皆様こんにちわ。
 この記事は2018年4月から7月末頃までの期間に放送、配信されていたアニメの感想を一言ずつ書いたものです。全てのアニメを取り上げているわけではありません。私がなんとなく見ていた作品のみです。
 全体的にゆるくて浅くて軽くて薄い内容ですので、パッと流し読みして、サッと忘れる気持ちで読むといいと思います。
 今回取り上げている作品は、

ヒナまつり
ダーリン・イン・ザ・フランキス
銀河英雄伝説
シュタインズゲート ゼロ
あまんちゅ! あどばんす
多田くんは恋をしない
ひそねとまそたん

 以上の7本です。

ヒナまつり


ヒナまつり  異空間から唐突に女の子が現れ、若いヤクザと同居する……というコメディ作品だ。
 まず絵が非常にいい。身体の捉え方や動きがしっかりしている。冒頭のヒナが現れるシーン、新田の服の内側にも空気が強く流れ込んでくる。こういった描写の細かさがいい。作画の高いポテンシャルを持ちつつ、なんでもない日常ものという舞台をしっかり描いている。シンプルな線で作られたキャラクターはギャグものと相性がいい。

 しかしギャグ作品として見ると、ネタの一つ一つが弱い。いまいちクリティカルではないネタに、リアクションが大袈裟。新田はいつも漫才風のスピーディな突っ込みで返すし、三嶋瞳は常に全力の「ええええええ!」と声を上げる。そのネタに対してその熱量での返しはおかしくないか……という微妙なズレを感じる(「あ、いったー」は好き)。このズレがなんとも居心地が悪く、全体的に滑っているような印象になってしまっている。あと『ターミネーター』ネタって何番煎じだよ!
 設定の作りも雑で、超能力設定が活用されたのは最初のうちだけで、その後は完全に忘れられる。超能力設定が残っていた頃で、唯一クリティカルに思えたシーンが、超能力あっち向いてほい。作画の良さと超能力設定、描写の面白さが噛み合った唯一のシーンだろう。

 間もなく超能力設定は忘れられ、中学生の日常物語になっていく。ヒナは定期的に超能力を使わないと暴走する設定があったが、それもなくなってしまう。
 アンズはホームレスとして生活していくことになり、重い荷物を毎日運んでいるが、なぜそこで超能力を活用しないのだろうか……と疑問に思う。という以前に、登場した瞬間のあの強気で快活な性格はどこへ消えてしまったのだろう。ヒナの設定にしてもアンズの設定にしてもあまりにも軸がぶれすぎ。

 作品の特色として、中学生があまり一般的ではない社会に触れていく物語……というものがある。ヒナはヤクザだし、アンズはホームレスだし、瞳はスナックのバーテンダー……バーテンダーはまあ一般社会に接しているが、中学生が就く仕事ではないだろう。中学生が社会体験していく、という展開に面白さは確かにあるし、作品の個性になっている。
 ただ描写自体が雑。ヤクザはいつの時代のヤクザだ、という感じだし、ホームレス時代のアンズは暴走族の衣装だが、その暴走族もいつの時代だよ、という感じ。もっと現代のヤクザなり暴走族(今いるのか?)なりをきちんとリサーチした上で描くべきだったんじゃないだろうか。
 ギャグ作品は固定概念として拡散しているものを読み取り、それをパロディとしての笑いに変えていく……というのが基本的な作り方だが、パロディが描くイメージがさすがに古すぎる。90年代頃のお話だろうか……と思ってしまった。
(あまりにも最新の世相を取り入れるとわからいという人が出てしまうし、生々しすぎて笑えなくなる……ということに対する配慮かも知れない)
 中学生が大人社会に接する、という面白さはあるのだから、この社会の描写にもう少し“現代”を取り入れて欲しかった。小手先の笑いに終始し、その笑いもたいして面白くない……この辺りが残念なところだった。

 絵の良さや設定の面白さは間違いなくあるのだが、肝心のギャグが弱い。ギャグに驚きがないし、テンション感がおかしいから、ここに面白さをなかなか見出せない。
 ただやっぱりシリーズ作品らしい成長の物語がある。ヒナとアンズの設定ブレに目を瞑れば、2人の女の子の成長物語として読み取ることができる。感情の起伏がなく、他人に無関心だったヒナが少しずつ情を持ち、新田もヒナをやっかいな同居人というよりほぼ娘として受け入れるようになり、この関係性にドラマが生まれていくる。
 アンズは初期の攻撃的な性格からの挫折、転落を経験し、ホームレスでの生活で生きていく苦労を知り、他人への感謝を知り、そのうえで中華料理屋店主に引き取られていく。流浪の物語であり、流浪の末にごくごく普通の暮らし、日常を獲得していくドラマである。初期設定はどこへ消えたのか? という疑問はずっとつきまとったままだが、物語として見ると良かった。
 不思議なポジションにいるのが三嶋瞳だ。なぜかバーテンダーをやることになり、そこから様々な大人の職業体験を通して、思いがけぬ社会性、才能を見付け出していくことになる。ここにドラマはないのだが、瞳の設定はちょっと面白い。三嶋瞳はある意味で“成功者”になっているのにも関わらず、自身でその才能を自覚していないのだ。
 中学生が“非日常”の社会を体験する……という物語カテゴリーの中に放り込んで見ると、三嶋瞳のパートはかなり個性的なポジションを持っている。この切り口は私もかなり気に入っていて、面白い描き方だと思った。

 3人の中学生がそれぞれ大人の社会を経験していくコメディだ。この切り口は面白いが、ギャグ作品として見るとちょっと弱い。が、後半、初期設定が完全に死んで、新たな設定に刷新する頃になると不思議と笑いも乗ってくる。初期の落ち着きのなさがなくなり、安定した面白さを持つようになった。
 変節していく設定、各キャラクターの立ち位置の変わりようなど、展開自体は面白いし、面白い視点を持っている作品だと感じられた。それをコミカルなイメージで柔らかく語り綴っているのもいい。足りないのは現代という視点、それぞれの社会が持っているディテールだろう。こうしたところにもう少し厚みがほしかった。


ダーリン・イン・ザ・フランキス

ダーリン・イン・ザ・フランキス  pixiv界隈にいると、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』の二次創作をたくさん見かける。一番よく見かけたのはゼロツー。実際、キャラクターの造形はクリティカルだった。どのキャラクターも個性がくっきりしてるし、可愛らしいし、物語を追っていて描写の一つ一つにストレスを感じることはなかった。キャラクターや、キャラクターの関係性を描くことに慎重で、気を配っているのがよくわかる。
 pixivでのゼロツー人気は、やはりそのキャラクターの存在感。デザインの良さや、設定の作り方。長身でスタイルが良く、長いピンクの髪、そこに加わってくる2本の角という異物感。戸松遥の演技も冴えている。それぞれの素材が見事なくらいマッチして、カットの中で映えるし、ある意味で“フォトジェニック”な存在だといえるだろう。

 『ダーリン・イン・ザ・フランキス』はどこかしら旧ガイナックスの空気が感じられる。もったい付けた用語の使い方や、象徴化した描写、思春期のナイーブさを前面に押し出したところなど符合するポイントが多い。カットを一つ一つひろってみても、「エヴァンゲリオンでそっくりな構図を見た」と毎回どこかに共通点が見付かる。
 そこにTRIGGERらしい柔らかさを持ったキャラクターの感触。「今時……」と言いたくなるが手書きで作られたメカのアクションは力強く素晴らしい。

 ただ作劇が弱い。初期の数話は、ロボットアニメにありがちな展開を型どおりに踏襲しただけ。物語としてのカタルシスは弱い。
 後半戦、13話『まものと王子様』でゼロツーとヒロの過去が語られるが、この回想が唐突で、直前に起きているアクションとの連なりがシームレスに感じられない。無理矢理エピソードを突っ込まれたように見えたし、特に障害もなくキャラクター同士の中で共有してしまう。脈絡があったとしても物語がそこへ向かっていく力が弱く、エピソードが始まったとき「あれ? 前回見逃したかな?」と困惑してしまった。
 14話『罪と告白』ではすれ違いのエピソードが入るが、ドラマの動きがわざとらしく、キャラクター同士の対立を描くために無理矢理作られたシチュエーションにしか見えない。
 そんなこんながあって16話、ヒロ達に平穏さが戻ってくる。直前まであんなに荒れていたゼロツーはすっかり大人しくなり、当たり前のようにヒロ達のコミュニティに加わって朗らかに笑っているが……違和感。誰だお前。簡単に変わりすぎだし、極端だ。
 アニメのキャラクターは生身の人間ではなく、“キャラクター”という虚ろな存在であり、ある意味での“人形”だ。下手に描いてしまうとそこに人間的な一貫性が失われ、変化が成長や覚醒によるものではなく、別のキャラクターのようになってしまう。“人間”ではなく、“ただのキャラクター”という印象になってしまう。ゼロツーの描写にはそういうぎこちなさが感じられた。人間のドラマ、それぞれの立場が変節していく物語とは感じにくい。
 ミツルとココロの関係にしても感情が触れ合う過程が充分とはいえず、そういう関係を作るという結論ありきの描写にしか感じられなかった。関係が成立するまでの物語がなく、成立した瞬間の描写にカタルシスがない。安っぽいテレビドラマみたいなクライマックスだった。

 ただ、キャラクター同士の関係性にはかなり気を遣っているように感じられた。対立させるという目的ありきのキャラクターの描き方をしていない。軽めには対立する……ゾロメとミクがそうだが、しかしある一定以上は険悪になることはない。それぞれのキャラクターがお互いの距離感を意識しあっている印象がずっとあった。キャラクターが持っている善良さに、嫌な感じがしない。
 振られる方がむしろ聖人。お互いの関係が変わることがあっても、むしろ受け止めようとする。不思議と大人なところがこの子供たちにはある。さすがに聖人すぎる(特にゴローとフトシの2人)……というところもあったが、この描写にはかなり好印象だった。
 その一方で、引っ掛かるのは人間のドラマが予定調和的に感じられてしまうこと。ミツルとココロの関係、あるいはイチゴとイクノの同性愛関係……。どちらもそういう結論ありきもの展開のように感じられる。感情の動きがシームレスに感じられない。ミツルとココロの関係を見ると、フトシに対してココロがあまりにも薄情に感じられる。

 第19話『人ならざるモノたち』で過去に遡っていくが……そんなに遠い未来のお話ではなかった!!
 フランクス博士は意外にも少し未来の人で、その後の大変化で世界が改変されて、それ以前の社会が急速に黒歴史化していくのだが……さすがに極端だ。
 まさかひと世代で変化した世界だとは思っていなかった。ここもどうも結論ありき、イメージ先行で無理やり肉付けされた設定という印象がしてしまって、キャラクター描写と同じく、変節にシームレスな鮮やかさが感じられない。
 これならもういっそ、過去については謎のままにしてくれたほうがよかった。この極端さはもはやギャグになってしまっている。

 さて、そんな色々があって21話『大好きなあなたのために』で唐突にこれまでの全設定がひっくり返され、宇宙からやってきた侵略者が突如現れ、戦う物語に変わる。
 おいおい、じゃあ今までのお話はなんだったんだ……。
 いや、むしろTRIGGERらしい。いや、むしろTRIGGERはこうじゃなきゃ!
 おかえりTRIGGER! こういう破天荒なTRIGGERを待っていたんだ。「難解なSF」の振りをするのはらしくない。「そんなのはいいから」と直角で話を変えるのがTRIGGERだ。荒唐無稽で豪快でアクロバティックな面白さを描くべきなんだ。『エヴァ』じゃなくてこれはTRIGGERの『ダーリン・イン・ザ・フランキス』なんだ。
 じゃあここまでの20話くらいはなんだったんだろう……という気はするが。その全部を捨ててしまう潔さがいい。“意外性”の演出に滑っただけ……という気はしないでもないが、その滑り具合の豪快さを含めてTRIGGERらしい無茶苦茶さが最後の最後で光った。

 TRIGGER作品に普通の物語を求めたってしょうがない。TRIGGER作品はどういうわけかドラマが下手というか、ドラマのつもりが「設定の説明」になってしまう。『キズナイーバー』の時に強く感じたが、キャラクターが感情的になって捲し立てるシーン、聞いているとただの「キャラ設定説明」でしかない。そんなキャラ説明を声高にやられても……。クライマックスもいかにも段取り臭くて、わざとらしさしかなかった。
 TRIGGERにとっての不幸は、ただの設定説明、キャラ説明をしているだけでもシーンとして成立してしまうこと。それくらい作り手のポテンシャルが高すぎる。平凡なドラマでも画に力がありすぎる。
 だからゆえに、ドラマとしての弱さに作っている方も見ているほうも気付かず騙されてしまう。結果的に後には何も残らない作品になってしまうし、その瞬間は気付かれずに終わってしまう。出来の悪いお祭りっぽくなってしまう。
 だからこそ『キルラキル』みたいに直角から直角へ、明後日の方向から明明後日の方向へひたすら飛躍し続ける……そういう全力で破天荒ストーリーを描くとこれ以上ないくらいにはまる。『キルラキル』の場合、中島かずきという希代のストーリーテラーがいて、TRIGGERの性格とはまった……というのはあるが。
 TRIGGERは変に大人しく優等生ぶるよりかは、ずっと破天荒でいて欲しい。破天荒な自身の性質に気付いて欲しい。


銀河英雄伝説

銀河英雄伝説  『銀河英雄伝説』はタイトルは聞いたことはあるけど、旧アニメ版は見ていないし、原作も読んでいない。「どうやら有名な作品らしいぞ」という、なんの予備知識なし状態で見ている。
 というわけで感想もすこぶる書きづらい。どう書けばいいのかな……?

 私はこの手のSFが嫌い。「この手の」というのはレーザー光線を撃ち合うタイプのSFだ。
 レーザー光線は攻撃時の力感がなく、細いレーザーがぴょーんと当たっただけで戦艦がどかーんと爆破する。ちょっと戦艦の耐久値低すぎじゃないか? その程度で沈むんだったら、そんなでっかい戦艦を用意してくる必要ないんじゃないか(犠牲を無駄に増やすだけ。だったら全てハリボテにして、リアルシミュレーションのお話にすればいい)、なぜレーザー攻撃に対する防御について考えられていないんだろう、と疑問ばかり膨れあがってしまう。耐久力紙程度の戦艦だらけで、「戦闘機」に相当するものがないのも引っ掛かる(ロボットものの場合、人型兵器が戦闘機ということになる)
 あまりにも描写が象徴的になりすぎて、その戦艦にいるであろう数百の乗組員の死というリアリティも見えなくなってしまう(『銀河英雄伝説」』は今のところ「死」をまったく描写していない)
 『銀河英雄伝説』は私の嫌いなタイプのSF全載せの作品だが、第1話はなかなか良かった。SFアニメにありがちな疑問は画面を覆い尽くす物量で乗り切る。物量で圧倒して、人間の描写は司令室のタクティクスのみに全振りでそれ以外は描かない。
 やはり人間の死というリアリティはどこかへ置いてけぼりだが……第1話の戦いだけでも何百人死んだんだろう……しかしそこに目を向けられることはない。「それはさておき」と割り切ってしまっている。話の中心はそこではない、とむしろ割り切ってしまったほうが、この作品の場合いいのかな、と気付いて私も割り切ることにした。

 物語は「銀河帝国」ラインハルトサイドと「自由惑星同盟」のヤンサイドの2つに分かれ、主人公を交代させながら進行させていく。原作を知らないので、今のところこの物語がどこへ着地させようとしているのか、まだわからない。
 2話以降、戦闘から遠ざかり、二人の主人公を掘り下げる過去の物語が始まるのだが……。描写がどうも書き割りっぽい。シーンの一つ一つには厚みがなく、世界観に奥行きがない。「それっぽい雰囲気」だけで描かれてしまっている。時々、その場限りの使い捨て悪役が登場するが、描き方がことごとく安っぽい。紋切り型の悪役になってしまっている。わかりやすさを優先させた結果かもしれないが、あれが作品をより安っぽいものにしてしまっている。
 ああ、第1話の迫力はどこへいったんだ……。

 それも仕方ないか……。というのも、描かれる舞台があまりにも多い。新しいシーンが次から次へと出てくる。この数の舞台をきっちり描こうと思ったら、そのぶん設定を描ける能力のある人と、それなりの人数が必要になる。参照にするべき資料も膨大になり、管理が難しくなる。それだけの人材と人員を集めるのはなかなか難しい。
 こういった作品の場合、一つ一つのシーンにどれだけの情報を載せられるか。ぱっと見でクオリティの高さを伝えなければならないし、文化的な奥行きや歴史の傷跡を感じさせねばならない。もちろん舞台が変わればそのぶんの“違い”も表現しなければならない。絵画の面だけではなく、台詞にも相応の厚みと奥行き感がなければならない。
 多様さを描き分けられる人材に、「誰に描かせるか」という采配をきちんとこなせる監督やプロデューサーが必要になってくる。ある部分ではキャラクターよりもそっちのほうがよほど大事になってくる。
 正直なところ、ProductionIGならこの難題を乗り切れるんじゃないか……という期待はした。期待したが……ProductionIGでもダメだったか。このスケールのものを通常のテレビの予算感で描こうというのは、やっぱり無理だよ。
 色んな舞台が出てくるが街の光景……どんな家があってどんな人が歩いていて、何が流行しているのか、過去にどんな歴史があったのか――そういうのが何一つ見えてこない。テロップは使われるが、キャラクター達いる場所が世界観全体に対してどういった場所なのか見えてこない。どのシーンも妙に視野が狭い。どうにも安っぽい書き割りの背景のように見えてしまう。

 舞台の描写はまあ諦めるとして、それじゃドラマ部分はどうだろう?
 引っ掛かったのは第5話、戦没者慰霊祭でおじさんが演説している中、一人席を立たなかったヤン……。それで上司らしき人がすっとんで来るのだが、そこまで目立つものなのか?
 その後、過激な右翼集団に狙われるのだが(席を立たなかっただけで??)、その右翼がたかが庭の噴水くらいで吹っ飛ばされてしまう。おいおい、水圧どうなってるんだ……。

 第9話では会議の場面が流れるが、対話のリズムが悪く、会議をやっている緊張感はどこにもない。まるで学芸会を見ているようだった。会議室そのものも奥行き感のない小さな部屋に机を置いて、おじさんおばさんを数人並べただけ。予算のない映画の書き割りセットを見ているようだ。

 他にも引っ掛かる場面があまりにも多かったが、エピソードナンバーがどこだったかわからないから省略する。どのシーンを見ても書き割りっぽい、段取り臭い、わざとらしい、総じて学芸会演出のように見えてしまう。5分おきに何かしらで引っ掛かる。引っ掛かる箇所があまりにも多くて、憶えきれないほどだった。
 うーん、どうしてこれが語り継がれる作品になれたのだろう……。原作読んでないからどうにもピンと来ない。庭の噴水とか、ああいった描写も原作通りなのだろうか……?
 現在、9話までは見ているのだが、続きを見るかどうかはちょっと考え中。ここまで来たら最後まで見るべきかも知れないが……。


シュタインズゲート ゼロ

シュタインズゲート
 あれ? クリスが死んでる!?
 第1話は状況がわからずかなり混乱気味。もしかして、あの時の再放送で描かれたのかな。「普通の再放送」だと思ってスルーしてしまったが……。
 結局、なぜクリスが死んだのかわからないまま、もやもやした状況で見ることに。

 鈴羽と橋田至との関係性もよくわからない。鈴羽が未来からやってきて、橋田と親子であることを自覚している……ということはどういうことだ? 橋田はクリスを知っているが、椎名まゆりはクリスと会っていない……?
 うーん、困った。状況がわからない。重要なエピソードを2本くらい見逃した感覚で見始めることに。

 鳳凰院凶真から岡部倫太郎へ。ああ、あの愉快な鳳凰院凶真はどこへ行ってしまったのだろう。鳳凰院凶真という虚構人物が消えてしまい、クリスが死んだダメージを生身で受け続けている岡部林太郎。鳳凰院凶真はクリスとともに死んでしまったようだ。
 第1期シリーズのハイテンションぶりはどこへ消えたのか、心に傷を負った男の物語が始まる。相変わらず宮野真守さんの演技はうまい。
 しばらくクリス死亡で落胆し続ける物語が続くのだが……長くないか? 似たような場面が延々続き、話が進まない。「重い雰囲気」の場面が続き、なかなか物語そのものが展開しない。「岡部倫太郎が落ち込んでますよー」という描写を長く引っ張るなら、あの時何が起きたか、の回想をもう少し挟んで欲しかった。

 シュタインズゲートってこんなだったかな……。あれからずいぶん時間が経っていろいろ忘れてしまっている。物語の雰囲気って前からこんな感じだっただろうか。いまいち話のノリが悪い、動きが少ない、展開が遅い。
 時々コミカルなノリ、以前のような明るさが戻ってくるが、そういったシーンがことごとく浮いてしまっているように見える。空気読まず挿入されたシーンのように感じられて惜しい。
 絵の感じもこうだったかな。もうちょっとがっちり描かれていたような気がするが……。比屋定真帆の研究室のシーン、机とダンボールがあからさまなコピペで描かれていて、「おいおいちょっと待て」となった。キャラ作画もなんとなく崩れがちで……。『シュタインズゲート』って前シリーズからこんな感じだったかな。あまりにも憶えてなさ過ぎて、モヤモヤしてしまう。

 第8話では突然に世界線の移動。クリスが生きている世界観へ突入してしまう。……きっとその理由は後々わかってくるんだろう。
 岡部林太郎が決意を改めるシーン、雨上がりの空に輝く夕日を見て決意を固めるが……いや「気分」で話を進められても。シナリオ制作としては下策。『シュタインズゲート』の第1期シリーズはもっとしっかりシナリオを作っていたような記憶があったんだが……。

 第2期『シュタインズゲート』は今のところどうもピンと来ないというか、乗り切れられないというか……。話が感傷的過ぎて、なかなか動いてくれない。
 いや、でも後半戦に入って面白くなるタイプの作品かも知れない。後編で印象が変わるかも知れないし、前半のもたつきはそういう作戦かも知れない。もうしばらく見続けることにする。


あまんちゅ! あどばんす

あまんちゅ! あどばんす  海と少女。この両者の美しさを描く。それだけに一点突破した作品。少女と水辺というモチーフはうまく噛み合っていると思うし、描写の仕方がいい。少女の華奢な面が強調され、はかなさと美しさが表現できているし、性をいやらしくない程度に感じさせてくれる。少女のメランコリックな気質とポエティックな台詞、描写も噛み合っている。時々、描き手側が我に返って恥ずかしがっているように感じられるが、そういうところも可愛げがあっていい。
 水辺の風景も美しい。青い海、淡い空、白い雲。そこに何のくすみはない。絵画ならではの嘘のような美しさ。異境的な美しさが充満している。そうした中で戯れる少女達の姿が、何ともいえず美しい。どこを切り取っても眼福。夢なのか現実なのか、いやアニメだからこそ、どちらともいえない世界の両立がある。

 ただ描写に引っ掛かるところが少しある。
 水中のシーン、キャラクターがスライドと髪のなびきリピートのみ……。テレビシリーズの予算だとそうなるのは仕方ないかも知れないが、あまりにも海の光景をアニメ的なパターンに落とし込みすぎていて、その空間の特別さが薄れてしまっている。
 第2話にはボーイッシュな女の子、岬こころが登場する(男の娘かも知れない、という期待は残しておきたい。今のところ「シュレディンガーの性」ということにしておこう ※)
 小日向光と岬こころが一緒にタコの親子を観察する物語が始まるが……。あまりにも漫画的に省略しすぎじゃないだろうか。せっかく海洋生物を観察する……というお話に1エピソードを割いているのに、描写を省くのはいかがなものだろう。あの描写で現実の海を真摯に見詰めた作品……とは思えなくなってしまう。
 猫のちゃ顧問の描き方も実に奇妙だ。動物に愛着がないのだろうか……?

※ 第11話にて「男の娘」と明言される。やったぜ。

 第4話は夢のお話。ホウキに乗って見知らぬ女の子と共に空を飛ぶ。もともと、現実自体がふわふわした作品だから、ホウキに乗るファンタジーも可愛らしいお話と受け止めることができる。
 問題なのが第7話からの「延々に続く学園祭」。気持ちはわからぬもないが、何番煎じだ。押井守監督『ビューティフル・ドリーマー』以降、似たような物語はあまりにも作られすぎている。
 この作品ならではの独自色があれば感心もするのだが、そういうのは特になし。“ありがちなお話”で延々3エピソードも消費する。展開も結末もだいたいわかっている内容を3話も追いかけていくのは、少しつらかった。
 ここに『ピーター・パン』がモチーフとして使われているが、描く前に『ピーター・パン』の物語やその背景について、もうちょっとしっかり勉強してから描いてほしかった。ピーター・パンをモチーフとして使う理由や、この作品ならではの解釈、独自性があれば印象はがらっと変わるのだが、そういうのもなし。ただ『ピーター・パン』の名前を使っただけ。動機が安易だ。


 問題の第7話から9話までのエピソードを引けば、概ねが女の子と水辺の物語、という軸はそこまではブレていない。物語は秋から冬へ、メインテーマであるダイビングはやや後ろに引っ込んでしまったが、少女と水辺、全体に漂うフワフワした印象はずっと変わらない。少女達は水辺で、終わらぬ夢を描き続けている。夢の延長のような物語。そうした世界観を漂う楽しさはある。


多田くんは恋をしない

多田くんは恋をしない  第1話冒頭。多田君は異国からやって来た少女と出会う。
 うーん、ちょっと困った一場面。というのも多田君のモノローグが入るまで、女の子が西洋人だとわからなかった。アニメの世界は金髪、赤髪、青髪、ピンク髪に紫髪なんでもありの世界だ。そういう世界の中で、ただ金髪碧眼というだけで「西洋人です」というのは苦しい。
 その後、テレサとの交流が始まるわけだが、テレサの台詞はほとんど日本語。西洋人ならではの文化の差、言語の差を感じさせる場面はほぼない。アニメキャラクターは人種を描くことができない。何気ない対話や仕草にこそその差異を描くべきだが、その配慮がどこにもない。

 舞台は銀座。しかしどうして銀座に設定したのだろう? 銀座という街に住んでいる、という生活観は特に感じない。銀座という街ならではの生活観や考え方が描かれてもいいものなのだが(銀座住まいの子供がよく行く店とか)、見ていると別に日本のどこでも良かったような気がする。
 テレサはラルセンブルクという謎の国からやってきた設定だが(ルクセンブルクのことらしい)、銀座という街と異国の少女がある種の対比となっていなければ、「異国からやって来た」という説得力は生まれない。
 銀座という街の描写にこだわりが感じられず、銀座の文化とラルセンブルクの文化が対比される場面がない。という以前に、ラルセンブルクという国の文化について語られることがなく、テレサの口から語られるのはだいたいが「れいん坊将軍」についてだ。テレサの背景にあるのは「ラルセンブルク」ではなく「れいん坊将軍」だ。
 テレサの部屋は「ラルセンブルクの姫」というより、テンプレート化した「お嬢様の部屋」でしかなく、ここにもテレサの背景を語るものがない。「西洋からやって来た少女」というより「アニメ世界からやってきた少女」というほうが相応しいだろう。
 異国からやって来た少女、という異物感を表現するなら、その国の文化や風景をしっかり勉強してから描いてほしかった。なんとなくの雰囲気だけ。設定作りがいい加減すぎる。

 第2話。多田君達が通う高校が舞台となり、主要な登場人物がだいたい揃うことになる。
 まず写真部。この写真部の有り様が、漫画・アニメで描かれがちな学校のはずれになる文化部の光景だ。学園ものにあまりにもありがちなロケーションで面白味がない。
 人物についても掘り下げようにも、そこまで面白味のあるドラマが出てくるわけでもない。人物に意外性も深みもない。どのキャラクターも直線すぎる直線で、感情の行方が単調、わかりやすすぎる。銀座という場所もフックになっていない。それでも声優力で人気は出るんだろうな……とは思った。
 第7話では妹・多田ゆいが自分の秘めた感情をそのまま台詞にして喋ってしまうシーンがあるが、あきれ果てるしかなかった。小説の新人賞なら1次審査落選確定である。よくもあんな雑な脚本通したな、と茫然とした。厳しい競争を経験しなくていい脚本家は気楽なものだ(こういうのを見ると、殴りたくなる)

 この作品の困ったところは特筆すべき良いポイントがほとんど見付けられないことだ。まず個性がない。キャラクター、場面、展開、どれもどこかで見た。それも雑なイミテーションだ。技術的なものや、描くものの視点をずらすことで過去作品との違いはいくらでも作れたはずなのに、そういった工夫がなにひとつ見当たらない。キャラクターはありきたりなだけではなく、無用に騒々しく、何もないところでとりあえず一騒ぎするから、やりとりが空々しく感じてくる。

 動画工房作品オリジナルアニメということでだいぶ期待したのだが、残念なくらい“何もない”作品だった。良質な作品を作ってきた動画工房らしからぬ、語るべきものもない、見るものもない、雑でいい加減な作品だった。
 作り手達はこの作品に何を託したかったかのかもわからないし、どんなこだわりを持っていたのかも見えてこない。本当に何もなかった。
 有名なクリエイター、有名な歌い手、有名な声優を並べてみただけの作品でしかなく、そこに“企て”が何もない。野心の薄い、目指しているものもなにもない作品。それでもやっぱり声優力でそこそこの人気は獲得するんだろうな……とは思った。
 創作はその時代に対して何を語るか、何を描くか。取り上げるテーマはそれぞれだが、とりあえず過去の模倣であってはならない。現在と未来を描かなくてはならない。過去を模倣する場合でも、現代で描く意味を問うだけのアップデートがなければならない。過去の模倣をするだけ、自分の思い出に浸りだけの作家は、さっさと引退してくれたほうがいい。
 次の動画工房作品に期待しよう。


ひそねとまそたん

ひそねとまそたん  『ふしぎな海のナディア』の島編や、『エヴァンゲリオン』8話9話絵コンテなどで知られる樋口真嗣監督が描くオリジナルアニメ。航空自衛隊の少し奇妙な日常を描いた作品だ。
 『ひそねとまそたん』で初めてオリジナルアニメの監督に就く……これ本当かな? 一応Wikipediaを確認してみたけど、アニメーションの監督はわずか数本しかなく、むしろ映画の特技監督のほうが多い。ちょっとだけ関わった、というだけならたくさんあるけども……。『エヴァンゲリオン』に関わっていたから、なんとなくずっとアニメ界隈にいる人……と思って見てしまっていた。
 樋口真嗣監督といえば『ふしぎの海のナディア』島編の監督……なのだが、『ひそねとまそたん』を見るまで、その経歴をすっかり忘れてしまっていた。そういえばそうだった。樋口監督といえば、コミカルな演出がものすごくうまい。樋口真嗣はずっと“特撮監督”だったし、最近は特撮映画の監督になってトーンの重い作品ばかり作っていたから、こういうコミカルな側面があることをすっかり忘れていた。

 『ひそねとまそたん』はカテゴリー上は「日常もの」……ただしその舞台は航空自衛隊。この舞台の選び方が面白いし、ミリタリーものに詳しい樋口監督ならではの選択だ。
 航空自衛隊には実はずっと前からドラゴンが匿われていて、主人公甘粕ひそねはそのドラゴンのパイロットになる……というあらすじだ。ユニークで新鮮味のある設定だ。
 ドラゴンことまそたんは体にF-15Jに似せた装甲を装着し、空を飛ぶときは戦闘機に擬態する。意味は違うが、ドラゴンがF15Jに変形するわけである。それで一般的にはドラゴンの存在が知られていない……とそういうわけだ。
 理屈の付け方が面白いし、ドラゴンから戦闘機に変形する姿は、ある意味で“変形するロボット”の新しいあり方を見せている。
 航空自衛隊を舞台にしたのもいい。ドラゴンがどこからやってきたのか、今までどう過ごしてきたのか……航空自衛隊基地という場所が、その背景を語らせる舞台になっている。
 現実にファンタジーを混ぜ込むときに、どのタイミングで嘘を――“最もらしい嘘”をこじつけるかが重要になるわけだが、これがなかなか難しい。多くの場合、どうしてもどこかに綻びが――なぜ虚構の世界が主人公の周囲以外に拡散されないのか? という理由付けで多くの作家は躓いている。『ひそねとまそたん』の場合は自衛隊基地の中でドラゴンが国家機密として守られ続けていた、という嘘の歴史が作られている。この理屈付けに納得感があるし、面白い。

 キャラクターはかなり太い線で描かれ、その線にもちょっと波やブレが混じっている。この線はどうやって生成しているのだろう? この辺りの仕組みはよく知らない。
 シンプルで太い線で構築されるキャラクターだが、絵がいい。身体の感覚がうまく捉えられている。ほんのちょっとの線の使い方、色トレスの使い方でものすごく豊かに感情を表現している。この辺り、高クオリティのアクションを作り続けたBONESの勘の良さが冴えている。やっぱり身体を描くことについて、抜きん出た力を持っている。
 航空機もキャラクターと同様、太い波打った線で描かれているのだが、たぶんCGだ。私はああいった線をシェーダーで出せるということを知らなかったから、ものすごく感心した。

 自衛隊基地内が舞台だが、ミリタリーもの特有の男くさい世界……という感じではない。絵の印象と同じく、なんとなくとぼけたような穏やかな印象となっている。日常ものによくあるような、「そこにいたような温もり」を持った世界観として描かれている。
 そこに、脚本家岡田磨里特有の“毒”がほんのりとトッピングされている。甘粕ひそねはあんな見た目でスイートに毒舌だし、貝崎名緒の迫力ゼロのヤンキーっぷり。その他の隊員も問題児だらけ。重々しさはまったくなく、絵で見た印象と同じくあっけらかんととぼけた感じになっている。これがいい感じにはまっている。
 かといって自衛隊基地内部の風景に妥協はなく、かなりがっつりと描かれている。やはり航空自衛隊岐阜基地を詳細にロケハンしたことが効いている。あのとぼけた絵柄と、ディテール重めの自衛隊の光景とがうまく結びつけて、この作品らしさを作りだしている。

 『ひそねとまそたん』は日常ものアニメだが、舞台は自衛隊基地で、そこにはドラゴンがいて……この設定から生み出される風景がなんともいえず不思議。この不思議世界にあのシナリオとキャラクターがうまくはまっている。ハマリ方が心地よい。
 物語の後半、Dパイたち(「ドラゴンナイト」じゃないのね)はある大きな任務のために訓練をはじめることになる。この展開も、自衛隊基地という設定の中から作られている。後半の展開へスムーズに動いたし、設定もやはり自衛隊基地の内部・歴史から生成されている。変に重くなりすぎず、軽くもなっていない。恋愛ものが間に入ってきて、これがいい感じに物語に色を付けている。いろんなものがぴたりとはまって、心地よいい触感を作っている。

 こうして『ひそねとまそたん』を見ていると、樋口監督はどうしてこのコミカル路線をずっと封印してきたのだろう、と疑問に思う。樋口監督はこんなにも楽しい作品を作れるんだ。
 樋口監督といえば確かに特撮、アクション演出・絵コンテで素晴らしい才能を発揮している。アクションにものすごい実力を持っていて、この才能を活かそうと思ったらどうしても作品のトーンが重くなってしまう。コミカル演出の才能とはどうしても噛み合わない、“飛び石”した2つの才能。なんだか惜しい気がする。
 『ひそねとまそたん』について思うことは、特撮監督らしい樋口演出がほとんど見られないことだ。航空機を捉えるときの望遠レンズの使い方とか堂に入っているが、樋口演出の凄みはない。あっちを立てればこっちが立たず……難しい才能だ。
 ただ『ひそねとまそたん』はものすごく面白かったので、できれば樋口監督にはこのまましばらくアニメ業界にいて、次もアニメを作って欲しいところだ。

 ところで、オープニングとエンディング……あれは何かのパロディだろうか?
 とくにエンディングは昔、東映のアニメでああいった感じのものを見たような気がする……ずいぶん古い記憶なので、なんだったのかよく憶えてないけど。


まとめ

 えーっと、あれだ。
 『ゴールデンカムイ』見たかったなぁ……。私の住んでいる地域では放送がなかったんだ。いつまでアニメは地域格差に捕らわれるんだろうなぁ……と見れなかった地方民のひがみ。
 『ひそねとまそたん』『銀河英雄伝説』はNetflixで、『あまんちゅ』『ダーリン・イン・ザ・フランキス』はニコニコ動画で見ていた。どういうわけか、私の地域でのアニメ放送の本数が減ってきている。だんだんテレビよりもネット視聴が多くなりかけている。
(『銀河英雄伝説』はテレビ放送あったけれども、Netflixのほうが画質がいいし、字幕も付いているのでNetflix視聴のほうを選んだ)
 と、書きすぎると地域バレするのか……。気をつけよう。
 ニコニコ動画はすべての深夜アニメを配信したい……と前の「ニコニコ動画改善報告会」で言っていた。それがいつ頃実現するのかわからないが――来期はまだ実現していないようだ――、期待したい(アニメ配信はHD画質に対応するようだしね)
 テレビは地域格差があるし、時々録画失敗することがあるし、Netflixとかになるとテレビより画質がいいしさらに字幕付き。テレビは本当に“いらない子”になりつつある。いまテレビを点ける機会はゲームをするときか、レコーダーに録画したアニメを見るときかで、オンエア中の番組を見ることがほとんどない。いや“ほとんど”じゃなくて、もうないか。アニメが全部丸ごとネットで配信するようになったら、テレビはもういらなくなる。
 ネット……特にNetflix配信とかだといきなり世界に対してビジネスができるし。もうそろそろ、「テレビで枠取るのやめようか」みたいな話が出るんじゃないかな……?
(今のところ、ほとんどのアニメがテレビ放送の数日後にネット配信……というやり方を取っている。そういう形態を続けるってことは、今のところテレビ放送のほうが視聴者数が多い、ということなのだろう)

 ちょっと余談。
 『ヲタクに恋は難しい』という作品。あらすじを読んだが、これはどうなんだろうね。あらすじからして疑問があったから見なかったけど。
 BLが好きな女の子が恋をして、それをバレないように奮闘する……という話だけども、これ「オタク=変な性癖を持っている」というカテゴライズしていないか? それは「変な性癖を持っている人」であって、「オタク」というカテゴライズの中で話を作るのは間違っているような気がする。
 「オタク」という言葉は「犯罪者」の代名詞として拡散され、今でも(今や決して多数派ではない)メインカルチャー側にいる人はこの文脈で「オタク」という言葉を使いたがる。「オタク」と「犯罪者」は大多数の人にとって結びつけやすいイメージだ。
 この辺り話、私の本『ProjectMOE1・2』のおまけ漫画にがっつり書いたから、さあ読め! ……どーせ誰も読まないんだろうけども。読まないとここに書いてある文脈がすべてわからないと思うが、もうわからなくてもいいや。
AmazonKindle:ProjectMOE2 おまけ漫画を読むべし
 今では「オタク」……要するに私たちのような人の役割は「文化の語り手」になることだ。「アニメ」1つとってもこの文化を読み解こうと思ったらその周囲の文化を深く読み解かなければならない。「アニメ」は「アニメ界隈」「アニメ業界」だけで孤立した文化……と思っている人がいるかも知れないが、そんなわけはない。絵画の歴史、映画の歴史、音楽の歴史、キャラクターの歴史……それをずっと追いかけて、さらに現代という時代も紐解かねば「たかがアニメ」であっても輪郭すら見えてこない(まさかアニメしか見ない「アニメ好き」なんていないとは思う)
 しかし『ヲタクに恋は難しい』という作品はあらすじを読んでも、近視眼的な“現代”という時代の文脈でしか物語が作られていないし、この文脈に捕らわれただけの作品としか読むことができない。要するに、この作品がアニメ史においてどんな価値観を持つか、という提唱が見えてこない。そういうのはダメ作品だ。消費されるだけの作品を書いてはいけない。
 「オタク」をテーマにするなら、性癖に結びつける話は論外だし、ステルスするのもどうかなとは思うし、むしろ積極的に語る作品にすべきじゃないかな……。
 まあ『ヲタクに恋は難しい』見てないんだけどな。

 と、書くのはそういう作品の構想をちょっと前から始めているからなんだけど。
 アイデアの量に対して作品を書く速度がうんざりするほど遅いから、いつ書き始められるかわからない(ああ、憧れの分業をやりたい)。とにかくも、絵描き引退後にいろいろ動き出す予定です。

 さて、話は元に戻って今期視聴アニメ。
 うーん……とりあえずこれとこれを見ようかなといつものようにテキトーに選んで見始めたのだが、今期はほとんどハズレだったというか。いつもはこの中に飛び抜けて素晴らしい作品が1本2本混じってたりするのだが、今期はどういうわけか「おいおい」と呆れる作品ばかりだった……。実はここに挙げなかったけれども、あまりにもあんまりだったので視聴を打ち切った数本がさらにあった。(あと視聴するつもりが放送がなくて……というパターンも)
 という話も普段はしないんだけどね。ネガティブな話を書いても仕方ない……みたいに思ってたから。しかし今期はオブラートに包むというか絹でグルグル巻きにしても「おい!」と言いたくなる作品ばかりだった。オブラートに包みきれねぇ。
 今期は運がなかったんだろうね。というか、作り手側に何かあったのかな……と不安に感じた。例えば『多田くんは恋をしない』のあまりにもいい加減な脚本の作り。脚本の人は新人だったのかな……(調べてみたけど新人じゃないな)。7話はひどすぎて擁護できない。
 クオリティをキープできない何かしらの問題が起きているんだろうか。クオリティというのは、もちろん作画に限定しただけの話じゃないよ。それとも単に私が見た作品がことごとくつまらなかったというだけの話なのか、よくわからない。今回取り上げた数本以外は見ていないわけだし。
 なんだったんだろう?

 まあそういうこともあるさ。
 夏から始まるアニメに期待しよう。