2006年12月13日

カルテルとM&A

「液晶パネルで国際的なカルテルか?」
との記事が新聞にあった。何でもグローバリゼーションの時代。カルテルもなんともまあ大規模なものである。
「カルテルにより消費者は不利益を被った」
のだとか。
この記事を読んで僕は複雑な気分になった。というのは、つい数日前の記事では違う業界の話だが、
「生き残りをかけ各社とも国際的なM&Aを模索」
とあったからだ。

カルテルもM&Aも企業の生き残りの手段である点は変わらない。過当競争を避けるため、とは則ち、消費者から見れば、値上げのため、と同義である。
だが一つは処罰の対象となり、一つは推奨の的となる。
不思議なものだ。

液晶パネルの件ではカルテルを結んだのが日韓台の企業で不利益を被ったのが米の企業。
一方、一般的にM&Aが得意なのは米の企業で不得意なのは日本の企業。
…なんて眺めるとグローバリゼーションとはやはりこういうことなのね、と妙に納得してしまう。
要はルールを作った者が強い、以上。


2006年08月25日

ゾウのペンダント

8月も20日を過ぎて,盆休みで帰省していた人たちも研究室に戻ってきた.
部屋が賑わいを取り戻すとともに,
テーブルの上には全国各地のお土産がどっさり.
もう三時のおやつには困らない.
ただそれも束の間のこと.
食欲旺盛な我が研究室では2・3日もすれば,
またおやつに飢える日々がやってくるであろう.

ああ,儚し.お土産たちぞ,夢の跡.

思えば昔から,お土産とは何とも切ないものだったように感じる.
たとえば小学生時代.
あの頃は今としては不思議なことだが,
「お土産=キーホルダー」と僕らは頭の中で決め込んでいた.
夏休みが終ると,友達同士で夏の旅行のお土産のキーホルダーを交換しあった.
別にそれだけキーホルダーに需要があったというわけではない.
そもそも小学生だし,鍵なんて大して持ってない.
みんな,もらったキーホルダーを引き出しの中にコレクションするのであった.
金閣寺のホログラムキーホルダーは綺麗だったなぁ.
あとは,別にご当地とは全く関係ないような「パズル付きキーホルダー」や
小学生の心をくすぐりそうな「ミニ日本刀キーホルダー」
みたいなものも持っていたように思う.
今,あのキーホルダーたちはどこに行ってしまったのだろうか?
もう,めっきり顔を合わせていない.

やはり,やっぱり,そうとはいえ,結局のところ,
お土産はお土産に過ぎないということだろうか.
所詮,他人の思い出.
もらった人としては,
そのお土産が自分の人生を揺るがした出来事の証とはなりえない.

大人になるにつれ,
「お土産は引き出しに収まるものよりは,胃袋に収まるものを」
と考えるようになったのもそんな因果なのかもしれない.

でも,例外はあるようだ.
それが「ゾウのペンダント」だ.

大学2年の秋,インドを3週間まわったとき,
僕はずっと「ゾウのペンダント」を首からぶら下げて歩いていた.
いい香りのする木で作られていて,
南国チックで素朴なゾウがとても可愛らしいかった.
高級木の白檀製だとお店の人は言っていたが,
まあたぶん偽物であろう.よ! インド的.
でもそんなことは関係ない.木の温もりが僕は気に入っていたのだ.
だが,そのゾウは今,僕の手元にはない.
泣く泣く友人にお土産として,プレゼントしてしまったのだ…….
大切な旅の思い出であることを伝えると,
「絶対に大切にするから」とは言ってくれたものの,
惜しいことをしたという気持ちを引きずっていた.

彼にとっては,所詮,旅行のおみやげでしょ,
恋人からのクリスマスプレゼントでもあるまいし……
,と思っていた.

そして,つい先日,そんな彼と話していて,びっくりした.
「この間,おれ,タイに旅行に行ったじゃん」
「うんうん」
「そのとき,ずっとあのゾウのペンダントを着けていたんだよね〜」
「へぇー」
何というかすごく嬉しかったね.
本当に大切にしてくれているんだ,って.


たかがお土産,されどお土産.
インドのゾウが今度はタイに行くだなんて,
いったいどうして誰が想像できたであろうか.

映画『タイタニック』のエピローグで,
老婆となったヒロインは80年前の恋人の“お土産=形見”である
蒼いダイアのペンダントを彼が眠る海にそっと返す.

木製のゾウは海の底には沈まない.
プカプカ,プカプカ,世界を漂え!



僕はまだピンピン生きているわけだし,
“形見”にされたんじゃたまらない(笑)
でも,いいお土産とはそういうものなのかもしれない.
“生き形見”とでも言うのかね.

※※
これを読んで,ゾウを本当に海に投げ捨てたりしないでね(笑)

zou

2006年08月20日

超☆禁煙法

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たばこは美容の敵 若い女性に国が禁煙キャンペーン
(朝日新聞 2006年08月19日12時39分)

 「たばこは美容の敵」を合言葉に、厚生労働省が来年度から、20〜30歳代の女性をターゲットにした新たな禁煙キャンペーンに乗り出す。全体の喫煙率が下がる傾向にあるのに、若い女性は一向に減らないためで、美容院や化粧品業界も巻き込んで禁煙指導を展開する。成人式でたばこをやめさせる「20歳の禁煙宣言(仮称)」など未成年者向け対策にも力を入れる。
 来年度予算の概算要求に関連費を盛り込む。
 04年の厚労省の調査によると、成人全体の喫煙率は26.4%(男性43.3%、女性12.0%)。男性は前年より3.5ポイント下がるなど下がる傾向が続いているのに対し、女性は0.7ポイント上昇した。中でも20〜30歳代の女性は2割近く、対策の必要性が指摘されていた。
 そこで厚労省はこの世代の関心が高い美容に着目。女性向けの「禁煙指導書」を新たに作り、美容院やエステサロンなどに配る。雑誌と同じ場所など目に触れやすいところに置いてもらう。
 喫煙が美容に与える影響については、化粧品会社の調査で、たばこを吸わない人より吸う人の方が、シミやくすみの原因となる色素「メラニン」が約5歳分早く増えることが報告されている。また、歯が黄色っぽくなったり歯茎が黒ずんだりするといわれる。
(後略)
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(太字は筆者)

現代社会にはびこる深刻な諸問題を考えれば、タバコ問題は「お気軽な課題」ではあろう。
ただ、お気軽であるが故にその解決策に工夫の余地が大きいという点で興味深く感じられる問題である。
「喫煙は美容の敵」というキャンペーンもそんな工夫した策の一つだ。
そこで、僕も考えてみた。
自分ならどんな喫煙キャンペーンを展開するか?

さて、
喫煙する女性の多くが喫煙そのものを楽しむというより、
ファッションの一環として喫煙するということはしばしば指摘されている。
タバコ会社の広告や、映画の中でタバコを吸う女性は「自立した女性」として描かれることが多いように思う。
そんな姿にあこがれて喫煙を始めたりするのであろう。
たとえば失恋を契機に喫煙を始めるのも、
失恋=男からの自立というような意思が感じられる。

こう考えると、
近年の女性の喫煙率の上昇は彼女たちの「自立志向」が強くなっていることを示しているのだろうか?
確かにそうかもしれない。
だが、それだけではない。
自立のイコンとしてのタバコのイメージが強化されている点も大きいであろう。

対策として,自立志向を抑えることはそもそも本末転倒である。
それゆえ、たばこ対策としては、
自立のイコンとしてのイメージを破壊することが重要である。
つまり、「タバコ=かっこ悪い」というイメージを社会に広めることが大事だと思うのだ。
そこで、僕はこんなポスターを作ってみた。
街中にこのポスターが貼られたら、きっと喫煙する女性は激減するぞ!

jaiko2







どうだろう。
これで「タバコを吸う女性」を見て、
みんなが「ジャイ子」を連想するようになるはずだ。

そしたら誰も自分と「ジャイ子」を重ねてほしくはないから、
タバコも止めるようになるだろう。

喫煙者的にはこういう禁煙キャンペーンってどう思う?

2006年08月19日

差と比。43%減の幸せ。

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お盆休み10日間の交通事故死者、
過去最少の175人(産経新聞 08/18 12:54)

(前略)8-17日の10日間の交通事故死者数は前年同期比0.6%減の175人で、
日付別の統計が残っている昭和45年以降で最も少なかったことが
18日、警察庁のまとめで分かった。(後略)
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これを読んで、むむっと思った。
0.6%減の175人って、何人だろう?、と。
175÷0.994=176.0563....≒176人、
だから0.6%は176-175=1人。
えっと、つまり去年より1人減ったってことだね。
うわっ、わかりにくいー。
「前年同期1人減」と書いた方がずっとわかりやすいよ、産経さん。
(日経新聞にも同じ記事が同じように「比」で書かれていた)

二つのものを比較するとき、
「差」で表現するのか、「比」で表現するのか、
ケースバイケースと言ったところなのだろうか。
僕らはそれを無意識で使い分けている。

例えば、ふだん「差」で表現しているものを無理やり「比」にするとこんな感じになる。

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村田雄浩 43%年下女優と結婚
(スポニチ 2006年08月03日)

俳優の村田雄浩(46)が43%年下の女優・中江里香と10月に結婚することが2日明らかになった。4年前にドラマの現場で出会い、一昨年暮れから交際をスタートさせて愛をはぐくんできた。2人は現在、偶然、TBSの人気ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」に出演中で、脚本の橋田寿賀子さん(81)や泉ピン子(58)ら“渡鬼”ファミリーも祝福している。
(中略)
「素直で人の話をきちんと聞く人。43%減という年の比も気にならない。もちろんジェネレーションギャップはないわけではありませんが、自分にとっても刺激を与えてくれる存在」とのろける。
(後略)
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村田さん、ごめんね。悪意はないんだ(>_<)
ちなみに46歳×0.43=20歳である。

2006年08月17日

一生労働省

「まず隗(かい)より始めよ」
主義主張を叫ぶならばまずは自らが実践して手本を示すべきである,
といういうな意味の言葉である.
環境省はこの言葉をスローガンに役所の冷房を28度にしたり,
買い物袋を持ち歩いてレジ袋削減に努めたりしている.
確かにもっともなことだ.
自らが実践できないことを叫ばれても全く説得力に欠けている.

そんな中,驚いたのがこの記事.

5%が過労死の危険感じる 霞が関の国家公務員 (産経新聞 08/03 01:54)
 東京・霞が関の中央官庁に勤める国家公務員の5%が「過労死の危険性を感じている」としていることが「霞が関国家公務員労働組合共闘会議」のアンケートで2日分かった。過去に感じたことがあるのは30%に上る。1カ月の平均残業時間は39時間で、過労死の危険ラインとされる80時間以上も9%いた。
 調査は今年3月、組合員を対象に行い、霞が関で働く国家公務員(管理職を除く)の1割に当たる約4600人が回答した。
 過去1年間の平均残業時間を省庁別にみると、厚生労働省の厚生部門が最多で92時間。次いで同省の労働部門が79時間、経済産業省が51時間だった。
 平日に家族と夕食を一緒に食べることが「全くない」のは22%だった。
 残業になる理由を複数回答で聞くと「業務量が多いため」が62%で最多。次いで「国会待機のため」が24%だった。
 健康状態については23%が「不調」とし、「薬などを服用している」11%、「通院治療中」7%を合わせると、5人に2人が不健康な状態にあった。
 過労死の危険性を「現在感じている」のは、いずれの年代も4〜5%。「過去に感じた」のが最も多かったのは40代で37%だった。


労働時間の短縮を叫んでいる厚労省が一番,労働時間が長いなんて……(笑)
まさに医者の不養生とでも言うんだろうか.
「まず隗(かい)より始めよ」の正反対だ.
でもまあ,その分,彼らは長時間労働の弊害を切ないほど良く理解しているのだろうねぇ.


ぜひその思いを政策に生かしてね.

↓ちなみに厚労省の子供向けホームページ.
http://www.mhlw.go.jp/kids/a08.html
右上のイラストに職員の方々の“想い”がこめられているような気がしてならない…….



……というより,5人に2人が不健康ってまずいんじゃないの??



2006年08月16日

ブラック・アウト

ついにきたよ,停電!
世界一堅牢な電力設備をほこる日本でも起こるときは起こるもんだ.
そりゃまあ,クレーンが引っかかったのでは仕方があるまい.
この停電のニュースを見て,真っ先に頭に浮かんだのは昨年か一昨年のニューヨークの停電
大都市の停電という点でそっくりだろう.
また一箇所の故障に対する周囲の防御反応のために,
広範囲に停電が広がったというからくりもまたよく似ているように思う.
ただ,大きく異なる点がある.
東京の停電は2〜3時間で回復したが,
ニューヨークは停電の回復に29時間も要している!

驚くべき差だ.
僕は専門家ではないので定かには分からないが,
日本がこれだけ迅速に復旧させることができたのも,
「世界一堅牢な電力設備」のおかげなのではないだろうか.

さすが東電,だてに地域独占しているわけじゃない.
競争相手がいない分,儲けたお金でせっせと丈夫なお城を作ってきたってことか.
よっ,えらいぞ.
奇しくも停電によって,電力設備の堅牢さを実感したわけだ.

だけど,どうだろう?
平和ボケならぬ「通電ボケ」した我々国民はたった2〜3時間の停電でへばってしまう.
テレビニュースではデパ地下のアイスクリーム店を映し出し,
「冷凍庫が切れて,アイスが全部溶けてしまいました(>_<)」
なんてやっていたが,停電の被害がアイスくらいで済むのだからかわいいもんだ.
でもまあ我々国民にはほどよい避難訓練みたいなものだったのかもしれない.

というのは,電力自由化によって東電も丈夫なお城さえ作っていればいい時代はもう終ろうとしている.
丈夫であると同時に,安い電気を売ることが求められている.
しかし,安さと品質を同時に満たすことはなかなか難しい.
となると,安さを重視したがために品質低下,つまり停電頻発という事態も考えられるのだ.(※)
もちろん,そういう事態を防ぐ努力は最大限に続けられている.
しかし,我々に覚悟が必要なのもまた事実である.
今回の事態で分かったように,2〜3時間の「アイス停電」なんて大したことがないのである.
そんなもの落ち着いてやりすごせばいい.

我々国民にこんな覚悟がついてはじめて電力自由化は新たなステップに踏み出すのであろう.
(もちろん,そこに本当に踏み出すかどうかを決めるのは我々国民である.さて,どうなろうか??)

……とはいえ,停電騒ぎで世間が混乱しているときに,
布団の中でぬくぬくと電気のいらないエコライフを過ごしていた僕に,
こんなことを言う資格はあるのだろうか.……いやない.汗.ごめん.


(※)
東電が故意に品質を低下させることは考えられないが,結果的にそうなりうると考えられる.
たとえば現在では10箇所の変電所が100本の網目の送電線でつながれていたとしよう.

電力自由化ではコストを切り詰めるために,その100本の送電線を50本に削減するだろう.
それでも平常時は何の問題もないかもしれない.
しかし,いざ停電が起こったときに送電網に穴が増えたがために復旧が以前よりも遅くなる可能性は十分にある.
つまりそういうことだ.



2006年08月15日

8月15日に綴る。つらつらと。

8月15日に思う.
罪を憎んで人を憎まず,
とみんなが思えば東アジアはもっと平和になるだろうに,と.
左の人も,右の人も,中国の人も韓国の人もみんなにそう考えていただきたい.

とはいえ,日本の人はこの点に関してはなかなか努力しているのではないかと感じる.
中国や韓国に比べれば,罪を憎んで人を憎まず精神が広く国民に定着しているように思う.
(お人好しの国民性とも言われるが.)
これは戦後の教育による面が大きいだろう.

戦後の教育に関しては,自虐教育と批判されることも多いようだが,
罪を憎んで人を憎まず精神の啓発という点では大きな成果をあげたと僕は思っている.
教育は学校現場に限らない.
家族を通した教育も然りである.
特に我々の世代に関しては,祖父母を通した戦争観の醸成が強いように思う.

僕の場合,祖父母のメッセージは大きく二つあった.
(1) 戦時中はひどい時代だった.たくさんの苦労をした.
(2) そのつらい時代を耐え忍び,生き延びたからこそ,今のあなたがいる.
「空襲した米軍が憎い」とか「国民を戦争に導いた日本政府が憎い」なんていう話は聞かされなかった.
憎いの戦争そのものであって,人ではない.
まさに,罪を憎んで人を憎まず,である.

学校教育も同様である.
集団疎開や空襲,原爆の被害など,戦争のつらさ,悲惨さを十分に教え込まされた.
これも,罪を憎んで人を憎まず,だろう.

けっこうこんな戦争観を持つ人は多いのではないかと思うのだけど,
どうなんだろう??
(これぞ「平和ボケだよ!」と批判されるかもしれないが...)

さて,次に(2)のメッセージについて考えてみたい.
「生き延びたからこそ,今がある」
とても力強いメッセージである.
つらい時代を耐えた祖父母の想いが伝わってくる.
卑近な例で申し訳なく感じるが,
42.195キロを走りきったランナーのような気分なのではないだろうか.

ただ問題が一つある.
このメッセージは無意識のうちに「生き延びれなかった人の人生の否定」を喚起する.

たとえば儚くも散っていった特攻隊の人々のことを想像していただきたい.
彼らは戦争を生き延びることができなかった.
彼らは国のため,家族のために命を捧げた.
志の高い尊敬すべき戦士である.
しかし,今,彼らの行動を振り返ったときに,
それにどんな意味を見出すことができるであろうか?
もし,そこで生き延びていれば,,,と想起せずにはいられない.
幸せな家庭を築くことはもちろんだが,
社会(国)に対しても,勤労というまた違った形で貢献することができたはずだ.
そう思うとき,彼ら戦争で命を落とした人々の死をある種の犬死と感じてしまうのは罪なことなのであろうか?
犬死なんていう言葉を使うのはとても申しわけない.
だが,そう感じてしまうのである.
(ここでは例として特攻隊を取り上げたが,他の兵隊さんも一般市民も含めて,戦争の犠牲者の方々全般)

だから,僕(僕ら?)は罪悪感を持っている.
「生き延びるべし」という信念に揺らぎはない.
...が,ちょいと申し訳ない気もするわけだ.
どう償えばいいのだろうか.
…….
それに対する回答が「平和の誓い」なのではないかと僕は思う.
過去の戦争の犠牲者の方々に対し,
「もう二度とあなた方のようなつらい思いをする人を作りません」と彼らの霊を弔っているのではないだろうか.

そんな感じで僕(僕ら日本人?)は「平和」が大好きなんだろうなぁ.
もう「戦争」は大っ嫌い.
安倍官房長官も著書『美しい国へ』の中でこんなことを言っていた.
「日本人は過去の戦争のつらい思いから,私に対して『軍国主義』とか勘違いされる.そんなことは一言も言っていないのに…」
みたいなことを.
安倍さんも苦労してるんだなぁ,とか思いつつも,
それだけ国民の「戦争」への拒否感が強いのだろう.
安倍さんは「大事な家族や郷土を守るためなら,みなさんも戦いますよね?」
と当たり前のように言っていたが,
僕はそれに対して
「大事な家族や郷土を守れなくとも,戦争はしないほうがいいかもしれない」
と感じたりする.
それくらい戦争への拒否感は強い.
また太平洋戦争を思い起こすと,
「大事な家族や郷土を守るため」と称して戦ったものの,
逆に「大事な家族や郷土を失った」というのがあの戦争なのではないだろうか?
そう考えると,本当に戦うことで大事な家族や郷土を守ることができるのか,
と疑心暗鬼になるのである.

だから,
何が何でも,平和だ! 戦争は絶対にしない! という原則が日本人にすんなりと受け入れられているのかもしれない.


うーむ,
記事のはじめにも書いたが,
僕がこのように思うのも,「教育」によるのだろう.
みなさんは,僕がこう考えるに至った「教育」のどの点が○で,どの点で×だと思いますか?
また,つらつら書き綴った僕の思考のどの点が○で,どの点が×だと思いますか?

(「全部×」とかはやめてね(笑) 僕が目指すのは弁証法.異なる意見のいい所を寄り合せて,よりいい考えを見出しましょう〜)



2006年08月14日

夕日でつむぐ絆

ヒトには本能として美を感じるものがいくつかあるように思う.
たとえば鮮やかな花々.あるいは白亜の彫刻.

夕日,もそんなものの一つであろう.
晴れた日に,海に山に沈んでいく真っ赤な太陽は僕らの目をグッとひきつける.
ただ,夕日はただ美しいだけではない.
それ以上のものを胸の中にそっと吹き込む.

夕日を見ていると,
あのときあの人と見た夕日を思い出す.
そのときその人と見た夕日も思い出す.
たくさんの夕日の思い出が頭の中に溢れ出る.

時と空間を越えて,僕らはいつも同じ夕日を見る.
これまでも,そして,そしてこれからも.


asahikawa






↑04年,旭川にて.

egypt







↑05年,エジプト卒業旅行にて.

hakuho












↑05年,研究航海にて.

2006年08月13日

靖国劇場

「靖国神社」の名前があまねく国民に知れ渡ってから、もうどれだけの時間がたったであろうか。
今では海外のニュースでもyasukuniの名で配信される。
靖国神社の知名度アップは間違いなく小泉首相の“業績”の一つだ。
この5年間、まさに靖国劇場とでも言うべきハラハラ、ドキドキのドラマが展開された。
主役、小泉純一郎。宿敵、某国政府。……
神社というより、もはやオペラハウスだ。
そのオペラの最終章が15日に開演する。

が、、、観客として僕はもうこのオペラにはうんざりしている。
はじめの方は面白かったのだが、最近はもう散々だ。
間延びした連ドラのように同じ構図の繰り返される。
というか、要はもう飽きたのだ。

「参拝すべき」or「すべきでない」について、
両陣営ともそれなりに説得力のある議論を展開している。
次代の首相、安部官房長官も著書『美しい国へ』の中で靖国神社に対する見解を語っていた。
筋は通っているし、説得力もある。
しかし、それに対し僕は「だから何?」と思ってしまう。
反対陣営の論理に対しても同様だ。
こういう小難しい論理には飽き飽きしている。
もちろん、議論や外交戦略においてはこういった論理は重要である。
ただ、国民への対話ではもはや論理は不要であろう。
大切なのは分かりやすさだ。

その中で、さすが小泉首相、分かりやすい言葉を吐いてくれた。
「(参拝は)個人の自由だ」(安部長官の参拝に対するコメント)
おおっ、分かりやすい!
もうこれで、いいじゃないですか。
参拝は個人の自由。
行ってもいいし、行かなくてもいい。
行きたい人を無理に行かせないこともしないし、
行きたくない人を無理に行かせることもしない。

小泉首相は行きたいから行く。
次の首相の安部長官も行きたいなら行けばいい。
さらにその次の首相は行きたいなら行けばいいし、行きたくないなら行かなければいい。
政府の一貫性など不要である。
それぞれの首相次第。
むしろ一貫性を持たせないことが外交戦略としては秀逸であるような気もする(※)。

それで円満解決とはいかないものでしょうかねぇ?(ホントに真面目な話)

ちなみに僕自身はこれまで参拝したことはないし、
これからも参拝するつもりはない。
でも、これは個人の自由だと考えるから、
他人(小泉首相)に対し「参拝するな!」とかは思わない。

まぁ、そんなところだ。
……こう考えるから“オペラ”に感情移入できない。
うーむ、だから、つまらなくなってきのかも(笑)


(※)
実際のところ、一般国民の行動はまさに「個人の自由」だが、
首相となると国の外交を背負っているから「個人の自由」では済まされないのが実情なのであろう。
だけど、そこをあえて「個人の自由」と言い張って丸く治めれば、
世界はもっと平和になるんじゃん!というのがここでの主張。
そういうのはありですか?

2006年08月07日

ピ○チュウ

a3d9d3e2.jpg(注)
これはピ○チュウではありません.
選挙のめいすいくんです.
財団法人明るい選挙推進協会
のイメージキャラクターだそうです.
ホームページに行けば,彼の家族やぬりえも手に入ります.
もう一度確認します.
これはピ○チュウではありません.
これはピ○チュウではありません.
これはピ○チュウではありません.