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今年、ルーマニア写真展は各地を巡回させて頂きました。

1.新宿、ペンタックスフォーラム
2.築地、朝日新聞社コンコースホール
3.川越、ギャラリー百丈

最後に八王子でやります。


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「ルーマニアの記憶」

会 場
夕やけ小やけ ふれあいの里 
http://www.hachioji-kankokyokai.or.jp/yuyake/yuyakekoyake.htm

夕焼小焼館 ふれあいギャラリー
〒192-0156 東京都八王子市上恩方街2030番地

主 催
(社)八王子観光協会, 夕やけ小やけふれあいの里,
協力 八王子市

お問い合せ
TEL 042-652-3072 八王子市夕やけ小やけふれあいの里

内容 ルーマニアの記憶、B3額入り40枚

公開 一般公開

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「ルーマニアの記憶・・大切なものは何?」、解説 4302字
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山本  「あなたの大切なものは何ですか?」

マリア 「私の大切なものは、・・・
     どこから来て、どこへ行くか、忘れないことです。」

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2000年ごろから、徐々にスタートした「お絵描きイベント」。

世界中の子どもたちに
「あなたの大切なもの」の絵を描いてもらい、
かつ、その子の家までいって家族にインタビューし、
どのような政治・宗教・環境の中で
その子が生まれ育ってきたのかを調べ、写真撮影もする。

その結果、「どうしてその子が、その絵に描いたことを、
大切だと思うようになったのか」を把握する。

子どもたちが描いた大切なものの絵は、時に、
その国の社会背景(あるいは歴史)の中にある問題点に
結びついていることがあり、その絵をきっかけにして、
各国が持つ、貧困、紛争、差別、環境問題などの、
様々な社会問題を、わかりやすく解説するのが狙いである。

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2005年ごろから、全世界80カ国以上で活動している
青年海外協力隊の方々が協力して下さるようになった。
その結果、現在では、常に、10人以上の協力隊員が
世界各国で「お絵描きイベント」を実施して下さっている。

そのような流れの中で、ある日、次のメールが来た。
「ルーマニアに青年海外協力隊で来ています。
 お絵描きイベントに協力させてもらえませんか?」
名前を、M君といった。2007年7月のことだった。

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2008年3月。
しばらくして、M君からルーマニアの絵が送られてきた。
その絵たちは、想像を絶する素晴らしいものだった。

この時点で、少なくとも50か国以上で
お絵描きイベントを終えており、
既に、1万枚を超える数の絵が当法人には届いていたが、

ルーマニアの絵たちは、
どんな国の絵よりも、ずばぬけて上手だった。
わたしは、仰天(ぎょうてん)し、
すぐに、ルーマニアに行きたい、行くから、と
M君にメールを送った。

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かくして2008年7月、ルーマニアの地へと向かった。
さて、M君から送られてきた絵は、
120枚ぐらいだったのだが、
ルーマニアの子の描いた絵には、
うまいだけでなく決定的な特徴があった。
それはもちろん、絵の内容であり、「テーマ」である。

そのテーマとは、「過去、先祖、伝統、文化」など
なんらかの形で、「過去に関係するものたち」が
描かれていたことだった。

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どうして、ルーマニアの子どもたちは、
「過去」にこだわったのだろうか?

素朴な疑問から始まって、
私は、絵を描いた子どもとその家族に会って質問をした。
その結果わかったのは、ルーマニアの複雑な歴史だった。

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ルーマニアのある場所には、もともと
「ダキア人」という民族が住んでいた。
それが、紀元後106年ごろに、
ローマ帝国に滅ぼされ、ローマ帝国領となる。
このため、ルーマニア人の起源は、
ダキア人であるという説とローマ人であるという説がある。

が、少なくとも一度、ローマ帝国領となったため、
このことから、
「ルーマニア」(ローマニア、ローマ人の国)
という名前が付いた。

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その後、中央アジアの遊牧民族などの支配を受けていたが、
13世紀ごろから、
ルーマニアを構成する、三つの重要な「公国」
(公爵の国)が誕生してゆく。

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ルーマニアは、単純化すると、
1.北西を、「トランシルヴァニア」
2.北東を、「モルドヴァ」
3.南を、「ワラキア」という。

トランシルヴァニアは、美しい町並みが続く最大の観光地。
モルドヴァは、美味しいワインと世界遺産となった寺院たち。
ワラキアは、ドラキュラのモデル「ワラキア公」で有名。

これらの公国は中世ごろに確立していったが、
完全な独立国ではなく、周囲の大国の属国となることが多く、
また、戦乱に巻き込まれることが多かった。

理由は、おもにその三つの地理的な要因による。

1.
ルーマニアは、バルカン半島の中央にあり、
南東に、トルコがあるため、イスラム教の
「オスマン帝国」(1299-1922年)が侵略してきた時、
その属国にならざるを得なかった。

2.
ルーマニアの、北には、強大な
「ロシア帝国」(1721-1917年)が広がっていた。
当時、ロシアは「キリスト教をまもるために、
イスラム教のオスマン帝国を蹴散らすのだ」
と言って、ルーマニアにたびたび侵攻してきた。

3.
ルーマニアの、西には、
ハンガリーとオーストリアがあるが、これらの地域で
「ハプスブルグ家」(1273-1918年)
が隆盛を極めた時期があり、
「神聖ローマ帝国」(962-1806年)の皇帝に即位し、
周辺国を威圧するなどした。
その際の強大な国力の前に、
ルーマニアは、従属せざるをえなかった。

以上のような地理的原因によって、中世以後、
北西の「トランシルヴァニア公国」、
北東の「モルドヴァ公国」、
南の「ワラキア公国」、
という三つの公国たちは、それぞれが、
オスマン帝国、ロシア帝国、ハプスブルグ家の
いずかについたり、
まとめて滅ぼされ支配されたり、
一時的には自治権を勝ち取ったり、
という歴史を繰り返すことになるのである。

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この、中世の戦乱に登場したのが、
かの有名な「吸血鬼・ドラキュラ」である。
しかし、彼の素顔は、一般に知られているものとは
大きく異なる。

モデルとなったのは、
ワラキア公国(ルーマニア南部)を治めていた
「ヴラド3世」(1431-1476)という公爵である。

彼は、ルーマニアが、
イスラム教のオスマン帝国から侵略された時に、
勇敢に戦って敵を撃退した。
さらに、恐れをなして、もう敵が攻めて来ないように、
敵の兵士を「串刺し」にして処刑したことから、
ツェペシュ公(串刺し公)と呼ばれ他国から怖れられた。
この他国からの「恐怖心」により、彼は、のちのモンスター、
吸血鬼・ドラキュラのモデルとされたのである。
しかし、ルーマニア側から見れば英雄であり、
自国を守り続けたヒーローであったのだ。

ちなみに、ドラキュラとは、ルーマニア語で、
「ドラゴンの子ども」という意味。
彼の父(ヴラド2世)は、
神聖ローマ帝国から竜騎士団の騎士に任命されていたため、
人々から「ドラクル」(竜公)と呼ばれ尊敬されていた。
このため、彼の息子(ヴラド3世)も、
「ドラキュラ」(竜の息子)と呼ばれ、
地元の人々から愛されていた。
これが、伝説の吸血鬼、
「ドラキュラ」の真実の姿である。

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さて、20世紀の初頭、
おもにハプスブルグ家に支配されていたが、
その衰退とともに、ルーマニアは独立を宣言する。

1877年、ワラキアと、モルドヴァが合併し、
1918年、第一次世界大戦の終結とともに、
トランシルヴァニアを併合し、
ほぼ現在のルーマニアの姿が完成する。

しかし、
1940年、ソビエト連邦(1917-1991年)の攻撃にあい、
モルドヴァの一部を奪われる。
1945年、
第二次世界大戦(1939-1945年)が終わると、
ソ連からの強烈な圧力のため、共産主義国家となった。

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以上のように、周辺諸国の属国となり続け、
国土の分割・割譲(かつじょう)を繰り返してきた
ルーマニアは、その歴史的背景のため、
(他国からの侵略を防ぐために)
中央集権的な、強力な国家体制が必要だ、
と、ルーマニアの政治エリートたちは、
考えるようになる。
(これが、次の不幸を産む、土台になる。)

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1965年、かの有名な、
「ニコラエ・チャウシェスク」(1918-1989年)が
ルーマニア共産党の書記長となり、国家元首となる。
ここから、彼の独裁体制がスタートする。
その背景となったのは、上記のとおりで、
他国からの干渉をゆるさない、超・中央集権体制が
この国に必要だ、と政治家たちが考えていたためだった。

それを考えると、彼が行った政治は、
一方的に悪いことばかりではないのだが、
一般には、以下のようなことが、
悪行(あくぎょう)として知られている。

1.「国民の館」という世界最大級の建物を建設。
(自分の権力を示すため、莫大な税金を浪費した。)
2.ヒットラーを尊敬し、それを真似した演説を行った。
(机をどんどん叩きながら「我がローマ民族の優秀性」を説く)
3.国力は人間の数だとして多産政策。4人以上産むのが義務。
(貧しい人は産むと子を捨てたのでストリートチルドレンだらけ)
4.上記のためマンホール・チルドレンが犯罪の温床になる。
(孤児院にあぶれた子どもたちは、盗みをして生活。)
5.飢餓輸出。国民に必要な食糧なども海外に輸出。国民は飢餓。
(国民の館の建設などに使った莫大な借金を外国に返すため。)
6.秘密警察による、言論の統制。
(朝鮮民主主義人民共和国の影響を受け、徹底的な思想管理体制)
など。

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1989年、ルーマニア革命が起こり、
西部の小さい町から起こった暴動は、全国に広がり、
おおくの民衆の血が流れたが、
最終的に、チャウシェスクは失脚し、銃殺された。

一応、これでルーマニアは民主化されたが、
他国の革命後のケースと同じように、一時期、
政権は混乱し、以前より民衆の生活は苦しくなった。

が、10年以上たってから、
ようやく安定化の兆し(きざし)をみせ、
2007年、ルーマニアは
ヨーロッパ連合(EU)の仲間いりをはたし、
一応、先進国の中に入ることになった。

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以上が、中世以来、混乱を続けた、
ルーマニアの歴史の概要である。

しかし、民主化され、資本主義となってから、
生活は、かえって苦しくなった、という人々もいる。
例えば、こんな意見がある。

「昔は(チャウシェスクの頃、共産主義の頃は)
 みんなが、ちょっとずつ貧乏だったよ。
 でも、みんなに仕事があり、仕事のない人は、いなかった。
 ものすごく貧乏な人はいなかったんだよ。
 今は
 ものすごくお金もちになった人も、ちょっといるけど、
 ものすごく貧乏になった人のほうが、いっぱいいるよ。
 あたしは、昔のほうが、良かったと思うねぇ。」

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以上が、ルーマニアの現状である。
このような歴史からの流れの中で、
私は、ルーマニアの子どもたちに聞いたわけである。
「あなたの大切なものは、なんですか?」と。

その答えとして
「過去」「歴史」「伝統」「文化」
などと答えた子どもが多かった。

子どもたちは、何を想いながら、そんな
「過去につながるものたち」
を絵として描いていたのだろう。

・・ローマ人の国だった、その誇りか?
・・3つの大国に翻弄(ほんろう)された、悲しみか?
・・ドラキュラのモデル・ブラド3世への、敬愛か?
・・ニコラエ・チャウシェスクへの、怒りか?
それとも
・・ルーマニア革命で死んでいった民衆への、祈りか?

最後に、私の心に、深く刻(きざ)まれた、
マリアちゃんの、この一言を、再掲する。

「大切なことは、どこから来て、どこへ行くのか、忘れないこと」