とらつぐみのつぶやき

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前置き


 高畑勲監督の訃報があり、『かぐや姫の物語』が追悼番組としてテレビ放送され、これに合わせて私も過去にブログ上で書いた感想文を再掲しようか……。と、考えていたのだけど、あれは劇場公開時に勢いで書いたものだから、いま見返してみると引っ掛かるところが多い。それで一部を使いつつ、全文を書き直すことにした。何かの息抜きに読んでもらえれば幸いである。



かぐや姫の物語 感想文

かぐや姫の物語 今となっては昔のことであるが、竹を取り様々な用途に使い暮らしていた翁とその妻の嫗がいた。翁の名はさるきのみやつこといった。
 ある日、翁が竹林にでかけると、光り輝く竹があった。不思議に思って近寄ってみると、中から三寸程の可愛らしいことこの上ない女の子が出て来たので、自分たちの子供として育てることにした。

 『竹取物語』は日本人が誰もが知る物語であり、教科書にすら載っている作品である。誰もが学生時代、冒頭の部分を読むように言われたし、中には暗記させられた人もいるだろう。
 しかし、『竹取物語』には謎めいた部分が多い。まずいつ成立したのか、誰が書いたのかもわかっていない。物語の中身も謎は多い。竹から生まれた姫が、最終的に月に帰っていく……というお話だが、よくよく考えてみると意味がわからない。
 神話や民話にはある程度の“型”があり、モチーフの違いはあるが基本的には“型”の組み合わせである――というのはソビエトの学者プロップの説で、ロシアの昔話は31種類の組み合わせで成立しているという。
 『竹取物語』を型に当てはめると、「異常誕生譚」「求婚難題説話」「昇天説話」といったキーワードが浮かび上がってくる。ただ日本最古の物語と呼ばれる『竹取物語』、過去の創作という足がかりのない中でのこの完成度。作り手の練度や話者の変遷……どちらかわからないけど、成立した時点ですでにその中の決定版ともいえる形を持っており、それでいてこの形に当てはめきれない不思議な風合いを持った作品となっている。どうやって成立し得たのか、『竹取物語』を巡るミステリはまだまだありそうだ。

 この難題『竹取物語』に正面から挑んだのが高畑勲監督だ。
 高畑勲監督の挑戦は、まず画。まるで「動く絵本」のような優しい肌触りを持った絵だ。絵は隅々まで描くのではなく、あちこちに余白を残している。劇場公開時……初めて映画を見たとき、ちょっと騙されてしまったのは「空も描かれている」と思って見ていたこと。ほとんどのシーンで空は描かれていない。観る側が勝手に描かれてないものを補完して見てしまう絵になっているのだ。
 余白の多い絵だが、決して手抜きとも思えないし、絵として完成していないとも思えない。むしろ描かれていない向こう側に、観る側が勝手に奥行きを想像してしまう。
 描かれているのは近景から中景までの登場人物が演技をする上で必要な領域と、あとは遠景だけだが、その自然の描写が素晴らしい。シンプルな描き方だが、“それが何であるか”がしっかりわかるように描かれている。必要最低限のところでかっちりと描かれているから、描かれていないところにも奥行きと厚みを感じさせるのだろう。

 もう1つはキャラクター。『となりの山田くん』で開拓した作画方法から、さらに発展させた画だ。キャラクターの線は、『となりの山田くん』の時よりさらに柔らかい、強弱のついた線で、どこか“筆”の線を連想させる。
 やはりシンプルな線で、いかにも「漫画」という絵なのだが、動きが凄い。冒頭、赤ちゃんのかぐや姫が這い回ったり、よちよちと歩いたりしているのだが、あたかも本当の赤ちゃんの動きをトレースしたかのような……いや、もちろん本当の赤ちゃんはあんな動きはしないが、納得させてしまう動きの力強さがある。
 自然の描写もやはり素晴らしい。映画の始めのほう、赤ちゃん姫の前をカエルがぴょんぴょんと跳ねているのだが、この動き方が妙にリアルに感じられてしまう。

 キャラクターについて1つ気になっていることは、かぐや姫と捨て丸……この2人のデザインだけが「アニメ」なのだ。アニメキャラクターのフォーマットを持ちつつ、『かぐや姫の物語』特有の線で描かれている。かぐや姫と捨て丸以外は、絵本ふうのシンプルな絵、あるいは思いっきり崩した絵と動きでキャラクターが作られている。
 もしかしたら主要キャラクターを立たせるためにこう描かれたのかも知れないが……。

 高畑勲監督は『アルプスの少女ハイジ』からずっと「生活のリアリティ」を追求し続けている作家だ。『かぐや姫の物語』は平安時代……今となっては当時の人がどう生活していたか調べるのも困難。しかし高畑監督は一切の妥協なく、平安時代の暮らしを描写してみせた。
 翁の「竹を取り様々な用途に使い」が実際どんな様子だったか。竹を切るとどうなるか、その竹をどう加工して日用品に変えていくか、それをきっちりと描いている。
 木地師と呼ばれる人達の生活も興味深い。木を切りだし、中をくりぬいてお椀の形に整えていく。この一連の描写がドキュメンタリータッチで描かれている。おそらく、当時の人が実際にやっていただろう仕事の様子を再現してみせたのだろう。
 宮廷の生活もしっかり描き込まれている。かぐや姫がやってきて、宴がどのような感じで催されているのか、どんなものが振る舞われるのか……一つ一つに妥協がない。
 『竹取物語』が語られ、描かれた時代そのものを再現していく。その上で『竹取物語』の物語を描き込んでいく。正面に見えているのは絵本ふうの柔らかい絵だが、その向こう側に現れるのは学術的に調査され、作り込まれた世界観だ。こうやって描き込んでいくことで、次第に『かぐや姫の物語』で描かれていることがあたかも本当のことにすら感じられてしまう。とてつもない説得力に繋がっている。

 かぐや姫は天界から降りてきた姫だ。ゆえに、とてつもない力が与えられている。
 かぐや姫がやってくると、木々が芽吹きはじめるし、すでに枯れたと思われた媼から乳が出始める。かぐや姫の周囲に、無限の幸福と活力を与えるようだ。
 それはかぐや姫自身にも作用するらしく、無限の活力はかぐや姫自身をすくすくと成長させてしまう。その何とも言えない愛くるしさ。斎部秋田が初めてかぐや姫と相対したときに、オーバーに思えるくらいにぷるぷると震えてしまう……かぐや姫はそういう魅惑的な“美”と“愛”が与えられて生まれているのだ。
 だが、次第にその魔力は忌まわしき方向へと転じてしまう。
 翁は「姫はもっといい暮らしをさせるべきだ」と考え、都へ行き、宮廷を手に入れてしまう。かぐや姫への愛情が――純朴な父親としての愛が次第に狂いはじめていく。
 やがてかぐや姫の前に、男達が現れる。車持皇子、石作皇子、阿部右大臣、大伴大納言、石上中納言の5人だ。
 皇子達が姫の前に並び、画面には青い蝶がヒラヒラと舞い始める……。この時、皇子達は“魅了”されたのだ。
 かぐや姫はその周囲に無限の活力を与えてしまう。それは男性にとっては性欲を刺激させてしまう(性欲を刺激させてしまう……というのは最初のシーンからあったように思える。カエルの交尾とかね)。皇子達は姫の無理難題など撥ね付けてしまえば良かったのだ。どう考えても無茶だったのだから。だが皇子達は完全に魅了――チャームの魔術を掛けられているので抗うことができなかった。皇子達は3年の月日を掛けて、財産を投げ打って、時には命を投げ打って、姫が要求した宝を得ようとして――ここで悲劇が起きてしまう。

(生命と性の連なりは現代人にとってはピンと来ない話かも知れない。現代は生命と性は分離され、とりわけ性は「猥褻物」にカテゴライズして考えるクセがついてしまっている。しかしわりと近代まではこの2つは1つであったし、あるいは深く連なっているものと考えられていた。無限の春を謳歌するサテュロスは勃起を続けている。高畑監督はおそらく生命と性を意識的に関連づけして『かぐや姫の物語』の物語を作っているのではないかと思う)

 劇場公開時にはよくわからなかったが、かぐや姫には他にも特別な“能力”が与えられているようだ。それが「時間の巻き戻し」。
 宮廷の暮らしにウンザリしたかぐや姫は、着ているものを脱ぎ捨てて、もの凄い脚力で古里に帰ろうとする……その瞬間の絵が素晴らしい。鉛筆線が一気に崩れ、キャラクターも背景も崩れて、線の暴走のような画になっていくのだが、その瞬間、画面全体に何ともいえない情念が浮かび上がる。絵描きとして真似したいが、絶対に真似できない瞬間だ。
 それはさておき、かぐや姫は古里に帰り、自分の家に知らない人が住んでいるのを知り、木地師たち捨て丸ももうどこかへ旅立った後だった……。
 その後、かぐや姫は雪の中を彷徨い、倒れてしまう。そこでかぐや姫は凍死する。
 私はてっきりイメージシーンだと思っていたのだが、これはすべて現実。かぐや姫には時間巻き戻し能力が備わっていて、この時、それが発動したのだ。何を根拠にしているのかというと、絵コンテに書いてあった。
 それから……私の個人的な考えだが、おそらくかぐや姫は不死なのだろう。なぜなら天上人だからだ。本来苦しみや死から解放されているはずの天上人。地上へはバカンスでやってきているような状態だから、かぐや姫は死にたくても死ねないはずだと思う(多分、死ぬとセーブ地点まで戻ってしまうんだと思う)

 やがて帝がやって来て、求婚を迫られる。この時、かぐや姫ははっきりと“能力”を覚醒させる。かぐや姫自身でも自覚的にコントロールできなかったであろう力が発動され、帝を拒否する。
 ……と、本来ドラマチックな瞬間なはずだが、帝のアゴのせいでどうにも……。
 かぐや姫、帝のこと、本当に生理的に駄目だったんだな……と苦笑い。

(最後に天上人がかぐや姫を迎えにやってくるのだが、この時、集まった人々が眠ってしまう……。これ、軽めに殺したんだと思う。生命的な活力を与えることができるなら、活力も奪うこともできるんじゃないだろうか。で、死なない程度に活力を奪い、人々は昏倒してしまった……という感じじゃないだろうか)

 かぐや姫は地上にやってきて、幸福になるはずだった。かぐや姫に与えられた能力は、回りの者に活力を与え、幸福な気分にさせる……そういう力が与えられているはずだった。が、それは巡り巡ってかぐや姫自身を不幸にさせ、かぐや姫の周囲の者も不幸にさせてしまう。
 これは実は罪と罰の物語だ。
 天上は無限の“凪”の世界だ。その世界には心震わせるものが何もない。人間らしい活力のない世界……。翁はかぐや姫の成長を喜び、「立った!」「歩いた!」「喋った!」一つ一つに対して幸福を感じていた。天上世界にはこれがない。無限の“凪”であって、生も死もない。
 だからかぐや姫は地上に舞い降りてきた。そして“幸福”というエデンの果実を知った。これがかぐや姫が背負ってしまった罪だ。“幸福”を知ったら、そのぶん“悲劇”を知らなければならないからだ。これが罰だ。
 罪のモチーフは映画中のあちこちに鏤められている。瓜を盗んでしまう姫。皇子たちを破滅させ、死に追いやってしまった罪。捨て丸に不倫をさせようとした罪……。最終的には、翁と媼を悲しませることになる。
 かぐや姫の利己的な意思が……という話ではない。かぐや姫自身が持っていた聖性が、意図せず不幸を招き寄せてしまうのだ。皇子達に無茶苦茶を言ったのも、退けるためだった。皇子達を不幸にさせる意図はなかったはずだ。

 『かぐや姫の物語』は現代的な解釈の下に作られたお話ではない。物語の最後に光輝く円盤がやってきて、かぐや姫を迎える……という話ではない(そういう映画あったよね)。あくまでも当時の暮らしを再現し、当時の考え方を再現し、『竹取物語』に描かれていることをほぼ変えることはなく(木地師という付け足しはあるものの)、描かれていない余白をしっかりと埋めて、映画的なドラマとして成立させる。日本最古の物語『竹取物語』を刷新させる。これは完璧な精度で成立している。
 学術的な視点を持って、当時こう暮らしていたはずだ、こう考えていたはずだ……これを一つ一つ調査し、再現し……もちろん、その中でユーモアは忘れない。皇子達のやりとりは愉快だったし、女童のマスコット的な愛くるしさ、帝のアゴ。笑える場面は非常に多い。実際、かなり楽しい映画だ。
 『竹取物語』の中から欠落している部分を再現し、厚みを持たせ、それでいて映画的なドラマとしてあのクオリティで完成させてしまう。幸福であるはずの連鎖が、いつの間にか悲劇の連鎖にひっくり返ってしまっている。この構造の巧みさ。その末にあるラストシーンは、何度見ても泣けてしまう。見事なドラマだ。高畑勲監督の凄みをどこまでも体験することのできる映画だ。もちろん、笑える部分はたくさんあるので、“凄み”というよりかはちょっと飄々とした軽やかさだが。この国を代表する巨匠として、素晴らしい仕事を残してくれたと思う。


 しかし、Wikipediaを見ると、制作費51億円に対し、興業収入が24億……。え、そんなに?? 今この数字を知って、驚いてしまった。赤字とは聞いていたけど、ここまでだったとは……。確か、制作会社側の取り分は興業収入の4分の1と聞いているから、制作費に対して得た収入は……6億。
 某動画でアンケートがあったのだが、『かぐや姫の物語』を「よくわからなかった・面白くなかった」と答えた人が50%。えー……。なんでだろう?
 「人それぞれ」とは言うけど、これは本当にわからないし、納得がいかない。こんな傑作をなぜ? 難しいところは何もなかったはずなのに。楽しいところも感動的なところもあったはずなのに。
 映画は芸術であると同時にビジネスでもある。こういったところもきちんと読み解かなければならないだろう。映画を読み解くよりも難しい課題のような気もするが……。

久し振りに映画を観に行ったぞいや(8月10日)。『思い出のマーニー』と『GODZILLA』。どちらもいい映画だった。

『思い出のマーニー』は子供の描き方が細かい。子供が描かれるのは、主人公杏奈の心理的な過渡期を表現しているのだけど、そういった子供の登場シーンはカメラはやや引きぎみになり、目一杯描かれる。その動画の細かさ! 麻呂さんはジブリにとって必要な人材なんだな、と思わされる。
都会(札幌)のシーンは意図的に狭く感じるようにレイアウトが作られていて、その後の田舎との対比となっている。まずは大岩夫妻の屋敷の描写。小物類がどこまでも細かく描かれている。『アリエッティ』でもそうだったけど、麻呂監督はああいった細かいものをずっと描いているのが好きなんだろう(色使いは美術監督の種田陽平の感性が出ているのかも知れない)。それから湿地帯の風景の美しさ。夕日を照り返す水の描写は、本当に見事だった。
他のジブリ作品の関連で思うのは『となりのトトロ』。さつきとメイは、子供だから無意識にアッチの世界とコッチの世界を行き来するけど、成長し、ある程度現実的な意識を持った杏奈は、決められた時間、決められた心理状況、決められたタイミングでしかアッチの世界に行けない。アッチの世界の記憶も長く持っていられない。現実世界と異世界の境界が、かなり丁寧に描かれている。
アッチの世界の住人であるマーニーは、物語当初では杏奈の理想的な人格として描かれている。杏奈がスケッチブックに描いたマーニーの横顔に、杏奈の横顔がオーバーラップする。明るく外交的なマーニーは、杏奈が欠落した断面である。杏奈が次第にマーニーの性質を受け継ぎ、重なり合っていくと、マーニーに新たな、負の側面が現れてくる。後半に入り、メガネの女の子(彩香)に……ネタバレはまずいからここまでにしとこう。この映画、ネタバレしたら殺されるタイプの作品だから。(モノクロのアニメのほうに感想を書きたいけど、時間がない……)
それはそれとして、『思い出のマーニー』は、古き時代を受け入れ、新しい時代の自立を描いた作品だ。どこかジブリの新時代の自立を描いているようにも感じられてしまう。考えすぎってやつだけど。
『思い出のマーニー』は素晴らしい作品だった。確かに難しいストーリーだけど、麻呂さんは逃げずにしっかり描いてくれた。今後、麻呂さんは素晴らしい作品をいくつも作り、世界中から様々な栄誉を勝ち取ってくれるだろう。『思い出のマーニー』はその出発点になりそうな作品だった。
ところで、映画館に監督のサイン色紙が描かれていたけど、『麻呂』と署名されていた。この人、すでに自分から麻呂と名乗っていたのか……。本名は……ヨネ……ヨネバヤ……駄目だ、思い出せない。麻呂でいいや。
↓マーニー描いたよ。ヘッタクソだけど。
2014年8月12日3・ブログ公開用


続いて『GODZILLA』を鑑賞。同じ映画館で時間も連続していたので、『マーニー』を見てすぐに『GODZILLA』を鑑賞。楽でいいや、と思ったけど、頭の切り替えが大変だった。『GODZILLA』を見ている最中なのに、まだ脳内が『マーニー』状態だったから。
で、『GODZILLA』。ギャレス監督は怪獣映画好きと知られているけど、映画を見た印象でいうと、そもそも異生物そのものが好きなんじゃないだろうか、と……。芋虫とかGとかカメレオンとか、いちいちクローズアップで映されるし。なんていうか……この監督のご自宅には訪問したくない。爬虫類とか飼ってそうだもの。イメージだけど。
映画の内容だけど、「怪獣映画」としているものの、実際には人間のドラマが中心。なので、「人間の視点」で映画が描かれている。特撮ものは怪獣が登場すると、やや視点の高い「特撮の視点」になるのだけど、そういった手法は取らず、とことん人間の視点で。「誰がそれを目撃しているのか」が重要視されている。視点が高い場合でも、「ビルの何階で誰がその場面を目撃しているか」という背景がまず描かれる。海外では「怪獣がなかなか出てこない。怪獣がはっきり見えない」という不満が出ていたそうだけど、「観察者がいない場面は描かない」ということに徹底していたんだから仕様がない。
さてさて、私はつい最近『オタク・インUSA』という本を読んでいたので、ここからはその本の内容。
2回目のハリウッド映画化である『ゴジラ』だけど、ハリウッドとの関係は意外なくらい長くて深い。
ヘンリー・G・サパスタインという名をご存知だろうか。サパスタインは第二次世界大戦中、軍隊の新兵訓練向けの映画を制作し、戦後はシカゴでテレビの版権を売買する仕事をしていた。
「48年に私は安物の西部劇などの映画の権利を50本買い集めて、それを2倍の値段でテレビ局に売りつけた」
映画は興業収入よりも、版権事業の方が儲かる……ということを最初に証明してみせた人物といえる。そんなサパスタインが日本の『ゴジラ』に目を向けたのは、ある意味で自然な流れと言えなくもなかった。
当時、「何でもいいからテレビ局はSF映画を欲しがっている」という話を聞いたサパスタインは、ロサンジェルスで『ゴジラ』を鑑賞。『ゴジラ』に魅了されたサパスタインはすぐに東宝と交渉し、共同出資と共同配給の契約を交わした。特撮大作は莫大な予算がかかる。だがサパスタインは映画のテーマについてたった1つ注文を付け、それさえクリアすれば予算の半分は出していい、という条件を出した。当時は1ドル360円の固定レートだったから、特撮大作の制作費はアメリカドルにして80万ドル程度だったのだ。それでも大きな予算だったが、世界事業での儲けを考えると、安い出費だった。
で、サパスタインが提示した「条件」とは、「ゴジラをヒーローにする」ということだった。ゴジラから社会的テーマやメタファーといった難しいものを排除して、勧善懲悪的なヒーローにすればいい。そうすれば世界的にヒットするはずだ、と。
こうして制作されたのが『怪獣大戦争』(6作目かな?)。予算が悩みの種だった東宝にとって、サパスタインの条件は渡りに船。以後ゴジラは、核兵器への怒りの象徴ではなく、ヒーローとして描かれていくこととなった……。
……と、まあ私は特撮映画についてさほど詳しくもないんで、『ゴジラ』という作品について、これ以上語る言葉もないんだけど(渡辺謙が「GODZILLA」ではなく「ゴジラ」と発音してくれたのが良かったな)。ギャレス版の『GODZILLA』を見た印象でいうと、ゴジラってなんとなく椿三十郎みたいだったな……という感じで。人類が馬鹿をやっていうちに怪獣が現れ、ゴジラが「しょうがねぇな」とやってきて、死闘を演じ、怪獣をやっつける。みんなの歓声を浴びながら去って行くのだけど、ゴジラは何の見返りも受けず「あばよ」と去って行く……。そういう流浪人の後ろ姿を見るようだった。
2014年7月23日1・縮小2・ブログ公開用というわけでゴジラ描いたよ→
そういえば予告編で見たけど、『猿の惑星』の最新作が来月だったんだな。まだ前作見てない。時間作って見なくちゃと思うけど……。
某テレビ番組で、デジタル合成前のアンディ・サーキスの演技を見たけど、体の動きといい、表情の動きといい、すでに猿だった。この人、本当に凄い。
そういえば『GODZILLA』もごく一部にアンディ・サーキスが演じている部分があるそうで……。デジタル製だけど、ある意味で「中に人が入って演じる」という伝統が残っていて良かった。ムートもわざわざ、「中に入って人が演じることが可能な形」にデザインされていたし。もしもギャレス監督の続編があるのならば、アンディにがっつりゴジラを演じて欲しい。

追記
後でWikipediaを確認すると、ゴジラをヒーローとして打ち出したのは5作目から、とあった(→Wikipedia:ゴジラ;第1期昭和シリーズ)。ということは、サパスタインが関わったのは5作目から? サパスタインが関わる前から、ゴジラをヒーローとして打ち出そうという動きがあった? この辺の正確な事情はちょっと確認できなかったです。


↓新訳『思い出のマーニー』の表紙が「!?」となる。最近、よくあるやつだけど。

姉妹ブログ『モノクロのアニメ』に映画『かぐや姫の物語』の感想を書きました。


最近の『モノクロのアニメ』記事には毎回「ネタバレ注意」の文字を付けるのだけど、今回はありません。というのも、この映画はみんなが知っている『竹取物語』そのままだから。絵本や童話でみんなが親しんでいる『竹取物語』をそのまま。余計な手を加えず、原典に忠実で、それでいて新しい解釈を与えようとした作品。ネタバレしようにもネタバレ部分がない。みんな結末を知っているはずだから。
でも『かぐや姫の物語』の凄いところは、誰もが知っている『竹取物語』そのまんまなのに、ちゃんと映画になっていること。映画的ドラマになっていること。
映画オリジナル要素として捨丸というキャラクターが登場するけど、原作との違いといえばそれだけ。原作に描かれていなかった感情が付け加えられ、『竹取物語』ってこんな悲しい話だったのか、というような驚きがある。映画で付け加えられた感情が蛇足という気がしない。あの映画を見ると、「竹取物語は本来こうあるべきだった」と思うしかない内容になっている。作品として素晴らしいけど、学術的な視点でも凄い成果というしかない。『新説・竹取物語』と呼ぶべき作品じゃないかな。

■ かぐや姫のモデル

『竹取物語』のかぐや姫のモデルとしては、『古事記』に垂仁天皇の妃として記載される、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が指摘されている(「筒木」は筒状の木と解すれば竹、また「星」の古語「つづ」との関わりもあるか。また、同音の「綴喜」には月読命を祀る樺井月神社と月読神社を祀る式内社が鎮座する)。大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、竹取の翁の名「讃岐造」(さぬきのみやつこ)を連想させるが、現存する原文には「さかきのみやつこ」か「さるきのみやつこ」であり「さるき」では意味が分からないので「さぬき」と変えて「讃岐神社」が奈良県広陵町にあったから述べているにすぎない。本来の「讃岐垂根王」の「讃岐」は、四国地方のことであり畿内になく遠い存在と言えよう。『古事記』によるとこの兄弟は開化天皇が丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘「竹野比売」(たかのひめ)を召して生まれた比古由牟須美王(ひこゆむすみのみこ)を父としており、「竹」との関連が深い。『日本書紀』では開化天皇妃の「丹波竹野媛」の他、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された5人の姫のうち「竹野媛」だけが国に帰されたという記述がある。

他に賀茂建角身命の子孫で馬岐耳乃命又は伊志麻命の娘・賀具夜媛命や、赫夜姫という漢字が「とよひめ」と読めることから豊受大神との関係について論じられることもある。
イラン史研究者の孫崎紀子は、百済の善光王や、675年正月に天武天皇に拝謁して以後、行方のわからないトカラ人(サーサーン朝ペルシア人)の舎衞女とダラ女とする説を出している。
ブログを書く前にWikipediaを読んでみたけどなかなか面白かった。かぐや姫が『日本書紀』に出てくる迦具夜比売命がモデルにされていること(ということは、やっぱり神様だったわけだ)、求婚する貴族たちがいずれも実在人物で、そこから描かれた時代を大雑把に特定できることなど……。
映画を見てから読むと、なるほどと思うところがたくさんある。映画のパンフレットに『竹取物語』と『天女の羽衣』に繋がりが……と書いているのを見て、なぜ? と思ったけどWikipediaでもその部分に言及されていて参考になった。

でも『かぐや姫の物語』は酔狂な映画だな……と思った。
この映画のために50億円が投資され、現在のジブリとは別に新しい会社が新設され、人材が集められ、コンピューターを買って、新しい制作システムが研究されたけど、これを次に持ち越そうという考えはどうやらないらしい。
普通の考えだと、「このシステムを使ってあと2、3本作ろう」とか「このシステムの廉価版でテレビシリーズを作ろう」とか「せっかく優秀な人材が集まったのだから」とか色々考えるのだろうと思う。そうやってトータルで投資したお金を取り戻そうとするんだと思う。それが普通のビジネスだ。
しかしどうやらこの映画の制作スタッフはこの映画限りで解散らしい。スタッフは本来のエヴァの制作に戻っちゃうようだし(絵コンテは『魔法少女まどか☆マギカ』の笹木信作がクレジットされていた)
新しく作った作業場はさすがに残るだろうと思うけど、この後どうするんだろう? 今回の興業で、もしも50億円回収できなかったらどうするつもりだろう? ショービジネスは1本でも失敗すると、後々大きな禍根を残すことになるけど……。

声優はプロではないタレント俳優が起用されていたけど、みんな上手かった。宮崎駿作品は単に下手なだけだけど、高畑勲監督はちゃんと演技させている。そういうところで宮崎駿と高畑勲との差が出るのだろう。
声優の弱点が何かといえば、上手すぎること。キャラクターに合わせて即座に演技ができてしまう。そのように訓練されているのだから当然だ。しかし訓練されすぎているからこそ、その声や演技を嫌うという人もいる。訓練されすぎているから、声優特有の癖や節回しがついてしまう。自分の世界観を打ち出すためには、それを避けたいというわけだ。
宮崎駿はキャラクターから手練の声を抜いて、素朴さを出そうとする。これでそれなりに見えるのは宮崎駿の絵があるから。他の作家の絵で庵野秀明が声を当てたら大惨事必至だろう。訓練されたイメージをとことん抜いて素朴さを強調する。それでいて成立するのは宮崎駿の才能が背景にあるから。宮崎駿にとって、演技力は邪魔なのだ。
一方高畑勲のアプローチは違う。演技経験のない素人でもがっちり演じさせようとする。『おもいでぽろぽろ』でも『火垂るの墓』でも、演技は際立って上手いわけではないけど、どれも自然な感覚が出ている。動きと合っているような気がする。もしかしたら演技に合わせて絵を作っているからかも知れないけど、これも高畑マジック。

でもこの映画の絵が気に入らない……という意見も多いようだ。映画を見た後、ネットでこの映画の批評をいくつか見た。そう言われると、確かにちょっと取っつきにくい部分があるかも知れない。
なにせ、この映画には余白が多い。普通の観客は画面に描かれているディテールの量で、カットに描かれている厚みを知ろうとする。しかし『かぐや姫の物語』は描き込むべき部分をあえて抜いている。真っ白にしている。
そうやって作った構図は、誰が見ても明らかなものになっている。構図が何を物語っているのか、何を伝えようとしているのか、見れば明らかだ。時に、素人のような描き方もしている。
しかしそれが逆に、「手応えがない」と感じる人もいる。
私も実は最初「うーん?」という感じだった。でも、しばらくして「描かれていない世界」が見えるようになって、「この映画凄いぞ」と思うようになった。描かれていない部分に込められているディテールを読み取りながら見るんだ、と思った。
でもそういった機会がないと、映画の世界に入り込みにくいのかも知れない。画面を見れば誰が見ても明らかな絵なのに、むしろ判じにくい絵になっている……というのは何か不思議な感じもする。

その一方で、この映画の線を引くのは大変だっただろうな……。この映画は、感情の動きと線の揺らぎがリンクするように描かれている。感情が動くと線も揺れる。この微妙なブレを描き分けるのは大変だっただろう。高畑勲監督のことだから「線が違う!」で何度もリテイク出したんじゃないだろうか。

音楽はよかった。久石譲のメロディが何かを語りかけるような声のように聞こえてくる。映画全編を通して同じメロディの繰り返しだけど、これがよかった。見終わった後も印象深く耳に残る。
音響面もシンプルだった。必要最低限の音しか使われていない。宮殿の床を走る音と、鳥の音だけ、とか。普通の映画だと周辺を包むありとあらゆる雑音が作られるのだけど、そういうノイズは一切無し。作り手が聞かせたい音が常にクリアに聞こえてくる……という感じ。このシンプルな構成が実にいい感じだった。
ところで挿入歌は高畑勲自身で作曲された。公式サイトを見ると、なんと初音ミクで作られたとか(→かぐや姫の物語公式サイト:プロダクションノート)ぜひ初音ミクバージョンも聞いてみたいけど……。サウンドトラックには初回特典で何か入っているようだけど、もしかして……(買っていないのでわかりません)

かぐや姫の物語 女童女童が可愛かった(→)。まさか高畑勲監督作品で萌キャラが出てくるとは意外だった。このキャラで癒やされる。これから見るという人は、このキャラクターに注目してほしい。
でも画像を探そうと思ったけど、グーグルで検索しても出てこない。予告編にすら出てこない。女童は隠しキャラだったのか……。
右画像はパンフレットからスキャンしたけど、元画像が小さかったために綺麗に画像が作れなかった。

映画館へ行って気になったのは『夢と狂気の王国』もやっていたこと。やっぱり、あちらも見たほうがよかったかな……。
それから、2日予定をずらせば1000円デーだったこと。当日券が1000円だった。知っていたら1000円の時に行っていたのに……。





『有頂天家族』の感想

ここで『平成狸合戦ぽんぽこ』の原画。アニメーターは近藤喜文。
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逆立った毛並みが、いつの間にか甲冑に替わっている不思議。昔、何度もコマ送りで見た。上の原画も素晴らしいが、やはりリアルな狸が漫画ふうの狸に変わる瞬間。あれが不思議だった。
もちろん、CGなんぞ一切使用されていない。この魔法は、何もかも鉛筆で描かれた。
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重ねてGIFにしてみた。動画が入ってないとややガタついて見えるけど。
似たような見せ方ですぐに思い当たるのは『ターミネーター2』で使われたモーフィング。『ターミネーター2』の発想は、モーフィングの途中に現れる、ぐにゃっとした奇妙な状態をキャラクターとして自立させてしまったこと。そのアイデアも恐れ入るけど、やはり手書きの『平成狸合戦ぽんぽこ』にも趣を感じる。


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こちらは冒頭の合戦シーン。Aセルだけでもこの人数……。もちろん、この上にBセルCセルと重なり、どんどん狸が増えていく。絵を見ただけでも「うわぁ」となる。
今は群衆をデジタルで描かれる場合が多いが、ジブリは頑なに手書きにこだわっている。宮崎駿引退後も、手書きを貫いて欲しいものだ。

狸とは無関係だけど、近藤喜文原画を紹介したついでに『火垂るの墓』も。
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この表情の動き……1コマ1コマが「本当に生きている」ような気がしてしまう。あまりにも生々しいのでぞっとしてしまう。アニメは年齢を描くのを苦手としている、表情は形式的になりやすい、という弱点を孕むが、描き方や画力でここまで表現できてしまう。
近藤喜文……本当に惜しい人を亡くしたものだ。

『平成狸合戦ぽんぽこ』はリアルな背景を持った作品だけど、主人公の狸は2本足で立って喋るというありえない行動をしてしまう。明らかに質感の違うデザインを、メタモルフォーゼで繋ぎ、実写的な背景の中に漫画的なキャラクターを堂々と置いてしまうだけではなく、リアルな背景の中に、漫画的な柔らかさを混ぜ込む……。
これを全て理屈で計算尽くで描いてしまうのだから、高畑勲という人は凄い。


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場所はスタジオジブリから2分ほど。ここに、宮崎駿の仕事場、二馬力がある。この場所で、宮崎駿は新作の準備を進める。
左手の机には色んな音楽のCDが置かれている。
写真の良さもあるのだが、こんな格好いいアニメーターは世界中探してもそうそういないだろう。

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宮崎駿の机。正面に水彩絵の具用の筆とバケツが置かれている。ヘビースモーカーなのであちこちにライターが置かれている。鉛筆が散乱して、あまり綺麗な机とは言いがたい。机そのものは高級そうだが。

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書棚には、色んな専門書がぎっしり置かれている。飛行機や戦闘機関連の本が多い。「この手の本は手に入りにくいので、見つけると買ってしまうんです」。
また2013年に公開されることになっている、堀辰雄の『風立ちぬ』も書棚にあった。この本について「何度読んでも理解できない」とコメントしている。
この雑誌が発売したのは、『借りぐらしのアリエッティ』が劇場公開された直後。映画『風立ちぬ』の制作に入っていたはずだ。

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二馬力にはなぜか薪割り場がある。そこで高畑勲と写真撮影する宮崎駿。この2人が同居する写真は珍しい。
それにしても、なぜ斧を持って撮影したのだろう?

『BRUTUS』2010年8月号 撮影:篠山紀信


姉妹ブログ「モノクロのアニメ」に書いた『風立ちぬ』の感想の続き。


以下ネタバレ注意

カプローニが現れる夢の世界と、奈緖子と再開する軽井沢は、方や夢、方や現実という差はあるものの、おそらくは同じ空間であろうと推測される。これは『モノクロのアニメ』に書いた通りである。軽井沢は、堀越二郎が見ている夢の延長であろう。
奈緖子は、もともとは堀越二郎が見ている「美しい夢」の住人であった。しかしそこから出てしまう。出てしまった途端、あの快活な奈緖子は、重い病気で倒れてしまう。
一方、堀越二郎は夢の中で理想の「美しい飛行機」の姿を作り上げる。こちらも夢の世界から現実に引っ張り出す過程で、理想やら美は剥ぎ落ちてしまい、最後には同じように失われてしまう。

美しい夢から取りだしたものは、みんな朽ちてしまう。奈緖子も零戦も、堀越二郎はどちらも失ってしまった。
夢と現実の境界に漂うジレンマ……。ある意味、映画監督の葛藤とも読み取れなくともない。
映画を作る前は「こんなのあったらいいな」と希望を頭の中に思い描く。そうやって妄想している時が一番映画が活き活きしていて楽しい。映画監督がなぜその映画を作るのか?と問われると、自分が一番見たかったから、というしかない。
しかし実際の制作が始まってみると、映画監督は映画制作という過酷な仕事を早く終わらせたい、ということしか考えなくなる。制作が終わってみると、あれだけ楽しみにしていた「美しい映画」に対して、まったくの興味を失ってしまっている。それどころか、妄想の中ではあれだけ輝いていた「美しい映画」は、現実の毒々しさを大きく抱えて、さらに技術的な問題で理想の半分も達成できていないと思い知らされ、作家は「現実世界に現れた夢の具象」を見て愕然とするのである。この瞬間、夢は汚されて、作家の体内で長く暖められていた理想は失望という形に変えられて失われるのである。
理想も、空気に触れると酸化するのだ。しかももの凄い速度で。

堀越二郎という若者は、半分くらい夢の中で漂っている。いつまでも美しい理想世界から抜け出せず、ゆえにいつまでも純朴な少年のような感覚から抜け出せない。なぜなら彼は現実に打ちのめされたことがない……挫折したことがないからだ。
そんなだから、現実の貧しさや、多くの人が抱いている貧しい心情を理解できない。子供にシベリアを振る舞おうとするところにも、そういう性格が出てきたのではないか。

そういった理想家・夢想家の生き方は、宮崎駿自身の考え方を示しているが、一方で、宮崎駿自身による自己批判が描かれているようにも思える。子供にシベリアを振る舞おうなどというのは偽善だ、と。
宮崎駿は理想家である。しかし宮崎駿が抱く理想は、あまりにも突き抜けて現実感がない。宮崎駿はその葛藤を常に感じていて、どこかで打ちのめされていて、そのジレンマそのものを作品に投影したのではないだろうか。

『風立ちぬ』は、実在人物を捉えた映画、という以上に宮崎駿個人の心象世界が濃厚に反映されている。
堀越二郎が本庄と一緒に仕事がしたい、と申し出た時、上司から「友情を失うぞ」と忠告される。これは実際に宮崎駿が映画作りの過程で友人を失ってきたことをそのまま描いている。実体験をそのまま反映させて、自身の分身たる堀越二郎に忠告しているのだ。

映画は理想そのものだ。理想の具体化だ。しかし理想を現実に引っ張り出してみると、それは自身から失われてしまう。そういった「作るたびに失われていく理想への追悼」を描いた作品だったかも知れない。
すると宮崎駿がこの映画に涙を浮かべたのは、夢を叶えようとして夢を失い、作るたびに挫折してきた自分自身がそこに描かれていたから……あのラストシーン、奈緖子が別れの言葉を告げるのあの場面は、自分が作り続けてきた理想が宮崎駿に慰めの言葉を残していったのだ。「好きな女の子が別れて悲しい」という『タイタニック』的な泣かせシーンではなく、夢想家の挫折を描き、描いた人間の心理を突き刺したのだ。

そうだ、『風立ちぬ』はラブストーリーではなかった。ラブストーリーと言われることへの違和感はおそらくここだろう。『風立ちぬ』は徹頭徹尾、作家の挫折を描いた作品だったのだ。作家の経験がない人間には、何一つ伝わらない、宮崎駿個人の映画だったのだ。

奈緖子というキャラクターは、ナウシカでありシータでありキキであり、宮崎駿の映画に登場し続けたヒロインたちの成長した姿であり、そうした宮崎駿の創造物である少女達が、宮崎駿に慰めの言葉を贈りに来たのだ。
それを描いたのはもちろん宮崎駿本人だったわけだけど、そうした自覚を越えて、自身が描いたものに慰められたという事実が宮崎駿の心理を突いたのだろう。その瞬間、宮崎駿の数十年に及ぶ夢想と創作という葛藤は、報われたのだ。怨念だと思っていた自身の創作物が“成仏”して、空に昇っていったのだ。

作家が芸術を作ることは、夢を消費することである。
夢の実現は、最後には絶望で終わる。


天空の城ラピュタ パズーいま読んでいる本に、『天空の城ラピュタ』のパズーとムスカの同一性について書かれているのを見て、ハッと気付く。パズーとムスカはともに同じ場所を目的地としていて、同じ女の子を口説こうとしているのだ。パズーとムスカは、ある地点で同じ傾向を持った人物であると言える。

一方、シータにも同一性を持つキャラクターが登場する。
言うまでもなくドーラだ。
天空の城ラピュタ ドーラの若い頃ドーラの若い頃はシータにそっくりだし、物語の後半にかけて、シータはドーラの衣装を着て、次第にドーラに近づいていく。
ドーラになっていくとことは、シータにとっての成長というわけだ。

ここでちょっと想像。
ムスカはパズーくらいの少年の頃、好きな女の子がいたのかもしれない。しかし大人が横から入ってきて、何枚かの金貨を渡されて「身を引きなさい」と言われてしまった……。ムスカはその時、好きな女の子を諦めたのだ。
天空の城ラピュタ ムスカ……なんて過去があったのかもしれない。そこでムスカは、パズーになれずムスカになったのだ……という想像をしてみる。
あれから十数年、ムスカは今度こそ得たいものを確実に得ようと、ラピュタの宝に手を出す。しかしこの野望も失敗。それも、自分の少年時代の生き写しのような少年に挫折させられるのである。
そう考えると、可哀相な男に見えてきた……。

パズーはシータを得ることで完全性を得た。
しかしムスカはシータを得損ねて完全性を得られなかった。いや、英雄になり損ねたのだ。

ムスカのある種の幼児性は、得るべきものを得られず、完全性に到達できなかったことにある。成長過程に何かしらの過ちを抱えて、大人になれなかったのだ。

英雄物語には、大雑把に2つの形がある。
桃太郎のように宝を得て、「めでたしめでたし」で終わるタイプと、アーサー王のように運命に打ちのめされて死んでしまうタイプだ。
このように分かれる切っ掛けは、英雄が冒険の最中で、反道徳的な過ちを犯してしまうことにある。オイディプス王は知らぬとはいえ父親を殺してしまったことが決定的だった。
パズーとムスカは、どこかの地点までは同一の傾向を持った同じ少年であった、とする。同じ目標を持つ、血気盛んな冒険家であった。
ところが、パズーとムスカは、その成長段階でくっきりと分かれてしまった。この2人を分けてしまったものを英雄物語のパターンに当てはめて考えると、ラピュタは「めでたしめでたし」で終わる英雄物語と、悲劇で終わる英雄物語の両方が込められていたことになる。


仕事の流儀 宮崎駿ドキュメンタリー 巾着の持ち方 (1)
NHKの『プロフェッショナル仕事の流儀』の「宮崎駿特集」の一場面。
アニメーターが描いた絵を見て、宮崎駿が激怒している。お婆ちゃんが持っている風呂敷の持ち方が違う、という。
「風呂敷はこんな持ち方しないんだ!」と怒り狂って直している。
仕事の流儀 宮崎駿ドキュメンタリー 巾着の持ち方 (2)
しかしこの場面、関東大震災の場面。大混乱が起きて、モブがワーっと動いている瞬間。このお婆ちゃんの絵は、数コマしか映らないか、そもそも描かれていることすら誰も気付かずに通り過ぎてしまうと思う。
そんなほんの数コマしか映らない絵に対して、宮崎駿は本気で怒っている。本気で怒って直している。つまり、それくらいの全勢力を、全てのコマに注いでいる、というわけだ。
なにもそこまで……と思うが、それくらいの集中力を全てのコマに隅々まで注いでいるからあの画面ができるのかと思うと、納得するし、感動もする。


そういえば黒澤明監督の『七人の侍』で、仲代達矢はほんの数秒のシーンで「歩き方がおかしい」と一日中同じ場面をやらされたとか。
その場面、仲代達矢が画面に映るのはほんの数秒。3秒あるかないか。カメラの手前を横切るだけの役である。そんなところ、手を抜いたって誰も見ないし気付かない。そんな一瞬であるにも関わらず、黒澤明は仲代達矢に対して怒り狂い、できるまで繰り返したとか。それくらいのこだわりがあるから、やはりあれだけの傑作ができるのだと納得する。
天才のこだわり、どこかに通ずるものがある。

それにしても、仲代達矢はよく挫折しなかった……。歩く場面だけを一日中やらされたら、死ぬほど落ち込みそうだけど。でもその時の縁で『用心棒』に抜擢されたというから、人生何が転機になるかわからない。(黒澤明は、ずっと仲代達矢のことを憶えていたそうだ)


さて、ここでもう一つ、
仕事の流儀 宮崎駿ドキュメンタリー 巾着の持ち方 (3)
押井守監督の『イノセンス』
クライマックスシーンの一場面。この場面を見て、
鈴木敏夫「ここだけキャラクターが違うじゃん」と指摘。
しかし、押井守は「いいんだよ、これくらい」
仕事の流儀 宮崎駿ドキュメンタリー 巾着の持ち方 (4)
しかしこの場面。トグサの娘が駆け出すこの場面。この場面を見て、押井守は激怒する。
「ジブリ走りしてる!」(※ジブリのアニメーターが担当している)
沸点、そこなんだ……。


姉妹ブログ、『モノクロのアニメ』に映画『風立ちぬ』の感想を書きました→モノクロのアニメ:風立ちぬ


……ふぅ、やっと『風立ちぬ』の記事を書き終えられた。一日がかり。たかがあれだけの内容で(笑)。
なんでいつもこんなに時間かけちゃうんだろう……。
次は『SHORTPEACE』の記事を書くぞ。


それはそれとして、ちょっと思い出した話。
金子修助監督の『ガメラ2』で、昼の番組「ザ・ワイド」が出てくる場面がある。「ザ・ワイド」のシーンの出演者はおなじみ草野仁を始めとするいつもの方々。草野仁の演技は実にナチュラルで……いや、演技とはいわず、いつもの感覚で司会進行を務めていた。その他の出演者も同じく。
そんな中に、俳優が混じって出現した怪獣の話を始めるのである。これが、極めて不自然だった。いかにも演技してますよ、というオーラを出していて、いつもの調子で司会進行を務めている草野仁その他の人達から明らかに浮いてしまっていた。
もちろん、俳優として正しいことをしている。ちゃんと演技している。しかし周囲が演技していない中で、たった一人演技している人が混じっていると、不自然極まりない映像になってしまうのだ。

この時、私は演技というものが不自然なもの、ということを知った。

北野武の話だけど……これは『ソナチネ』の裏話だったかな。俳優に「君は殺し屋だから」といって演技をさせると、100メートル向こうから「殺し屋」という顔をして歩いてくる。
北野武はこれはいかんと思い、「ごめん、役を変えるね。君は釣り人だから」と釣り竿を持たせて同じ場所を歩かせた。
で、次のカットに入ったところで拳銃を持たせて「実は君は殺し屋だったんだよ」と指示を出す。
俳優は困惑気味である。
変な演技指導だけど、これが映像になったとき、意外なリアリティが出てくる。始めから「殺し屋ですよ」という顔をして出てきたら、あざとさが目立ってしまっただろう。

演技というものは……いや映画というものは実は不自然なものである。
宮崎駿が声優に素人を起用するのは、そういうものに対する自覚によるものだろうか……と『風立ちぬ』を見ていて唐突に思った。というのも、庵野秀明の演技はそう悪くなかったな、と。はっきり言えば下手糞だし、いや下手糞すぎるのだけど、その映画に込められた素朴の味わいをうまく代弁していたかも、と思ったので。『風立ちぬ』という映画に限って庵野秀明という声は、ありだったかな……と。

もっとも、アニメは全てが作り物の不自然そのものだから、本当はプロを起用したほうがいい、と私個人的には思うのだけど。

今日は『風立ちぬ』と『SHORTPEACE』と2本続けて見てきた。表現のやり方として、対極の位置にあるアニメだった。
でも今日は疲れているから、詳しい感想文は明日以降書くよ~。

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『風立ちぬ』は人が少ない朝だったからか、スクリーンの真っ正面の前の方の席を案内してくれた。ありがたい。
でもスクリーンが汚れているのがずっと気になって……。結構目立つ汚れだから、営業前に気付いて拭いて欲しかった。

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『SHORTPEACE』は、戦車を倒した直後、私の手前に座っていたお兄ちゃんが鮮やかにガッツポーズ決めた姿が印象的だった。
あと冷房効き過ぎで、えらい寒い映画館だった。
ちなみに『SHORTPEACE』、(以下ネタバレのため反転文字)幼女のパンチラで始まり、おっさんのフルチンで終わる映画です。
詳しい感想は後々書くよ。


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