2010年01月

2010年01月11日

なにかとてつもないなにか

bad82f6a.jpg(このブログでは)あけましておめでとうございます。昨日は、ひいひいじいちゃんの代から枝分かれした親戚たちが、顔も名前も知らない人も含めて30人以上集結し、一族の新年会がおこなわれましたが、その様子はさながら『サマーウォーズ』の序盤であり、「人工衛星落ちてこないかな」と夢想しながらビールを飲んで、食事をしていました。

かの社会言語学者・田中克彦のいとこにあたる親戚の住職は、僕が日本文学研究をしているという話をしたら、「最近の文学に対してはどう思うのか」ときいてきました。僕は、ナーガール・ジュナを意識しつつ、「ケータイ小説を含め、最近の小説は従来のものとは違うものになってかもしれません。しかし、変化はどうしたって起こるものなので、基本的には肯定するべきだと思っています。したがって、僕は最近の小説を楽しく読むし、どうしたら楽しく読めるかをこそ探っていきます。」といったようなことを答えたのですが、住職は浮かない顔。そして、次に言われたことが、「どんな小説にも歴史がある。したがって、古典を読むべし」。この返答、構築主義をとおった僕は、もちろん半分しか納得できません。すなわち、どんな小説にも歴史「性」、あるいは文脈があることはたしかでしょうし、古典も読むべきでしょう。しかし、そのあいだの「したがって」は、すこし飛躍しています。「古典」がいかにして「古典」になったのかという視座が欠けている。住職は、現代の小説を擁護する僕の考え方をおそらく否定したかったのではないかと感じましたが(実際はわかりません)、そんなことは直接は言いませんでした。もし、そんな根拠で、現代の小説や僕のやっていることを否定するのなら、品田悦一の本を投げつけてやります。



最近、アウラという概念を検証し、再定義する必要を感じています。というのも、一回性/複製という対立にとらわれない、現実感の表出がめざましいからです。具体的に言えば、オタクの「聖地巡礼」であり、去年の初音ミクのコンサートなど、「虚構の現実化」(福嶋亮大)の問題。あるいは、そんな露骨でなくとも、ピート・ロックを中心とした、ミドル〜ニュースクールのヒップホップには、すでに、複製技術以後に更新されたアウラ的なものが確実に宿っていました。したがって、アウラという本質的なものがあるのではなくて、むしろ僕らのほうに、アウラを欲望する心性がつねにあり続けるのかもしれません。以上のようなことを踏まえて、「複製技術時代の芸術作品」を再検討したいです。そして、その続きとして今度は言語的な意味論を超えた世界の話をしたい(こっから、オカルトに近づいて行きますが)。ここ最近の、たぶんグーグル以降の圧倒的な情報技術の普及は、僕らの素朴な言語論的認識をとっくに超越した世界を現前化させている。言語論的な認識では、物事はそれぞれの差異によって切り取られているので、「認識は文化圏によって異なる」という話になるが、おそらくそんなレヴェルとは別に、問答無用にシステマティックに構造化させているのがコンピュータの世界であり、ウェブの世界である。twitterを始めてみてあらためて思ったが、リンクによって張り巡らされた空間は、当然のことながら、言語的な差異のトップダウン的な秩序とはまったく違う広がり方をしている。この世界のありかたが普及したときに、鋭い感性をもった小説が、まさに言語を更新しようとするのは当然の態度だと思います。その変化は、とくに、「わたし」という一人称の問題にあらわれている。なぜなら、仮構された「わたし」自体が、すでに言語論的認識に基づく存在だからです。岡田利規の変幻自在の一人称複数語り手については、すでに『F』4号で書いたことがあるが、「わたし」自体がデータベース化された青木淳吾「このあいだ東京でね」なんかもあります。中川大地は、柄谷行人に言及しながら、現在が1910〜1930年代の「ループ」であるという見立てを採用していましたが(「「生命化するトランスモダン」への助走」)、1910〜1930年代とは、まさに大正時代の私小説が行き場をなくし、太宰治や横光利一など、素朴な「わたし」の解体が試みられた時期でした。その原因は、映画の輸入やプロレタリア文学の行き詰まりなどいろいろあったのでしょうが、少なからず従来の言語論的認識とオルタナティヴの世界を表出させようと格闘していた時期だったと思います。そして、その更新がもう一度キている。「非言語脳や身体の生物学的条件」としての「生命」について、中川は、その運用可能性を探るが、小説の世界では、そうした「生命」的なダイナミズムについて記述しようと格闘している節がある。そのいちばん顕著な例は、磯崎憲一郎の『世紀の発見』だろう。ただし、それは「非言語」であるがゆえに、当然、小説という形式にそぐうわけではない。しかし、そぐわないからこそなにかとてつもないものが出てきそうな気もするのです。そこから何を得るかは、読み手にゆだねられます。佐々木敦が、近頃口にする「エニグマ」って、つまりはそういうことなのではないでしょうか。

toshihirock_n_roll at 14:43|Permalink 雑感