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科学とは何かというと
次の三つである。

1.論理が、つながっていて飛躍がないこと

2.その実験(行動)の結果が、再現できること

3.上記二つを証明できない時に、多彩な側面から証明を試みること

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・・・

1.論理が、つながっていて飛躍がないこと

・・・

最も尊い科学は、「数学」である。
なぜかというと、絶対に正しい答えがある、からだ。

1+1=2

2+2=4

4+4=8

誰がやってもこうなる。
この結果が正しく、これ以外は、間違いである。

絶対的に正しい答えが、一つだけあること。

これを、科学の基本、とし、
この答えの見つけられる学問、すなわち、数学を
「最も尊い科学」
とする。

その「確からしさ」は、100%である。

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「物理学」も数学と、ほぼ同じ尊さを持つ。

ただ、一般の人には、最初の段階から
かなりわかりにくい。

理由は、
物質の、「漠然とした確率的状態」
の概念が入ってくるからだ。

例えば
原子のまわりを、電子が回っている状態を
「確率的存在」と呼ぶ。

電子が、今、この瞬間に、原子に対して
どの位置にあるか、という「絶対的答え」
があるのではなく、
電子は「雲のように広がった、輪のような範囲」に
「確率的存在」として、そこにある、
というのだ。

それが、一つの答えだ、といえばそうなのだが
一般の人には、ややわかりにくい。

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「化学」の場合、尊さが、劣る。

例えば、
Aというアミノ酸に、Bというアミノ酸を混ぜ、
そこにある酵素を加えると
化学反応が起こる。

そして
CとDというアミノ酸が生まれてくる、とする。

  ある酵素
   ↓
A+B=C+D

ところが、そう綺麗には、いかない。

AとBのうち、CとDに変わるのは
ある時は、70%ぐらいであり
ある時は、71%ぐらいであり
なかなか、完全に「一つの数字」には定まらない。

もちろん、約70%から71%の範囲で
CとDに変わる、とは言えるが、
一つの明確な答えは、ない。

これは、酵素というものが
その反応を起こす場所の
温度、
pH(ペーハー:酸とアルカリの割合)、
塩濃度(反応を起こす水溶液の塩の濃さ)、
その他、
様々な要素で微妙に変化してしまうから
である。
また、仮にそれらを完全に一致させても
まだブレが残ってしまう、のが、化学の世界だ。

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「生物学」の場合、尊さが、かなり劣る。

安定した結果は、なかなか得られない。

まず、生物学を使った実験には、


一つの細胞を使う場合、

一つの組織(肝臓・筋肉など)を使う場合、

一つの生物を使う場合、

一つの生物の群れを使う場合、


などがあるが、
下にいくにつれて、ますますその「確からしさ」
すなわち、尊さは、減っていく。


例えば、ある細胞を使って実験をするとする。

肺癌の細胞100万個に、
Zという物質を100mg(ミリグラム)投与したら、
70万個(すなわち70%)が死んだ、とする

ところが、
同じ実験を同じ環境で行っても
なかなか同じ結果にならない。
60万個死ぬこともあり、80万個死ぬこともある。

生物学の場合、答えは一つではない、のだ。

60%から80%の間で死ぬ、とは言えるかもしれないが
その「ブレ」の幅は、明らかに化学よりも大きくなる。


これは、一つの細部を構成している物質が
様々な化学物質の塊(かたまり)であるためである。

一つ一つの化学物質は、
それが永久に安定して存在しているのではなく、
毎秒、どんどん変化していっている。
一つ一つの化学物質が
A+B=C+D
になる、という反応を続けており、
しかも、時々、元に戻る反応もしている。

そうした化学物質が、およそ数億個
あつまったものが、一つの細胞である。

そうした、ある意味「いい加減な」状態の中に
Zという薬物を投与しても、
もちろん、一つの結果には、ならない。


一つの細胞ですら、そうなのだから、
その「いい加減な」細胞の塊である「生物」に
薬剤を投与すれば、もっといい加減な結果になる。
数字の「ブレ」の幅は、もっと広がる。

一つの同じ生物(マウスなど)に
同じZという薬物を投与しても
50%ぐらい効くこともあれば90%ぐらいのこともある。


上記の生物が「人」の場合、これを「医学」という。

要するに、医学というものは
かなり「いい加減な」ものなのである。
科学としての尊さは、かなり低い。


さらに言えば、
その生物が、マウス(ネズミ)であれ、人間であれ、
そうした「生物たち」(集団)に、
Zという薬物を投与した場合、
一人一人の人間が持っている細胞の組成と数は
まったく違うため、
それぞれが同じ種類の生物たち(集団)でも、
そのなかの一匹一匹(あるいは一人一人)に対する
Zという薬物の効果は、まったく違うものになってしまう。
(これを、個体差(個人差)という。)

この個体差を持つ集団に、
Zという薬物を与えて、何%の個体に効果があるかを
調べたところで、
答えは、絶対に、一つには、ならない。

「同じ種類の生物であっても」あるAという集団では
(予想どおり)7割の効果があり
別な集団では4割、そのまた別の集団では3割
かもしれない。

・・・

「医学」の場合、
マウスを使った場合の上記の「いい加減さ」に加えて
さらに
ヒトを対象にしているので「精神的な要素」が入ってくる。

例えば、
「名医だ」と言われている医師から
「この薬は効く」と言われて飲めば、
仮にそれが薬でなく、ただの小麦粉であっても
効くことがある、というものだ。


これを、「プラセボー(偽薬)効果」という。

その医師の風貌がより名医に見えて、
その薬の宣伝文句が、
よりキャッチーであれば(印象的であれば)
その効果は、高い。


また、そもそも患者側でも、
その薬が効いたかどうか、という判断は、
「なんとなく昨日よりも体調がいいような気がする」
という
患者自身の「主観的な感情(気分)」
が入ってくる場合もあるため
数字では、結果がでないことも多い。


こうなると、「科学としての尊さ」は
ほぼ、ゼロ、である。

確からしさなど、もはや存在しない。

・・・

さて、ここで、一般の社会で使われる「論理」に
話をうつそう。

題材は、なんでもいいのだが、
たとえば、「ゆとり教育」に関する議論、にでもしてみよう。

(わかりやすいように、3ステップのものを使う)


第一ステップ 日本人の子どもたちの算数の成績が、下がってきた。

第二ステップ これは算数の学習時間を減らしたからだ。

第三ステップ だから、ゆとり教育は、悪かった。


ということが、どのくらい「確からしい」かというと、
あまり、確かではない。

第一ステップから第二ステップに論理をつなげる時に、
学習時間を減らしたから、算数の成績が絶対下がるかということが
問題になるが、
これは、必ずしも、そうなるわけではない。

塾にいくかもしれないし、教師や教科書の質を上げる方法もある。
算数ではなく、理科や社会という時間の中で
算数を使う(応用させる)という方法も考えられる。

が、まあ、一応これは、関連性が、まあまあ高い、としておこう。


次に、第二ステップから第三ステップにいくと
この二つの関連性は、かなり疑問がある。

算数の学習時間が減ったのは、ゆとり教育のせいではあるが
だから、それが悪い、かというと、話はまた別である。

ゆとり教育は、算数ではなく、その他の人間性や社会性などを
育成するために行われたはずだ。

だから、算数の成績が悪くなったことが事実だとしても、
それ以外の、「現実の社会で生きていく上で必要なこと」
を、勉強していたのであれば、それでいいのではないか?

よって、短絡的に、ゆとり教育が悪い、とはならない。

この第二ステップから第三ステップへの確からしさは、
およそ30%程度であろう。


・・・

以上、科学における、「確からしさ」のまとめを、
一応、ここで書いておく。
(あくまで、私の主観にすぎないが)


数学      100%
    
物理学      99%以上

化学       95%

生物学(細胞)  90%

生物学(組織)  85%

生物学(個体)  80%

生物学(集団)  75%

医学       70%以下

医療統計学(集団)65%以下

人間社会の論理  55%以下


要するに、人間社会における論理など
「確からしさ」の点では
かなり怪しいものばかりである。

「科学としての尊さ」は、そこには、ほぼ ない。
半分ぐらい正しかったら、「まだまし」なほう、
そんな程度である。


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・・・

2.その実験(行動)の結果が、再現できること

・・・

科学とは、何か、を考える時に
最も重要な要素の一つが、「再現性」
である。

それが、確かなこと、ならば
それが起こる条件を整えてやれば
当然、発生するはずだ。

(再掲するが)

例えば、
Aというアミノ酸に、Bというアミノ酸を混ぜ、
そこにある酵素を加えると
化学反応が起こる。

そして
CとDというアミノ酸が生まれてくる、とする。

  ある酵素
   ↓
A+B=C+D

上述したように、化学の世界では
確からしさは、ある程度、落ちるので、
結果には多少のバラツキがあるが、それでも
70%から71%の間で
CとDに変わる、とは言える。

もちろん、
温度、pH、塩濃度、その他
全てのまわりの環境(条件)を厳密に決めておく。

その状態で、
同じ施設の同じ場所で同じ人がやる限り
必ず、
ほぼ同じ結果になる。

このように、時間をかえても
再現できることを、
「時間的再現性」
と呼ぶ。


また、一つの施設だけでは信用できないので
場所も変える。
上述の研究が、アメリカの大学での研究だった場合、
その論文を読んでマネして行った
イギリスや日本の研究者も
ほぼ同じ結果を得た場合、
「空間的再現性」
がある、という。


さらに、
同じ施設で行う場合でも、
その実験を行う人間も変えて、再実験をする。
それでも再現される場合、
「異なる人間による再現性」
という。


「時間的再現性」
「空間的再現性」
「異なる人間による再現性」


以上、三つの再現性があることが
科学の「絶対条件」である。

これらが証明されない限り、それは、「真実」ではない。


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3.上記二つを証明できない時に、多彩な側面から証明を試みること

・・・

以上の二つは、主に自然科学に適用できることだ。
人文科学や社会科学に適応することは、難しい。

ちなみに、
自然科学とは、数学、物理学、化学、生物学、地学、天文学などであり、

人文科学とは、哲学、心理学、教育学、考古学、宗教学、歴史学など、
社会科学とは、経済学、法学、政治学、社会学、経営学、地域研究など。

よって、
人文科学や社会科学においては、
自然科学のように、明確な結果がでないため

如何に、自然科学に近い「確からしさ」を導き出すか、
どのような方法論を使うか、
ということが、最初から、問題になっている。

あらゆる研究や実験を始める前から
そもそも、「正しい結論」を得られるかどうか、さえ分からない、
「確からしさ」の低い学問、なのである。


で、私が関わっている「国際協力の世界」や
「持続可能な世界を作るための方法論」などは
まさに、この「確からしさ」の低い学問の分野であり
上記した、自然科学・人文科学・社会科学の
ほとんどすべてが関わっている最も難しい分野の一つだ。

こうした状況にある学問に関わる場合、
重要なことは、その「客観性」
である。

・・・

客観性を得るためには、なんらかの「指標」
を作ることが重要である。

注: 指標 indicator, index

指標とは、
なんらかの「行動」をおこなった時に、
その「結果」が変わった度合いを示すものだ。

この指標には、定量的あるいは定性的なものがあり
定量的なものは、増加したか、減少したか、で
ある程度、客観的に(他人が)判断できるようになる。

もちろん、人間の心理的側面など、
定量的に数字で測定できない面も多いため
そうした場合には
定性的な指標が使われる。


ただ、ここで問題となることがある。

それは、
「指標」というものは、
その研究者が、
(自分が狙っている結論を導き出すために)
自分の研究にとって、都合のよいものを
選んだ、または、作成した可能性があるため
一つの指標だけに頼っては、ならない、ということだ。

特に、それが、自然科学でない場合、
なんとでも、都合の良い指標を作れるわけなので
その信憑性(しんぴょうせい)が、非常に問題になる。

仮に、古来から使われている有名な指標であったとしても
一つで、完璧な指標は、存在しない。
(必ず欠陥がある。見ていない側面がある。)

よって、その欠点を補う
(その指標に隠されている部分を暗示(または明示)する)
その他の「指標群」も、同時に使わねばならない。


要するに、
一つでは、完璧な指標などないので、
定量的指標も、定性的指標も、複数、交えて
(それぞれの欠点を補うように)
使っていかなければならないのだ。

これにより、より多くの人々を説得できる
「客観性」を得ることができる。


・・・
・・・


以上が、科学の基本である。

論理性
再現性
客観性

これらを十分踏まえた上で
プロジェクトを作っていかなければならない。


自分自身への自戒をこめて、
ここにこれを書いておく。