2011年08月

2011年08月29日

8・28「大東京ポッド許可局“日比谷公会堂に2000人集めたい”論」に行ってきた!

666b7444.jpg「大東京ポッド許可局“日比谷公会堂に2000人集めたい”論」に行ってきました。結論から言うと、とても素晴らしいイベントで、非常に感銘を受けました。

限定50個で1万円のUSBは買おうと思っていたので、物販に並ぶため、15時過ぎに着くように行ったのですが、並んでいるときに売り切れのアナウンス。予告編でプチ鹿島が、「俺も1個買うから限定49個だよ」と冗談混じりで言ってましたが、もし本当だったら、その1個が回ってきたかもしれないのに、思いながら、同じく買おうと思っていた公式パンフレットを買いました。くまおさん(書籍版、公式パンフを編集)や速水さんなど、面識のある方々のコメントも載っていて、内容盛り沢山でした。また、自称「ヒップホップ・シーンの黎明期を支えた」プチ鹿島が所属していたイエロー・モンキー・クルーのCDも売っていたので買いました。ECD主宰で、キミドリ「つるみの塔」が収録されていることで知られるJヒップホップのコンピ名盤『チェック・ユア・マイク』には、YMCという、あまり聞かないグループがいたのですが、それがこれなんですね。

さて、イベント自体も本当に素晴らしかった。幕開けではラップも披露するということで楽しみにしていましたが、許可局おなじみのあのメロディをイントロに、BPM115くらいのローランドっぽい4つ打ちビートという、図らずも(?)いまのUSヒップホップっぽいトラックが始まって、かなりアガりました(タツオさんのニュアンス的に、曲名は「東京ポッド許可曲」ということだったのかな)。予告編では、音楽に疎いサンキュータツオのヴァースが不安視されるアングルになっていたけど、個人的な感想としては、ほんのりラガスタイルだったタツオさんがいちばんかっこ良かったです。それでまあ、冒頭のフリートークも宇多丸さんが登壇したゲストトークも非常に面白くて、公式パンフには、「「インタレスト」と「エンターテイメント」の融合を標榜している」とありましたが、まさに両者が融合されていたように思いました。僕なんかは、実証的でアカデミックで第三者的で客観的な「研究」と、芸達者で一人称的で主観的な「評論」(=「批評」)を強く区別したがる人なんですが、タツオさんが言うように、評論家が新しい景色を提示するメガネ屋だとするならば、そこでは「文体」的なものが問題になるはずなんです。トークの途中にまさに、小林秀雄と蓮實重彦が召還されたように。で、すごく興味深いのは、「「インタレスト」と「エンターテイメント」の融合」という志向が、まさにこの「文体」の問題と強く関わっている、ということ。したがって、「「インタレスト」と「エンターテイメント」の融合」というのは、単純に、評論めいた話(「インタレスト」)をおもしろおかしく語る(「エンターテイメント」)という、両者が二分化されたものではなく、相互が「文体」という水準で干渉し合ったものなのである。それが具体的にどういうことか、ということは、とても歯がゆいことに説明できるほど明確になっているわけではないのだけど、許可局にはたしかにそういうものがある気がして、本当に感銘を受けた。ただ暫定的に思うこととしては、そこには、たぶん「見立て」への強い執着が絡んでいると思う。それは、サンキュータツオがプチ鹿島に「女子か!」とツッこむ、その見立ての感じ。ここで、ボケとツッコミにおいて、比喩と間テクスト性の問題が関わってくると思うけど、それはまたいずれ機を改めて考えてみたいです。

宇多丸さんとのパートも終わって、最後のパートでは、ネット上で話題になったらしい「鳥人間コンテスト」に出場した方の話を軸にトークが展開した。いろいろ話題が出たけど、「一億総ツッコミ」で「ツッコミ高・ボケ低」の時代に、ベタな内面吐露や本気度、熱量こそが反動的に感動を生む、という話だったと思う。マキタスポーツは、メタからベタへ、という図式を提示していたけど、これは北田暁大が「電車男」の時点で示していた図式でもあるので(『嗤う日本の〈ナショナリズム〉』NHK出版)、そこに還元しきってしまうと少しもったいないとも思います。イベント終了後、「#tokyopod」でツイッターを見ていたら、この「ネタからベタへ」話にももクロを思い出した、という意見が少なくない量あって、僕もたしかに自分がももクロについて考えたこと(「徹底した形式の先のグロテスク――小室哲哉とももいろクローバーを中心に」)を考えながら、聴いていました。ということで、昨日の話も、自分が考えていることの延長上に捉えたいと思います。

イベント終了後、例の「鳥人間」の動画を見ました(下記参照)。なるほど、これは興味深い。トークを聴いていたときから薄々思っていましたが、たぶん、この東北大学の彼は、そうとうCCDカメラやテレビのことを(無意識ながら)意識していますよね。「俺の人生、晴れときどき大荒れ」なんて、すごく良いセリフですが、これも一般的に考えれば、絶対、テレビで劇化された自分まで半ば想定して言葉にしている。だから、これがベタな意味で「内面」「心情」かと言えば、そうではないと思うのです。ただ重要なことは、かと言って、彼がベタな意味で「演技」「虚構」を演じているかと言えば、やはりそうではない、ということです。テレビ(他人の目)をほんのり意識しながら自分の感情をカスタムアップしていく迫力――ここにまずは魅きつけられるものがあるのかと思います(そして、この点に関して言えば宇野常寛の「変身」の議論と重なる)。YouTubeなどでは、「鳥人間コンテスト」動画に対して、エヴァなどのアニメとアレンジした形での二次創作が始まっているようですが、彼が本意か不本意かは別にして、実際に彼の振る舞いがアニメやゲームのそれと呼応しているのは明らかだし、おそらく、エヴァ的なアレンジは、彼の脳内の正しい反映だと思います。CCDカメラを意識した彼は、明らかに自分自身を二次創作化していたはずなのです。

くり返しますが、彼のあの振る舞いが「内面吐露」で、だからこそ感動できるという考えに関しては、僕は意見が異なります。だってそれなら、基本的に甲子園の「筋書きの無いドラマ」で事足りるもの。「鳥人間コンテスト」がアニメーションのワンシーンだったら陳腐なアニメに過ぎないのだけど、その陳腐さに言い訳無用の「本気さ」「熱量」を注入するからこそ、新鮮な感動が駆動されるのだと思う。そして、その先に、自分で与えた枠組みを内破する何か(それを暫定的に「グロテスク」と呼んでいるわけだが)を、僕たちは期待してしまいます。ちなみに僕が、今回の動画でいちばんグロテスクだと思ったのは、「俺の人生、晴れときどき大荒れ」のあとに、「いいね、良い人生だ」と笑ったところ。あの瞬間の吹っ切れた笑顔は、言葉による解釈に余る、しかし、それなのに/だからこそ、説得力を持つ表情だと思った。「内面」/「虚構」の二項対立を超えていると思います。「ネタからベタへ」という言い方自体はその通りなのだけど、そのとき「ベタ」と言われるものの内実は、よく考えたいと思います。

それにしても、どういう話の流れかは忘れたけど、マキタスポーツによる、お笑いが競技化するときにまさにスポーツ(具体的には、野球)に対抗していたという話は、すごく面白かった。お笑いの競技化みたいな話は、「決断主義」「ゲーム化」といった言葉で社会構造の変化として語られることが多かったけど、そこにジャンル内の論理をちゃんと導入させる、そうとうクリティカルな意見だと思った。マキタさん曰く、ヤンキー/オタクの両面の性質を持つ松本人志による「一人ごっつ」的な大喜利ゲームの導入は、クラスの隅っこで人知れず変なことを考えて、加えて言えば、漫画とか描いているような人(まさに、『IPPONグランプリ』の覇者・バカリズムのことではないか!)が表に立てるフォーマットの整備だった、と。そして、そこには、『ごっつええ感じ』が野球に放送枠を取られた、という怨念によって、「スポーツに客を取られないためのお笑いのスポーツ化」というマニフェストがあった、と。『アメトーーク』の「中学のときイケてなかった芸人」を筆頭に、「人見知り芸人」「気を使いすぎ芸人」などは、まさに、そのフォーマット整備によって生まれたものだろうし、そう考えると、トークでも言われていたことだが、ヤンキーの筆頭だった島田紳助が暴力団との交流によって引退する、という出来事も象徴的どころか必然的だと思えてくる。この指摘は、そうとう目ウロでした。

ということで、語るべきことはマジで尽きないのですが(音楽における「自意識」問題とか)、驚くべきことはやはり、イベントにおいて、これらの話がお笑い芸人の文法で繰り広げられていたことです。「アイドル部」のときにも思いましたが、芸人さんは足腰が本当に強い。頭の回転が早くてキレキレである。『東京ポッド許可局』も、発足当初の回は聴けていないものも多いのですが(だから、本当にUSB欲しかったのですが)、二週目聴き直すと「”風邪”論」のような、内容は決して濃いわけでもないのに、芸人の足腰の強さだけでぐいぐい聴かされる回が素晴らしいと思えてきます。評論などににハマるより古い層に、ラジオや松ちゃんにハマった層を抱える僕としては、本当に感銘を受けたイベントでした。ちなみに、くまおさんのご厚意で、セクシー川田あぶない局員とお話できたことも大変良い思い出です。宇多丸さんとは1年ぶりに、タツオさんとは初めて、あいさつすることもできました。ありがとうございました。



toshihirock_n_roll at 21:52|Permalink イベント | 雑感

2011年08月27日

あなたの街のホットステーション

書き込む暇と余力が無いので、いままでバウ的に撮りためた写真をアップしたいと思います。コンセプトができるほど、量はありません。

bbking【東京都】絶対、BB・キングが祝ってなさそうな吉祥寺の喫茶店の前で。




pasocom【東京都】とあるイベントでVJ役を買って出てくれた方が、当日、なんとデスクトップのパソコンを組み立て始めた。



sweat【東京都】わざわざ、マネキンにスウェットを着させていて可笑しい。





black【静岡県】ポリティカル・コレクト的にどうか。





peanuts【広島県】ピーナッツ的ななにか。






fuara【静岡県】コアラ的なフアラ。






hotstation【岡山県】ローソンの専売的なキャッチを堂々と拝借した「あなたの街のほっとステーション」。

toshihirock_n_roll at 01:16|Permalink 日記的 

2011年08月12日

音楽における「偽史的想像力」

書評を早く読みたいが、宇野常寛『リトル・ピープルの時代』は、ネットなんかの感想をささっと検索するとわりと肯定的な感想が多いので、とりあえず、宇野的なスタンスは支持を得るのだ、という現状については認識しました。僕は、いつも宇野さんに対してチクチク不満をもらしているけど、ツイッターあたりで適当に褒めている人よりは愛情があると自負しています。問題意識や前提条件に同意することが多いので、よけいに対立点を強調したくなるのでしょう。

さて、『リトル・ピープルの時代』の第3章「拡張現実の時代」は、著者の新しい議論の展開に踏み込んでいると思うが、「郊外文学論――東京から遠く離れて」(『思想地図β』11.1)の議論を引き継ぐ「現実から半歩ずれる」という指摘は、感覚的には非常によく分かる。しかし、これはやはりレトリックの問題で、あらゆる表現はすべて現実から半歩ずれていると言えてしまうので、この点の理論化と過去との差異化は絶対重要だったはずなのだ。しかも「郊外文学論」では、半歩ずらすためには匿名的な郊外という場所が重要だったはずなのに、最後に森見登美彦を例に出して、京都という伝統的な都市でも半歩ずらすことができる、ということを言っているから、これはまた論が錯綜していると思ったものだ。いや、言いたいことはわかるけど。つまり、歴史性が切断されている、ということですよね。でもやっぱり、理論化は必要だと思うので、今後の仕事に期待したいです。誰かのツイートで目にしたけど、このへんの理論化が「想像力」という言葉でなしくずしにねってしまうのですよね。

宇野も引用していたが、個人的にこの議論は、福嶋亮大(とくに「ホモ・エコノミクスの書く偽史」『思想地図 vol.3』09.5)を併せて読むと良い補足になる。実際、「現実から半歩ずれる」という言い方自体、福嶋が引用する『サブカルチャー文学論』(朝日文庫)において、大塚英志が村上春樹について言及したときの表現である。福嶋は、「圧倒的な現実性にちょっとした過去=起源を賦与することによって創造される歴史(とその想像力)」を「偽史(的想像力)」と呼び(この議論も抽象的な分、細かい部分には吟味が必要だが、おおむね同意である)、宇野はそれを踏まえて議論を展開している。

長い前置きになってしまったが、福嶋の「偽史的想像力」についての議論を読んだとき、やはりヒップホップについて思いを巡らせたことを覚えている。ヒップホップなどのクラブ音楽に特徴的なサンプリングとは、限定的だが極めて印象的に「偽史」を編んでいると思う。すなわち、現に〈いま・ここ〉で歌われているという「現実性」とサンプリングという形での「過去」の共存、である。サンプリングと言うと、椹木野衣―東浩紀的な歴史を切断する方向の議論が思い出されるが、一方でヒップホップは、ルーツを重んじるというジャンル意識も非常に強い。つまり、佐々木中が言うように/言わなくとも、ヒップホップには「何をリスペクトしてサンプリングしているのか、っていうレファレンスを明示し、それを共有していくのは純粋に楽しい」(「ONCE AGAINが革命だ」『足ふみ留めて』11.3)という側面があり、自分が何をサンプリングするかというのは、多くの場合、自分のルーツや履歴を示すことを意味する。わかりやすいのは例えばECDで、彼が執拗に日本の歌謡曲やフォークをサンプリング/ミックスするのは、『いるべき場所』(メディア総合研究所)のような「音楽的自伝」をサウンドで語っているかのようだ。同じように、チャックDはアフロ・アメリカンの権利を訴えると同時にジェームズ・ブラウンをサンプリングするし、小沢健二は南米の共同体主義を讃えながら、曲をラテンやレゲエのアレンジに改変する。また、かせきさいだあの「苦悩の人」という明らかにつげ義春を意識したタイトルの曲では、そのつげがイラストを描いたはっぴいえんどがサンプリングされる。この手のサンプリングによる立場表明は、歌詞にまで広げればいくらでも例を取り出すことができる。このようにヒップホップのミュージシャンは、サンプリングを通じて自分の履歴を開示し個人史を紡いでいく。いや正確に言えば、聴き手のほうが個人史を読み込んでいくのかもしれないが、いずれにせよそういうコミュニケーションの下にある。重要なことは、この個人史があくまで個人史であって、大文字の〈音楽史〉とは無関係であるということだ。したがって、やはり椹木―東の言うように、歴史性は一度切断されている。この、切断された地点から個人的な歴史を紡いでいくという態度は、福嶋の言う(そして宇野が引き継ぐ)「偽史」そのものだ。もちろん厳密には福嶋の議論と異なる点もあって、福嶋は、創造された起源は無意味であるべきだと言うが、ヒップホップにおけるルーツは、無根拠なのかもしれないが決して無意味にはなりえず、むしろ強い意味を有する。とは言え、データベース化された素材を使って何かを再構成していく、という根本的な出発点では、福嶋も宇野も僕も、というか多分かなりの多くの人が同じものを見ているのだろうとは思う。

toshihirock_n_roll at 07:09|Permalink 雑感 

2011年08月07日

最近の傾向?――宇野常寛『リトル・ピープルの時代』

7358947f.jpg宇野常寛『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)を読んだ。第3章の「拡張現実の時代なのだ」という問題設定のみとても同意だけど、全体的に、うーん、これはちょっとあまりにも論点先取なのではないか、と思った。すなわち、宇野のなかで、「大きな物語」の失効と「小さな物語」の乱立と、島宇宙間の暴力性という、『ゼロ年代の想像力』と同じ図式の問題があって(今回は、それが「ビッグ・ブラザーの壊死」と「リトル・ピープルの時代」、「だれもが〈父〉にならざるをえない」という形に言い換えられている)、その反映具合で作品の読み方なり評価なりが決まる、ということだ。この「大きな物語」云々の話は、もちろん大塚英二―東浩紀がリオタールを紹介しながら展開した議論に由来するのだが、ちょっとギデンズが入り込んでいる、というかたぶん宮台真司的な考えの色濃い影響だと思う。

分かりやすく言えば、「境界線の恣意性」を問題にする段階が「素朴に信じてはいけない」という否定的メッセージだとすると、「コミットメントの恣意性」を問題にする段階は、対照的に、こうした否定性への自制や自覚を持ちつつ「コミットメントせよ」という肯定的メッセージなのです。(宮台真司『日本の難点』幻冬舎新書)

こうした図式に照らし合わせて、うまく説明がいくテクストを評価し、説明がうまくいかないと評価しない、という態度が宇野の基本的態度だと思う。したがって宇野の作品分析は、結論がつねに同じなのである。表現はつねにもっと豊穣である、というロマン派の僕としては、これはあまりにスタティックな社会反映論でつまらないと思う。こういうのは、テクストを読んでいる、とは言わない。まあ、研究態度にケチつけてもしょうがないのですが、先細りだとは思う。

こういう論を読むと、ジェンダー論華やかなりし頃、「女性が抑圧されている」という同じ結論を量産した多数の、理論あてはめ系社会反映論的論文の存在を思い出すのだけど、僕は、そんな中にあって、ジェンダー理論からあざやかにテクストを読み替えた、自分の先生である千田洋幸の「「千代女」の言説をめぐって――自壊する「女語り」」(『国文学』99・6)にたいそう感銘を受けた。ああいうのを読むと、社会反映論はちょっと物足りなく感じてしまうのだよなあ。

それにしても、大澤信亮も佐々木中も――僕はけっこう好きだけど――やはり同じような先細り感を感じてしまうことがある。大澤は、「自己反省を強いる他者」の一点張りで、佐々木も「すでに歴史の中で起きたことだ」という姿勢を崩さない。論を量産するときに、結論ありきで中身を入れ替えているだけのように見られるのは、かなり致命的だと思うのだが、これって最近の傾向? 大学院の先輩が「テクストに対するおののきが無い」という、ロマン派的な良い言葉を言っていたので引用しておこう。

最後に、宇野は「〈いま・ここ〉だけが無限に広がるこのリトル・ピープルの時代の新しい世界においては、私たちは〈いま・ここ〉に「潜る」こと、徹底して内在的であることが逆説的に超越に接近してしまう」と語るけど、このレトリックって、大澤真幸が麻原彰晃に対して指摘した、

徹底した俗物性、過剰なまでの〈内在性〉が、逆に、麻原の〈超越性〉の根拠になっているのではないか。(大澤真幸『虚構時代の果て』)

とまったく同じなのだけど、これは本人的には大丈夫なのかしら。

toshihirock_n_roll at 13:30|Permalink ブック