2016年07月20日

ご活躍を祈ります。



母校の軽音部のバンドとのこと。なんか賞を獲ったらしい。同時代のモードもしっかり意識していて、それなりに作り込んでいて良いではないか。天才性が爆発している表現も良いけど、こうやって、かちっとした方法論でコンスタントに80点を出せる人は好感持ちます。80点で終わってばかりでもしょうがないけど、そういう人はまれに魔法のような傑作を連発することがあるし、そういう表現は知性と身体性の両方を活性化させるので。

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2016年07月18日

日常のなかの音楽――細馬宏通『介護するからだ』(医学書院)を読んで

細馬宏通『介護するからだ』(医学書院)が、とても良い本だった。人間行動学者である細馬さんが、介護現場で生きる人々(介護する人/される人)を観察し、そこがいかにマジカルで音楽的(途中、即興演奏ワークショップとの類推が入る)な場所になっているかを描いている。社会的にハンディを負った人の身体をユーモラスに描くという点には大野更紗『困ってるひと』(ポプラ社)を、障がい者の創作のエピソードには荒井裕樹『生きていく絵』(亜紀書房)を、ひるがえって、多くの人のなにげない日常がいかにマジカルなものかを活写する点には槙田雄司『アナーキー・イン・ザ・子供かわいい』(アスペクト)を思い出した。本職のことはあまり書かないようにしているが、読後の勢いとともに、たまには書いてみよう。

運動部の顧問をやっていて、基本的には、真面目に熱血にやっているつもりである(悪しき部活主義には批判しつつ)。でも、そんな真面目で熱血な部活動のさなかにも、おかしくておかしくて笑ってしまうことがある。それは例えば、集合して話をする場面。自分がひととおり話すと、部員たちは「した!」と硬派な感じで返事をすることになっている。自分が就任する以前からそうだ。人によっては、この集団性も軍隊的で嫌悪感を示すかもしれないが、個人的には、集団スポーツであらざるをえないので、許容範囲だと思っている。というか、僕が面白いのは、みんながそれとなく「した!」のタイミングをうかがい合っていることなのだ。この「みんな」には、他ならぬ俺自身も含まれている。俺は、みんなに「した!」のタイミングを誘導すべく、言いたい内容をひとおり言ったあと、「はい、以上です」という意味で、「h‐ぁいじょうsh(無声音‐ス)」みたいな謎の言葉を発する。この微妙な発音については、滑舌がよくないこともあるが、どちらかと言えば、顧問としての威厳を保つニュアンスがある。「以上!」というのはなんとなくしまりが悪い感じがして、とは言え、「はい、以上です」と丁寧語になりきってしまうのは威厳がなくなる。その微細な調整のなかで育まれたのが、「h‐ぁいじょうsh(無声音‐ス)」なのだ。大真面目に、ときには説教臭く話したあとに、「h‐ぁいじょうsh(無声音‐ス)」とかいう謎の言葉を発している自分がおかしくておかしくて。ただ、小説にしても批評にしても、新しい言葉が獲得されるときのメカニズムとか力関係に関心があるので、こういうマジカルな瞬間が自分のときめきの瞬間なのだな、という気持ちがある。ちなみに、前キャプテンは、話し終わるときに必ず「〜ま……しょう!」と、「ま」でためて「しょう!」と強く発していた。この異化された発声も、前キャプテンが少なくない時間をかけて育んだものだろう。

一方、「した!」と返す平部員たちのほうにも工夫がある。『介護するからだ』では、介護現場で頻発される「よいしょ」というかけ声について、次のように指摘されている。

サ行の冒頭の音、すなわち〈sh〉や〈s〉の音は、〈k〉や〈t〉や〈p〉のような子音と違って、「shhh……o」というふうに、いくらでも伸ばすことができる。おもしろいことに、何人かが共同作業をしている現場のかけ声を見ていくと、この〈sh〉や〈s〉の延長音が、お互いの動作のタイミングに関わっている例がいくつも見つかる。


「した!」側の連中は、誰が指揮をとっているわけでもないが、まさにこれをやっているのだ。これは最近気づいたのだけど、連中のうちの誰か、「した!」という直前に、ひとり「shhh」をしのばせているやつがいる。この「shhh」をみんなで感じ取って、「shhh…した!」というタイミングを共同的に合わせているのだ。俺が「h‐ぁいじょうsh(無声音‐ス)」で主導していると思ったら、実際はけっこうな複雑な共同作業だった! こういうときに、俺なんかは音楽性を感じる。このときに言う音楽性とは、柳田國男が民謡に対して指摘した「協働」ということなのだけど、こうやって共同/協働的に新しい言葉が生まれている瞬間が、俺にとって喜びの瞬間なのだ。権力と暴力にまみれがちな学校空間だけど、耳をすませば実にゆたかな音楽が流れている。そして、それは暴力を内側から批判するものだと、直感的に思っているところがある。




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2016年07月05日

どぜう

病院に父を見舞いに行ったあと、浅草に行き、駒形どぜう。もはや毎年恒例になりつつあり、楽しみな日である。しかし、どぜうを喰うときいつも、俺が唯一飼っていた生き物はどぜうだったな、という気分になる。というか、そのことを、ほとんど唯一その日にだけ思い出す。しかし、そもそも、なぜ飼っていたのか。父に訊いたら、人からもらったんじゃないか、と。誰からもらったのだろう。縁側で飼われていたどぜうよ。

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2016年07月04日

10th anniversary of culture club

仕事を通じて仲良くなった批評家のかたが、自主ゼミに来てくれました。そのかたの評論をもとにみなで議論し、その後の打ち上げまで含め、とても充実した時間でした。文学と教育だけを学んでいるのでは足りないのではないか、という問題意識のもと、現代文化研究会が発足したのは10年まえ。その後、人も形態もゆるやかに移り変わりながら、基本的には週1の勉強会を核に活動を続けてきました(俺は二度ほど解散を提案したが)。文学フリマのあれこれ、若手論壇ブームをなんとなく脇目に眺めながら、影響されたりされなかったりする距離感が、自分としては良かったです。そういうつもりではなかったけど、10thアニバーサリーみたいで感慨深かったです。

辛うじてながら持続できているのは、なにより大学というお膳立てされた場があって、その場で定期的に集まることが可能だからに他なりません。『F』というゼミ誌で文学フリマに参加したのも、第一義的には活動報告で、まあせっかくなら外に向けて売ろう、というノリだった記憶があります。しかし結果的に、ゼロアカを頂点とする文学フリマ隆盛期と重なりました。いまは文学フリマを意識しすぎた『F』が特集主義になり、その特集のために各人が日々のゼミ活動を逆算するようになっています。ムチャぶりによる知識獲得という意味で、ゼミ員(自分も含め)に原稿を振っていくのは良いのですが、日々のゼミ活動にそれが侵食されていくと、本来の活動意義からは乖離するでしょう。こういうことも、ときどきゼミ内で話題になりますが、ゼミのありかたや『F』のありかたは、10thアニバーサリーを機に考えるべきだと思います。これも折に触れ言っていますが、まあ正直、いままでのように『F』を維持するのはきついのではないか。とは言え、本当に小さな勉強会の時代であるのならば、やはり、場所自体の維持は死守すべきかもしれません。

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2016年07月01日

観察者の痛みはどこにあるのか――『FAKE』を観て

T01a_169961森達也監督の話題作『FAKE』を渋谷ユーロスペースで観た。佐村河内守のドキュメンタリーである。詳しい評判をウォッチしているわけではないが、『東京ポッド許可局』の「“FAKE”論」が素晴らしかった。一方的な盲信に疑問を投げかけるような森達也のスタンスについては、いくつかの著作などで知っていたけど、それをプロレスファンの目線から、「マイノリティの立場」として捉えるプチ鹿島さんの感想が示唆に富んでいた。あるいは、『FAKE』における佐村河内を生き物として捉え、それが全編にわたって映される気ままな猫と重なる、としたマキタさんの解釈も見事だった。タツオさんも含め、ときどき発揮される許可局の、あの(反)知性はなんなのだろう。本当に刺激的である。

さて、そんな『FAKE』。基本的には楽しめたし、退屈もしなかったし、悪い映画ではなかったと思う。しかし、観ているあいだずっと気になることがあった。なにかと言えば、俺の隣に座っていた若い男性客のことだ。この人、上映中、なにげないカットの切り替えとか間(ま)に感心しながら、いちいち唸ったりしているのだ。果ては、「上手いなあ、相変わらず」だって。実際に声に出してやがるの。俺はこいつのリアクションがいちいち気になって、どうも映画に没入することができなかった。「なんだ、映画とは関係ないことじゃないか」と思うかもしれないけど、もしかしたら、これこそが本質かもしれない気がするのだ。俺は森作品はまったく観ていなくて、著作を数冊(『ドキュメンタリーは嘘をつく』『職業欄はエスパー』とあと忘れたけどなにか)読んだ程度の者で、そういう意味では感想を書く資格などないのかもしれない(「感想を書く資格」ってなんだバカヤロウ! 誰にだって「感想を書く資格」があるに決まっているだろう!)。しかし、だからこそ、この男性客のことが気になったのかもしれない。

『FAKE』では、佐村河内が豆乳を飲みまくる場面と「トルコ行進曲」を頬で奏でる場面が、滑稽でおかしい。思わずクスっとなる。この場面になったとき、隣の男性客を筆頭に、客は「待ってました!」的な感じでドっとウケていた。僕が気になるのは、この「「待ってました!」的な感じ」だ。「的な感じ」なので、これ自体が見当はずれな可能性もある。いや、もちろん、クスっとする場面であることは理解できるのだが、どうもみんな、過剰に笑っているような印象を受けた。

自分の理解するところでは、森達也のドキュメンタリーにおける態度の前提は、純客観的な視点などありえない、ということだ。客観的な視点などありえないのだから、それなりにコミットすることもあるし、物語に仕立てる可能性もある。中立であるかのように装って作為的になるのではなく、そもそも作為的であることを引き受けよう、という態度。そこにこそ、森の誠実さがある。そこでは、ある見方を純客観的なものとして盲信することの危うさを問うている。『FAKE』に関しては、佐村河内が一方的に悪者になっている風潮に対して、佐村河内側からカメラを入れて、〈佐村河内=悪/新垣隆=善〉という僕らが抱いている〈真実〉らしきものを相対化する。実際俺は、佐村河内のイメージがかなり変わった。『FAKE』においてはまず、マスコミを通して形成されたイメージを相対化することが目指されている。

しかし、森の本領はその先にある。それは、森が、とは言え佐村河内に対しても、疑いの視線を向け続けるということだ。プチ鹿島さんも指摘していたように、佐村河内に感情移入しきる直前、外国人ジャーナリストの存在が、その感情移入を阻む構成になっている。ようするに、どちらかが良いとか悪いとか、そういう単純な二項対立に押し込むことを許さないのが、森の態度ということである。したがって、佐村河内に対してだって、嫌味な視線をしのばせることになる。豆乳や「トルコ行進曲」の場面は、そのひとつのあらわれだ。ということで、『FAKE』という、そのタイトル自体にメタメッセージを含んでいるような作品は、「佐村河内の真実を描くことを装いつつ佐村河内に批判を向ける」という構造を獲得する。ごく一般的な解釈だと思うけど、どうか。しかし、厄介なのは、「佐村河内の真実を描くことを装いつつ」の部分が抜け落ちて、というか、この部分が変な免罪符として機能して、結局のところ「佐村河内に批判を向ける」の部分が純粋に強化されている、と思えることだ。

つまり、俺が映画を観ながらずっと感じていたのは、結局『FAKE』という作品が、単に「佐村河内を(嘲)笑う」作品に堕しているのではないか、ということだ。いや、人それぞれ感じかたに違いはあるだろう。では、誰にとって? 森および森ファンの観客にとって、である。豆乳の場面、「トルコ行進曲」の場面、巧妙なカットの切り替え、間(ま)の使い方に対して、森の視線と同化し、「待ってました!」と言わんばかりに(嘲)笑ってみせる解釈共同体は、「誠実な作為」という安心な場所から、思いきり佐村河内を(嘲)笑っていたように思えた。この気持ち悪さ。俺の隣の男性客を筆頭に、映画館には、この気持ち悪さが充満していた。言わなくない? 普通。「相変わらず上手いなあ」って声に出して、言わなくない? でも、森の「誠実な作為」に同化する観客は言うんだよ。このぬるい空気。森は作品中、「もし、自分が佐村河内さんを信じているフリをしているとしたら?」と、佐村河内本人に問いかける。『東京ポッド許可局』でも触れていたが、この言葉は作品の中心にあるだろう。「信じていないかもしれない」を表に出すことは本当に誠実なのだろうか。チャーリーこと社会学者の鈴木謙介さんはかつて、「「私を信じるな」という私の言葉を信じろ」というダブルバインドのメッセージが、本来の意図と逆効果になるのは、後半部分が強調されるからなんですよ」と言っていた(『文化系トークラジオLifeのやり方』TBSサーヴィス)。だから、俺はむしろ、「森よ、信じてみろよ」と思う。徹底的に信じて描ききれよ、と。そのほうがむしろ、誠実な態度だと思う。だから、「信じているフリをしているとしたら?」なんて言葉は要らないんだよ。ただ、もしかしたらこれは、時代のモードの違いかもしれない。角度を変えたら物の見えかたが変わる、なんてことは、この21世紀、もはや日常的な事態なのだ。

そもそも、純客観的で中立な視点などありえない、とはどういうことか。それは、観察者と観察対象が相互的に巻き込み/巻き込まれ合ってしまう、ということだ。しかし、森は『FAKE』という作品に巻き込まれているのだろうか。俺はけっこう素直に、佐村河内の痛みと悲しみを感じたところがある。素朴過ぎるのかもしれない。だが、観察者としての森の痛みはどこにあっただろうか。マキタさんの言うとおり、佐村河内が猫だとすれば、森は安全な飼い主ということか。いや、もちろん撮影に関して、森はさまざまな苦労をしているのはたしかだろう。授賞式での振る舞いも強烈だった。しかし、真の意味で、観察対象から逆襲されるような、飼い猫に手を噛まれるような、客観的ではありえない、ドキュメンタリーの表現者としての痛みや悲しみが、あの映画にはあっただろうか。否応ない巻き込まれが。残念ながら僕には感じられなかった。感じたのは、「相変わらず上手いなあ」などとわけ知り顔で頷き合うような、ぬるい空気であった。同一の解釈共同体に支えられていることを自明視した、弛緩した雰囲気であった。客観的な視点などありえない、と言い放つ瞬間がいちばん危ういのかもしれない。以前から森的な物言いに引っかかることがあったのはたしかだ。少なくとも『FAKE』に関しては、カメラを向けて切り取ることの暴力性が、真に自覚されているとは思えなかった。森は痛みを回避しているのではないか、と思ってしまった。

【追記】
杉田俊介さんの『FAKE』感想を聞いて(Twitterにも書いていますね)、少し印象が変わった。自分と杉田さんが共通しているのは、あの映画の主題を、森達也が人を信じられるか、という点に置いたところだと思います。この点について、僕が「森は信じるという行為に向き合っていないではないか」と評価しているのに対し、杉田さんは、「森がやっと信じることができた」と評価している。杉田さんの評価はこれまでの森の歩みを踏まえてのことで、その意味で説得力がありました。ただ、だとすれば、やはり「信じているフリだとしたら?」なんていう保険は要らなかったはずで、「信じていなければ撮れませんよ」という言葉のほうを貫き通すべきだったんだ。それで、その信じたものが撮りきれないという点に、ドキュメンタリーは中立ではありえない、という命題がかすかに見いだされたかもしれなかったのだ。ドキュメンタリーは中立ではない、という態度はそういうかたちで追求されるべきだと思う。「信じたことについては自己責任」と言う佐村河内が体現したもの(佐村河内の言葉の真偽ではなく、体現したものという水準)に対して、森の示したものは不十分だと感じる。

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2016年06月23日

ほんの少しだけアイヌに触れて

職場でアイヌ民族の方々による歌と踊り。知識では知ったつもりでいたが、実際にアイヌ語を聴いたのは初めてだし、振る舞いや所作も初めて観た。近代以前の「本州アイヌ」の存在も知らなかった。感銘を受けたのは、さらっと出た「アイヌは物語の民族です。文字を持ちません」という言葉。だからこうして、歌を歌いに、踊りを踊りに、東京の西のほうまでやってくるのだ。〈伝承〉というありかたも知っていたつもりだったが、いままさに〈伝承〉のまっただなかなのだな、と生々しく感じた。知識だけではなく身体が関わってこそ知れるなにかがあるのだろう。と思いつつ、「失われつつあったアイヌの民謡がまた広がったのには楽譜の存在が大きかった」という言葉にもまた、感銘を受ける。こちらは記号化して残すことの重要性を言っているように思えた。最後のほうには「新しい文化に合わせていくことも悪いことではないかもしれませんね」と言っていた。現代においてアイヌ人を生きるとはどういうことなのだろう。

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2016年06月22日

『ミュージックマガジン』特集「90年代の邦楽アルバム・ベスト100」に参加しました!

今月の『ミュージックマガジン』の特集「90年代の邦楽アルバム・ベスト100」に参加しました。ネタバレと言うほどでもないけど、1位は小沢健二『LIFE』で、俺は『LIFE』を1位に推した、意外にも数少ないひとりだったので、結果、1位『LIFE』のレヴューを書いています。書いているときに、勝手に90年代の邦楽をひとりで背負った気分になって、妙に肩が凝りました。他にも知人がちらほら。各人のベスト20も載っていて、それを眺めるだけでも面白いです。自分の場合は、かっちりと。坑闇代という時代感、後代への影響、8朕妖な好み、という自分内基準を設けてセレクトしたので、美人投票的な側面もあります。個人的には90年代というのは、渋谷系、ヒップホップ/R&B、オルタナ(ノイズ/アヴァンギャルド含む)、喫茶ロック、という印象です。他の人と比べて、テクノ成分(ケンイシイ、電気グルーヴ)がないのは自覚していたが、エレクトロニカや音響派前夜(コーネリアス、竹村延和『子どもと魔法』。竹村はむしろ、『Child's View』を選んだ)という感覚もないことがはっきりした気がします。あと、「90年代の音楽」と言われれば小室哲哉のことも言及するかもしれないが、アルバム単位となると小室ファミリーはやはりきつい。「アルバム」という単位も自明でないな、と、これは理屈では認識していましたが、なんかあらためて実感した感じです。よろしければ! あ、そういえば前号のプリンス特集号では、うしろのほうでブランドン・コールマンのライブレポートを書いています。

ミュージックマガジン 2016年 07 月号
ミュージックマガジン
2016-06-20

ミュージックマガジン 2016年 06 月号
ミュージックマガジン
2016-05-20





toshihirock_n_roll at 21:49|PermalinkTrackBack(0)ブック | 音楽

2016年06月20日

音楽と政治?

フジロック問題、見聞きしている賛否両方の意見に納得いかない。俺はけっこう、音楽は社会や政治と無縁なピュアな営みだ、と思っているフシがあります。そして、それゆえにこそ社会に対する変革的な力を担ってきた、と思っています。だからそもそも、いちコンテンツである奥田さんと津田さんのトークをもってして、「反体制」的とするのは、政治的・音楽的にぬるい立場だと思う(というか、津田さんトークというコンテンツは以前からやっていたかと思うけど、反対派はどういう了見なのだ)。したがって、これをブルースとかウッドストックとかと並置するのは、これはこれで「音楽イコール反体制」派のぬるいロマン主義だな、と。ロマン主義ならもっと徹底的にロマン主義であれよ、と思う。

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2016年06月08日

今月の『文学界』

今月の『文学界』、特集は「民主主義の教科書」。柄谷行人はともかく、例によって武田砂鉄がいて、内田樹がいて、という悪い意味での「なんリベ」化はどう考えるべきか(とは言え、古谷経衝、浜崎洋介など、いちおう保守側の人も参加していますが。中島岳志の政治的立場はなんとも判断できない)。しばき隊周辺があんなことになっていることを考えても語り口を変えていく必要を感じるが、一方で、ベタに「民主主義」というお題目で近代主義的な正論を貫くことも必要だと感じる。だとすれば、それが『文学界』という権威的な雑誌であることの意義もあるだろう。とは言え気になるのは、さらに他方で、『文学界』自体がカルチャー誌化していることで、カルチャーと政治のぐずぐずな関係を問い直されているのがここ数週間という気もするので(カルチャーと政治が関わるのが良くないと言うつもりはない)、やはりトータル俺は、今月の文学界はあまり良くないと思う。思想と批評をアクチュアルなものにしたいと思っているが、それはこの方向性ではないと感じている。じゃあなにかと問われれば、まずは自分でやるしかなく、その後に理論化して、応用可能性に開いていくべきなのだろう。暫定的に。

文學界2016年7月号
文藝春秋
2016-06-07




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2016年06月07日

10年間、ありがとう。

本業。合間に原稿の直しを少しだけ。うまくいかないことも多いけど、できるだけ力を尽くす。読書の時間が減りすぎているのは、どうにもバランスが悪いように思うけど、とりあえずそういう時期だと思うしかない。TBSラジオのポッドキャストの配信が終わるそうで、ここ10年間をかけて育まれた生活のスタイルが変化せざるをえない。これを機に聴かなくなる番組が出て来そうで寂しいが、そうなったらそうなったまで、という冷淡な気持ちもなくはない。i-podの位置づけがどうなるのか。自分のスタイルに合致するデジタル機器があったりするのか。

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