社会思想の問題

2009年02月05日

自然エネルギー活用で高知はトップに!

 エネルギー資源(石油・石炭・原子力)を海外に依存する限り、常時経済変動と戦争とテロの脅威もあります。第二次世界大戦も石油をめぐる争いであり、イラク戦争もそうでした。石油に依存せず太陽光、風力、水力、地熱、潮力、木質バイオマスなどの自然エネルギー利用を100%にすれば、為替の変動に悩まず、戦争やテロの脅威もなく、地域に雇用が生まれ、低炭素社会も実現できます。地球温暖化も阻止できます。良いことづくめです。

 しかし現在の日本のエネルギー政策は「2015年の見通しは、原子力43%。石油火力が6%。石炭火力が19%。天然ガス火力が22%。水力が9%。新エネルギーが1%」(電気事業連合会資料)となっています。自然エネルギーの活用には全然熱心ではありません。
 いまや世界の潮流は「エネルギー資源の自給自足」「地産地消」になっています。欧州やアメリカは自然エネルギー活用に本気で動き出しました。

 今高知から低炭素社会を実現す千載一遇の時代の到来を感じます。高知は日照時間も長く、放置された森林資源もあります。水源も豊かです。高知県は太陽光、水力、風力、木質バイオマスの活用で「地域エネルギー100%自給は可能」です。他の地域へエネルギー供給も可能でしょう。新しい雇用も生まれます。高知は日本全国に先駆け低炭素社会が実現可能できます。

 今こそ高知が幕末維新の頃のように低炭素社会実現のための先陣を走らないといけないと私は思います。高知県の「産業振興計画」の主要な施策に「自然エネルギー資源の活用により低炭素社会を高知から実現する」と知事は明記すべきです。達成目標年次を定め県政の舵取りをすることが、高知県浮上になると私は確信します。

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2008年03月12日

人間を解放する思想の支配性

 人間を解放する思想のはずが人間を徹底的に管理し、支配する。それが「社会主義」だった。ソ連型でも中国型でも日本共産党でも新左翼でもみな同じようなもんやった。

少年時代に進行していた毛沢東思想もそうだった。大学生の時にはブント(共産主義者同盟)の考え方の中に吉本隆明氏に影響を受けた一派があり、比較的自由な雰囲気ではあったが1976年に解体し消滅した。以後再登場せず30年が経過しました。今の時代を相対化できない思想性であったのですね。

 人の自由な経済活動を保証し、とことん能力次第でいくらでも報酬が得られるという建前の新自由主義。これは19世紀型の自由主義以上の悪質な思想。経営者だけに都合がよく勤労者の権利は破壊、賃金水準も国際化され大幅な賃下げと待遇の悪化が社会の格差を生み出しました。

 20世紀の資本主義が社会主義との対抗上、社会保障政策や勤労者対策を行い、ニューディール政策のような修正資本主義で雇用対策を行って社会不安をなくしてきました。新自主主義は経済学では異端のハイエクあたりの考えでしょうが、1980年代のレーガン・サッチャーあたりで台頭し、2001年に遅れて日本へ導入されました。

 結果は極端な格差社会の到来。教育現場の破壊。年間3万人の自殺者。国は何の対策もせず金持ちと株主だけを優遇し、勤労者の待遇をアジア諸国並に切り下げました。ニートや不正規労働者が多く少子化問題が叫ばれても政府は無関心。アジアの労働力を活用し「賃下げ圧力」をすれば大企業は際限なく儲けるからですね。

 社会主義は、もともと不十分な社会性が破綻し、ロシアや中国でより情け容赦のない資本主義が導入され、人間の尊厳も環境も破壊されつつあります。

 わたしが大学へ入学した1973年は従来のソ連型、中国型の社会主義に異を唱えた初期のマルクスの思想を研究することが盛んでした。イタリアの思想家で異端とされたアントニオ・グラムシや、レーニンと同時代に対立したドイツの革命家ローザ・ルクセンブルクなどが登場し研究されていました。

 陰惨なセクト同士の内ゲバに嫌気がさしていたので、図書館にこもってある時期必死で読んでいたこともありました。今でも多少その時代の思想の影響はあります。でも社会の表面からは消えてしまいましたね。どうなっているのですようか?

 僕なんかは60年代初頭の人たちのように理論や党活動から社会主義運動に入っていません。高校や大学や街頭のなかから社会主義の運動体に触れました。でも新旧左翼の多くは人を解放すると言いつつ、人を支配する組織原理で動いている運動体が殆どでした。

 当時からサブカルチャーは台頭していたから思想面でこけても癒されることはありましたね。学生時代は吉本隆明や埴谷雄高、鮎川信夫、高橋和巳、内田義彦、大塚久雄、高橋亀吉、丸山真男、島尾敏男、谷川雁、なんかを寝転んで読んでいましたね。

 東京での社会人時代は営業が面白くてひたすら走りまわっていました。家庭の事情で高知へ戻った当初はスランプでしたので、文学全集をちかくの市民図書館で借りて読んでいました。

 1987年あたりから再びまちづくりに興味をもち、社会主義的なアプローチではなくアメリカの市民運動のやりかたに興味を持ちました。専門外の都市計画や建築関係の本を取り寄せ読みました。そのばあい社会主義運動をしている連中は都市論がないことに気がつきました。

 せっかくパリコミューンの経験があるのにレーニンあたりが矮小化して(「国家と革命」)などで都市づくりの議論を馬鹿にしていると憤りました。ほいたら自分で都市論をこしらえちゃると力んで1990年前後はそれなりに勉強し、セミナーもしました。

 そして今に成りました。いろんな経験。失敗もしました。でもそれは隠し味。全部プラスに考えています。そして「与えられた」条件を最大限に生かして面白おかしい地域をこしらえてみたい。本気で最近はそう思っています。36669997.jpg

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2007年10月21日

今こそ国際反戦デーを

 今日は10月21日。昔は「10・21国際反戦デー」で街頭デモに繰出していた時期がありました。本当に下火になりました。社会運動の衰えはどうしようもありません。しかし今こそ反戦デーの必要性は高まっています。戦争の危険性があるからです。

 極端な対米従属思想の持ち主ゆえ安倍晋三氏の失脚は良いことでした。しかし油断は出来ません。国会の勢力分野では憲法改正は阻止できません。戦争をしたがる議員が多数を占めているからです。非力であることは否めません。

 平和を叫ぶことは今の時代少数派。しかも変人扱いすら受けることでしょう。どうやったら市民を集結することができるのか。その方策はなかなか思いつきません。「平和」「反核」「護憲」の3つのマニフェストで平和・統一戦線ができないものでしょうか。


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2007年02月11日

40年間の呪縛から解放

 1967年にテレビで佐世保の橋上で3派全学連の学生と機動隊が衝突している映像を中学生のわたしは真剣に見ていました。当時法政大学の学生であった糸井重里氏がヘルメットを脱いでテレビのインタビューに答えていました。

翌年の1968年はアメリカや日本でもベトナム反戦運動が盛んに展開され、中国では文化大革命が激しくなりました。大学や高校でも学園闘争が燃え上がりました。

 1969年には東大安田講堂の攻防戦があり、高校受験で悩んでいた私に大きな影響を与えました。毛沢東思想とベトナム反戦運動と各種の社会運動が大きな影響を与えました。

 高校生になって地元の高校生組織の立ち上げや運営にも関わってきましたが、セクトの介入があり、抱いていた印象とは大きく異なる理不尽さを感じていました。

 1972年の連合赤軍事件は運動の幻想が打ち砕かれました。1976年には吉本隆明氏らが出席しあるセクトの解体集会が行われ事実上活動は終わりました。

 1986年に初めて訪れた中国の貧しさと実態に仰天。その中国への幻想は1989年の天安門事件で崩壊しました。

 先日30年ぶりに中国での文化大革命に参加していた紅衛兵と、つるしあげられていた党幹部の人達が発言していました。ようやく自分の中で相対化できたのですね。

 そしてようやく自分の中でもとらわれ理想とされていた考え方が幻想であることにうようやく理解できました。
 結局当時の社会運動はあまりに実りのないものであり、現実変える力になりえないものです。

今後は自分の力で考え、現実と向き合い、現実を変えていく行動を独自に行いたいと思います。

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2006年05月01日

1970代は時代を読み取る年代

 思えば1972年に沖縄が返還されました。1973年に石油危機がありました。1975年にはベトナム戦争が終結しました。1976年には中国の文化大革命が終わりました。1979年にはイラン革命が起こりました。

 21世紀に世の中なっていますが、世界情勢の流れの中で大きな節目にもなっています。日本史では1976年にロッキード事件で田中角栄首相が逮捕されたこともありました。

1970年には大阪で万国博もありましたし。自分史で言えば高校時代ー大学時代ー東京での社会人時代と符合しています。
 その当時から活躍していた吉田拓郎氏が60歳とか。井上陽水氏や、南こうせつ氏なども今でも現役ですね。小田和正氏も。

 日本の「国家原理」が不透明な時代ですね。あらためていろいろと大きな観点から考えてみなくてはいけませんね。

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2006年04月30日

土佐南学とは?

 昨日参議院議員を2004年に引退した平野貞夫さんの話を聞きました。表題は「土佐南学とその精神」というものでした。
 「異質の思想を融合することで特化した技術が生まれる」という話でした。鰹節はバイオ技術。土佐漆喰はセラミックス、尾長鳥とか土佐犬は遺伝子操作。木材資源と米と豊かな山と海の幸に恵まれていた土佐の国。それを支えてのが土佐南学。

 16世紀頃から儒教と仏教の融合が始まり、山内家が奨励したそうです。土佐では儒学も陽明学が盛んで「知行合一」という知ることは即行動すべしという思想になりました。
 「勤勉奉仕」と「多目多聴」(多くを見、多くを聞くこと)が3つの理念であったそうです。

 足元の先祖の考え方や行動パターンをよく見据えて行動すべきでしょう。何事も思想が大事であるとの話はなかなか興味がある話でありました。「生臭い」話はありませんでしたが、小沢一郎さんをよく知るひとであるだけに面白い存在の人ですね。


平野貞夫さん(2004年7月に会いました)

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2006年04月06日

80対20の理論はまやかし

 20%の人間が80%の富を所有する。マーケティングは20%の人間だけを相手にすれば良い。勝ち組とは20%。80%の人たちは負け組。20%の人たちが優遇する社会をこしらえることを「構造改革」と言います。

 小泉内閣は一貫して「20%」の優遇策をとり続け、日本社会の良さを破壊しつつけました。社会不安は増大し、自殺者は年間3万人前後です。わけのわからない凶悪犯罪も増えました。

 すべての人が生きていくゆえで幸福感は持つべきであると思います。それは人を選別し、差別する社会ではない筈です。「80対20」の理論はまやかしです。そんな単純な理屈で世界は割り切りません。

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2006年03月10日

山原健二郎さんを冒涜するな

3a1a7bbe.jpg 2006年3月8日高知新聞朝刊2面の高知新聞政治部長須賀仁嗣政治部長が、署名入り記事を書いています。「こうち政界交差点」というコラムでタイトルは「山原没後をどうみるか」。私は読んでいまして不愉快になりました。

「きょう3月8日は山原の三回忌。がんを患い、闘病生活1年有半で逝った山原のことを振り返りたくなる政情が、目の前に広がっている。 中略・・・
 元共産党県議公文豪の言葉を借りれば、5年におよぶ小泉政治の”毒”は国民生活の奥深くまで達しつつある。常雇用の破壊は急で、医療費の負担増も目前だ。確かにこの先、「生存権までもが侵すな。」ということが沸き起こってもおかしくない。」

「問題は、そこに (闘う共産党)がいるのかということだ。
山原没後、共産党に迫力がなくなった.なんだか弱った感じ。迫力がない。」「県政への向き合い方にしろ、軟弱路線というか、きっちり筋を通しているという印象がない。」そんな不満がが党関係者からも聞えてくる。「 終末期の山原は50年間身を寄せた共産党に病床から批判をむけていた。とくに橋本県政のもとでの党の態度にきびしい批判の矢を向けていた。 」

「是々非々」といいつつ、知事選挙の選挙資金疑惑、ダム工事の談合疑惑をまともに追及しようとしない日本共産党――これらをみれば、病床にあった山原が黙視していないと思うが、党幹部はこの山原の行状を苦々しく思っていた節がある。事実、元県委員長の浦田宣昭らはこのことにあまり口を開きたがらない。」

「坂東真砂子が投げつけた「功名が辻」論争。いろいろ意見はあるが、坂東の主張に「一領具足の子孫として胸のすく思い」をもつのはおそらく山原がその極みではなかったか。
「山原の郷里は本山町にある。藩政期には川向こうをゆく参勤交代の列を、農民たちは土下座したまま見送らざるをえなかったという。その様を詠んだ山原の歌からは「反骨」のDNAが読み取れる。それが闘争心の源泉だったのだろう。 」
「闘うことに疲れた、いや忘れたかのような今の共産党をみていると、最後まで闘い続けた山原のすさまじい生を、いまさらながらに思う。」

 私は共産党の関係者でも支持者でもありません。しかしこのコラムを読みまして高知新聞の政治部長が「1個人の偏見に満ちた個人的見解」を紙面で発表して良いものかと思いました。
 彼とは高知市政担当時代に面識があり、私が高知青年会議所時代に「都市再開発セミナー」の時に掲載記事を書いていただいたのでよく知っています。彼の性格も理解しています。でもこの記事は「それはないで」とは思いますね。

 確かに山原さんは、高知県の共産党が橋本知事に接近することを潔しとはしませんでした。でも1994年の高知市長選挙のときは、ともに同じ陣営でたたかったことがあります。ですので、「是々非々」という立場は貫かれていました。

 共産党が橋本知事に接近したのは、対立する政治勢力との関係でしょう。それもべったりではなく、政策協定もなく、いわば「勝手連的」に応援しただけではないのでしょうか。知事の「非核港湾条例の提案」や「労使協議の場」に共産党系の組合を参入させたりの知事の政治姿勢を共産党なりに評価されての勝手連であると思います。
 むしろ「護憲平和」を普段標榜する人たちが、高知県知事選挙の折、橋本知事の対立候補者を支援し、自民党の武部幹事長と共闘したことはどうなるのでしょうか?武部幹事長は高知へ応援した直後、イラクのサマワへ飛び立ち、自衛隊のイラクへの派遣延長を決めましたし。

 高知市の1市民が3人の県会議員の「イラク戦争の対応について」公開質問状を出しました。

 まして須賀仁嗣氏は作家坂東真沙子氏などの「軽薄な」論調に便乗して文章を書くべきではない。論理性の弱さを感じます。封建時代と今の時代の共通性などないのですから。全く無意味です。

 政治信条は異なりましたが、山原健二郎さんは真摯で立派な政治家であったと思います。それで私は葬儀にも行きました。葬儀の様子は支持者の人たちは深い悲しみに包まれていました。共産党の関係者だけでなく、私のように党派は関係なく多くの県民が葬儀に参加していましたのでお人柄がわかります。

 
高知県の未来と共産党について 参考

 
山原健二郎さんが死去(ブログ)

 山原健二郎さんは「高知県最後の大衆政治家」でした。かつては党派を超え、支持を集める政治家が高知にもいましたね。自民党の大西正男さん。田村公平さん。社会党の井上泉さん。公明党の平石まさたろうさん。そうした政治家がいました。山原健二郎さんもそうした政治家のお1人でした。

 時代は変りましたが、私はやはり党派を超えた支持を集められる山原健二朗さんのような政治家の登場は望まれます。軽薄なテレビ写りだけを気にする政治家が多い中では山原さんのような政治家の登場は望まれています。それはどの政党にもいなくなった存在感のある政治家であったからでしょう。
 須賀仁嗣政治部長は浅薄な政治理念を反省していただきたい。個人的見解で、記事を書くなどとんでもないことです。

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2006年03月01日

アメリカは第5インター?

4a129d38.jpg 最近の日本経済新聞の評論に、「ブッシュ政権は、ネオ・ボリシェビキのように思われる。」とのこと。中東諸国などに軍事力で「民主化」を迫る政治的なやりかた。「世界革命」と唱えていた革命直後のソビエト政権にも似ているとも。

 マルクスのパリコミューンの時代にあったのが、第1インターナショナル(世界労働者同盟)。第一次大戦に協力したのが、第2インターナショナル。ロシア革命後のロシア指導でレーニンが創設。スターリンにより推進された「1国社会主義」を推進したのが第3インターナショナル。スターリンに追放されたトロツキーがこしらえたのが第4インターナショナル。

 アメリカは資本主義の権化で、やや趣は異なりますが、他国に武力で干渉し、自前の「民主化」を押しつけ、戦争を仕掛けるやりかたは、かつてのボリシェビキと同類だという論には説得力がありますね。

 「民主化」した国は選挙でことごとく反米政権が誕生しているのも歴史の皮肉だと思います。インターナショナルの歌を歌えない労働者が殆どの日本です。共産党の人たちですら知らない人が殆どですよ。びっくりしました。

  インターナショナル

 「起て飢えたるものよ,今ぞ日は近し。起てよ我が腹から、暁は来ぬ。暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて 海を隔てつ我らの腕結び行く。 いざ戦わんいざ奮い立ていざ。ああインターナショナル我らがもの。」
 労働団体もインターナショナルという唱を歌わなくなりましたし。知っている人も少なくなりましたね。カラオケにもありませんし。「絶滅危惧種」ですね。


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2006年01月08日

何を思想の基本に置くか

a0ebe73d.jpg 昔であれば「社会主義」という手軽な「理想郷」がモデルとして存在していた。モデルを実現するための「装置」が共産党なり社会党であり、新左翼でもありました。しかしいまやそのモデルは崩壊、新左翼は消滅、共産党も社会党も泡沫政党になりました。

 では資本主義モデルは大勝利したのでしょうか?2001年の9月11日の悲劇は、繁栄の象徴の崩落であり、古きよき時代のアメリカの終焉に他ならないのでしょう。

 かつて小さなヨットで太平洋を横断した堀江健一さんを不法入国者とせず、ヒーローとして歓迎してくれたアメリカ市民の懐の深さは今はなくなったのであろう。

 安直な「モデル」がなくなったのであれば、歴史を振り返ったり、地元の集まりや地域社会を重視し、じっくりと再構築すべきでしょう。
 思想の基本は意外にも自分の足元にあるのです。決して浮ついたものでもなく、また手の届かないところにあるのでもありません。荒れた日本社会を再建すべく、少しづつ行動していきたいと思います。

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