2017年06月19日

『別冊ele-king コーネリアスのすべて』にフリッパーズ・ギターのレヴューを書きました。




先日発売となった『別冊ele-king コーネリアスのすべて』で、フリッパーズ・ギターの3作についてまとめてレヴューを書いています。小沢健二派かコーネリアス派か、という問いかけがもしあるとして、僕は断然小沢健二派なのですが、今回、久しぶりにコーネリアスをまとめて聴き直したら、けっこう楽しめました。コーネリアスの新曲については、「あなたがいるなら」はまあ普通かなという感じだったのですが、「いつか/どこか」がなかなか良かったです。今回驚いたのは、フリッパーズの「いとこの来る日曜日」の冒頭が、まんま「ダイナ」のメロディだったこと(驚いたけど、『前略小沢健二様』を確認したらちゃんと指摘されていた)。レヴューには、いちおうそのことも書いておきました。よろしければ!

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2017年06月14日

又吉直樹『劇場』が良い作品だった!

劇場
又吉 直樹
新潮社
2017-05-11



「又吉直樹『劇場』は感動するか、ダメ人間にうんざりするか大論争」(飯田一史さんと藤田直哉さんの対談記事)
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1496997178356.html

又吉直樹『劇場』、遅ればせながら読みました。とても良い作品でした。ダウンタウンと太宰治に同時にハマった(『夜を乗り越える』)又吉さんの本領は、自意識の問題をヒューモアで突破する点にあって、これを自意識共感系としてのみ捉えると読み違える。太宰はじめ町田康、西加奈子など、又吉さんと小説の好みが重なる僕は、そのことがよくわかる(と勝手に思っている)。問題(?)は、その本領を当の又吉さん自身がわかっていないフシがあることで(本人すら知らないことを「知っている」と言い張るのが、不遜で魅惑的な批評の詐欺的性質だ)、悪いことに『火花』はほとんど自意識青春モノに陥っていた。一方『劇場』はあきらかに、対象となる演劇と自意識の問題(および言語の問題)が厄介に絡み付いてたクリティカル・ポイントがあって、その点こそ太宰的なのだ(藤田さんが言及するように、平野謙や伊藤整が破滅型について問題視していたのも、その点)。だから、『劇場』も『人間失格』も共感ベースでのみ読むべきでない。それにしても飯田さん、会話文が関西弁で「アンコトローラブル」、地の文が標準語で「抑制」、としていたが、まさか標準語をめぐる政治性を知らないわけではないだろうに、無批判に「関西弁=アンコトローラブル/標準語=抑制」とはどういう了見。むしろ、地の語りと会話文の差異が決定不能になっていくのが、主人公の真の困難であり喜びではないか。ラスト、恋人が「僕」のように関西弁を使い、「僕」が「冬場は水を少なめにします」と恋人のような標準語を使うことからも、それは明らかだ。だからラスト、脚本が一瞬現実を越えてくるのだ。「僕」の言う演劇の「奇跡」は、ここに込められていたはずで、飯田さんのように、実社会と比較して「僕」の演劇への向き合いかたを評価しても、あまり意味はないのだ。で、本当は、『火花』ではこれを漫才で達成して欲しかったのだ。『火花』とは違い、『劇場』はとても良い作品でした。

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2017年06月11日

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』の書評をしたよ!

『すばる』7月号に、「観光のように軽やかな哲学として」と題した、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)の書評が載っています。本書の論点はいろいろあると思いますが、僕が良いなと思ったのは、理論的な更新がそのまま社会変革への意志になっている、加えて、そのまま人文学業界再編への意志になっている、ところ。この、コンスタティヴな態度とパフォーマティヴな態度の切り分けられなさが東浩紀さんの本領だなあ、と。で、書評では、この思想と実践の絡み合いを指して、「哲学」としました。この「哲学」のありかたは、古くはソクラテスとかなのでしょうが、文芸誌的にラインを引くと、やはり吉本隆明的な「思想」ではないか。観光の特徴は「大衆性」(アーリ&ラースン)である、と始まる本書の議論は、消費社会への視線を含みつつ、最終的に「家族」の問題を突きつけられることになる。この感じに吉本的なものを感じたので、そのことは少しだけ言及しました。「観光客の哲学」は、「大衆性」が中心にあることで、家族論、消費社会論、知識人論を貫通しているように思います。よろしければ!




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2017年06月03日

『ミュージック・マガジン』の「日本のヒップホップ・アルバム・ベスト100」に参加しました!

一部炎上しているらしい『ミュージック・マガジン』(2017.6)の「日本のヒップホップ・アルバム・ベスト100」、僕も参加しています。DOTAMAくん・クリーピーナッツの対談は、ぜひランキングと一緒に併読すると良いと思います。キックとリップが入らなかったことについては誰もが驚いたと思いますが、そういう細かい力学まで含めて、興味深い結果ではありました。DOTAMAくんたち、ほとんどラップのことしか語っていなかったけど、選者はトラックまで含めて判断していたでしょう(少なくとも自分はそう)。「重要なラッパーベスト100」とかだったら、きっとDOTAMAやR指定は入ってくるはず。そんなことも含め、選んでいる時点から思ったのは、ヒップホップのランキングにおいて、アルバム単位というのは無理が生じるな、ということ。12インチの文化でありサイファーの文化でもあるから、アルバムの重要度は実際の重要度とは乖離しがちなのかな、と。また、これ2000年代後半だったら、やけのはらとかアルファベッツあたりは入りそうだなという気もして、2010年代はシーンの雰囲気変わったな、と思いました。あとは、ライターとか評論家筋の権威主義的なランク付けがプレイヤーやファンを逆撫でした感じはなんとなく理解でき、自分もその権威主義に荷担しているのでしょう。これも自覚して引き受けていたつもりだけど、こういうかたちで突きつけられると、いろいろ考えること多いです。ただ、この流れで現場主義の立場が強くなることは、個人的には避けたいです。いろいろ書きましたが、以下、自分のベスト30です。

1、ECD『BIG YOUTH』
2、BUDDHA BRAND『黒船』
3、OMSB『Think Good』
4、DABO,ANARCHY,KREVA「I REP」(EP)
5、RHYMESTER『マニフェスト』
6、BUDDHA BRAND『人間発電所』
7、MICROPHONE PAGER『MICROPHONE PAGER』
8、TWIGY『SEVEN DIMENTIONS』
9、キミドリ『キミドリ』
10、LAMP EYE「証言」(EP)
11、NITRO MICRIPHONE UNDERGROUND『NITRO MICRIPHONE UNDERGROUND』
12、RHYMESTER『リスペクト』
13、スチャダラパー『5th WHEEL 2 THE COACH』
14、Stillichimiya『死んだらどうなる』
15、いとうせいこう『MESS/AGE』
16、キエるマキュウ『トリックアート』
17、SIMON『03』
18、四街道ネイチャー『V.I.C.トゥモロー』
19、キングギドラ『空からの力』
20、NORIKIYO『EXIT』
21、田我流『B級映画のように2』
22、イルリメ『イルリメ・ア・ゴーゴー』
23、ECD『TEN YEARS AFTER』
24、ANARCHY『Dream and Drama』
25、SHINGO☆西成『SPROUT』
26、YOU THE ROCK『GRAFITY ROCK ‘98』
27、SEEDA『花と雨』
28、SHAKKAZOMBIE『HERO THE S.Z.』
29、TOKONA-X『トーカイテイオー』
30、やけのはら×七尾旅人「Rollin’ Rollin’」(EP)

自分は、ECD、「証言」、ツイギーの項目を書きました。よろしければ!

ミュージックマガジン 2017年 06 月号
ミュージックマガジン
2017-05-20



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2017年05月20日

ポップ文学の復権を

『F』19号には、長谷川町蔵『あたしたちの未来はきっと』論がありますが、町蔵さんのこの作品によって、いわゆる「ポップ文学」がいきなり復権してきたような印象を受けます。舞台が、横浜・八王子の米軍基地ラインである町田なのも素晴らしい。外国の影響を受け続けた国道16号線のカルチャーとも言え、これは、『あたしたちの未来はきっと』の初出でもあった『witchenkare』で以前から柳瀬博一さんが展開している「国道16号線」論(面白い!)とも接続される。町田 a.k.a. MCDにはQ-ILLもいるし、相模原に行けばもちろん、SDPやSIMILABもいる。stillichimiyaの山梨のほうにも行けるかもしれない。相模原のほうで少しだけ仕事をしていたことがあったけど、明らかに異なるカルチャーが育まれていた印象があります。村上龍も読み直そうかしら。




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2017年05月15日

「美しすぎる断片」の補足

今日は『F』19号の合評会でした。ということで、僕は岸政彦さんについて論じたのですが、その岸さん像は、『ビニール傘』を読んでから『断片的なものの社会学』を読んだ、という点でバイアスがかかっているのかもしれません。『断片的』の基本態度は、社会学的な分析にのぼってこない人々の知られざる営みを「美しい」「無意味」な「断片」として描くことかと思いますが、その基本態度を語る冒頭はまるで、保坂和志の小説論が元ネタになっているようでした。保坂の小説観はいろいろあるけど、ひとつ言えるのは「小説内の出来事がなにものをも象徴しない」という強固な姿勢。このハードに言語芸術的な態度が、一見これといったドラマが起きないにもかかわらず凄まじい躍動感を獲得する、という保坂一流の小説となる。僕なんかはそういう印象を受けます。このハードに言語芸術的な態度と共振するのが、それぞれ作風は少しずつ違えど、磯崎憲一郎や青木淳悟、岡田利規、柴崎友香、滝口悠生、山下澄人といった「保坂スクール」(佐々木敦)系の人たちだと思います。00年代後半から2010年代、文学シーンの主流派は「保坂スクール」だったと思います。彼らのハードな作品に比べたとき、『断片的』に描かれたエピソードは、「無意味」どころか、あまりにも「意味」が充満しているし、「断片」ではなく「物語」だ。そのように思いました。もちろん岸さんは社会学者であり、そこでの「無意味」は、統計的な「意味」にのぼらないものを指していたのだと思います。ただ、『断片的』に描かれたエピソードが社会的な関係性に条件づけられているのはたしかだと思うので、それを「無意味」だとしてしまう『断片的』が、結局どのような役割を果たしているのかわからないと思ってしまいました。しかも、「無意味」な「断片」を「美しい」として、文学ロマン的な方向でパッケージングするのも違和感ありました(ここで岸さんがキーワードにするのが「知らない」ということですが、「保坂スクール」がいかにアンノウンを描き続けたことか)。『ビニール傘』から逆算したとき、『断片的』および、その小説版と言っていいだろう『ビニール傘』は、「保坂スクール」の焼き直しであるという印象が強かったです。

そもそも、「保坂スクール」の焼き直しはいかに起きるのか。ここからは、リアルタイムで見ていた自分の感覚でしかないのですが、「保坂スクール」以前の時代、文芸批評が社会学に取って代わられる「社会学の時代」と呼ばれるような時期が台頭しています。例えば、宮台真司さんが見沢知廉や高見広春を論じるような時期。この社会学的な見方を採用するかたちで、宇野常寛さんがゼロ年代の小説を論じながら、同時代の社会について論じました(ここには、東浩紀さんも入りそうですが、自分からすると少し異なる)。そうなるとなにが起きるか。小説が社会を語るための道具と化して、言語芸術としての自立性が見出しにくくなる。必然、宇野さんも宮台さんも小説にこだわる理由は稀薄で、小説に限らず、同時代のカルチャーを横断的に論じるようになります。

2000年代後半以降、ハードに言語芸術的な態度としての「保坂スクール」の台頭は、このような、小説における自立性の稀薄化に対抗するかたちで起こっていた気がします。社会を反映する小説のありかた(宇野)に対して、なにものも象徴しないという小説のありかた(保坂)。潜在的にではあるけど、このような対立が00年代なかばから後半あたりの小説シーンにはあった気がします。そして、そのような雰囲気がそろそろ10年近く続いており、違う局面を期待したい。それが、小説ファンとしての僕の最近の気持ちです。

そんなおりに、微妙に「文壇」の新スター的に登場しているのが、岸政彦さん。いや、本人も好きでそうなっているわけではないかもしれませんが、しかし振る舞いとしては、とても周到に、かつポピュリズム的に「文壇」に参入したと言わざるをえません。ようするに、『断片的なものの社会学』というのは、「無意味」な「断片」(保坂系)と「社会学」(宇野系)の両方を体現しているんだから、そりゃ「文壇」に適応するよな、ということです。もちろん、岸さんと宇野さんのイデオロギー的な立場は異なる部分もあるでしょう。ここでは、小説の自立性的なパラダイムと同時に「社会学の時代」パラダイムも延長されていることが大事な気がします。おまけで言うと、小説と社会学の両方を抱える人物として、文学研究からメディア論に移行した荻上チキさんがいるような気がします。岸さんは芥川賞を逃したさい、TBSラジオ『荻上チキ session-22』に出演していましたが、その相性の良さは状況論的に指摘できるのではないか。

以上のことは、別に良いとか悪いとかではないのですが、僕が求める小説観とは異なるのはたしかです。次の段階に行きたい立場からすると、少し退屈に思ってしまいます。あと、僕は自分の思ったように小説を紹介するのが苦手で、例えば、僕が『session-22』に呼ばれて、ジャニーズの話ではなく小説の話をするとしたら、なかなか難しいのだろうな、と想像します。社会反映論的に語れば座りは良さそうですが、そういうことをしたいわけでもないので、自分なりの語り口を獲得しなければいけません。小説と社会学の結託は、どうもぐずぐずとなされている気がします。それは自分が良いと思う状況ではないので、岸さんというより状況全体に、批判的な立場を取っています。

【追記】
「社会学(宇野系)」という言い方があまりにも粗雑ではないか、という指摘をいただきました。「もちろん、岸さんと宇野さんのイデオロギー的な立場は異なる部分もあるでしょう」という一文でエクスキューズをつけたつもりですが、宇野常寛が体現する「社会学」と岸政彦が体現する「社会学」は全然違うでしょう。そもそも、宇野さんのものは「社会学」と呼びうるのか、という議論もありそうです。では、『断片的なものの社会学』における「社会学」とはなんなのか、とか。とは言え、それでも、文芸シーンという閉じた文脈のなかで見たとき、「社会学の時代」と呼ばれた時代を経ての岸さん登場、という、ここ30年くらいの特殊事情が現在の文学シーンをかたどっている、という予感はあります。そんなニッチな話はどうでもいいではないか、というのはそのとおりですが、細かい小骨取り作業とジャンル横断的な大きな文化論の両方を同時にやることが大事なのではないか、という気もまたしています。

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2017年04月16日

『Jazz The New Chapter 4』をめぐって

『Jazz The New Chapter 4』の発売に合わせて、監修者の柳樂光隆さんと対談をしました。

「いま、アメリカとジャズの歴史をどう考える? 柳樂光隆 × 矢野利裕が徹底討論」
http://realsound.jp/2017/04/post-12052.html

『JTNC4』でキーとなるのは、フィラデルフィア。フィリーに注目することで、ネオソウルへの理解がかなり深まると思います。ATCQのドキュメントを観たとき、彼らの革新性について「ジャズを使った」ということが強調されていたのが、まあそうだよなと思いつつも印象的でした。僕なんかは、ソウルもジャズも広義の90年代的なレアグルーヴのノリで並列化していたところがあったけど、ここはちゃんと区別したほうがいいのかもしれません。当時、Q-TIPはひとりだけ、なんか全然違う景色を見ていたのかもしれない。『Kamaal The Abstract』とか去年のATCQのラストアルバム(去年のフェイヴァリット)を聴くと、ジャズへの向き合いかたがとてもユニークで、当時からこういうことがやりたかったのかなあ、とか考える。ネオソウルとはこのジャズへの向き合いかたという点で呼応してくる。ソウルクエリアンズも。で、この流れを象徴するのが、個人的にはコモンの4枚目のアルバム(コモン作品でフェイヴァリット)ということになる。コモンにおけるプレミアからソウルクエリアンズへの移行によって2000年代が始まったのだ、と。コモンは2016年には『Black America Again』も出したし、これは昨今のBLMのムーヴメントまでつながってくるでしょう。ちなみに、大和田俊之・磯部涼・吉田雅史『ラップは何を映しているのか』(毎日新聞社)が、この歴史観をさらに相対化するように、サウス〜トラップあたりを語ってくれていて(Q-TIPもコモンも、ここではヒラリー的エリート主義を嗅ぎ取られているのが面白い)、こちらもかなり面白かったですが、この本についてはまたあらためて。いずれにせよ、両方読むと良いと思います。というか、対談も面白いと思うのでぜひ!




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2017年04月13日

プチ鹿島『芸人式新聞の読み方』(幻冬舎)の書評をしました!

putit_kashima_spa

いま売りの『SPA!』(2017.4.11-18)で、プチ鹿島『芸人式新聞の読み方』(幻冬舎)の書評をしています。鋭い時評でもあり読み比べ芸でもあり、面白かったです。書ききれなかったところだと、ゲンダイ師匠、森善朗あたりとかも笑いました。

この本、弱者の立場から一義的な「正しさ」を言い募るのではなく、さまざまな立場の「正しさ」を軽やかに、軽薄に、反復横跳びする感じが、まさに「芸人式」だな、喜劇人的な身体性だな、と。こんなことを思ったのは、直前にたまたま、マルセ太郎『記憶は弱者にあり』(明石書店)を読んでいたからで、こちらは時代的に仕方ないのかもしれないけど、かなり強く戦後民主主義的「正しさ」を打ち出していて(にもかかわらず、天皇制や安保は問わないでいて)、いま読むと、少ししんどい感じがありました。だから、鹿島さんの新刊は、「新聞の読み方」以上に「芸人式」という冠のほうが興味深かったです。きっと、昨今また聞こえる、芸人は権力批判すべきだ的な論調に対する応答も意識していたのではないか。

ちなみに爆笑問題の太田光もラジオで、くだんの茂木健一郎に対する応答・反論のようなことをしていました。その延長で太田は、大統領になったらネタにしやすいから、自分だったらトランプに投票する、ということを言っていて、この痛快な「芸人式」軽薄さに対して、どういう批評言語で向き合うべきか、とか考えてしまいます。痛快だなあ、面白いなあ、と思うだけになおさら。どのように肯定するのか/しないのか。

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2017年03月06日

『LA LA LAND』の愛のなさ

La La Land - Reviews映画『LA LA LAND』が賛否両論で、話題になっている。最初に言っておくと、僕はかなり強いダメ派だ。映画に疎いので、多く引用されている映画的な元ネタやその意味合いは把握できていないが、把握したとしても評価はあまり変わらないと思う。ミュージカルは嫌いでないので、予告を見たときにけっこう期待していて、公開されたら行こうと思っていた。あの『セッション』の監督ということは、その時点では知らなかったし、別に知ったところでどうということでもなかった。公開からほどなくして、「音楽の取り扱いかたが雑だ」という噂を聞くようになった。ふだん、ツイッターを見ないので、なんとなく漏れ伝わってくる程度。実際見たら、音楽の取り扱い、というか、誰でも言っているだろうが、ジャズの取り扱いはヤバかった。僕は全然ジャズに詳しくないけど、そんな自分としても、まるで悪い夢でも見ているようなひどさだった。いや、というか、そのまえにそもそも、あの主演のライアンさんのピアノと踊りは、やはり、本当に厳しい。身体的な推進力がないから、観続けるのはかなり厳しかった。これ、僕が音楽やダンスがそれなりに好きだから、というレヴェルを超えていると思うのだけど、どうでしょう。とくにミュージカルというのは、基本的に、身体的な推進力こそ魅力である、という思いがあったので、あの推進力のなさはけっこう冗談抜きで観ていられなかった。びっくりした。まずは、その点がいちばん前面に位置するダメなところ。

ここから、ジャズの取り扱いについてつまらないツッコミ。もっといろいろあるのかもしれないし、自分以外の適任はいるとは思いますが、書かなければ気がおさまらないので書きます。

まず、主人公は人前でつまらない曲を弾くのは嫌で、自分のこだわりで音楽をしたい人である。冒頭、ピアニストとして彼を雇ったレストランのマスターは、「フリージャズはやめてくれよ」みたいなことを言うので、映画鑑賞者のほうからすると、ほうほう、彼が本当にやりたい音楽はフリージャズなのか、という流れがあらわれる。ただ、そもそも、ミュージカル映画として観に行っている僕および多くの人は、むしろ、主人公がフリージャズを掲げて周囲と格闘する映画ではないだろう、と知っている。実際、彼のプレイはもちろん、フリージャズ的なものではない。このへんですでに頭のなかが混乱してくる。なんだ、この映画、なんなんだ。ともあれ、彼がつい好き勝手に弾いてしまったピアノによって、彼はレストランをクビになるのだが、ただそのかわり、そのピアノのプレイに惹かれたヒロインと出会うことになる。恋愛物語は、ここから動き始める。

物語が進むと、どうやら彼はモダンジャズの信仰者らしい。個人的には、この、商業主義の音楽/芸術主義的なモダンジャズという図式自体、いまぶちあげるとなるとそうとう慎重にならなくてはいけないものだけど、まあ、とにかく、そういうものらしい。でも、ここで、あの大問題が回帰してくる。もちろん、彼のピアノの腕前という問題だ。物語構造的には、彼は〈誰にも理解されないが凄みのあるピアノ〉を弾くべきだろう。しかし、実際にはどうだい。彼のピアノのよちよち歩きなことときたら! あれ、マジでヤバいって! フリージャズ的とかモダンジャズ的とかそういう以前に、なんだあのポロンポロンと鳴らされるピアノは。いや、ヘタだからもっと練習しろ、という嫌味なツッコミではなくて、これでは、もう物語自体が破壊されるじゃないか。ことはすでに、「ぷぷぷ、プロを目指し、実際にプロになった人のピアノの腕前があれですか」というツッコミ(むろん、正しいツッコミ)の水準を超えているの! 「フリージャズはやめてくれよ」と言われたりとか、セロニアス・モンクの名前が出たりとか、そういう文脈のなかであのピアノであるということが、本当に人を混乱させるの。だって、あのピアノにどのようなアーティスト性が見出されるというのさ。でもって、全体の音楽としては、モダンジャズとほとんど対極にあるような映画音楽が流れて、その音楽のうえで、あのモダンジャズ信仰者はいい調子で(しかし、ひどいステップで)踊っているし、本当に混乱するわ! だから、そもそもこの映画には、商業主義対芸術主義なんて対立軸自体が存在しないのかもしれない。しかし、もし、そうだとしたら、途中のケンカの場面とか意味わからなくなるし(実際、意味わからなかったが)、物語自体が破綻していると言わざるをえない。ということで、物語の中心にあるところのジャズの取り扱いがデタラメ過ぎて、完全に物語として破綻している。

ここまでのありうる批判は、「それは音楽通だからこそ気になる部分であって、ジャズに明るくない人は物語的に楽しめる」という感じか。たしかに、モダンジャズがどういう音楽でスウィングっぽい音楽がどういう音楽か、というのは、「音楽通だからこそ気になる部分」に当たるかもしれない。僕だって、クリエイティブな誤解は容認したい派だから、物語において必ずしも厳密性を重要視するタイプではない。しかし、「音楽通」ではない人は、例えば、冒頭のレストランの場面、客のために弾いた「ジングルベル」と彼が好き勝手に弾いた曲になにか差異を感じたでしょうか。僕が「音楽通」かどうか知らないが(「ジャズ通」でないことはたしか)、とりあえず僕は、彼が好き勝手に弾いた曲は、ひたすら〈すごく下手な素人ピアノ〉として認識したので、その時点で物語的な構造が飲み込めなかった。だって僕の認識からすると、冒頭のピアノがメッセージする主人公の人物設定は、〈ピアノがすごく下手な素人〉なんだもの。その素人ピアノにヒロインが感動してしまう、ということは、ではどういうことなんだろう、とか、もう混乱が生じる。あるいは、彼が途中で参加することになった人気バンドは、物語的には、〈本当はやりたくないけど、そんな自分をどこかで騙しながらやっているバンド〉〈加えて、お金を稼ぐためにやっているバンド〉ということになるよね。でもそれも、主人公のピアノがひどいから、むしろ、彼のバンドのサウンドのほうが、ある意味アーティスティックに見えたりもして(なんか、ブランドン・コールマンを思い出した)、また混乱する。もう、あらゆる音楽が物語構造を裏切り続けているから、マジでわけがわからなくなる(その意味で、ある種のアヴァンギャルドさはある)。以上、「音楽通」的な立場からのつまらないツッコミはいったん終わり。

ここまでを自分なりにまとめてみると、次のようなことか(細かい部分で事実誤認あったら指摘してください)。

ー膺邑は、〈客が喜ぶ音楽〉ではなく〈自分のために音楽〉をしたい。そして、彼にとっての大事な音楽は、モダンジャズ的なものであるらしい。(しかし、実際の彼のピアノはモダンジャズの要素が皆無である)
彼とヒロインが出会ったのは、彼が〈自分のための音楽〉をプレイしたことがきっかけである。
H爐肇劵蹈ぅ鵑うまく行っているときには、ミュージカル音楽が流れる(しかし、普通に考えれば、ミュージカル音楽はショーアップされた音楽であり、客を喜ばす側の音楽である)。
ぅ劵蹈ぅ鵑蓮◆匱分のための音楽〉をする彼が好きなので、商業主義的なバンドをしている彼は良くないと思っている。(しかし、そのバンドのサウンドは、彼のピアノに比べると、ちょっとだけ面白い。これは主観と言えば主観)
タ年後、ヒロインは、彼が〈自分のための音楽〉をやっていることを知る。すると、〈自分のための音楽〉をきっかけに出会ったころに場面が飛んで、ミュージカル調、すなわち〈客が喜ぶ音楽〉の世界が広がる。

やはり、わけがわからない。けっこう悪夢的である。まあ、ミュージカルって、もともと悪夢的なところがあるので、「この音楽的なデタラメさも含めて、ミュージカル的な非日常のありかたなのだ」という強弁をすることも可能なのかもしれない。実際、僕は途中からそういうモードで観ていた。なんか空とか飛んでいるし、現実的な整合性とかに囚われるべきではないのでないか、と。百歩譲った鑑賞態度ではあるが、実際、良い音楽とそれにともなう映画体験ができれば満足なのはたしかです。つまり、こういうことか。

たしかに彼は、音楽の実力も知識もない青二才だ。もしかしたら、白人至上主義者のおそれすらある。しかし、そんな彼にとっても音楽は素晴らしい。音楽を通じて人が出会い、音楽を通じて恋に落ちる。音楽を通じてその恋は終わってしまったが、音楽を通じてありえた未来をも映し出す。そんな音楽の喜びが詰まった映画だったではないか。「ジャズの取り扱いが云々」とか言っているやつは、音楽の喜びを忘れ、知識で塗り固めようとしてはいまいか。

なるほど、良さげな反論ではないか。でも、言わせてもらえば、ここからが批判の本筋なのだ。つまり、その「音楽の喜び」がまったくないのが『LA LA LAND』なのだ! ジャズの取り扱いなど、それに比べればたいした問題ではないのだ。そうではなくて、「音楽の喜び」がないことこそ、大問題なのだ! 菊地成孔が『セッション』を批判したとき、「そりゃ、自分の専門分野が適当だったら怒るよね」みたいな受け取りかたをされていたような印象がある。僕はそれは違うと思っていて、菊地さんの『セッション』批判は、「音楽の喜び」を賭けた戦いだったと思う。『ユングのサウンドトラック』(河出文庫)にはなかったけど、たしか菊地さん、「あらゆる芸術でダントツ最上なのは音楽である」とか、あと、険悪なムードが音楽の力で一気にハッピーになったエピソードなんかを書いていた記憶がある(細かい記憶違いがあったら失礼)。大事なのは、「音楽の喜び」なのだ。俺も「音楽の喜び」を賭けて書く。「音楽の喜び」とはなにか。

驚くべきことに、いまちょうどこれを書きながら、シャッフルしたi-pod classicから、『LA LA LAND』にも出演していたジョン・レジェンドがザ・ルーツと組んだ「Wake Up Everyday」が流れてきた。「音楽の喜び」とは例えば、いまこうやって体が動いて、ハッピーになってしまう感じ。スマートなR&Bとは言え、ダンスミュージックだから、体が動くのは当然でしょう。でも、それが当然でもないかもしれない。だって、ダンスミュージックであったはずの『LA LA LAND』のオープニングで、僕は全然ワクワクしなかったし、体も動かす気になれなかったもの。僕的に理由は明確である。あのオープニング曲も、出演者たちのダンスも、統制が取れすぎている。初歩の初歩の過ちとして、『LA LA LAND』には、やっぱりグルーヴがないと言わざるをえない。グルーヴとはなにか。教科書的には、複数のリズムが共存していること。いや、複数リズムの共存と言っても、そんな複雑なものである必要もなくて、例えば、いま現在の自分で言えば、「ドン・ツー」というビートで首が動いている一方で、「チチチチチ」とハイハットなどが聞こえれば、足が痙攣的に動く。たとえ座っていたとしても、これはダンスでありグルーヴィーな状態(と僕は認識する。だから、落ち着きのない僕の生活はダンスとグルーヴにあふれている、という思いが強い)。だから、僕的に、というか一般的に、良い音楽の条件として、ある楽器においてリズムが食い気味だったり、たまに変則的なアクセントがあったり、でも、ヴォーカルはのびやかだったり、そういうリズムの複数性は大事だと思う。でも、『LA LA LAND』には、やはり乏しいよね、グルーヴが。オープニング曲だって、オシャレで小ぎれいではあるけど、すごくグルーヴに乏しい。それに合わせて踊る人たちも、みんなで振り付けして、なんだかお遊戯みたい。よく言われることだけど、ダンスは、そういうお遊戯性を破壊し越境していくものじゃん。その破壊と越境のなかで他人と共鳴するから、それまでとは違ったかたちのハッピーな空間ができるわけじゃん。それが「音楽の喜び」というものじゃん。むしろ、ジャズの歴史(自分の関心としては、それはリズム&ブルースの歴史でありヒップホップの歴史でもあるけど)こそ、そういう破壊と越境のさきの共鳴によって育まれてきたわけじゃん。しかも、黒人の側が白人中心社会を破壊し越境し共鳴するかたちで。だから、ジャズの取り扱いにみんな怒っているとすれば、それは「ジャズ通」の視点から高踏的に嫌味を言っているんじゃなくて、長く培われてきた「音楽の喜び」を台無しにするような態度にカチンと来ているのだ。少なくとも、僕はそう。

しかも、これが、あの憎き『セッション』と同じ監督となれば、いよいよ確信的か。菊地さんの尻馬に乗るようで恥ずかしいですが、僕も、やはり『セッション』はダメだと思う。『LA LA LAND』ほどではないが。『セッション』って、あれどんな映画だったかと言うと、音楽のコントロール権の奪い合いだったと思うのですよ。なんか象徴的なセリフも二、三あった気がするけど、当時書いたメモを見ないと思い出せないです。いずれにせよ、あの作品は、一貫して鬼教師がバンドメンバーの生徒たちをコントロール下に置こうとする。テンポが速いとか少し遅いとか。そして、ラスト、主人公と鬼教師は、どちらがバンドのコントロール権を取るか、という対決をする。みんなが格闘の比喩で語ったゆえんだ(でも、どこまでも自由なツイギーは言っていたよ。フリースタイルの本質はバトルではなくユナイトだ、と)。したがって、物語がどう展開されようが『セッション』には揺るがない前提がある。それは、音楽はコントロール可能だ、という前提である。違うよ、と俺は思うよ。「音楽はコントロール可能だ」というのは語義矛盾だ、と俺は思うよ。コントロールされえないのが音楽の音楽たる性質ではないか。というか、コントロールを打ち破って、越境し、プレイヤー同士が共鳴していくところにジャズ的な、あるいは、サイファー的なセッションが生まれるんでしょう。それが「音楽の喜び」でしょう。力を尽くして闘っている、その相手に対してまで、共感と共鳴が生まれるところに「音楽の喜び」があるのだ。だから、険悪なムードも次の瞬間ハッピーになるんでしょう。少なくとも、僕はそういうもんだと思っているよ。

ネットで感想を見ながら、「音楽通がウンチクを垂れているんじゃないよ。もっと音楽を、映画を楽しめよ」と言いたくなった人、僕からもお願い、もう一度、ネットなどで予告編を見て欲しい。本当にあそこに「音楽の喜び」がありましたか。あるのは、きっとカメラの外で、「はい、1234ー」とか手をパンパン鳴らしてコントロールしたような、統制の取れた動きではなかったか。それにはダマされない。それにはノらない。グルーヴのないダンスミュージックには興味がない。オープニングで、なかにティンパニ?かなんかを待機させていたトラックがあったが、そのトラックのまえでピョンピョン飛び跳ねていた人たちの単調な動きよ。音楽にあわせて、まるで行進のようにプールサイドに向かうヒロインのリズムの単一性よ。足の着地とビートが完全に一致して、菊地成孔の『服は何故音楽を必要とするのか』(河出文庫)ではないが、軍隊みたいだったぞ。ほんのちょっとだけ、ファシズム的だったぞ。グルーヴのなさは、もはやPC的にアウトである。実際、「音楽をコントロールできる」という思想は、管理の思想ではないか。フレッド・アステアは打ち破っていたじゃん、ジーン・ケリーは打ち破っていたじゃん、と思うのである。あの時代のジャズも白人中心という側面が強かったけど、実際は、黒人音楽との交通があったし、少なくともグルーヴがあった。でも、「音楽の喜び」に根差したブラックミュージックの歴史をデタラメに取り扱って、ダンスミュージックを管理の音楽として提示するなんてことは、俺的に言えば、完全にポリティカル・コレクトネスに反している。『セッション』から『LA LA LAND』への流れは、そういういろいろな点でダメだと思うのだ。『LA LA LAND』で主人公は、ヒロインをジャズバーに連れて行って、とくにソロをとっているでもないプレイヤーを指しながら、細かい内容は忘れたが、モダンジャズの概説的な講釈を垂れるんだよ。歴史修正主義なんて言う気はないけど、この映画にジャズを云々されたくないよ、と思う。だって、音楽を全然信じていないんだもん。愛も足りていない。音楽が現実の思いや政治を動かしてきたという事実から目を背けているから、あんなジャズの捉えかたになる。これは知識の問題ではなく、愛の問題だ。年取ったせいか、俺は、愛のない何物にも興味が持てなくなってしまったよ。

※菊地氏、今後、『LA LA LAND』について意見表明するかもしれません。批判的だろうことは間違いないが、ちょっと楽しみではあります。

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2017年02月06日

杉田俊介・宇野維正・矢野利裕「歌姫・文学・ポップカルチャーの更新――宇多田ヒカルとは何者か」

2月24日(金)下北沢のB&Bで、『宇多田ヒカル論 世界の無限と交わる歌』(毎日新聞出版)の杉田俊介さん、『1998年の宇多田ヒカル』(新潮新書)の宇野維正さんとともに、宇多田ヒカルについてのトークイベントします! 自分は、文芸批評の杉田さん、音楽ジャーナリストの宇野さんのあいだをうまく橋渡しできれば、と。よろしくお願いいたします。

http://bookandbeer.com/event/20170224_utadahikaru/

ちなみに、杉田さんの『宇多田ヒカル論』は凄い本です。「批評」という言葉の価値も残念ながら下落しているようなところがあります。かつて小林秀雄が「批評とは作品をダシにして自己を語ることだ」みたいなことを言っていましたが、要するに、「作品をダシにして自分の主張を言いたいだけだろ」みたいな冷ややかな視線って、いまあるような気がします(そして、まあ、そういうダメな「批評」も実際にあるのでしょう)。ただ、目を凝らして見て欲しいのは、杉田さんの宇多田ヒカル論が、杉田さんの問題意識に貫かれつつも、宇多田ヒカルの音楽と言葉と衝突していること、その衝突のなかでこそ、あのテキストは練り上げられているということ。杉田さんの思いを宇多田ヒカルの歌と言葉が軽やかに裏切って、そこからまた思考して、そのギリギリのなかで一冊になっている。実は長渕論に対しては、そのギリギリの感じが自分には反応できなかったです。杉田さんの問題のなかに長渕を閉じ込めてしまったような印象がありました。「男らしさ」をめぐる問いがうまく共有できなかったからかもしれない。その後、『非モテの品格』(集英社新書)に対してもうまく反応できず、その2冊を、立岩さんとの『相模原障害者殺傷事件』(青土社)から、マイノリティとマジョリティのあいだにある問題として照射することで、やっとおぼろげながら杉田さんの言葉が自分に浸透してきた気がする(だから、いままた、長渕論を読み直したい)。

批評という営みについてなにを本質化するかは人それぞれで良いけど、でも、少なくとも、他人の言葉に向き合うのはたいへんなことはたしかです。自分の一部が他人に飲み込まれながら、そこからなんとか自分の言葉を立ち上げるしかないような気がします。杉田さんの宇多田ヒカル論はそういう本だし、自分も他人の言葉に対してそういうふうにありたい。宇多田ヒカル論は、自分以外の読者がどう読むかはわからない、ある種の危うさをはらんだものだと思います。杉田さんは歌詞にこだわっているけど、「歌詞に注目しているから文芸批評的だ」ということではなくて、宇多田ヒカルの表現を杉田さんがどのように血肉化し、その杉田さんからどういう言葉が生まれているか、それこそを見て欲しいです。その意味で、宇多田ヒカル論を読んで見えてくるのは、やはり杉田さんの姿でした。この感想をご本人が喜ぶかはわかりませんが、ただ、その杉田さんのなかに宇多田ヒカルの音楽と言葉が入り込んでいると思うと、そこがグッと来るじゃないですか。いや、人ってそういうふうに生きていくしかないと、自分なんかは思います。ということで、2月24日、よろしくです!

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