2017年04月16日

『Jazz The New Chapter 4』をめぐって

『Jazz The New Chapter 4』の発売に合わせて、監修者の柳樂光隆さんと対談をしました。

「いま、アメリカとジャズの歴史をどう考える? 柳樂光隆 × 矢野利裕が徹底討論」
http://realsound.jp/2017/04/post-12052.html

『JTNC4』でキーとなるのは、フィラデルフィア。フィリーに注目することで、ネオソウルへの理解がかなり深まると思います。ATCQのドキュメントを観たとき、彼らの革新性について「ジャズを使った」ということが強調されていたのが、まあそうだよなと思いつつも印象的でした。僕なんかは、ソウルもジャズも広義の90年代的なレアグルーヴのノリで並列化していたところがあったけど、ここはちゃんと区別したほうがいいのかもしれません。当時、Q-TIPはひとりだけ、なんか全然違う景色を見ていたのかもしれない。『Kamaal The Abstract』とか去年のATCQのラストアルバム(去年のフェイヴァリット)を聴くと、ジャズへの向き合いかたがとてもユニークで、当時からこういうことがやりたかったのかなあ、とか考える。ネオソウルとはこのジャズへの向き合いかたという点で呼応してくる。ソウルクエリアンズも。で、この流れを象徴するのが、個人的にはコモンの4枚目のアルバム(コモン作品でフェイヴァリット)ということになる。コモンにおけるプレミアからソウルクエリアンズへの移行によって2000年代が始まったのだ、と。コモンは2016年には『Black America Again』も出したし、これは昨今のBLMのムーヴメントまでつながってくるでしょう。ちなみに、大和田俊之・磯部涼・吉田雅史『ラップは何を映しているのか』(毎日新聞社)が、この歴史観をさらに相対化するように、サウス〜トラップあたりを語ってくれていて(Q-TIPもコモンも、ここではヒラリー的エリート主義を嗅ぎ取られているのが面白い)、こちらもかなり面白かったですが、この本についてはまたあらためて。いずれにせよ、両方読むと良いと思います。というか、対談も面白いと思うのでぜひ!




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2017年04月13日

プチ鹿島『芸人式新聞の読み方』(幻冬舎)の書評をしました!

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いま売りの『SPA!』(2017.4.11-18)で、プチ鹿島『芸人式新聞の読み方』(幻冬舎)の書評をしています。鋭い時評でもあり読み比べ芸でもあり、面白かったです。書ききれなかったところだと、ゲンダイ師匠、森善朗あたりとかも笑いました。

この本、弱者の立場から一義的な「正しさ」を言い募るのではなく、さまざまな立場の「正しさ」を軽やかに、軽薄に、反復横跳びする感じが、まさに「芸人式」だな、喜劇人的な身体性だな、と。こんなことを思ったのは、直前にたまたま、マルセ太郎『記憶は弱者にあり』(明石書店)を読んでいたからで、こちらは時代的に仕方ないのかもしれないけど、かなり強く戦後民主主義的「正しさ」を打ち出していて(にもかかわらず、天皇制や安保は問わないでいて)、いま読むと、少ししんどい感じがありました。だから、鹿島さんの新刊は、「新聞の読み方」以上に「芸人式」という冠のほうが興味深かったです。きっと、昨今また聞こえる、芸人は権力批判すべきだ的な論調に対する応答も意識していたのではないか。

ちなみに爆笑問題の太田光もラジオで、くだんの茂木健一郎に対する応答・反論のようなことをしていました。その延長で太田は、大統領になったらネタにしやすいから、自分だったらトランプに投票する、ということを言っていて、この痛快な「芸人式」軽薄さに対して、どういう批評言語で向き合うべきか、とか考えてしまいます。痛快だなあ、面白いなあ、と思うだけになおさら。どのように肯定するのか/しないのか。

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2017年03月06日

『LA LA LAND』の愛のなさ

La La Land - Reviews映画『LA LA LAND』が賛否両論で、話題になっている。最初に言っておくと、僕はかなり強いダメ派だ。映画に疎いので、多く引用されている映画的な元ネタやその意味合いは把握できていないが、把握したとしても評価はあまり変わらないと思う。ミュージカルは嫌いでないので、予告を見たときにけっこう期待していて、公開されたら行こうと思っていた。あの『セッション』の監督ということは、その時点では知らなかったし、別に知ったところでどうということでもなかった。公開からほどなくして、「音楽の取り扱いかたが雑だ」という噂を聞くようになった。ふだん、ツイッターを見ないので、なんとなく漏れ伝わってくる程度。実際見たら、音楽の取り扱い、というか、誰でも言っているだろうが、ジャズの取り扱いはヤバかった。僕は全然ジャズに詳しくないけど、そんな自分としても、まるで悪い夢でも見ているようなひどさだった。いや、というか、そのまえにそもそも、あの主演のライアンさんのピアノと踊りは、やはり、本当に厳しい。身体的な推進力がないから、観続けるのはかなり厳しかった。これ、僕が音楽やダンスがそれなりに好きだから、というレヴェルを超えていると思うのだけど、どうでしょう。とくにミュージカルというのは、基本的に、身体的な推進力こそ魅力である、という思いがあったので、あの推進力のなさはけっこう冗談抜きで観ていられなかった。びっくりした。まずは、その点がいちばん前面に位置するダメなところ。

ここから、ジャズの取り扱いについてつまらないツッコミ。もっといろいろあるのかもしれないし、自分以外の適任はいるとは思いますが、書かなければ気がおさまらないので書きます。

まず、主人公は人前でつまらない曲を弾くのは嫌で、自分のこだわりで音楽をしたい人である。冒頭、ピアニストとして彼を雇ったレストランのマスターは、「フリージャズはやめてくれよ」みたいなことを言うので、映画鑑賞者のほうからすると、ほうほう、彼が本当にやりたい音楽はフリージャズなのか、という流れがあらわれる。ただ、そもそも、ミュージカル映画として観に行っている僕および多くの人は、むしろ、主人公がフリージャズを掲げて周囲と格闘する映画ではないだろう、と知っている。実際、彼のプレイはもちろん、フリージャズ的なものではない。このへんですでに頭のなかが混乱してくる。なんだ、この映画、なんなんだ。ともあれ、彼がつい好き勝手に弾いてしまったピアノによって、彼はレストランをクビになるのだが、ただそのかわり、そのピアノのプレイに惹かれたヒロインと出会うことになる。恋愛物語は、ここから動き始める。

物語が進むと、どうやら彼はモダンジャズの信仰者らしい。個人的には、この、商業主義の音楽/芸術主義的なモダンジャズという図式自体、いまぶちあげるとなるとそうとう慎重にならなくてはいけないものだけど、まあ、とにかく、そういうものらしい。でも、ここで、あの大問題が回帰してくる。もちろん、彼のピアノの腕前という問題だ。物語構造的には、彼は〈誰にも理解されないが凄みのあるピアノ〉を弾くべきだろう。しかし、実際にはどうだい。彼のピアノのよちよち歩きなことときたら! あれ、マジでヤバいって! フリージャズ的とかモダンジャズ的とかそういう以前に、なんだあのポロンポロンと鳴らされるピアノは。いや、ヘタだからもっと練習しろ、という嫌味なツッコミではなくて、これでは、もう物語自体が破壊されるじゃないか。ことはすでに、「ぷぷぷ、プロを目指し、実際にプロになった人のピアノの腕前があれですか」というツッコミ(むろん、正しいツッコミ)の水準を超えているの! 「フリージャズはやめてくれよ」と言われたりとか、セロニアス・モンクの名前が出たりとか、そういう文脈のなかであのピアノであるということが、本当に人を混乱させるの。だって、あのピアノにどのようなアーティスト性が見出されるというのさ。でもって、全体の音楽としては、モダンジャズとほとんど対極にあるような映画音楽が流れて、その音楽のうえで、あのモダンジャズ信仰者はいい調子で(しかし、ひどいステップで)踊っているし、本当に混乱するわ! だから、そもそもこの映画には、商業主義対芸術主義なんて対立軸自体が存在しないのかもしれない。しかし、もし、そうだとしたら、途中のケンカの場面とか意味わからなくなるし(実際、意味わからなかったが)、物語自体が破綻していると言わざるをえない。ということで、物語の中心にあるところのジャズの取り扱いがデタラメ過ぎて、完全に物語として破綻している。

ここまでのありうる批判は、「それは音楽通だからこそ気になる部分であって、ジャズに明るくない人は物語的に楽しめる」という感じか。たしかに、モダンジャズがどういう音楽でスウィングっぽい音楽がどういう音楽か、というのは、「音楽通だからこそ気になる部分」に当たるかもしれない。僕だって、クリエイティブな誤解は容認したい派だから、物語において必ずしも厳密性を重要視するタイプではない。しかし、「音楽通」ではない人は、例えば、冒頭のレストランの場面、客のために弾いた「ジングルベル」と彼が好き勝手に弾いた曲になにか差異を感じたでしょうか。僕が「音楽通」かどうか知らないが(「ジャズ通」でないことはたしか)、とりあえず僕は、彼が好き勝手に弾いた曲は、ひたすら〈すごく下手な素人ピアノ〉として認識したので、その時点で物語的な構造が飲み込めなかった。だって僕の認識からすると、冒頭のピアノがメッセージする主人公の人物設定は、〈ピアノがすごく下手な素人〉なんだもの。その素人ピアノにヒロインが感動してしまう、ということは、ではどういうことなんだろう、とか、もう混乱が生じる。あるいは、彼が途中で参加することになった人気バンドは、物語的には、〈本当はやりたくないけど、そんな自分をどこかで騙しながらやっているバンド〉〈加えて、お金を稼ぐためにやっているバンド〉ということになるよね。でもそれも、主人公のピアノがひどいから、むしろ、彼のバンドのサウンドのほうが、ある意味アーティスティックに見えたりもして(なんか、ブランドン・コールマンを思い出した)、また混乱する。もう、あらゆる音楽が物語構造を裏切り続けているから、マジでわけがわからなくなる(その意味で、ある種のアヴァンギャルドさはある)。以上、「音楽通」的な立場からのつまらないツッコミはいったん終わり。

ここまでを自分なりにまとめてみると、次のようなことか(細かい部分で事実誤認あったら指摘してください)。

ー膺邑は、〈客が喜ぶ音楽〉ではなく〈自分のために音楽〉をしたい。そして、彼にとっての大事な音楽は、モダンジャズ的なものであるらしい。(しかし、実際の彼のピアノはモダンジャズの要素が皆無である)
彼とヒロインが出会ったのは、彼が〈自分のための音楽〉をプレイしたことがきっかけである。
H爐肇劵蹈ぅ鵑うまく行っているときには、ミュージカル音楽が流れる(しかし、普通に考えれば、ミュージカル音楽はショーアップされた音楽であり、客を喜ばす側の音楽である)。
ぅ劵蹈ぅ鵑蓮◆匱分のための音楽〉をする彼が好きなので、商業主義的なバンドをしている彼は良くないと思っている。(しかし、そのバンドのサウンドは、彼のピアノに比べると、ちょっとだけ面白い。これは主観と言えば主観)
タ年後、ヒロインは、彼が〈自分のための音楽〉をやっていることを知る。すると、〈自分のための音楽〉をきっかけに出会ったころに場面が飛んで、ミュージカル調、すなわち〈客が喜ぶ音楽〉の世界が広がる。

やはり、わけがわからない。けっこう悪夢的である。まあ、ミュージカルって、もともと悪夢的なところがあるので、「この音楽的なデタラメさも含めて、ミュージカル的な非日常のありかたなのだ」という強弁をすることも可能なのかもしれない。実際、僕は途中からそういうモードで観ていた。なんか空とか飛んでいるし、現実的な整合性とかに囚われるべきではないのでないか、と。百歩譲った鑑賞態度ではあるが、実際、良い音楽とそれにともなう映画体験ができれば満足なのはたしかです。つまり、こういうことか。

たしかに彼は、音楽の実力も知識もない青二才だ。もしかしたら、白人至上主義者のおそれすらある。しかし、そんな彼にとっても音楽は素晴らしい。音楽を通じて人が出会い、音楽を通じて恋に落ちる。音楽を通じてその恋は終わってしまったが、音楽を通じてありえた未来をも映し出す。そんな音楽の喜びが詰まった映画だったではないか。「ジャズの取り扱いが云々」とか言っているやつは、音楽の喜びを忘れ、知識で塗り固めようとしてはいまいか。

なるほど、良さげな反論ではないか。でも、言わせてもらえば、ここからが批判の本筋なのだ。つまり、その「音楽の喜び」がまったくないのが『LA LA LAND』なのだ! ジャズの取り扱いなど、それに比べればたいした問題ではないのだ。そうではなくて、「音楽の喜び」がないことこそ、大問題なのだ! 菊地成孔が『セッション』を批判したとき、「そりゃ、自分の専門分野が適当だったら怒るよね」みたいな受け取りかたをされていたような印象がある。僕はそれは違うと思っていて、菊地さんの『セッション』批判は、「音楽の喜び」を賭けた戦いだったと思う。『ユングのサウンドトラック』(河出文庫)にはなかったけど、たしか菊地さん、「あらゆる芸術でダントツ最上なのは音楽である」とか、あと、険悪なムードが音楽の力で一気にハッピーになったエピソードなんかを書いていた記憶がある(細かい記憶違いがあったら失礼)。大事なのは、「音楽の喜び」なのだ。俺も「音楽の喜び」を賭けて書く。「音楽の喜び」とはなにか。

驚くべきことに、いまちょうどこれを書きながら、シャッフルしたi-pod classicから、『LA LA LAND』にも出演していたジョン・レジェンドがザ・ルーツと組んだ「Wake Up Everyday」が流れてきた。「音楽の喜び」とは例えば、いまこうやって体が動いて、ハッピーになってしまう感じ。スマートなR&Bとは言え、ダンスミュージックだから、体が動くのは当然でしょう。でも、それが当然でもないかもしれない。だって、ダンスミュージックであったはずの『LA LA LAND』のオープニングで、僕は全然ワクワクしなかったし、体も動かす気になれなかったもの。僕的に理由は明確である。あのオープニング曲も、出演者たちのダンスも、統制が取れすぎている。初歩の初歩の過ちとして、『LA LA LAND』には、やっぱりグルーヴがないと言わざるをえない。グルーヴとはなにか。教科書的には、複数のリズムが共存していること。いや、複数リズムの共存と言っても、そんな複雑なものである必要もなくて、例えば、いま現在の自分で言えば、「ドン・ツー」というビートで首が動いている一方で、「チチチチチ」とハイハットなどが聞こえれば、足が痙攣的に動く。たとえ座っていたとしても、これはダンスでありグルーヴィーな状態(と僕は認識する。だから、落ち着きのない僕の生活はダンスとグルーヴにあふれている、という思いが強い)。だから、僕的に、というか一般的に、良い音楽の条件として、ある楽器においてリズムが食い気味だったり、たまに変則的なアクセントがあったり、でも、ヴォーカルはのびやかだったり、そういうリズムの複数性は大事だと思う。でも、『LA LA LAND』には、やはり乏しいよね、グルーヴが。オープニング曲だって、オシャレで小ぎれいではあるけど、すごくグルーヴに乏しい。それに合わせて踊る人たちも、みんなで振り付けして、なんだかお遊戯みたい。よく言われることだけど、ダンスは、そういうお遊戯性を破壊し越境していくものじゃん。その破壊と越境のなかで他人と共鳴するから、それまでとは違ったかたちのハッピーな空間ができるわけじゃん。それが「音楽の喜び」というものじゃん。むしろ、ジャズの歴史(自分の関心としては、それはリズム&ブルースの歴史でありヒップホップの歴史でもあるけど)こそ、そういう破壊と越境のさきの共鳴によって育まれてきたわけじゃん。しかも、黒人の側が白人中心社会を破壊し越境し共鳴するかたちで。だから、ジャズの取り扱いにみんな怒っているとすれば、それは「ジャズ通」の視点から高踏的に嫌味を言っているんじゃなくて、長く培われてきた「音楽の喜び」を台無しにするような態度にカチンと来ているのだ。少なくとも、僕はそう。

しかも、これが、あの憎き『セッション』と同じ監督となれば、いよいよ確信的か。菊地さんの尻馬に乗るようで恥ずかしいですが、僕も、やはり『セッション』はダメだと思う。『LA LA LAND』ほどではないが。『セッション』って、あれどんな映画だったかと言うと、音楽のコントロール権の奪い合いだったと思うのですよ。なんか象徴的なセリフも二、三あった気がするけど、当時書いたメモを見ないと思い出せないです。いずれにせよ、あの作品は、一貫して鬼教師がバンドメンバーの生徒たちをコントロール下に置こうとする。テンポが速いとか少し遅いとか。そして、ラスト、主人公と鬼教師は、どちらがバンドのコントロール権を取るか、という対決をする。みんなが格闘の比喩で語ったゆえんだ(でも、どこまでも自由なツイギーは言っていたよ。フリースタイルの本質はバトルではなくユナイトだ、と)。したがって、物語がどう展開されようが『セッション』には揺るがない前提がある。それは、音楽はコントロール可能だ、という前提である。違うよ、と俺は思うよ。「音楽はコントロール可能だ」というのは語義矛盾だ、と俺は思うよ。コントロールされえないのが音楽の音楽たる性質ではないか。というか、コントロールを打ち破って、越境し、プレイヤー同士が共鳴していくところにジャズ的な、あるいは、サイファー的なセッションが生まれるんでしょう。それが「音楽の喜び」でしょう。力を尽くして闘っている、その相手に対してまで、共感と共鳴が生まれるところに「音楽の喜び」があるのだ。だから、険悪なムードも次の瞬間ハッピーになるんでしょう。少なくとも、僕はそういうもんだと思っているよ。

ネットで感想を見ながら、「音楽通がウンチクを垂れているんじゃないよ。もっと音楽を、映画を楽しめよ」と言いたくなった人、僕からもお願い、もう一度、ネットなどで予告編を見て欲しい。本当にあそこに「音楽の喜び」がありましたか。あるのは、きっとカメラの外で、「はい、1234ー」とか手をパンパン鳴らしてコントロールしたような、統制の取れた動きではなかったか。それにはダマされない。それにはノらない。グルーヴのないダンスミュージックには興味がない。オープニングで、なかにティンパニ?かなんかを待機させていたトラックがあったが、そのトラックのまえでピョンピョン飛び跳ねていた人たちの単調な動きよ。音楽にあわせて、まるで行進のようにプールサイドに向かうヒロインのリズムの単一性よ。足の着地とビートが完全に一致して、菊地成孔の『服は何故音楽を必要とするのか』(河出文庫)ではないが、軍隊みたいだったぞ。ほんのちょっとだけ、ファシズム的だったぞ。グルーヴのなさは、もはやPC的にアウトである。実際、「音楽をコントロールできる」という思想は、管理の思想ではないか。フレッド・アステアは打ち破っていたじゃん、ジーン・ケリーは打ち破っていたじゃん、と思うのである。あの時代のジャズも白人中心という側面が強かったけど、実際は、黒人音楽との交通があったし、少なくともグルーヴがあった。でも、「音楽の喜び」に根差したブラックミュージックの歴史をデタラメに取り扱って、ダンスミュージックを管理の音楽として提示するなんてことは、俺的に言えば、完全にポリティカル・コレクトネスに反している。『セッション』から『LA LA LAND』への流れは、そういういろいろな点でダメだと思うのだ。『LA LA LAND』で主人公は、ヒロインをジャズバーに連れて行って、とくにソロをとっているでもないプレイヤーを指しながら、細かい内容は忘れたが、モダンジャズの概説的な講釈を垂れるんだよ。歴史修正主義なんて言う気はないけど、この映画にジャズを云々されたくないよ、と思う。だって、音楽を全然信じていないんだもん。愛も足りていない。音楽が現実の思いや政治を動かしてきたという事実から目を背けているから、あんなジャズの捉えかたになる。これは知識の問題ではなく、愛の問題だ。年取ったせいか、俺は、愛のない何物にも興味が持てなくなってしまったよ。

※菊地氏、今後、『LA LA LAND』について意見表明するかもしれません。批判的だろうことは間違いないが、ちょっと楽しみではあります。

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2017年02月06日

杉田俊介・宇野維正・矢野利裕「歌姫・文学・ポップカルチャーの更新――宇多田ヒカルとは何者か」

2月24日(金)下北沢のB&Bで、『宇多田ヒカル論 世界の無限と交わる歌』(毎日新聞出版)の杉田俊介さん、『1998年の宇多田ヒカル』(新潮新書)の宇野維正さんとともに、宇多田ヒカルについてのトークイベントします! 自分は、文芸批評の杉田さん、音楽ジャーナリストの宇野さんのあいだをうまく橋渡しできれば、と。よろしくお願いいたします。

http://bookandbeer.com/event/20170224_utadahikaru/

ちなみに、杉田さんの『宇多田ヒカル論』は凄い本です。「批評」という言葉の価値も残念ながら下落しているようなところがあります。かつて小林秀雄が「批評とは作品をダシにして自己を語ることだ」みたいなことを言っていましたが、要するに、「作品をダシにして自分の主張を言いたいだけだろ」みたいな冷ややかな視線って、いまあるような気がします(そして、まあ、そういうダメな「批評」も実際にあるのでしょう)。ただ、目を凝らして見て欲しいのは、杉田さんの宇多田ヒカル論が、杉田さんの問題意識に貫かれつつも、宇多田ヒカルの音楽と言葉と衝突していること、その衝突のなかでこそ、あのテキストは練り上げられているということ。杉田さんの思いを宇多田ヒカルの歌と言葉が軽やかに裏切って、そこからまた思考して、そのギリギリのなかで一冊になっている。実は長渕論に対しては、そのギリギリの感じが自分には反応できなかったです。杉田さんの問題のなかに長渕を閉じ込めてしまったような印象がありました。「男らしさ」をめぐる問いがうまく共有できなかったからかもしれない。その後、『非モテの品格』(集英社新書)に対してもうまく反応できず、その2冊を、立岩さんとの『相模原障害者殺傷事件』(青土社)から、マイノリティとマジョリティのあいだにある問題として照射することで、やっとおぼろげながら杉田さんの言葉が自分に浸透してきた気がする(だから、いままた、長渕論を読み直したい)。

批評という営みについてなにを本質化するかは人それぞれで良いけど、でも、少なくとも、他人の言葉に向き合うのはたいへんなことはたしかです。自分の一部が他人に飲み込まれながら、そこからなんとか自分の言葉を立ち上げるしかないような気がします。杉田さんの宇多田ヒカル論はそういう本だし、自分も他人の言葉に対してそういうふうにありたい。宇多田ヒカル論は、自分以外の読者がどう読むかはわからない、ある種の危うさをはらんだものだと思います。杉田さんは歌詞にこだわっているけど、「歌詞に注目しているから文芸批評的だ」ということではなくて、宇多田ヒカルの表現を杉田さんがどのように血肉化し、その杉田さんからどういう言葉が生まれているか、それこそを見て欲しいです。その意味で、宇多田ヒカル論を読んで見えてくるのは、やはり杉田さんの姿でした。この感想をご本人が喜ぶかはわかりませんが、ただ、その杉田さんのなかに宇多田ヒカルの音楽と言葉が入り込んでいると思うと、そこがグッと来るじゃないですか。いや、人ってそういうふうに生きていくしかないと、自分なんかは思います。ということで、2月24日、よろしくです!

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2017年01月20日

『すばる』2017年2月号(批評の未来2017!)



遅ればせながらながらの告知ですが、『すばる』2月号発売! 僕も論考を書きましたが、目玉はなんと言っても「すばるクリティーク賞」の創設でしょう。書きながら書き手自身の足場が崩されるような、実存と社会と歴史がまるごと絡んだような、そういう問いを受けとめる、(とくに小林秀雄以来の)文芸批評という特異な領域があって、でも、群像文学新人賞の評論部門が独立したことにより、文芸批評に特化した書き手のデビューの道筋が狭まってしまいました。今回、とりわけゼロ年代を通じて、文芸批評の領域を地道に意識的に担ってきた批評家(評論家ではない)たちが審査にあたるということで、『すばる』、画期的な試みです。志ある書き手たち、ぜひ!

一方で僕は、「新感覚派とプロレタリア文学の現代 平成文学史序説」という論考を書きました。僕が群像の新人賞を獲ったとき、複数の人から小林秀雄の影響を尋ねられたのですが、どちらかと言えば、僕は平野謙が好きで、そういえばいま平野謙的な全体を見渡す人がいないな、と思って、平野の三派鼎立論を補助線に、現代の文学状況を自分の問題意識と一緒に論じました。作家本人からすると、勝手にカテゴライズされて不快かと思うし、自分の仕事ではないよな、という気もしますが、まあ、自分の考えを堂々と書くほかないかな、と。

ようするに、社会性(主題の積極性)をどう持たせるか、という話で、この点、岡和田晃さんのアイヌ論と関連するかもしれません。もっとも僕の見取り図は、ゼロ年代につちかわれたポピュラーカルチャーとの関わりを絶っており、その点は、藤田直哉さんによる論考が参考になるでしょう。国会前デモのような政治的動きも、「感性・認識」の変容を踏まえたうえで考えなくてはいけないのだ、と。一方、荒木優太さんの森鴎外論は、対象こそ過去の作家・作品ですが、明らかに現代的な問題意識とともにあって、自分が群像に書いた町田康論と共振する部分を勝手に少しだけ感じました。みんな僕と同世代で、なんかみんなキャラもあるし、良い緊張関係が生まれればいいな、と思います。外部にも波及するように。

※自分の論考に対しては、お褒めの言葉も批判の言葉ももらっています。ありがとうございます。また、『ゲンロン4』も同時期に出ており、なかなか熱い流れが出ています。大局的に、良い方向に行くといいです。

【追記】※SNS内での個別のやりとり。応答のみ。
お返事、遅くなりました。「過去のフレームワーク」、あるいは「図式化」は、ある程度の乱暴さとともに必要性を感じる立場です。ただ、だからと言って的はずれならば当然批判されるべきなので、批判は、そういう批判として受け止めています。ありがとうございます。

あとは、現在、渡部直己以外に文学史とつなげたかたちでのマッピングがないことが気になっていたので、ここで自分が俯瞰図を描こう、と。で、自分が名指した「新プロ」なるものは僕からすると、「少しの前衛性と少しの社会性を含んだ安心の小説コンテンツ」としてなんとなくほめられている。そこに嫌みを言いたい(追記―よくできているだけに、というのが前提)、というのが気持ちとしてあります。過去の文学史・文化史を見ると、おっしゃるとおり、ゆたかな「芸術左翼」が広がっているわけですよね。実際、「芸術左翼/左翼芸術」をどう考えるか、が迷っていた点です。僕が「だらしない」と言ったのは、無自覚に「左翼芸術」的なものを反復していることにあるのかもしれません。でも、無自覚な「芸術左翼」なんてもはや意味がわからない、だから批判する、と。もっと主題を明確にしろ、あるいは、もっと手法を洗練化しろ、と。作家および読者は、そのような問題意識のないままぐだくだになっている(だらしなさ)可能性を感じたので。そのことを言うために、逆算して「三派鼎立」図式を持ち出しました。問題意識がクリアに出るかな、と。だから、ご批判はクリティカルで、受け止めるべきご批判だと思っています。

本音を言うと、自分は、現代の左翼芸術〜プロレタリア文学の可能性はいかにありうるか、を考えています。おっしゃるとおり、そこに「差異の政治性」をどう導入するか、ということも関心のひとつなのはたしかです。いずれにせよ、大正から昭和初期の流れにヒントはないかな、とはよく思います。個人的には、新興芸術派を大衆文化(エロ・グロ・ナンセンス)との関係から、また読み直そうかな、と。

その場合、やはり当てはめには慎重にならなくてはいけませんね。今回は、あくまで「補助線」なので「現在は三派鼎立状況である」というアナロジーとは少し違うつもりですが、それも含め、引き続き考えてみます。スマホから打っていて、とりとめなく恐縮ですが、ご意見感謝です。

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2016年12月26日

比屋定篤子とエイミー

imageパンクした佐川急便からやっとレコードが届きました。ジャケ買いした、流線形と比屋定篤子「まわれまわれ」は、TOTO「ジョージー・ポージー」を下敷きにしたセンス良い曲でした。シティポップ売りだけどSSW的なフィーリングで、やはりこういうほうが自分は好きです。エイミーはやはり素晴らしくて、あらためて夭逝が悔やまれます。同い年のヒーロー。トランプ時代に聴く「ネルソン・マンデラ」のカヴァ−は、なんかすごく心に響いてきます。

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2016年12月24日

さやわか『文学の読み方』(星海社新書)を読みました。

文学の読み方 (星海社新書)
さやわか
講談社
2016-09-22



さやわかさんの『文学の読み方』(星海社新書)は、近現代文学の流れを明快に記述しているけど、自分としては批判的な立場です。気になったのは例えば、「貧乏な書生が型破りな生活をするという、明治初期の文士」(p.115)ってところで、「型破りな生活をする」「文士」は普通、大正期の私小説家を指すのではないか。さやわかさんは、明治期の自然主義と大正期の私小説を一緒くたにしているフシがある(ましてや「明治初期」は、やはり間違いだと思う)。この部分も、円本ブームが「文士」を潰した、とされているけど、円本ブームはむしろ、「破滅型」の「文士」を成立させた、という指摘がある(山本芳明『カネと文学』)。あと、村上龍が「「ありのままの現実を描く」という理念」の不可能性を初めて暴露した、とあるけど(p.192)、それも間違いで、少なくとも太宰治はそのことばかり作品化していたはずです。だから、江藤淳の村上に対する「サブ・カルチュア」批判は、やはり敗戦やアメリカといった政治的関係のなかで考えるべきだろうと思う。同じように、さやわかさんが「錯覚」として扱う「リアリズム」の問題も、近代における民主化の問題と一緒に考えなくてはいけないだろうと、個人的には思います。さやわかさんが「錯覚」としている問題はたぶん、もっとごつごつしたものとしてあり続けている。さやわかさんの文学史観と照らし合わせながら、自分の問題意識を明確化していきたいです。大学院の研究以来の自分の問題意識は、安藤宏『「私」をつくる』(岩波新書)に近いです(まあ、安藤さんの論文に影響を受けているので当然ですが)。




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2016年12月16日

『ジャニーズと日本』(講談社現代新書)が発売したよ!




『ジャニーズと日本』(講談社現代新書)という本が発売となりました。名門レーベルである講談社現代新書に名前を連ねることになり、嬉しい限りです。本書は、SMAP解散騒動以前に企画がもち上がったもので、ジャニーズ事務所をめぐるあれこれを横目に執筆していた感じです。本書に顕在的・潜在的に流れているテーマを著者なりに言うと、次のようなものです。

1、日本ポピュラー音楽におけるジャニーズの位置づけ
まずは、これが中心的なテーマ。カヴァーポップス〜GS〜ディスコ〜クラブミュージックという、日本ポピュラー音楽の非‐ロック的な流れを担っているのがジャニーズだと思います。ロックグループであるザ・グッバイも、山下達郎・大瀧詠一経由のビーチボーイズを目指すなかで、初代ジャニーズ的なジャズコーラスを受け継いでいる感じがあります。あと、郷ひろみが筒美京平経由でオックスのR&B歌謡の流れで来ている感じとか面白い。デビュー当時の関ジャニも謎だけど、「スシ食いねえ!」以来のジャパニズムの系譜だろうと思います。ちなみに、関ジャニは服部良一トリビュート盤で笠置シヅ子「買物ブギー」をカヴァーしていますが、これはかつて笠置の「ヘイヘイ・ブギー」のリメイクを歌った忍者の流れでもあります。ジャニーズによるポピュラー音楽への視線の注ぎかたは、独特で面白いです。

2、「アメリカの影」問題
戦後にアメリカからやってきたジャニー喜多川が日本で芸能活動をすることは、そのままアメリカの占領政策に関わります。かつて加藤典洋が『なんクリ』をきっかけに、あからさますぎて見えない戦後日本の「アメリカの影」を指摘していましたが、ジャニーズもまた、あからさま過ぎて見えない「アメリカの影」の一部でした。移民二世としてカリフォルニアを過ごしたジャニー喜多川は、ショービジネスの自由さに魅了されていました。そんな彼は、これから民主化していこうという戦後日本で、ショービジネスによる日本の民主化を目指していたフシがあります。当時、民主主義を教えるツールとしては、ベースボールとスウィングジャズがありましたが、ジャニーはこれらを意識しているし、そもそも、封建的な芸能界にまったく新しい青少年グループという存在を放り込むこと自体、具体的な制度変革としてありました。ジャニーズは、戦後日本に民主主義が浸透していく一場面として見るべきでしょう。

3、芸能と差別
そもそも、お祭りにおける芸能とは、わたしたちの日常を活性化させるための非日常の営みとしてあります。その非日常の祭りの場でいけにえ的に芸を披露するのが、芸能‐人という存在です。彼らは日常と隔絶された存在であるべきで、芸能はその意味で、本来的に差別構造を抱えています。前近代は、それがもろ差別としてあらわれていましたが、近代以降は芸能も社会の一部です。戦後はますますそうなります。とは言え、「昭和」の芸人や芸能人は、まだまだ日常離れした豪快さが許されていた気がします。しかし、ゲスの極み乙女以降の世界である現在は、そういう「昭和」的な豪快さはコンプライアンス的に厳しい時代になりました。「平成」においては、「黒い交際」も糾弾される。そして、その裏側で、芸能人に日常的な自由を認めないありかたも批判されます。結婚とか恋愛とか独立とか、個人の意志を認めばいいじゃん、と、僕も基本的にはそういう立場です。「平成」の時代とともにデビューし、アイドルでありながら自由な姿を体現したSMAPは、そういう芸能と差別の問題をアップデートするような雰囲気がありました。しかし、解散騒動によって、SMAPもまた自由を奪われていた存在だったのか、という疑念もよぎります。民主主義と差別に引き裂かれるジャニーズのゆくえはいかに。これは、本書だけでは答えの出ない大きな問題です。

4、日本特殊論(日本という悪い場所)
クールジャパン華やかなりし現代、日本の独自なありかたが注目されます。アニメ、ゲーム、はたまた女性アイドル。そこでは、自立できない「萌え」な感じが面白がられます。ジャニーズの歌や踊りも、危なっかしい「萌え」な感じなのか。そこには異を唱えたいです。そもそも戦後日本の特殊性とはなにか。それは、平和憲法かもしれません。しかし、その平和憲法の裏には、自由を抑圧された天皇や、基地を置かれた沖縄があります。僕らが平和に生きる日常の裏には、差別され抑圧された芸能の存在があります。これが、戦後・日本・芸能を考えるべきポイントです。ジャニーズは、その問題にかなり強く絡んできます。

このように、ジャニーズは、近代国家として自立しているかもわからない日本をそのままの姿で照射しているようです。このことを言うには、もっともっとさまざまなことに論及しなくてはいけないので、本書では、ジャニーズの変遷を追うにとどまっていますが、潜在的にはそのようなテーマがあります。自分はよく、音楽も文芸も政治も芸能の一部だ、と言うことがありますが、それは、差別の問題をいかに考えていくか、という問題とともにあるつもりです。ご一読いただければ幸いです。

矢野利裕

toshihirock_n_roll at 15:27|PermalinkTrackBack(0)ブック | 告知

2016年08月13日

SMAPは終わらない!?――自由を取り戻すこと

8月9日に『SMAPは終わらない――国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」』(垣内出版)という書籍を上梓しました。驚くべきSMAP騒動を受けて、緊急出版的に作ったものです。形式的には初の単著ということになるのですが、半分以上が対談・鼎談であり、内容的にはムック的な性格が強いです。文化的に、音楽的に、文学的に、SMAPについて語っています。

そして、発売から4日後の今日、またしても驚くべき一報が入ってきました。――SMAP解散へ。

「SMAPは終わらない」という書籍が店に並び始めたと思ったら、グループとしてのSMAPは終わってしまうのか。正式な発表を待つほかないわけですが、いまのうちに言えることを言いたい。

グループとしてのSMAPにかけがえのなさを感じているファンのかたにとって、このような物言いが届くのかどうか、はなはだ心もとないと思いながらも、『SMAPは終わらない』のなかで僕は、次のように書いた。
中居に限らずSMAPにいま必要なものは、音楽であり歌だ。さらに言えば、踊りであり笑いだ。すなわち、あらゆる〈芸能〉の振る舞いだ。日常から解放された身体の動きだ。個人的・社会的な困難に直面したときこそ、僕たちは〈芸能〉の振る舞いを必要とする。それは、誰にとっても変わらない。「視聴者にとっても、僕にとっても」だ。だからいま、国民的アイドルであるSMAPに必要なことは、〈SMAP的身体〉を取り戻すことである。〈SMAP的身体〉を舞台のうえで披露することである。それは、グループとしてのSMAPが存続することと必ずしも同義ではないし、もちろん、形式的な謝罪を述べることではありえない。中居が、木村が、稲垣が、草が、香取が、それぞれのしかたで、自由と解放の気分を体現することである。(p.53)

その前段、『SMAP×SMAP』上での謝罪会見については、「あんな表情を見せられるくらいなら、グループとしてのSMAPの存続などなんの意味もない。いっそ解散してしまえばいい、とすら思った」(p.49)と書いた。立教大学でSMAPについての講義をしたときも、「解散したってかまわないと思っている」と言った。これは強がりではなくて、本当に解散すべきではないのか、と、迷いつつではあるが思っていた。なぜか。

本書で僕は、SMAPはジャニーズに、ひいてはアイドルに、自由と解放の気分をもたらした、ということをくり返し主張した。詳しくは読んでいただけると本当にありがたいのだけど、その自由と解放の気分を指して、本書では「SMAP的」と呼んでいる。もし本当に解散して、5人組としてのSMAPが見れなくなるのは、それはそれはさびしく悲しいことだ。僕はテレビを欠かさず観たり、毎回ライヴに行くようなタイプのファンではないけど、少なくともSMAPの新譜が聴けないと考えると、それはとてもさびしい。しかし、あの一件以降、SMAPを見たとき、「裏ではどうなっているのだろう」という勘繰りが拭いがたく存在しているのも、また事実である。それは、SMAPが体現し、僕が感じていた、自由と解放の気分とはほど遠いものだ。本書における中森明夫さんの言葉を借りれば、SMAPはすでに「象徴的」な死(p.219)を迎えてしまったのかもしれない。だとすれば、はたして僕は、「SMAP的」でないSMAPに価値を認めるべきなのだろうか。いや、たとえグループとしてのSMAPではなくとも、「SMAP的」であることに価値を見出すべきではないか。上記の引用はそういうことを問うている。加えて言えば、自由に、解放的に、みずからの夢を追った森且行は、グループとしてのSMAPを脱退したのちも、変わらず「SMAP的」なのだと言いたい。単純に、当事者の意志を無視して無理に存続させることが、他ならぬSMAPのメンバーたちにとって良いことなのかどうか、ということでもある。もちろん、本人たちの気持ちなど想像するほかないのだが。

したがって、「SMAPは終わらない」というテーゼは、グループとしての存続とは異なる水準にある。「SMAPは終わらない」は、「SMAP、解散しないで!」という他者なき願望ではない。「SMAPはどこまでも自由であれ!」というエールだ。だから、SMAPが解散するにせよ存続するにせよ、僕らが目にすべきさまざまな舞台において、自由と解放の気分が失われてしまったら、そのときこそ本当に、「SMAPは終わった」と言わなくてはならない。今年の頭から顕在化し現在にいたる一連の騒動は、はたして自由と解放に向かっていくのか。本当に「SMAPは終わらない」のか。彼らはふたたび、歌や踊りや笑いによって、自由と解放の気分を体現するのか。僕はそれを感じ取ることができるのか。本書の結論は、どんな社会的な困難に陥っても〈芸能〉はそれを乗り越えてくる――すなわち、「SMAPは終わらない」ということである。

早くも、あまりにも早くも、本書の真意が問われているようである。

toshihirock_n_roll at 22:53|PermalinkTrackBack(0)雑感 | ブック

2016年08月12日

そうか、スティーブン・スティルスか。いや、アイズレーか。

image新宿(渋谷)OTOでよくかかってたDAWNのLP(左)をやっと入手しました。すぐ見つかるだろうと思ったら、意外と時間がかかりました。DAWNと言えば、アル・クーパー「ジョリー」のカヴァーが入ったアルバムが有名で、その盤はソウルの棚でよく見かけます。一方、「幸せの黄色いリボン」のドーナツ盤はオールディーズの棚でよく見かけます。だから、このLPはどの棚を探せばいいのだろう、と(ソウルの棚にありました)。で、入手して、よくプレイされていた「Love the one you're with」のクレジットを見たらスティーブン・スティルスの名前が。ああ、そうか。どこかで聴いたことがあると思っていたけど、昔ときどき聴いていたスティーブン・スティルス1st(右)の1曲目のカヴァーか。有名な曲でした。こういう中途半端なところが自分はいかんなあ。


追記。というか、Youtubeを見ていたら、アイズレーも歌っているではないか。聴き覚えがあるのは、あきらかにこっちか。イントロ、すごく印象に残っている。


toshihirock_n_roll at 01:11|PermalinkTrackBack(0)日記的 | 音楽