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ケニアの田舎で、ヤギの世話をしている一人の少年がいた。

少年の父は、
ケニアを植民地としたイギリス人の、
召使(めしつかい)兼料理人だった。

少年は、トタン屋根でできた家に住み、
トウモロコシを育て、
その実(み)は自分が食べ、葉っぱをヤギに与えた。

そんな中でも、
少年は、勉強が好きで、田舎の学校では一番の成績だった。

しかし、田舎の学校の一番など、たかがしれていることを、
少年は自分で知っていた。


ある日、政府の気まぐれで、
その村の中で、一人の子どもに、
奨学金が与えられることになった。

この少年は、それをもらえることになり、
(アメリカの一部である)ハワイの大学にいけることになった。


ハワイの大学にいった少年は、
そこで、同じクラスでいっしょになった
アメリカ人の女性と、恋に落ちた。


お互いに、一目ぼれだった。


黒人と、白人の、許されぬ恋だった。


・・・

当初、アメリカ人女性の両親は、反対していたが、
娘が妊娠してしまい、子どもを産み落としたことで、
流石に諦(あきら)めて、徐々に態度を軟化した。

少年は、生まれた男の子に、自分と同じ名前をつけた。


「神に祝福されたもの」という名を。


その後、少年は、勉強の才能が開花し、
ハーバード大学で学べることになった。

少年は、妻と子を残して、
アメリカ本土に行ってしまった。


そして、時が流れた。


・・・

生まれた子と母は、ハワイで、
しばらく二人で暮らしていたが、

生まれた子が5歳の時、母は、インドネシア人と再婚した。

そして、
インドネシアの首都、ジャカルタに移住することになる。

が、
そこで、その子は、初めての経験をする。


「人種差別」という経験を。


肌の色が黒い、ということで、学校の友達から
いじめられ、からかわれた。

それが嫌で嫌で、たまらなかったその子は、
10歳のとき、
なんと、一人でハワイに戻り、
母の祖父母といっしょに生活するようになる。

せまい、せまい、アパートで。


母は、インドネシアに残り、
夫とともに過ごす人生を選んだ。



こうして、その生まれた子は、
10歳にして、

父と母の両方を、失ってしまった。


・・・

ハワイに戻っても、
学校の中で、その子は、気づいていた。

白人の子たちは裕福で、自分が貧乏であると。


どうしようもない精神的なストレスの中で、
彼は、バスケットボールにうちこんだ。

それだけが彼の救いだった。

バスケットボールのコートから離れると、
彼は、自我のバランスを保てず、

ついに、手を出した。


麻薬という誘惑に。


しかし、
父親ゆずりの優秀な遺伝子のおかげか、
成績は、よく、
最終的にその子は、ロサンゼルスの大学に合格した。


・・・

その子は、大学で、目的意識の高い、
社会を変えようとする黒人の大学生たちと知り合った。

当時、その子は、
白人へのコンプレックスから、
自分の名前を、アメリカ風の(白人風の)
『バリー』
という愛称で、友達に呼んでもらっていた。

しかし、素晴らしい友達と出会ったことにより、
彼は、自分の名前を、
アフリカ系の名前のまま、読んでもらうようにした。


『神に祝福されたもの』と。


「私は、『バリー』ではなく、『バラク』だ。」と



・・・

その子、すなわち、バラクは、
2年後にコロンビア大学に編入し、

そこで、教会を拠点とした市民団体で、
「コミュニティー・オーガナイザー」
(地域の共同体の、まとめ役)
の仕事をする。

卒業後は、ハーバード大学の法科大学院に入学し、
法律事務所の
「サマー・アソシエイト」
(夏休みの間、大学院生が、研修をうける制度)
を経験する。

その後、首席で大学院を卒業した彼は、
弁護士事務所に就職した後、

地域コミュニティーと教会の一員になり、
貧しい人と、豊かな人の、両方の狭間(はざま)で生活を送る。


この頃、バラクは、ミシェル・ロビンソンという、
やはり黒人の女性と出会い、結婚をする。


彼は、妻に、よくこう言っていた。


「多くを与えられたものは、多くを求められる。

 だから、

 多くを得たものは、多くを与えなければならない。


 恵まれたものは、

 その恵みの上で、あぐらをかくのではなく、

 どのように、その恵みを活用すれば、

 もっとも多くの人々を幸せにできるのかを

 考えなければならない。」


・・・

「社会を、変える必要がある。」


そのために、彼は、政治の世界に足を踏み出す。

しかし、なかなか票が集まらない。


1996年、イリノイ州議会の、上院議員には当選したが、

3年後の、アメリカ連邦議会の議員には、落選した。


しかし、彼は、あきらめなかった。



黒人であることに対する人種差別と、その「コンプレックス」、

両親に捨てられた悲しみと恨み、その「思春期」の記憶、

麻薬に手を出し、快楽におぼれた「落伍者」の経験、

しかし、大学時代の素晴らしい友人たちとの「出会い」、

コミュニティーと教会での、「救い」の活動。



それら全てを土台にして、彼は、自分なりの哲学を、
政治哲学を構築してゆく。



そして、2004年、

バラク・オバマは、
歴史に残る伝説のスピーチを、行う。


(日本人が聞いても、あまり感動しないが、
 アメリカ人が聞くと、感動するような内容になっている。
 まず、それを踏まえて頂いて。)


・・・


「私の父は、ケニアでヤギの世話をして育ちました。
 トタン屋根の家でくらし、
 とうもろこしを育ててくらしていました。

 その父は、勤勉と忍耐の結果、奨学金を獲得し、
 『魔法のような場所』、アメリカに来ることが
 できました。

 きっと私の祖父は、私の父に、
 大きな夢を託していたことでしょう。


 私の母は、カンザス州で生まれました。
 母の父は、油田の掘削(くっさく)作業をしていました。
 しかし、大恐慌の時代のあおりのため、引っ越しを繰り返し、
 最終的に、ハワイに移り住んだのです。

 母の両親もまた、母に大きな夢を託したことでしょう。


 この小さな島で、幸せを見つけて欲しい、と。



 一つの共通の夢を託された二人が、
 二つの大きな大陸から生まれ、

 そして、
 一つの小さな島で、出会いました。

 
 私の両親たちは、一目で恋に落ち、
 この奇跡的な愛を分かち合うだけでなく、
 この国の限りない可能性を、信じたことでしょう。

 両親は、私に、
 『神に祝福されたもの』という名前を授(さず)けました。

 アフリカ系の名前である
 『バラク』という名を与えてくれたのです。

 それは、「寛容な」アメリカでは、
 この名前が、成功のさまたげにはならない、と
 信じたからです。

 自分たちは裕福ではなかったにもかかわらず、
 息子が、この国で「最高の学校」にいけることを
 信じて疑わなかったのです。


 今、私の両親たちは、他界しています。

 しかし、大きな誇りをもって、今も
 私を見守ってくれていると思っています。

 そして、私は、
 自分の受け継いだものに感謝するとともに、
 私の両親の夢が、
 私の大切な二人の娘たちの中に生き続けていることを
 確信しています。


 私は、ここに立ち、知っているのです。

 私の物語は、より大きなアメリカの物語の一部であり、
 すべての先人たちの恩恵を
 自分は受け継いでいるのだと。

 そして、
 地球上の他の国では、私の物語など、ありえないのだと。


 アメリカの長大な歴史物語の中には、
 よく知られた個人主義に加えて、
 もうひとつの要素があります。

 それは、すなわち、
 われわれは皆、ひとつの国民として結ばれている
 という信念があることです。

 シカゴ南部に、文字の読めない子どもがいたとしたら、
 それは私にとって、重大な問題なのです。
 たとえ、それが私の子でなくても。

 どこかに、処方箋(しょほうせん)の買えない
 お年寄りがいて、薬代を払うか、家賃を払うかの、
 選択をしなければならないとしたら、
 それは、私の人生をも、貧しくするのです。
 それがたとえ、私の祖母や祖父でなくても。

 アラブ系アメリカ人の家族がいて、
 弁護士を雇えず、法の手続きを得ることができずに
 検挙されているとしたら、
 それは、私の市民的な自由を脅かす(おびやかす)
 ものなのです。


 全ては、基本的な信念に、もとづいています。

 上に述べたような様々な困難にある人に対し、
 私は、弟や妹を想うような気持の、保護者であり、
 そうした想いが、この国を機能させているのです。


 それこそが、「可能」にしているものなのです。

 我々が、個々人の夢を追求しながらも、なお、
 ひとつのアメリカの家族として、団結することを。
 


 リベラルな(左翼的な)アメリカも、

 保守的な(右翼的な)アメリカも、

 ありはしません。


 あるのは、『アメリカ合衆国』なのだ、と。



 黒人のアメリカも、

 白人のアメリカも、

 ラテン系のアメリカも、

 アジア系のアメリカも、

 ありはしません。


 あるのは、『アメリカ合衆国』なのだ、と。



 世界中が、ここアメリカの動向に注目しています。

 我々が何を言うのか、世界は関心を持っています。

 我々は、世界に何を伝えるのでしょう?

 我々は、何を示すのでしょう?


 我々は、党派や地域、人種や宗教を越えて、一つになり、
 すべてのアメリカ国民が、生まれながらに持つ「繁栄の権利」を
 取り戻すことができるのでしょうか?

 国際社会を先導し、
 21世紀の世界共通の脅威である、テロや気候変動に、
 立ち向かうことができるのでしょうか?

 内戦の恐怖や、貧困から逃れたいと願っている、
 海の向こうの国の人々に救いの手をさしのべることができるのでしょうか?


 アメリカ合衆国こそが、現在も、そしてこれから先もずっと、
 最後にして最良の地上の希望であるというメッセージを送ることが
 できるのでしょうか?


 我々は、こう言います!

 こう願います!

 こう信じます!


 きっと、我々には、「できる」、と!




"YES, WE CAN !"







 最後に、皆さんに、私からの祝福を。



 いいえ、







 『神からの祝福』を。」
























・・・・・

補足1: 

スワヒリ語で「神に祝福されたもの」。
それが彼の名前である。

バラク・フセイン・オバマ・ジュニア(Barack Hussein Obama, Jr)

1961年8月4日生まれ。

第44代アメリカ合衆国大統領。


補足2:

この子、すなわち、
アメリカ合衆国の、バラク・オバマ大統領が、
今、日本に来ている。

昨日きて、今日、シンガポールに発つ(たつ)。

彼が来た理由は、日本の首相とともに、

気候変動、
クリーン・エネルギー技術協力、
核軍縮、

という三つの事項に関する共同文書を発表し、
「日米同盟の深化」をアピールするため。


補足3:

彼の演説は、うまいので有名。
自分が演説をする時の、参考にするといいかも。

上記の演説は、
2004年7月27日のものと、
2008年3月4日のものの抜粋。

英語の原文のほうが、説得力がある。


補足4:

父は、
バラク・オバマ・シニア(Barack Obama, Sr.)(1936-1982年)
ケニアの、ど田舎、ニャンザ州・ラチュオニョ県、生まれ、ルオ族。

この父は、
1965年にケニヤに戻った後、
一時は、財務省に顧問の経済学者として雇われたりしたが、

ケニヤッタ大統領とケンカをしたことなどで解雇され、
その後は、貧乏になり、酒におぼれ、交通事故を繰り返す。

このため、足の不自由な人になった。

1982年に、46歳で、3度目の交通事故で死亡した。
このように、晩年は、不遇の生涯であった。


客観的に考えても、息子のオバマと妻をおいて、
ハーバード大学にいってしまうあたりから始まって
かなり自分勝手で、わがままな人物だったと思われる。


ちなみに、
オバマ大統領の母親の方は、いわゆるヒッピーで、
息子のことを気にせず、自由気ままな一生を送った。


補足5:

両親を恨んだであろう、彼(オバマ大統領)も、
大人になってから、
両親の人生を客観的に見れるようになったのだろう。

(で、さらに彼は、それを自分の演説に、
 ある意味で、利用している。)


私事だが、私の経歴も、ちょっと似ている。

(男の子は、約半分の子が、
 両親に反発し、両親を否定した生き方をするが)

私も、10歳代から20歳代までは、
両親に強く反発し、恨んでいた。

しかし、
今はかなり客観的にみることができる。

やはり、時間が経つ、ということも
人生には必要か。


補足6:

彼が、ノーベル平和賞をとった、直接的要因の一つとされる
チェコのプラハでの「核のない世界」をめざすという演説の一部は
以下に記述してある。


朝鮮半島の核問題1.日本側の視点 9963字
http://blog.livedoor.jp/toshiharuyamamoto128/archives/65275270.html


補足7:

本文で、ちらっと登場した、
二人の娘と、妻に関しては、以下。

弁護士事務所に所属していた時代の、
1992年に、ミシェル・ロビンソンという女性と結婚。
1998年にマリア、2001年にサーシャ、という二人の娘を得る。


補足8:

現在、黒人、と書くのは差別用語で、
適切ではなく、
アフリカ系の人、と書くのが正しい。

しかし、今回の内容では、
アフリカ系の人と書くと、
差別をうけており、コンプレックスを持っていた、
という側面が、伝わりにくいので、
やむをえず、黒人、という表記を使っている。


補足9:

バラク・オバマの政策には、
いくつかの問題点もあるのだが、
今回は、それらには触れないでおく。

グリーン・ニュー・ディール政策の是非の問題、
イラク撤退、アフガニスタン増兵など。

よって、この件もまた、そのうち書く予定。