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ある朝、目覚めると、
私は、「その部屋」の中にいた。

部屋には、ドアがなく、窓もなかった。


「閉ざされた世界」だった。


天井で、煌々(こうこう)と照明が光っており
この狭い空間を、照らしていた。



最初、私は、恐怖した。

この部屋から出る方法を捜したが、
どこにも出口はなく
最終的に、私はあきらめることにした。

恐怖を忘れるため、
もう、それを考えないようにした。


私は、まわりを見回し始めた。


・・・

この部屋には、時計がなかった。

時計がないので、
今、何時なのか、わからない。


照明は、煌々と光り続けている。


部屋の中央には、
水と食料がいっぱいあり、
当分、飢え死にすることはなさそうだった。


私は、腹が減ると、それらを喰い、
眠くなると目をつむって寝る、
そんな生活をつづけた。


・・・

ある時、私は気づいた。
時計に代わるものがあることを。

それは、私の手首にある
「脈(みゃく)」だった。


脈は、だいたい1分間に60回のはずなので、
それを数えれば、1分の長さがわかることになる。

私は、
左の手首に指をあて、脈を数え続けた。
起きている間、ずっと。


することが何もないこの部屋の中で、
時々、襲ってくる、
えたいの知れない不安から逃れるために、
私は数え続けた。

不思議なことに、脈を数えていると、
私の心は穏やかで、安定しているようだった。


何かをする、それが大切だったのかも、しれない。


・・・

ある時、私は気づいた。
変化しているものがあることを。

この部屋には、鏡がなかったので
私は、自分の姿が、
少しは変化したのか、変わっていないのか、
よくわからなかった。

実は、もう既に何か月も経って、
私は少し、老いているのではないのか?

そんな疑問に答えてくれたものは、
私の手の
「爪」
だった。


部屋の壁しか見えない世界で
たった一つ、変化してゆくことが見えるもの。

それが、私の爪。


爪がある程度、伸びたところで、
私は、爪を壁にこすって、研(と)いだ。

研がれた爪のカスは、
床にその破片と粉を撒き散らし、
塵(ちり)になり、
やがて
空気に溶け、見えなくなった。


・・・

ふと、違和感を感じた。

床が、動いている気がする。
いや、はっきり動いている。

時に早く、時にゆっくり、
この部屋の床は、動いているようだ。



この部屋は、なんらかの「乗り物」の中にある部屋だったのだ。


ふと、
私は、昔読んだ、
アインシュタインの「相対性理論」を思い出した。

彼が言うには

速い乗り物に乗った場合、
その中の時間の流れは遅くなり、
逆に
遅い乗り物に乗った場合、
その中の時間の流れは速くなる。

光速に近い乗り物に乗った場合、
その中の時間は、ほとんど止まる、という。


私は、
起きている間、自分の脈を数え、
時間を計っていたのだが、

このことを知ってから
その「数えること」を止めてしまった。

だって
この部屋は動いており、
しかも、
そのスピードをどんどん変えている。

ということは、
この部屋の中で流れている時間は、
ぐにゃぐにゃで、
刻一刻と、その流れる速さを
変えているはずだ。

だから、
もし私が時間を計ろうとしても、
「正確な時間」など測れそうもない、
と感じた。


結局、
時間など、意味がない。

そう、思ったのだ。


・・・

何か、やることを捜していた日、
この部屋に、紙とペンがあることを知った。

私は、
私が、今、感じていることを
記録することにした。

私が、今こうして考えている
様々な思いを、「書く」ことにした。


他にすることがなかったからだ。


今の私にとって、
何もすることがないことが、
一番の恐怖だったのかも、しれない。


・・・

私は、思う。
時間とは何か、ということを。

この部屋では、
時間は、脈を数えることによって
初めて、それが流れている、ことがわかるようになった。

数え始めなければ、時間など、存在しなかった。


昔の日本人は、

梅が咲いてから、次の梅が咲くまでを、
1年、と呼んだ。

太陽が昇ってから、また太陽が昇るまでを、
1日、と呼んだ。


私は、

脈が、次の脈をうつまでを
1秒、として数えていた。


つまり、時間とは、
なんらかの
「繰り返し起こっている現象」

「数える」
ことで、はじめて生まれる概念なのだ。


誰もそれを数えなければ、時間など、存在しない。


だから、

今、「この部屋」の中には
時間は、存在しなくなった。

だって、
だれも「繰り返し起こっていること」を
数えていないのだから。


・・・

私にわかっていることは、

目の前に、
「この部屋」という「空間」があり
そこに「時間」が、かつて、あったこと。

また再び、
(誰かが)
「繰り返し起こっていること」を
数え始めれば、「時間」は動き出す。

しかし
時間があろうがなかろうが、
時間の流れが速くなろうが、遅くなろうが、
間違いなく

「爪は伸びてゆく」
という
「変化」を、私は見てとることができる。


私は、この三つのこと、
すなわち、
「空間」と「時間」と「変化」のことを、
記憶し、記録しようと思う。



なぜ、私が、この部屋にいるのか、

なぜ、私は、生きているのか、


それを、知るために。



・・・
・・・


目覚めると、
私は、元の世界に戻っていた。

朝だった。

空の上で、煌々(こうこう)と太陽が光っており
この世界を、照らしていた。



もうすぐ、いつものように
出かけなければいけない。

時計がそれを教えてくれる。

顔を洗い、食事をして、服をきる。
そして、社会へ出かけていく。


ああ、そうだ。

これこそが
「同じことの繰り返し」だ。

懐かしい、いつもの「繰り返しおこる現象」だ。


そして、それを、自動的に
「数えて」
くれるのが、時計と暦(こよみ)。


だから、

だから、「この世界」には
時間があるのだな。

そして、時間が流れてゆくのだな。


・・・

そういえば、
誰かがいっていた。

昔、ビックバン、という宇宙の始まりがあり、
何かが爆発して、その破片から地球が生まれた。

爆発の勢いは、今だに止まっておらず、
だから、地球は、
今も、ものすごい速さで宇宙を飛んでいるのだという。

地球は、太陽のまわりを公転しているために、
ビックバンで、吹き飛ばされている方向と
同じ向きに(より早く)進んでいる時と
逆の方向に進もうとして、(相対的に)遅くなっている時がある。

このため、地球が宇宙を移動している速度は、
速くなったり、遅くなったりしているらしい。

と、いうことは
地球上で流れている時間も
遅くなったり、速くなったりしているはずだ。


だから、
時計やカレンダーが、
必死に「同じことの繰り返し」を数えても

この地球の上で流れる時間(の速さ)は、
どんどん変わってしまっているので、
正確な時間は、計れていないかもしれない。

もしも
ビックバン全体の「外」からながめられる
「絶対時間」というものが、存在していれば、の話だけれど。


ともかく、地球上の時間は、
ぐにゃぐにゃしている、のだ。


時間は、やっぱり、あまり意味がないのかもしれない。


なんか、
この世界は、さっきまでいた「あの部屋」に似ているな。


・・・

似ているといえば、
「この現実の世界」に、出口はあるのだろうか。


私たちは、

いつのまにか生まれ、
いつのまにか物心(ものごころ)がつき、

やがて
死んでゆく。


生まれて、「私」という意識ができ、死ぬ。
それだけ。


死ぬ、という終わりからは、逃げられない。

どこにも逃げ場はない。


そのことに、恐怖した時期もあったけれど、
最終的には、あきらめて、
それを考えないようにしたんだった。


そして私は、まわりを見回しはじめた。


・・・




そうか

なにも変わらないんだ。

「あの部屋」で起こった出来事と。





目の前に、
「空間」があり

そこで私は、
「時間」を数える。

その「時の流れ」のスピードは、
いい加減で、ぐにゃぐにゃしていて、
しかも
誰も数えなければ、時の流れは「存在」しなくなる。


それでも
「変化」は起きる。


爪は伸び続け、壁にこすられ、塵になり、空気中に広がる。

生きものは成長し、やがて死んで腐り、微生物に分解される。

高層ビルは、どんどん立ち並び、やがて崩れ落ち、瓦礫(がれき)となる。


すべては、(物理学の法則のもと)

エントロピーの増大するほうへ向かい、
(すべてが散乱していき、入り混じった状態へ向かってゆく)


やがて、
世界は、本当の終焉の時を迎える。


その中の一瞬を、見て、「記憶」し、「記録」するのが
私の役目。



やらなければ、ならない。

「書く」ことを。



私自身が、生きている理由のために。

やることがなくなり、恐怖を感じないために。



私は、
この世界で、時を数え、時を刻む(きざむ)存在であり、
同時に私は、
この世界にとらわれ、抜け出せない、哀れなもの、でもある。


私は、
「語り部(かたりべ)」であり、

私は、
「囚人(しゅうじん)」である。




この「生」(せい)という名の、牢獄(ろうごく)の中で。