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私は宮城県の、
仙台二校(せんだいにこう))という公立高校を
卒業しているのだが、
同窓の先輩に、
西(にし)さんという方がいる。

実は、以前、
あの有名な「雪印集団食中毒事件」が起こった時に、
「雪印乳業」の社長に任命された方でもある。

彼から(同窓生の)内輪の会で、その当時の様子を
詳細に伺ったので、忘れないうちにまとめておく。


「社長とは何か?」
ということが非常によくわかる。


以下、彼の言(げん)である。

(主語は、西さん、になっている。)



・・・
・・・

「あの事件」が起こった、当時の農林水産大臣は、
自民党の武部勤(たけべつとむ)さんだった。

彼から、
「二度と、こういう事件を起こさないように」
と言われ、厳しくしかられた。

消費者の代表の方からは、
「安全より安心」
という言葉を、繰り返し言われた。

繰り返し、繰り返し、言われた。


・・正直、もう思い出すのがいやだ。

しかし、今日話すことが、
みなさんにとって、なんらかのお役にたてるかもしれない、と思い、
「食品産業のリスク・マネージメント」
の話として、お聞き頂きたい。


・・・

雪印は、昭和25年の創設とされているが、
実際は、大正14年に作られた。

北海道の、酪農家(らくのうか)たちが共同で出資した組合が、
その母体だった。

酪農家たちが生産する牛の乳(ちち)から、
バターなどを作るための、共同の工場、共同の会社を作ろう、ということが、
もともとの創業の意図だった。


当時から、雪印の理念は、以下のものだった。


「健土健民」(けんどけんみん)


健康な土の上で育った牛の乳(ちち)を飲み、
健康な国民を育てる、という理念だった。

この企業理念が、いつから失われてしまったのか・・


・・・

あの事件は、なぜ、起きたのか?
詳細は、こうだ。

2000年に遡る(さかのぼる)。

北海道の南東部に、大樹(たいき)、という町がある。
そこに雪印の工場の一つがあった。

(注:北海道広尾郡大樹町。帯広市と釧路市の間にある。)


3月31日、

その工場で、北海道でしか起こり得ない、
(自然現象に由来する)事故が起こった。

氷柱(つらら)が、工場の電気室に落下したのだ。
そして、停電となった。

当時、その工場では、チーズと脱脂粉乳を作っていた。

停電で、冷蔵機能が働くなったため、
(まわりにある、製造機械の発する熱で)
40度前後の温度となり、
チーズと脱脂粉乳が温められ続けられた。

その結果、製品内に潜んでいた細菌が増殖した。

8時間、そのままだった結果、
(人間の手などに住んでいる)
黄色ブドウ球菌(おうしょくぶどうきゅうきん)が増殖し、
その細菌がまわり(食品中)に毒素を放出した。

この毒素の名前を、エンテロトキシンA、という。

食中毒の原因となる物質で、
腹痛・下痢・嘔吐などを起こす。



4月1日、工場では、上記の原料をつかって、
     1000袋の脱脂粉乳を作った。
     (製品化した。)

     しかし、出荷前の製品検査の結果、微生物の混入を確認し、
     そのまま市場へは出荷はせず、

     「再生」にまわした。


(注:微生物の混入があっても、
   そのまま捨ててはもったいない、と思い、
   「再利用できないか」と考えた。
   高熱処理などをすれば、食品中の微生物は死ぬから、
   また原料として使える、と工場の人は考えていた。)

(注:実際は、高熱処理をすれば、
   細菌などの微生物は死ぬが、
   微生物が既に放出してしまった
   エンテロトキシンンA,という毒素は死なない。
   「耐熱性」があるこの物質は、そのまま存在し続ける。
   加熱処理などをしても、無駄なのである。
   工場の生産ラインにいる人に、
   この知識がなかったことが最大の問題だと思う。)


4月10日 上記の細菌と毒素が含まれていた「不合格品」を
      大樹工場は、「再溶解」し、牛乳に戻した。


(注:加熱処理をしたので、細菌は死んだ、と考え、
   これで問題のない原料に戻った、と判断した。)


      この再溶解品から、再び、脱脂粉乳が作られた。
      これが「関西にある大阪工場」へ搬送された。
      細菌は死んでいたが、毒素は死んでいなかった。

      その後、大阪工場で、この脱脂粉乳から
      低脂肪乳(ローファットミルク)が作られることになる。


(そして、二か月が経過)


6月27日、大阪工場が製造した低脂肪乳で、
      食中毒が起こったという通報がきた。

      この段階では、下痢が数名。嘔吐はなし。
      だから、通報を受けても、
      大阪工場の社員たちは、油断していた。


(注:当時、雪印では、下痢はよくある症状で、
   軽い症状だと考えていた模様。
   逆に、もし、嘔吐があれば、重大な症状だと
   考えていたようだ。
   これは、医学的には間違いである。
   嘔吐があることと、医学的な重大性は比例しない。
   下痢だけなら軽い、ということも一概には言えない。)


6月28日、食中毒患者は、5人や10人じゃない、との報告。
      保健所の人がきた。
      大阪工場の立ち入り検査を行った。


6月29日、食中毒の報告は、どんどん増えてゆく。
      大阪工場は、ストップさせられた。

      エントロトキシンが入っている可能性がある、という。
      だから、嘔吐も起きる。
      死亡者は、幸いなことに、なかった。

      この時期、雪印乳業は、「株主総会」中だった。
      このため、この時まで、
      石川社長に連絡は来なかった。


(注:この段階では、西さんは、まだ雪印の社長になっていない。
   関東支部の支社長だった。
   石川さん、という人が、社長だった。)


     この日、初めての記者会見を雪印は行う。
     が、石川社長は登場せず、大阪工場の担当者が謝罪を表明した。


6月30日、和歌山県微生物研究所で、
      問題となった低脂肪乳内に、
      黄色ブドウ球菌の、エンテロトキシンAが検出された。


7月1日、被害が拡大した。
     大阪、和歌山、神戸、京都。

     食中毒が確定した事例だけで、1万5千件。
     実際に被害を受けた人は、おそらく、数万人にのぼる。

     「日本の歴史史上、空前の食中毒」が起こってしまった。

     当時の社長は、石川社長。
     おおらかな人で、私は、個人的に好きだった。

     石川社長は、まわりの人たちから、こう言われていた。

     「記者会見では、頭を下げていればいい」と。
     「詳細は、知らなくてもいい」
     と聞かされていたし、また本人もそう思っていた。

     同時、関東地区の支社長を私はやっていた。
     それがある日、いきなり、
     「次の雪印の社長をやってくれ」、
     と石川社長から言われた。

     石川社長は、
     日経新聞の記者からいろいろ言われて、
     (もうすぐ)辞任せざるを得ない状況になった、
     と言っていた。

     日経新聞の社会部の記者は、本当に悪質で、
     大企業が不祥事をすると、ここぞとばかりに、
     こてんぱんに叩くことしかしない、
     人間扱いをしてくれない、
     とんでもないやつらだと思う。

     みなさんも、新聞記者には、
     よくよく気を付けたほうがよいですよ。


     石川社長は、ともかく、辞任する方向だという。
     幹部クラスの経営陣も、ことごとく辞めるらしい。

     だから、私は、引き受けるしかなかった。

     その当時、社員は、1万人。
     グループ企業までいれると、4万人。
     取引先も含めると、10万人。

     その社員たちと、その家族を守るのが、
     私の仕事だと思った。


7月4日 石川社長が、有名な失言をしてしまう。

     この前の晩から、雪印では、徹夜で会議が行われいた。
     その結果を待つために、マスコミの連中も、
     会議室の外で、待っていた。

     徹夜の会議があけて、朝になり、
     石川社長は、会議室からでてきた。

     記者は、「どうなったんですか?」と聞いた。
     石川社長は最初、無言だった。

     記者は、
     「寝ていないで、待ってたんだ。何か、話をしろ!」
     と言った。

     これに対して、石川社長は、
     「私だって寝ていないんだ」
     と発言した。

     マスコミは、この後者の部分だけを報道した。


     「私だって寝ていないんだ」


(注:この部分だけを聞くと、
   数万人の一般市民を食中毒の被害にあわせたのに、
   当事者の社長は、反省の色がなく、
   自分の保身(ほしん)ばかり考えているように聞こえる。
   この表現が、新聞に大きく掲載された。)


     このため、
     石川社長は、無責任な社長、責任をとる気がなく、
     反省の色がない、世間の人々から思われてしまった。

     これを期に、ほとんどの量販店から
     雪印の製品の撤去が始まってしまった。

     このように、政治家の失言でもそうだが、
     マスコミは、前後関係を伝えず、
     発言の一部だけを誇張して報道する。

     みなさんも、気を付けられたほうがいい。


     当時、ひどいジョークが流行った(はやった)。

     三菱のパジェロが、大事故を起こした。
     山崎製パンも、問題を起こした。

     だから、

     「パジェロに乗って、
      山崎のパンを喰いながら、
      雪印の牛乳を飲むと最悪だ」

     というジョーク。

     これが面白がられて、ますます事態が悪化していった。

     日経の記者は、石川社長に、
     「社長を、いつまでやるんですか?」
     (いつ、辞めるんですか?)
     と、言い続けた。

     帰宅後も、石川社長の自宅まで記者はついてきて、
     それを何百回も、繰り返された。
     夜中の12時半まで、である。

     あまりの精神的ストレスに、石川社長は、
     「俺は、もう、やってられない」
     と記者に言っちゃった。


7月7日 石川社長が、本当に辞めてしまった。

     私への引き継ぎは、全くなかった。


8月4日 自民党から、国会へ呼ばれた。
     3時間半、参考人聴取を受けた。

     国会では、代議士の方のために、
     「前どり」というのがあり、
     あらかじめ、前の日に質問を決めている。
     もちろん、答えも決めてある。

     しかし、私に対しては、
     実際は、(予定と)全然違う質問をされた。

     だから、準備などできなかったので、
     誠意をもって(その場で)答えるしかなかった。
     わからないことは、わからない、と言った。

     西(にし)参考人、と呼ばれた。
     (国会では)すぐ前にいかないといけないので、
     (後ろにいる)秘書から(アドバイスを)聞く暇もない。

     この国会での答弁のお陰で、
     以後、立っている癖がついた。

     そうでないと、気持ちがつたわらないような気がする。
     失礼なんじゃないか、と。


・・・

事件を起こした背景にあったものは、
三つだったのではないか、と思う。


その1.
創業の精神である、
「健土健民」(けんどけんみん)を忘れてしまったこと。

だから、「健土健民」と大きく書いた額縁を作り、
それを全事業所に配って、配置させた。


その2.
マスコミ(新聞の社会部の記者)の恐ろしさへの無知。

社長が、何もしらずに、
記者会見では、ただ謝っておけばいい、
というのは、間違い。

それだと、記者会見場で質問されたときに、
社長が、墓穴を掘ってしまう(答弁をする)ことが多い。
やはり、正しい情報が必要。

情報を知らなかったため、
社長(自分)が、加害者である、という自覚もなかった。


その3.

風通しの悪い企業風土。

悪いことは、上に伝えるべきではない、
という考え方。

「かくす」という体質。
自分や、自分のいる事業所の評価に結び付くため。

(評価は給料に結び付くため。)


また、
経営者は、自分は「天下人(てんかびと)」だと考えがちで、
現場を知ろうとしない、知らなくてよい、と思っていることが多い体質。


あと、
危機管理マニュアルは、
あっても実際には機能しない。


こうしたことが問題だった。



・・・

それにしても、新聞の社会部の記者は、最悪だった。
大企業の足をひっぱって、トップを引きずりおろす。
それしか、考えていない。

社長が私になっても、
日経の記者が、ずっとついてくる。自宅まで。
夜中の12時半までいっしょにいる。

(12時半が締め切りで、それまでに原稿を書けば)
朝刊にまにあうからだ。


誠意だけでは、ダメ。
正しい情報をもってから
新聞記者に対応しないとダメだ。
(マスコミに、つぶされる。)


・・・


当社の製品を飲んで、
下痢や嘔吐をしたのは事実。

しかし、
加害者である反省の姿勢を示すべきだった。

俺のせいじゃない、と思ってても。
それ(反省の姿勢)をマスコミに示すべきだった。


・・・

私は、経営は、まったく素人だ。
だから、他人の話をきこうと思った。

事件後、
経営諮問(しもん)委員会を発足した。
弁護士、大学教授、酪農団体の方などをお呼びした。
大変、勉強になった。


・・・

毎日1000件の、苦情の電話が来た。

フリーダイヤル365日と、
お客様ケアセンターを設置した。


全国の雪印事業所から、
2万人の社員を動員し、大阪に集め、
被害者のご自宅を訪問させ、謝罪させた。


・・・

取締役の人員削減。
23人から8人へ。

監査役4人のうち、
2名を社外の方に頼んだ。

これはよかった。
やはり、社外の人のほうが、
内部のおかしい点を、指摘してくれる。

工場への監査もより厳しくなった。


・・・

従業員を、7000名から
1000名、削減。

雇用調整。
リストラをした。

退職金は、1.3倍、しはらった。
本人たちは悪くないのだから。

残りの従業員は、10%の給料のカット。

会社の運動部として、
アイスホッケーを運営していたのだが、
やめた。

氷のリンクを作るためなどに、
15億ぐらい、年間の経費がかかっていた。


医薬品事業など、いろいろな事業から撤退、
または売却した。


・・・

社長は、現場をしらなければいけない。

そう思って、
なるべく多くの社員と触れあうようにした。


社長の仕事が終わった後、
決して、エレベーターに乗って帰ったりせず、

一階ずつ階段を下りて、
各階にいる社員たちに話かけた。

新入社員であっても、なるべく話すようにした。

(社長への)「風とおし」をよくするために。


さらに、ちょっとでもスケジュールに空きがあれば、
全国の工場を視察にいくよう、がんばった。

当時、45の工場があったが、全部、まわった。まわりきった。


・・・

以上の結果、
(事件後、いろいろな努力をした結果)

一度、年収が半分以下になった雪印だったが、
往年の72%まで、回復した。

昔、
5600億(円の年収が)あり、半分以下となったものを、
4000億まで回復させた。


ところが・・・





・・・

そう、思っていた矢先に、
狂牛病(BSE)問題が発生し、
二回目の不祥事が、起こってしまった。


2002年1月22日。

雪印は、輸入牛肉を、国産といつわって販売した。

問題はそれだけではなかった。

BSEが既に発生していた外国から輸入した牛肉を
国産として売っていたため、
二重の意味で問題だった。


(注:一つめは輸入牛を国産として、食品偽装したこと。
   二つ目は、狂牛病(BSE)に感染する可能性のある食肉の販売。)


このため、雪印は、再び信用を失った。
完全に、信用をなくしてしまった。

今度は、もう、どうしようもなかった。


具体的に起こったことは、
雪印食品の、関西ミートセンターが、
輸入牛肉を国産牛の箱に詰め替え、売っていた。

わずか、900万の金ほしさに、
(関西の担当者たちが)
それをやってしまったのだ(怒、悲)。


この時は、本当に、もう、どうにもならなかった。

会社をつぶすか?
ということを本気で考えた。


いろいろ考えたが、
最後は「苦肉の策」で、

雪印乳業、
全農(全国農業協同組合連合会,JA)、
全酪連(全国酪農業協同組合連合会)
の三つを統合し、

ホールディングズ(持ち株会社)にした。
そして、なんとか会社を残した。

その子会社として、
酪農家から乳(ちち)をいれる先を作るために、
メグミルク、という会社を作った。

これは、
もし、雪印がつぶれてしまったら、
乳(ちち)を生産する酪農家たちが、
みんな、生活に困ってしまう。

当時、明治(乳業)や森永(乳業)に、
それらの酪農家すべてを受け入れられる能力はなかった。


なんとかして、会社を残さなくては・・


「健土健民」(けんどけんみん)


事業所にかかっている創業の精神をみながら、
ただ、歯を喰いしばった。


社員と、取引先の人々の、生活を守ること。
最後は、それだけだった。

それ以外のことは、
何も考えなかった。

できる限り、がんばって
事件後の体制を作った後、

私は、責任をとって、雪印の社長を辞任した。




・・・

59.9歳で雪印の社長になった。
自分で決めたわけではない。
「天命」だったと思っている。

「くじ運」が悪かったとは、一度も思わなかった。

(今も過去も)
これが、私に与えられた天命だと思っている。

その時、ぶつかって、せいいっぱい努力をして、
会社がもとにもどるようにがんばってきた。


アメリカは、会社の基本は、資本だという。

しかし、私は違うと思う。
会社の基本は、人だ。


・・・

雪印のマークに対する執念があった。

ブランドをなくすことはしたくなかった。
一貫して。

創業以来、77年。
ここまで作ってくれた諸先輩に申し訳ない。

だから、(バターなどを今でも作っている)
雪印乳業という、会社を残した。

牛乳のほうも、
メグミルクとして、なんとか残した。



・・・

最後に一つだけ、皆さんにお伝えすることがあるとすれば、
社長と言うものは、

「最悪をいつも考えているか?」

ということだと思う。
それに尽きるのではないか。


あと、もうひとつ。

私は、本社で、仕事が午前中に終わったら、
午後は、工場に行った。
それによって、(工場の社員たちと)対話をした。

対話をするしかないと思った。

それが私の原点。
(現場と社長が)共通の認識を持つこと。

事件が起きたからやるんじゃない。

夜中でも帰るときには、
(エレベーターを使わず)
各フロアに声をかけながらやってきた。

私は、営業で、45,6年やってきた。
商売でも、対話しかない、と思っている。

人間の人間たるものは、話し合いなんだろうなあ、と思う。

そこから、
お互いに、疑問にもっているものを
話し合っていくしかないんだろうなあ、と思う。

時間があれば、誰とでも話をしよう。

生涯、そう思っている。





















補足:

4つのことを思った。

一つめは、
直接的には、自分のせいではないところで、
企業(自分の組織)に不祥事が起こった時に、
トップはどういう責任の取り方をするべきか、
という、ところで、
最終的には、その人の人生哲学がでるんだな、と思った。

どんな大企業であろうと、どんな小さい組織であろうと、
最後はそこにいく、という点で、変わらないと思った。

「人間の人間たるところは、
 会って、お互いに話をして、疑問を解決していくこと。」

そんな彼の哲学に、素直に感動した。


二つ目は、
トップがこれだけがんばって、
会社の各フロアを
(階段をつかわず)歩いてまわり、
すべての工場に足を運んだにも関わらず、

結局、二回目の不祥事が起こり、
会社にとどめを刺した。

雪印グループの社員は、当時4万人いた。
これだけ社員が多いと、どうしても、その中に悪い人がいる・・
というわけではなく、

誰でも、(私でも、あなたでも)
金儲けに目がくらむことがあり、
また、少しでも楽な道を選ぼうとすることがあり、

そんな気分の時に、
悪いことをしてしまうような、いくつかのきっかけが、偶然重なると、
人は、悪事をしてしまう、ということ。

4万人もいれば、誰かがその偶然に、ぶつからないはずはない。

で、おそらく、(大企業の中で)年間何十と起こる悪事が、
内部告発等で、マスコミにばれたり、警察に通報されたときに、
始めて、事件として社会に露呈する。

大企業であれば社員の人数が多いため、どうしてもそれは起こる。
トヨタでも、三菱でも、雪印でも、変わりはない。

つまり、
「リスク・マネージメント」などの対策をもうけ、
どんなに注力し、気を付けていても、
(その不祥事を、多少減らす効果はあっても)
それは、起こる時は起こる、ということである。

(あとは、起きた後の、マスコミ対策が重要だ、ということはあるが・・)

要するに、トップにできることは、
「常に、最悪のケースを想定し、その覚悟をしておく」こと。

これしかないのだなあ、と思った。


3番目は、

「マスコミに向けてしゃべる時、
 (現場から)事実を詳細に確認した後、
 どういう方向性で、どこまで話すか、ということを、
 幹部や現場の当事者と、よくよく細かいところまで、決めておく必要がある」

ということ。

それを決めていない状態で、社長がマスコミにでると、
(不祥事の際の、マスコミ対応に)
慣れていない社長は、墓穴を掘る可能性が高い、ということである。」

先日の、トヨタの不祥事をみていても、
上記のように思った次第である。



4番目、そして最後に思ったことは、
やはり、マスコミの恐ろしさ、である。

私も10年前ぐらいから、マスコミに出るようになったが、
その恐ろしさを痛感している。

よく、マスコミの人たちは、自分たちの職業のことを
「他人(ひと)の不幸で、飯を食う商売」
と、皮肉まじりにいっているが、まさにそうした側面がある。

簡単にいうと、
よく話をきいているとわかるが、
雪印の最初の社長の失言も、今回のトヨタの社長の失言も、
事件の本質とは、全然関係ない部分を、マスコミは、大きくとりあげている。

つまり、
大企業が不祥事を起こした場合、
マスコミの記者たちは、その記者会見場で、企業の社長に対し、

「わざと怒らせるような、暴言を吐き、
 その社長の感情をたかぶらせ、失言をさせる」
という作戦をとる、のである。

これによって、怒った社長は、つい、ぽろっと、

「私だって、寝ていないんだ」

などという、
事件の本質とは、全く関係ない、どうでもいいことを言ってしまい、
そこを、マスコミは大きく報道する。

つまり、マスコミの悪質な記者は、
事件の真実を報道しようとしているのではなく、

いかに、大企業の社長が、
「その事件に対して、誠意のない考えを持っているか」
ということを、誇張して伝えようとする体質がある、ということである。

要するに、

「不祥事をした場合、その記者会見場で、
 マスコミの連中は、こちら(社長)をわざと怒らせ、失言させようという、
 戦略をとってくるので、それに乗せられないように、
 よほど、一言一言、自分の言葉に注意しながら発言をしないといけない」

ということを、心しておかねばならない、ということである。

それほど、マスコミというのは、恐ろしいものなのだ。