知覧から鹿児島市を経て桜島に渡って、志布志への山越えをする前、トイレ休憩で止まった「道の駅たるみず湯っ足り館」には、建物の外に「足湯」がありましたが、

足湯


「日の丸のふるさと」、と大見得を切った建造物があったので写真を撮ってきました。


初めての西洋式軍艦


島津斉彬が桜島の瀬戸と有村、垂水の牛根に造船所を作り、昇平丸、大元丸、承天丸、風瑞丸、万年丸の5隻の様式軍艦を建造し、1855年に幕府に献上するために鹿児島を出港した昇平丸に、日本の船の目印として初めて「日の丸」が掲げられた、と説明がありました。

日の丸のふるさとの説明


wikipediaにも、「昇平丸」の船尾に掲揚された日章旗が、日本の船旗として掲揚した第一号、と説明されています。


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造船所が作られた瀬戸、有村、牛根の場所を探してみました。現在、桜島と大隅半島は地続きで、海峡はありません。

造船所の場所


最近1,000年間に起きた代表的な桜島の噴火は、文明噴火(14711476年)、安永噴火(1779年)、大正噴火(1914年)、昭和噴火の4つですが、1914年の噴火で流出した溶岩で瀬戸海峡が埋められており(文献1)、江戸時代には、桜島ー大隅半島の間には海峡がありました。

桜島の地続き化


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wikipediaにある日の丸の歴史(文献2)を、ごくごく簡単にまとめてみました。

・聖徳太子が隋の皇帝・煬帝に送った手紙に「日いずるところの天子ーー」と書き、飛鳥時代末期には国号を「日ノ本」と命名したように、日の出を意識していた。

・平安時代まで、朝廷の象徴としての錦の御旗には、赤地に金色の日輪、銀色の月輪が描かれていた

・官軍を名乗った平氏は赤地金丸の旗を使い、源氏は白地赤丸を使った。

・代々の将軍は源氏の末裔を名乗り、天下統一の象徴として白地赤丸を使った

・室町時代の勘合貿易や秀吉以降の朱印船貿易で、船の船尾に日の丸が掲げられた

・琉球王国では、太陽神の象徴として、日輪を石碑に彫り、航海の無事を祈って、14世紀に遡る中国への進貢船では、日章旗を使った

1854年3月の日米和親条約締結後に、外国船と区別するため、日本の全ての藩に共通する標識が必要になった。島津斉彬は日の丸を建言。老中阿部に忠告を仰がれた前水戸藩主徳川斉昭は、長い歴史を通じて全国民が使ってきたという理由で、日の丸を強く建白し、185411月に、老中阿部が布告。

1855年薩摩から幕府海軍に献上された「昇平丸」に掲揚されたのが船旗の第一号

1860年、日米修好通商条約批准書交換のため幕府使節団が米国に派遣され、ニューヨークでのパレードで日章旗と星条旗が掲げられたのが、国外で掲げられた最初。

・法令として存在しなかった「国旗」を法令化しようと1931年に「大日本帝国国旗法案」が提案されたが、会期終了や、衆議院解散などにより、廃案

199年の「国旗及び国家に関する法律」の公布で、初めて法律で国旗になった


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(参考文献)

1)

桜島の歴史

国土交通省 九州地方整備局 大隅河川国道事務所

http://www.qsr.mlit.go.jp/osumi/sabo/rekishi/funkasaigai.htm


2)

日本の国旗

wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97