2009年11月

2009年11月14日

『アンヴィル』を観た――「本当に幸せ」になるということ

c2872490.jpg『アンヴィル』は、見田宗介が比べて語った(のをチャーリーが語った)ように、「本当の幸せ」を求めた男が最終的に「本当に幸せ」になることを求める映画だと思った。「本当の幸せ」を求めるということは、「ロックスター」とか「メイクマネー」とか、「幸せ」の中身が問題になり、そこではシビアな結果がついてまわる。しかし、映画の最後にリップスが語るように、「重要なのは考え方」なのである。80年代にヒーローになったアンヴィルは、その成功によってその後の20年、活動することができた。その過程は、リップスとロブにとってきっとまぎれもない「幸せ」だったはずである。少なくとも『アンヴィル』はそのように描かれている。

このような考えにはとても共感する。昔から、「絶対にこうなってやるんだ!」というような物言いが苦手で、何かに挑戦してそれを乗り越える喜びよりも、失敗して悲しむリスクへの恐れの方が勝っていた。だから、勝負事や部活に対しても、もしかしたらどこか勝利への執着に欠けていたような気がする。このへたれ精神は、もちろん、アンヴィルのそれとは比べものになるものではないけど、もし重なるとすれば、物事へのポジティヴな捉え方である。

しばしば、「頑張っても負けたら意味無いよ」的な言い方がされる。高校サッカーでも大学サッカーでもよく聞いた言葉だ。へたれの裏返しではあるが、僕はやはりこういった言葉をとても悲しく聞いていた。はっきり言って、みんなで頑張ったこと自体が本当に本当に楽しかったのだ。もちろん、それが勝利につながればそんな素晴らしいことはない。今年の勤務校の甲子園出場ははたから見てても感動的だった。しかし、それとは別に、負けたからってあの日々が「幸せ」だったことには変わりがないと強く思っていた。僕は、高校時代、あだち充『H2』の国見比呂に共感しまくった挙句に憧れていた。比呂は、素晴らしいチームメイトと一緒に野球をやっているというその事実に満足して、勝利への執着心に欠けていたが、この気持ちはけっこう理解できた。高校時代のある日、OBの方に、公式大会に対する意気込みを聞かれ、完全に比呂を意識した上で「みんなでサッカーできること自体が幸せなので、勝利はその次です」と答えたら、「負けたら意味ねーだろ!」ととても怒られた。まあ、比呂気分に浸ってる僕が痛いのは認めるけど、やはり、どこかで違和感はあったのだと思う。松本大洋『花男』が大好きな僕としては、やはり「父親が息子に見せるべきは結果より過程なのです」(まあ、実際には「甘いよ、かっとばしな」なのだが)。だから、「本当の幸せ」にこだわって、そこに到達できたら100/できなかったら0という考え方はきつい。それは、新自由主義的なあれこれで考えてもきつい。結果が、40でも60でも70でも、その過程の中で(そこそこの)「幸せ」を拾っていく方が、僕はハッピーだと思う。だって、それでなきゃアンヴィルの30年ってなんなのさ。そこに価値があるか/ないかではなく、通ってきたことにいかに価値を見出すかということの方が現実的に大切でしょう。そういうことをちゃんと見せてくれた映画だと思った。

あと、町山さんは以前『キラ☆キラ』で、日本はアンヴィルを含め、昔のバンドに優しいと言っておられて、それはまあそうなのかもしれないが、『アンヴィル』のラストにあったフェスの映像を観た僕の印象はちょっと違った。というのも、あのフェスの客席において、根っからの、あるいは熱狂的なアンヴィルファンは、果たしてどのくらいいたのだろうか。僕の推測ではそんなに多くなかったように思う。あれは、アンヴィルのファンというよりも、いわゆるフェスバブル的なミーハーな消費者の姿ではなかっただろうか。Tシャツ&タオルの典型的なフェスガールの姿も多く、とてもアンヴィルが求めていたようなファンとは思えない。はたして、あの客のどのくらいの人がアンヴィルのCDを持っていたのだろうか。しかし、僕はここでそのことを批判したいつもりではない(というか、推測でしかないし)。そうではなくて、むしろ逆で、中身のないバブル的な消費者であっても、じゅうぶんにそこには感動とか希望があるのだということを感じたのだ。かりに一人一人が、熱心な音楽ファンやバンドファンでなくとも、ある種、消費に乗った形での客の存在が、あのときのアンヴィルには、なににも得難いものだったはずだ。それは、もしかしたら皮肉な風に映っていたのかもしれないけど、僕はむしろ泣いた。良い映画だった。



現代文化研究会のために、『ヴァイブレータ』と『やわらかい生活』というのを観たけど、なかなか良かった。良い画面に良い曲が流れる、そういう場面が一瞬あるだけで、映画体験としてはもう満足である。

toshihirock_n_roll at 02:44|Permalink 映画 

2009年11月03日

ブルボン小林『ジュ・ゲーム・モワ・ノン・ブリュ』(ちくま文庫)〜平凡コンプレックス

6c3a883b.jpgブルボン小林『ジュ・ゲーム・モワ・ノン・ブリュ』がとてもおもしろかった。ゲームと音楽で扱うものは違うけど、「EP」の方もこのくらいおもしろおかしく書ければ、と思う。

個人的な体験としてはテレビゲームは、人並みくらいしかやっていない。パズルゲームとかアクションゲームはわりと好きだけど、RPGが苦手で、すごくヌルいゲームユーザーだと思う。しかも、ウチは父の仕事の関係もあってか、スーパーファミコンをかなり早い時期に購入していたので、僕が物心ついたときにはすでにファミコンが駆逐されていた。したがって、ファミコンソフトはほとんどやったことがなく(『ゲームセンターCX』を観ているので、なんとなく知っているのもあるのですが)、『ジュ・ゲーム』に出てくるソフトも、知らないのがほとんど。でも、やはりおもしろかった。

とくに僕は、初っ端の『平安京エイリアン』についての文章が好きだ。『平安京エイリアン』は名前しか知らないが、たしか『こち亀』で、両さんが麗子(たぶん)に「どうして、平安京なのよ?」と追及されている場面があったのを覚えている。『ジュ・ゲーム』でも、やはり、「居合わせた店番の女の子が「でもなんで平安京なの」と問う」という描写が出てくる。「男の夢を覚ますのは、いつもオンナ子供でござんす」なのである。ブルボンはこの問いに対して、推測ながら鮮やかに答える。

多分、『平安京エイリアン』は、企画の時点から「平安京でいきましょう」ではなかった。はじめに「碁盤状しか描けません」があって、「だったら舞台を平安京ってことにしようぜ」という流れだった(のではないか)。

うん、そうだ、きっとそうだ。いや、ここで細かい事実関係はあまり関係ないのだ。そして、その少しあと。

とにかく、箱裏の説明書きに「主人公=KEBIISHI」とあるのに僕はシビれた。検非違使とばって、月下の朱雀通りを駆ける。今、ゲームでなんでも表現できるようになって、そんなイカした設定はむしろ生まれなくなってしまった。

僕はここにヒップホップを感じた。とか言うと、またつまらない話になってしまうかもしれなしけど、とにかく感じた。『F』創刊号に寄稿したヒップホップに関する論文で、僕は、レヴィ・ストロースによるブリコラージュという有名な概念について言及した。ディック・ヘブディッジは、ブリコラージュの「記号の読み換え」的側面におもしろさを感じ、モッズやテッズなどのサブカルチャー分析をおこなっていた気がするが――そして、それはブリコラージュの本質的な機能だと思うが――僕はそれ以上に、ヒップホップをめぐる環境というものが「ありあわせのもの」を使うほかなかった、という外在的な条件との関連に興味をもった。単なる「記号の読み換え」なんて、したければ勝手にすれば良いのである。そうではなくて、決して豊かではない条件のなか、それでも内から沸くなにかのため、ギリギリの環境をフル稼働させるようなひっ迫感に、僕はファンタジーを見ているような気がする。その結果、とんでもない/トンデモないものが出来上がってしまったら、なおさらである。ブルボン解釈による『平安京エイリアン』も、この類のファンタジーが感じられてとても良い。なにかこう外在的な条件に手を引かれるように、ぽろっと出てしまったようなものが好きだ。誰のコントロール下にも置かれていない分、必然性と説得力がある。

そう考えると、なにか表現とかに関しては、やはり「個性」とか(従来的な意味での)「オリジナリティ」とかというものには興味がない。これはもちろん、昨日の武蔵美のLIFEイベントのことを言っている。昨日のイベントは、東京ピストル・加藤さんの教え子さんたちが、とてもよく企画・運営をしていて、すごく良いイベントでした。トークテーマも良かったです。そこで、一瞬、音楽の話なんかも交えながら、模倣・商業性と作家性の対立の話が出ていたが、僕は個人的な感覚としてはこういった二項対立にさほどピンと来ない、少なくとも音楽とかは。というのも、僕が憧れるのは、やっぱ小林亜星とか細野晴臣とか小西康陽で、まあ細野さんはちょっと別かもしれないけど、とにかくポップスに憧れているのである。ポップスには、尖った個性など必要ない。いや、一概にそんなこともないと思うけど、少なくとも尖った個性のみで成立するものではない。やっぱり、そこには不特定多数の聴き手が念頭に置かれている気がする。だから、不特定多数の記憶に呼びかけるような感覚こそが必要だと思うのだ。

僕は趣味で楽曲とか作るけど、人のマネばかりしていると思う。それは、僕に音楽の才能がないだけのことなのだが、少しでも「どこかで聴いたことがある曲」が出来たときほど気持ち良いときはない。中田ヤスタカ風とかYMO風とかピート・ロック風とかコモエスタ八重樫風とか、ひとつとして成功したことはないけど、そうやって匿名的にいろんな音楽ができたらすごく楽しい気がする。そこには「個性」も「オリジナリティ」もないかもしれないが、ただ、僕の趣向が確実に存在するという意味では「作者性」はあるような気がする。筒美歌謡もパクりばかりだけど「作者性」は明らかにある。だから、ポストモダンとかそういった議論を別として、素朴な実感で、個性=オリジナリティ=作者性みたいな図式には少しだけ違和感もある。いや、かと言って、そこにまったく葛藤がないわけではないので、全然理解はできるだけど、たぶん葛藤は少ない方だと思う。そのことが関係しているかわからないけど、表現に関して僕は、個性とか新しさとかいったものとは別のものに反応している気がする。それはちゃんと言語化できないけど、「説得力」みたいなニュアンスのものだ。曲どころか楽器の一音レヴェルに分解しても、「説得力」があるものとないものに差を感じるときがある。はせはじむさんはrecommuniのポッドキャスト対談で、ミュートビートについて、「ただのTB-808の音なのに、ミュートビートとしか言いようがない音だよね」みたいなことを言っていたが、たぶんこれは『スティル・エコー』あたりのことを言っていて、その感覚はすごく僕にもわかる。そういう、説得力を持ったサウンドとか歌声が聴けるのなら、個性とかオリジナリティとかはどうでもいい気がする。しかし、「じゃあ、どういったものが説得力を持つのか」という問いにはやはり答えられず、みなさんはきっとそれを指して「作者性」と呼んでいるのでしょう。ただ、先の議論に戻るが、たとえばヒップホップにおけるサンプリング手法、とくにオールドスクールのそれなどは、説得力がとてもある。あるいは、KRSワンにも説得力がある。こうした魅力が、曲や送り手に内在的なものか僕の文脈で事後的に構築されたものなのかわからないけど、いずれにせよ「作者性」という言葉だけにとどまるのはもったいない気はする。もっと、さまざまな条件が渾然一体となった世界の営みだと僕は考えているし、そう考えた方が人生が楽しい。

「〜風」「〜っぽい」からダメとか、新しいから良いとかっていう議論って、表現としてはすごく手前のレヴェルの話なんじゃないか。

toshihirock_n_roll at 01:48|Permalink 雑感