2009年08月

2009年08月30日

「もうウンザリ」

4308c559.jpg高円寺の阿波踊りに行きましたが、毎年、規模が大きくなっている気がしました。やはり、大人数の揃った動きには感動してしまいます。珍屋は、中古全品半額セール(行くべき!)だったので、殺害塩化ビニール系他、ふだんあまり聴かないような、露悪的なパンクやハードコアを買いました。最近、これまで全然通ってこなかった、ハードコアや90年代オルタナを聴き始めています。くわしい人、教えてください。ちなみに、殺害塩化ビニールのリミックスアルバムで、いつもDJご一緒しているはせはじむさんが、マダムBBQのリミックスをしていました。未聴。

夏(休み)も終わりです。6時間後にはテストがあります。その24時間後には、授業が始まります。気持ちを前向きにもたなければいけません。長い通勤時間を、じわじわきつく感じるようになってきました。

ということで、もう一度、自分の生活訓を確認しよう。

1、原則として、睡眠には妥協しない。
2、起きているかぎりは、精一杯がんばる。

選挙です。繊細な議論はいろいろあると思いますが、僕個人としては、ベーシック・インカムの導入を切に願います。想像するだけで、人生が希望で溢れかえる。



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2009年08月19日

ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力や、いかに

a58a5162.jpgおそらく宇野的な立場からすれば、福満や峯田のような「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」は、「酸っぱい葡萄」に手を伸ばそうと思い始める、その通過点としてしか意味をなさないだろう。たしかに『僕の小規模な失敗』の物語はプロットだけ見ると、最後には結婚して「小さな成熟」を果たしたかのようにも見える。しかし、実際には「僕」は最後までなにも成長しておらず、続編にあたる『僕の小規模な生活』では、あいかわらず「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」と「童貞」的感性を抱えたまま結婚生活を送っている。つまり福満の作品では、「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」は「いつか脱するべきもの」として描かれているわけではない。主人公の意識レヴェルでは「いつか脱するべきもの」としてもとれなくはないが、そう思いながらもいっこうに「脱する」気配のない主人公の行動と物語の構造は、あくまで「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」それ自体を中心的な主題として扱っている。峯田に関して言えば、それはさらにはっきりしていて、銀杏BOYZの楽曲や峯田のブログは、「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」を「脱して」しまったら表現の根本意義を失ってしまうだろう。そこには――葛藤はあるにせよ――「手を伸ばせ」という宇野的なマッチョなメッセージ性はない。福満や峯田を支持する層は、この「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」の態度に共感し、ある種の〈癒し〉を感じたと思われるが、同時にこれらの表現は「恋愛資本主義」ゲームとは違ったオルタナティヴな価値観を示しているとも言える。このオルタナティヴな価値観について、もう少し考えてみたい。

『恋と退屈』の中でも、峯田がくりかえし名前を出す存在としてみうらじゅんがいる。峯田は、みうらにたびたび敬意を示し、

もしも、尊敬しているミュージシャンは誰かと聞かれたら僕は躊躇なく、「みうらじゅんさんです」って答えるだろうな。
ボブ・ディランをこよなく愛し、憧れ、ゆえに苦悩する。自分がその時その時に思ったことを正直に歌にする。
音楽家だな、と思う。誰でもできそうで、実は誰にも真似できない。それぞれがそれぞれのやり方でないと向かうことができない。


と述べている。福満への直接的な影響は計りかねるが、峯田をはじめ〈サブカル〉の領域における「童貞」的感性の広がりという現象において、みうらの存在は大きかったのではないかと思われる。「ゆるキャラ」や「いやげ物」など、一般的な価値観からこぼれ落ちたものを積極的に紹介してきたみうらが、「童貞をオーエンすることに決定!」と、「童貞」的感性についてはっきりと支持を表明したのは、伊集院光との対談本『D.T.』(メディア・ファクトリー 02・8)である。みうらは、

そこまで人生に影響を与えるんだから、もう肯定しちゃったほうがいいと思うんだ。「童貞」という言葉は、これまで否定的にしか使われなかった。でも、童貞はやたら面白いんだ。

と述べ、伊集院は「経験はしていても自分の中にはまだ、童貞が残ってる場合があるんですよ。それに早く気がつくべきなんです」と述べる。そして、これまで筆者が述べてきた「童貞」的感性のようなものを抱えている人を「D.T.」と名付ける。みうらによれば「D.T.」とは、「肉体の童貞は失ったけど、精神はまだ童貞だぞっていうの」だそうである。そこでは、「童貞目線を取り戻したい」(伊集院)、「童貞って、本当の意味での「自由人」なんだね」(みうら)など、明らかに「童貞」を優位に立たせて話をしている。

『D.T.』は、冒頭に「童貞って、あまりいいイメージありませんよね。」という編集者の言葉が置かれている。この部分以外でも、編集者の言葉は基本的に〈世間一般の言葉〉を代表しているような語られ方をするが、この編集者の言葉=〈世間一般の言葉〉をみうらと伊集院がひっくり返すような構造になっているのが『D.T.』である。

 女性はよく理想の男性像を語るとき、「優しい人」の次に「面白い人」を挙げる。「そんな奴、童貞期が長かった奴に決まってんじゃん!」とオレは思うが、奴さんたちはどうやらそういう人じゃないらしい。平然とこう言う。「福山雅治さんみたいな人!」 おい! 話にならん。
 長年オレがイライラしてきた現実に本書は勇敢に立ち向かう。本当に面白い人がどんな人なのか教える時がきたようだ。


世間一般――ここでは「恋愛資本主義」的なゲーム――をひっくり返し、オルタナティヴを示す。ここまでは福満や峯田とも同様だが、『D.T.』では、なおかつそれを「面白さ」という点からゲームの上に乗せなおしている。『D.T.』の戦術は、オルタナティヴを示しつつ、そのオルタナティヴをもって支配的なゲームに対しても揺さぶりをかけていると言える。ラディカルでありながらポピュラリティの獲得をも目指すというのは、この場合重要である。

宇野の場合、否応なしに進んでいくゲームの上でいかに生きるかをいうことが中心的な課題となっていた。「酸っぱい葡萄」をめぐる「決断主義」的二項対立の図式も、このような問題意識が根底にあるからだろう。もちろん場合によっては、種々のゲームから逃れるのが困難なときもある。しかし、その二項対立のあいだにとどまったり、あるいはその二項対立ゲームとは別にあったりする、オルタナティヴな価値観やそこから生まれる表現を知っておくことは損ではないと思われる。それは、あるときには一発逆転のカードになるかもしれないし、そうでなくとも、心の拠りどころという機能を果たすかもしれない。『D.T.』やそれ以降の「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」を根底にもつ表現に、「決断主義」的二項対立を越える契機を見出したい。
ただ、最後に「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」が抱える限界についても指摘しなければならない。それはジェンダーの問題である。本稿には厳密な意味で、〈女性〉については書かれていない。本稿が「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」を通して扱った〈女性〉は、いずれも男性側からの、ときには差別的な視線を通して構築された〈女性〉に他ならない。これについては、杉田俊介も、「福満の小規模なマンガ的日常を満たすのは、非モテ男性のティピカルな性暴力性である」(「福満しげゆき、あるいは「僕」と「美少女」の小規模なセカイ」『ユリイカ』08・6)と述べているし、銀杏BOYZの歌詞に出てくる「可愛いあの娘」は、単純化された「淫乱」である。「童貞」的感性を強化するために持ち出される〈女性〉はどうしても画一的で差別的で、そこでは従来とは異なる文脈での〈女性蔑視〉が行われていることには注意をしなくてはならない。極端な場合、「「童貞」的感性をもたない〈女性〉なんて信用できん!」などという、わけのわからない事態が起こるかも(?)。「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」は、文字通り「〈卑屈〉な想像力」なので他者への攻撃性を呼び込みやすいが、あくまで処方箋として機能することを願いたい。

また、他者への攻撃性という点で言えば、〈女性〉への視線以外にも問題はある。文学における私小説の命題として、「どんなに悲惨な私生活を描いたところで、それが発表され読まれた時点で、その作家は悲惨な状況から抜け出している」という問題がある。同じことは本稿で紹介した人たちにも言える。福満が、いかに苦しくて漫画家になることが困難だったとしても、漫画となってそれを読む読者がいるという状況になったとき、読者からすれば福満はもう成功してアガリである。峯田も、いまや人気バンドどころかカリスマである。なにより、「みうらじゅんはモテる」という絶望的な現実がそこにはある。このことは、「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」を共有する人たちの内部で、さらに細分化された勝ち組/負け組を生み出すおそれがある。こうした現実の上では、「ゼロ年代の〈卑屈〉な想像力」の表現を、オルタナティヴな価値観への足がかりとして捉えられることがおそらく重要であろう。



と書いたは良いが、「ゼロ年代」も終わろうとしている昨今、この〈卑屈〉な想像力も、結果的には、ただただ表層的な意味で〈卑屈〉(=「酸っぱい葡萄」的)にしか機能しなかった感があるなあ(というか、僕自身がこのテの表現に飽きてしまった)。ただ、松江監督の作品や『色即ぜねれーしょん』も見てないので、最終判断は留保したいのですが。とりあえず言えることは、〈卑屈〉シーンは、わけのわからん「文化系」シーンにひっかきまわされた感があって、僕はおそらく端から見たら「文化系」に分類されるのでしょうが(そして〈卑屈〉シーンを代表することもおそれおおいのですが)、やはりそれはうかつだった。〈卑屈〉シーンの深化以上に「文化系」との融合による拡散が印象的になってしまった。したがって、「文化系」とはあまり縁のない、いわゆる「サブカル」シーンから、メインストリームを食い破るようなうねりが見たい、あわよくば一端を担いたい。あとは、純血な私小説の文脈で孤軍奮闘する小谷野敦『童貞放浪記』か。

佐々木敦さんの推奨する「テン年代」が、流行るか否かが最近の思想の争点(?)になっているけど(否定派=栗原裕一郎さん他、使い出してる派=イルコモンズさん他)、「天然だい!」(本人談)の「テン年代」は、その英語使っちゃってる感じに「ぼんくら感」を見るべきなのかも。〈卑屈〉のモードも、どちらかと言えば、「ぼんくら感」に移行しつつあるし、個人的には、そのモード変換もまた馴染み良い。「草食系」とかまじありえないから、浅野いにおという点で。もっとマヌケなほうが良いに決まってる。ちなみに、声に出すほど笑ったファンキー・コタ的には、「すっとこどっこい系」という語感も良い。

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2009年08月13日

ゆるやかなつながり強化月間

7f0bc214.jpg勉強の息抜き(息、抜きまくりなのですが)に、メモ的に思ったことを書きます。



『1Q84』の書評を、ネット上のものも含め、わりとマメにチェックしているのですが、まあ、いろんな意見があるのは良いとして…、とりあえず「200Q年」って言いたいだけのやつはくたばれ!



スクーターズ『娘ごころはスクーターズ』のLP(写真)を2000円で購入。こんな安くて良いものなのかしら。



『スタジオヴォイス』の最後の号を読みました。凝りすぎているデザインに目がチカチカして読みづらかったです。これも、『エクス・ポ』的戦略の流れなのでしょうか。いくつかおもしろい記事もあったものの(ばるぼらのエッセーとか)、僕のサブカル・リテラシーが少ないことも含めて、最後まで、僕と相性の悪い雑誌だったように思います。とは言え、あきらかに、ある方面には貢献度の高かった老舗雑誌が終わっていくことに対し、さみしさはぬぐいえません。

あ、「ゼロ年代の死者たち」という特集は、今号ですでになされていました。(関係者各位)



このところ、とくに現代文化研究会において、「現代における超越性」的なことを軸に、「三月の5日間」、『ダークナイト』、『エヴァンゲリオン』、『転校生』、『サマーウォーズ』について考えていますが、たとえば、よく言われるところの「人は〈物語〉なしでは生きられない」という、この〈物語〉の意味をそろそろ刷新しても良いのではないか/刷新するべきなのではないか、ということをよく思います。人が生きていくための根拠みたいなものを固定的なものと考えず、もっと低いハードルに設定し直して、また、そういったことが可能になりつつある社会条件について考察することが大事なのではないでしょうか。なに言ってるか自分でもよくわかりません。いや、でも、マジで。

「ゆるやかなつながり」強化期間は、まだまだ続きます。

toshihirock_n_roll at 17:45|Permalink 雑感 

2009年08月11日

『サマーウォーズ』が素晴らしかった

373c17c1.jpgいま、テレビでアニメ版『時をかける少女』が放映されていますが、僕はこの作品すごく好きです。去年の選択の授業で『ほしのこえ』を観せたら、かなり評判悪かったのですが(「オタクっぽい」「絵がヘン」など)、今年、このアニメ版『時かけ』は、けっこう生徒に評判が良かったように思います。

しかし、細田守監督最新作『サマーウォーズ』は、さらに負けじと素晴らしい。よく紋切り型の俗流若者批判で、「ヴァーチャルの世界と現実の世界が混同されている」などと言われ、それはある意味では当たっていて、ある意味ではかなり間違っていると思うのですが、「混同されている」からこそ、だからこそ描ける「つながりこそが、ボクらの武器」の『サマーウォーズ』の物語は、本当に素晴らしいです。というか、それ以前に、映像の躍動感みたいなものに、ただただ心を打たれるし、泣けてくる。細田監督が以前言っていた「絵に命を吹き込む」というアニミズムの本来的なありかたを体感したような気がしました。

ウルリッヒ・ベックの「リスク社会」とは、知識の増大や科学の発展が進んだがゆえに、つねにリスクを想定せざるをえなくなる社会のことですが、ここにおけるリスクの特徴は、それが引き起こされる可能性はすごく低いが、その破壊力はシステムにとって破滅的に大きいということです。

『サマーウォーズ』で起こってしまった事態は、まさに、あの社会が選んだ結果としてのリスクの形です。そして、そこに立ち向かうためには、やはりひとりひとりが、再帰性をともなう自分の役割を果たすことが必要です。それは、難しい計算を解くことから甲子園の予選を勝ち抜くことまで変わりません。こうした僕らの行動の集積によって、世界は成り立っています。しかし、「世界を救う」級の具体的な目標に向かっていくには、そのような行動をじっさいに集積させるシステムが必要です。それが、あの世界ではインターネットなんだ、と。だから、世界中の顔も見たこともない「私のアカウントを使ってください」が、具体的な力として発揮されるわけです。ゆえに、「つながりこそがボクらの武器」。ああ、もういっかい観に行きたいなあ。

絵は、貞本風の上杉達っちゃん。

toshihirock_n_roll at 22:07|Permalink 映画 

2009年08月06日

DJをめぐるあれこれ

d61990bd.jpg前回の記事でも書きましたが、TBSラジオ「文化系トークラジオ LIFE」の7月26日放送分「バンドやろうぜ!」のポッドキャスト用「外伝」放送にて、ギャラリーとして少しだけしゃべりました。何度も言っているとおり、ラジオパーソナリティへの憧れはかなりあって、とてもうれしかったです。ちなみにラジオしゃべり経験は、J-WAVE「GROOVE LINE」において、たまたまHMVピープルとして選ばれちょい参加、笹公人さんの「念力ポッド」にスズキロクとともに代打出演、同じく笹公人さんの番組「宇宙ヤングの超光速ナイト」(FM西日本)に何度か、RLLによるネットラジオ「かくめい生活研究所」で割り込み、などです。

そのときの感想はこちらです。
「Oh! J-WAVEメモリアル」
http://blog.livedoor.jp/toshihirock_n_roll/archives/50175966.html
「笹公人の念力ポッド倶楽部配信スタート!」(俺、髪長っ!)
http://blog.livedoor.jp/toshihirock_n_roll/archives/50588282.html
「ラジオのDiY」
http://blog.livedoor.jp/toshihirock_n_roll/archives/50664834.html

いずれも、すごく良い経験でしたが、今回も楽しくて良い経験になりました。途中からアガってきて、ところどころ下品な物言いになってしまいましたが(いちばん下品な「ぶっ殺す」発言――これは、町山智浩さんへのオマージュですが――は、カットされていました。スタッフの方には、余計な仕事を増やしてしまい申し訳ないです)、心臓ドキドキしながらも必死にオチをつけたつもりでした。多くの人がそう感じるように、毎度、録音された自分の声を聴くたびに赤面してしまうのですが、それ以上に今回は、声質がパーソナリティ向きではないなと痛感しました。何人かのラジオ関係者に聞いたところ、やはり、パーソナリティの条件として先天的な声質は重要なものらしいです。僕はないなあ、残念なことに。まあ僕はいいとしても、番組自体、楽しいもので、とくに「外伝」はおもしろいので、本放送を聴いた方も、聴いていない方も、よかったらダウンロードしてみてください。

「バンドやろうぜ!」Part7(外伝2)
http://www.tbsradio.jp/life/2009/08/2009726part7.html

僕の話を半分引き取って、長谷川プロデューサーが良い話にまとめてくれました。長谷川さんが言うような、「種目を変える姿勢」(たとえば、モテのゲームからオルタナティヴへ)って、生き方的にも本当に重要だと思うのですが、DJの場合、葛藤するのは、DJの歴史自体に、楽器を弾く身体でなくともバンドのライヴと同じかそれ以上のアゲアゲ感が演出できてしまったという事態があったことです。僕が魅力を感じたDJ、あるいはヒップホップ的なありかたって、むしろ、音楽なんて全然詳しくない輩がハッピーな場を創出してしまったという物語です。だから、まさに「種目の変える姿勢」を体現しているのは、他ならぬ「サークルノリの延長のDJ」であり、僕のヒップホップ的な物語において打倒されるべきは、俺のような(どちらかと言えば)「頭でっかちのDJ」なのです。この点が悩ましい。

もちろん、悪い意味でカラオケ化していくへたれなクラブ・シーンに、僕自身は迎合する気もありませんが(それ自体を悪いともまったく思いませんが)、どこかゲーム化していく感の否めないディグ文化にも違和感はあります。とくに、DJ専門誌を謳う『GROOVE』のつまらなさは、もう限界でしょう。最新号の「レア盤」特集も、出ているDJたちの魅力に比して、記事自体は本当につまらなかったものです。もしかしたら、カタログが豊富に存在する現在、音楽詳しい/詳しくないの二項対立は、DJシーンの不毛な内ゲバしかもたらさないかもしれません。「元ネタも知らずにヒップホップ聴いてる若者はけしからん!」みたいな、権威主義的な物言いにも、かなりうんざりしています(そこ行くと、いまのご一緒しているイヴェントの方たちは、すごく良い感じだな)。結局、本質は、やはり「種目を変える姿勢」なのかもしれません。種目を変え続けることで、さまざまなメンタリティを抱える人が、なにかを強制されずになんとかハッピーになるようなものを目指したいです(具体性がありませんが)。

ちなみに、これは以前、大学院の先輩と話していたこととも通じますが、番組中の僕のエピソードのなかで、僕自身、重要だと思っている点は、(いわゆる)「文化系」的自意識のほうではなくて、その前に「ギャルがアゲアゲ」だったことです。普段なら、絶対出会うはずのなかった僕とギャルが、レゲエを介して会話まで交わしているというこのゆるやかなつながりが重要なのだと思います。僕は、ギャルのことを「ぶっ殺す!」と思いました(冗談ですが)。そして、ギャルも僕のことを「つまらないDJ」くらいに思ったと思います。その意味で言えば、このエピソードの前後で、僕とギャルは依然として平行線で、所属するトライブも違います。しかし、さまざまな文脈の重なり合うところで、僕とギャルは少なからぬ時間「アゲアゲ感」を共有し会話をしています。このゆるやかなつながりのありかたが、おそらく〈DJミックス〉のありかたとアナロジーになっている。〈DJミックス〉という新しいエレクトロニクスが生み出した、従来と「種目の違う」音楽のありかたは、楽器のできない僕をブースに立たせ、出会うはずのない「サークルノリ」的なギャルと出会わせてしまいました。この感じは、物語としては、やはりロマンチックなものです。僕は以前、岡田利規「三月の5日間」について論文を書いたとき(『F』VOL.4)、ネット以降の「ゆるやかなつながり」の想像力について指摘しましたが、結局何も通じ合わないけど、「ゆるやかなつながり」を持つ二人という意味では、なんか似ている気がします。なんだかとりとめのない感じになってきましたが、長谷川さんの言う「種目を変える姿勢」というものは、「種目を変える」ことで不意に「つながり」を持ってしまうという点まで、射程を持っているものだと思いました(ただし、出会わなくていい二人が出会うことによって、また新たな悲劇が生まれる可能性も…)。

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2009年08月02日

路上・TBSラジオ・甲子園

c880ff5c.jpgこの頃、小説ばかり読んでいたから、評論・研究書に飢えていた感じがあります。毛利嘉孝さんの『ストリートの思想――転換期としての1990年代』(NHKブックス)をおもしろく/興味深く読みました。自分がクラブカルチャー的なものをひいきにしているからか、やはり、「ストリート」という概念と理論・思想の結びつきには、知的興奮以上のなにか躍動感のようなものを感じます。今年の、ある種の流行語候補は、「つながり(感)」と「ボトムアップ」だと思っています。どちらも一昨年あたりからよく評論界隈でよく聞く気がしますが(僕のいちばん新しい論考も「つながり」がキーです)、「つながり」に関しては、Windows Liveや、まだ観てませんが「サマー・ウォーズ」のキャッチ(「「つながり」こそが、ボクらの武器。」)などに見られ、「ボトムアップ」に関しては、バーミンガム学派的なサブカルチャー研究の分析手続きを見直そうという僕の意識です。具体的には、イアン・コンドリーによるJヒップホップ分析的な。そう考えると、やはりカルチュラル・スタディーズ的な手つきには魅力があります。どんな状況であっても、自分の文脈で「ボトムアップ」して、そこから新しい「つながり」が生成され続けるようなケースが提示されると、陰鬱な読者としては、とても勇気/元気づけられます。ただし、その実践が、必ずしも左翼イデオロギーから「トップダウン」的に発想される必要はないとも考えています。だから、文学研究がなぜかそうであったように、カルチュラル・スタディーズがポスト・コロニアル・スタディーズやジェンダー・スタディーズとほとんど同義で扱われる立場には批判的です(つまり、ある時期からの小森陽一に批判的だということです)。毛利さんの本は、もちろん、ところどころ左翼的言説が前提になりすぎている感は受けましたが、それ以上に、僕の関心としての「つながり」と、なんと言っても「ボトムアップ」の点を軸に語られていて、とても良い本だと思いました。もちろん、自分が見てきた風景が書き込まれていることもおもしろく読んだ理由のひとつです。とは言え、その「つながり」からも排除されてしまう人は当然出てくるし、そういう人たちの多くは、序章で少し批判されているような「オタク的思想」のフィールドにいる気もするので、両者はうまいこと橋渡しされれば良いなと思います。



昨晩のTBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』のしまおさんのコーナー「ミューズのぼんやり情報部」で、メールが読まれました。しかも、ベスト回答(?)に選ばれて、ステッカーがもらえるそうです。ありがとうございます。今週からのお題は、僕が長年、思い続けてきたことを発散できるような素晴らしいお題です。何日かしたら、ポッドキャストで配信されると思うので、よかったらどうぞ。ちなみに、このあいだは、やはりTBSラジオ『文化系トークラジオ LIFE』でギャラリーとしてしゃべりました。ラジオ・パーソナリティーは、僕の夢のひとつなのでとても嬉しかったです。それは、また配信のときに。



今年の甲子園・神奈川代表は、僕の勤務校です。ピッチャーをはじめ、実際の教え子が何人か活躍しています。1回戦と準決勝と決勝を映像で見ましたが、すごく良いチームだと思いました。湘北高校や千川高校や掛川高校のように、勝ち続ける勤務校には、本当に感動させられっぱなしです。野球のことはよくわかりませんが、10年以上続けたサッカー部時代の経験からすると、とくに試合の終盤、苦しいことを自覚しはじめると、集中力と気力を立て直すのがとても大変です。そういうときのために、普段の練習から無意味に声出しとかをすると自分では解釈しているのですが、本当に漫画のような逆転劇と快進撃を続けて、甲子園初出場を遂げた彼らは、すごい緊張感のある場面でもにこにこ笑っていました。これは、本当にすごいことで、僕なんか、地区大会の決勝の最後とか、ほとんど泣きながらやってました。精神論を語るつもりはないけど、ごくごく普通の意味で、苦しいときにリラックスできることは、彼らの逆転劇を支えていたと思うし、その背後にはおそらくかなり良い感じの信頼関係があるのだと思います。心から応援しています。

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