物が演技をする上で必要な領域と、あとは遠景だけだが、その自然の描写が素晴らしい。シンプルな描き方だが、“それが何であるか”がしっかりわかるように描かれている。必要最低限のところでかっちりと描かれているから、描かれていないところにも奥行きと厚みを感じさせるのだろう。

 もう1つはキャラクター。『となりの山田くん』で開拓した作画方法から、さらに発展させた画だ。キャラクターの線は、『となりの山田くん』の時よりさらに柔らかい、強弱のついた線で、どこか“筆”の線を連想させる。
 やはりシンプルな線で、いかにも「漫画」という絵なのだが、動きが凄い。冒頭、赤ちゃんのかぐや姫が這い回ったり、よちよちと歩いたりしているのだが、あたかも本当の赤ちゃんの動きをトレースしたかのような……いや、もちろん本当の赤ちゃんはあんな動きはしないが、納得させてしまう動きの力強さがある。
 自然の描写もやはり素晴らしい。映画の始めのほう、赤ちゃん姫の前をカエルがぴょんぴょんと跳ねているのだが、この動き方が妙にリアルに感じられてしまう。

 キャラクターについて1つ気になっていることは、かぐや姫と捨て丸……この2人のデザインだけが「アニメ」なのだ。アニメキャラクターのフォーマットを持ちつつ、『かぐや姫の物語』特有の線で描かれている。かぐや姫と捨て丸以外は、絵本ふうのシンプルな絵、あるいは思いっきり崩した絵と動きでキャラクターが作られている。
 もしかしたら主要キャラクターを立たせるためにこう描かれたのかも知れないが……。

 高畑勲監督は『アルプスの少女ハイジ』からずっと「生活のリアリティ」を追求し続けている作家だ。『かぐや姫の物語』は平安時代……今となっては当時の人がどう生活していたか調べるのも困難。しかし高畑監督は一切の妥協なく、平安時代の暮らしを描写してみせた。
 翁の「竹を取り様々な用途に使い」が実際どんな様子だったか。竹を切るとどうなるか、その竹をどう加工して日用品に変えていくか、それをきっちりと描いている。
 木地師と呼ばれる人達の生活も興味深い。木を切りだし、中をくりぬいてお椀の形に整えていく。この一連の描写がドキュメンタリータッチで描かれている。おそらく、当時の人が実際にやっていただろう仕事の様子を再現してみせたのだろう。
 宮廷の生活もしっかり描き込まれている。かぐや姫がやってきて、宴がどのような感じで催されているのか、どんなものが振る舞われるのか……一つ一つに妥協がない。
 『竹取物語』が語られ、描かれた時代そのものを再現していく。その上で『竹取物語』の物語を描き込んでいく。正面に見えているのは絵本ふうの柔らかい絵だが、その向こう側に現れるのは学術的に調査され、作り込まれた世界観だ。こうやって描き込んでいくことで、次第に『かぐや姫の物語』で描かれていることがあたかも本当のことにすら感じられてしまう。とてつもない説得力に繋がっている。

 かぐや姫は天界から降りてきた姫だ。ゆえに、とてつもない力が与えられている。
 かぐや姫がやってくると、木々が芽吹きはじめるし、すでに枯れたと思われた媼から乳が出始める。かぐや姫の周囲に、無限の幸福と活力を与えるようだ。
 それはかぐや姫自身にも作用するらしく、無限の活力はかぐや姫自身をすくすくと成長させてしまう。その何とも言えない愛くるしさ。斎部秋田が初めてかぐや姫と相対したときに、オーバーに思えるくらいにぷるぷると震えてしまう……かぐや姫はそういう魅惑的な“美”と“愛”が与えられて生まれているのだ。
 だが、次第にその魔力は忌まわしき方向へと転じてしまう。
 翁は「姫はもっといい暮らしをさせるべきだ」と考え、都へ行き、宮廷を手に入れてしまう。かぐや姫への愛情が――純朴な父親としての愛が次第に狂いはじめていく。
 やがてかぐや姫の前に、男達が現れる。車持皇子、石作皇子、阿部右大臣、大伴大納言、石上中納言の5人だ。
 皇子達が姫の前に並び、画面には青い蝶がヒラヒラと舞い始める……。この時、皇子達は“魅了”されたのだ。
 かぐや姫はその周囲に無限の活力を与えてしまう。それは男性にとっては性欲を刺激させてしまう(性欲を刺激させてしまう……というのは最初のシーンからあったように思える。カエルの交尾とかね)。皇子達は姫の無理難題など撥ね付けてしまえば良かったのだ。どう考えても無茶だったのだから。だが皇子達は完全に魅了――チャームの魔術を掛けられているので抗うことができなかった。皇子達は3年の月日を掛けて、財産を投げ打って、時には命を投げ打って、姫が要求した宝を得ようとして――ここで悲劇が起きてしまう。

(生命と性の連なりは現代人にとってはピンと来ない話かも知れない。現代は生命と性は分離され、とりわけ性は「猥褻物」にカテゴライズして考えるクセがついてしまっている。しかしわりと近代まではこの2つは1つであったし、あるいは深く連なっているものと考えられていた。無限の春を謳歌するサテュロスは勃起を続けている。高畑監督はおそらく生命と性を意識的に関連づけして『かぐや姫の物語』の物語を作っているのではないかと思う)

 劇場公開時にはよくわからなかったが、かぐや姫には他にも特別な“能力”が与えられているようだ。それが「時間の巻き戻し」。
 宮廷の暮らしにウンザリしたかぐや姫は、着ているものを脱ぎ捨てて、もの凄い脚力で古里に帰ろうとする……その瞬間の絵が素晴らしい。鉛筆線が一気に崩れ、キャラクターも背景も崩れて、線の暴走のような画になっていくのだが、その瞬間、画面全体に何ともいえない情念が浮かび上がる。絵描きとして真似したいが、絶対に真似できない瞬間だ。
 それはさておき、かぐや姫は古里に帰り、自分の家に知らない人が住んでいるのを知り、木地師たち捨て丸ももうどこかへ旅立った後だった……。
 その後、かぐや姫は雪の中を彷徨い、倒れてしまう。そこでかぐや姫は凍死する。
 私はてっきりイメージシーンだと思っていたのだが、これはすべて現実。かぐや姫には時間巻き戻し能力が備わっていて、この時、それが発動したのだ。何を根拠にしているのかというと、絵コンテに書いてあった。
 それから……私の個人的な考えだが、おそらくかぐや姫は不死なのだろう。なぜなら天上人だからだ。本来苦しみや死から解放されているはずの天上人。地上へはバカンスでやってきているような状態だから、かぐや姫は死にたくても死ねないはずだと思う(多分、死ぬとセーブ地点まで戻ってしまうんだと思う)

 やがて帝がやって来て、求婚を迫られる。この時、かぐや姫ははっきりと“能力”を覚醒させる。かぐや姫自身でも自覚的にコントロールできなかったであろう力が発動され、帝を拒否する。
 ……と、本来ドラマチックな瞬間なはずだが、帝のアゴのせいでどうにも……。
 かぐや姫、帝のこと、本当に生理的に駄目だったんだな……と苦笑い。

(最後に天上人がかぐや姫を迎えにやってくるのだが、この時、集まった人々が眠ってしまう……。これ、軽めに殺したんだと思う。生命的な活力を与えることができるなら、活力も奪うこともできるんじゃないだろうか。で、死なない程度に活力を奪い、人々は昏倒してしまった……という感じじゃないだろうか)

 かぐや姫は地上にやってきて、幸福になるはずだった。かぐや姫に与えられた能力は、回りの者に活力を与え、幸福な気分にさせる……そういう力が与えられているはずだった。が、それは巡り巡ってかぐや姫自身を不幸にさせ、かぐや姫の周囲の者も不幸にさせてしまう。
 これは実は罪と罰の物語だ。
 天上は無限の“凪”の世界だ。その世界には心震わせるものが何もない。人間らしい活力のない世界……。翁はかぐや姫の成長を喜び、「立った!」「歩いた!」「喋った!」一つ一つに対して幸福を感じていた。天上世界にはこれがない。無限の“凪”であって、生も死もない。
 だからかぐや姫は地上に舞い降りてきた。そして“幸福”というエデンの果実を知った。これがかぐや姫が背負ってしまった罪だ。“幸福”を知ったら、そのぶん“悲劇”を知らなければならないからだ。これが罰だ。
 罪のモチーフは映画中のあちこちに鏤められている。瓜を盗んでしまう姫。皇子たちを破滅させ、死に追いやってしまった罪。捨て丸に不倫をさせようとした罪……。最終的には、翁と媼を悲しませることになる。
 かぐや姫の利己的な意思が……という話ではない。かぐや姫自身が持っていた聖性が、意図せず不幸を招き寄せてしまうのだ。皇子達に無茶苦茶を言ったのも、退けるためだった。皇子達を不幸にさせる意図はなかったはずだ。

 『かぐや姫の物語』は現代的な解釈の下に作られたお話ではない。物語の最後に光輝く円盤がやってきて、かぐや姫を迎える……という話ではない(そういう映画あったよね)。あくまでも当時の暮らしを再現し、当時の考え方を再現し、『竹取物語』に描かれていることをほぼ変えることはなく(木地師という付け足しはあるものの)、描かれていない余白をしっかりと埋めて、映画的なドラマとして成立させる。日本最古の物語『竹取物語』を刷新させる。これは完璧な精度で成立している。
 学術的な視点を持って、当時こう暮らしていたはずだ、こう考えていたはずだ……これを一つ一つ調査し、再現し……もちろん、その中でユーモアは忘れない。皇子達のやりとりは愉快だったし、女童のマスコット的な愛くるしさ、帝のアゴ。笑える場面は非常に多い。実際、かなり楽しい映画だ。
 『竹取物語』の中から欠落している部分を再現し、厚みを持たせ、それでいて映画的なドラマとしてあのクオリティで完成させてしまう。幸福であるはずの連鎖が、いつの間にか悲劇の連鎖にひっくり返ってしまっている。この構造の巧みさ。その末にあるラストシーンは、何度見ても泣けてしまう。見事なドラマだ。高畑勲監督の凄みをどこまでも体験することのできる映画だ。もちろん、笑える部分はたくさんあるので、“凄み”というよりかはちょっと飄々とした軽やかさだが。この国を代表する巨匠として、素晴らしい仕事を残してくれたと思う。


 しかし、Wikipediaを見ると、制作費51億円に対し、興業収入が24億……。え、そんなに?? 今この数字を知って、驚いてしまった。赤字とは聞いていたけど、ここまでだったとは……。確か、制作会社側の取り分は興業収入の4分の1と聞いているから、制作費に対して得た収入は……6億。
 某動画でアンケートがあったのだが、『かぐや姫の物語』を「よくわからなかった・面白くなかった」と答えた人が50%。えー……。なんでだろう?
 「人それぞれ」とは言うけど、これは本当にわからないし、納得がいかない。こんな傑作をなぜ? 難しいところは何もなかったはずなのに。楽しいところも感動的なところもあったはずなのに。
 映画は芸術であると同時にビジネスでもある。こういったところもきちんと読み解かなければならないだろう。映画を読み解くよりも難しい課題のような気もするが……。
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