.
これまでの国際協力の歴史を、概説しておこう。
今回は、国際機関の国際協力に関する考え方の変遷を解説する。

日本政府が行う(途上国への)二国間援助や、
民間のNGO(非政府組織)が行った活動は
今回紹介するものとは、かなり異なる流れとなっているので、
後日、また別に紹介する。

.
この、世界全体の国際協力の流れを紹介するためには
中軸となる国際機関である、
国際連合(UN)、世界銀行(WB)、経済協力開発機構(OECD),
などが、どういう立場で創設されたかを
知って頂かねばならない。

(要するに、世界を良くしようとする団体にも
 いろいろ内部に問題を抱えている、ということ。)

これには、
第二次世界大戦の戦勝国と敗戦国の関係、
資本主義陣営と、共産主義陣営の関係、
先進国側と、途上国側の関係、
などが
複雑に関係しており、簡単には説明できない。

よって、
わかりやすくするために、
かなり簡略化した歴史を、以下に紹介する。

(が、それでも長くなってしまった。)
(しかも、今回だけでは終わらず、次回に続く内容となった。)

・・・
・・・

1939年から1945年まで、第二次世界大戦があった。
連合国と枢軸国に分かれて戦った。

連合国の主な国は、
イギリス、フランス、アメリカ、カナダ、
中華民国、ソビエト連邦、オーストラリア、など。

枢軸国の主な国は、
ドイツ、イタリア、日本、満州、タイ、
ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、など。

この戦争で、数千万人の人々が死亡し、
特にヨーロッパの国が疲弊した。

結果は、連合国が勝ち、枢軸国が負けた。

(戦時中の)連合国のことを、英語で記載すると
United Nations となり、
(現在の)国際連合と、まったく同じ綴りとなる。

これに象徴されるように、
戦後、1945年にアメリカで発足した国際連合とは、
基本的に、
第二次世界大戦の戦勝国(連合国)たちが
その後の世界も(引き続き)自分たちがコントロールするために
作られた組織である、という側面がある。

具体的には、国連憲章の中で、日本を含む旧枢軸国には
「敵国条項」が適応されている。

(1995年、この敵国条項の削除が国連総会で(ようやく)決議されたのだが、
 なぜか現在でも国連憲章には明記されたままであり、削除されていない。)

・・・

さらに、
この国際連合は、様々な問題点を包含していた。

一つは、なんらかの議題に対する議決をしても、
それには何の法的強制力がないのである。

つまり、その議決された内容に対して
(国連加盟国たちが)従わなくても
なんの罰則もないため、
事実上、国連の議決など、なんの意味もない、とも言える。

もう一つは、
国連軍などの派遣を決める「安全保障理事会」
というのがあるのだが、
この常任理事国になっている国が、五つある。

それらは、イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、中国、である。

この五カ国は、「拒否権」を持っているため、
自国に都合の悪い決定に対しては、それを発動して
国連の動きを止めることができる。

さらに、国連軍の派遣などに対しては
この五カ国の協議で決定しまうことができ、
かつ、
この決定だけが、あらゆる国連の決定の中で唯一、
「法的拘束力」を持つのである。

(国連加盟国たちは、この常任理事国五カ国が決めることには
 従わなければならない、と明記してあるのだ!)

(具体的には、軍事行動の要請、経済制裁の発動、などを
 国連加盟国に対して、事実上「命令」できることになる。)

すなわち、国連とは、これら常任理事国五カ国の
ためにあるような組織だ、という側面がある。


補足1: 
ちなみに常任理事国5ヶ国の「拒否権」の発動回数

 ロシア(ソ連)  122回
 アメリカ     82回
 イギリス     32回
 フランス     18回
 中国        5回

補足2:
これほどの大きな問題を抱えているのが国連という組織だが、
現実問題としては、192か国という
最も大きな国々が加盟している国際機関が
この国連である。

よって、世界の様々な問題を解決していくためには、
まず、この組織をどう改革していくか、
ということを考えるのが中庸を得た(かつ現実的な)方法論と
思われるのだが、
この「国連改革」は
(みんなが必要だと思っていながらも)
まったく進んでいない。

理由は、上記の常任理事国たちのどこかに、拒否権を発動されれば、
一発で終わりだからだ。

こんな組織に、人類の未来がかかっているかと思うと
頭痛がしてくる。
なんとかして、改革をしなくては・・


・・・
・・・

少し戻って、
1944年、
第二次世界大戦で、あまりにもヨーロッパの国々が疲弊したため、
これらを復興するための国際会議が開かれ、

国際復興開発銀行(IBRD)(後の世界銀行の母体)と、
国際通貨基金(IMF)の設立が、決定された。

1946年から、その業務を開始した。

国際復興開発銀行(IBRD)は、「長期的」な資金の供給を担当し、
国際通貨基金(IMF)は、「短期的」な資金の供給を行う、という分担だった。

いずれも、ヨーロッパを復興させることが目的だった。
(最初は、開発途上国を救おう、という話ではなかった。)

また、
国際通貨基金の専務理事は、代々、ヨーロッパ人が任命されることとなり、
世界銀行(国際復興開発銀行など)の総裁は、代々、アメリカ人が
任命されることとなった。

(上記は、明文化されていないが、事実上、そうなっている。)

すなわち、欧米を中心として、今後の世界を発展させていこう、という体制が
この段階で既に、出来上がってしまっていたのである。

(これが、最初の間違いだったかもしれない。)

・・・

一方、もう一つの動きが、世界にあった。
それは、第二次世界大戦の終結と同時に始まった
「米ソの冷戦」であった。

資本主義陣営と共産主義陣営との「陣取り合戦」が
始まったのだ。

1948年、
アメリカは、
(表向きは)戦争で疲弊したヨーロッパを復興させるとう名目で
「マーシャル・プラン」、というものを提案し、
欧州経済協力機構(OEEC)を設立した。

(マーシャルとは、その当時のアメリカの国務長官の名前である。)
(この欧州経済協力機構(OEEC)が、のちの、経済協力開発機構(OECD)の元になる。)

簡単にいうと、この組織の目的は
ヨーロッパを復興させるという名目で、
東ヨーロッパの国々などにアメリカが資金援助をし、
共産主義勢力の拡大を阻止しよう、というのが、本当の目的だった。

ソ連側も、アメリカのこの動きを警戒し、
東欧諸国に、警告を発していた。


すなわち、
1940年代は、
まず、戦後のヨーロッパ諸国を復興させることが優先された時期であり、
かつ、
欧米中心主義の中で、国際通貨基金(IMF)と世界銀行(の元)の創設が行われ、
かつ、
米ソの冷戦の開始に伴う、「資本主義と共産主義の陣取り合戦」が目的での
各国への資金援助が行われた時期だったのである。

・・・

1950年代から1960年代は、
ヨーロッパの復興がおおよそ終わり、
国際復興開発銀行(IBRD)(のちの世界銀行)は、
途上国の開発支援をすることに
その業務を変更していくことになる。

国際復興開発銀行(IBRD)と、
1960年に設立された国際開発協会(IDA)を合わせて
世界銀行(WB)と呼ぶようになった。

世界銀行は、広く各国で、
インフラ(道路・交通・発電・通信など)の建築資金援助などを行っており、
日本の東海道新幹線、東名高速などを作る資金を出してくれたことは、有名。

(1956年、東海道新幹線の実現可能性調査。
 1961年、世界銀行が日本へ8千万ドルの貸し付け)

このインフラを作るための公共事業は、各国で雇用を生み、経済を活性化させ、
多くの国の国民総生産(GNP)を増加させることになった。

このように、
道路などを建設することにより、生活基盤と経済基盤を創出し、
その国の経済力のもとを作れば、
やがて、民間の企業が成長してゆき、
GNPなどの経済指標も改善され、
その国の貧困は、解決されるであろう、と考えられていた。

繰り返し説明すると、
経済基盤を作り、その国の大企業を発展させれば、
その成長に引っ張られて、
貧しい庶民に対しても、雇用の拡大が起こり、
貧困は、改善されてゆくはずだ、という理論である。

このような考え方を、
「トリックル・ダウン・セオリー」と呼ぶ。

(私のブログの、貧困の章を参照)
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/51793984.html

・・・

こうした世界中での「開発」が全盛の中、
1950年に、欧州経済協力機構 (OEEC)にアメリカとカナダが参入し、
1961年に、経済協力開発機構 (OECD) に名前を変え、組織を改編した。

最初の加盟国は、以下のような国々であった。

 イギリス、フランス、スペイン、ドイツ、イタリア、
 アメリカ合衆国 、カナダ、オーストリア、など欧米の20カ国

1964年、急速に経済発展した日本も、このOECDに参加することになる。

OECDは、資本主義で、市場経済を前提とする先進国で占められており、
こうした国々が結束して、世界の経済と開発を扇動し、
しかも、
アメリカから世界銀行に総裁を送りだし、
ヨーロッパから国際通貨基金(IMF)に専務理事を送りだす、
という体制が、以後ずっと続くこととなった。

・・・

一方で、悪いことばかりが
続いていたばかりではない。

1960年代に、「学問」として国際協力が
進化していった。

1960年代後半、
米国の国際開発庁(USAID)(日本のJICAに相当する政府機関)が
「ロジカル・フレーム・ワーク」(通称、ログ・フレーム)
と呼ばれる
国際協力の方法論を開発した。

これは、本来の目的は、
アメリカ議会から国際協力のための予算を獲得するための
書類を作成するためのものだった。

しかし、この方法論は、素晴らしく、プロジェクトの
目的・目標・活動・投入・成果、といった一連の流れの
相互関係を明確にし、論理性と合理性を証明するものだった。

この「ログ・フレーム」は、その後
ドイツ技術協力公社(GTZ)によって改良され、
「目的志向型プロジェクト立案手法」(ZOPP)
として世界中で使われることとなり、
この流れを受けて、
日本の国際協力機構(JICA)が、日本独自の方法論である
「プロジェクト・サイクル・マネージメント」(PCM)を
開発することになる・・
のだが、今回は、これらの話は、あまりしない。

ともかく、この時代に、
こうした方法論の「原案」が作られた、ということだけを
まずは記憶して頂きたい。
実際にこれらが使用されるのは、ずっとずっと後のことになる。

・・・

1970年代に入り、
「何かがおかしい」、
ということに、多くの国や、NGO(非政府組織)たちが気づいた。

世界銀行などの行った「開発」は、
二つの大きな「格差」を産み出したのだ。

一つは、
途上国から輸出される(安い)資源によって、
先進国がますます経済的に発展し、
先進国と途上国の経済格差は、かえって広がってしまったこと。

もう一つは、
途上国内での、貧富の差も、どんどん広がっていったこと。

この現象が生じる理由は、以下である。

途上国の中でも、
莫大な世界銀行などの予算を使い、
公共事業と称しながら、実際は自分の会社を発展させた企業家が多いこと。
また、
世界銀行は、まず、その国の政治家に援助の話をするため、
その開発用の予算を、自分が選出させる選挙区に投入させたり、
自分の親戚が経営する会社に公共事業を行わせるなどの方法で、
利権獲得に成功した政治家が、
(本来、国全体の開発に使われるべき)富を、独占してしまったこと。

さらに言えば、
こうして貧富の差が拡大することにより、
貧困層の人々が、「もっと貧困」になってしまう現象が起こる。

その理由は、
こうして途上国の経済が発展すると、
物価の上昇(インフレ)が起こることが非常に多く、
それに対して、貧困層の賃金は不当に低いままに抑えられるため、
結果として、食品などの日常生活品の物価は上がったのに、
自分の給料は変わらないので、相対的に、より貧困になる。

簡単に言えば、
昨日まで100円で買えたパンが、今日から200円になってしまった!
ところが自分の収入は変わっていないので、困る、ということだ。

つまり、貧困層の人々にとっては、
国際協力や開発など、しないほうが良かった、かもしれないほどの
結果になっていたのだ。

・・・

この結果、
アメリカを始めとする、経済協力開発機構 (OECD) に参加する先進国の国々は
途上国の人々や、(現状を知る)NGOたちから、次のように呼ばれることとなる。

OECDは、「先進国クラブ」あるいは「金持ちクラブ」である、と。


(こう呼ばれるOECDの国々の中には、日本も入っており、
 同様の批判を受けている。)

・・・

以上のように、1950年から1960年代までに行われた
国際協力または開発というものが、全く失敗だったことに
多くの援助団体が気づいた。


こうした流れの中で、
1973年に、先ほど登場した、米国の国際開発庁(USAID)が
「New Direction 政策」を発表した。

この中に謳われていたのが、途上国の低所得層を対象にした
「ベイシック・ヒューマン・ニーズ」(BHN)
という概念だった。

これは、途上国の貧困層の人々のために、
人間として最低必要な、
教育・医療・水の保障・命の安全などを
確保していこう、という考え方である。

(要するに、先進国をさらに経済発展させるために、
 途上国の開発をするのではなく、
 また、
 途上国の中の富裕層だけに富を分け与えるのでもなく、
 ただ、
 本当の貧困層の人たちに「最低必要なもの」を
 与えることが、優先されるべきだ、という考え方である。)

(このように、アメリカというのは、面白い国で、
 一方で、市場経済の考え方で、世界中の経済を席捲し、
 「世界の貧富の差を拡大」させているのと同時に、
 もう一方では、「本当に意味のある国際協力」を生みだすための
 「ログ・フレーム」の開発や、
 「ベイシック・ヒューマン・ニーズ」(BHN)の考え方を生み出したのも
 このアメリカなのである。
 戦争で、イラクやアフガニスタンを攻撃したこともある通り、
 良いところと悪いところを両方、多数包含する多面的な国だ、
 ということになる。)

・・・

さらに、この時期、以下の宣言が行われることになる。

1978年、中央アジアのカザフスタンの首都アルマ・アタ(現アルマティ)において、
WHO(世界保健機構)とユニセフ(国連児童基金)が合同で、以下の宣言をした。

「西暦2000年までに、すべての人に健康を」

これを「アルマ・アタ宣言」とよぶ。


この目標を達成するために登場したのが、
「プライマリー・ヘルス・ケア」(PHC)という考え方である。

プライマリー・ヘルス・ケアとは、
貧しい国の人々が、自分たちのいる地域でコミュニティー(地域共同体)を作り、
健康増進を図り、地域を活性化させ、最終的には「貧困の克服」をするところまで、
自ら考えていってもらう、という概念であった。

(詳細は、プライマリー・ヘルス・ケアのブログを参照)
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/51946633.html

・・・

こうした
「ベイシック・ヒューマン・ニーズ」(BHN)の概念の誕生も
「プライマリー・ヘルス・ケア」(PHC)の概念の誕生も
いずれも
途上国の貧困層の人々を、なんとかしよう、
という概念が、ようやく生まれたことを示すものたちであった。

で、
1978年ごろから、
世界銀行も、経済協力開発機構 (OECD)も、
上記二つの概念を、援助の目的の中に、取り込むことになる。

また
経済協力開発機構 (OECD)は、
国際協力や開発を行うための専門の組織を内部に作っていた。
その名称を、開発援助委員会(DAC)、という。

このDACは、プロジェクトの評価などに用いられる
様々な判断基準やプロトコールを提唱している。

(詳細は、プロジェクト・マネージメントのブログを参照)
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/51305090.html

で、このDACの考え方にも、
「ベイシック・ヒューマン・ニーズ」(BHN)の概念と
「プライマリー・ヘルス・ケア」(PHC)の概念が
取り込まれることとなった。

・・・

で、これらの概念が生まれたのは、良かったのだが、
実際は、なかなか、上手くいかなかった。

理由は、
考えてみればわかると思うが、
貧困である人々とは、その国の社会に、そもそもの問題があり、
政治がめちゃくちゃで(内戦があったり、賄賂が横行していたり)、
働く場所がなく(作っても売る場所もなく)、
学校も病院もない、などの
ないない尽くしの状態になっていることが多い。

そうした中に、上記のような「概念」が重要です、
とだけ言ったところで、なんの意味もない。

(現場で、実際にそれを改善するための、具体的な方法がない、のだ。)

また、お金を渡すにしても、どこの部署の、誰に渡すのか、
ということが問題になる。
お金が悪徳政治家の利権獲得に利用されては意味がない。

貧困を改善するためには、
中央の省庁から、都道府県レベル、市町村レベル、という
少なくとも3段階の行政において、
それぞれに、プロジェクトを担当する部署が必要なのである。

1.計画の作成と実施
(事前調査・策定・実施・(途中)監視・結果・その後のフォロー)
2.予算の管理(賄賂や利権獲得に使われていないか)
3.教育
4.医療
5.環境問題等

上記すべてに関して、それぞれ、

部署があるか?
人はいるか?
人は十分訓練(研修)されているか?
実際に、仕事をしているか?(さぼってないか?)
(その部署に)予算はあるか?
データの集め方、集計の仕方、中央への報告の仕方は正しいか?

などを、総合的に行っていかなければならない。

ところが、途上国には
上記のことを実施するための
何から何まで、すべて、ない、のである。

参考:
国際機関が資金援助をする時は
その国の政府に渡すことが多いため
上記のように、
中央から、地方へ、さらにその中の小さい村へ、
というような、3段階ぐらいの行政のシステムで
お金が降りていくことが多いのだ。

よって、これら全てのシステムが、
しっかりしていないと、機能しないのである。

こうした行政の機能を、ガバナンス(統治)という。
途上国の行政システムは、このガバナンスが
非常に弱く、いい加減であるため、
プロジェクトを行おうとしても、うまくいかない
ことが多い。

参考:
NGOが国際協力を行う場合は、
直接的に、地方の村で活動するため
上記のような問題は、あまり起こらない。
(しかし別な問題が生じるが、その件は今回は触れない)

・・・

と、いうわけで、
1980年代、
次に、国際協力団体たちが目指したことは、
途上国政府の、構造改革、であった。

これを、「構造調整政策」と呼ぶ。

ところが、
蓋を開けてみたところ、
この構造改革で行われたことは
1.途上国の国家公務員の削減と、
2.省庁の簡略化、
などであった。

その理由は
途上国のほとんどが、大変な借金を、先進国に対して
かかえていたからだ。

途上国に自立してもらうためには、
まず、自分の国の借金を返し、
その後、自分の国をよくしてもらおうと思ったのである。

また、
運の悪いことに、1982年ごろ、オイル・ショックが起こり、
世界中の経済に悪い影響を与えた。

これが、(先進国も苦しくなったために)
途上国の大量の債務問題を露呈させ、
まずは、債務を返却させよう、という話になっていったのである。

さらに、
途上国の市場を、解放し、
先進国たちの市場経済に組み込むために、
途上国で行われていた公共事業を停止させ、
代わりに、それらの事業を、民営化させた。

経済を自由化することにより、
市場経済が、途上国まで恩恵を与え、
先進国も途上国も、ともに経済発展を続けていくはずだ、
という経済理論であった。
(そうすれば、自動的に途上国の貧困は解消されるのだ、と言う。)

これは、いかにも、
(アメリカ主導の)世界銀行の考えそうな理論であった。


で、実際に途上国で実施された構造改革は、
以下のような内容であった。

1.国家公務員の削減
2.省庁の簡略化
3.一般民衆への増税
4.公共事業の閉鎖。それらの民営化。
5.様々な補助金の撤廃
6.経済の完全な自由化

などである。

上記を読んでみればわかるが、これらは
一般の庶民にとっては、状況が悪くなることばかりである。
(貧困層が、よけい貧困になっていってしまった。)


で、この結果は・・・

かえって、途上国の政治が、
めちゃくちゃになってしまうことが多かった。

特に、この「構造改革」の失敗の程度が、アフリカではひどかった。
サブサハラ(サハラ砂漠より南)では、もう、壊滅であった。

この途上国政府の構造改革の大失敗のことを、
「空白の10年」
と呼ぶ。

・・・

以上を読んでみて、わかったと思うが、
国際協力の世界は、
失敗に次ぐ、失敗の連続であったのだ。

ほとんど、うまくいっていない。

方向を転換しても、またまた失敗している。

こうした事実を皆さんがあまり知らない理由は、

1.政府が、広報していないため。
  (自分たちの失敗を、わざわざ国民に通知する人はいない)

2.マスコミにたずさわる人で、国際協力に精通する人が
  ほとんどいないため。

以上を踏まえた上で、さらなる問題が生じる
1990年代以降を、次回、解説していく。

・・・

このブログの続きはこちらへ
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/65095358.html