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以前から、書こうか書くまいか、
そうとう考えてきたのだが、
やはり、
「私が、そう思っている、ということ」
自体は事実なので
書いてしまおうと思う。

ある意味において、反社会的なことを書く。

これから書くことは
(一般的な意味では)
その人の人格形成において
悪影響を及ぼす可能性があるので、
以下の方は、読まないで下さい。

1.20歳未満の方
2.自殺をする可能性のある方
3.精神的に、かなり思い悩んでいる方


では、
誰に読んで欲しくて、
こんなことを書いているのかというと、
次のように思っている方に
読んで欲しいのである。

1.自殺など考えたこともない方
2.自殺は悪いことだと思っている方
3.自殺について考えることを(無意識に)避けている方
4.自殺する人を哀れだ、かわいそうだと思っている方

以上の人に、
「一般的に知られている自殺の概念とは、別の考え方がある」
ということを知って頂くことは、

もしかすると、なんらかの形で、
(多様な意見が混在し続ける)「この世界」にとって
有益かもしれない、と思うからである。


さて、では、20行ほど、改行してから、
本論を始める。

・・・




















・・・

その1.教育と洗脳


まず、子どもの頃に受ける「教育」の中に、
「倫理教育」とか、「道徳」
と呼ばれるものがある。

その中に、
「他人のものを盗んではいけません」
とか
「人を殺してはいけません」
というものも、入っている。

こうしたことを
教育(洗脳)することによって、

そうした行動(一般的な、悪いこと)をする人間を減らす、
あるいは、
そうした行動を選択する回数を減らそう、
という試みがなされている。

なぜ、
そのような洗脳をしているかというと、

1.
お互いに殺しあったり、
お互いに物を盗みあったりしたら、
おちおち穏やかな生活をしておられないので、

お互い、そういうことを止めましょう、
という概念が、昔からあり、
また各国で、そうした行為を取り締まるための
法律があるからだ。

ともかく、この部分においては、
個人のため、その人、本人のため、にも、
結果的になっている。

2.
もう一つは、国家のため、である。

社会が、不安定化していると、
おちおち「金儲け」(かねもうけ)に専念できないので、
ともかく、
人々が仕事に専念できるよう、

まずは、社会を安定化させる方向に、
国民を、
子どもの頃から、教育(洗脳)しておこう、
という方針がある。

要するに、
経済の発展のため、あるいは、
国家の安定(維持)のため、
にそうした洗脳が行われている側面もある。


で、
当たり前だが、
上記は、そうした目的を持つ、
個人や、集団、組織の都合によるもので、
「ものごとの本質とは、全く関係ない」。

((真実を追求するための)哲学(あるいは科学)を行う際には、
 どうでもいいことである、と言ってもよい。)


仮に、
あなたが、

「自分の人生には、どんな意味があるのだろう?」

「なんのために、自分は生きているのか?」

「本当に正しいことって、なんだろう?」

などということを、『本気で』考え、
それを見出すことが、
自分にとって、最も価値のあることだと考えた場合、

子どもの頃から教わってきた
「社会通念」を、
全部、ぶち壊してみる必要がでてくる。

誰かが正しいこととして作った
「教育の項目」(洗脳の項目)を
全て、ぶちこわし、
最初の一歩(前提)から、自分で考えてゆくために。


で、
後述するが、
前提をとりはらって考えてみると、
恐るべき「事実」が浮かび上がってくるのだ。


・・・

その2.矛盾の発見


わかりやすいように、
私の子どもの頃の話をしよう。

「人に迷惑をかけてはいけない」

という言葉がある。

これに関連して、
「人を殺してはいけない」
「人の物を盗んではいけない」
という概念がある。

子どもの頃、比較的、純粋な少年だった私は、
わりとそれを素直に受け入れ、信じていた。

「ああ、そうか。
 人に迷惑をかけちゃいけないんだな。
 そうゆうことをしない人が、良い人なんだな。
 お互いに、
 相手に迷惑をかけちゃいけないと、考えるようになれば、
 自分も、他人も、
 両方、しあわせになれるかもしれない。
 きっとそれは、素晴らしいことに違いない」

わりと素直に、そう思っていた。


しかし、
二つのことに気づき、その「理想社会」の概念は、
崩壊してゆく。


1.受験と競争社会

私は地方に住んでいたので、
東京ほどではなかったのだが、

それでも高校入学の時などに受験があり、
頭のいい奴が、いい高校に入り、
頭の悪い奴が、悪い高校に入る、
という制度があった。

で、
(本当かどうかは別にして)
いい高校に入ると、いい大学に入れて、
将来、いい会社に入れて、
お金持ちになれる、
と、教えられていた。

だから、勉強しなさい、と。

で、しかし、
ここで、矛盾に気がついた。

自分が高校の受験に合格すると、
誰か一人を、蹴落とす(不合格にさせる)ことになる。

自分が、わざと高校の受験に失敗すれば、
誰か一人が、幸せになれる(いい高校に合格する)。

だから、
「人に迷惑をかけない」
ことを最優先するのであれば、
「自分は、受験に失敗した方がいい」し、
そもそも
「受験などしない方がいい」
ということになる。

考えようによっては、
「勉強もする必要がないのでは?」
とも思える。

つまり、
「自分が幸せになろうと努力すること」が、
「結果的に、他人の不幸せ(ふしあわせ)につながる」
ことがある、
ということを知るようになる。

現在の日本のような「資本主義社会」では、
この「競争社会」の原則によって、
はっきり言えば、
「弱肉強食」の状態であり、

次のような条件を満たす子どもが、
社会で成功しやすくなっている、
という現状があるようだ。

(1)与えられた勉強を素直にする、という性格を持つ。

(2)それを吸収する能力が脳にある。

(3)倫理教育を「浅く」うのみにし、深く考えず、
   「社会適応性」を身につけられる。

(4)他人に迷惑をかけない、ということと、
   受験戦争で自分が勝ち残る、
   ということの矛盾に気がつかない。
   あるいは気づいても、それを黙殺(無視)できる。
   (本当の問題から、逃げ続ける性格である。)
   (あるいは、考えてもしょうがないことは考えない性格である。)

と、いうような、
一定の条件を満たす子どもが、
受験戦争に勝ち残り、
社会で成功しやすい体制になっている、とも言える。

これが、まず一つ。


2.人間も他の生物も、命の価値は同じ


このことも、学校の倫理教育で習うことの一つだ。

動物をいじめるのは、かわいそうだからやめましょう。
森の木々(植物)を守りましょう。
など。

しかし、そうは言っても、
私たちは、毎日、ご飯を食べている。

牛、豚、鶏、魚などを
『殺して』食べている。

米、麦、豆、野菜なども
『殺して』食べている。

で、まあ、一般的には
実際に(動物を)殺している瞬間の映像を子どもに見せると、
「精神的な悪影響」があり、
その子が、将来、
「グロテスクな犯罪行為をおこす可能性」が高くなる、
だから、
そうした部分を子どもに教えない(見せない)ことになっている。

で、これは
「社会を安定化」させるためには、確かに正しい。

しかし、
「物事の本質を考えさせるためには、明らかに、間違い」
である。

子どもは、
いや、人は、
知らなければならない。

自分が生きるために、毎日、
たくさんの生物たちを殺しているのだ、と。


(具体例をあげると、国にもよるが、
 例えば、牛を殺す際には、
 まず、電気ショックで失神させた後、
 後ろ足をつかんで、クレーンで引っ張り上げ、
 宙づりにし、その状態で、
 頸動脈を切って、血を全部抜く。
 大量の血が、床に放出され、血の海になる。
 それから、
 皮を剥ぎ、肉を切りだして、冷凍され、
 それが、あなたの家の食卓に届くのである。
 一度、見てみるといい。
 あまりの残酷さに、三日ぐらいは、
 肉を食べようなどと、思わないはずだ。)


で、
もしも、最初におそわる倫理教育の項目である

「人に迷惑をかけてはいけない」
「人間も他の動物も同じ生命」

ということを、
自分にとっての絶対的価値、と思うのであれば、

食事をするたびに、
「本当に申し訳ない」と思い、
(間接的にだが)殺してしまった動物や植物たちに、
謝罪をし、お詫びをしないといけない、と思うはずだ。

食事のたび、1日3回、毎回である。


あるいは、
生物を殺して食事をすることを一切やめて、
化学的に合成された、ビタミン剤などだけを飲んで生きる、
ということを、考える可能性もある。

矛盾したくないのであれば、
これしかないのかもしれない。


3.呼吸をするたびに、生物を殺している


ところが、
問題は、食事だけではなかった。

小中学校でも、理科の授業で習うのだが、
世の中には、たくさんの微生物がいる、ことを知る。

自分の皮膚にも、
常に、たくさんの細菌が住んでいるし、
空気中にも、
たくさんの細菌が、ぷかぷか浮いていると。

で、
私たちが、毎分、16回前後、呼吸をするたびに、
その空気中の浮遊細菌を吸いこんでおり、
それを、
肺にいる、白血球が、殺している。

つまり、
他の生物を殺したくなければ、
呼吸をするのを止めるしかないのである。


つまり、一言でいえば

「私は、生きているだけで、罪」

なのである。


自分が生きる、というだけで、
他の多くの生物に迷惑をかけている。

さらに、
受験にかかわらず、(仕事でも)
自分が「競争社会」で成功しよう、と考え、
それに関して行動する、ということは、
(間接的に)
他人に迷惑をかけている可能性が高い。

つまり、
もしも私が、「本当に優しい子」だった場合、
この矛盾を解消するために、
一つの選択肢をとる、可能性がある。


それが、「自殺」だ。


・・・


その3.自分の「生」の決定


人は、本人が希望しようがしまいが、
勝手に生まれてくる。

生まれてきた人は、
6歳前後ごろから、ものごころが付き、
12歳前後ごろから、思春期に入る。

で、
「なぜ、生きているのかなあ??」
という
途方もない、答えのでない考えを
漠然と考え続けるようになる。

(その程度は、人によって激しく違うが。)


で、
基本的に、(医学的にいって)
人間は(日本人の場合)
おおよそ80歳前後で、死亡する。

それ以上、生き続けたくても、
もっと早く、死にたくても、
そのくらいで、死亡する。

本人の希望とは、関係なく。

で、
「自分の生まれ方は、自分で決められなかったが、
 自分の死に方ぐらいは、自分で決めたい」

思う人もいる。

この世に勝手に生まれさせられて、
80年たったら、必ず死ぬ。

その死ぬまでの間、
死の恐怖におびえ、
老いていくことを悲しみ続ける。

(また、そうした、嘆き(なげき)悲しむ感情が、
 自分にある、という事実。)

誰が作ったのか知らないが、
この「制度」に対して、
ささやかながら、しかし、はっきりと抵抗する方法が、
自分でその命を絶つ、という行動かもしれない。

だから、
自殺をする、ということは、
その人にとっては、ある種の「英断」である場合がある。

もちろん、
それが正しい、という気もないが、
一つだけ言えることがあるとすれば、

「その人の死に方に対して、
 他人である、あなたが、口を出す権利はないし、
 また、「かわいそうだ」、などと思う必要もない。
 もしかすると、
 その人は、(ある種の)誇りをもって、
 死を選択したかもしれないのだから。」


・・・


その4.受容と助言


さて、誤解のないように書いておくが、
私は、普通に、内科の外来などで、医者として仕事をしている。

で、その時は、
ここに書いてあるような、「哲学的」なことは話さず、
非常に無難な、「常識的な」姿勢で
診療やカウンセリングを行い、
「自殺企図」(じさつきと)のありそうな患者さんは、
紹介状を書いて、
診療内科か精神科の医師にまわすことにしている。


また、
なんらかの理由で、紹介ができないケースでは、
自分で、非常に無難な、カウンセリングをしている。

それはどうやるかというと、
いわゆる「受容」というやつである。

自殺の多くは、
(誇りを持って死を選択するのではなく)
なんらかの悩みを持って、いたたまれない感情が強くなり、
ついに、手首を切ってしまう、などのことが多い。

だから、
その「なんらかの悩み」を軽減するために、
一般的に、精神医学では、「受容」というのを行う。

それは何かというと、
「その人の話を聞いてあげて、ともかく理解するよう『努力』する」
ということである。

これが一番重要なことで、
その患者さんにとっては、

「自分の話を聞いてくれる人がいる。
 自分の悩みを理解してくれようと
 『努力』してくれている人がいるんだ」

と思うことだけで、救われる場合があるからだ。

(精神的なストレスが、多少、減る場合がある。)


で、心理カウンセラーの人によっては、
さらに、「助言」、すなわち、
その人になんらかのアドバイスを行う場合がある。

しかし、
アドバイスは非常に難しく、
その患者さんに受け入れられない場合も多い。

(実際には、それを実行できないことが多い。)

(それができるくらいだったら、
 はじめから、病院になど来ないからだ。)

だから、私は、
「受容」に徹しており、
(大きな精神的な問題を持つ方に対しては)
余計なアドバイスは、極力しないことにしている。


・・・

その5.自殺を止めさせることの是非


そもそも、自殺をやめさせようという人の話を聞いていると、
その根拠として、
以下の二つが多い。

1.
あなたを愛する家族や友人が悲しみますよ。
だから、自殺など、やめましょう。

2.
生きていれば、きっと良いことがありますよ。
だから、自殺など、やめましょう。

この二つは、
自殺をする側から見てみると、
論拠が、おかしい。


1.については、

そもそも、自殺をする、ということは、
「自分以外の人のことなど考えられないくらい
 追い詰められている」
場合が多く、その人に
「(他人である)家族や友人のことを考えろ」
というのが、適切かどうか。

また、
経済的な問題もある。

例えば、
自分が生きていることで、
家族に経済的な負担を強いる場合もある。
ようするに、
病気で、稼ぎもない、高齢者の場合、
自分が生きるために
家族から金をもらわないといけない。

家族に、そこまで「迷惑をかける」くらいだったら、
死んだほうがましだ、と考える人も(世の中には)いる。


(これに関連して、
 ある日、突然、自分が脳梗塞などになって、
 半身不随で、動けなくなる可能性がある。
 で、こうなってしまうと、ご本人が、
 「他人に迷惑をかけることしかできない存在になってしまった」
 と思ってしまう場合があり、
 その前に、命を断とう、と考える人もいる。
 良し悪しは別にして、そうした考えを持つ人も、一定数いる。
 ちなみに、日本人の3分の1以上は、死ぬまでに、
 脳血管障害(脳梗塞・脳出血)を経験する。)
 

で、家族のほうでも、
親の介護と、上記の経済的負担の
両方に疲れてしまっている場合、
死んでくれたほうが良い、
と考えている場合も
(残念ながら)実際に、ある。

だから、
自分が死んだ場合、
家族が、悲しむか、喜ぶか、なんとも思わないかは、
(自殺しようとする)その人、本人にもわからないし、
ましてや、
自殺を止めようとする赤の他人に、わかるはずがない。

だから、
軽々しく、
「あなたを愛する家族や友人が悲しみますよ。
 だから、自殺など、やめましょう。」
という、助言(?)をするのが適切なのかどうか、
ということは、わからないのである。


2.については、

「生きていれば、楽しいことがありますよ」
と言っても、

実際、
その自殺をしようという人にとって、
その人の「過去の」人生においては、
つらいことの方が多かったに違いない。

だから、
今後、仮に10年、生きたとしても、
その10年の中では、やはり、
つらいことの方が、多く起きる可能性が高い。
(と、その人は考えるはずだ。)

楽しいことも、多少あるかもしれないが、
つらいことは、もっと多く起こる。

それだったら、死んだ方がいい、
と考える人もいる。

だから、この説得方法は、適切ではないと思う。


・・・


その6.死を考えることで、生を見つめられる


思春期の頃から、
私は、数々の矛盾に気づき、
「自殺」について、考えてきた。

また、
結局、人間は、やがて死んでしまうという
絶対的事実について知り、
「死」について、広く追求してきた。

で、
こうした問題を考え続けたことにより、
私は、これまでに
「自殺」という選択肢を選んで、
死亡してしまっていた可能性が、
少なくとも、50%、あったと思う。

(で、誤解を恐れずに、書くと、
 その選択肢は、どちらが正解ということはなく、
 どちらでも良かった、と思っている。

 「もう一人の私」が、
 自殺していたからといって、
 間違っていた、とか、可哀そうだったとか、
 そんな風には、決して思わない。)


で、
「生きている方の選択をした私」は、
今、次のように考えている。


死を考えたことにより、
自分の人生のなんたるかを考える「きっかけ」を持ち、

「なんのために生きているのか?」

「自分の人生を何に使おうか?」

ということを、『本気で』考えるようになった。


子どもの頃に「教育」として与えられた「倫理観」を、
一度、すべて無に帰し、
全ての根源的な「問い」に対する回答を
自分で考えるようになった。


(倫理教育を、一から、自分で自分に行うのである。
 ある意味では、非常に危険な行為かもしれない。)


こうして、山本敏晴の「自我」が形成されてきたように思う。


いずれにしても、

「死」も、「自殺」も、常に私とともにある存在であり、

決して、忌み嫌う存在ではなく、

また、時に、それを選択する可能性もあり、

だからこそ、

今、この瞬間も、

「私は、間違いなく、自分で、生きることを選択している」

のである。



「どうして、今、私が生きている必要があるのか?」

その理由を、刻一刻と、脳に刻みつけながら。























正義と悪 6773字
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死 1,363字
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