山本敏晴のブログ

1965年生、仙台出身。医師・写真家・NPO法人宇宙船地球号理事長。元国境なき医師団日本理事。 峭餾欟力師」という概念を提唱。企業の社会的責任(CSR)を推進。世界中で大切なものの「お絵描きイベント」を実施。著書に『世界で一番いのちの短い国』『アフガニスタンに住む彼女からあなたへ』 『国際協力師になるために』、『あなたのたいせつなものはなんですか?』『世界と恋するおしごと』『地球温暖化 しずみゆく楽園ツバル』『「国際協力」をやってみませんか?』など

2008年07月

花嫁

.
医者になって2年目の秋、二人の女性を愛した。


一人は、
B子という女性で、幼馴染(おさななじみ)だった。

小さい頃、いつもいっしょにいた。

野原をかけずりまわり、
店で買い食いをし、
お化け屋敷だという噂のある廃屋(はいおく)を探検した。

彼女は、いつも猫を連れていた。
まだ、小さい子猫だった。

わたしたち3人は、いつもいっしょに
笑ったり泣いたり、ケンカしたりしていた。


このB子との関係は、
私の父が急に亡くなり、私が遠くの町に行ってしまったことで、
ある日突然、途絶えてしまった。

(後日、再会をする、までは)



もう一人の女性は、
F子と言う名前で、お金持ちの家の一人娘の令嬢だった。

「いい所のお嬢さん」なのに、高慢なところはなく、
よく気がつく、優しい女性(ひと)だった。

わたしが悩み、傷ついている時、
何も言わず、そばにいてくれる、そんな女性だった。


彼女の家に出入りしていたある日、
F子の父親から、突然、

「F子を嫁にもらってくれないか」

と言われた。


この話を聞いた時、
最初、あまりの唐突さに驚いたが、

数秒後に、私の頭をよぎったのは
恥ずかしい考えだった。

F子は、大富豪の一人娘である。
彼女と結婚する、ということは、
彼女の父親の、莫大な財産が、すべて手に入ることになる・・


・・・

私は、幼少時代、父とともに、世界をめぐった。
父とともに、
戦争や、人の権利が蔑ろ(ないがしろ)にされるさまを見た。
貧しい人たちの窮状(きゅうじょう)も見てきた。

いつしか私の心には、
「世界を、なんとかしてやる」
という想いが芽生えていた。

そんな父は、
私が、10代のうちに、急逝した。

父は、多くを語らない人だったので、特に遺言はない。

しかし、
彼は、子どもの頃の私に、
どうして世界を見せたのであろうか?


その答えは、いまでも、私も胸の中にある。


・・・


「世界を、なんとかする」
には、お金が必要だった。

最初に、ある程度の資金がないと
何もできない。

既にたくさんのメンバーが
私の周りには、集まっていた。

メンバーを各国へ送るにも
物資をそこへ運ぶにも
お金が必要だった。

どうしても、必要だった。

どうしても・・


・・・

私は、

私は、お金が欲しいから、F子と、結婚するのか?


それとも、
仮に、そんなことがなくても
私は彼女を、愛しているのだろうか・・?



そんなことを考えていた時、
ふと、B子のことを思い出した。


B子に会いたいと思ったら、
その考えは、止まらなかった。
仕事を放り出して彼女を探した。

彼女は何度かの引っ越しをしており
探すのは大変だった。


それでもようやくB子を見つけた時、
彼女は

彼女は変わっていなかった。


B子といると、子どもの頃の日々が思い返された。
お互いの十年の話をして、笑った。


そう、一つだけ、変わっていたことがあった。

それは、B子の飼っていた猫が成長し、
とても美しく、育っていたことだった。

でも、その隣にいる彼女は、
猫よりも、ずっとまぶしかった。



私は、自分のいるべき場所は、ここだと思った。


しかし・・



私が、B子にこれまでの経緯を話すと、
彼女は、こういった。

「あなたは、F子と結婚するべきよ。
 あなたには、『夢』があるんでしょう。
 お父さんから託された、やらなければならないことが、
 あるのだから・・」

B子は、さみしそうに、こう話した。


・・・


私は、悩んだ。
三日三晩、なやんだ。

医者の仕事など、手に付かなかった。


寝食を忘れ、どちらの女性に
プロポーズするか、考えた。

生まれて初めての経験だった。

人生で、こんなに悩んだことは、なかった。
恐らく、
これほどの悩みは、今後も一生、ないであろう。

それほど、
B子もF子も、どちらも素晴らしい女性だったのだ。


・・・



そして、私は、「彼女」を選んだ。



彼女は、私に付いてくると言い、
彼女と私は、ともに世界を旅することになった。


そして、その後も私は
多くの仲間を集め、世界の困難に立ち向かっていくこととなる。




・・・
・・・

で、申し訳ないが、
以上は、すべて、ゲームの話である。

1992年9月27日、スーパーファミコン版の
ドラゴンクエスト5(ドラクエ5)が発売された。

なんにでも、のめりこむタイプの私は、
医学生の時にファミコンを始めたら
絶対留年してしまう、と考えていたため、
医者になるまで、ファミコンを封印していた。

(ファミコンというのは、家庭用ゲーム機のことで、
 今で言う、ウィーとか、PS3のことである。)

しかしながら、医者になっても、
研修医1年目の時は、ファミコンをやる暇などなく、
2年目の秋になって、ようやく多少、暇ができた頃、
時期を同じくして、ちょうど
ドラクエ5、が発売されたのである。

生まれて初めてやる、ファミコン、
生まれて初めてやる、RPG(ロールプレイングゲーム)、

そして
生まれて初めて経験する、花嫁選び!


私は、興奮し、取りつかれたように、ゲームをプレイした。


ゲームの中盤で、上述の花嫁選びが起こったのだが、
三日三番、寝食を忘れて悩みぬいたのは、本当である。

医者の仕事など、手につかなかった。


また
ドラクエ5の主人公の生い立ち、というか
父親との関係が、
わたしの少年時代と共通する部分があったため
(いっしょに世界旅行したとか、父が急逝した、など)
主人公に、いっそう感情移入することができた。

・・・

この、私にとって、最大の思い出のゲームであるドラクエ5が、
最近、ニンテンドーDS版としてリメイクされた。

で、
発売日が、明日(2008/07/17)である。

・・・


明日、再び「彼女」にあえるのだ。

16年の時が過ぎたが
今度、私は
どちらの「彼女」を選ぶのだろうか?


あの「究極の選択」の場面で、今度は、
自分がどんな決断を下すのか、自分でもわからない。


それでも、

B子こと、幼馴染の、ビアンカ、
F子こと、お嬢様の、フローラ、

猫の名前は、ボロンゴ。


彼らとともに、私が飛びこんでゆく世界は
ディズニーランドをはるかに超える
「夢と冒険とロマンの世界」へ
いざなってくれるであろう。


さあ、ドラゴンクエストのテーマ曲が鳴り響く。

「ぱーぱらっぱっぱっぱっぱーぱー、らーぱぱーぱ・・」




ドラゴンクエストV 「天空の花嫁」

親子三代にわたる、世代を超えた物語




きっと私はまた、同じ「彼女」を選んでしまう・・ような気がする。



http://jp.youtube.com/watch?v=zHgqFswGhzw&NR=1

国際協力の歴史(国際機関編)その2

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このブログは、前回の続きです。
必ず、以下を読んでから、読み始めて下さい。

国際協力の歴史(国際機関編)その1
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/65094484.html

・・・

ここまでの、国際協力の流れを総括すると、

1940年代、戦後の戦勝国を中心とする国際連合ができたが、
       常任理事国5か国が拒否権を持つ、将来に問題を残す内容だった。
       かつこの頃は戦争で疲弊したヨーロッパの復興に主眼があった。
       おまけに、米ソ冷戦の開始による東西両陣営が、
       それぞれの同盟国を増やすために援助を行う、
       というのが世の潮流だった。

1950年代、ようやく、途上国への援助が始った。
       世界銀行などは、インフラの整備による経済基盤の確立を行い、
       各国のGNP上昇による経済波及効果をもって
       貧困の削減も図る、という戦略だった。

1960年代、ログ・フレームなどの国際協力の方法論が、生まれた。
       しかし、相変わらず、市場経済至上主義が続いていたため、
       かえって、「貧富の差が拡大」してしまった。
       (先進国と途上国の差も、途上国内の富裕層と貧困層の差も
        ともに広がり続けた。)

1970年代、途上国の中でも、貧困層のほうに、
       目を向けなければならないことに気づき、
       ベイシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)などの考え方が生まれたが、
       それを途上国の貧困層のために、行おうとしても、
       途上国の政府が腐敗にみちており機能せず、実行できなかった。

1980年代、しかして、途上国政府を構造改革することになったが、
       官僚の削減、省庁の簡略化、公共事業の停止と民営化、
       経済の完全自由化などがもたらしたものは、市場経済の悪影響による
       さらなる「貧富の差の拡大」だけだった。


以上を踏まえた上で、その後の、1990年代以降の流れを解説する。

・・・

1991年、大きな事件が起こる。
それはもちろん、ソビエト連邦の崩壊と、冷戦の終結である。

ここまでの国際協力の側面の一つが、
東西両陣営(資本主義諸国と共産主義諸国)が
それぞれの政治体制を守るために、
同じ政治体制の国に対して、援助を行う、
というものであった。

欧米および日本が加盟している
「経済協力開発機構」(OECD)も、
西側陣営である、資本主義陣営が、
同じ政治体制を持つ国を
途上国に増やし、かつ維持するために援助していた
国際機関だった側面が強い。

ソ連を中心とする東側陣営(共産主義諸国)も
社会主義および共産主義の政治体制を持つ途上国に対して
援助を続けていた。

こちらの団体の名前を
「経済相互援助会議」(COMECON)と言う。
東欧諸国の加盟が多かったため、
「東欧経済相互援助会議」とも言う。

ところが、
この1991年のソ連の崩壊によって、
この「経済相互援助会議」(COMECON)も、解体されてしまった。

このため、
社会主義または共産主義の政治体制を持つ
途上国へ、援助資金が届かないことになる。

かつ、
このソ連の崩壊により、冷戦は終結してしまったので、
資本主義陣営も、無理して
資本主義の思想を持つ途上国を増やす必要がなくなり
資本主義の政治体制を持つ途上国にも
あまり、援助が行われなくなってしまったのだ。

これが、まず一つ。

・・・

次いで、
前節で紹介した、1980年代の
「途上国政府の構造改革」の大失敗により、
はたして、援助をすること、
それに対して予算を使うことに、意味があるのだろうか?
ということを
各国が疑問視するようになり、
国際協力や開発に、あまり予算を投じなくなった。

しかして、そうした国々の拠出金を受ける
国際機関のほうも、援助をやりにくくなった。

要するに、予算が減ったのである。

・・・

この、1990年代に、
先進国たちの、政府開発援助(ODA)の予算が減ったことを
先進国の、「援助づかれ」とも言う。

・・・

上記に関連して、
1980年代で特記すべきこととしては、
世界銀行の経済自由化戦略によって
途上国の構造改革が行われたにも関わらず、
それまで、
唯一の(世界銀行の方針が正しいとする)根拠とされていた
「途上国を含む各国のGNP上昇だけは維持してきたこと」
にも、失敗したことだ。

なんと、
サブサハラの国々においては、
1980年代、
GNPがマイナス成長をしてしまい、
経済は停滞どころか、失速、してしまっていたのだ。

これに加えて、
例の「貧富の差の拡大」の二重構造も起こっていたため、
世界銀行の、自由経済で、市場経済原理主義、という理論は、
かなり、疑問視されるようになった。


(正確にいうと、大失敗したのは、
 サブサハラを中心としたアフリカで、
 経済が停滞していたのが、ラテンアメリカ諸国。
 アジアに関しては、国全体のGNPの上昇などを見る限り、
 一応、そこそこ、うまくいっている。
 貧富の差の拡大は、また別の問題だが。)

・・・

また、
1980年代、世界銀行が途上国に行った援助は
以下のような方法論だった。

「公務員を削減し、省庁を減らし、経済を自由化しなさい。
 これらの条件をすべて達成したならば、
 援助金を、あげたり、貸したり、してあげますよ。」

つまり、
世界銀行のやり方は、ほとんど、脅迫的であり、
「お金が欲しいなら、俺の言うことを聞け」
と言っているのと、同じことであった。

このため、途上国の自主性がないがしろにされていたため、
各方面から批判が相次ぎ、
途上国の自主性を重視すべきだ、という概念が生まれた。

この途上国が自主的に自国の問題を解決していこうとする意志を
尊重することを
「オーナーシップ ( ownership ) を高める」という。

すなわち、この1980年代の大失敗により、
以後の国際協力は、途上国のオーナーシップを尊重することを
その方針の一つに入れていくようになった。

このことは、一見、良かったように見えるが、
将来、また別の問題を生じることになる。

・・・

以上のように
これまでの国際協力は、基本的に世界銀行が中心となっており、
資本主義で、市場経済で、経済の自由化で、
グローバリゼーションを押し進める、
(そうすれば、市場経済の恩恵に途上国もあずかることができる)
という戦略が基本だったのだが、
それに真っ向から対立してきた団体があった。

それが、国連の中で、1965年に創設された
国際連合開発計画 (UNDP) であった。

世界銀行の、グローバリゼーションに対立する形で、
国際連合開発計画は、アンチ・グローバリゼーションを提唱し続けており、
両者は、たびたび対立していた。

上述してきたように、世界銀行が大失敗を繰り返す中で
1990年、国連開発計画 (UNDP) は
次のような報告書の提出を開始した。

「人間開発報告書」

この報告書には、貧困の定義なども記載されており、
途上国における貧困層に対する開発の重用性が指摘され、
経済的な貧しさだけでなく、教育や医療の機会がないこと、
声を発して意見を述べることができないこと、なども含まれ、
包括的な貧困の状況が記載されるようになった。

この、国連開発計画のやっていることが
全部正しいとは言わないが、少なくとも
世界銀行のやり方に、異を唱える組織が出てきたことは
喜ぶべきことだった。

・・・

以上より、
1990年代は、
1980年代までの援助の大失敗から、
まず、
「成果主義」と呼ばれる、
援助の有効性が、各国で、
また各国際機関で、かなり厳密に議論されるようになり、
予算の投入に慎重さを増すようになった。

また、
途上国の貧困層に対しての「貧困の削減」が重要だ、
という当たり前のことに、ようやく本気で
議論を行うようになった時期でもあった。

・・・

ただし、この1990年代という時期は、
ソ連の崩壊と冷戦の終結により、
東西陣営に巻き込むための途上国への援助が
減っていた時期であり、
かつ、
前述のような成果主義と呼ばれる厳密な予算のコントロールが
始まったために、
世界全体で使われた国際協力のための予算は、明らかに減ってしまった。

各国の政府開発援助(ODA)に使われた予算の金額を合計した数字を見ると
あきらかだが、この1990年代、その数字は、減少傾向を示したのだ。

(注: 例外がある。
 この時期、欧米の各国が、上述の理由で、ODAの予算を減らしたのに、
 日本だけは、ODA予算を増やしていた。
 この理由は、この時期、日本経済が、バブル期だったことによる。
 が、バブル崩壊とともに、この現象も停止した。)

・・・

2000年に入ると、
三つの大きな動きがあった。

一つは、世界銀行が「貧困削減戦略文書」を
途上国政府に作らせるようにしたこと。

二つ目は、「セクター・ワイド・アプローチ」と呼ばれる
各セクター(教育や医療などの各分野)へ出資するドナーたちが
集まりを持ち、緊密に相談するようになったこと。

三つ目は、「ミレニアム開発目標」が策定されたこと、
である。

・・・

一つめ、「貧困削減戦略文書」(PRSP)とは、
世界銀行が、途上国政府のオーナーシップを尊重し、
各国に貧困を削減するための戦略を建てさせた、
その内容を記載した文章である。

途上国政府には、そうした戦略を立てられる能力を持つ人材が
いないことが多いため、世界銀行などがその能力のある人材を派遣し、
途上国政府にアドバイスをしながら作成していくことになる。

このPRSPを作ることが、
現在、世界銀行が途上国へ出資するための「条件」となっている。

また、
この世界銀行は、あいかわらず、
世界全体の国際協力の中心的存在であるので、
(日本のJICAを含む)各国の援助機関も、
途上国にPRSPを作らせ、それを支援してゆく、という方向性に
協力してゆくことになっている。

・・・

二つめ、「セクター・ワイド・アプローチ」というのは、
1990年代までの、大きな問題点を解決するために
行われるようになった。

結局、途上国に支援をするときに、
例えば、

日本のJICAは、ある国の「教育」をやりたい。
アメリカのUSAIDも、その国の「教育」をやりたい。
世界銀行も、その国の「教育」をやりたい。
ユニセフも、その国の「教育」をやりたい。

と言った時に、
各組織が、重複して同じことを行ってしまい、
(ある意味)無駄になっていたり、
あるいは、途上国政府が、それらを断っていたり、
または、
複数の組織が、金をくれるというので、
途上国政府が、一番金をくれる団体を選んでいたり、
果ては、
途上国政府(自体)に都合がいいプロジェクトを
行ってくれる団体を受け入れることにしたり
(はっきり書けば、賄賂をくれる団体を選んだり)
することが、横行していた。

いくつかの途上国は、「援助銀座」と呼ばれており、
大型団体が、たくさん、「援助したい」と言ってくるため、
途上国政府が、それらを「選び放題」であり、
こうした状態は、(当たり前だが)
途上国の悪徳政治家の、私的な利権の獲得に利用されやすく、
まともなプロジェクトを
やらせてもらえることは、非常に少ない。

このため、2000年頃から、
次のような考え方が、生まれてきた。

「その国に資金を出資しようという組織は、
 事前に集まって、話し合いをしよう。」

これを、ドナー会議、という。
ドナーとは、お金を与える人や組織、である。

教育や、医療、インフラ、環境問題など、
それぞれの分野のことを、セクター、という。

例えば、
教育セクターに出資したいドナーたちを集め、
(それらは例えば、日本政府、アメリカ政府、世界銀行、ユニセフなど)
そうしたドナーたちが事前に相談し、
また、PRSPをもとにして、
(教育の中の)どの部分を、どのように分担して出資しようか、
という話し合いをするようになった。

こうすれば、援助が重複して無駄になったり、
途上国政府に、悪い意味で「選び放題」にされることもない。

こうした方法論のことを
「セクター・ワイド・アプローチ」と呼ぶ。

日本語で言えば、
ドナーたちの、「援助協調」
ということになる。

要するに、ドナーたち(各国と各国際機関)の
援助協調が、非常に重要である、ということが
強調された時期であった。

・・・

三つ目、ミレニアム開発目標(MDGs)は
世界銀行と国連開発計画(UNDP)という二大機関が
(ケンカせずに)
合同で発表した声明で、
基本的に、現在の国際協力は
これを元にして行われている。

各国の政府系援助機関もこれに協調して
援助をしているはずだからだ。

内容は、以下である。

・・・

ミレニアム開発目標(MDGs)

2000年に、国連ミレニアム・サミットで採択された。
2015年までに達成すべき目標として8つの項目を挙げた。


目標1 : 極度の貧困と飢餓の撲滅
     2015年までに、1日1ドル未満で生活する
     人口比率を(1990年比で)半減

目標2 : 普遍的初等教育の達成
     2015年までに、すべての子どもが
     男女の区別なく初等教育の全課程を修了

目標3 : ジェンダー(男女)の平等の推進
     2015年までに
     すべての教育レベルにおける男女格差を解消

目標4 : 幼児死亡率の削減
     2015年までに
     5歳未満児の死亡率を3分の2減少

目標5 : 妊産婦の健康の改善
     2015年までに
     妊産婦の死亡率を4分の3減少

目標6 : HIV/AIDS、マラリアなどの疾病の蔓延防止
     HIV/AIDSの蔓延を
     2015年までに阻止し、その後減少

目標7 : 環境の持続可能性の確保
     持続可能な開発の原則を各国の政策や戦略に反映

目標8 : 開発のためのグローバル・パートナーシップの推進
     差別のない貿易及び金融システムの構築


で、この目標ができたのは、基本的には良いことだったのだが
2015年までに達成できそうかというと、
アジアでは達成できそうだが、アフリカでは全然達成できそうにない、
ということが、途中報告により、既にわかっている。

・・・
・・・

と、いうのが、
これまでの、大筋の流れだったのだ。

かなり簡略化したつもりだが、
それでも、初めて読む人には、
かなりややこしい、と思う。

本気で、プロの「国際協力師」になりたい人は
必ず、自分でもう一度、成書をひもときながら
自分なりに、国際協力の歴史を、まとめ直して欲しい。


で、重要なことは、
世界銀行も、経済協力開発機構(OECD)も
現在おこなっている戦略で、
今度こそ、うまくいくであろう、と
思いこんでいる、ことだ。

(これまで、その時々の方針を、盲信していたように・・)


・・・


が、私は、そうは思わない。

これまでの国際協力の歴史を見ればわかるとおり、
国際協力とは、失敗の連続であった。

方針を変更しても、また失敗している。

今回、大規模な変更が行われたが、
これでうまくいく、などという保証は
どこにもない。

はっきり言えば、今回もまた、
大きな問題、新たな問題を抱えたまま
失敗に終わる可能性が高いのではないか。

(では、どうすればいいか、
 という私の考えは、また別のブログに書く。
 過去の歴史の項の中に、書くことでは
 ないからだ。)

・・・

それよりも、書いておかねばならないことが
一つある。

それは、これまでの国際協力は、
冷戦に勝利した
経済協力開発機構(OECD)加盟国である
主に欧米(一応、日本政府も入っている)
で、主導されてきた。

が、
最近、
この欧米主導のOECDによる
国際協力の動きを無視して
活動を開始した、
新しいグループが、登場してきたのだ。


それが

「新興国」

たちである。


・・・

簡単に書けば、中国やインドなどの
新しい経済大国たちが、
自国の利益を獲得するために、
東南アジアやアフリカの国々に
「勝手に」
援助をしだしたのだ。

「勝手に」
というのは、OECD諸国からみた言い方で
別に、そうした国々に断らなければ、援助をしてはならない、という
国際法は、ない。(当たり前だが)

(しかし、OECD諸国は、前述したように、
 セクター・ワイド・アプローチのように、まず、ドナー会議を行い、
 援助協調の姿勢を示すことが非常に重要だ、ということに現在なっているのだ。
 しかし・・)

中国やインドなどの新興国は、
昔、1950年代に
OECD諸国が行ってきたように、
ともかく途上国に、金を渡し、
その代わりに石油・天然ガスなどの資源をもらったり、
自国の企業を誘致させてもらったり、
商品の輸出先、または、原料の輸入先に
なってもらったりする、という戦略を
とりだしたのだ。

同様のことは、急速な経済の発展をする時に
かつての日本政府も、
ほぼ同じことを行ってきたことなので
怒るには、当たらないことなのだが、
現在、
こうした、中国やインドの動きを見て
OECD各国は、怒ったり困ったりしている、
のが現状なのだ。


世界銀行の主導するPRSPも、
ミレニアム開発目標も、所詮は、
欧米中心主義が生み出した「たまもの」にすぎない。

それに対して、中国、インドに
無視をするな、という方に
無理があるのかもしれない。

・・・

ここで、新興国たちを、以下に列記しておく。

経済的な意味での新興国たちだが、
これらの国々は、国際協力の世界でも、
同時に、重要な国々になっていくだろうからだ。

・・・

アメリカの証券会社ゴールドマン・サックスによる
最も有望な新興国、五つ

BRICS

ブラジル
ロシア
インド
中国
南アフリカ共和国

・・・

上記に次いで有望な11カ国

ネクスト・イレブン

韓国
ベトナム
フィリピン
インドネシア
バングラデシュ
パキスタン
イラン
エジプト
ナイジェリア
トルコ
メキシコ

・・・

これら、新興国たちに対する
新しい名称が、次々、できてきている。

・・・

新興工業経済地域 (NIES)

1970年から1990年代にかけて
工業製品の輸出などにより
急速な成長を遂げた国や地域を指す。

具体的には、
香港、台湾、韓国、シンガポール

・・・

主要経済国会合(MEM)

正式名称は、
「エネルギー安全保障と気候変動に関する主要経済国会合」

先日、日本で行われた先進国首脳会議(G8)にも
その前後の会議に参加した、二酸化炭素排出量などの多い国々。

具体的には、いわゆる先進国(G8)と、新興国に分かれる。

(1)先進国(G8):京都議定書で排出削減義務付けられている国々

アメリカ
イギリス
イタリア
カナダ
ドイツ
日本
フランス
ロシア

(2)新興国:京都議定書で排出削減義務を言われていない国々

インド
インドネシア
オーストラリア
韓国
中国
ブラジル
南アフリカ
メキシコ

(1)が、全CO2排出の48%
(2)が、全CO2排出の31%
この二つを合わせると、世界全体のCO2排出のうちの
79%を占めることになる。

以上より、如何に、新興国たちの存在が重要であるか
理解できるであろう。

・・・

なお、
現在の先進国首脳会議(G8)に、
中国、インド、ブラジル、南アフリカ、メキシコ
の新興5カ国を加え、G13、として開催していこうという
動きもある。

今回の洞爺湖サミットでも、上記のメンバーでの会合も半日行われた。

・・・


さらに、もっと重要な組織が
近年になって策定された。

これまでにない、まったく新しい枠組みだった。
その名を

上海協力機構 (SCO)

2001年に、上海にて、
中国とロシア、そして中央アジアの国々で
当初は成立した。

さらに、
モンゴル、インド、パキスタン、アフガニスタン、イランが
加盟を表明している。

これらの国々は、先で述べてきた
BRICSあるいは、ネクスト・イレブンに含まれる国々が多く、
かつ、
これらの国々を世界地図上でみるとわかるが、
なんと!
ユーラシア大陸のほとんどすべてを占める巨大な同盟体である
ことがわかる。

よって、この上海協力機構のことを、
ユーラシア大陸機構、と呼ぼうという動きもある。

また、
この上海協力機構は、
軍事同盟であるとともに、
石油・天然ガスの埋蔵量の多い国々が結束した、
経済同盟体である、という側面もあり、
かつ、
アメリカと露骨に対立するのではなく、
アメリカの敵でも味方でもない、
独自の国際機構である、と主張している側面がある。

反米同盟、ではなく、非米同盟である、という点が
最大の特徴となっている。

・・・

上記の、上海協力機構がなぜ重要かというと、
このブログを読んでいる人は、
将来、国連や、JICAに関連する部署に
就職したいと思っている可能性が高いと思うが、
そこにいくと
(または、その前の、開発系の大学院などで)
いやというほど、これまでの国際協力の歴史を
教わることになる。

が、それはすべて、
国連、世界銀行、OECD,という
欧米中心の西側陣営の考え方である。

(旧東側陣営の、COMECONの考え方や、
 全く新しい同盟体である、上海協力機構のことなど、
 きみたちが、教わることは、まずないだろう。)

世の中は、
資本主義、市場経済、グローバリゼーションが
すべてではない。
まったく対極の考え方もあることを
知っておく必要がある。

また、そうした方法論で
うまくいってきたのなら、ともかく、
実際は、かなりの失敗をしてきているのだ。

それなのに、
今度こそ、大丈夫だ、という言葉を
信じる方が、どうかしている。

ともかく、
旧東側陣営の考え方や、
新興国と呼ばれる国々の考え方や
その動きも
注意深く見つめていく必要がある。

・・・
・・・

上記に加え、
ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団
などを始めとする、
企業のCSR系財団が、
最近、
国際協力の世界に、どんどん参入してきている。
かつ、
独自の動きを見せている。

大企業の経済力が、
国家予算をしのぐほど大きくなったことは
たびたび、ブログで紹介してきた。
その企業たちが国際協力の世界に参入すれば
下手をするとOECDをしのぐほどの
影響力を持つことになる。

・・・

また、
オイル・マネーを動かしている
世界の億万長者が作った財団なども
それぞれが
(OECD諸国から見れば)
「勝手な」動きを開始した。


・・・
・・・

このように、国際協力の世界は、
世界情勢の激変にともない、
どんどん移り変わってゆく。

貧困の削減に関しても
どんな
方法論が正しいのか、
上記の内容を読んだだけでは
かいもく見当もつかない、はずだ。


そもそも、
貧困とは、なんなのか?

国際協力とは、誰のためにするものなのか?

市場経済は、やはり、止められないのか?

国連と世界銀行という枠組みでは、ダメなのか?


だとしたら・・



最後に、私の考える、
こうすることが最善だ、という方法論を示すことは簡単だ。

しかし、
今回は、それはしないでおく。

是非、
私の意見をきく前に、
いったいどうしたらいいのかを、自分で考えてみて欲しい。


「本当に意味のある国際協力」とはなんなのか?


あなたに、考えて欲しいのだ。


国際協力の歴史(国際機関編)その1

.
これまでの国際協力の歴史を、概説しておこう。
今回は、国際機関の国際協力に関する考え方の変遷を解説する。

日本政府が行う(途上国への)二国間援助や、
民間のNGO(非政府組織)が行った活動は
今回紹介するものとは、かなり異なる流れとなっているので、
後日、また別に紹介する。

.
この、世界全体の国際協力の流れを紹介するためには
中軸となる国際機関である、
国際連合(UN)、世界銀行(WB)、経済協力開発機構(OECD),
などが、どういう立場で創設されたかを
知って頂かねばならない。

(要するに、世界を良くしようとする団体にも
 いろいろ内部に問題を抱えている、ということ。)

これには、
第二次世界大戦の戦勝国と敗戦国の関係、
資本主義陣営と、共産主義陣営の関係、
先進国側と、途上国側の関係、
などが
複雑に関係しており、簡単には説明できない。

よって、
わかりやすくするために、
かなり簡略化した歴史を、以下に紹介する。

(が、それでも長くなってしまった。)
(しかも、今回だけでは終わらず、次回に続く内容となった。)

・・・
・・・

1939年から1945年まで、第二次世界大戦があった。
連合国と枢軸国に分かれて戦った。

連合国の主な国は、
イギリス、フランス、アメリカ、カナダ、
中華民国、ソビエト連邦、オーストラリア、など。

枢軸国の主な国は、
ドイツ、イタリア、日本、満州、タイ、
ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、など。

この戦争で、数千万人の人々が死亡し、
特にヨーロッパの国が疲弊した。

結果は、連合国が勝ち、枢軸国が負けた。

(戦時中の)連合国のことを、英語で記載すると
United Nations となり、
(現在の)国際連合と、まったく同じ綴りとなる。

これに象徴されるように、
戦後、1945年にアメリカで発足した国際連合とは、
基本的に、
第二次世界大戦の戦勝国(連合国)たちが
その後の世界も(引き続き)自分たちがコントロールするために
作られた組織である、という側面がある。

具体的には、国連憲章の中で、日本を含む旧枢軸国には
「敵国条項」が適応されている。

(1995年、この敵国条項の削除が国連総会で(ようやく)決議されたのだが、
 なぜか現在でも国連憲章には明記されたままであり、削除されていない。)

・・・

さらに、
この国際連合は、様々な問題点を包含していた。

一つは、なんらかの議題に対する議決をしても、
それには何の法的強制力がないのである。

つまり、その議決された内容に対して
(国連加盟国たちが)従わなくても
なんの罰則もないため、
事実上、国連の議決など、なんの意味もない、とも言える。

もう一つは、
国連軍などの派遣を決める「安全保障理事会」
というのがあるのだが、
この常任理事国になっている国が、五つある。

それらは、イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、中国、である。

この五カ国は、「拒否権」を持っているため、
自国に都合の悪い決定に対しては、それを発動して
国連の動きを止めることができる。

さらに、国連軍の派遣などに対しては
この五カ国の協議で決定しまうことができ、
かつ、
この決定だけが、あらゆる国連の決定の中で唯一、
「法的拘束力」を持つのである。

(国連加盟国たちは、この常任理事国五カ国が決めることには
 従わなければならない、と明記してあるのだ!)

(具体的には、軍事行動の要請、経済制裁の発動、などを
 国連加盟国に対して、事実上「命令」できることになる。)

すなわち、国連とは、これら常任理事国五カ国の
ためにあるような組織だ、という側面がある。


補足1: 
ちなみに常任理事国5ヶ国の「拒否権」の発動回数

 ロシア(ソ連)  122回
 アメリカ     82回
 イギリス     32回
 フランス     18回
 中国        5回

補足2:
これほどの大きな問題を抱えているのが国連という組織だが、
現実問題としては、192か国という
最も大きな国々が加盟している国際機関が
この国連である。

よって、世界の様々な問題を解決していくためには、
まず、この組織をどう改革していくか、
ということを考えるのが中庸を得た(かつ現実的な)方法論と
思われるのだが、
この「国連改革」は
(みんなが必要だと思っていながらも)
まったく進んでいない。

理由は、上記の常任理事国たちのどこかに、拒否権を発動されれば、
一発で終わりだからだ。

こんな組織に、人類の未来がかかっているかと思うと
頭痛がしてくる。
なんとかして、改革をしなくては・・


・・・
・・・

少し戻って、
1944年、
第二次世界大戦で、あまりにもヨーロッパの国々が疲弊したため、
これらを復興するための国際会議が開かれ、

国際復興開発銀行(IBRD)(後の世界銀行の母体)と、
国際通貨基金(IMF)の設立が、決定された。

1946年から、その業務を開始した。

国際復興開発銀行(IBRD)は、「長期的」な資金の供給を担当し、
国際通貨基金(IMF)は、「短期的」な資金の供給を行う、という分担だった。

いずれも、ヨーロッパを復興させることが目的だった。
(最初は、開発途上国を救おう、という話ではなかった。)

また、
国際通貨基金の専務理事は、代々、ヨーロッパ人が任命されることとなり、
世界銀行(国際復興開発銀行など)の総裁は、代々、アメリカ人が
任命されることとなった。

(上記は、明文化されていないが、事実上、そうなっている。)

すなわち、欧米を中心として、今後の世界を発展させていこう、という体制が
この段階で既に、出来上がってしまっていたのである。

(これが、最初の間違いだったかもしれない。)

・・・

一方、もう一つの動きが、世界にあった。
それは、第二次世界大戦の終結と同時に始まった
「米ソの冷戦」であった。

資本主義陣営と共産主義陣営との「陣取り合戦」が
始まったのだ。

1948年、
アメリカは、
(表向きは)戦争で疲弊したヨーロッパを復興させるとう名目で
「マーシャル・プラン」、というものを提案し、
欧州経済協力機構(OEEC)を設立した。

(マーシャルとは、その当時のアメリカの国務長官の名前である。)
(この欧州経済協力機構(OEEC)が、のちの、経済協力開発機構(OECD)の元になる。)

簡単にいうと、この組織の目的は
ヨーロッパを復興させるという名目で、
東ヨーロッパの国々などにアメリカが資金援助をし、
共産主義勢力の拡大を阻止しよう、というのが、本当の目的だった。

ソ連側も、アメリカのこの動きを警戒し、
東欧諸国に、警告を発していた。


すなわち、
1940年代は、
まず、戦後のヨーロッパ諸国を復興させることが優先された時期であり、
かつ、
欧米中心主義の中で、国際通貨基金(IMF)と世界銀行(の元)の創設が行われ、
かつ、
米ソの冷戦の開始に伴う、「資本主義と共産主義の陣取り合戦」が目的での
各国への資金援助が行われた時期だったのである。

・・・

1950年代から1960年代は、
ヨーロッパの復興がおおよそ終わり、
国際復興開発銀行(IBRD)(のちの世界銀行)は、
途上国の開発支援をすることに
その業務を変更していくことになる。

国際復興開発銀行(IBRD)と、
1960年に設立された国際開発協会(IDA)を合わせて
世界銀行(WB)と呼ぶようになった。

世界銀行は、広く各国で、
インフラ(道路・交通・発電・通信など)の建築資金援助などを行っており、
日本の東海道新幹線、東名高速などを作る資金を出してくれたことは、有名。

(1956年、東海道新幹線の実現可能性調査。
 1961年、世界銀行が日本へ8千万ドルの貸し付け)

このインフラを作るための公共事業は、各国で雇用を生み、経済を活性化させ、
多くの国の国民総生産(GNP)を増加させることになった。

このように、
道路などを建設することにより、生活基盤と経済基盤を創出し、
その国の経済力のもとを作れば、
やがて、民間の企業が成長してゆき、
GNPなどの経済指標も改善され、
その国の貧困は、解決されるであろう、と考えられていた。

繰り返し説明すると、
経済基盤を作り、その国の大企業を発展させれば、
その成長に引っ張られて、
貧しい庶民に対しても、雇用の拡大が起こり、
貧困は、改善されてゆくはずだ、という理論である。

このような考え方を、
「トリックル・ダウン・セオリー」と呼ぶ。

(私のブログの、貧困の章を参照)
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/51793984.html

・・・

こうした世界中での「開発」が全盛の中、
1950年に、欧州経済協力機構 (OEEC)にアメリカとカナダが参入し、
1961年に、経済協力開発機構 (OECD) に名前を変え、組織を改編した。

最初の加盟国は、以下のような国々であった。

 イギリス、フランス、スペイン、ドイツ、イタリア、
 アメリカ合衆国 、カナダ、オーストリア、など欧米の20カ国

1964年、急速に経済発展した日本も、このOECDに参加することになる。

OECDは、資本主義で、市場経済を前提とする先進国で占められており、
こうした国々が結束して、世界の経済と開発を扇動し、
しかも、
アメリカから世界銀行に総裁を送りだし、
ヨーロッパから国際通貨基金(IMF)に専務理事を送りだす、
という体制が、以後ずっと続くこととなった。

・・・

一方で、悪いことばかりが
続いていたばかりではない。

1960年代に、「学問」として国際協力が
進化していった。

1960年代後半、
米国の国際開発庁(USAID)(日本のJICAに相当する政府機関)が
「ロジカル・フレーム・ワーク」(通称、ログ・フレーム)
と呼ばれる
国際協力の方法論を開発した。

これは、本来の目的は、
アメリカ議会から国際協力のための予算を獲得するための
書類を作成するためのものだった。

しかし、この方法論は、素晴らしく、プロジェクトの
目的・目標・活動・投入・成果、といった一連の流れの
相互関係を明確にし、論理性と合理性を証明するものだった。

この「ログ・フレーム」は、その後
ドイツ技術協力公社(GTZ)によって改良され、
「目的志向型プロジェクト立案手法」(ZOPP)
として世界中で使われることとなり、
この流れを受けて、
日本の国際協力機構(JICA)が、日本独自の方法論である
「プロジェクト・サイクル・マネージメント」(PCM)を
開発することになる・・
のだが、今回は、これらの話は、あまりしない。

ともかく、この時代に、
こうした方法論の「原案」が作られた、ということだけを
まずは記憶して頂きたい。
実際にこれらが使用されるのは、ずっとずっと後のことになる。

・・・

1970年代に入り、
「何かがおかしい」、
ということに、多くの国や、NGO(非政府組織)たちが気づいた。

世界銀行などの行った「開発」は、
二つの大きな「格差」を産み出したのだ。

一つは、
途上国から輸出される(安い)資源によって、
先進国がますます経済的に発展し、
先進国と途上国の経済格差は、かえって広がってしまったこと。

もう一つは、
途上国内での、貧富の差も、どんどん広がっていったこと。

この現象が生じる理由は、以下である。

途上国の中でも、
莫大な世界銀行などの予算を使い、
公共事業と称しながら、実際は自分の会社を発展させた企業家が多いこと。
また、
世界銀行は、まず、その国の政治家に援助の話をするため、
その開発用の予算を、自分が選出させる選挙区に投入させたり、
自分の親戚が経営する会社に公共事業を行わせるなどの方法で、
利権獲得に成功した政治家が、
(本来、国全体の開発に使われるべき)富を、独占してしまったこと。

さらに言えば、
こうして貧富の差が拡大することにより、
貧困層の人々が、「もっと貧困」になってしまう現象が起こる。

その理由は、
こうして途上国の経済が発展すると、
物価の上昇(インフレ)が起こることが非常に多く、
それに対して、貧困層の賃金は不当に低いままに抑えられるため、
結果として、食品などの日常生活品の物価は上がったのに、
自分の給料は変わらないので、相対的に、より貧困になる。

簡単に言えば、
昨日まで100円で買えたパンが、今日から200円になってしまった!
ところが自分の収入は変わっていないので、困る、ということだ。

つまり、貧困層の人々にとっては、
国際協力や開発など、しないほうが良かった、かもしれないほどの
結果になっていたのだ。

・・・

この結果、
アメリカを始めとする、経済協力開発機構 (OECD) に参加する先進国の国々は
途上国の人々や、(現状を知る)NGOたちから、次のように呼ばれることとなる。

OECDは、「先進国クラブ」あるいは「金持ちクラブ」である、と。


(こう呼ばれるOECDの国々の中には、日本も入っており、
 同様の批判を受けている。)

・・・

以上のように、1950年から1960年代までに行われた
国際協力または開発というものが、全く失敗だったことに
多くの援助団体が気づいた。


こうした流れの中で、
1973年に、先ほど登場した、米国の国際開発庁(USAID)が
「New Direction 政策」を発表した。

この中に謳われていたのが、途上国の低所得層を対象にした
「ベイシック・ヒューマン・ニーズ」(BHN)
という概念だった。

これは、途上国の貧困層の人々のために、
人間として最低必要な、
教育・医療・水の保障・命の安全などを
確保していこう、という考え方である。

(要するに、先進国をさらに経済発展させるために、
 途上国の開発をするのではなく、
 また、
 途上国の中の富裕層だけに富を分け与えるのでもなく、
 ただ、
 本当の貧困層の人たちに「最低必要なもの」を
 与えることが、優先されるべきだ、という考え方である。)

(このように、アメリカというのは、面白い国で、
 一方で、市場経済の考え方で、世界中の経済を席捲し、
 「世界の貧富の差を拡大」させているのと同時に、
 もう一方では、「本当に意味のある国際協力」を生みだすための
 「ログ・フレーム」の開発や、
 「ベイシック・ヒューマン・ニーズ」(BHN)の考え方を生み出したのも
 このアメリカなのである。
 戦争で、イラクやアフガニスタンを攻撃したこともある通り、
 良いところと悪いところを両方、多数包含する多面的な国だ、
 ということになる。)

・・・

さらに、この時期、以下の宣言が行われることになる。

1978年、中央アジアのカザフスタンの首都アルマ・アタ(現アルマティ)において、
WHO(世界保健機構)とユニセフ(国連児童基金)が合同で、以下の宣言をした。

「西暦2000年までに、すべての人に健康を」

これを「アルマ・アタ宣言」とよぶ。


この目標を達成するために登場したのが、
「プライマリー・ヘルス・ケア」(PHC)という考え方である。

プライマリー・ヘルス・ケアとは、
貧しい国の人々が、自分たちのいる地域でコミュニティー(地域共同体)を作り、
健康増進を図り、地域を活性化させ、最終的には「貧困の克服」をするところまで、
自ら考えていってもらう、という概念であった。

(詳細は、プライマリー・ヘルス・ケアのブログを参照)
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/51946633.html

・・・

こうした
「ベイシック・ヒューマン・ニーズ」(BHN)の概念の誕生も
「プライマリー・ヘルス・ケア」(PHC)の概念の誕生も
いずれも
途上国の貧困層の人々を、なんとかしよう、
という概念が、ようやく生まれたことを示すものたちであった。

で、
1978年ごろから、
世界銀行も、経済協力開発機構 (OECD)も、
上記二つの概念を、援助の目的の中に、取り込むことになる。

また
経済協力開発機構 (OECD)は、
国際協力や開発を行うための専門の組織を内部に作っていた。
その名称を、開発援助委員会(DAC)、という。

このDACは、プロジェクトの評価などに用いられる
様々な判断基準やプロトコールを提唱している。

(詳細は、プロジェクト・マネージメントのブログを参照)
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/51305090.html

で、このDACの考え方にも、
「ベイシック・ヒューマン・ニーズ」(BHN)の概念と
「プライマリー・ヘルス・ケア」(PHC)の概念が
取り込まれることとなった。

・・・

で、これらの概念が生まれたのは、良かったのだが、
実際は、なかなか、上手くいかなかった。

理由は、
考えてみればわかると思うが、
貧困である人々とは、その国の社会に、そもそもの問題があり、
政治がめちゃくちゃで(内戦があったり、賄賂が横行していたり)、
働く場所がなく(作っても売る場所もなく)、
学校も病院もない、などの
ないない尽くしの状態になっていることが多い。

そうした中に、上記のような「概念」が重要です、
とだけ言ったところで、なんの意味もない。

(現場で、実際にそれを改善するための、具体的な方法がない、のだ。)

また、お金を渡すにしても、どこの部署の、誰に渡すのか、
ということが問題になる。
お金が悪徳政治家の利権獲得に利用されては意味がない。

貧困を改善するためには、
中央の省庁から、都道府県レベル、市町村レベル、という
少なくとも3段階の行政において、
それぞれに、プロジェクトを担当する部署が必要なのである。

1.計画の作成と実施
(事前調査・策定・実施・(途中)監視・結果・その後のフォロー)
2.予算の管理(賄賂や利権獲得に使われていないか)
3.教育
4.医療
5.環境問題等

上記すべてに関して、それぞれ、

部署があるか?
人はいるか?
人は十分訓練(研修)されているか?
実際に、仕事をしているか?(さぼってないか?)
(その部署に)予算はあるか?
データの集め方、集計の仕方、中央への報告の仕方は正しいか?

などを、総合的に行っていかなければならない。

ところが、途上国には
上記のことを実施するための
何から何まで、すべて、ない、のである。

参考:
国際機関が資金援助をする時は
その国の政府に渡すことが多いため
上記のように、
中央から、地方へ、さらにその中の小さい村へ、
というような、3段階ぐらいの行政のシステムで
お金が降りていくことが多いのだ。

よって、これら全てのシステムが、
しっかりしていないと、機能しないのである。

こうした行政の機能を、ガバナンス(統治)という。
途上国の行政システムは、このガバナンスが
非常に弱く、いい加減であるため、
プロジェクトを行おうとしても、うまくいかない
ことが多い。

参考:
NGOが国際協力を行う場合は、
直接的に、地方の村で活動するため
上記のような問題は、あまり起こらない。
(しかし別な問題が生じるが、その件は今回は触れない)

・・・

と、いうわけで、
1980年代、
次に、国際協力団体たちが目指したことは、
途上国政府の、構造改革、であった。

これを、「構造調整政策」と呼ぶ。

ところが、
蓋を開けてみたところ、
この構造改革で行われたことは
1.途上国の国家公務員の削減と、
2.省庁の簡略化、
などであった。

その理由は
途上国のほとんどが、大変な借金を、先進国に対して
かかえていたからだ。

途上国に自立してもらうためには、
まず、自分の国の借金を返し、
その後、自分の国をよくしてもらおうと思ったのである。

また、
運の悪いことに、1982年ごろ、オイル・ショックが起こり、
世界中の経済に悪い影響を与えた。

これが、(先進国も苦しくなったために)
途上国の大量の債務問題を露呈させ、
まずは、債務を返却させよう、という話になっていったのである。

さらに、
途上国の市場を、解放し、
先進国たちの市場経済に組み込むために、
途上国で行われていた公共事業を停止させ、
代わりに、それらの事業を、民営化させた。

経済を自由化することにより、
市場経済が、途上国まで恩恵を与え、
先進国も途上国も、ともに経済発展を続けていくはずだ、
という経済理論であった。
(そうすれば、自動的に途上国の貧困は解消されるのだ、と言う。)

これは、いかにも、
(アメリカ主導の)世界銀行の考えそうな理論であった。


で、実際に途上国で実施された構造改革は、
以下のような内容であった。

1.国家公務員の削減
2.省庁の簡略化
3.一般民衆への増税
4.公共事業の閉鎖。それらの民営化。
5.様々な補助金の撤廃
6.経済の完全な自由化

などである。

上記を読んでみればわかるが、これらは
一般の庶民にとっては、状況が悪くなることばかりである。
(貧困層が、よけい貧困になっていってしまった。)


で、この結果は・・・

かえって、途上国の政治が、
めちゃくちゃになってしまうことが多かった。

特に、この「構造改革」の失敗の程度が、アフリカではひどかった。
サブサハラ(サハラ砂漠より南)では、もう、壊滅であった。

この途上国政府の構造改革の大失敗のことを、
「空白の10年」
と呼ぶ。

・・・

以上を読んでみて、わかったと思うが、
国際協力の世界は、
失敗に次ぐ、失敗の連続であったのだ。

ほとんど、うまくいっていない。

方向を転換しても、またまた失敗している。

こうした事実を皆さんがあまり知らない理由は、

1.政府が、広報していないため。
  (自分たちの失敗を、わざわざ国民に通知する人はいない)

2.マスコミにたずさわる人で、国際協力に精通する人が
  ほとんどいないため。

以上を踏まえた上で、さらなる問題が生じる
1990年代以降を、次回、解説していく。

・・・

このブログの続きはこちらへ
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/65095358.html



コンパクト・デジタル・カメラの憂鬱

.

(最初に、言い訳。
 今回の話は、カメラに興味がないと、意味不明です。あしからず。)

.
私は、コンパクト・デジタル・カメラでは、いい写真が撮れない。
一眼レフでないと、ダメだ。

そう思いこんでいた。

しかし、
これではいけないと思い、
コンパクト・デジタル・カメラ(以下、コンデジ)で、
いい写真を撮る練習をすることにした。

理由は、

1.一眼レフは、重くてでかいので、普段持ち歩けない。
  ちょっと撮りたい時に、すぐ撮れない。

2.私は写真家として活動する時間よりも、
  医業や講演活動その他で、全国を巡業する時間などが多いが、
  その時に、でかい一眼レフなど、持っていない時に
  素晴らしい風景に出会うことがある。

3.コンパクトデジタルカメラだと、シャッター音が鳴らないため
  中東などの紛争地帯に行って撮影する時に、より安全。

と、いうわけで、ともかく、常に
1台の、コンデジを持ち歩くことにした。

が、
それには、何かを買わねばならない。
買うには、「選ぶ」必要がある。

どうやって選ぶかというと
コンデジの欠点が少ないものを選ぶことになる。

で、以下、
コンデジの欠点を、列挙しておく。


コンデジの欠点 8個 (私だけの思い込みも有り)

1.
いい写真を撮るために必要なのは、
道具のカメラの「性能うんぬん」ではなく、
「いい写真を撮ってやろう」
という精神的な気構えと、その後の集中力なのである。

一眼レフは、でかく重いために
これを両手にしっかり持った以上は
いわゆる「戦闘態勢」になり、
「撮る気になる」のである。

これが、実はもっとも重要なことだ。
この「撮る気」にさせてくれる『立派な』コンデジには
なかなかお目にかかれない。


2.
写真を撮るには、三つの要素がある。
それらは、構図、露出、ピント、である。

この中で、最も重要なのは、構図、である。
この構図を決定するのが
一眼レフの場合、ファインダー、なのだ。

ファインダーとは、写真を撮るために覗き込む
あの、穴、のことである。

ここを覗き込むと、撮影したい構図だけが
日常の世界から「切り取られ」、
自分の世界を「創造する」ことができるのだ。

(撮影しようとする部分だけが見えて、
 それ以外の、まわりの部分は、黒くなって見えない。
 このことが、切り取られたように、感じられる。)

つまり、ファインダーを除いて
「創造したい『自分の世界』だけが見えること」が
何よりも重要な要素なのである。

しかるに
コンデジでは、裏面にある液晶を見て構図を決めるため
周りにある、その他の風景も見えてしまう。

少なくとも、その周りは、まっ黒ではない。

このために、
芸術家(?)モードに入っていくことができず
撮る気にならない・・のである。


3.
シャッターの音も、ひとつのポイントだ。

一眼レフの最上級機を使ったことがある人なら
わかると思うが、
ニコンやキヤノンの
「フラッグ・シップ・モデル」(最上級機)で
シャッターを押すと、ものすごく「いい音」がする
のである。

これが、快感なのだ。

今、まさに、自分の世界を「切り取った」という
証(あかし)となるのが、このシャッター音!


あるエッセイに書いてあったのだが、
写真家とは、
このシャッター音に興奮し、陶酔する「変態」
なのだそうだ。

ある意味、それは正しいと思う。


それはともかく、
最上級機でなくても、
一眼レフであれば、それなりにいい音がするので
撮る気になる、のである。

が、コンデジでは、音は鳴らず、
コンピューターが偽造した、
偽物の、シャッター音を
聞かされる、ことになる。

これが、ものすごく興ざめしてしまうのである。


4.
さらに興ざめするのが、
タイムラグ、である。

一眼レフは、
シャッターをきれば、それと同時に、
画像が撮影される。

コンデジは、シャッターを押してから
0.5秒から、下手をすると1秒後に
シャッターが切れる。

この、タイムラグが、ものすごく、いやな感じ、なのだ。

撮影をする楽しさ、とは、
シャッターを切った「瞬間」に
フィルム(デジカメの場合、CCDか、CMOS)に
画像が焼きつけられ、
自分の世界が創造されるところにある。

押してから、しばらくたたないと
自分の世界が創造されないのは
ものすごーーく、興ざめ、なのであーる。(涙)

これが、撮る気にならない、最大の原因かもしれない。


5.
あと、撮影をする時に、
一眼レフであれば、RAWという画質で撮影できる。

これは、データが圧縮されていないため
最も画質がよい。
圧縮されていないデータは、後日、
色や明るさ、トーンカーブなどを調整しても
画質があまり劣化しないので
プリントや出版の時に調整しやすいため、
プロのほとんどの人は、このRAWモードで
撮影するのである。

もちろん、私も、そうしている。

コンデジは、普通、JPG(JPEG)でしか
撮影することができない。

JPGは、データが圧縮されているため
画質が悪い。
また、圧縮された画像を加工すると
ものすごく画質が劣化するため、
プリントや印刷媒体には、ほとんど使えない。
(大きさにもよるが。)

これが、実用上、コンデジが
仕事では使えない、最大の理由である。

(ただし、コンデジでも、
 ニコンやキヤノンの上位機種であれば
 RAWで撮影できるモードが付いている。)


6.
あと、一般に、

コンデジは、軽い。
軽すぎて、手ぶれ、し易い。

また、持ち方も、これに関係する。

一眼レフの場合、両手で持つ以外に
ファインダーを覗き込むために、
目のまわりに、ファインダーを押しつけることにより、
両手と合わせて、3点で、カメラを固定している。

(しかも、両肘を、ぎゅっと締めた感じでカメラを持つはずだ)

コンデジの場合、両手で、カメラの2点を持っており、
かつ、脇を開いた状態で、裏の液晶を見ながらの撮影のため、
ぐらぐら揺れやすい。

これでは、手ぶれするのは、当たり前だ。

(手ぶれ補正機能など、基本的に、まったく信用していない)


7.
いい写真を撮影するためには、
「明るい、大口径のレンズ」が必要である。

カメラのことを知らない人に、わかりやすく言うと、
F2.8とか、F4とか、F5.6とか、書いてある数字が
小さいほど、いいレンズ、なのである。
明るいレンズ、なのである。

最低でも、F2.8より明るいレンズでないと
いい写真は撮れない。

この理由は、二つある。

明るいレンズのほうが、正確にピントを合わせられる
確立が高くなる。

もう一つは、
明るいレンズで、かつ、絞り解放で撮影した場合、
(F2.8のレンズで、F2.8のままで撮影した場合)
背景が、ぼけるのである。

背景をぼかすと、ぴんとを合わせた被写体だけが、くっきり写り、
浮き上がって見えるため、
なんとなく、雰囲気のある、
なんとなく、芸術的な写真に、見えてしまうのである。

ちなみに、この技術は、女性ポートレートを撮るときの
基本、となっている。

で、
一眼レフであれば、F1.2という
ものすごい明るいレンズまであるのに、
コンデジでは、F4.0とか、よくても、F2.8が
いいところ、である。
このため、雰囲気のある、芸術的な写真は、撮りにくい。


8.
最後に、

コンデジは、
ピントを合わせる能力が、低いことも、ネックになっている。
ちょっと暗いところだと
ほとんどピントが合わなくなる。

一眼レフの上位機種であれば
相当暗くても、画面の真中付近であればピントを合わせてくれるのだが。


また、
コンデジは、ピントが合うまでの時間が遅い、ことも
いらいらさせられる。

シャッターボタンを半押ししたら、すぐに
ピントを合わせてもらいたい。

で、
すぐに、構図を、左右に移動させて、
自分の好きな構図で、切り取る・・

と、思っても、
今度は、すぐ、シャッターが切れない・・
ということで

いらいら、いらいら、いらいら


・・・
・・・

で、こうした欠点の全てを克服できるコンデジは
現在、どこにも存在しない。

しかし、欠点が少ないコンデジは、
いくつか存在する。



結論を話すと、
RICOH GR Digital II
という機種を買ってみた。

http://www.ricoh.co.jp/dc/gr/digital2/

この機種は、上記の欠点の約半分を
クリアーしている点で優秀な機種だ。

ピントを合わせる速度が速く、
小さいのに比較的重く、このため、手ぶれが少ない。

F2.4と、コンデジでは最高クラスの明るいレンズであり、
このため、背景をぼかすことができ、
かつ
なんといっても、RAWで撮影できる。

このため、
プロでも、使っている人が多い。

さらに
リコーのGRレンズは、
写りが、ものすごくいい
という『神話』があり、
このため
(それが、本当がウソかは、ともかくとして)
「撮る気にさせてくれる」
のである。


さあ、
今日から、このコンデジを片手に
ちょっとずつ、撮影をしてみようと思う。

(一眼レフでなくても、いい写真が撮れるように。)



あ、そうそう。

一眼レフよりも、コンデジの方が得意なことが
一つだけ、ある。

それは、接写能力である。マクロ撮影ともいう。


小さいものに、接近して撮影できる能力は
なぜか、コンデジのほうが、高いのだ。

と、いうわけで、最初に撮ったのは、

こいつ!

キリギリス01

林檎をかじった少年、ウィリアム

.
イブが見ると、その「知恵の木の実」は、
いかにも美味しそうで、目を引き付けられた。

ヘビは、
イブがそれを食べるよう、そそのかした。

イブは、ついに実を取って食べた。
一緒にいたアダムにも、それを渡したので、彼も食べてしまった。

神は怒り、アダムとイブを楽園から追放した。

・・・

以上は、旧約聖書の有名な一節「楽園追放」である。

知恵の木の実は、「林檎」であるとされており、
ヘビは、「悪魔王サタン」の化身(けしん)である、とされる。

今日は、これとは違った、林檎にまつわる話を紹介しよう。

・・・

1955年、アメリカのシアトル付近で
ウィリアム少年は生まれた。

小学校の頃から、理科と算数が得意だった。
私立の中学・高校に入ると、学校で購入していた
コンピューターに興味を持つようになる。

1973年、大学に入ったが
プログラム開発に夢中になり、大学を休学(そのまま退学)、
BASICインタプリタを完成させ、それを企業に売り込んだ。
1975年、さらにそのまま、自分の会社、MS社を立ち上げた。

1980年、彼はIBM社より、
OS(コンピューターの、オペレーティング・システム)
の開発の要請を受けた。

この際、まず彼は、
当時、最も普及していたOSを他社から購入した。
このプログラムをアレンジし、自分の会社の名前を冠したOS、
MS−DOSを完成させることとなる。

このMS−DOSは、業界を席捲し、
かなりの市場シェアを持つようになった。

しかし、
このMS−DOSは、(一見)難しい記号の羅列であり、
プログラム言語などを扱える一部の人でないと扱えず、
一般の人には普及しないだろうと、彼は考えていた。


こんな悩みを持つ彼の眼の前に
一つめの「林檎」が転がってきた。

マッキントッシュという名前の林檎が。

・・・

1984年、初代マッキントッシュが発売された。
これは、
アップル社が製造するパソコンのシリーズの名前で
スティーブ・ジョブズらが開発した独特のOSを持っていた。

(マッキントッシュとは実在する林檎の品種の一つ、である。)

さて、昔、
一つのファイルを、ある場所からある場所へコピーする時に
MS−DOSの場合、
COPY: FILE A TO B
などと、コマンド(命令する言語)をキーボードで「書かなければいけない」
のに対して、
マッキントッシュは、
マウスでそのファイルをつかみ、移動したい場所の上で
ぼとっと落すだけだった。

(今のパソコンを使っている人には
 信じられないだろうが、一昔前までは、
 みんな、ファイルのコピーをするために、
 上記のような言語を、いちいちキーボードで入力していたのである。)

この、マッキントッシュという「林檎」をみた
ウィリアム少年は、自分の会社に、この林檎を導入したいと思った。

当時、マッキントッシュは、100万円ぐらいする高級なパソコンで
有名でお金持ちのイラストレーターでないと、買えない値段だったのだ。

この林檎を一般の人に普及しようとして、彼は
マッキントッシュを、「マネ」することにした。

で、マネして「無理やり」作ったOSが、
ウィンドウズ、と呼ばれる、新しいOSであった。

当時、まったくうまくいかず、評判はすこぶる悪かった。

しかし
ウィンドウズ3.1ごろからアメリカでは普及しだし、
ウィンドウズ95で、日本でも、ブレイクした。


ウィリアム少年は、他人が作ったOSを改良し、
さらに、人々が使いやすく変える、という能力を持つ
天才、だったのである。

(MS−DOSの時も、このウィンドウズでも、同じである。
 彼が、オリジナルを発明したわけではない。)

現在、
ウィンドウズXpおよびウィンドウズ・ヴィスタが
世界中の人に使われていることは、説明の必要など、ないであろう。


こうして、彼の会社の名前である
MSこと、マイクロソフト社
と、
ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ・3世、
通称、ビル・ゲイツ
の名前を知らないものも、ない時代となったのである。

・・・

彼のお陰で、パソコンは、一般の人にも使いやすくなり、
少々、パソコン音痴の、主婦でも、OLでも、高齢者でも
インターネットに接続するようになった。

国民みなパソコン1台の時代になるのも、
そう遠い話ではあるまい。

インターネットの普及とあいまって
人類は、まさに、知恵の果実、を手にいれたことになる。

一方で、
インターネット上のブログや掲示板での誹謗中傷も激しくなり、
それに傷ついた青少年が、
秋葉原で起きたような「連続無差別殺傷事件」などを起こすことも
今後、増えていくのであろうか・・。

まさに、
人類は、ヘビ、こと悪魔王サタンに、踊らされている
可能性もある。

・・・

それはともかく、
ウィリアム少年は、
アメリカの雑誌フォーブスによると
その個人資産は、2007年に、590億ドル(約6兆円)であり
14年連続の世界一の富豪だ、ということになる。


この億万長者になり、この世の「楽園」にいるであろう、ウィリアム少年に、
「イブ」が、ささやいた。


第二の林檎が、転がってきたのである

・・・

メリンダ・フレンチは、1964年に、テキサス州で生まれた。
1987年にマイクロソフト社に入社すると
1994年に、社長(会長)のウィリアムと結婚した。
1996年に長女、
1999年に長男をもうけた後、
彼女は、
夫ウィリアムに、こうささやいた。

「あなた、お金は、もういっぱいあるでしょう?
 そろそろ、慈善事業を、始めてみないかしら?」

・・・

2000年、
ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団が作られた。

http://www.gatesfoundation.org/default.htm

もともと、メリンダもビルも、
1994年ごろから、ユニセフやWHOの幹部と
懇意に交流をもっていたらしい。

2008年7月、
ウィリアムは、マイクロソフト社の第一線から身を引き、
今後は、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団での活動を
重視すると、マスコミに報じられた。

・・・

ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団は、
途上国のエイズ・マラリア・結核の根絶や
教育水準の改善にも、莫大なお金を投資している。

参考: 世界エイズ・結核・マラリア対策基金(グローバル・ファンド)
http://www.theglobalfund.org/en/

しかし、
この財団が、昨今、力を入れているのが
以下の活動である。

「ワクチンと予防接種のための世界同盟」

GAVI
( Global Alliance for Vaccines and Immunization )
http://www.gavialliance.org/

2005年、財団は、このGAVIに
に、7億5000万ドルの寄付をした。

すなわち、世界中の子どもたちに
平等にワクチンの接種を受けさせよう、という活動である。

国際協力の分野では、ワクチンの普及のことを
EPI : Expanded Program for Immunization
と呼ぶのだが、
このEPIの普及に、ものすごく力を入れているのである。

この分野においては、
ユニセフ、WHOなどの国連機関とならんで
この、NGO(非政府組織)であるGAVIが
同列の発言力を持っている、ところまで来ている。

なんといっても、持っている財力がものすごく、
かつ、
GAVIの職員は、国際機関であるユニセフなどからの出向
なのである。

国連からNGOへ、職員が出向してくるのだから
時代は、変わったものだ。

(このように、世界の大企業が、
 本気で「企業の社会的責任(CSR)]活動をし、
 社会貢献として、NGOを作ると、
 このように、国際機関に肩を並べるまでの活動が
 できるのである。)

・・・

このように、
企業家としても大成功をおさめ、
次に
慈善事業家としても、ものすごいことをやっている
ウィリアム君の言葉に
次のようなものがある。


「自分が最も力を発揮できる分野を見極め、
 そこに自分の時間とエネルギーを集中することが大切である。」

・・・

さて、
どうだろうか??


彼の最後の言葉に対して
私は、やや、懐疑的である。

ビジネスで成功し、
自分だけが金持ちになり、
自分だけが成功しようとする場合、
上記のような方向性で、うまくいくこともある。

しかしながら、
彼が成功してきたIT関係のビジネス分野と
国際協力の世界は
まるでその複雑性が違う。


国際協力の世界は、
政治・経済・教育・医療・環境問題がいりまじり、
かつ
宗教や民族問題、文化人類学、
はては
「本当の人の幸せとは何か?」
までを考えねばならない。


自分が得意とする、ひとつの分野に
時間とエネルギーを集中して投入するだけでは
決して解決しないのである。

国際協力における、
貧困の問題の難しさ、エイズの問題などの難しさは
既に、詳細に書いた。


貧困に関する二つのブログ
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/51793984.html
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/51817170.html

エイズに関する三つのブログ
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/51420328.html
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/51445550.html
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/51463531.html

人口増加問題に関するブログ
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/51144821.html


以上を読めば、
ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団が
どんなに金をもっていようが
そう簡単に世界は、よくなっていかないことが
わかるはずだ。

なぜならば、市場経済の暴走と、人口増加問題。
この二つこそが、世界各地の貧困を作っている根本的な原因に
なっている可能性が高いからだ。

極端な例をあげるならば、
ウィリアム少年が、ウィンドウズを生み出し、
調子にのって、ITバブルを引き起こしたことこそが、
なんと、皮肉なことに
富めるものと、貧しいものとの差を、さらに拡大させた
可能性があるからだ。

(この説明は長くなるので、上記の貧困のブログを参照)


ともかく、

ウィリアム少年は、IT産業の会長で
億万長者である、という立場の「楽園」を捨てて、
今後は、
ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団での仕事に
専念するという。

彼が、愚かでなければ、
現代社会の最大の問題の一つが、
上記のような世界の仕組みにあることに、
いつか、気づくはずだ。

彼がやってきたことこそが、
世界の貧困を悪化させていた可能性があることに、気づくはずだ。


そして、その時、彼が自分の過去を悔いて
自分の総資産である、590億ドル(約6兆円)の
すべてを途上国のために、投じても
それでも世界は、たいしてよくならないことに
愕然とすることだろう。


その事実に気づいた時、
彼は、旧約聖書に書いてある通りの


「失楽園」のアダム、となる



・・・

補足1:
企業家の中には、
成功しても、慈善事業を始めず、
一生、金儲けだけをしている人もいるので、
それに比べれば
ビル・ゲイツは、はるかに「まし」である。

誤解のないように、フォローしておくが、
ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団は、
国際協力の世界では、
最も優良なCSR系財団として機能している。

・・・

補足2:
ビル・ゲイツは、こうも言っている。

「慈善事業は、最大の道楽である」と。

彼は、
国際協力を、道楽だ、と言っているのだ。

これを聞いて、私は激怒した。

彼が、こう思っている間は、
彼が、本当の「失楽園」を経験することは
ないのかも・・しれない。


Earth the Spaceship . . . ETS



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