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老年の医師「若月」(わかつき)と、
研修医「英彦」(ひでひこ)。

二人の会話を交(まじ)えながら、
日本の医療、創世の物語をお伝えしよう。


・・・
・・・

英彦 若月先生、今日、ぼく、初めて村人の診察をしました。

   「はらいた」(腹痛)の村人が多かったのですが、
   おそらく、回虫(かいちゅう)などの寄生虫が原因だと思ったので、
   虫下し(むしくだし)の薬を処方しました。

若月 ・・それで、ただ、虫下しを与えた、というのか?

英彦 は、はい。

若月 バカ者!
   愚か者めっ

   そんなことで村人が良くなるとでも思っているのかっ

   薬などを配る前に、村人の生活を良く見るのだ。
   一人一人の村人の生活を知らずして、
   病気を治すことはできんっ

英彦 い、いえいえ。

   ちゃんと、便の検査をしまして、
   便の中に、寄生虫の「虫卵」(ちゅうらん)がいるのを
   確認してから、薬をだしました。

   ですから、い、医学的には、問題ないかと。


若月 ・・それでは、患者は治らんのだよ。

   患者をよく見ることだ。

   その生活を見ることだ。

英彦 お、お言葉ですが、先生、
   ぼくは大学で、尊敬する先生から、

   『患者の身分や貴賤(きせん)に左右されず、
    誰にでも同じ医療を提供すること』

   が重要だと教えられました。

   だから、村人の生活を知り、
   その人が貧しいか、金持ちかなどを知らずに
   医療をしたほうが、いいと思います。

若月 だから、それでは病気は治らん、と言っておるのだ。

   ・・わからんようなので、言ってやろう。

   その村人は、
   今日、虫下しを飲んで、
   腹(はら)の中の虫を殺したところで、

   明日、
   また、自分の家の畑の野菜を食べる。

   その野菜には、
   人糞が肥料として使われている。

英彦 ・・!

若月 人糞には、寄生虫の卵が入っておる。

   だから、明日には、また感染してしまうのだ。
   虫下しなど飲んでも、なんの意味もないのだよ。

   わかったか、この、『大たわけ』がっ!



・・・


1910年(明治43年)、
「若月俊一」(わかつき しゅんいち)が生まれた。

東京(現・港区)の芝だった。

両親は、服を売る仕事をしており、
(お金持ちだったが)いそがしかったので、
年の離れた姉に育てられた。

その影響のせいか、幼少時代は、
女の子とばかり遊ぶ子で、
家の中で、ずっと絵本や本を読んですごした。

読書ばかりしていたので、学校での成績は常にトップ。
(当時、名門とされていた)府立一中に合格した。


・・・

しかし、
1923年(大正12年)、
関東大震災が起こり、家も店も全焼し、
一家は全てを失った。

大金持ちから、貧乏人に、転落したのだが、
もちろん彼のまわりに、貧しい人はいっぱいいた。


彼は、この「貧困」という状況をなんとかしようと思った。
その他、さまざまな社会問題に目を向けるようになる。


そして、
(この頃の、知的な学生はみんな読んでいたように)
「マルクス主義」などの共産主義関係の本を
読みあさるようになる。


・・・

一方、この「貧しさ」のため、栄養失調となり、
体の抵抗力が弱くなったためか、
「結核」を発症してしまう。

自身の結核の経験から、
健康と「医学」にも興味を持つようになる。


・・・

1931年(昭和6年)、
東京帝国大学・医学部に入学。

入学してすぐ、共産主義青年同盟に所属し、
革命家を目指した。

(日本を共産主義国家に変えようとした。)

大学2年の時、左翼運動を行っていたため警察につかまり、
無期停学となった。

・・・

かろうじて医学部を卒業し医者になったが、
まもなく、徴兵される。

1937年(昭和12年)、
満州(中国東北部)へ出兵となった。

しかし、結核が再発したため、
(運よく)翌年には除隊。

恩師のはからいで、
東京大学付属病院・分院の外科学教室に、
籍を置くことになる。

・・・

その後、企業の
「工場災害」(労働災害)に興味を持つようになり、
いわゆる「労働運動」に荷担する。

1943年(昭和18年)、
(労働運動は、共産主義運動と同質と思われたため)
治安維持法違反で、再び逮捕された。


ようやく出所したのは、
1945年(昭和20年)だった。


1945年とは、すなわち、
日本が終戦(敗戦)を迎える年である。



・・・


『アカ』(共産主義活動家)であり、
二度の逮捕歴を持つ男。

これが、「戦後、日本の新しい医療を作った男」
若月俊一の、青年時代だったのだ。


ある意味、驚きである。


・・・

出所後、東大・分院の、かつての恩師が、
二度の逮捕歴を持つ若月を再び拾ってくれた。

そして、恩師は彼に、こういった。

「信州(長野県)に、新しい病院ができた。
 そこに医師が足りないという。
 いってみてはどうかね?」


他に、拾ってくれそうな病院はなかった。
選択の余地はなく、若月はその言に従った。


・・・

1944年(昭和19年)、
長野県に、「佐久病院」が作られた。

1945年(昭和20年)3月、
若月は、外科医として赴任する。

同年8月15日、日本は終戦(敗戦)。



・・・

さて、長野の農村にきて、若月が見たものは、
東京とのあまりの違いだった。


まず、農民たちは、病院に来ない。
病院に来るときは、
死んで「死亡診断書」をもらいに来る時、
だけだった。

病院で治療を受けると、
お金がかかる、からだ。

(農民たちは、基本的に貧しく、
 医者に払える金など、ない。)


二番目の理由は、
「病気は恥だ」と考える文化があったこと。

家族の誰かが、結核などの病気にかかると、
奥の部屋に「隠して」しまい、
まわりの人に知られるのを拒(こば)んだ。

だから、当然、病院にはつれて来ない。


三番目は、
置き薬が普及していたことだ。

富山などの商人が、
置き薬を売って置いていく。

医者などにかかるより、
それを減った分だけ購入するほうが、
はるかに安上がりだった。


このような理由で、
農民たちは、病院になど、行かなかった。


・・・

病院に来ないと、
治せるはずの病気も、治せない。

典型的なものは

盲腸(急性虫垂炎)が手遅れになり、
腹膜炎になるケースである。

(盲腸が化膿して、パンパンになり、
 そのうち、やぶけて、腹の中が、
 膿(うみ)だらけになる。)

これは、死亡する。


村の人々は、
「はらいた(腹痛)は、虫(寄生虫)のせい」
と、思い込んでいた。

「はらいた」のことを全て
「虫っぱら」と呼んでいた。

だから、富山の置き薬の、
虫下しを飲めば治る、と考えていた。

しかし、
「はらいた」の原因は、実際には
虫(寄生虫)だけではなく、

細菌による急性虫垂炎や、
ストレスによる胃潰瘍や、
尿管結石など、

いろいろなものが原因となっている。


素人(しろうと)が、
「はらいたは、みんな、虫っぱら」
と考えるのは、(医学的には)極めて危険である。


若月は、この状況を
なんとかしようと思っていた。


・・・

1945年(昭和20年)12月、
若月は、巡回診療(出張診療)を始めた。

山々にある小さい村をまわって
病院まで来れない人のために
医療をして歩いた。


巡回診療を続けるうちに、
若月は、問題の本質に気づく。

一度、虫下し(サントニン等)を処方しても
再び、虫卵のついた野菜を食べれば
すぐにまた感染してしまう。

(当時、佐久の人々の、
 回虫の感染率は、70%以上だった。)


そこで、若月は、いろいろ調べた結果、
民間療法の中で、唯一、
科学的に効果があると確認された
「麦わらの煎(せん)じ汁(じる)」
を飲ませる方法を考案する。

(民間療法の、8割以上は、
 科学的に根拠のない、ウソであることが多い。)

(また、虫下しの薬(サントニン等)は、
 お金がかかり、何度もずっと飲み続けるのは
 経済的に無理がある。また、副作用もある。)


・・・

また、若月は、「農村に特有の病気」を
いくつか見つけだした。

一つは、「こう手」(こうで)である。

これは、稲刈りなどの農作業のしすぎにより、
重度の腱鞘炎を起こし、やがて、
その腱が切れてしまうものである。

腱が切れると、手が腫れて痛くなり、かつ、
指が動かなくなる。


当時、村人は、それを
「なまけものが、かかってしまう『呪い』」
だと考えていた。


若月は、それを手術で治してみせた。

この話が、口コミで広がり、
病院嫌いだった農民たちが、
徐々に、若月の勤務する病院に集まってくるようになる。


・・・

共産主義の思想の中に、有名な言葉がある。

『ヴェ、ナロード』(人民の中に)

というもの。

これは、レーニンなどもよく口にした言葉で、
ツルゲーネフ、ナロードニキなども使っている。


東京から田舎へ「落ちて」きた
若月は、おそらくここで

人民の中へ、いや、『農民の中へ』入り、

ここで彼なりの理想社会を実現しようとしたのではなかったか、
と思う。


・・・

若月には、もう一人、尊敬する人物がいた。
それは、宮沢賢治であった。

賢治は、「農村では演説をするな、演劇をせよ」
という主旨のことを、著書に書いていた。


若月はこれをヒントにして、
「演劇」を始めてみよう、と思った。


農民たちに、健康を守ることの大切さを
知ってもらうために。


・・・

佐久には、昔から、
「養蚕」(ようさん)のお祭りがあった。

若月は、この同じ日に、
「病院祭」を開催し、
病院を開放することを提案し、実施した。

この「病院祭」の出し物の中で、
ひときわ人気が高かったのが、
病院の職員たちによる「演劇」だった。

さいしょの演目であった
「はらいた」は、
若月が脚本を書いたものである。


内容は、


医者嫌いの男が、突然の腹痛にみまわれるが、
病院に行こうとしない。
みんなに説得されて、ようやく病院にいくと、
薬(虫下し)でそれが治ってしまう。

しかし、虫(回虫)によるものばかりではなく、
盲腸など、ほおっておくと死んでしまう病気なども
あることを、教える内容になっている。


が、全体的には、
医者嫌いの男の「こっけいさ」が全編に出ている
コメディーであり、
村人は、笑いの中で、これを見て楽しんでいた。


こうして、
佐久の農民たちは、
健康や医療に対する意識を
徐々に変えていった。


しかし・・


・・・

1959年(昭和34年)、
国民健康保険制度が改正され、
(当時)5割負担だった医療費を、
(後払いではなく)
医者にかかるたびに、
すぐその場で支払うことになった。

国の命令だった。

佐久の農民は貧しく、
収穫期が終わった後、

まとめて『つけ(借金)』の医療費を
秋にまとめて払うのが、普通だった。

毎回、医療費を払える農民など、いない。
(普段は、金をほとんど持っていない。)

このため、
若月が、十数年かけて培(つちか)ってきた
農民との信頼関係が、崩れてしまった。

農民は、お金がないために、
病院を受診できない、のである。


若月や村長たちは、
長野県や国に、窮状(きゅうじょう)を訴えたが、
これがくつがえされることは、なかった。

若月は、途方にくれた。


・・・

医療費が高いから、病院に来れない。
だから、病院には、誰も来ない。

病院が暇になったため、
若月は再び、農村を徘徊し、
巡回診療を続けた。


そこで、一人の農民と立ち話をした。


若月 「この牛は、立派な毛並みだねぇ」

農民 「へえ。この牛は、最優良、ですから。

    『健康手帳』をもっていまして、
    その上、定期的に健診されていて、
    健康そのものなことが、証明されているんでやす。」

若月 「ほう」

農民 「人間様も持っていない『健康手帳』を
    牛が持っているんだから、お偉いこってやす。」


(国産の和牛は、当時から、
 その品質を保つため、厳重に管理されていた。)


これをきいて、若月は閃(ひらめ)いた。

牛でなく、『人間用の健康手帳』を作ったらどうだろうか。
しかも、
毎年一回、健康診断を、すべての村民に行い、
それを、その健康手帳に記録していくとしたら・・


・・・

1959年(昭和34年)、運命の年(とし)がやってくる。

前代未聞、日本初のプロジェクトが実施された。

村民、全員に対する、健康診断と、
健康手帳の配布だった。


お金のない村民は、病気になっても病院に来れない。

だから、
普段から、健診を行い、
病気を早い段階で
(治療費が安くすむ段階で)発見する。

また、
健診の時に、いろいろな健康教育を行い、
病気の予防方法について、啓発する。
(そうすれば、病気にならないので、お金もかからない。)


こうしたことは、
個人のお金の負担を少なくするだけでなく、

長い目でみれば、やがて、
佐久の地域、全体でかかる医療費を
減らしていくはずだ。

(地方自治体や国の財政を圧迫しなくなる。)


「予防は、治療に勝る」

「予防にかかる医療費のほうが、
 治療のそれよりも、安くすむはずだ」

若月の信念が動きだす。


・・・

健診の費用は、
村民一人あたり、30円を支払ってもらう。

これに、村の財政からの70円を加えて、
合計100円で、できる範囲の健診を行う。


病院のスタッフが、健診の作業を行う。
このスタッフは無給(ボランティア)で働く。

しかし、
(人件費をゼロにしたところで)
血液検査やレントゲンはお金がかかるので、
大したことはできない。

だから、問診や普通の診察が重要になる。

この範囲で、どこまで効果をあげられるのか・・?


不安をよそに、集団健診が始まった。

・・・

15歳以上の村人、3000人。
全員分の「健康手帳」を作って、配布する。

それに、
家族構成、既往歴、住環境を書く。

何か病気になるたびに、
その日付と症状を(自分で)書いてもらう。


健康診断の項目も、それに書く。
項目は、
身長、体重、血圧、診察、検尿。


血液検査とレントゲンは、
金がなくて、できない。

だから、かわりに問診を追加する。


農作業の(1日あたりの)時間、
肩・腰・足の痛みなど、
毎日の食事の内容
(白米か、玄米か、麦飯か)
(肉などのタンパク質は、何日おきに食べるか)
入浴回数、
トイレは家の外にあるか、中にあるか、
(佐久ではトイレも風呂も、屋外にあるのが普通。外は寒い。)
など、30項目。


・・・

ともかく、こうして住民の健診をおこなったのだが、
(病院が嫌いな人もいたため)
実施率は、80%程度。

この調査の結果、
多かった病気は、まず「高血圧」だった。


高血圧の原因は、
第一に、塩分の取りすぎ。
第二に、寒い住居。

高血圧はやがて、脳卒中などの原因となり、
死につながる。

また、死ぬまで高血圧の薬を飲み続けると、
村の医療費(の負担)が高騰してしまう。

だから、「予防」しなければならない。

で、
佐久周辺の村人の、1日の平均塩分摂取量を
調べたところ、
(当時)20gを超えていた。

(1日の適切な塩分摂取適正量は、
 医学的には、9g以下、である。)


若月は、このため、
食事内容の改善に着手する。

最大の原因である、味噌汁を改善し、
薄味の味噌汁を提唱。

最初、地元の住民に受け入れられなかったが、
村や村長などの協力により、
徐々にそれが普及していった。


寒さの問題に関しては、
住居内に、ストーブの設置を奨励した。

佐久では、室内でも冬の気温が
2度ぐらいだった。

気温が低いと、
体温を逃がさないために全身の血管が収縮し、
血圧が上がる。

当たり前の、人間の生理である。

このために、
「暖房・炊飯兼用のストーブ」を低コストで開発。

これを村人に普及した。


・・・

皮肉なことが起こった。

健康診断を実施したところ、
病気への関心が増し、

この年、多くの人が病院を訪れ、
村の医療費は、かえって増加してしまった。

「予防すれば医療費は下がる、と聞いていたのに、
 かえって医療費は、増加したじゃないか!」

村の財政担当者は、激怒した。

しかし、若月は、もう少し待ってくれ、と頼んだ。
数年以内に、必ず結果がでるから・・と。


・・・

1966年(昭和41年)、
ついに、結果がでた。

佐久の医療費は、長野県全体の医療費の平均を
下回った。
全国的にも低レベルだった。

若月の理論「予防は治療に勝る」が
証明された瞬間だった。


この後(のち)、

1973年(昭和48年)、
長野県全域が、佐久を「モデル・ケース」として
集団健診を実施、

1982年(昭和57年)、
日本国、全体において、
40歳以上への全国民に健康手帳が配布され、
集団健診の制度が確立された。



一人の男の信念「予防は治療に勝る」が、
国全体に制度を作った瞬間だった。


2009年現在、
長野県の医療費は、全国で最低レベルであり、
かつ、
平均寿命は、男が最長、女も全国で第三位。


つまり、
低医療費と、最長寿を、実現している地域なのである。


・・・

共産主義にかぶれ、
2回も「ぶたばこ」にぶちこまれた青年は、

都落ち(みやこおち)した後、
農村で、とんでもないことをやってみせた。

これが、そのストーリーである。



・・・
・・・

さて、
この佐久病院には、
若月に憧れたたくさんの若い医師が、
全国から集まってくる。

冒頭に登場した、研修医の
英彦(ひでひこ)医師も、
その一人であった。


研修の一つとして、
佐久の巡回診療をしている最中、

ある村で、突然彼は、
村人に呼び止められた。

「先生、へぇへんだー!
 家で人が意識がねぇそうだー!」


英彦医師は、あわてて走り出し、
その家に向かった。

到着したら、60歳の男性が、
意識を失って倒れていた。

家族に聞いたところ、
もともと糖尿病の既往があるという。

しかし、
糖尿病の患者が、意識を失った場合、
二つの可能性がある。

一つは、血糖値が上がりすぎた場合。
もうひとつは、血糖値が下がりすぎた場合。


(糖尿病は、ただ単に、血糖値が高くなるわけではなく、
 その調節ができなくなる病気なのである。
 だから、低くなりすぎて、意識を失う場合もある。
 ちなみに、脳がエネルギーにできるのは、
 血糖(ブドウ糖)だけである。)


この二つのどちらかによって、
治療方法は、大きくことなる。

(血糖値が高い場合は、生理的食塩水などを
 大量に輸液して、血糖を薄める。
 血糖値が低い場合は、ブドウ糖の注射をして、
 血糖値を上昇させる。)


しかし、
巡回中の英彦医師は、血糖の検査をするための
器具を持っていなかった。

通常の診察では、
高血糖になっているのか、
低血糖になっているのか、わからない。

さて、どうしたらいいだろうか?


電話をして、
病院から検査キットをもってきてもらうには
数時間はかかる。
それまでに、患者さんは死んでしまうかも
しれない。

どうする?


(私のブログを読んでいる人の、
 3分の1ぐらいは、医療関係者のはずだが、
 ちょっと考えてみて頂きたい。)


(近代的な検査ができなければ、
 診断もできない、治療もできない、ようでは、やぶ医者である。)


回答は、25行、下に記載。

























困ったあげく、英彦医師は、この患者の
尿を舐(な)めた。

尿は、甘くなかった。


英彦医師は、高血糖ではなく、
低血糖だと判断し、
患者に、ブドウ糖の注射をした。

すぐに、患者は意識をとりもどし、
回復した。


以後、英彦医師は、
患者の家族から
「命を救った恩人」としてあがめられ、
名医と呼ばれるようになった。



若月の影響を受けてか、
もともと、そういう人が集まってくるのか、
佐久病院の医師たちには、
このような逸話(いつわ)が絶えない。


・・・

さて、この佐久病院の病院祭が、
今年(2010年)も、
5月15,16日の土日にある。

研修医たちの行う(予防医学の啓発のための)演劇も
開催されるという。

かつて、若月が、脚本を書いた
「はらいた」という演目ではないらしいが、

新しい医師たちが、
どんな演劇を企画・上演してくれるのか、

いや、
どんな医師たちが、
この佐久病院に、また集(つど)って来たのか、
みてみたい、と思う。















・・・

補足1:
この佐久病院には、
ドクター・ヘリ、と呼ばれる、
救急現場へ、医師がヘリコプターで
飛んでいくシステムもあります。

補足2:
佐久病院は、
中国など、途上国への支援も行っています。

また、フィリピンなどが
この佐久病院の地域医療をモデルにした
医療政策をとっています。


最近の私のテーマは、
世界の(途上国の)国際協力と、
日本の地域医療の融合、
なので、
まさに、この佐久病院のケースは、
うってつけ、と考えています。




佐久病院
http://www.valley.ne.jp/~sakuchp/