.

生物多様性条約について、ほとんどの人は
自分には関係ないことと考えていることだろう。
それはとんでもない誤解である。

特に、
「遺伝資源へのアクセスと公平な利益配分」
に関する今後の話し合いによっては、
日本の医療も、世界の医療も、
崩壊してしまう危険性があるくらい重大な問題なのである。
それについて具体的に解説する。

・・・

最初に、結論を書いておく。

生物多様性条約は、
絶滅しそうな生物を助けてやろう、などという、
甘っちょろい内容だけではない。

簡単にいうと、現在、
先進国にある製薬会社などのバイオ産業と、
途上国の政府は、
(途上国側にある、抗生物質などの原料になりうる)
「遺伝資源」(生物資源)をめぐって、
利害のからんだ激烈な交渉を
国際会議の場で続けている状態なのである。

その結果によっては、今後、日本を含む先進国側では、
新しい抗生物質や抗ウィルス薬、抗ガン剤などが、
もはやほとんど作られなくなってしまう可能性があるのだ。

(製薬会社の利益がでない仕組みになるかもしれないから、
 なのであるが。)

最近の報道で知られているとおり、
薬剤耐性菌(及び薬剤耐性ウィルス)が
世界や日本で蔓延してきており、
「新薬」の開発が必要な状況なのに、である。

・・・

これまでの経緯について、話をしよう。
ちょっと長くなるが。

20世紀、(産業廃棄物等による)公害を始めとする
様々な環境問題が起こったことにより、
1973年、国際連合環境計画(UNEP) 発足し、
以後、様々な環境に関する条約が策定された。

United Nations Environment Programme (UNEP)
http://www.unep.org/

1988年には、(地球温暖化に対する国際的な研究機関である)
「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)が創設された。

Intergovernmental Panel on Climate Change (IPCC)
http://www.ipcc.ch/

そして、「生物多様性条約」も、
「気候変動枠組条約」とともに、
1992年に、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された
「国連環境開発会議」(通称、地球サミット)で採択された。
このためこの二つを合わせて「双子の条約」と呼ばれている。

Convention on Biological Diversity (CBD)
http://www.cbd.int/

United Nations Framework Convention on Climate Change (UNFCCC)
http://unfccc.int/2860.php

その後、各国の議会などで批准・承認を受けた後、
生物多様性条約は1993年に発効、
気候変動枠組条約は1994年に発効した。

生物多様性条約は、
現在(日本を含む)193の国や地域が批准しているが、
アメリカなどは
「遺伝資源の利用に規定を設けることは
 バイオ産業への影響が大きい」
などとして批准していない。

・・・

この生物多様性条約には、3つの目的がある。

1)生物多様性の保全。
2)生物多様性の構成要素の持続可能な利用 。
3)遺伝資源の利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分。

簡単に説明するならば、

1)絶滅危惧種などを救おう。
2)ずっと生物資源を使い続けられるようにしよう。
3)生物資源を途上国から先進国に持っていき、
 商品を作った場合、その利益を途上国に配分しよう。

という話である。

で、この三つの課題に関して、
それぞれが重大な問題になっているのだが、
今回は、3)についてだけ触れる。

この3)の部分のことを、
「遺伝資源へのアクセスと公平な利益配分」
(Access and Benefit-Sharing : ABS)という。

Access and Benefit-sharing (ABS) CBD
http://www.cbd.int/abs/

注:
ちなみに、
現在は、「遺伝資源」という言い方が正しく、
「生物資源」という言い方は、
少し前までの古い呼び名である。
(生物多様性条約における議論をする場合は)
基本的に、全く同じものを指すと考えてよい。

・・・

生物多様性条約が締結されてから、
ほぼ2年ごとに、締約国会議
(Conference of the Parties : COP)
が開催され、活発な議論が行われるようになった。

Conference of the Parties (COP)
http://www.cbd.int/convention/cops.shtml

そんな中、1994年、
マレーシアで行われた国際シンポジウムにおいて、
途上国の生物資源から抗がん剤の開発をし、
それを自慢した欧米の研究者たちを、
途上国の代表たちが非難する一幕があった。
彼らは先進国の研究者や企業を
「バイオ・パイレーツ」(生物資源の泥棒・海賊)
と呼び、
勝手に生物資源を持ち去り、商品を作ったことを非難した。

要するに、途上国としては、
「先進国が勝手に自分の国の遺伝資源を持っていき、
 金儲けに使うのは、許せん」
ということである。

この背景にあるのが、
「先進国における、遺伝資源を利用した商品の売り上げは、
 世界で45〜70兆円の市場規模がある」
というデータである。
途上国の代表たちは、これを知り、目の色を変えて
利益の配分を要求するようになった。

・・・

こうした流れの中、
2001年、
「ABS(遺伝資源へのアクセスと公平な利益配分)作業部会」
が設置され、
2002年、オランダのハーグで開催された、
生物多様性条約・第6回締約国会議(COP6)において、
「ボン・ガイドライン」が作られた。

Bonn Guidelines
http://www.cbd.int/abs/bonn.shtml

その内容は、

1)(遺伝資源・生物資源の)利用者は事前情報に基づき、
 適切な時期に当該国の同意を受ける。
 利用者と提供者は相互合意に基づき契約等を締結し
 利益配分(の割合)等を決定する。

2)各国の政府は窓口を設置する。
 国内法等を制定し、
 ABS(資源へのアクセスと利益配分)の手続きを明確化する。

というものだった。

ただし、ボン・ガイドラインは、
ただの「ガイドライン」であり、
法的な強制力はなく、よって罰則などもない。
つまり、はっきり言えば、守らなくても良いものだった。

このため、途上国から不満の声があがり、
「明確に、利益の何%(約10%)を
 資源国(途上国)に渡すのかを決める、
 法的強制力のある『条約か議定書』を作ろう」
という声が上がったのである。

(条約か議定書ができれば、締約国は自国の国内で、
 国内法(法律)を作ることになるので、罰則ができ、
 守らざるを得なくなる。)

その後、先進国と途上国の間で議論が続き、
2010年3月にコロンビアで、
9回目のABS作業部会があったが、
南アの代表が席を立ち交渉は決裂。

Ninth meeting of the Ad Hoc Open-ended
Working Group on Access and Benefit‑sharing (WG ABS 9)
http://www.cbd.int/wgabs9/

しかたなく2010年7月に
(日本政府がお金を出して)
モントリオールで臨時の再開がなされたが、
やはり原案はまとまらなかった。

この結果、2010年10月に名古屋で開催される
第十回締約国会議(COP10)での
「名古屋議定書」の発効はこの段階で既に絶望的となっていた。

(実際には、先進国側の言い分と、
 途上国側の言い分の、両論が併記された原案が作成された。)

Welcome to COP 10 (CBD)
http://www.cbd.int/cop10/

COP10支援実行委員会 公式ウェブサイト
http://www.cop10.jp/aichi-nagoya/

・・・

議論になっている、具体的な問題点を解説しよう。

生物資源を持つ資源国(主に途上国、新興国)は、
1)事前同意のない資源の国外持ち出しの防止、
2)確実な利益配分を確保するため、
 『法的拘束力のある国際的枠組み』、
を要求している。

一方、利用国(先進国)は、
ボン・ガイドラインに基づき、
1)各国はまず国内法などを制定し、窓口や手続きを明確にし、
 (法整備と窓口設置)
2)資源国と利用者(企業など)による契約締結により、
 公正な利益配分の達成は、
 (現在のボン・ガイドラインさえあれば)可能だ、
 (だから『法的拘束力のある国際的枠組み』は不要だ)
と言っている。

さらに具体的な論点を言えば、

1)『法的拘束力のある国際的枠組み』(議定書など)
 が策定された場合、それを適用する時期を、
 1993年の生物多様性条約の発行年にするか、
 それとも(ヨーロッパが途上国からの搾取を始めた)
 大航海時代(植民地時代)の始めまで遡(さかのぼ)るのか。

2)適用するのは遺伝資源(生物資源)そのもののみか、
 それともその『派生物』も含むか。

3)新型インフルエンザ(鳥インフルエンザ)などの
 重大な感染症に関わる検体の提供は、
 利益配分の対象外とするか。

ちょっと解説をすると、

1)の適用時期については、
アフリカなどヨーロッパに植民地化された国々の恨みは強く、
そのため、
数百年前から(途上国の資源を用い、先進国で作られた)
商品に対する利益の配分を要求しよう、ということである。
これは途方もない話で、これをもし実施するとしたら、
(外国から原料を輸入して生産する)ほとんど全ての商品が
(しかも何百年も前の過去のものまで)対象となることになり、
恐らく収集かなくなると思う。

2)の派生物については、
資源国(途上国)は利益配分の対象を、
微生物が作り出した化合物に手を加えた『派生物』
にも拡大するよう要求している。
先進国はこれを拒否。
例えば、インフルエンザ治療薬である
タミフルの原料は「八角」(中国原産の木)である。
この八角そのものは、もちろん遺伝資源だが、
化学合成した後のタミフルは『派生物』に相当する。
さらに、八角に含まれる、
植物の遺伝情報、ビタミン、アミノ酸等も
『派生物』に入ると言う。
で、先進国は「派生物を規制の対象外」としたいわけだ。
しかしもちろん、
「派生物が入らなければ意味がない」と
(資源国側の)ペルー代表が激怒した。

3)の感染症の検体提供については、
最も重大な問題が起こっている。
それは、強毒性インフルエンザに関するものだ。
まず、2009年に流行した新型インフルエンザは、
豚由来のH1N1型で、感染力は強かったが、
死亡率は低かった。
一方、インドネシアなどで流行している
鳥インフルエンザ(H5N1)は強毒性で
死亡率が60%〜80%と高い。
この二つが、豚の体内において遺伝子交雑を行い、
感染力が強く、死亡率も高い、
「強毒性の新型インフルエンザ」が
近い将来発生する可能性があることを
WHO(国際保健機関)等が危惧している。
このため、
もしそうしたウィルスが、
インドネシア、エジプト、中国などの
(鳥インフルエンザの)流行国で発生した場合、
そのウィルスの検体を提出するよう、
WHOはそれらの国に要求してきた。
ところが、インドネシアはそれを拒否。
「そのウィルスも、自国の『遺伝資源』だ。
 だから簡単には(無料では)やらない」
というのである。
これはちょっととんでもない話で、
先進国側から見れば、
かつてのスペイン風邪のように、
世界中で何千万人以上が死亡する可能性のある
強毒性新型インフルエンザが流行する段階になっても、
インドネシアは、そのワクチンや治療法を開発することに
協力しない、と言っているわけである。
一方、インドネシア側にも言い分はあり、
まず、
これまで(普通の季節性)インフルエンザに対する
ワクチンを作るために、
インドネシアなどの途上国はWHOに検体を提供してきたが、
WHOはそれを先進国の製薬会社に回し、
先進国でワクチンが作られたが、
インドネシアなどの途上国には、
そのワクチンは、回って来なかった。
先進国(の政府と市民)には高いワクチンを買う金があったが、
途上国の人々や政府では、購入できない金額だったからだ。
つまり、
インドネシアなどの途上国側としては、
先進国の製薬会社がワクチンで金儲けをするのに協力し、
先進国の市民だけがワクチンの恩恵を受けられるのには
協力できない、ということになる。
だから、ABSを主張し、
生物資源に対する利益を分配しろ、というのは、
ある意味、当然である。

・・・

このように、複雑で多岐に亘る問題が、
生物多様性条約を巡る議題の一つ、
「遺伝資源へのアクセスと公平な利益配分」(ABS)
である。

ちなみに、抗生物質の開発に関しては、
次のような理由で絶望的な状況である。

まず、
1)抗生物質は、高血圧や高脂血症の薬に比べて
 (医師の患者さんに対する)処方期間が短いので、
 利益率が低い。
 (高血圧は何十年も処方するが、
  抗生物質は、5日間程度である。)

2)さらに、その薬剤に対する耐性菌が発生しやすいため、
 市場に出てから数年で、使えなくなる可能性。

3)加えて、ABSを巡る議論により、
 『法的拘束力のある議定書など』ができてしまい、
 利益の1割を資源国に渡さないといけない場合、
 ほとんど収益がでない可能性がある。

既に現段階でも、各製薬会社は、
新しい抗生物質の開発をどんどん中止しており、
あと数年で新型抗生物質は、市場に登場しなくなる方向だ。

そこに加えて、最近ニュースを賑わしている
アシネトバクター、緑膿菌、大腸菌などのプラスミド上にある
多剤耐性遺伝子の伝搬の問題がある。

(プラスミドとは、細菌の核の外にある、
 ぷかぷか浮いている円形の遺伝子で、
 他の細菌と、くっついた時に、移行してしまうもの。)

異種の細菌同士でも「接合」によりプラスミドが伝搬される現象を
厚労省なども警戒している。
具体的には、サルモネラや赤痢菌などの強毒性細菌に
多剤耐性遺伝子が乗ったプラスミドが伝搬したら、
「大規模な致死的食中毒が多発する」などの、
大変な事態が発生する可能性がある。

で、このような
(潜在的に)危機的な状況があるにもかかわらず、
製薬会社は、多剤耐性菌に対抗するための
新型の抗生物質を「もう作らない」かもしれないのである。


また、一方で、
世界のどこかで、かつてのスペイン風邪を上回る、
致死的で感染力の強い新型インフルエンザが発生しても、
途上国はワクチンを開発するための検体を提供しない、
かもしれない。

「100兆円よこせば、ウィルス検体をわたしてやる」
「そんな金は払えない。国際社会に協力しろ」

などという議論をしているうちに、
世界中の人々が死んでゆくことになるかもしれないのだ。

さて、世界は、いったいどうなってしまうのであろうか??