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しょっぱい!
強烈にしょっぱい。

でも、20秒ぐらいすると
なぜかまた、スープを飲みたくなり、飲んでしまう。


しょっぱい。

でも、飲んじゃう。

しょっぱい、

でも、飲んじゃう。


あれれ、もうスープがない・・


呆然(ぼうぜん)とする私を横目に
ラーメン屋の親父は、ニヤリとし、
勝ち誇った笑みを見せた。


・・・

JR山手線・T駅。
北改札口を出て右を向き、52歩。

そこに、下り(くだり)のエスカレーターがある。


エスカレーターを降りながら思い出すのは、
あのラーメン屋との出会いだった。


20年前、(いや、今でもだが)
そのラーメン屋には、「看板」が、なかった。

いや、看板がないのではない。
「名前」がない、のである。

黒一色に塗られた、
戦時中の闇市を思わせるような
怪しげな小さい店の前には、
会社員たちが、数名並んでいた。

なぜ、こんな所に人が並んでいるのか、と思った私は、
並んでいる先の、「黒いドア」に付いている、
小さい窓から、中を覗(のぞ)いてみた。


そこにあったのは、
8席しかないぎゅうぎゅう詰めの店内で、
ひしめきあいながら、狂ったように、
ラーメンのスープを飲みほしてゆく人々の群れと、

それを眺めてニヤリと笑う、親父の姿だった。


・・・

下りのエレベーターを降りて、108歩。
太い国道がある。

そろそろ、店からの「香り」がしてくるようだ。


この店のスープは、絶品で、
究極のバランスのもとに、調整されている。

その証拠に、
この道、数十年のベテランである、
あの「親父」をもってしても、

十日に一回は、スープ作りに失敗して、
次のような「板きれ」が店先に出される。


「本日は、スープ不出来(ふでき)のため、閉店。」


かっこいい。
かっこいいと思った。

これぞ、男の浪漫(ロマン)である。

将来、こういうことの言えるラーメン屋をやれたら、
男子、生まれてきた甲斐があった、
というものではないか。


さて、この店のスープは、
以下のような材料から調整されていると推測される。

(あの親父が、教えてくれるわけはないので、
 店の裏にまわって、ゴミ箱をかたっぱしから開けて
 調査した結果、である。)


この店のラーメンは、基本的に、
いまどき、時代遅れの、しょうゆラーメンなのだが、

強烈にコクのある、九州は鹿児島産の「たまり醤油」を使っている。

古代中国に、醤(ひしお)という調味料があったが、
その製法を導入した会社から、
直接発送してもらっている。


それを基本としたスープに、なんと、
鳥ガラではなく、
鴨(カモ)を使っているようだ。

ラーメン自体には、鴨は入っていないので、
おそらく、「だし」のためだけに使われているみたい。


そして、そのスープに足されてるのが、
林檎、の香りである。

青森県弘前市の、安祈世(あきよ)という品種の
林檎がつかわれ、上記のスープに、
隠し味ならぬ、隠し香(かくしが)をつける。


その他、なんか、よくわからない植物の葉っぱが、
いっぱい入っているのだが、
私には判別不能であった。


ともかく、
それらから出来上がってくるスープは、絶品で、
しょっぱいのに、飲むのをやめられない、
どうしてもやめられない、
不思議な醍醐味(だいごみ)と魔力があった。


また、麺(めん)もただものではないようで、
それが入っていた箱から判別するに、
小麦・全粒粉の、「超微細粒子・堅め」なるものを
練って作った手打ち麺らしい。


そして、ああ、憧れの、チャーシュー!

チャーシューを、薄くスライスして切るやつは、
バカである。
チャーシューを味わうために、最適なのは、
丸いまま、ぼとりと、ほおりこむことである。

さすれば、客が
肉にかじりつくと、その歯と歯との間から、
大量の肉汁が滴り(したたり)落ち、
歯茎を伝って、舌の上に、「肉エキスの湖」を作る。

あな、極楽なり。極楽なり。


・・・

78歩で、国道を横切り、
K大学通り商店街に入る。


うう、もうすぐ、到着する。
もう、待ちきれない!


そうそう。
言うのを忘れていた。

皆さんに注意しておく。


この店に入ったら、
いっさい口をきいてはならない。

店に入ったら、メニューの中で、
自分の食べたいものを、「指さすだけ」、である。

それで親父は、全て了解してくれる。


うるさく喋ると、つまみ出される。

漫画本や雑誌を読むのも禁止。

読みながら食べると、外で待っている客を
よけい待たせることになるからであろう。

携帯電話など鳴らそうものなら、
店の外に蹴りだされること、受け合いである。


基本的に、親父は、怖い。
でも、威厳があり、かっこいい。

この店の中で、親父は、天皇であり、
閻魔大王(えんまだいおう)である。


(昭和初期の親父は、きっとみんな、こうだったのだろう。)

(だから親父は、現在、「天然記念物」なみの存在である。)


客たちは、その日、奇跡的に調整された
「驚異のスープ」を堪能し、


ああ、しょっぱい。

でも、飲みたい。

ああ、しょっぱい。

でも、飲みたい。


あれれ、もうない。・・くすん。


という繰り返しの魔術にかかり、

それを見て、ニヤリと笑う親父の前に、
私たちは、ひれ伏すのである。


「あなた様のラーメンは、世界最高でございます」
と。


・・・

K大学通りに入り、
そこから、299歩のところに、
この、名のないラーメン屋がある。


そろそろ、みなさんにも、
このラーメン屋に、
名前がない理由が、
おわかり頂けたのではないだろうか?


「世界一うまいラーメン屋」には
名前など、必要ないのである。

名前の付いているラーメン屋など、
雑魚(ざこ)にすぎない。


本当に、うまいラーメン屋は、
次のように呼ばれるのである。


『あの親父のラーメン屋』と。


こう言えば、すべてがわかり、
それで十分なのである。


余談かもしれないが、
私は、
関東全域どころか、北海道から沖縄まで、
ほぼ全てのラーメンの名店を訪れ、

果ては、中国の「柳麺」(りゅうめん)から
イタリアの(古代ローマ起源とされる)「ラガーネ」まで、

ラーメンの先祖と思われるものの全てを、

世界を駆けずり回り、
食べ尽くしてきた、食通ならぬ、
「世界のラーメン通」である。


この、私が、断言する。


『あの親父のラーメン』は、世界最高だと。


・・・

黒い色でつつまれた店に到着すると、
私は、例の
「本日は、スープ不出来(ふでき)のため、閉店。」
と書かれた「板きれ」がないのを見て、安心する。

そして、

ガラッといつものように、黒いスライド式のドアを開けて
入ろうとした。

が、開かない。


なんで、開かないんだ・・??


私が、いつまでもガタガタやっていると、
近所のオバチャンがやってきて、
私にこう告げた。


「あの親父さん、がんばってたんだけど、
 昔から首が悪くってねぇ。

 頚椎症(けいついしょう)っていう病気が悪化して、
 最近は、両手の感覚がなくなり、指も動かなくなり、
 ついに店を閉じることになったみたいよ。」



えーーーっ!

そ、そんな・・


(注:休養ではなく、本当に、永遠に閉店でした。(涙))




あ、あの究極のラーメンが、もう食べられないというの?


あの奇跡のスープを産む、たまり醤油と、鴨のコク、そして林檎の香り。

すべては、私の幻想の中に、消えていってしまうの?



しょっぱい、のみたい、しょっぱい、のみたい、は、
もうできないの?


ニヤリと笑う、あの笑顔の前で、ひれ伏すこともできないの?










・・医者になって、初めて、後悔しました。


内科小児科医などにならず、

(頚椎症の手術の得意な)整形外科医になればよかった、と。



そうすれば、

もっと、食べられたのに。


「あの親父のラーメンを」




そうそれば、

ずっと、教えてもらえたのに。



「浪漫を追い、

 自分の納得する『世界』を作り続けてゆく、


 ひとりの人間の生き方」を。