2008年12月

2008年12月21日

もう学校には行かない!

bd5611cd.jpg町田康と言えば、小説デビュー作「くっすん大黒」と芥川賞の「きれぎれ」が初期の代表作で、あとは時代小説の『パンク侍、斬られて候』と大長編の『告白』、近刊として『宿屋めぐり』あたりが話題になっていると思うのですが、僕は個人的に「夫婦茶碗」が好きでした。「頭に浮かんだことを次々と語る」という高見順以来の饒舌体の性格によって現実と妄想は不明瞭になり、読者のとまどいを誘う。その読者のとまどいは作中の童話「小熊のゾルバ」によってメタ化されるという構造がよくできているな、と(そんなこと読んでるときは考えていませんでしたが)。

このことは修論の第一部・第二章「可視化されるメタ構造――「夫婦茶碗」論」で書いたのですが、さっき書き終えたのが「きれぎれ」論。「きれぎれ」は、その度を超えた支離滅裂感にあまり好感を持てなかったのですが、結局50枚くらいに及んだ「きれぎれ」論を書きながら、なんか勝手に感動してしまいました。「良い話だなあ、すごい良い話だなあ」って。おそらく、論文としては直さなくてはならないことも多いとは思うのですが、脳が変性意識状態に入ってとても気持ち良かったです。

何に感動したって、やはり最後の場面。いままでずっと自分の妄想的な視線でしか語らなかった主人公が、「あすこには(…)言葉がある。(…)行こう。人間の世界へ。」という言葉を契機として、自分とは違う〈他者〉の存在を自覚して現実の世界を語るようになるのですが、主人公の最後の言葉が泣ける。

でも外見上、おれは、うまく歩いてる。おれは外見上は普通に歩けているように見えているのだ。

主人公のこの言葉には、〈他者〉の視線の先に「自分」ではどうにもならない「自分」が存在しているということの自覚と強い肯定があらわれているのです。泣ける。人生的に泣ける。「人生が一回しかないことへの覚悟と諦めと肯定」です。つまり、愛です。ねえ、あずまん。

そして、物語を結ぶその次の一文がさらに感動的。こういう一文の有無が、名作と凡作をわかつのだろうな。

再度、飛行機が空を引き裂いた。穴の手前で振り返ると、青空。きれぎれになって腐敗していて。

主人公がどうしても絵に描けなかった「青空」と「飛行機」が、ふいに彼の上に広がるのだ。〈他者〉を自覚し肯定することではじめて語り得た景色が、まさに、自分がずっと描こうと思って描けなかった景色だったなんて、こんな感動的なラストありますか!ありますまい!実によくできている。表紙も青空を基調にして飛行機が飛んでいます。

もちろんこれ自体が矢野の解釈でしかないのだけど、このように捉えると本当に感動的でドラマティック。僕の町田康論は、基本的に、語りのダイナミズムとか読後感とかにはいっさい触れていないので、「俺/私が感じた、あの印象についてなにも説明されていない!」と批判されればそれまでなのですが、そのかわり、印象からはこぼれ落ちるものが記述できていると信じています(いや、正直、半信半疑ですが)。よく「(小説に限らず)作品を研究することになんの意味があるの?」と聞かれたり自問自答したりしますが、いま感じている!この感動は!研究して考え抜いた先にしか味わえない感動です。たんなる鑑賞の向こう側にある、この感動を求めて、何かについて考察がとまらないというのは、その問いに対する一つの答えです。昨今の批評ブーム(?)も、そうした魅力にとりつかれた方々が支えているものでしょう。とても健全で良いことだと思います。もちろん、そのたぐいの感動に意味を感じないと言われればそれまでですが。泣ける映画でも見てろ、馬鹿!

本当に、論文としてどのくらいのクオリティかはまだ冷静に判断できかねますが(まあ、低いかもしれません)、「きれぎれ」の深い感動を求める方はぜひ拙稿「〈他者性〉の自覚と肯定――「きれぎれ」論」をお読みください。

それにしても修論は本当に終わるのだろうか。エクスポ・ナイトまでに終わらせるという当初の予定はかなり現実的に厳しいと思うので、まあ、第二部は終わらせることを目標に。ただ、「きれぎれ」で50枚も書いちゃって、おそろしく分厚い『告白』は何枚になるのだろう。さらに、昭和初期の作品を見渡す第三部はもはや何枚になるのだろう。70年代から現代までの作品を見渡す第四部はいったい…。ああ、困った困った、困りました。しかし、修論というのは単体の完成度ではなくて、次につながる可能性を盛り込むことが大事という暗黙知があって(たぶん)、僕の意欲こそが!そこにみなぎれば!ハッピーな修論になるはずなんです。でもって、僕はそういう感じが意外に得意。卒論もDJもサッカーも、僕は「意欲的ですね」と言われ続けてきたのだ!だから大丈夫。なんの問題もない。

ところで修論を書いてて思うのは、僕は意外とカラタニストだなということで、まあ、とは言っても、『批評空間』も読んだことないので全然底は浅いのですが、論文全体の視点があきらかに『日本近代文学の起源』です。〈他者性〉の話は、あきらかに「他者とはなにか」(『探究』)だし。こういうの本当はもう時代遅れっぽいし、語り口変えたい気はとてもするし、してるつもりなんですけどね。ただ『日本近代文学の起源』は、やはりすごく衝撃的だったことを覚えていて、とは言ってもいつ読んだのかはよく覚えていないのですが、良かったページを折っている(生徒が教えてくれましたが、本のページを折るのは犬の耳に似てることからドッグイヤーって言うそうですよ。それ本当?)ことを考えるとそんなに昔でもない気もするのですが…。フーコーとか『動物化するポストモダン』とか、それこそ町田康はいつ好きになったとか、そのへんの前後関係がまったくよくわかりません。こんなことを考えると、そもそも大学時代にそんなに本を読んだ覚えがないといういつもの結論にたどりついてしまうのですが。

でも外見上、おれは、うまく勉強してる。おれは外見上は普通に勉強しているように見えているのだ。

南無三。

toshihirock_n_roll at 06:22|Permalink 雑感