2017年08月16日

ジェフ・パーカーのライブを観ました!

コットンクラブに、話題のジェフ・パーカーのライブを観に行きました。知人友人もちらほら。アルバムからは2曲くらいだったかな。ジェフのギター、めっちゃ気持ち良かった! ジャマイア・ウィリアムス、プレーの幅広っ! アルバム『The New Breed』、アレサ・フランクリンが使われているからか、なんか70年代のソウル感を覚えるのですが、ライブもやはりそういう印象。なんだろう、この随所に感じるニューソウル感。その感じが自分的には新鮮でした。とても良いライブでした!

toshihirock_n_roll at 23:24|Permalink音楽 | 雑感

2017年08月06日

『ユリイカ』にcero論を書きました!

いま売りの『ユリイカ』cero特集に、「渋谷系から井の頭線で少し離れて ceroと武蔵野シティのミュージック」と題した文章を寄稿しています。ceroに対しては、細野晴臣『HOSONO HOUSE』的な郊外の音楽の系譜に小バコクラブ的な生音系ダンスミュージックが流れ込んだバンドだと思っており、そのへんのことを書きました。西東京を拠点にするceroはよく東京中央との距離感を強調しますが、この感じは典型的な武蔵野人の態度だなと、三浦朱門『武蔵野ものがたり』を読んだあとには思います。知人もたくさん書いているし、よろしければ!




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2017年08月05日

『文藝』の座談会に参加しました!

いま売りの『文藝』2017年秋号で、江南亜美子さん・倉本さおりさんとともに、「現代文学地図2000→2020」特集の座談会に参加しています。基本的には「文学」業界の話をしつつも、さまざまな領域を貫通していくような問題意識で話をしているつもりなので、出てくる固有名がわからなくても楽しめるものになっていれば、と願います。路字マイメン碇本 学さんもアンケートで名前が挙がっています。よろしければ!

追記
聞くところによると、賛否巻き起こっているとのこと。好き勝手に言わせていただいているので、言及された作家さんが不本意だったならば、申し訳ない気持ちがないではないです。好意的であろうと批判的であろうと、こちらは思ったことを精一杯言葉にしておくだけなので、それ自体は今後も精一杯にやります。「文壇」的な権威を感じさせた部分もあるかもしれないけど、いわゆる「文壇」的かどうかはともかく、様式としての「文学(史)」の維持には加担しつつ、同時に「文学(史)」に対する破壊者として現れるしかない、というのがいまの気持ち。前者のみでも後者のみでも無責任ではなか、と思っています。

文芸 2017年 08 月号 [雑誌]
河出書房新社
2017-07-07



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2017年07月04日

映画『メッセージ』を観た!

arrival映画『メッセージ』をやっと観ました。作品自体が発する「メッセージ」についてどう考えるかは、ひとりで思索したり友人と議論したりしながらゆっくりと向き合おうと思いますが(世界観が決定論的すぎる気もするが、そんな単純ではない気もする)、とりあえず、リニアではないものとしての時間を示した作品の挿入曲とエンディング曲として、マックス・リヒターの音響的な楽曲が流れてきたことに、とても感動しました。というのも、音響派とはまさに、楽曲をリニアなタイム感から解放し、空間的な配置によって構成するものだからです。あの重層的なサウンドは、作品のテーマと深い部分で共振している。その共振を、言葉ではなく音楽それ自体で体感させてくれることに身体的に感動します。そして、この、言語を介しつつ言語以外の部分で共振するということ自体、やはり作品のテーマと共振している気もします。

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2017年06月19日

『別冊ele-king コーネリアスのすべて』にフリッパーズ・ギターのレヴューを書きました。




先日発売となった『別冊ele-king コーネリアスのすべて』で、フリッパーズ・ギターの3作についてまとめてレヴューを書いています。小沢健二派かコーネリアス派か、という問いかけがもしあるとして、僕は断然小沢健二派なのですが、今回、久しぶりにコーネリアスをまとめて聴き直したら、けっこう楽しめました。コーネリアスの新曲については、「あなたがいるなら」はまあ普通かなという感じだったのですが、「いつか/どこか」がなかなか良かったです。今回驚いたのは、フリッパーズの「いとこの来る日曜日」の冒頭が、まんま「ダイナ」のメロディだったこと(驚いたけど、『前略小沢健二様』を確認したらちゃんと指摘されていた)。レヴューには、いちおうそのことも書いておきました。よろしければ!

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2017年06月14日

又吉直樹『劇場』が良い作品だった!

劇場
又吉 直樹
新潮社
2017-05-11



「又吉直樹『劇場』は感動するか、ダメ人間にうんざりするか大論争」(飯田一史さんと藤田直哉さんの対談記事)
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1496997178356.html

又吉直樹『劇場』、遅ればせながら読みました。とても良い作品でした。ダウンタウンと太宰治に同時にハマった(『夜を乗り越える』)又吉さんの本領は、自意識の問題をヒューモアで突破する点にあって、これを自意識共感系としてのみ捉えると読み違える。太宰はじめ町田康、西加奈子など、又吉さんと小説の好みが重なる僕は、そのことがよくわかる(と勝手に思っている)。問題(?)は、その本領を当の又吉さん自身がわかっていないフシがあることで(本人すら知らないことを「知っている」と言い張るのが、不遜で魅惑的な批評の詐欺的性質だ)、悪いことに『火花』はほとんど自意識青春モノに陥っていた。一方『劇場』はあきらかに、対象となる演劇と自意識の問題(および言語の問題)が厄介に絡み付いてたクリティカル・ポイントがあって、その点こそ太宰的なのだ(藤田さんが言及するように、平野謙や伊藤整が破滅型について問題視していたのも、その点)。だから、『劇場』も『人間失格』も共感ベースでのみ読むべきでない。それにしても飯田さん、会話文が関西弁で「アンコトローラブル」、地の文が標準語で「抑制」、としていたが、まさか標準語をめぐる政治性を知らないわけではないだろうに、無批判に「関西弁=アンコトローラブル/標準語=抑制」とはどういう了見。むしろ、地の語りと会話文の差異が決定不能になっていくのが、主人公の真の困難であり喜びではないか。ラスト、恋人が「僕」のように関西弁を使い、「僕」が「冬場は水を少なめにします」と恋人のような標準語を使うことからも、それは明らかだ。だからラスト、脚本が一瞬現実を越えてくるのだ。「僕」の言う演劇の「奇跡」は、ここに込められていたはずで、飯田さんのように、実社会と比較して「僕」の演劇への向き合いかたを評価しても、あまり意味はないのだ。で、本当は、『火花』ではこれを漫才で達成して欲しかったのだ。『火花』とは違い、『劇場』はとても良い作品でした。

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2017年06月11日

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』の書評をしたよ!

『すばる』7月号に、「観光のように軽やかな哲学として」と題した、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)の書評が載っています。本書の論点はいろいろあると思いますが、僕が良いなと思ったのは、理論的な更新がそのまま社会変革への意志になっている、加えて、そのまま人文学業界再編への意志になっている、ところ。この、コンスタティヴな態度とパフォーマティヴな態度の切り分けられなさが東浩紀さんの本領だなあ、と。で、書評では、この思想と実践の絡み合いを指して、「哲学」としました。この「哲学」のありかたは、古くはソクラテスとかなのでしょうが、文芸誌的にラインを引くと、やはり吉本隆明的な「思想」ではないか。観光の特徴は「大衆性」(アーリ&ラースン)である、と始まる本書の議論は、消費社会への視線を含みつつ、最終的に「家族」の問題を突きつけられることになる。この感じに吉本的なものを感じたので、そのことは少しだけ言及しました。「観光客の哲学」は、「大衆性」が中心にあることで、家族論、消費社会論、知識人論を貫通しているように思います。よろしければ!




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2017年06月03日

『ミュージック・マガジン』の「日本のヒップホップ・アルバム・ベスト100」に参加しました!

一部炎上しているらしい『ミュージック・マガジン』(2017.6)の「日本のヒップホップ・アルバム・ベスト100」、僕も参加しています。DOTAMAくん・クリーピーナッツの対談は、ぜひランキングと一緒に併読すると良いと思います。キックとリップが入らなかったことについては誰もが驚いたと思いますが、そういう細かい力学まで含めて、興味深い結果ではありました。DOTAMAくんたち、ほとんどラップのことしか語っていなかったけど、選者はトラックまで含めて判断していたでしょう(少なくとも自分はそう)。「重要なラッパーベスト100」とかだったら、きっとDOTAMAやR指定は入ってくるはず。そんなことも含め、選んでいる時点から思ったのは、ヒップホップのランキングにおいて、アルバム単位というのは無理が生じるな、ということ。12インチの文化でありサイファーの文化でもあるから、アルバムの重要度は実際の重要度とは乖離しがちなのかな、と。また、これ2000年代後半だったら、やけのはらとかアルファベッツあたりは入りそうだなという気もして、2010年代はシーンの雰囲気変わったな、と思いました。あとは、ライターとか評論家筋の権威主義的なランク付けがプレイヤーやファンを逆撫でした感じはなんとなく理解でき、自分もその権威主義に荷担しているのでしょう。これも自覚して引き受けていたつもりだけど、こういうかたちで突きつけられると、いろいろ考えること多いです。ただ、この流れで現場主義の立場が強くなることは、個人的には避けたいです。いろいろ書きましたが、以下、自分のベスト30です。

1、ECD『BIG YOUTH』
2、BUDDHA BRAND『黒船』
3、OMSB『Think Good』
4、DABO,ANARCHY,KREVA「I REP」(EP)
5、RHYMESTER『マニフェスト』
6、BUDDHA BRAND『人間発電所』
7、MICROPHONE PAGER『MICROPHONE PAGER』
8、TWIGY『SEVEN DIMENTIONS』
9、キミドリ『キミドリ』
10、LAMP EYE「証言」(EP)
11、NITRO MICRIPHONE UNDERGROUND『NITRO MICRIPHONE UNDERGROUND』
12、RHYMESTER『リスペクト』
13、スチャダラパー『5th WHEEL 2 THE COACH』
14、Stillichimiya『死んだらどうなる』
15、いとうせいこう『MESS/AGE』
16、キエるマキュウ『トリックアート』
17、SIMON『03』
18、四街道ネイチャー『V.I.C.トゥモロー』
19、キングギドラ『空からの力』
20、NORIKIYO『EXIT』
21、田我流『B級映画のように2』
22、イルリメ『イルリメ・ア・ゴーゴー』
23、ECD『TEN YEARS AFTER』
24、ANARCHY『Dream and Drama』
25、SHINGO☆西成『SPROUT』
26、YOU THE ROCK『GRAFITY ROCK ‘98』
27、SEEDA『花と雨』
28、SHAKKAZOMBIE『HERO THE S.Z.』
29、TOKONA-X『トーカイテイオー』
30、やけのはら×七尾旅人「Rollin’ Rollin’」(EP)

自分は、ECD、「証言」、ツイギーの項目を書きました。よろしければ!

ミュージックマガジン 2017年 06 月号
ミュージックマガジン
2017-05-20



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2017年05月20日

ポップ文学の復権を

『F』19号には、長谷川町蔵『あたしたちの未来はきっと』論がありますが、町蔵さんのこの作品によって、いわゆる「ポップ文学」がいきなり復権してきたような印象を受けます。舞台が、横浜・八王子の米軍基地ラインである町田なのも素晴らしい。外国の影響を受け続けた国道16号線のカルチャーとも言え、これは、『あたしたちの未来はきっと』の初出でもあった『witchenkare』で以前から柳瀬博一さんが展開している「国道16号線」論(面白い!)とも接続される。町田 a.k.a. MCDにはQ-ILLもいるし、相模原に行けばもちろん、SDPやSIMILABもいる。stillichimiyaの山梨のほうにも行けるかもしれない。相模原のほうで少しだけ仕事をしていたことがあったけど、明らかに異なるカルチャーが育まれていた印象があります。村上龍も読み直そうかしら。




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2017年05月15日

「美しすぎる断片」の補足

今日は『F』19号の合評会でした。ということで、僕は岸政彦さんについて論じたのですが、その岸さん像は、『ビニール傘』を読んでから『断片的なものの社会学』を読んだ、という点でバイアスがかかっているのかもしれません。『断片的』の基本態度は、社会学的な分析にのぼってこない人々の知られざる営みを「美しい」「無意味」な「断片」として描くことかと思いますが、その基本態度を語る冒頭はまるで、保坂和志の小説論が元ネタになっているようでした。保坂の小説観はいろいろあるけど、ひとつ言えるのは「小説内の出来事がなにものをも象徴しない」という強固な姿勢。このハードに言語芸術的な態度が、一見これといったドラマが起きないにもかかわらず凄まじい躍動感を獲得する、という保坂一流の小説となる。僕なんかはそういう印象を受けます。このハードに言語芸術的な態度と共振するのが、それぞれ作風は少しずつ違えど、磯崎憲一郎や青木淳悟、岡田利規、柴崎友香、滝口悠生、山下澄人といった「保坂スクール」(佐々木敦)系の人たちだと思います。00年代後半から2010年代、文学シーンの主流派は「保坂スクール」だったと思います。彼らのハードな作品に比べたとき、『断片的』に描かれたエピソードは、「無意味」どころか、あまりにも「意味」が充満しているし、「断片」ではなく「物語」だ。そのように思いました。もちろん岸さんは社会学者であり、そこでの「無意味」は、統計的な「意味」にのぼらないものを指していたのだと思います。ただ、『断片的』に描かれたエピソードが社会的な関係性に条件づけられているのはたしかだと思うので、それを「無意味」だとしてしまう『断片的』が、結局どのような役割を果たしているのかわからないと思ってしまいました。しかも、「無意味」な「断片」を「美しい」として、文学ロマン的な方向でパッケージングするのも違和感ありました(ここで岸さんがキーワードにするのが「知らない」ということですが、「保坂スクール」がいかにアンノウンを描き続けたことか)。『ビニール傘』から逆算したとき、『断片的』および、その小説版と言っていいだろう『ビニール傘』は、「保坂スクール」の焼き直しであるという印象が強かったです。

そもそも、「保坂スクール」の焼き直しはいかに起きるのか。ここからは、リアルタイムで見ていた自分の感覚でしかないのですが、「保坂スクール」以前の時代、文芸批評が社会学に取って代わられる「社会学の時代」と呼ばれるような時期が台頭しています。例えば、宮台真司さんが見沢知廉や高見広春を論じるような時期。この社会学的な見方を採用するかたちで、宇野常寛さんがゼロ年代の小説を論じながら、同時代の社会について論じました(ここには、東浩紀さんも入りそうですが、自分からすると少し異なる)。そうなるとなにが起きるか。小説が社会を語るための道具と化して、言語芸術としての自立性が見出しにくくなる。必然、宇野さんも宮台さんも小説にこだわる理由は稀薄で、小説に限らず、同時代のカルチャーを横断的に論じるようになります。

2000年代後半以降、ハードに言語芸術的な態度としての「保坂スクール」の台頭は、このような、小説における自立性の稀薄化に対抗するかたちで起こっていた気がします。社会を反映する小説のありかた(宇野)に対して、なにものも象徴しないという小説のありかた(保坂)。潜在的にではあるけど、このような対立が00年代なかばから後半あたりの小説シーンにはあった気がします。そして、そのような雰囲気がそろそろ10年近く続いており、違う局面を期待したい。それが、小説ファンとしての僕の最近の気持ちです。

そんなおりに、微妙に「文壇」の新スター的に登場しているのが、岸政彦さん。いや、本人も好きでそうなっているわけではないかもしれませんが、しかし振る舞いとしては、とても周到に、かつポピュリズム的に「文壇」に参入したと言わざるをえません。ようするに、『断片的なものの社会学』というのは、「無意味」な「断片」(保坂系)と「社会学」(宇野系)の両方を体現しているんだから、そりゃ「文壇」に適応するよな、ということです。もちろん、岸さんと宇野さんのイデオロギー的な立場は異なる部分もあるでしょう。ここでは、小説の自立性的なパラダイムと同時に「社会学の時代」パラダイムも延長されていることが大事な気がします。おまけで言うと、小説と社会学の両方を抱える人物として、文学研究からメディア論に移行した荻上チキさんがいるような気がします。岸さんは芥川賞を逃したさい、TBSラジオ『荻上チキ session-22』に出演していましたが、その相性の良さは状況論的に指摘できるのではないか。

以上のことは、別に良いとか悪いとかではないのですが、僕が求める小説観とは異なるのはたしかです。次の段階に行きたい立場からすると、少し退屈に思ってしまいます。あと、僕は自分の思ったように小説を紹介するのが苦手で、例えば、僕が『session-22』に呼ばれて、ジャニーズの話ではなく小説の話をするとしたら、なかなか難しいのだろうな、と想像します。社会反映論的に語れば座りは良さそうですが、そういうことをしたいわけでもないので、自分なりの語り口を獲得しなければいけません。小説と社会学の結託は、どうもぐずぐずとなされている気がします。それは自分が良いと思う状況ではないので、岸さんというより状況全体に、批判的な立場を取っています。

【追記】
「社会学(宇野系)」という言い方があまりにも粗雑ではないか、という指摘をいただきました。「もちろん、岸さんと宇野さんのイデオロギー的な立場は異なる部分もあるでしょう」という一文でエクスキューズをつけたつもりですが、宇野常寛が体現する「社会学」と岸政彦が体現する「社会学」は全然違うでしょう。そもそも、宇野さんのものは「社会学」と呼びうるのか、という議論もありそうです。では、『断片的なものの社会学』における「社会学」とはなんなのか、とか。とは言え、それでも、文芸シーンという閉じた文脈のなかで見たとき、「社会学の時代」と呼ばれた時代を経ての岸さん登場、という、ここ30年くらいの特殊事情が現在の文学シーンをかたどっている、という予感はあります。そんなニッチな話はどうでもいいではないか、というのはそのとおりですが、細かい小骨取り作業とジャンル横断的な大きな文化論の両方を同時にやることが大事なのではないか、という気もまたしています。

toshihirock_n_roll at 01:56|PermalinkTrackBack(0)雑感 | 文学