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そのラジオのキャスターは、山手線の電車の椅子に、そっと座った。
目立たないように、そっと。

薄い白髪頭で、痩せた体格の彼は、両側に座っている
サラリーマン風の大男二人にはさまれ、
なんだか本当に小さく見えた。


私は、時計を見た。
午後5時半、だった。

今は、
2008年、1月17日、午後5時半

そうか。あれから、もう、3年8か月が経ったのか。
あの本が出版されてから・・・。


私は、彼を見つめた。
じっと、見つめた。

「私が彼を見つめている」と、彼が気づいてくれるように、
あえて、じっと見つめた。

しかし、彼は、斜め下45度の視線で、電車の床を見続けたまま、
ついに、私のほうに、視線を向けてくれなかった。

・・・

さて、時は、遡る(さかのぼる)。

3年8か月前だ。


2004年、5月17日、午前8時半。
ラジオ、ニッポン放送の「上柳昌彦さん」の番組に
私は出演した。

その頃、私はマガジンハウスから
「彼女の夢みたアフガニスタン」という写真絵本を出した。

アフガン難民で、隣の国に逃げていた「ザグネ」という少女が
自分の国に戻り、医師となって祖国を救おうとする、話だった。

これは、実際にあったドキュメンタリーで
初期のころの私の、代表作となっている。

(この話は、長くなるので、また後日・・)

この「彼女の夢みたアフガニスタン」は、
新宿ニコンサロンで写真展を行い、
テレビ朝日「徹子の部屋」に出演させて頂き、
この
ニッポン放送からも、お声がかかった。


そして出会ったのが、
ニッポン放送のエース・キャスターと言われる上柳昌彦さんだ。

小柄なのに、存在感のある人だった。
なんでもない話かたのようで、「伝える」能力の高い人だった。

この生出演のラジオで
いったい何を話したのか、ほとんど覚えていない。

上記のストーリーを、短い時間の中で、かいつまんで話すのに
必死だったに違いない、と思う。

唯一おぼえているのは、上柳さんが、私に向かって
「えらいっ!」
と言ってくれた言葉だ。

何に対して偉いと言われたのか、全く覚えていないが、
それだけが、私の脳みそに、深く、刷り込まれていた・・。

・・・

しかし、3年8か月の後、山手線の電車の中で、
(当たり前だが)
彼は、私を覚えていては、くれなかった。

毎日、ゲストとして、違う人が呼ばれる。
しかも数分間で帰ってゆく。
365日もあるのに、いちいち、覚えているわけがない。

私は、自分を納得させようとした。
が、やっぱり、ちょっと悲しかった。

・・・

そんな気持ちを持ったまま、
2008年1月29日、運命の日、を迎えた。

ニッポン放送、二度目の生出演となる。
「上柳昌彦の、お早う Good Day!」だ。

基本的に、この日は、
出版したばかりの新刊

「地球温暖化、しずみゆく楽園ツバル
 あなたのたいせつなものはなんですか?」

を宣伝してもらい、
ついでに、映画ツバルの情報を告知してもらうのが
目的だった。


私は、朝早く起きて、有楽町のニッポン放送へ行き
(10分前と言われたのに)
1時間前には、待合室に入った。


することもなく、ボーっと待合室で、まっていると
5分前ぐらいに、上柳さんは、事前の挨拶に来てくれた。

薄い白髪頭で、痩せた体格の彼が、眼の前に立っている。

今度は、彼は斜め下45度を見つめたりはせず、
まっすぐ、私のほうに目を向けた。


そして、私を見るなり、こう言った。


「お久しぶりー。ご無沙汰していますー。」


そ、そうか、覚えていてくれたんだ。


じゃ、こないだの電車の中は、
ほんとに、床をじっとみていただけだったんだ。


ま、ま、ともかく、
私は、彼にとって、日々の「通りすがり」では
なかったんだ。

私は、嬉しくなり、また、ちょっと照れて、
その後、上柳さんを、まともに見ることができなくなった。


しかし、それでも、よかった。
番組で、何を話すかも、まあ、「そこそこ」でいいや、と思った。


本の宣伝をすることよりも、映画の宣伝をするよりも
もっと「大切なこと」を、私は、ふと、思い出した。



  一人の人間に、覚えていてもらえること。



もしかすると、それにまさる喜びは、ないのかもしれない。



「私にとっての、たいせつなもの」の答えが
この日、一つ、見つかった気がした・・

と、思う間もなく、時間が来て、生放送の番組が始まり、

ちょっと、ボーっとした、幸せな気持ちのまま、


私の


「お早う Good Day!」 が、始まった。






追伸:

ぼけていた私は、映画ツバルの宣伝をしてもらうのを、
本当に忘れた・・・(汗)

ま、いいか。