2009年11月14日
『アンヴィル』を観た――「本当に幸せ」になるということ
『アンヴィル』は、見田宗介が比べて語った(のをチャーリーが語った)ように、「本当の幸せ」を求めた男が最終的に「本当に幸せ」になることを求める映画だと思った。「本当の幸せ」を求めるということは、「ロックスター」とか「メイクマネー」とか、「幸せ」の中身が問題になり、そこではシビアな結果がついてまわる。しかし、映画の最後にリップスが語るように、「重要なのは考え方」なのである。80年代にヒーローになったアンヴィルは、その成功によってその後の20年、活動することができた。その過程は、リップスとロブにとってきっとまぎれもない「幸せ」だったはずである。少なくとも『アンヴィル』はそのように描かれている。このような考えにはとても共感する。昔から、「絶対にこうなってやるんだ!」というような物言いが苦手で、何かに挑戦してそれを乗り越える喜びよりも、失敗して悲しむリスクへの恐れの方が勝っていた。だから、勝負事や部活に対しても、もしかしたらどこか勝利への執着に欠けていたような気がする。このへたれ精神は、もちろん、アンヴィルのそれとは比べものになるものではないけど、もし重なるとすれば、物事へのポジティヴな捉え方である。
しばしば、「頑張っても負けたら意味無いよ」的な言い方がされる。高校サッカーでも大学サッカーでもよく聞いた言葉だ。へたれの裏返しではあるが、僕はやはりこういった言葉をとても悲しく聞いていた。はっきり言って、みんなで頑張ったこと自体が本当に本当に楽しかったのだ。もちろん、それが勝利につながればそんな素晴らしいことはない。今年の勤務校の甲子園出場ははたから見てても感動的だった。しかし、それとは別に、負けたからってあの日々が「幸せ」だったことには変わりがないと強く思っていた。僕は、高校時代、あだち充『H2』の国見比呂に共感しまくった挙句に憧れていた。比呂は、素晴らしいチームメイトと一緒に野球をやっているというその事実に満足して、勝利への執着心に欠けていたが、この気持ちはけっこう理解できた。高校時代のある日、OBの方に、公式大会に対する意気込みを聞かれ、完全に比呂を意識した上で「みんなでサッカーできること自体が幸せなので、勝利はその次です」と答えたら、「負けたら意味ねーだろ!」ととても怒られた。まあ、比呂気分に浸ってる僕が痛いのは認めるけど、やはり、どこかで違和感はあったのだと思う。松本大洋『花男』が大好きな僕としては、やはり「父親が息子に見せるべきは結果より過程なのです」(まあ、実際には「甘いよ、かっとばしな」なのだが)。だから、「本当の幸せ」にこだわって、そこに到達できたら100/できなかったら0という考え方はきつい。それは、新自由主義的なあれこれで考えてもきつい。結果が、40でも60でも70でも、その過程の中で(そこそこの)「幸せ」を拾っていく方が、僕はハッピーだと思う。だって、それでなきゃアンヴィルの30年ってなんなのさ。そこに価値があるか/ないかではなく、通ってきたことにいかに価値を見出すかということの方が現実的に大切でしょう。そういうことをちゃんと見せてくれた映画だと思った。
あと、町山さんは以前『キラ☆キラ』で、日本はアンヴィルを含め、昔のバンドに優しいと言っておられて、それはまあそうなのかもしれないが、『アンヴィル』のラストにあったフェスの映像を観た僕の印象はちょっと違った。というのも、あのフェスの客席において、根っからの、あるいは熱狂的なアンヴィルファンは、果たしてどのくらいいたのだろうか。僕の推測ではそんなに多くなかったように思う。あれは、アンヴィルのファンというよりも、いわゆるフェスバブル的なミーハーな消費者の姿ではなかっただろうか。Tシャツ&タオルの典型的なフェスガールの姿も多く、とてもアンヴィルが求めていたようなファンとは思えない。はたして、あの客のどのくらいの人がアンヴィルのCDを持っていたのだろうか。しかし、僕はここでそのことを批判したいつもりではない(というか、推測でしかないし)。そうではなくて、むしろ逆で、中身のないバブル的な消費者であっても、じゅうぶんにそこには感動とか希望があるのだということを感じたのだ。かりに一人一人が、熱心な音楽ファンやバンドファンでなくとも、ある種、消費に乗った形での客の存在が、あのときのアンヴィルには、なににも得難いものだったはずだ。それは、もしかしたら皮肉な風に映っていたのかもしれないけど、僕はむしろ泣いた。良い映画だった。
*
現代文化研究会のために、『ヴァイブレータ』と『やわらかい生活』というのを観たけど、なかなか良かった。良い画面に良い曲が流れる、そういう場面が一瞬あるだけで、映画体験としてはもう満足である。
2009年11月03日
ブルボン小林『ジュ・ゲーム・モワ・ノン・ブリュ』(ちくま文庫)〜平凡コンプレックス
ブルボン小林『ジュ・ゲーム・モワ・ノン・ブリュ』がとてもおもしろかった。ゲームと音楽で扱うものは違うけど、「EP」の方もこのくらいおもしろおかしく書ければ、と思う。個人的な体験としてはテレビゲームは、人並みくらいしかやっていない。パズルゲームとかアクションゲームはわりと好きだけど、RPGが苦手で、すごくヌルいゲームユーザーだと思う。しかも、ウチは父の仕事の関係もあってか、スーパーファミコンをかなり早い時期に購入していたので、僕が物心ついたときにはすでにファミコンが駆逐されていた。したがって、ファミコンソフトはほとんどやったことがなく(『ゲームセンターCX』を観ているので、なんとなく知っているのもあるのですが)、『ジュ・ゲーム』に出てくるソフトも、知らないのがほとんど。でも、やはりおもしろかった。
とくに僕は、初っ端の『平安京エイリアン』についての文章が好きだ。『平安京エイリアン』は名前しか知らないが、たしか『こち亀』で、両さんが麗子(たぶん)に「どうして、平安京なのよ?」と追及されている場面があったのを覚えている。『ジュ・ゲーム』でも、やはり、「居合わせた店番の女の子が「でもなんで平安京なの」と問う」という描写が出てくる。「男の夢を覚ますのは、いつもオンナ子供でござんす」なのである。ブルボンはこの問いに対して、推測ながら鮮やかに答える。
多分、『平安京エイリアン』は、企画の時点から「平安京でいきましょう」ではなかった。はじめに「碁盤状しか描けません」があって、「だったら舞台を平安京ってことにしようぜ」という流れだった(のではないか)。
うん、そうだ、きっとそうだ。いや、ここで細かい事実関係はあまり関係ないのだ。そして、その少しあと。
とにかく、箱裏の説明書きに「主人公=KEBIISHI」とあるのに僕はシビれた。検非違使とばって、月下の朱雀通りを駆ける。今、ゲームでなんでも表現できるようになって、そんなイカした設定はむしろ生まれなくなってしまった。
僕はここにヒップホップを感じた。とか言うと、またつまらない話になってしまうかもしれなしけど、とにかく感じた。『F』創刊号に寄稿したヒップホップに関する論文で、僕は、レヴィ・ストロースによるブリコラージュという有名な概念について言及した。ディック・ヘブディッジは、ブリコラージュの「記号の読み換え」的側面におもしろさを感じ、モッズやテッズなどのサブカルチャー分析をおこなっていた気がするが――そして、それはブリコラージュの本質的な機能だと思うが――僕はそれ以上に、ヒップホップをめぐる環境というものが「ありあわせのもの」を使うほかなかった、という外在的な条件との関連に興味をもった。単なる「記号の読み換え」なんて、したければ勝手にすれば良いのである。そうではなくて、決して豊かではない条件のなか、それでも内から沸くなにかのため、ギリギリの環境をフル稼働させるようなひっ迫感に、僕はファンタジーを見ているような気がする。その結果、とんでもない/トンデモないものが出来上がってしまったら、なおさらである。ブルボン解釈による『平安京エイリアン』も、この類のファンタジーが感じられてとても良い。なにかこう外在的な条件に手を引かれるように、ぽろっと出てしまったようなものが好きだ。誰のコントロール下にも置かれていない分、必然性と説得力がある。
そう考えると、なにか表現とかに関しては、やはり「個性」とか(従来的な意味での)「オリジナリティ」とかというものには興味がない。これはもちろん、昨日の武蔵美のLIFEイベントのことを言っている。昨日のイベントは、東京ピストル・加藤さんの教え子さんたちが、とてもよく企画・運営をしていて、すごく良いイベントでした。トークテーマも良かったです。そこで、一瞬、音楽の話なんかも交えながら、模倣・商業性と作家性の対立の話が出ていたが、僕は個人的な感覚としてはこういった二項対立にさほどピンと来ない、少なくとも音楽とかは。というのも、僕が憧れるのは、やっぱ小林亜星とか細野晴臣とか小西康陽で、まあ細野さんはちょっと別かもしれないけど、とにかくポップスに憧れているのである。ポップスには、尖った個性など必要ない。いや、一概にそんなこともないと思うけど、少なくとも尖った個性のみで成立するものではない。やっぱり、そこには不特定多数の聴き手が念頭に置かれている気がする。だから、不特定多数の記憶に呼びかけるような感覚こそが必要だと思うのだ。
僕は趣味で楽曲とか作るけど、人のマネばかりしていると思う。それは、僕に音楽の才能がないだけのことなのだが、少しでも「どこかで聴いたことがある曲」が出来たときほど気持ち良いときはない。中田ヤスタカ風とかYMO風とかピート・ロック風とかコモエスタ八重樫風とか、ひとつとして成功したことはないけど、そうやって匿名的にいろんな音楽ができたらすごく楽しい気がする。そこには「個性」も「オリジナリティ」もないかもしれないが、ただ、僕の趣向が確実に存在するという意味では「作者性」はあるような気がする。筒美歌謡もパクりばかりだけど「作者性」は明らかにある。だから、ポストモダンとかそういった議論を別として、素朴な実感で、個性=オリジナリティ=作者性みたいな図式には少しだけ違和感もある。いや、かと言って、そこにまったく葛藤がないわけではないので、全然理解はできるだけど、たぶん葛藤は少ない方だと思う。そのことが関係しているかわからないけど、表現に関して僕は、個性とか新しさとかいったものとは別のものに反応している気がする。それはちゃんと言語化できないけど、「説得力」みたいなニュアンスのものだ。曲どころか楽器の一音レヴェルに分解しても、「説得力」があるものとないものに差を感じるときがある。はせはじむさんはrecommuniのポッドキャスト対談で、ミュートビートについて、「ただのTB-808の音なのに、ミュートビートとしか言いようがない音だよね」みたいなことを言っていたが、たぶんこれは『スティル・エコー』あたりのことを言っていて、その感覚はすごく僕にもわかる。そういう、説得力を持ったサウンドとか歌声が聴けるのなら、個性とかオリジナリティとかはどうでもいい気がする。しかし、「じゃあ、どういったものが説得力を持つのか」という問いにはやはり答えられず、みなさんはきっとそれを指して「作者性」と呼んでいるのでしょう。ただ、先の議論に戻るが、たとえばヒップホップにおけるサンプリング手法、とくにオールドスクールのそれなどは、説得力がとてもある。あるいは、KRSワンにも説得力がある。こうした魅力が、曲や送り手に内在的なものか僕の文脈で事後的に構築されたものなのかわからないけど、いずれにせよ「作者性」という言葉だけにとどまるのはもったいない気はする。もっと、さまざまな条件が渾然一体となった世界の営みだと僕は考えているし、そう考えた方が人生が楽しい。
「〜風」「〜っぽい」からダメとか、新しいから良いとかっていう議論って、表現としてはすごく手前のレヴェルの話なんじゃないか。
2009年10月24日
先日のビジスタニュース
栗原裕一郎さんによる小熊英二『1968』評(「ビジスタニュース」)は、基本的には、もちろん勉強になるものだったのだけど、結びの方だけ疑問。人文思想というのは、文芸批評や社会学に顕著だが、これまであまりに恣意的に物語がつづられてきた分野ではあった。しかも物語(というよりも物語を語る者)に対する支持者の多寡で正統性が担保されてしまうという、それこそ戦後民主主義の多数決じみた価値観に支配された世界だった。おまけに恣意的な物語を指して「理論」などとお為ごかしをいうのできわめてタチが悪い。愚直なまでに資料=事実で包囲してしまい有無をいわせないという小熊のやり方は、そういう適当さに対するしっぺ返しなのだろう。
文芸批評という領域はちょっと微妙なので措いておくとしても、たとえば、文学研究とか歴史研究・社会科学における「歴史はすべて偽史である」的な態度って、そもそも、それ以前の文献学や、あるいは実証研究のアンチとして出てきたものなのではないのか。たとえば、吉田精一とか谷沢永一とかの一部の仕事って、圧倒的な資料によって作家を包囲したわけだけど、それ以上に読者の解釈にこそ意義があるっていう形で、今度は作家を切り離したのだから。したがって、資料の包囲は、「物語の構築」側にとって、とっくに乗り越えた(と思ってる)方法論なので「しっぺ返し」にならないのではないか。もちろん、テクスト論の名の下に、あまりにも恣意的すぎる読解がまかり通ってきたことへの反省はありうるわけで(「漱石深読」とかその後どうなったのか、追っていないけど)、現状としては、「もうちょっと実証研究にシフトしようよ」という動きはおそらくあります。でも、もし栗原さんの文章が、そういった意味を含意するのだったら、やはりそのように書いた方が良いと思いました。また、小熊さんのやっていることが、オールドスクールな実証研究とは違うと言うのなら、その差異はとくに言及してほしかったです。いずれにしても、構築主義以前のモードについてまったく触れていないと、一読者的には、栗原さんの文章こそが超恣意的に見えちゃいます。まあ、僕のなかで文学研究と社会学の問題を一緒くたにはしてる感はあるけど、大きな視点で見たとき、そのへんどうなんだろう。まあ、栗原さん自身は、小熊さんに対して「手の施しようがない」とも言っているので、全体的には斜に構えている感じではありますが、このへんのこと、『1Q84』のときみたいにツイッターあたりで答えてくれないかな。おーい。
2009年10月22日
ナンシー関と構造主義
多くの人と同じようにナンシー関が好きなので、ときどき読み返すのだが、読むにつけ、優れた構造分析だと思い、その思いは妙な形で自分のエネルギーに変換される、ので良い。とくに、「おしゃクソ事変」以降の芸風を見越したかのような猿岩石ブレイク当時における、「有吉は目が死んでいる」発言など、本当に感動的ですらある。ただ、これに関しては、原文を読んだことがなく、しかも、どの記事かもわからないので、もし書誌事項をご存じの方がいたら、コメントかメールかください。さて、ナンシー関のタレント評が構造分析だと思うのは、ナンシーがタレントを、視聴者と送り手側との共犯関係(死語か)からなるテレビ空間の体系のなかで意味付け、評価していると思うからである。ナンシーが言う「なぜ小倉智昭はあんなにもオーディオマニアなのか」の「小倉智昭」が、じっさいの小倉智昭とは異なるという有名な話(北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』)に象徴的なように、ナンシーが語るタレントは、あくまで表象としてのタレントなのだ。僕は以前、Jポップに関する論考を書いたとき、小室哲哉をかこむシンセサイザーについて、Jポップ以降におけるプロデューサーの全能感を表象したものだと指摘した。この指摘はじつは、ナンシー関の小室哲哉への言及を元にしたもので、じっさい、論文にも引用しようと思っていたのだが、どうしても該当箇所が見つからず断念してしまった。しかし、昨晩、風呂のなかで『耳部長』を読んでいたら、タモリの項目で、その箇所を発見した。「機材の山はTMネットワークのアイデンティティだ」と。これも、小室を囲む機材がハッタリかガチかということ自体を問題にしているわけではない。ナンシーが重要視するのは、視聴者にとって、あの機材の山がTMNのアイデンティティのように機能しているということである。すなわち、記号論。
構造主義と言えば、僕に構造主義を教えてくれたのは、現在は同僚でもある高校の現代文の先生だ。とは言え、高校生の僕は構造主義なんか理解できるわけはなく(はたして今も理解しているのかどうか)、遠近法の話とソシュール言語学の話が楽しかった覚えがあるだけである。しかし、この体験は、大学で柄谷行人の『日本近代文学の起源』を読むときにおおいに役に立った気がする。『日本近代文学の起源』は、僕にとって、とても大切な本のひとつだ。また、あの授業があったからこそ、国文学専攻に迷いなく進学することができたとも思っている。ちなみに明日は、僕が構造主義を教わった、まさにその授業を、今度は教員側としておこなう日である。うん、いい話だ。リラックスしてがんばろう。
*
そういえば、『ショーケン』にはUKAWANIMATION!のことはまったく書いていなかった。
2009年10月15日
魔法の正体
以下の記事に対して、全面的に同意。「「七尾旅人×やけのはら/Rollin' Rollin'」素晴らしい件」(nagira mitsutaka「Uma Nuvem Se Aparece」)
「全面的に」というのは、七尾旅人が苦手だったということやすごく売れれば良いと思うということなども含めてのことで、もちろん書き手のnagiraさんと僕では、それぞれ通ってきた音楽体験が違うので完全に同じ感情を味わっているということはないと思いますが、それでも文章を読むかぎりすごく共感できます。とくに、最後の1文「ポップスにはまだまだ魔法がかかる余地がある」というのは印象的。
ポップスはしばしば本当に魔法としか言いようのない説明しがたい魅力を発していて、それはたとえば、僕にとって『ペット・サウンズ』や『サムシング/エニシング』、あるいは日本のものだと、サニーデイ・サービス『東京』や小沢健二『LIFE』とかだったりするのですが、これらのアルバムに存在するキラメキ感は、演奏や歌唱力や楽曲に還元できない、まさに「ポップスの魔法がかかってる」と言いたくなるようなものです。このようなポップスの魅力を「魔法」と呼ぶ向きは、いつごろから存在するのかよくわかりませんが、ラヴィン・スプーンフルの代表曲に「魔法を信じるかい?」という良いタイトルの曲もあるので、そういうところからしだいに音楽ファンのなかで共有されてきたのかもしれません。僕は、佐々木敦さんの紹介する音楽は、そんなに追っていなかったのですが、以前、バイト先で読んだジム・オルークの『ユリイカ』のライナーには、すごく好きな、やはり心に残った言葉がありました。現物がいま手元にないのでアレですが、それは、すごくポップな音楽になった『ユリイカ』を境として、旧来のファンが新しいジム・オルークを、新しいファンが昔のジム・オルークをそれぞれ認めないことがあるとすれば、その人たちはなにかよくない魔法にかかっている、といった内容の文章です。やっぱ、この「魔法」という言葉が印象的で、『ユリイカ』のとても優しいポップな音楽がその「よくない魔法」を解いてくれるような、そんな感覚を味わったのを覚えています。
日本の魔法使いとしては、やはり小沢健二が圧倒的な存在です。『LIFE』はもちろんなのですが、それ以上に『ECLECTIC』に驚きました。あんな80年代っぽいサウンド、下手したらものすごくダサくなりそうなものなのに、どれもこれも「CURIOUS」や「BETWEEN THE SHEETS」を上回るくらい素晴らしい。それで「1つの魔法をあなたはくれるよ ハンサムな瞳に隠した心が灯した魔法」(「1つの魔法(終わりのない愛しさを与え)」)とか歌われたら、完璧すぎます。もちろん、こういったセレクトの時点で、僕のある種の音楽的偏向の反映である可能性はあるので、かんたんに一般化はできないのですが、とにかく言えることは、しばしば(ポップスに限らず)音楽には、なかなか説明できない魔法的ななにかが宿るということです。難しいことをやっているわけではないのに持ってしまう美しさ、力強さ、説得力。こういうものに遭遇すると涙物です。
それで、今回の「Rollin' Rollin'」なのですが、これはもう完全に魔法としか良いようのない魅力を、僕も感じました。あんなシンプルなビートとアレンジなのにどこか温かくて、さらに七尾旅人とやけのはらが歌とラップを入れると、そこにはすごくアーバンなキラメキが宿ります。とくにラップ好きとしては、やけのはらのラップが本当に良くて、というのも、2000年前半くらいどこかラップの手法があらかた出つくした感があり、僕はその後の奇をてらったライミングとかにはあまり興味はそそられなかったのですが、やけのはらのラップは、すごくゆるいライミングだけど声とフロウが良いから、シンプルだけどそれだけで説得力がすごくあります。スチャダラパーとか最近また新鮮で、あとイルリメもすごく良いし、いまはライミングの固さよりもフロウのゆるさを活かす方がリアリティがあるのかもしれません。「このグルーヴをつかまえて」とか、ラップとしてはもっといろいろな言葉を詰め込みたい欲望にかられますが、でもそれを4回くり返すのが本当に良いんだよなあ。
結局、魔法の正体はよくわかりませんが、わかんなくてもまあ良いです。わかったら魔法じゃなくなる。
※ちなみに、こういう曲は、さまざまな条件の絶妙なバランスのなかで成立しているので、へたにカラオケとかで歌うとケガします。このあいだUGAで歌った「Rollin' Rollin'」はひどかった。
2009年10月09日
トクマルシューゴ他
思い立って、「風呂ロック」でトクマルシューゴのライヴを観た。良いではないか、ナチュラル・リヴァーブ。CDよりライヴの方が良いです。簡易的な楽器の数々でドリーミーなサウンドが奏でられ、かつ踊れました。そして、嫉妬心とともに沸き立つ音楽欲。あれだけのギターの腕前があれば良いよなと思いました。のちにある方から聞いた話によると、トクマルさんは、音楽の出発点にイングウェイ・マルムスティーンとかがあるとか。なるほど、あのギターはメタル的な速弾きの延長なのか。「パラシュート」はいまやカラオケにも入っており、歌ったりもしているのですが、ああいうきれいなファルセットは出ないです。しかし、このあいだ友人とも少し話したのですが、なんかずるいんですよ、トクマルシューゴさん。だって、あんな音楽やってたらそりゃ良いに決まってるもの。それで、MCとか見ててもキャラクター的にすごく好感持てるし。会場は女子がけっこう多くいましたが、うすうす感じていたように、いまいちばんモテるのはトクマルシューゴ系だという仮説は当たっている気がする。
大橋さんとか九龍ジョーさんとか会場に知った顔がちらほらいたので、みんなで飲みに行きました。途中で、トクマルさんたちも合流。それにしても初対面でも「先生やってます」と言うと興味をもってくれる方が多くてありがたいのですが、でもまだ2年目で、じっさい真面目な生徒たちばかりで、そんなに面白い引き出しがないのは申し訳ないというかなんというか。ただ、黒板に「裏サイト」って書いて「君は誰だね!」っていう金八のくだりには爆笑した。本当にやる勇気はまだないけど、本当にやったら良い方に転がっていく気がする。
先日、授業に行ったら、インフルエンザの影響で生徒が半分くらいしかいなくて、授業を進めるのもなんだったから、急遽映画鑑賞の時間にしました。図書館で選んできたのは、名作アニメ『銀河鉄道の夜』で、あのなんとも言えない空気感と細野サウンドを感じて欲しかったのですが、あまりにも退屈な謎のストーリー展開に多数の生徒が撃沈。素直にジブリが正解だったか。今度は、また違う授業でリメイク版『転校生』を観せるつもりだけど、これはイケるだろう。少なくとも、プロットはまともに追えるはず。反応楽しみ。笹公人さんも出演してる『その日の前に』もかなり良かった。あれを観ると、死ぬことが怖いことや悲しいことでない気もしてくるので不思議です。新『転校生』もそういうところがあって、うまく理論化したい。それは、次回の『F』で。
奔屋・藤原ちからさんがはてなブログのことを書いてくれましたが(ありがとう!)、あれが『未来世紀ブラジル』か。ということは、あの「ブラジル」がジェフ&マリア・マルダー版っていうことかな(本当?)。意外にサンバでした、欲しいな。次回の『F』では、そんな『未来世紀ブラジル』の話も含め、「映画における音楽、音楽における映画」(仮)というインタヴューのような対談のようなものを組んでいます(他のゼミ員さんに了解取ってないけど)。相手は、新作CD『スウィング・セット』がバカ売れして金を稼いでるはせはじむさんです。ぼちぼち原稿仕上げていかねば。
2009年10月08日
台風と最近のアクセス数について
台風とインフルエンザで学校はぐだぐだになっていますね。2学期は授業カットがあたりまえの状況に。まあ、次の日が休みとわかっている台風はまだ良いのですが。たぶん胃腸の調子はずっと良くないのですが、働くようになってからさらにひどい。今日も渋谷の駅でうずくまるほど痛かったのですが、トイレを探しているうちに引き込まれるように蒙古タン麺の「中本」に。最近、とある友人のブログに「中本」のことが書いてあったので、そのこともあって迷いつつも入って食べたら腹痛はすっかり治ってました。ただの空腹だったようです。でも、空腹なだけで激痛が走る腹ってやはり問題があるような…。ちなみに、少し腹痛気味のときに下手に飯を食うと、それはそれでけっこうな腹痛になるので、今日の「中本」も、その意味ではイチかバチかという感じもあったのですが、まあ大丈夫でした。
最近、ブログのアクセス数が落ちてる。右に「訪問者数」が出ていると思いますが、人気ブロガーへの道は果てしない。ちなみに過去、というか最近の「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」っていう記事は、アクセス数がかなり増えました。前に書いた文章を一部使いまわしただけなのですが、タイトルがタイトルなだけに、宇野常寛さんファンが検索してきてくれたのでしょうか。というかやっぱり潜在的には、文学フリマとかそのテの読者が多いのでしょうか。その少しまえも、「1Q84」がらみでなんか書いたときに、栗原裕一郎さんがtwitterに「こんなん見つけた」的にリンクを貼ったこともあり、アクセス数が増えました。あとはけっこう昔、ラッパーのD.O.が『リンカーン』に出演したとき、そのことについて書いたらやたらアクセス数が増えました。どういうのがウケが良いのか、事後的にしかわかりません。もしかしたら、もっとトラックバックとかを活用した方が良いのかもしれません。ただ、いまだにトラックバックの意味がわかっていないのですが。当初から、「別に読まれなくても良いや」という感じではなく、むしろ、「やるからにはアクセス数増やしたい」派なので、トラックバックとかそういう政治的な活動をしなくてはいけないのかも。トラックバックが政治的とか大ゲサだけど、そもそも、トラックバックってどこかの記事に自分でリンクを貼りに行くようなことですよね。そのイメージが間違っていたら、元も子もないのであるが…。はてな版ブログでは、なんか勝手にどんどんリンクみたいのが増殖してるし超謎です。さて、どの記事にトラックバックしに行こうか。
2009年10月04日
TBSラジオ・ウォッチ
衝撃の改編ラッシュから早くも半期が経過し、またも番組改編期に。僕の関心のなかでは致命的なものはありませんでしたが、『小嶋慶子のキラ☆キラ』の木曜サウンド・パティスリー、書評家・岡野宏文が卒業で、後継はプロ書評家・吉田豪。吉田豪における「プロ書評家」の「プロ」は、「プロレス」の「プロ」を意識したものでもあるので、必ずしもストレートに「プロフェッショナル」感を受け取らなくとも良いのだが、けっしてしゃべりの上手でなかった書評家・岡野さんのあとに、ラジオ慣れしている「プロ書評家」が参入してくると、本来の意味とはずれた「プロ」感を、岡野さんに突きつけているようで切ない。じっさい、岡野さんの本紹介は、裏の大森望と比べてもたどたどしくてハラハラするものだったし、盛り上がっていたとは言えないかもしれません。一方、吉田豪の方は、初回から瀧さんのハートをがっちり掴んで、かなりの安心感がありました。しかし、もちろんのことですが、それが書評家としての岡野さんの立場を貶めるものではないし(『百年の誤読』も楽しく読んだ!)、ラジオというメディアはそんなたどたどしい岡野さんを包摂して、おもしろい味わいを醸し出す可能性もあります。だから、どんないきさつがあったかはわかりませんが、もう少し起用を続けて欲しかったです。ただ、もちろん吉田豪さんの投入は、旧『ストリーム』ファンにとって待ち望んでいたものであることは間違いないし、吉田さんの「岡野さんファンには申し訳ありませんが」の一言で、なにか全部救われた気がした。あいかわらず、俺のおせっかいな偽善的同情が発動していますが、僕は――TBSラジオ関係者に知り合いができたから言うのではありませんが――10年以上、TBSラジオのファンなので、改編については、スタッフの判断をつねに支持しようと思います。『ストリーム』が終わったときも悲しかったが、しかし、スタッフの判断とともに死ぬ気持ちはありました。だから、こういう細かい人事改編も受け入れるのです。一方、『荒川強啓 デイ・キャッチ』は、「メキキの聞き耳」というコーナーが始まるとのこと。メンツを見れば、ほぼ間違いないというか、悪い言い方をすれば、なんとなく予想のつくコーナーっぽいです。ただし『デイ・キャッチ』は、本放送を聴く機会がほぼ無いので、配信を切に希望します。また、野球休止枠でMJもバッカゲン。曜日・時間帯など、あきらかに「サブカル・ジェッター」の延長ですが、ゲスト出演がどうなるかという点がポイントになりそうです。こちらも、いちおう配信希望。サブカルは二度刺すのだ(一周まわって、「サブカル」という言葉に好感を持ち始めている)。*
爆笑問題・田中が離婚というのは、本当に驚いたし、少し悲しい。僕は、高校2年の頃、芸能人しりとりが「た」でまわってきたときに思わず「田中なつみ」と言ってしまったが、それほど田中の奥さん、カエル顔のなっちゃんは、一部のファンにとって知れた存在だった。しかも、僕が爆笑問題ファンであることはここでも何回か書いているが、ここ最近はその愛情が急激に高まっていたので(とは言え、タイタンライブに行くということも無いのですが)、インパクトも強烈だった。愛情が高まった原因は、ここ1年近くカセットテープに録り貯めていた「CD田中」をまとめて聴いたことにあるのだが、僕は、多くのファンと同じように田中のことがそうとう好きだった。まあ、離婚については少しショッキングだったけど、僕がとやかく言うことではもちろんない。それよりも、本当に最近、爆笑問題への思い入れが強くて、『ヒレハレ草』を読みなおした。『徒然草』をパロっているこの本は、8割が太田のエッセーで2割が田中の粘土細工なのだが、もちろんどちらも面白い。「面白い」とは、この場合、ファニーとインタレスティング、どちらも含んでいる。このことをくどくど説明するのは面倒だし野暮なので、インタレステイングだと感じた太田の言葉だけ反芻しながら書いておこうと思います。
――小説を書くというのは、自身の存在の表現でもあるが、同時にその作品の為に自分を消すことでもある。“ものを創る”というのはそういう事だ。
あるいは、普通に心に染み込んでくる名文。内容以上に言葉の転がりに心を打たれるという点で、こういう文章こそ、僕の基準では〈文学的〉と言いたいなにかを感じる。
――私のような年老いた物書きは、まだ血気盛んで恐い物知らずだった青年の頃に、勢いにまかせて書くには書いたが、その内容のあまりに未成熟さに自ら恐れをなし、世間に発表するに至らなかった作品というものを数多く持っている。しかし、この歳になって読み返してみると、当時あれ程恥ずかしかったそれらの作品が、ひどく懐かしく、また、瑞々しく感じられ、稚拙な箇所にこそ、光り輝く若さと表現の斬新さが見られ、その作品の中に、今はもう消滅し、取り返す事の出来なくなってしまった若き日の自分が存在するような思いがし、再び、その作品を愛する事もしばしばである。
〈文学的〉とか書いたが、あらためてタイプしなおすと、「表現の斬新さ」とか〈文学的〉と言うには少し安易な言葉も目立ちます。あと、これ完全に太宰とか高見順的な文体ですね。奥野健男がかつて論じていた「含羞の文学」ラインか。そう考えると、単純に僕の好みのような気がしてきたので、〈文学的〉という雑な形容はやはり撤回しておきます。でも、良い文章。
*
身内の結婚式というのは初めてだったけど、姉の結婚式はなかなか良かったと思う。ウェブで、末永く、と。
2009年09月28日
サブカル宇宙
ゴタンダ・ソニックでおこなわれた「サブカル雑誌ナイト(旧・休刊ナイト)」は、思っていた以上に大盛況で、10分遅れで行ったら、すでに入れないくらいの人だかりでした。知った顔もちらほら。トークは、壁際でぎゅうぎゅうされながら聞いていたけど、なかなか興味深かったです。雑誌の未来云々については、門外漢なので「ほう、へえ」という感じでしたが、野田努氏が迷いなく語る音楽の話題はおもしろかったです。このくらい自分の価値観が打ち出せていれば、それはそれで力強いよな、と。僕は、CDもレコードもわりと買うほうですが(あと本とか)、本当に音楽が好きで聴いているのか、DJのために機械的に買っているのか、「この音楽を知っている」という事実が欲しいだけなのか、音楽の話題で人と盛り上がりたいのか…もはや、わからなくなっている気がします。おそらく、それぞれいろいろな要素が混在しているのでしょうが、少なくとも初期衝動は薄れていて、義務感みたいなものが強くなっているのはたしかです。とは言え、義務感と言いつつ、CDとかを買っているときは至福のときでもあり、ただし、買ってからしばらく封を切らないということもしばしば。音楽と読書に対するモチベーションは、本当に謎です。謎のまま駆動しています。たとえば、ン億円という金が急に入り込んできて、もう働かなくていい、という状況になったら、どうなるか。おそらく、専門的な学術書とか評論、日本の近代文学を読む頻度は減らしそうです。ということは、そのへんが義務的な部分か。たぶん、いまだったらミステリとかを集中的に読む気がします。音楽は、日本のフォークのまだ聴いてないやつを最初に聴く気がする。まったく、根拠ないけど。いまの仮定でなにがわかったのか、さっぱりわかりませんが、いつか、ばさっとすべてが面倒になりそうな気もします。レコード屋・元同僚の方はGS好きで、ン万円のシングル盤とかを集めていたそうなのですが、ある日、ふとむなしくなって、すべて売り払ったと言っていました。僕も、レコードの棚をかつかつやっているときに、ふと「こんなことしてなにになるんだ」感に襲われることがあります。もちろん、「なにになるんだ」の「なに」に還元されない部分にこそ魅了されていたはずで、そこを疑っているわけではないのですが、どこか物知りゲームになっている感は否めないです。まあ、とかぶつぶつ言いながら、もうしばらく物は増えていくのだと思います。完全に、呪われたとしか思えん。
ちなみに、この物知りゲームには、有象無象のサブカル人間たちや(卵も含め)批評家みたいな人たちへの対抗心が確実にあると思います。文学フリマとか行くにつけ、世の中には、物知りがたくさんいるのだなと驚愕します。最近、「プチ思想ブーム」の記事(http://book.asahi.com/clip/TKY200909260077.html)が話題になっているっぽいですが、文学フリマ周辺も、広い意味では、このブームの一側面と言えるかもしれません。そうすると、ここ1、2年、文学フリマに出品している僕らも、もしかしたら潜在的にブームの一端を担っている可能性があります。というか、「プチ思想」っぽい人間関係もなくはないので、けっこう普通にそうな可能性はあります。文学フリマで出品している『F』という雑誌は、たしか当初は、研究会の報告集として作るのが目的で、せっかく作るなら金稼ごうみたいな感じだったような気がするので、その時点では、思想シーンとか批評シーンとか全然考えてなかったような気がします。だから、雑誌としての戦略性はほとんどなく、特集も「音楽」「漫画」「小説」とまったくひねりもないし、ロールモデルとする雑誌もたぶんありません。しかしそれが、「文化系トークラジオ」の存在を知り(それもJUNKのCMとかで)、その界隈の人たちと交流することで、僕自身は、「プチ思想」的な潮流をかなり気にすることになってしまいました。だから、『F』って、どういう風に見られているかわからないけど(というか、見られているのかどうかすらわからないけど)、根柢の意識は、あういう感じともまた違う気もするんですよね。むろん、『アラザル』や『筑波批評』のような、昨今の思想シーン・批評シーン的なものに連なってくれると、それはとても刺激的で良いのですが。「サブカル雑誌ナイト」の帰り、僕(『F』『路地』)とスズキロク(『F』『路地』『エクス・ポ』)と藤原さん(『路地』『エクス・ポ』)と大橋さん(『He+Me=2』)と武田くん(『界遊』)で軽く飲んでいて、そこにたまたま『アラザル』が通りかかるという偶然。スズキロクいわく、「『F』のライバルは、『筑波批評』」らしいが、一方、僕は『アラザル』の一部の方に、冗談半分の反感を買っている。『F』は、部数的には、『筑波批評』にも『アラザル』にも『界遊』にも、遠く及ばないし、もしかしたら戦略的にもある意味未熟かもしれないが(未熟さを装うという戦略はなきにしもあらず)、「サブカル雑誌ナイト」をめぐって、このような話題が派生することを考えると、当人の意識とは別に、しっかり潮流みたいのは起きているし、そこに乗っかっているものかもなと思います。ちなみに、会場では、インテリパンクことquawabeさんや『REMIX』のこうきさんなど、高円寺系(これも乱暴なくくりだな)などともひさしぶりに会えて、僕のなかでは、不思議な異種感がありました。まあ、偏狭なカテゴライズは不要だと思いますが。全部まとめて「サブカル」で良いや。
「ヤノ・オン・ウェブ(EP)」、第2回は成田賢、第3回はスターボーです。
2009年09月23日
眠れない夜はなく、新しいブログを始めます
以前ほど、夢(寝るときの方)についての話を書かないのですが、いまでも快調に悪夢にうなされたり、映画のようにドラマティックな映像作品を見たり(しかも、同時代的な批評性もあったり!?)しています。ちなみに、昨日見た夢は、バスから振り落とされて捻挫をするというものでした。本当に、僕の脳内のどこにそんな想像力が隠されているのか。今日、大森望×ガース柳下トークショーに行きました。「SF漫談」ということで、SFにまったく明るくない僕には、わからない固有名もたくさんありましたが、わかる固有名もちらほらあって、総合的には面白かったです。顔見知りの方とかいるかなと思ったのですが、一方的に知っているだけの円城さんのみ発見しました。『狂乱西葛西日記20世紀remix』(「書名より著者名の方がデカい笑」本)は、パラパラ読んだだけで面白いのですが、この楽しさは、僕のなかで明らかに『hon-nin』的な楽しさです。つまり、福満さん的な。しかし、大森さん、「早稲田文学10時間シンポジウム」において、中原昌也の日記を筆頭に、こういうのけっこう批判的だったろうという記憶があったので、「自分もやってんじゃん!」とか微妙に思ったんですが、これは難癖ですよね。なんにせよ、僕は基本的には知っている人の日記とかブログが好きです。もっと、みんなブログやれー(ミクシイ、恋しい)。
極度の面倒くさがりなので、簡単にできることもついつい先延ばしにしてしまうことがままあるのですが、連休を使って、前からやろうと目論み――はてなに手を出しました。まだ操作が慣れないのですが、すでに記事は書いています。ざっくばらんな日記とか考えたことはこっちに書いているので、はてなはもう少しコンセプチュアルにしようと思って、まあ月並みにディスクレヴュー的なものにしました。ただし、7インチ盤縛りです。理想とする文体がいちおうイメージとしてはあるのですが、いざやろうとするとすごく難しくて、文章パニクってます。これから徐々に、良い文体を獲得していこうと思うので、もしよかったらご覧ください。タイトルは「ヤノ・オン・ウェブ(EP)」(仮名)で、最初に取り上げた盤は、緑魔子「やさしいにっぽん人」です。
「ヤノ・オン・ウェブ(EP)」
http://d.hatena.ne.jp/yanotoshihiro/

