2009年04月

2009年04月14日

ヒップホップの憂鬱/興奮

56b98858.jpgようやっと今週から新学期が始まるのですが、今年度はふたつの高校の非常勤をかけもちで、新しい勤務先はもちろん右も左もわからぬ感じで不安がいっぱいなのですが、前年度からの勤務先、2年目の3年選択「現代文講読」は、とりあえず最初の授業で話したいことはどんどん湧いてくるのでいまのところ楽観的に素朴に楽しみです。ただ、あしたから始まるもうひとつの方の授業は、はじめてなのでそれは不安だったりします。去年、そして今年から、僕の同級生たちも続々と社会の荒波に放り出されているのですが、なんだかんだとみな立派な方たちなので、精一杯がんばっていると思います。

このあいだの記事でも書いたように、先日まで90年代の日本のポピュラー音楽に関する論文を書いていて、その関連で、コラムの連載をまとめた小室哲哉『告白は踊る』(角川書店)を読んでいたのですが、けっこうおもしろかったです。とくに、「テクノから感じたのは、巨大なスタジアムに数万人を集め、シャウトし、ギターを掻き鳴らして、ステージ中を走り回るような劣等感。と同時に、自分ではとてもあんなことはできないが、シンセサイザーを使えば、そのパワーやスピード感を再現できるといった思いも感じたのだ」(「世紀末の音」)という発言。これを読んで、誰もが(?)思いつくだろうエピソードは、パブリック・エナミーのようにマッチョになれなかった日本人(に限らず非マッチョな人全般)が、デ・ラ・ソウルを聴いて勇気をもらったというもの。このことは、ライムスターの宇多丸師匠がくりかえし言ってるし、いとうせいこうだか高木完だかもどこかで同様のことを言っていたような気がします。なにより、僕自身、デ・ラ・ソウルに、そしてデ・ラ・ソウルが影響を与えたライムスターやスチャダラパーには、まったく同じ文脈で勇気というか、こう「このテがあったか!」感を強く覚えているので、そんな思い入れも込みで、さきほどの小室の引用にはヒップホップ的なすがすがしさを感じます。

ヒップホップのすがすがしさと言えば、やはり、この〈読み換え〉に尽きると思う。作成者の意図をトップダウン的に受容するのではなくて、ボトムアップとして、新しい文脈で再構築する行為。そこの〈読み換え〉行為が、痛快でありすがすがしい。個人的な見解としては、DJのスクラッチングもミックスもラッピングもブレイキングもグラフィティも、すべて広義の〈読み換え〉に当てはまります。だから、僕のヒップホップ観が唯一譲れないのは、〈読み換え〉を許容する態度です。これは、本学でもある文学研究にも完全に通じます。テクスト論というかなりアナーキーな立場があって、実際、テクスト論が隆盛していたとき、作品解釈はかなりアナーキー(無政府)状態になっていましたが、ヒップホップが好きな僕としては、どこかそういうふるまいに惹かれているような気がします。ただし、もちろん、これは、実証研究と並行してやらなければいけないし、研究場の約束事を考えればアナーキー状態は端的に駄目なのでしょうが、まあ、個人的に小説を読むかぎりにおいては、各人が自分の経験とか想像力からいろんなものをつなぎあわせて、世界のゆるやかなつながりに興奮するという態度が好きです。

少し話がずれましたが、ヒップホップの〈読み換え〉を尊重する立場としては、いわゆる(?)ゲットー・マインド原理主義というのはもう許し難いわけです。やれ「日本人はリアルじゃない」だ、「日本にストリートはない」だ、お前らは〈読み換え〉を否定するのか!と。まあ、さすがに2009年現在、「日本にリアルなヒップホップは存在しない」的言説は少なくなってきてるのでしょうが、〈読み換え〉に関しては圧倒的に自由であるべきだという気が、いまはします。そのなかで時代性や強度をもった表現は残っていくだろうし、そうでないものはきっと淘汰されるんではないか。最近、いまのDJはディグが甘くてけしからん!みたいな声をよく聴くし、僕も感情的な部分ではそう思ってしまいますが(かと言って、僕も全然ディグは甘いのでうすが)、やはり、そこは否定してはいけないのではないかと。もちろん、豊富な知識と音源をもつ人は素晴らしいと思うけど、知識が多いほうが偉いというのは、やはりただの権威主義に過ぎなくて、〈読み換え〉精神に反すると思います。その点、小室は、天然ながらもやはり良いこと言っていて、彼は、日本語ロックとしてのキャロルやはっぴいえんどを例に挙げながら、日本のヒップホップについて、「雑種文化」だからこその「新しい芽ばえや息吹」を感じ、しかもそれを「カッチョヨク」することを「課題」だとしている。つまり、日本のヒップホップがだめだとか、本国に近づけろとか、そういうことではなくて、「雑種」性を出発点にしたうえで表現としての強度を高めろということである。連載がだいたい94年とかだから、当時としてはけっこう批評性があったのではないでしょうか。ただし、本文をすべて読むと、小室は絶対そういう文脈では言ってないと思われます。とは言え、あの間テクスト性を感じさせないTKサウンドの「雑種」性は唯一無二であるから、全然あなどれません。

今日、イアン・コンドリー『日本のヒップホップ――文化グローバリゼーションの〈現場〉』(NTT出版)を買って、読みはじめました。原題の『ヒップホップ・ジャパン』の方が良かったけど、陣野俊史の同名書があるから変わったんでしょうか。まだ途中ですが、本書では、イアンの熱心なフィールドワークによって、個別の〈読み換え〉行為がレポートされています。この本の本領は、おそらく、こうした個別のヒップホップの〈読み換え〉考察を通じて、ボトムアップされていくJヒップホップ文化を記述している点であり、そのイアンの方法論はある意味、ヒップホップ的としか言いようがないものです。そう考えると、僕のいかにもな「ヒップホップ試論」(『F』)は、完全にトップダウン的です。イメージがわかない方は、ぜひ読み比べてみてください。この個別具体的な事例から見えてくる普遍性というか物語みたいなことというのは、おそらく重要です。「ローカルでありグローバル」という、本書におけるイアンの中心的な問題意識を、ちゃんと念頭に置いておきたいと思います。

toshihirock_n_roll at 03:43|Permalink 雑感 

2009年04月10日

岡田利規の集合的世界が(やっぱ)すごい

888acfb3.jpg周囲の人には以前から何度も言っているかもしれませんが、岡田利規「三月の5日間」(小説のほう)は、僕にとってひさしぶりに大きな感動を与えてくれた小説でした。『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社)で読んで、「わたしたちの複数」もかなりすごいと思ったのですが、個人的には、「三月の5日間」のほうが好きです。それで、どういうふうに感動したかは次の『F』の岡田利規論を読んでいただきたいのですが(まあ、まだ書いていないのでどうなるかわかりませんが)、作品のなかにはこういう表現があります。

これは何々の音だとそれだけを取り出してきて特定するようなことはできない雑多な音の集積ができていた。

映画館にでも行って、スクリーンの目の前に立てばわかるのですが、僕らが観てる画面は、細かい光の明滅の集合に過ぎません。だけど、それを観客席から観るとちゃんと画面としてじっさいの世界のように認識できます。テクストもインクの集積に過ぎない。だけど、僕らは小説に物語を読む。そういえば僕は、高校の修学旅行での函館の夜景の感想文に、「望遠鏡で見ると、ひとつひとつはセブンイレブンの看板とかだったのが不思議だった」と書いていました。それで、街中で聞こえる音も、ひとつひとつは、それぞれ個別の音なんだけど、実際に聴くのは「音の集積」で、それらは「これは何々の音」だと個別性に還元して認識しているわけではありません。この個別性に還元できない集合的な当事者性を見事に描いているのが岡田利規である、というのが、僕の論の骨格になる予定です。その語り方には、すごく感銘を受けました。

近代文学の一人称/三人称の関係は、基本的に、当事者性/関係性という形に変換できます。『浮雲』において、関係性を描くために人称の揺れが生じたように、『吾輩は猫である』において、当事者性と関係性を両立させるために「読心術を使う猫」という特異な語り手が登場したように、当事者性/関係性という枠組みが、近代の小説の一人称/三人称の基本的なありかたを規定しました。岡田利規の集合的な語りは、この規定をあっさり飛び越えているような気がします。一人称の語りとは、「雑多な音の集積」を個別性に還元することに他ならない。かと言って、三人称という俯瞰視点でもない当事者性も存在する。適当ですが。

牧野信一という大正〜昭和の作家がいますが、その人の「西瓜喰ふ人」という作品があります。この作品は、私小説家・瀧をこっそり観察するBという男の観察日記を瀧が書き写すという超メタメタな構造を持っているのですが、そのラストというのが、唐突に映画(活動写真)の話で、思えば活動写真とは「煙草を吸う人」とか「笛を吹く人」とか、筋も意味もない写真の標本みたいなものだ、みたいなことが語られます。「飛んでいる矢は動いているか」という有名な命題がありますが、また、ベンヤミンの「視覚的無意識」とかっていう概念もありますが、さまざまな現象を差異と反復に微分にすればするほど、現実感を離れていくということがあります。こういう考えをし始めると、個別の出来事から積み重なる物語っていったい何なのか、そんなもんあるのか、あるとすればそれはどういう視点が必要なのか、そもそも視点という主語的統合の考え方が限界なんじゃないのか、というか、濱野智史によれば、グーグルとかニコニコ動画とかってそういう物語的な視点をとっくに超えちゃってるし、そう考えると岡田利規の語りってやっぱすぐれて現代的なんじゃないか、とかいろいろな疑問と心地良いテンションヌが沸いてきます。良いものが書ければよいけど。

ちなみに、今日までJポップ論書いていました。『バスト・ウエスト・ヒップ』におけるブルーハーツの転向と、Jポップの関係についてというのがメインですが、そのほかにも小室、モ娘。、浜崎などにも触れています。そう考えると、僕のJポップイメージって、とことんミスチルとかスピッツがいないなあ。興味があれば、文学フリマで雑誌『POST』!創刊号!買ってください。あと『F』も。在庫たまってます。

toshihirock_n_roll at 03:17|Permalink 雑感