とらつぐみのつぶやき

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この記事はノートから書き起こされたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。

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 前回、『誰も語らなかったジブリを語ろう』の読書感想文を書いたが、書き始めると脱線に次ぐ脱線で……。リドリー・スコットの下りとか必要だったか? でも書き始めると止まらなくて、結局のところ、ほとんど本の紹介もしていなければ、感想文としても成立していない、妙なものになってしまった。
 実際、読んでみると面白い本なんだ。ジブリ創設の経緯や、『風の谷のナウシカ』がもともとは『トルメキア戦記』というタイトルだったという裏話とか、『天空の城ラピュタ』にはカットされたシーンがあるとか……。紹介するつもりで付箋一杯貼ってなのに、書いてたら結構な長さになっていて……。
 『誰も語らなかったジブリを語ろう』は本当に面白いし、前回書いたけど、これでジブリ嫌いになることはまずないく、むしろ作品がより楽しく見られるようになる裏ガイド本なので、おススメの一冊。あと宮崎駿と押井守のツンデレっぷりもわかってくるので面白い。やっぱり仲いいんじゃないか。

 まずインナーサークルの話。
 鈴木敏夫が主導して、ジブリへの批判を30年間封じ込めてきた。なんでそんなことが可能だったのかというと、誰も損をしないインナーサークルだったから。損をしないどころか、全員にうま味があったからこの状態が維持されてきた。うま味は私たちにもあった。
 メディアを支配し、国民の嗜好をコントロールしていたわけだからトンデモない、と思われるかもしれないが、考えてみれば誰も損をしていない。みんなも『カリオストロの城』や『天空の城ラピュタ』のような名作をしょっちゅうテレビで見られるわけだし。どちらも劇場公開時はたいして売れてない映画で、下手すると「幻の作品」として姿を消していたかも知れなかったわけだし。
 インナーサークルを作った鈴木敏夫は正しかったなぁ。偉いなぁ、とつくづく思った。
 なぜそう思ったかというと、基本的に、メディア……いやテレビに限定しようかな。テレビ局に勤めている人たちって全員アホだから。いやいや学歴だけを見ると私より立派だと思うよ。でもそれだけのアホぞろい。だって随分前からテレビが「視聴率が伸びない」なんて喚ているが、その原因は自分たちだもの。ゲームのせいでもなければ、ネットのせいでもなく、視聴者のせいでもない。面白いコンテンツを作れる人がいなくなったことが原因。
 ここでテレビ視聴率回復の秘策を書こう。それはゴールデンタイムでアニメを放送すること。昔みたいにね。『鬼滅の刃』みたいな傑作が視聴者の限られる深夜に放送されてるなんて、損失でしかないと考えなきゃ駄目だよ。『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』みたいな作品に投資して儲けてやろうと思わなくちゃ駄目だろ。
 ただテレビ局の人間に作品の中身を噛ませると『けものフレンズ2』になるから要注意だ。テレビはアホだから「コンテンツの良し悪し」の発想がない。だから『けものフレンズ2』になる。

 でも、テレビはそれができない。できなくなった。そういう空気を誰が作ったかというと、テレビ自身。
 テレビは何十年もの間、アニメやゲームを紹介するとき、「作品」それ自体やそれを作った「クリエイター」には一切触れず、「頭のおかしなファン」ばかりを取り上げた。時には劇団員を動員してでもイメージ作りに必死になった。
 そういう放送は、どうやら一時的には売れたらしいんだ。ネットもなく、みんなテレビを信じていた時代がずっとあったから、そういう放送しても視聴率が取れたし、放送する側の意識を疑うってことを誰もやらなかった。でも、じわじわとテレビに対する悪感情が広がる原因になっていたが、テレビ局の人々はアホだから全く気付かなかった。もしかしたら、今も気付いてない。

 よくよく考えてみよう。例えば山田洋次の映画を紹介するときは、「作品」それ自体を説明するし、監督や出演者にインタビューする。これが普通だ。「頭のおかしい寅さんファン」なんて探せば絶対にいるはずだけど、山田洋次映画を紹介するときに「頭のおかしい寅さんファン」は出てこない。なぜかというと、山田洋次にも「巨匠」の冠が載っているから。テレビは「巨匠」の冠が載っている人に対してはへりくだるんだ。

 テレビはアホだから、鈴木敏夫が統制をかけなかったら、「ジブリアニメを見ると将来犯罪者になる」っていう放送をやったはずだよ。「ジブリアニメを見ると将来変態になる」って有識者ってやつに言わせたはずだよ。絶対。アニメやゲームでそういう放送をずっとやってきたから。テレビはそういうものが面白いと思っているし、自分たちのライバルになるかもしれないやつはそうやって悪印象を作って蹴落としてきたんだ。
 こういう状況が変わり始めたのはインターネットが出始めてからのことだけど、この時もテレビは「ネットにはデマばかりが書かれている。正しいのは自分たちだ」と攻撃し続けた。でもテレビのウソが次々と明らかになって、それどころか国民の意見を都合よくコントロールしていたこともバレちゃった(今もコントロールされっぱなしの人はわりといるけど)
 テレビはいまだに「視聴率がのびないのはネットで悪口を書く奴がいるからだ」と理由を外部に求めている。いやいや、全部身から出たものだよ。コンテンツが面白くないから。面白かったらみんな見るはずでしょ。でも面白いものを作れないし、作ろうという意欲もないから、ネガキャンで周りを落とすしかできない。それが全部自分たちに返ってくる。
 この状態を元に戻せるかというと、もう駄目だろう。取り戻せないくらい、テレビに対する悪感情は強いものになっている。テレビはそれでも自分たちに対する悪感情が自分たちによるものだという自覚が全くできない。反省できない組織だからもう駄目だろう。
 だからいっそ、テレビは誰かに統制を受けて、インナーサークルを作ったほうがいいかもしれない。放っておくと、バカしかやらないから。

 ああ、また脱線しちゃった。
 前回、冒頭に掲げた鈴木敏夫氏の言葉「テーマのない人間がテーマのある人間に使われるのは当たり前」この言葉、実は宮崎駿にも当てはまる。宮崎駿は我が国最高のアニメーターにして演出家だが、テーマを持っていない。これは本人も自覚するところで、「テーマを持ってないってバレちゃった」といつだったか話していた。
 だからテーマを持っている鈴木敏夫に使われる。
 プロデューサーには2種類あり、他人にモノを作らせて自己実現するタイプと、徹底して裏方に回るタイプ。鈴木敏夫は前者のタイプだ。『魔女の宅急便』がまさにそれで、あれは鈴木敏夫が自分の娘のために宮崎駿に作らせた映画だ――と押井守は語る。
 ところが『もののけ姫』を経て、宮崎駿は作家としての自意識に目覚める。『もののけ姫』以前の宮崎駿は、悪く言えば「商業的な映画監督」でしかなかった。しかし『もののけ姫』を経て、宮崎駿はようやく作家としての自意識を持つことになる。『もののけ姫』は「宮崎駿総決算映画」ではなく、「作家デビュー映画」だ……とこれも押井氏の話。

 テーマを持つようになってから宮崎駿と鈴木敏夫の関係ははっきり変わる。その後の宮崎駿は完全にアンコトローラブル状態になる。鈴木敏夫はプロデューサーとしての仕事を放棄し、宮崎駿は自身の妄想垂れ流しで流しっぱなしで一切回収しない映画を作り始めるが、しかしカネになる。
 アンコトローラブルの宮崎駿は決して悪いわけではない。むしろ『もののけ姫』以後の作品のほうが尖がっている。私は『もののけ姫』以後の作品のほうが面白いとすら思っている。確かにまとまりは全くないが、刺激的だ。
 ちょっとした問題といえば、世の中の人が持っているパブリックイメージとの齟齬が生まれてしまっていること。宮崎駿映画だからとりあえず子供連れて行こうとする親が後を絶たない。『もののけ姫』以降はもうそういう映画じゃないんだってば。
 完全にアンコントローラブルになった駿だが、そこで鈴木敏夫が目を付けたのが宮崎吾郎。『ゲド戦記』で原作にないアレンが父親を刺すシーンが冒頭に描かれるが、このシーン、いったい誰の入れ知恵か?
 スタッフが集まっての試写会の時、宮崎駿は『ゲド戦記』を鑑賞するが、アレンが「父を刺してしまったんだ」と告白するシーンで、父である宮崎駿はガタっと席を立ってしまう。広報をやている人たちにしてみれば「しめしめ」とほくそ笑む場面だ。
 このシーン、「父親を刺した理由」がしっかり明示されていれば作品の評価は変わったかもしれないが。しかし「なぜ刺したかわからない」と曖昧なまま。なぜなら吾郎自身に父親を刺すつもりがないからだ。今にしてみれば、こここそ吾郎君が乗り越えなければならない壁だったんだろうな……(ただしこの壁はウォールマリアくらいの高さがあるが)
 『ゲド戦記』の評判はまあさんざんだったわけだが、かわいそうな吾郎だ。宮崎駿は我が国最高のアニメ作家だ。吾郎はどんな作品を作っても「あの父親ほどじゃないね」と言われてしまう。「二代目は大したことないね」と言われる。「初めての映画だからこんなもんだろう」とは言われない。我が国で最高のものと比較され続けてしまう。巨匠の息子なんぞに生まれるものではない。最高の音楽家とか、最高の芸人とか……そういうものの子供に生まれると、一生親と比較され続けてしまう。これが吾郎君が生まれながらにして背負った呪いだ。
 そういえばニコラス・ケイジは役者として成功するまでコッポラ一族出身だということを秘密にしていたんだったな。有名人の子供に生まれたら、そうすべきだよ。

 宮崎吾郎監督第2作品は『コクリコ坂』。完全に鈴木敏夫の青春時代の映画だ。「テーマのない人間がテーマのある人間に使われるのは当たり前」。吾郎監督は完全に鈴木敏夫に使われる人になった。
(吾郎君にしても、「父親の時代」を描くことに意義はあったと思うが)
 そんなジブリを脱走してポリゴンピクチャアズで『山賊の娘ローニャ』を手掛けることになるが、存在感ありすぎる父親と、そんな父親と向き合う小さな娘の物語になってしまった。吾郎君にとって、「父親」というテーマはずっとついて回る。呪いのようなものだ。

 さて、本書『誰も語らなかったジブリを語ろう』には一つの謎がある。そこまで恫喝によってインナーサークル状態を作ってきた鈴木敏夫なのに、しかし押井守による批判だけは容認した。実は押井守による宮崎批判は今回が初めてではなく、わりと何度もインタビューで宮崎映画の欠点は語ってきている。鈴木敏夫は一度も押井守が発言するのを止めたことがない。これはなぜか?
 不思議な話、どういうわけか鈴木敏夫は昔から押井守に優しい。だいぶ前になるが、『風の谷のナウシカ』の絵コンテには押井守が書いた手紙が掲載されている。よくよく考えたら、映画の関係者でもないのに、なぜか押井守の手紙だ。
 鈴木敏夫は押井守映画にも出演している。『KILLERS』と『立喰師列伝』の2作品で、どちらもとりあえず殺される役だ。押井守によれば、鈴木敏夫は「殺されたがっている」だから映画の中で実現してやった、という。よくよく考えればひどい役だが、鈴木敏夫はむしろ喜んで映画の中で殺されている。
 どういうわけだが、鈴木敏夫は押井守のすることに関しては許容している。公私ともに仲がいいらしい……という話は断片的には聞くのだが、だとしても不思議だ。私にはよくわからない関係性がこの2人の間にはあるのかも知れない。

 あ、『KILLERS』はおススメよ。鈴木敏夫の登場シーン、あれはかなり笑える。あれを許したっていうのが二人の関係性なのだろう。他の監督だったら、“あれ”は絶対許可しないはずだもの。

 では最後に宮崎駿の次回作についての心証。
 「次回作を作る」という話を聞いて、私は喜べなかった。「本気か?」と。
 というのも、宮崎駿のモノ作りというのははっきりと普通ではない。作画の8割は自分の目で見て、自分で鉛筆を入れるという。これがいかに重労働か。しかも、信頼のおけるアニメーターが多数いるスタジオポノックの手を借りず、新たに人材募集するところから始めた。それで宮崎駿を納得させられる絵描きがどれだけ集まるんだ、という話だ。今頃は毎日のようにアニメーターたちに雷が落ちているんだろう……黒澤明の『トラトラトラ』を再現していなければいいが……。
 宮崎駿は毎回、身を絞り出すような働き方をしている。毎回、作品が終わるたびに「引退」を言うのだけど、これはジョークでもマスコミを騒がす放言でもなく、自分の体内にあるもの全部絞り出すだけ絞って、もう何もございませんよ。何も出せないところまで絞ったから引退です……というわけだ。次回作のために体力を残しておこう、ネタを残しておこう、ということを一切しない。出したものは全部入れる。一投入魂だ。
 でも宮さんという人は呪われた人だ。どんな呪いかというと、鉛筆を握ると、手が勝手に絵を描き始める呪いだ。絵を描いているうちにキャラクターが生まれ、世界観が生まれ、ストーリーが動き始めると、次の映画だ、ということになってくる。
(ジョン・ラセターが引退するとき、「家族との時間を大事にしたい」と語っていた。きっとラセターは引退後、家族を連れて旅行とか行ったのだろう。でも宮崎駿は? 宮崎駿は引退宣言した後、多分その翌日も個人アトリエ「二馬力」へ行き、絵を描いていた。すでに帰る場所がない。これが宮崎駿が引退できない理由にもなっているのだろう)
 これで毎回のように体力削り切って、ボロボロになる。『ポニョ』のメイキングドキュメンタリーで疲れて切ってぐったりしている宮さんの映像があって、大丈夫か? となったし、実際の作品を見ると津波後の世界は完全に「あの世」の世界になっているし、漁に出ていたお父さんは沖であの世との端境を見てくるし……。作品を見ながら「やばい。この人、体半分以上あの世に行ってる」と思った。黒澤明作品でも、晩年の作品はあの世に行きかけていたし、作家は年を喰うと、ああいう作品を作りがちなのかも知れないけど。
 『風立ちぬ』を観た時、私は本当に感動して、最後に素晴らしい映画を作ったなぁ……これであの人も落ち着けるな……と思ったものだ。
 ところがその次を作るという。え? さすがにもうやばいのでは? どこかで力尽きるんじゃないか? 鈴木敏夫止めろよ!
 でも動き出したら止まれないのが宮崎駿という人物だ。次回作、必ず観に行くぞ! そして……完成まで無事でありますように。

この記事はノートから書き起こされたものです。詳しい事情は→この8か月間に起きたこと。

メアリと魔女の花
 『風立ちぬ』を最後にジブリは解散。元ジブリの精鋭たちが宮崎駿という親元を離れ、スタジオポノックを設立して挑んだ作品。
 監督は『借りぐらしのアリエッティ』『思い出のマーニー』の米林・マロ・宏昌。

 『メアリと魔女の花』で題材にされたのは「魔女」。「魔女」といえば『魔女の宅急便』だ。スタジオポノックにとって、“偉大なる父”である宮崎駿監督がかつて描いた作品だ。キャッチコピーは「魔女、ふたたび。」なので、当然ながら意識されている。

 始まりは田舎の祖母の家に引っ越ししてきたばかりの少女、メアリ。田舎への引っ越しといえば米林監督では『思い出のマーニー』。宮崎駿作品でいえば『千と千尋の神隠し』を連想させるが……。一つの引っかかりとして、引っ越ししてきた理由、メアリの物語がどうやって始まったか説明されていない。
 『千と千尋の神隠し』でも同様に説明されていないが、こちらはあまり引っ掛かりを感じない。多分、『千と千尋の神隠し』では親の勝手な都合、親に振り回される子供、という構図がすぐに見えてくるから……だけどメアリはどういう経緯なのか、メアリ自身はどう感じているのか、そこが見えてこない。ここに引っ掛かってしまう。

 宮崎駿に挑んだ作品……と始めに表現したが、作品から感じられたのは師への深い尊敬と愛。タイトルのフォントも、緑豊かな自然の風景の描き方、積乱雲の向こう側にある異世界はまんま『天空の城のラピュタ』のコピーだ。
 ジブリという出自を隠すわけでもなく、師に反抗を示すわけでもなく、ジブリ出身をむしろ誇らしげに強調する。作品の空気感を見ても、8割が元ジブリ卒業生ということもあり、どこからどう見てもジブリ。ジブリを真っ直ぐ継承した作品だ。
 もしかしたら商業的な理由で「ジブリだと思って見てね」という誘導があるからかも知れない。旗揚げしたばかりのスタジオで、後ろ盾がない。だからより多くの人にアピールする狙いがあって、むしろどこまでもジブリ的に描き、人々がジブリだと思い込んで見るように描いたのかもしれない。

 物語は、偶然にも「夜間飛行」と呼ばれる花を見つけたメアリが、積乱雲を乗り越えて魔法の学校に行き着く。メアリは学園長の歓迎を受けるが、しかし学園長には裏の顔があり……。
 ここまでが「冒険の召命」。この導入に前半50分を費やし、一度現実世界に戻るが、ピーターという美少年を救うという命題を持ち、再び魔法学校に挑む。
 「悪との闘い」「命題の再定義」を経て、クライマックスへと展開していく。
 冒険物語として必要な3プロセスをきちんと踏まえた、堅実な物語作りだ。アニメーションの作りも当然ながら良い。駆け出す直前に姿勢が右に傾く動きや、体を傾けて曲がろうとする動きや、ジブリ出身者らしい身体感覚を通した描写はやはりうまい。

 ただ物語には引っかかる部分も多い。
 冒頭のメアリの引っ越しの理由や、両親が不在の理由が明らかにされない。どうしてここを描写しないんだろう? と不思議に感じる部分が多い。ピーターの関係性にしても、メアリの性格もあるのかもしれないが、メアリにそこまでピーターを助けねば、という意味や関係性の深みもない。理由があるとしたら、ピーターがイケメンだから……それだけでしかない。
 学園のシーンには様々な生徒たちがいるはずだが、この生徒たちの影が薄い。学園内であれだけ大騒ぎになっていたら、顔くらい出しそうなものだが、描写がまったくない。前半、あれだけ学園内の構造を丁寧に描いていったのに、後半、一切の設定が捨てて忘れ去られる。後半はメアリと一部の重要キャラだけになる。ここがシーンが薄っぺらく見えてしまう原因だ。
 物語のはじまりである夜間飛行の発見にしても、やけにあっさりとしすぎている。あれならメアリじゃなくても、地元住民の誰かが先に見つけていそうなもの。「なぜメアリが発見できたのか?」ここをきちんと理屈付けるべきだった。

 画作りについても弱さを感じる。メアリが花を折ってしまった瞬間、画面が暗転しかけるシーンがあるが、小手先の技みたいだし、映画の流れに対しノイズになってしまっている。
 構図や色彩にしても、どこか落ち着きすぎている。淡白な印象があった。米林監督といえば『借りぐらしのアリエッティ』『思い出のマーニー』の2作で過剰なくらい住居のディテール、色彩の華やかさがあったのだが、『メアリと魔女の花』にはそのこだわりは感じなかった。

 空中戦はもうちょっと力強く描いてほしかった。せっかくの箒を使った空中戦……しかし描写としては凡庸。箒ならではの「挙動」を感じさせてほしかった。あれなら箒以外でもなんでもいいようなものだった。

 と、問題個所を多く挙げたが、総合評価としては『メアリと魔女の花』は非常に楽しい作品だった。気になるところは気になるところとして、新たなスタジオを立ち上げての第1歩としては文句なしの合格点。
 次々に展開するアクション。少女と少年を軸に置いたシンプルな活劇。それにやっぱり絵のうまさ。ジブリ出身者らしい丁寧さ。どれも非常にハイレベルで優れた作品だ。見るべき場面は一杯ある。
 彼らの新しい門出を(今更だが)祝いたい気分だ。

 ところで今回の米林監督作品を見て、ふと思ったのは女性への独特なフェチ感。
 ミニスカートに黒ニーソ。このスタイルに「ふむ」と唸った。もちろんジブリの後継だから、足回りがクローズアップされるわけではないが、動きの中に現れる何とも言えないフェチ感。とくにロングサイズになった時の動き……ここが良かった。クローズアップした描写ではなく、動く瞬間にフェチ感が現れるのはジブリ出身者らしい(ただメアリ自身が可愛くない……というのはどうにも……)
 そもそも宮崎作品だとミニスカートに黒ニーソというスタイルはありえなかった……。だからそう感じたのだろうか。
 ところで箒に乗ってのアクションが多いわけだが、なぜかスカートはなかなかめくれない。なぜか!! しかし、スカートの中が見えるカットは存在する。黒のスパッツだ! 黒の! スパッツである!! ……これを確認した後も「ふむ」と唸ってしまった。

 少女へのフェチ感がある種の最高潮に達するのが、かつての魔女と相対する瞬間。「姉妹」「百合」……そんなキーワードが浮かび上がるが、実体は『思い出のマーニー』と同じ「祖母」と「孫娘」の時を越えた邂逅だ。……こういう展開、好きなのかな?
 米林監督は確かに宮崎駿や高畑勲のような主張はない(逆に言えば、2人が主張ありすぎ、主張強すぎ)。『メアリと魔女の花』を全体的に見ると、宮崎作品からのコピペが多く、いやコピペ自体は問題ないが(「創作」とは「選択すること」である)、いかんせんバランスを欠いている。が、米林独自の少女感とフェチ感――姉妹描写にこだわりを感じた。こうしたところから何か“米林らしさ”が開けるんじゃないか……という気がした。

 米林監督もまだまだ成長途中の作家だ。アニメーターとしては間違いなく超一級。いい画を作ってくれる。今後の活躍に期待したい。


前置き


 高畑勲監督の訃報があり、『かぐや姫の物語』が追悼番組としてテレビ放送され、これに合わせて私も過去にブログ上で書いた感想文を再掲しようか……。と、考えていたのだけど、あれは劇場公開時に勢いで書いたものだから、いま見返してみると引っ掛かるところが多い。それで一部を使いつつ、全文を書き直すことにした。何かの息抜きに読んでもらえれば幸いである。



かぐや姫の物語 感想文

かぐや姫の物語 今となっては昔のことであるが、竹を取り様々な用途に使い暮らしていた翁とその妻の嫗がいた。翁の名はさるきのみやつこといった。
 ある日、翁が竹林にでかけると、光り輝く竹があった。不思議に思って近寄ってみると、中から三寸程の可愛らしいことこの上ない女の子が出て来たので、自分たちの子供として育てることにした。

 『竹取物語』は日本人が誰もが知る物語であり、教科書にすら載っている作品である。誰もが学生時代、冒頭の部分を読むように言われたし、中には暗記させられた人もいるだろう。
 しかし、『竹取物語』には謎めいた部分が多い。まずいつ成立したのか、誰が書いたのかもわかっていない。物語の中身も謎は多い。竹から生まれた姫が、最終的に月に帰っていく……というお話だが、よくよく考えてみると意味がわからない。
 神話や民話にはある程度の“型”があり、モチーフの違いはあるが基本的には“型”の組み合わせである――というのはソビエトの学者プロップの説で、ロシアの昔話は31種類の組み合わせで成立しているという。
 『竹取物語』を型に当てはめると、「異常誕生譚」「求婚難題説話」「昇天説話」といったキーワードが浮かび上がってくる。ただ日本最古の物語と呼ばれる『竹取物語』、過去の創作という足がかりのない中でのこの完成度。作り手の練度や話者の変遷……どちらかわからないけど、成立した時点ですでにその中の決定版ともいえる形を持っており、それでいてこの形に当てはめきれない不思議な風合いを持った作品となっている。どうやって成立し得たのか、『竹取物語』を巡るミステリはまだまだありそうだ。

 この難題『竹取物語』に正面から挑んだのが高畑勲監督だ。
 高畑勲監督の挑戦は、まず画。まるで「動く絵本」のような優しい肌触りを持った絵だ。絵は隅々まで描くのではなく、あちこちに余白を残している。劇場公開時……初めて映画を見たとき、ちょっと騙されてしまったのは「空も描かれている」と思って見ていたこと。ほとんどのシーンで空は描かれていない。観る側が勝手に描かれてないものを補完して見てしまう絵になっているのだ。
 余白の多い絵だが、決して手抜きとも思えないし、絵として完成していないとも思えない。むしろ描かれていない向こう側に、観る側が勝手に奥行きを想像してしまう。
 描かれているのは近景から中景までの登場人物が演技をする上で必要な領域と、あとは遠景だけだが、その自然の描写が素晴らしい。シンプルな描き方だが、“それが何であるか”がしっかりわかるように描かれている。必要最低限のところでかっちりと描かれているから、描かれていないところにも奥行きと厚みを感じさせるのだろう。

 もう1つはキャラクター。『となりの山田くん』で開拓した作画方法から、さらに発展させた画だ。キャラクターの線は、『となりの山田くん』の時よりさらに柔らかい、強弱のついた線で、どこか“筆”の線を連想させる。
 やはりシンプルな線で、いかにも「漫画」という絵なのだが、動きが凄い。冒頭、赤ちゃんのかぐや姫が這い回ったり、よちよちと歩いたりしているのだが、あたかも本当の赤ちゃんの動きをトレースしたかのような……いや、もちろん本当の赤ちゃんはあんな動きはしないが、納得させてしまう動きの力強さがある。
 自然の描写もやはり素晴らしい。映画の始めのほう、赤ちゃん姫の前をカエルがぴょんぴょんと跳ねているのだが、この動き方が妙にリアルに感じられてしまう。

 キャラクターについて1つ気になっていることは、かぐや姫と捨て丸……この2人のデザインだけが「アニメ」なのだ。アニメキャラクターのフォーマットを持ちつつ、『かぐや姫の物語』特有の線で描かれている。かぐや姫と捨て丸以外は、絵本ふうのシンプルな絵、あるいは思いっきり崩した絵と動きでキャラクターが作られている。
 もしかしたら主要キャラクターを立たせるためにこう描かれたのかも知れないが……。

 高畑勲監督は『アルプスの少女ハイジ』からずっと「生活のリアリティ」を追求し続けている作家だ。『かぐや姫の物語』は平安時代……今となっては当時の人がどう生活していたか調べるのも困難。しかし高畑監督は一切の妥協なく、平安時代の暮らしを描写してみせた。
 翁の「竹を取り様々な用途に使い」が実際どんな様子だったか。竹を切るとどうなるか、その竹をどう加工して日用品に変えていくか、それをきっちりと描いている。
 木地師と呼ばれる人達の生活も興味深い。木を切りだし、中をくりぬいてお椀の形に整えていく。この一連の描写がドキュメンタリータッチで描かれている。おそらく、当時の人が実際にやっていただろう仕事の様子を再現してみせたのだろう。
 宮廷の生活もしっかり描き込まれている。かぐや姫がやってきて、宴がどのような感じで催されているのか、どんなものが振る舞われるのか……一つ一つに妥協がない。
 『竹取物語』が語られ、描かれた時代そのものを再現していく。その上で『竹取物語』の物語を描き込んでいく。正面に見えているのは絵本ふうの柔らかい絵だが、その向こう側に現れるのは学術的に調査され、作り込まれた世界観だ。こうやって描き込んでいくことで、次第に『かぐや姫の物語』で描かれていることがあたかも本当のことにすら感じられてしまう。とてつもない説得力に繋がっている。

 かぐや姫は天界から降りてきた姫だ。ゆえに、とてつもない力が与えられている。
 かぐや姫がやってくると、木々が芽吹きはじめるし、すでに枯れたと思われた媼から乳が出始める。かぐや姫の周囲に、無限の幸福と活力を与えるようだ。
 それはかぐや姫自身にも作用するらしく、無限の活力はかぐや姫自身をすくすくと成長させてしまう。その何とも言えない愛くるしさ。斎部秋田が初めてかぐや姫と相対したときに、オーバーに思えるくらいにぷるぷると震えてしまう……かぐや姫はそういう魅惑的な“美”と“愛”が与えられて生まれているのだ。
 だが、次第にその魔力は忌まわしき方向へと転じてしまう。
 翁は「姫はもっといい暮らしをさせるべきだ」と考え、都へ行き、宮廷を手に入れてしまう。かぐや姫への愛情が――純朴な父親としての愛が次第に狂いはじめていく。
 やがてかぐや姫の前に、男達が現れる。車持皇子、石作皇子、阿部右大臣、大伴大納言、石上中納言の5人だ。
 皇子達が姫の前に並び、画面には青い蝶がヒラヒラと舞い始める……。この時、皇子達は“魅了”されたのだ。
 かぐや姫はその周囲に無限の活力を与えてしまう。それは男性にとっては性欲を刺激させてしまう(性欲を刺激させてしまう……というのは最初のシーンからあったように思える。カエルの交尾とかね)。皇子達は姫の無理難題など撥ね付けてしまえば良かったのだ。どう考えても無茶だったのだから。だが皇子達は完全に魅了――チャームの魔術を掛けられているので抗うことができなかった。皇子達は3年の月日を掛けて、財産を投げ打って、時には命を投げ打って、姫が要求した宝を得ようとして――ここで悲劇が起きてしまう。

(生命と性の連なりは現代人にとってはピンと来ない話かも知れない。現代は生命と性は分離され、とりわけ性は「猥褻物」にカテゴライズして考えるクセがついてしまっている。しかしわりと近代まではこの2つは1つであったし、あるいは深く連なっているものと考えられていた。無限の春を謳歌するサテュロスは勃起を続けている。高畑監督はおそらく生命と性を意識的に関連づけして『かぐや姫の物語』の物語を作っているのではないかと思う)

 劇場公開時にはよくわからなかったが、かぐや姫には他にも特別な“能力”が与えられているようだ。それが「時間の巻き戻し」。
 宮廷の暮らしにウンザリしたかぐや姫は、着ているものを脱ぎ捨てて、もの凄い脚力で古里に帰ろうとする……その瞬間の絵が素晴らしい。鉛筆線が一気に崩れ、キャラクターも背景も崩れて、線の暴走のような画になっていくのだが、その瞬間、画面全体に何ともいえない情念が浮かび上がる。絵描きとして真似したいが、絶対に真似できない瞬間だ。
 それはさておき、かぐや姫は古里に帰り、自分の家に知らない人が住んでいるのを知り、木地師たち捨て丸ももうどこかへ旅立った後だった……。
 その後、かぐや姫は雪の中を彷徨い、倒れてしまう。そこでかぐや姫は凍死する。
 私はてっきりイメージシーンだと思っていたのだが、これはすべて現実。かぐや姫には時間巻き戻し能力が備わっていて、この時、それが発動したのだ。何を根拠にしているのかというと、絵コンテに書いてあった。
 それから……私の個人的な考えだが、おそらくかぐや姫は不死なのだろう。なぜなら天上人だからだ。本来苦しみや死から解放されているはずの天上人。地上へはバカンスでやってきているような状態だから、かぐや姫は死にたくても死ねないはずだと思う(多分、死ぬとセーブ地点まで戻ってしまうんだと思う)

 やがて帝がやって来て、求婚を迫られる。この時、かぐや姫ははっきりと“能力”を覚醒させる。かぐや姫自身でも自覚的にコントロールできなかったであろう力が発動され、帝を拒否する。
 ……と、本来ドラマチックな瞬間なはずだが、帝のアゴのせいでどうにも……。
 かぐや姫、帝のこと、本当に生理的に駄目だったんだな……と苦笑い。

(最後に天上人がかぐや姫を迎えにやってくるのだが、この時、集まった人々が眠ってしまう……。これ、軽めに殺したんだと思う。生命的な活力を与えることができるなら、活力も奪うこともできるんじゃないだろうか。で、死なない程度に活力を奪い、人々は昏倒してしまった……という感じじゃないだろうか)

 かぐや姫は地上にやってきて、幸福になるはずだった。かぐや姫に与えられた能力は、回りの者に活力を与え、幸福な気分にさせる……そういう力が与えられているはずだった。が、それは巡り巡ってかぐや姫自身を不幸にさせ、かぐや姫の周囲の者も不幸にさせてしまう。
 これは実は罪と罰の物語だ。
 天上は無限の“凪”の世界だ。その世界には心震わせるものが何もない。人間らしい活力のない世界……。翁はかぐや姫の成長を喜び、「立った!」「歩いた!」「喋った!」一つ一つに対して幸福を感じていた。天上世界にはこれがない。無限の“凪”であって、生も死もない。
 だからかぐや姫は地上に舞い降りてきた。そして“幸福”というエデンの果実を知った。これがかぐや姫が背負ってしまった罪だ。“幸福”を知ったら、そのぶん“悲劇”を知らなければならないからだ。これが罰だ。
 罪のモチーフは映画中のあちこちに鏤められている。瓜を盗んでしまう姫。皇子たちを破滅させ、死に追いやってしまった罪。捨て丸に不倫をさせようとした罪……。最終的には、翁と媼を悲しませることになる。
 かぐや姫の利己的な意思が……という話ではない。かぐや姫自身が持っていた聖性が、意図せず不幸を招き寄せてしまうのだ。皇子達に無茶苦茶を言ったのも、退けるためだった。皇子達を不幸にさせる意図はなかったはずだ。

 『かぐや姫の物語』は現代的な解釈の下に作られたお話ではない。物語の最後に光輝く円盤がやってきて、かぐや姫を迎える……という話ではない(そういう映画あったよね)。あくまでも当時の暮らしを再現し、当時の考え方を再現し、『竹取物語』に描かれていることをほぼ変えることはなく(木地師という付け足しはあるものの)、描かれていない余白をしっかりと埋めて、映画的なドラマとして成立させる。日本最古の物語『竹取物語』を刷新させる。これは完璧な精度で成立している。
 学術的な視点を持って、当時こう暮らしていたはずだ、こう考えていたはずだ……これを一つ一つ調査し、再現し……もちろん、その中でユーモアは忘れない。皇子達のやりとりは愉快だったし、女童のマスコット的な愛くるしさ、帝のアゴ。笑える場面は非常に多い。実際、かなり楽しい映画だ。
 『竹取物語』の中から欠落している部分を再現し、厚みを持たせ、それでいて映画的なドラマとしてあのクオリティで完成させてしまう。幸福であるはずの連鎖が、いつの間にか悲劇の連鎖にひっくり返ってしまっている。この構造の巧みさ。その末にあるラストシーンは、何度見ても泣けてしまう。見事なドラマだ。高畑勲監督の凄みをどこまでも体験することのできる映画だ。もちろん、笑える部分はたくさんあるので、“凄み”というよりかはちょっと飄々とした軽やかさだが。この国を代表する巨匠として、素晴らしい仕事を残してくれたと思う。


 しかし、Wikipediaを見ると、制作費51億円に対し、興業収入が24億……。え、そんなに?? 今この数字を知って、驚いてしまった。赤字とは聞いていたけど、ここまでだったとは……。確か、制作会社側の取り分は興業収入の4分の1と聞いているから、制作費に対して得た収入は……6億。
 某動画でアンケートがあったのだが、『かぐや姫の物語』を「よくわからなかった・面白くなかった」と答えた人が50%。えー……。なんでだろう?
 「人それぞれ」とは言うけど、これは本当にわからないし、納得がいかない。こんな傑作をなぜ? 難しいところは何もなかったはずなのに。楽しいところも感動的なところもあったはずなのに。
 映画は芸術であると同時にビジネスでもある。こういったところもきちんと読み解かなければならないだろう。映画を読み解くよりも難しい課題のような気もするが……。

久し振りに映画を観に行ったぞいや(8月10日)。『思い出のマーニー』と『GODZILLA』。どちらもいい映画だった。

『思い出のマーニー』は子供の描き方が細かい。子供が描かれるのは、主人公杏奈の心理的な過渡期を表現しているのだけど、そういった子供の登場シーンはカメラはやや引きぎみになり、目一杯描かれる。その動画の細かさ! 麻呂さんはジブリにとって必要な人材なんだな、と思わされる。
都会(札幌)のシーンは意図的に狭く感じるようにレイアウトが作られていて、その後の田舎との対比となっている。まずは大岩夫妻の屋敷の描写。小物類がどこまでも細かく描かれている。『アリエッティ』でもそうだったけど、麻呂監督はああいった細かいものをずっと描いているのが好きなんだろう(色使いは美術監督の種田陽平の感性が出ているのかも知れない)。それから湿地帯の風景の美しさ。夕日を照り返す水の描写は、本当に見事だった。
他のジブリ作品の関連で思うのは『となりのトトロ』。さつきとメイは、子供だから無意識にアッチの世界とコッチの世界を行き来するけど、成長し、ある程度現実的な意識を持った杏奈は、決められた時間、決められた心理状況、決められたタイミングでしかアッチの世界に行けない。アッチの世界の記憶も長く持っていられない。現実世界と異世界の境界が、かなり丁寧に描かれている。
アッチの世界の住人であるマーニーは、物語当初では杏奈の理想的な人格として描かれている。杏奈がスケッチブックに描いたマーニーの横顔に、杏奈の横顔がオーバーラップする。明るく外交的なマーニーは、杏奈が欠落した断面である。杏奈が次第にマーニーの性質を受け継ぎ、重なり合っていくと、マーニーに新たな、負の側面が現れてくる。後半に入り、メガネの女の子(彩香)に……ネタバレはまずいからここまでにしとこう。この映画、ネタバレしたら殺されるタイプの作品だから。(モノクロのアニメのほうに感想を書きたいけど、時間がない……)
それはそれとして、『思い出のマーニー』は、古き時代を受け入れ、新しい時代の自立を描いた作品だ。どこかジブリの新時代の自立を描いているようにも感じられてしまう。考えすぎってやつだけど。
『思い出のマーニー』は素晴らしい作品だった。確かに難しいストーリーだけど、麻呂さんは逃げずにしっかり描いてくれた。今後、麻呂さんは素晴らしい作品をいくつも作り、世界中から様々な栄誉を勝ち取ってくれるだろう。『思い出のマーニー』はその出発点になりそうな作品だった。
ところで、映画館に監督のサイン色紙が描かれていたけど、『麻呂』と署名されていた。この人、すでに自分から麻呂と名乗っていたのか……。本名は……ヨネ……ヨネバヤ……駄目だ、思い出せない。麻呂でいいや。
↓マーニー描いたよ。ヘッタクソだけど。
2014年8月12日3・ブログ公開用


続いて『GODZILLA』を鑑賞。同じ映画館で時間も連続していたので、『マーニー』を見てすぐに『GODZILLA』を鑑賞。楽でいいや、と思ったけど、頭の切り替えが大変だった。『GODZILLA』を見ている最中なのに、まだ脳内が『マーニー』状態だったから。
で、『GODZILLA』。ギャレス監督は怪獣映画好きと知られているけど、映画を見た印象でいうと、そもそも異生物そのものが好きなんじゃないだろうか、と……。芋虫とかGとかカメレオンとか、いちいちクローズアップで映されるし。なんていうか……この監督のご自宅には訪問したくない。爬虫類とか飼ってそうだもの。イメージだけど。
映画の内容だけど、「怪獣映画」としているものの、実際には人間のドラマが中心。なので、「人間の視点」で映画が描かれている。特撮ものは怪獣が登場すると、やや視点の高い「特撮の視点」になるのだけど、そういった手法は取らず、とことん人間の視点で。「誰がそれを目撃しているのか」が重要視されている。視点が高い場合でも、「ビルの何階で誰がその場面を目撃しているか」という背景がまず描かれる。海外では「怪獣がなかなか出てこない。怪獣がはっきり見えない」という不満が出ていたそうだけど、「観察者がいない場面は描かない」ということに徹底していたんだから仕様がない。
さてさて、私はつい最近『オタク・インUSA』という本を読んでいたので、ここからはその本の内容。
2回目のハリウッド映画化である『ゴジラ』だけど、ハリウッドとの関係は意外なくらい長くて深い。
ヘンリー・G・サパスタインという名をご存知だろうか。サパスタインは第二次世界大戦中、軍隊の新兵訓練向けの映画を制作し、戦後はシカゴでテレビの版権を売買する仕事をしていた。
「48年に私は安物の西部劇などの映画の権利を50本買い集めて、それを2倍の値段でテレビ局に売りつけた」
映画は興業収入よりも、版権事業の方が儲かる……ということを最初に証明してみせた人物といえる。そんなサパスタインが日本の『ゴジラ』に目を向けたのは、ある意味で自然な流れと言えなくもなかった。
当時、「何でもいいからテレビ局はSF映画を欲しがっている」という話を聞いたサパスタインは、ロサンジェルスで『ゴジラ』を鑑賞。『ゴジラ』に魅了されたサパスタインはすぐに東宝と交渉し、共同出資と共同配給の契約を交わした。特撮大作は莫大な予算がかかる。だがサパスタインは映画のテーマについてたった1つ注文を付け、それさえクリアすれば予算の半分は出していい、という条件を出した。当時は1ドル360円の固定レートだったから、特撮大作の制作費はアメリカドルにして80万ドル程度だったのだ。それでも大きな予算だったが、世界事業での儲けを考えると、安い出費だった。
で、サパスタインが提示した「条件」とは、「ゴジラをヒーローにする」ということだった。ゴジラから社会的テーマやメタファーといった難しいものを排除して、勧善懲悪的なヒーローにすればいい。そうすれば世界的にヒットするはずだ、と。
こうして制作されたのが『怪獣大戦争』(6作目かな?)。予算が悩みの種だった東宝にとって、サパスタインの条件は渡りに船。以後ゴジラは、核兵器への怒りの象徴ではなく、ヒーローとして描かれていくこととなった……。
……と、まあ私は特撮映画についてさほど詳しくもないんで、『ゴジラ』という作品について、これ以上語る言葉もないんだけど(渡辺謙が「GODZILLA」ではなく「ゴジラ」と発音してくれたのが良かったな)。ギャレス版の『GODZILLA』を見た印象でいうと、ゴジラってなんとなく椿三十郎みたいだったな……という感じで。人類が馬鹿をやっていうちに怪獣が現れ、ゴジラが「しょうがねぇな」とやってきて、死闘を演じ、怪獣をやっつける。みんなの歓声を浴びながら去って行くのだけど、ゴジラは何の見返りも受けず「あばよ」と去って行く……。そういう流浪人の後ろ姿を見るようだった。
2014年7月23日1・縮小2・ブログ公開用というわけでゴジラ描いたよ→
そういえば予告編で見たけど、『猿の惑星』の最新作が来月だったんだな。まだ前作見てない。時間作って見なくちゃと思うけど……。
某テレビ番組で、デジタル合成前のアンディ・サーキスの演技を見たけど、体の動きといい、表情の動きといい、すでに猿だった。この人、本当に凄い。
そういえば『GODZILLA』もごく一部にアンディ・サーキスが演じている部分があるそうで……。デジタル製だけど、ある意味で「中に人が入って演じる」という伝統が残っていて良かった。ムートもわざわざ、「中に入って人が演じることが可能な形」にデザインされていたし。もしもギャレス監督の続編があるのならば、アンディにがっつりゴジラを演じて欲しい。

追記
後でWikipediaを確認すると、ゴジラをヒーローとして打ち出したのは5作目から、とあった(→Wikipedia:ゴジラ;第1期昭和シリーズ)。ということは、サパスタインが関わったのは5作目から? サパスタインが関わる前から、ゴジラをヒーローとして打ち出そうという動きがあった? この辺の正確な事情はちょっと確認できなかったです。


↓新訳『思い出のマーニー』の表紙が「!?」となる。最近、よくあるやつだけど。

姉妹ブログ『モノクロのアニメ』に映画『かぐや姫の物語』の感想を書きました。


最近の『モノクロのアニメ』記事には毎回「ネタバレ注意」の文字を付けるのだけど、今回はありません。というのも、この映画はみんなが知っている『竹取物語』そのままだから。絵本や童話でみんなが親しんでいる『竹取物語』をそのまま。余計な手を加えず、原典に忠実で、それでいて新しい解釈を与えようとした作品。ネタバレしようにもネタバレ部分がない。みんな結末を知っているはずだから。
でも『かぐや姫の物語』の凄いところは、誰もが知っている『竹取物語』そのまんまなのに、ちゃんと映画になっていること。映画的ドラマになっていること。
映画オリジナル要素として捨丸というキャラクターが登場するけど、原作との違いといえばそれだけ。原作に描かれていなかった感情が付け加えられ、『竹取物語』ってこんな悲しい話だったのか、というような驚きがある。映画で付け加えられた感情が蛇足という気がしない。あの映画を見ると、「竹取物語は本来こうあるべきだった」と思うしかない内容になっている。作品として素晴らしいけど、学術的な視点でも凄い成果というしかない。『新説・竹取物語』と呼ぶべき作品じゃないかな。

■ かぐや姫のモデル

『竹取物語』のかぐや姫のモデルとしては、『古事記』に垂仁天皇の妃として記載される、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が指摘されている(「筒木」は筒状の木と解すれば竹、また「星」の古語「つづ」との関わりもあるか。また、同音の「綴喜」には月読命を祀る樺井月神社と月読神社を祀る式内社が鎮座する)。大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、竹取の翁の名「讃岐造」(さぬきのみやつこ)を連想させるが、現存する原文には「さかきのみやつこ」か「さるきのみやつこ」であり「さるき」では意味が分からないので「さぬき」と変えて「讃岐神社」が奈良県広陵町にあったから述べているにすぎない。本来の「讃岐垂根王」の「讃岐」は、四国地方のことであり畿内になく遠い存在と言えよう。『古事記』によるとこの兄弟は開化天皇が丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘「竹野比売」(たかのひめ)を召して生まれた比古由牟須美王(ひこゆむすみのみこ)を父としており、「竹」との関連が深い。『日本書紀』では開化天皇妃の「丹波竹野媛」の他、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された5人の姫のうち「竹野媛」だけが国に帰されたという記述がある。

他に賀茂建角身命の子孫で馬岐耳乃命又は伊志麻命の娘・賀具夜媛命や、赫夜姫という漢字が「とよひめ」と読めることから豊受大神との関係について論じられることもある。
イラン史研究者の孫崎紀子は、百済の善光王や、675年正月に天武天皇に拝謁して以後、行方のわからないトカラ人(サーサーン朝ペルシア人)の舎衞女とダラ女とする説を出している。
ブログを書く前にWikipediaを読んでみたけどなかなか面白かった。かぐや姫が『日本書紀』に出てくる迦具夜比売命がモデルにされていること(ということは、やっぱり神様だったわけだ)、求婚する貴族たちがいずれも実在人物で、そこから描かれた時代を大雑把に特定できることなど……。
映画を見てから読むと、なるほどと思うところがたくさんある。映画のパンフレットに『竹取物語』と『天女の羽衣』に繋がりが……と書いているのを見て、なぜ? と思ったけどWikipediaでもその部分に言及されていて参考になった。

でも『かぐや姫の物語』は酔狂な映画だな……と思った。
この映画のために50億円が投資され、現在のジブリとは別に新しい会社が新設され、人材が集められ、コンピューターを買って、新しい制作システムが研究されたけど、これを次に持ち越そうという考えはどうやらないらしい。
普通の考えだと、「このシステムを使ってあと2、3本作ろう」とか「このシステムの廉価版でテレビシリーズを作ろう」とか「せっかく優秀な人材が集まったのだから」とか色々考えるのだろうと思う。そうやってトータルで投資したお金を取り戻そうとするんだと思う。それが普通のビジネスだ。
しかしどうやらこの映画の制作スタッフはこの映画限りで解散らしい。スタッフは本来のエヴァの制作に戻っちゃうようだし(絵コンテは『魔法少女まどか☆マギカ』の笹木信作がクレジットされていた)
新しく作った作業場はさすがに残るだろうと思うけど、この後どうするんだろう? 今回の興業で、もしも50億円回収できなかったらどうするつもりだろう? ショービジネスは1本でも失敗すると、後々大きな禍根を残すことになるけど……。

声優はプロではないタレント俳優が起用されていたけど、みんな上手かった。宮崎駿作品は単に下手なだけだけど、高畑勲監督はちゃんと演技させている。そういうところで宮崎駿と高畑勲との差が出るのだろう。
声優の弱点が何かといえば、上手すぎること。キャラクターに合わせて即座に演技ができてしまう。そのように訓練されているのだから当然だ。しかし訓練されすぎているからこそ、その声や演技を嫌うという人もいる。訓練されすぎているから、声優特有の癖や節回しがついてしまう。自分の世界観を打ち出すためには、それを避けたいというわけだ。
宮崎駿はキャラクターから手練の声を抜いて、素朴さを出そうとする。これでそれなりに見えるのは宮崎駿の絵があるから。他の作家の絵で庵野秀明が声を当てたら大惨事必至だろう。訓練されたイメージをとことん抜いて素朴さを強調する。それでいて成立するのは宮崎駿の才能が背景にあるから。宮崎駿にとって、演技力は邪魔なのだ。
一方高畑勲のアプローチは違う。演技経験のない素人でもがっちり演じさせようとする。『おもいでぽろぽろ』でも『火垂るの墓』でも、演技は際立って上手いわけではないけど、どれも自然な感覚が出ている。動きと合っているような気がする。もしかしたら演技に合わせて絵を作っているからかも知れないけど、これも高畑マジック。

でもこの映画の絵が気に入らない……という意見も多いようだ。映画を見た後、ネットでこの映画の批評をいくつか見た。そう言われると、確かにちょっと取っつきにくい部分があるかも知れない。
なにせ、この映画には余白が多い。普通の観客は画面に描かれているディテールの量で、カットに描かれている厚みを知ろうとする。しかし『かぐや姫の物語』は描き込むべき部分をあえて抜いている。真っ白にしている。
そうやって作った構図は、誰が見ても明らかなものになっている。構図が何を物語っているのか、何を伝えようとしているのか、見れば明らかだ。時に、素人のような描き方もしている。
しかしそれが逆に、「手応えがない」と感じる人もいる。
私も実は最初「うーん?」という感じだった。でも、しばらくして「描かれていない世界」が見えるようになって、「この映画凄いぞ」と思うようになった。描かれていない部分に込められているディテールを読み取りながら見るんだ、と思った。
でもそういった機会がないと、映画の世界に入り込みにくいのかも知れない。画面を見れば誰が見ても明らかな絵なのに、むしろ判じにくい絵になっている……というのは何か不思議な感じもする。

その一方で、この映画の線を引くのは大変だっただろうな……。この映画は、感情の動きと線の揺らぎがリンクするように描かれている。感情が動くと線も揺れる。この微妙なブレを描き分けるのは大変だっただろう。高畑勲監督のことだから「線が違う!」で何度もリテイク出したんじゃないだろうか。

音楽はよかった。久石譲のメロディが何かを語りかけるような声のように聞こえてくる。映画全編を通して同じメロディの繰り返しだけど、これがよかった。見終わった後も印象深く耳に残る。
音響面もシンプルだった。必要最低限の音しか使われていない。宮殿の床を走る音と、鳥の音だけ、とか。普通の映画だと周辺を包むありとあらゆる雑音が作られるのだけど、そういうノイズは一切無し。作り手が聞かせたい音が常にクリアに聞こえてくる……という感じ。このシンプルな構成が実にいい感じだった。
ところで挿入歌は高畑勲自身で作曲された。公式サイトを見ると、なんと初音ミクで作られたとか(→かぐや姫の物語公式サイト:プロダクションノート)ぜひ初音ミクバージョンも聞いてみたいけど……。サウンドトラックには初回特典で何か入っているようだけど、もしかして……(買っていないのでわかりません)

かぐや姫の物語 女童女童が可愛かった(→)。まさか高畑勲監督作品で萌キャラが出てくるとは意外だった。このキャラで癒やされる。これから見るという人は、このキャラクターに注目してほしい。
でも画像を探そうと思ったけど、グーグルで検索しても出てこない。予告編にすら出てこない。女童は隠しキャラだったのか……。
右画像はパンフレットからスキャンしたけど、元画像が小さかったために綺麗に画像が作れなかった。

映画館へ行って気になったのは『夢と狂気の王国』もやっていたこと。やっぱり、あちらも見たほうがよかったかな……。
それから、2日予定をずらせば1000円デーだったこと。当日券が1000円だった。知っていたら1000円の時に行っていたのに……。





『有頂天家族』の感想

ここで『平成狸合戦ぽんぽこ』の原画。アニメーターは近藤喜文。
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逆立った毛並みが、いつの間にか甲冑に替わっている不思議。昔、何度もコマ送りで見た。上の原画も素晴らしいが、やはりリアルな狸が漫画ふうの狸に変わる瞬間。あれが不思議だった。
もちろん、CGなんぞ一切使用されていない。この魔法は、何もかも鉛筆で描かれた。
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重ねてGIFにしてみた。動画が入ってないとややガタついて見えるけど。
似たような見せ方ですぐに思い当たるのは『ターミネーター2』で使われたモーフィング。『ターミネーター2』の発想は、モーフィングの途中に現れる、ぐにゃっとした奇妙な状態をキャラクターとして自立させてしまったこと。そのアイデアも恐れ入るけど、やはり手書きの『平成狸合戦ぽんぽこ』にも趣を感じる。


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こちらは冒頭の合戦シーン。Aセルだけでもこの人数……。もちろん、この上にBセルCセルと重なり、どんどん狸が増えていく。絵を見ただけでも「うわぁ」となる。
今は群衆をデジタルで描かれる場合が多いが、ジブリは頑なに手書きにこだわっている。宮崎駿引退後も、手書きを貫いて欲しいものだ。

狸とは無関係だけど、近藤喜文原画を紹介したついでに『火垂るの墓』も。
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この表情の動き……1コマ1コマが「本当に生きている」ような気がしてしまう。あまりにも生々しいのでぞっとしてしまう。アニメは年齢を描くのを苦手としている、表情は形式的になりやすい、という弱点を孕むが、描き方や画力でここまで表現できてしまう。
近藤喜文……本当に惜しい人を亡くしたものだ。

『平成狸合戦ぽんぽこ』はリアルな背景を持った作品だけど、主人公の狸は2本足で立って喋るというありえない行動をしてしまう。明らかに質感の違うデザインを、メタモルフォーゼで繋ぎ、実写的な背景の中に漫画的なキャラクターを堂々と置いてしまうだけではなく、リアルな背景の中に、漫画的な柔らかさを混ぜ込む……。
これを全て理屈で計算尽くで描いてしまうのだから、高畑勲という人は凄い。


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場所はスタジオジブリから2分ほど。ここに、宮崎駿の仕事場、二馬力がある。この場所で、宮崎駿は新作の準備を進める。
左手の机には色んな音楽のCDが置かれている。
写真の良さもあるのだが、こんな格好いいアニメーターは世界中探してもそうそういないだろう。

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宮崎駿の机。正面に水彩絵の具用の筆とバケツが置かれている。ヘビースモーカーなのであちこちにライターが置かれている。鉛筆が散乱して、あまり綺麗な机とは言いがたい。机そのものは高級そうだが。

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書棚には、色んな専門書がぎっしり置かれている。飛行機や戦闘機関連の本が多い。「この手の本は手に入りにくいので、見つけると買ってしまうんです」。
また2013年に公開されることになっている、堀辰雄の『風立ちぬ』も書棚にあった。この本について「何度読んでも理解できない」とコメントしている。
この雑誌が発売したのは、『借りぐらしのアリエッティ』が劇場公開された直後。映画『風立ちぬ』の制作に入っていたはずだ。

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二馬力にはなぜか薪割り場がある。そこで高畑勲と写真撮影する宮崎駿。この2人が同居する写真は珍しい。
それにしても、なぜ斧を持って撮影したのだろう?

『BRUTUS』2010年8月号 撮影:篠山紀信


姉妹ブログ「モノクロのアニメ」に書いた『風立ちぬ』の感想の続き。


以下ネタバレ注意

カプローニが現れる夢の世界と、奈緖子と再開する軽井沢は、方や夢、方や現実という差はあるものの、おそらくは同じ空間であろうと推測される。これは『モノクロのアニメ』に書いた通りである。軽井沢は、堀越二郎が見ている夢の延長であろう。
奈緖子は、もともとは堀越二郎が見ている「美しい夢」の住人であった。しかしそこから出てしまう。出てしまった途端、あの快活な奈緖子は、重い病気で倒れてしまう。
一方、堀越二郎は夢の中で理想の「美しい飛行機」の姿を作り上げる。こちらも夢の世界から現実に引っ張り出す過程で、理想やら美は剥ぎ落ちてしまい、最後には同じように失われてしまう。

美しい夢から取りだしたものは、みんな朽ちてしまう。奈緖子も零戦も、堀越二郎はどちらも失ってしまった。
夢と現実の境界に漂うジレンマ……。ある意味、映画監督の葛藤とも読み取れなくともない。
映画を作る前は「こんなのあったらいいな」と希望を頭の中に思い描く。そうやって妄想している時が一番映画が活き活きしていて楽しい。映画監督がなぜその映画を作るのか?と問われると、自分が一番見たかったから、というしかない。
しかし実際の制作が始まってみると、映画監督は映画制作という過酷な仕事を早く終わらせたい、ということしか考えなくなる。制作が終わってみると、あれだけ楽しみにしていた「美しい映画」に対して、まったくの興味を失ってしまっている。それどころか、妄想の中ではあれだけ輝いていた「美しい映画」は、現実の毒々しさを大きく抱えて、さらに技術的な問題で理想の半分も達成できていないと思い知らされ、作家は「現実世界に現れた夢の具象」を見て愕然とするのである。この瞬間、夢は汚されて、作家の体内で長く暖められていた理想は失望という形に変えられて失われるのである。
理想も、空気に触れると酸化するのだ。しかももの凄い速度で。

堀越二郎という若者は、半分くらい夢の中で漂っている。いつまでも美しい理想世界から抜け出せず、ゆえにいつまでも純朴な少年のような感覚から抜け出せない。なぜなら彼は現実に打ちのめされたことがない……挫折したことがないからだ。
そんなだから、現実の貧しさや、多くの人が抱いている貧しい心情を理解できない。子供にシベリアを振る舞おうとするところにも、そういう性格が出てきたのではないか。

そういった理想家・夢想家の生き方は、宮崎駿自身の考え方を示しているが、一方で、宮崎駿自身による自己批判が描かれているようにも思える。子供にシベリアを振る舞おうなどというのは偽善だ、と。
宮崎駿は理想家である。しかし宮崎駿が抱く理想は、あまりにも突き抜けて現実感がない。宮崎駿はその葛藤を常に感じていて、どこかで打ちのめされていて、そのジレンマそのものを作品に投影したのではないだろうか。

『風立ちぬ』は、実在人物を捉えた映画、という以上に宮崎駿個人の心象世界が濃厚に反映されている。
堀越二郎が本庄と一緒に仕事がしたい、と申し出た時、上司から「友情を失うぞ」と忠告される。これは実際に宮崎駿が映画作りの過程で友人を失ってきたことをそのまま描いている。実体験をそのまま反映させて、自身の分身たる堀越二郎に忠告しているのだ。

映画は理想そのものだ。理想の具体化だ。しかし理想を現実に引っ張り出してみると、それは自身から失われてしまう。そういった「作るたびに失われていく理想への追悼」を描いた作品だったかも知れない。
すると宮崎駿がこの映画に涙を浮かべたのは、夢を叶えようとして夢を失い、作るたびに挫折してきた自分自身がそこに描かれていたから……あのラストシーン、奈緖子が別れの言葉を告げるのあの場面は、自分が作り続けてきた理想が宮崎駿に慰めの言葉を残していったのだ。「好きな女の子が別れて悲しい」という『タイタニック』的な泣かせシーンではなく、夢想家の挫折を描き、描いた人間の心理を突き刺したのだ。

そうだ、『風立ちぬ』はラブストーリーではなかった。ラブストーリーと言われることへの違和感はおそらくここだろう。『風立ちぬ』は徹頭徹尾、作家の挫折を描いた作品だったのだ。作家の経験がない人間には、何一つ伝わらない、宮崎駿個人の映画だったのだ。

奈緖子というキャラクターは、ナウシカでありシータでありキキであり、宮崎駿の映画に登場し続けたヒロインたちの成長した姿であり、そうした宮崎駿の創造物である少女達が、宮崎駿に慰めの言葉を贈りに来たのだ。
それを描いたのはもちろん宮崎駿本人だったわけだけど、そうした自覚を越えて、自身が描いたものに慰められたという事実が宮崎駿の心理を突いたのだろう。その瞬間、宮崎駿の数十年に及ぶ夢想と創作という葛藤は、報われたのだ。怨念だと思っていた自身の創作物が“成仏”して、空に昇っていったのだ。

作家が芸術を作ることは、夢を消費することである。
夢の実現は、最後には絶望で終わる。


天空の城ラピュタ パズーいま読んでいる本に、『天空の城ラピュタ』のパズーとムスカの同一性について書かれているのを見て、ハッと気付く。パズーとムスカはともに同じ場所を目的地としていて、同じ女の子を口説こうとしているのだ。パズーとムスカは、ある地点で同じ傾向を持った人物であると言える。

一方、シータにも同一性を持つキャラクターが登場する。
言うまでもなくドーラだ。
天空の城ラピュタ ドーラの若い頃ドーラの若い頃はシータにそっくりだし、物語の後半にかけて、シータはドーラの衣装を着て、次第にドーラに近づいていく。
ドーラになっていくとことは、シータにとっての成長というわけだ。

ここでちょっと想像。
ムスカはパズーくらいの少年の頃、好きな女の子がいたのかもしれない。しかし大人が横から入ってきて、何枚かの金貨を渡されて「身を引きなさい」と言われてしまった……。ムスカはその時、好きな女の子を諦めたのだ。
天空の城ラピュタ ムスカ……なんて過去があったのかもしれない。そこでムスカは、パズーになれずムスカになったのだ……という想像をしてみる。
あれから十数年、ムスカは今度こそ得たいものを確実に得ようと、ラピュタの宝に手を出す。しかしこの野望も失敗。それも、自分の少年時代の生き写しのような少年に挫折させられるのである。
そう考えると、可哀相な男に見えてきた……。

パズーはシータを得ることで完全性を得た。
しかしムスカはシータを得損ねて完全性を得られなかった。いや、英雄になり損ねたのだ。

ムスカのある種の幼児性は、得るべきものを得られず、完全性に到達できなかったことにある。成長過程に何かしらの過ちを抱えて、大人になれなかったのだ。

英雄物語には、大雑把に2つの形がある。
桃太郎のように宝を得て、「めでたしめでたし」で終わるタイプと、アーサー王のように運命に打ちのめされて死んでしまうタイプだ。
このように分かれる切っ掛けは、英雄が冒険の最中で、反道徳的な過ちを犯してしまうことにある。オイディプス王は知らぬとはいえ父親を殺してしまったことが決定的だった。
パズーとムスカは、どこかの地点までは同一の傾向を持った同じ少年であった、とする。同じ目標を持つ、血気盛んな冒険家であった。
ところが、パズーとムスカは、その成長段階でくっきりと分かれてしまった。この2人を分けてしまったものを英雄物語のパターンに当てはめて考えると、ラピュタは「めでたしめでたし」で終わる英雄物語と、悲劇で終わる英雄物語の両方が込められていたことになる。


仕事の流儀 宮崎駿ドキュメンタリー 巾着の持ち方 (1)
NHKの『プロフェッショナル仕事の流儀』の「宮崎駿特集」の一場面。
アニメーターが描いた絵を見て、宮崎駿が激怒している。お婆ちゃんが持っている風呂敷の持ち方が違う、という。
「風呂敷はこんな持ち方しないんだ!」と怒り狂って直している。
仕事の流儀 宮崎駿ドキュメンタリー 巾着の持ち方 (2)
しかしこの場面、関東大震災の場面。大混乱が起きて、モブがワーっと動いている瞬間。このお婆ちゃんの絵は、数コマしか映らないか、そもそも描かれていることすら誰も気付かずに通り過ぎてしまうと思う。
そんなほんの数コマしか映らない絵に対して、宮崎駿は本気で怒っている。本気で怒って直している。つまり、それくらいの全勢力を、全てのコマに注いでいる、というわけだ。
なにもそこまで……と思うが、それくらいの集中力を全てのコマに隅々まで注いでいるからあの画面ができるのかと思うと、納得するし、感動もする。


そういえば黒澤明監督の『七人の侍』で、仲代達矢はほんの数秒のシーンで「歩き方がおかしい」と一日中同じ場面をやらされたとか。
その場面、仲代達矢が画面に映るのはほんの数秒。3秒あるかないか。カメラの手前を横切るだけの役である。そんなところ、手を抜いたって誰も見ないし気付かない。そんな一瞬であるにも関わらず、黒澤明は仲代達矢に対して怒り狂い、できるまで繰り返したとか。それくらいのこだわりがあるから、やはりあれだけの傑作ができるのだと納得する。
天才のこだわり、どこかに通ずるものがある。

それにしても、仲代達矢はよく挫折しなかった……。歩く場面だけを一日中やらされたら、死ぬほど落ち込みそうだけど。でもその時の縁で『用心棒』に抜擢されたというから、人生何が転機になるかわからない。(黒澤明は、ずっと仲代達矢のことを憶えていたそうだ)


さて、ここでもう一つ、
仕事の流儀 宮崎駿ドキュメンタリー 巾着の持ち方 (3)
押井守監督の『イノセンス』
クライマックスシーンの一場面。この場面を見て、
鈴木敏夫「ここだけキャラクターが違うじゃん」と指摘。
しかし、押井守は「いいんだよ、これくらい」
仕事の流儀 宮崎駿ドキュメンタリー 巾着の持ち方 (4)
しかしこの場面。トグサの娘が駆け出すこの場面。この場面を見て、押井守は激怒する。
「ジブリ走りしてる!」(※ジブリのアニメーターが担当している)
沸点、そこなんだ……。


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