2016年08月13日

SMAPは終わらない!?――自由を取り戻すこと

8月9日に『SMAPは終わらない――国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」』(垣内出版)という書籍を上梓しました。驚くべきSMAP騒動を受けて、緊急出版的に作ったものです。形式的には初の単著ということになるのですが、半分以上が対談・鼎談であり、内容的にはムック的な性格が強いです。文化的に、音楽的に、文学的に、SMAPについて語っています。

そして、発売から4日後の今日、またしても驚くべき一報が入ってきました。――SMAP解散へ。

「SMAPは終わらない」という書籍が店に並び始めたと思ったら、グループとしてのSMAPは終わってしまうのか。正式な発表を待つほかないわけですが、いまのうちに言えることを言いたい。

グループとしてのSMAPにかけがえのなさを感じているファンのかたにとって、このような物言いが届くのかどうか、はなはだ心もとないと思いながらも、『SMAPは終わらない』のなかで僕は、次のように書いた。
中居に限らずSMAPにいま必要なものは、音楽であり歌だ。さらに言えば、踊りであり笑いだ。すなわち、あらゆる〈芸能〉の振る舞いだ。日常から解放された身体の動きだ。個人的・社会的な困難に直面したときこそ、僕たちは〈芸能〉の振る舞いを必要とする。それは、誰にとっても変わらない。「視聴者にとっても、僕にとっても」だ。だからいま、国民的アイドルであるSMAPに必要なことは、〈SMAP的身体〉を取り戻すことである。〈SMAP的身体〉を舞台のうえで披露することである。それは、グループとしてのSMAPが存続することと必ずしも同義ではないし、もちろん、形式的な謝罪を述べることではありえない。中居が、木村が、稲垣が、草が、香取が、それぞれのしかたで、自由と解放の気分を体現することである。(p.53)

その前段、『SMAP×SMAP』上での謝罪会見については、「あんな表情を見せられるくらいなら、グループとしてのSMAPの存続などなんの意味もない。いっそ解散してしまえばいい、とすら思った」(p.49)と書いた。立教大学でSMAPについての講義をしたときも、「解散したってかまわないと思っている」と言った。これは強がりではなくて、本当に解散すべきではないのか、と、迷いつつではあるが思っていた。なぜか。

本書で僕は、SMAPはジャニーズに、ひいてはアイドルに、自由と解放の気分をもたらした、ということをくり返し主張した。詳しくは読んでいただけると本当にありがたいのだけど、その自由と解放の気分を指して、本書では「SMAP的」と呼んでいる。もし本当に解散して、5人組としてのSMAPが見れなくなるのは、それはそれはさびしく悲しいことだ。僕はテレビを欠かさず観たり、毎回ライヴに行くようなタイプのファンではないけど、少なくともSMAPの新譜が聴けないと考えると、それはとてもさびしい。しかし、あの一件以降、SMAPを見たとき、「裏ではどうなっているのだろう」という勘繰りが拭いがたく存在しているのも、また事実である。それは、SMAPが体現し、僕が感じていた、自由と解放の気分とはほど遠いものだ。本書における中森明夫さんの言葉を借りれば、SMAPはすでに「象徴的」な死(p.219)を迎えてしまったのかもしれない。だとすれば、はたして僕は、「SMAP的」でないSMAPに価値を認めるべきなのだろうか。いや、たとえグループとしてのSMAPではなくとも、「SMAP的」であることに価値を見出すべきではないか。上記の引用はそういうことを問うている。加えて言えば、自由に、解放的に、みずからの夢を追った森且行は、グループとしてのSMAPを脱退したのちも、変わらず「SMAP的」なのだと言いたい。単純に、当事者の意志を無視して無理に存続させることが、他ならぬSMAPのメンバーたちにとって良いことなのかどうか、ということでもある。もちろん、本人たちの気持ちなど想像するほかないのだが。

したがって、「SMAPは終わらない」というテーゼは、グループとしての存続とは異なる水準にある。「SMAPは終わらない」は、「SMAP、解散しないで!」という他者なき願望ではない。「SMAPはどこまでも自由であれ!」というエールだ。だから、SMAPが解散するにせよ存続するにせよ、僕らが目にすべきさまざまな舞台において、自由と解放の気分が失われてしまったら、そのときこそ本当に、「SMAPは終わった」と言わなくてはならない。今年の頭から顕在化し現在にいたる一連の騒動は、はたして自由と解放に向かっていくのか。本当に「SMAPは終わらない」のか。彼らはふたたび、歌や踊りや笑いによって、自由と解放の気分を体現するのか。僕はそれを感じ取ることができるのか。本書の結論は、どんな社会的な困難に陥っても〈芸能〉はそれを乗り越えてくる――すなわち、「SMAPは終わらない」ということである。

早くも、あまりにも早くも、本書の真意が問われているようである。

toshihirock_n_roll at 22:53|PermalinkTrackBack(0)雑感 | ブック

2016年08月12日

そうか、スティーブン・スティルスか。いや、アイズレーか。

image新宿(渋谷)OTOでよくかかってたDAWNのLP(左)をやっと入手しました。すぐ見つかるだろうと思ったら、意外と時間がかかりました。DAWNと言えば、アル・クーパー「ジョリー」のカヴァーが入ったアルバムが有名で、その盤はソウルの棚でよく見かけます。一方、「幸せの黄色いリボン」のドーナツ盤はオールディーズの棚でよく見かけます。だから、このLPはどの棚を探せばいいのだろう、と(ソウルの棚にありました)。で、入手して、よくプレイされていた「Love the one you're with」のクレジットを見たらスティーブン・スティルスの名前が。ああ、そうか。どこかで聴いたことがあると思っていたけど、昔ときどき聴いていたスティーブン・スティルス1st(右)の1曲目のカヴァーか。有名な曲でした。こういう中途半端なところが自分はいかんなあ。


追記。というか、Youtubeを見ていたら、アイズレーも歌っているではないか。聴き覚えがあるのは、あきらかにこっちか。イントロ、すごく印象に残っている。


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2016年08月03日

「上/下」の物語――『シン・ゴジラ』について瞬発的に考えた

singodzilla『シン・ゴジラ』を見終えてから2時間である。瞬発的にリアクションしようと思う。最初に思ったのは、自分の映画センスのなさがいよいよ露わになったな、ということで、なんというか、通常映画作品を観るときに共有すべき「期待の地平」(ヤウス)が、俺にはインプットされていないのかもしれない、と痛烈に思った。周囲の人には、自分は映画が苦手だと言い続けてきたけど、興奮すべきポイントや楽しむべきポイントが、どうもわからないのだ。「普通ならここで盛り上がるでしょう」というときの「普通」が、わかっていないような気がする。本作に対しては「ネタバレ注意」と言われていたが、未見の人にとって、なにが致命的な「ネタバレ」に該当するのかも、観たあとのいまになってなお、正直わからないでいる。常人離れを自慢しているのではないことを信じて欲しい。加えて、蓮實重彦が言うところの「動体視力」も、たぶん極めて低い。「あの場面が良かったよね」と言うときの「あの場面」が記憶にない、というのは短くない人生のなかで多く経験してきた。そんな映画オンチだけど、SNSやブログで感想戦をするのは基本的に良いことだと思っているので、自分なりに書いてみよう。上記のとおり、筆者はネタバレ最終防衛ラインが想定できないので、ここからは好きに書きます。

(庵野監督のこと、さまざまな引用とパロディが用意されているのは明らかだし、そのいくつかは僕でもわかるものがあった。しかし、解釈というのは、作家の天才が言語化以前のセンスで成してしまったことを言語というインターフェイスに変換することである。批評理論を学んでいない人とは、その点が共有できないことがある。構造主義の理解が必要である。)

『シン・ゴジラ』を鑑賞しながら、いろいろなものを思い出していたが、そのひとつに、東日本大震災を受けて書かれた奇書、中沢新一『日本の大転換』(集英社新書)がある。その名に「GOD」を含むゴジラは、神と原子力を結ぶものだからだ。神と原子力の関係について、中沢は次のように書いている。
 一神教が思考の生態圏に「外部」を持ち込んだやり方は、原子核技術が物質的現実の生態圏にほんらいそこに所属しない太陽圏の現象を持ち込んだやり方と、きわめてよく似ている。思考の型として、まったく同型である。

そういえば、ウルリッヒ・ベックが計算不可能な「リスク」の例として挙げていたものは原子力だった。これらを踏まえれば、『シン・ゴジラ』とは、自分たちの手には負えない原子力=神の領域に踏み込んでしまった人間たちの物語ということになる。したがって、『シン・ゴジラ』は「神(しん)・ゴジラ」である、という見やすい説に僕も乗る。それは、天の「下」にいるはずの人間がふてぶてしくも天の「上」を目指し、神の怒りを買った物語ということでもある。庵野監督が描いていたのは、この「上/下」という対立である。なるほど、たしかにゴジラは「上」からの爆撃には滅法強かったし、飛行する物体には容赦なく攻撃をした。人間ごときが「上」に来るな、ということだ。だとすれば、ヘリコプターに乗って「上」空に逃げた、首相その他が撃墜されてしまったのは当然である。本作において、人間の避難所としての正解は、地「下」に決まっている。

この避難場面は一方で、地位が「上」の首脳陣はヘリコプターという特権的な乗り物で逃げることができる、ということが示されている。相対的に立場が「下」の者は、渋滞覚悟で車での避難となる。しかし、結果的に撃墜されたのは「上」のほうだ。だとすれば、ここには、「上」からのトップダウン的な決定の不可能性という、組織論的な「上/下」の構図もある。矢口が『踊る大捜査線』の青島刑事のように密室的な「上」の決定を批判するのは、本作の主人公の振る舞いとしてふさわしい。人間は人間として、あくまで「下」から戦うべきだ。ここに、『シン・ゴジラ』の主題(テーマ)を見た。

なぜ、あの自衛隊の猛攻にも耐えるゴジラが、最後のほうの攻撃ではあっさりと体勢を崩すのか。物語の構造的に重要なのは、破壊力ではない。方向性である。この物語の構造においては、ゴジラに対抗できるのは「下」からの攻撃なのだ。密室的ではない、情報をオープンにした、民間も含めた「下」からの叡智こそが、ゴジラへの対抗策となるのだ。その意味で、ハイライトはやはり、みんな大好き無人在来線爆弾だろう。見たか! あの見事な「下」からの攻撃を! 民営化したJRこそが、素晴らしい一撃を喰らわすのだ! だから、「上」からの原爆などとんでもない。物語の構造的に、「上」からの攻撃が効くわけがない。もし、原爆投下が実行されたならば、さらにゴジラの怒りを買い、核分裂が起こり、ますます人間の手に負えない事態になるだけだ。あの素晴らしき無人在来線爆弾こそが、この物語におけるクリティカル・ヒット(会心の一撃/批評的な一撃)なのだ。

と書いてきたが、とは言え、「上/下」をめぐる物語は宙吊りである。「下」の重要性を言い募ったが、『シン・ゴジラ』は、基本的には『日本沈没』のような「治者」(江藤淳)による物語であり、本当の本当に「下」にいる市井の人々はほとんど描かれていない。というか、けっこう死んでいる。「下」っ端の自衛官も死んでいる。長谷川博己や竹野内豊や石原さとみは類まれなエリートであり、思いきり「上」にいる人間でもある。だとすれば、「上/下」は静的なものではないのかもしれない。もはや真の主人公となった、あの素晴らしき無人在来線爆弾に見習うべきは、「下」から「上」への運動ということか。長谷川博己と石原さとみの未来の出世を暗示させるような、ゴジラの首筋を駈け上がる、あの無人在来線爆弾の見事な飛翔。物語論的な真の正解は、「下」から「上」へ向かっていこう、という希望のありかたなのか。

あれ、しかし、話が戻ってしまった。そもそも問題の発端は、「下」にいるべき人間が「上」という神の領域に足を踏み入れてしまったことではなかったか。だとすれば、「下」から「上」へ向かおう、という選択こそがいちばんヤバいのではないか。民間企業が神の力のごとき原発を運営するように。だとすれば、凍結したゴジラはその行き過ぎた「上」昇に歯止めをかける存在ということか。整理しよう。本作が『日本のいちばん長い日』のような「上」の密室劇ではないことはたしかだ。しかし、『踊る大捜査線』のような「下」の現場主義でもない。あったのは、態度としての「下」からの「上」昇だ。しかし、「上」のほうに登ったさきには、凍結されたゴジラの顔と尾がにらみを効かせている。ならば、最後に示されたのは、神としてのゴジラを謙虚に見据えた「下」からの「上」昇である。ラストのカメラワークのような、「下」からの「上」昇というメッセージがなにを意味しているのか。暫定的には、「下」の声をしっかりと吸い上げる、理解がありおごりのない「上」のありかたのすすめである。うむ、普通だ。しかし、その普通の責任ある大人たちが、普通に人間臭く頑張った映画だったことはたしかだ。いまの時代には、それは好感が持てるものなのだろうとは思う。

まだ、いろいろ論点があるだろう。もう少し、意見交換と考察が必要だな。

toshihirock_n_roll at 01:32|PermalinkTrackBack(0)雑感 | 映画

2016年08月02日

都知事選を終えて

昨日は投票後に仕事。夜に終わり、その後、少し酒の席へ。都知事選は「どうしても投票先がない」という意志を反映させた。個人的には、民進党結成以前から、シングルイシューで野党共闘すべし、と考えていたので、だとすれば、投票先は鳥越俊太郎ということになろう。しかし、それがどうしてもできなかった。宇都宮健児を不当に(と思っている)降ろした、という経緯があるからだ。さらに、鳥越を支持しなかった宇都宮に対する、反安倍勢力によるバッシングを見たからだ。基本的に宇都宮を応援しているが、別に宇都宮が攻撃されたこと自体が問題なわけではない。

スガ秀実がかつて、華青闘告発をマイノリティ・ポリティクスの嚆矢と位置付けていた。他方、野間易通は以前、華青闘告発のようなものが運動の足を引っ張る、みたいなことをツイッターで言っていた。(単純化して言うが)「当事者性」という名の細かい差異に配慮しすぎることで運動が停滞する、ということだ。東浩紀による「無限に祈る」批判ではないが、ロマンティックに〈他者〉を言いの募ることによって制度設計なり運動なりが行き詰っているのではないか、という予感は僕自身も抱いていた。それはかえって、マイノリティに対してなんの力にもなっていないのではないか、と。だから、ある種の単純化をともなった、反原発以降の動員的性格の強い運動に対しては、かなりの葛藤や複雑な気持ちを抱えつつも、どこかクレバーさを感じているところもあった。しばき隊もカウンターも野党共闘の立場も、そうした点において共感・感心するところがあった。

しかし、最近はさすがに疑問である。戦略的に細かい差異を消去していたはずの動員において、見事に、細かい差異に起因する内ゲバが生まれている。「わたしたち」の動員に乗らない対象に対して、かなりベタに暴力を働いている。リンチ事件はもちろん、宇都宮降ろしのさいも脅迫まがいのことがおこなわれたという話がある。細かい差異を消去して連帯していたはずが、それ以上に細かい差異から排他的になっている。鳥越支援のために宇都宮バッシングが起こるとは、完全に迷走している。なんだろう、このねじれた暴力性は。連合赤軍事件のベタな反復なのか。それとも、なにか新しい局面なのか。いずれにせよ、野党連合の鳥越に投票すると、この暴力的な動員を認めてしまうように思えた。

動員の怖さみたいなことはよく言われる。そのために、物事を批判/批評的に見ましょう、と。しかし、この件については逆で、批判/批評的なまなざしこそがベタな暴力を生んでいるように感じる。みずからの暴力性が省みられる気配がないという点で、とてもおそろしい。これが、大澤真幸の言うアイロニカルな没入というやつなのだろうか。あるいは、北田暁大の言うネタのベタ化というやつなのだろうか。少し異なるようにも思う。とは言え、運動がはらむ暴力性については、平野謙による女房論のころからくり返し指摘されてきたことでもある。いったい現在とは、どういう時代なのだろう。大局的な政治思想史のなかから見るべきなのだろう。というか、だからこそ、そういう本が多く出ているのだろう。

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2016年07月20日

ご活躍を祈ります。



母校の軽音部のバンドとのこと。なんか賞を獲ったらしい。同時代のモードもしっかり意識していて、それなりに作り込んでいて良いではないか。天才性が爆発している表現も良いけど、こうやって、かちっとした方法論でコンスタントに80点を出せる人は好感持ちます。80点で終わってばかりでもしょうがないけど、そういう人はまれに魔法のような傑作を連発することがあるし、そういう表現は知性と身体性の両方を活性化させるので。

toshihirock_n_roll at 20:00|PermalinkTrackBack(0)音楽 | 雑感

2016年07月05日

どぜう

病院に父を見舞いに行ったあと、浅草に行き、駒形どぜう。もはや毎年恒例になりつつあり、楽しみな日である。しかし、どぜうを喰うときいつも、俺が唯一飼っていた生き物はどぜうだったな、という気分になる。というか、そのことを、ほとんど唯一その日にだけ思い出す。しかし、そもそも、なぜ飼っていたのか。父に訊いたら、人からもらったんじゃないか、と。誰からもらったのだろう。縁側で飼われていたどぜうよ。

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2016年07月04日

10th anniversary of culture club

仕事を通じて仲良くなった批評家のかたが、自主ゼミに来てくれました。そのかたの評論をもとにみなで議論し、その後の打ち上げまで含め、とても充実した時間でした。文学と教育だけを学んでいるのでは足りないのではないか、という問題意識のもと、現代文化研究会が発足したのは10年まえ。その後、人も形態もゆるやかに移り変わりながら、基本的には週1の勉強会を核に活動を続けてきました(俺は二度ほど解散を提案したが)。文学フリマのあれこれ、若手論壇ブームをなんとなく脇目に眺めながら、影響されたりされなかったりする距離感が、自分としては良かったです。そういうつもりではなかったけど、10thアニバーサリーみたいで感慨深かったです。

辛うじてながら持続できているのは、なにより大学というお膳立てされた場があって、その場で定期的に集まることが可能だからに他なりません。『F』というゼミ誌で文学フリマに参加したのも、第一義的には活動報告で、まあせっかくなら外に向けて売ろう、というノリだった記憶があります。しかし結果的に、ゼロアカを頂点とする文学フリマ隆盛期と重なりました。いまは文学フリマを意識しすぎた『F』が特集主義になり、その特集のために各人が日々のゼミ活動を逆算するようになっています。ムチャぶりによる知識獲得という意味で、ゼミ員(自分も含め)に原稿を振っていくのは良いのですが、日々のゼミ活動にそれが侵食されていくと、本来の活動意義からは乖離するでしょう。こういうことも、ときどきゼミ内で話題になりますが、ゼミのありかたや『F』のありかたは、10thアニバーサリーを機に考えるべきだと思います。これも折に触れ言っていますが、まあ正直、いままでのように『F』を維持するのはきついのではないか。とは言え、本当に小さな勉強会の時代であるのならば、やはり、場所自体の維持は死守すべきかもしれません。

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2016年07月01日

観察者の痛みはどこにあるのか――『FAKE』を観て

T01a_169961森達也監督の話題作『FAKE』を渋谷ユーロスペースで観た。佐村河内守のドキュメンタリーである。詳しい評判をウォッチしているわけではないが、『東京ポッド許可局』の「“FAKE”論」が素晴らしかった。一方的な盲信に疑問を投げかけるような森達也のスタンスについては、いくつかの著作などで知っていたけど、それをプロレスファンの目線から、「マイノリティの立場」として捉えるプチ鹿島さんの感想が示唆に富んでいた。あるいは、『FAKE』における佐村河内を生き物として捉え、それが全編にわたって映される気ままな猫と重なる、としたマキタさんの解釈も見事だった。タツオさんも含め、ときどき発揮される許可局の、あの(反)知性はなんなのだろう。本当に刺激的である。

さて、そんな『FAKE』。基本的には楽しめたし、退屈もしなかったし、悪い映画ではなかったと思う。しかし、観ているあいだずっと気になることがあった。なにかと言えば、俺の隣に座っていた若い男性客のことだ。この人、上映中、なにげないカットの切り替えとか間(ま)に感心しながら、いちいち唸ったりしているのだ。果ては、「上手いなあ、相変わらず」だって。実際に声に出してやがるの。俺はこいつのリアクションがいちいち気になって、どうも映画に没入することができなかった。「なんだ、映画とは関係ないことじゃないか」と思うかもしれないけど、もしかしたら、これこそが本質かもしれない気がするのだ。俺は森作品はまったく観ていなくて、著作を数冊(『ドキュメンタリーは嘘をつく』『職業欄はエスパー』とあと忘れたけどなにか)読んだ程度の者で、そういう意味では感想を書く資格などないのかもしれない(「感想を書く資格」ってなんだバカヤロウ! 誰にだって「感想を書く資格」があるに決まっているだろう!)。しかし、だからこそ、この男性客のことが気になったのかもしれない。

『FAKE』では、佐村河内が豆乳を飲みまくる場面と「トルコ行進曲」を頬で奏でる場面が、滑稽でおかしい。思わずクスっとなる。この場面になったとき、隣の男性客を筆頭に、客は「待ってました!」的な感じでドっとウケていた。僕が気になるのは、この「「待ってました!」的な感じ」だ。「的な感じ」なので、これ自体が見当はずれな可能性もある。いや、もちろん、クスっとする場面であることは理解できるのだが、どうもみんな、過剰に笑っているような印象を受けた。

自分の理解するところでは、森達也のドキュメンタリーにおける態度の前提は、純客観的な視点などありえない、ということだ。客観的な視点などありえないのだから、それなりにコミットすることもあるし、物語に仕立てる可能性もある。中立であるかのように装って作為的になるのではなく、そもそも作為的であることを引き受けよう、という態度。そこにこそ、森の誠実さがある。そこでは、ある見方を純客観的なものとして盲信することの危うさを問うている。『FAKE』に関しては、佐村河内が一方的に悪者になっている風潮に対して、佐村河内側からカメラを入れて、〈佐村河内=悪/新垣隆=善〉という僕らが抱いている〈真実〉らしきものを相対化する。実際俺は、佐村河内のイメージがかなり変わった。『FAKE』においてはまず、マスコミを通して形成されたイメージを相対化することが目指されている。

しかし、森の本領はその先にある。それは、森が、とは言え佐村河内に対しても、疑いの視線を向け続けるということだ。プチ鹿島さんも指摘していたように、佐村河内に感情移入しきる直前、外国人ジャーナリストの存在が、その感情移入を阻む構成になっている。ようするに、どちらかが良いとか悪いとか、そういう単純な二項対立に押し込むことを許さないのが、森の態度ということである。したがって、佐村河内に対してだって、嫌味な視線をしのばせることになる。豆乳や「トルコ行進曲」の場面は、そのひとつのあらわれだ。ということで、『FAKE』という、そのタイトル自体にメタメッセージを含んでいるような作品は、「佐村河内の真実を描くことを装いつつ佐村河内に批判を向ける」という構造を獲得する。ごく一般的な解釈だと思うけど、どうか。しかし、厄介なのは、「佐村河内の真実を描くことを装いつつ」の部分が抜け落ちて、というか、この部分が変な免罪符として機能して、結局のところ「佐村河内に批判を向ける」の部分が純粋に強化されている、と思えることだ。

つまり、俺が映画を観ながらずっと感じていたのは、結局『FAKE』という作品が、単に「佐村河内を(嘲)笑う」作品に堕しているのではないか、ということだ。いや、人それぞれ感じかたに違いはあるだろう。では、誰にとって? 森および森ファンの観客にとって、である。豆乳の場面、「トルコ行進曲」の場面、巧妙なカットの切り替え、間(ま)の使い方に対して、森の視線と同化し、「待ってました!」と言わんばかりに(嘲)笑ってみせる解釈共同体は、「誠実な作為」という安心な場所から、思いきり佐村河内を(嘲)笑っていたように思えた。この気持ち悪さ。俺の隣の男性客を筆頭に、映画館には、この気持ち悪さが充満していた。言わなくない? 普通。「相変わらず上手いなあ」って声に出して、言わなくない? でも、森の「誠実な作為」に同化する観客は言うんだよ。このぬるい空気。森は作品中、「もし、自分が佐村河内さんを信じているフリをしているとしたら?」と、佐村河内本人に問いかける。『東京ポッド許可局』でも触れていたが、この言葉は作品の中心にあるだろう。「信じていないかもしれない」を表に出すことは本当に誠実なのだろうか。チャーリーこと社会学者の鈴木謙介さんはかつて、「「私を信じるな」という私の言葉を信じろ」というダブルバインドのメッセージが、本来の意図と逆効果になるのは、後半部分が強調されるからなんですよ」と言っていた(『文化系トークラジオLifeのやり方』TBSサーヴィス)。だから、俺はむしろ、「森よ、信じてみろよ」と思う。徹底的に信じて描ききれよ、と。そのほうがむしろ、誠実な態度だと思う。だから、「信じているフリをしているとしたら?」なんて言葉は要らないんだよ。ただ、もしかしたらこれは、時代のモードの違いかもしれない。角度を変えたら物の見えかたが変わる、なんてことは、この21世紀、もはや日常的な事態なのだ。

そもそも、純客観的で中立な視点などありえない、とはどういうことか。それは、観察者と観察対象が相互的に巻き込み/巻き込まれ合ってしまう、ということだ。しかし、森は『FAKE』という作品に巻き込まれているのだろうか。俺はけっこう素直に、佐村河内の痛みと悲しみを感じたところがある。素朴過ぎるのかもしれない。だが、観察者としての森の痛みはどこにあっただろうか。マキタさんの言うとおり、佐村河内が猫だとすれば、森は安全な飼い主ということか。いや、もちろん撮影に関して、森はさまざまな苦労をしているのはたしかだろう。授賞式での振る舞いも強烈だった。しかし、真の意味で、観察対象から逆襲されるような、飼い猫に手を噛まれるような、客観的ではありえない、ドキュメンタリーの表現者としての痛みや悲しみが、あの映画にはあっただろうか。否応ない巻き込まれが。残念ながら僕には感じられなかった。感じたのは、「相変わらず上手いなあ」などとわけ知り顔で頷き合うような、ぬるい空気であった。同一の解釈共同体に支えられていることを自明視した、弛緩した雰囲気であった。客観的な視点などありえない、と言い放つ瞬間がいちばん危ういのかもしれない。以前から森的な物言いに引っかかることがあったのはたしかだ。少なくとも『FAKE』に関しては、カメラを向けて切り取ることの暴力性が、真に自覚されているとは思えなかった。森は痛みを回避しているのではないか、と思ってしまった。

【追記】
杉田俊介さんの『FAKE』感想を聞いて(Twitterにも書いていますね)、少し印象が変わった。自分と杉田さんが共通しているのは、あの映画の主題を、森達也が人を信じられるか、という点に置いたところだと思います。この点について、僕が「森は信じるという行為に向き合っていないではないか」と評価しているのに対し、杉田さんは、「森がやっと信じることができた」と評価している。杉田さんの評価はこれまでの森の歩みを踏まえてのことで、その意味で説得力がありました。ただ、だとすれば、やはり「信じているフリだとしたら?」なんていう保険は要らなかったはずで、「信じていなければ撮れませんよ」という言葉のほうを貫き通すべきだったんだ。それで、その信じたものが撮りきれないという点に、ドキュメンタリーは中立ではありえない、という命題がかすかに見いだされたかもしれなかったのだ。ドキュメンタリーは中立ではない、という態度はそういうかたちで追求されるべきだと思う。「信じたことについては自己責任」と言う佐村河内が体現したもの(佐村河内の言葉の真偽ではなく、体現したものという水準)に対して、森の示したものは不十分だと感じる。

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2016年06月23日

ほんの少しだけアイヌに触れて

職場でアイヌ民族の方々による歌と踊り。知識では知ったつもりでいたが、実際にアイヌ語を聴いたのは初めてだし、振る舞いや所作も初めて観た。近代以前の「本州アイヌ」の存在も知らなかった。感銘を受けたのは、さらっと出た「アイヌは物語の民族です。文字を持ちません」という言葉。だからこうして、歌を歌いに、踊りを踊りに、東京の西のほうまでやってくるのだ。〈伝承〉というありかたも知っていたつもりだったが、いままさに〈伝承〉のまっただなかなのだな、と生々しく感じた。知識だけではなく身体が関わってこそ知れるなにかがあるのだろう。と思いつつ、「失われつつあったアイヌの民謡がまた広がったのには楽譜の存在が大きかった」という言葉にもまた、感銘を受ける。こちらは記号化して残すことの重要性を言っているように思えた。最後のほうには「新しい文化に合わせていくことも悪いことではないかもしれませんね」と言っていた。現代においてアイヌ人を生きるとはどういうことなのだろう。

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2016年06月22日

『ミュージックマガジン』特集「90年代の邦楽アルバム・ベスト100」に参加しました!

今月の『ミュージックマガジン』の特集「90年代の邦楽アルバム・ベスト100」に参加しました。ネタバレと言うほどでもないけど、1位は小沢健二『LIFE』で、俺は『LIFE』を1位に推した、意外にも数少ないひとりだったので、結果、1位『LIFE』のレヴューを書いています。書いているときに、勝手に90年代の邦楽をひとりで背負った気分になって、妙に肩が凝りました。他にも知人がちらほら。各人のベスト20も載っていて、それを眺めるだけでも面白いです。自分の場合は、かっちりと。坑闇代という時代感、後代への影響、8朕妖な好み、という自分内基準を設けてセレクトしたので、美人投票的な側面もあります。個人的には90年代というのは、渋谷系、ヒップホップ/R&B、オルタナ(ノイズ/アヴァンギャルド含む)、喫茶ロック、という印象です。他の人と比べて、テクノ成分(ケンイシイ、電気グルーヴ)がないのは自覚していたが、エレクトロニカや音響派前夜(コーネリアス、竹村延和『子どもと魔法』。竹村はむしろ、『Child's View』を選んだ)という感覚もないことがはっきりした気がします。あと、「90年代の音楽」と言われれば小室哲哉のことも言及するかもしれないが、アルバム単位となると小室ファミリーはやはりきつい。「アルバム」という単位も自明でないな、と、これは理屈では認識していましたが、なんかあらためて実感した感じです。よろしければ! あ、そういえば前号のプリンス特集号では、うしろのほうでブランドン・コールマンのライブレポートを書いています。

ミュージックマガジン 2016年 07 月号
ミュージックマガジン
2016-06-20

ミュージックマガジン 2016年 06 月号
ミュージックマガジン
2016-05-20





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